文月の空は重い雲に覆われており、人里の中程に建つ龍神の石像の目の色はまさにブルーであった。
「……困ったことになった」
その様相を見て溜息と愚痴を同時に吐露するのは我が楽団の天才ヴァイオリニストにして我が家の長姉、ルナサ姉さんだ。
常のローテンションに一層の磨きをかけて曇天を仰ぐその姿はまさに鬱。ポソポソと動く口元に耳を傾ければ、「この道……、ずっと行けば……、あの街に……、続いてる……、気がしない……」と、中学生の青春を真っ向から否定した田舎道の現実を呟いていた。
マズイ。これはかなりキている。
かつてはツンデレ少女とヴァイオリン少年の恋模様にトキメいていた姉さんの眼に、今ではもう一欠片のハイライトも見当たらない。
パーフェクトな病みっぷりだ。
「もう、そんなにヘコまなくてもいいじゃない、姉さん! きっとイケるってばー!」
その様相を見て笑顔と声援を同時に放出するのは我が楽団の楽聖トランペッターにして我が家の次姉、メルラン姉さんだ。
常のハイテンションに一層の磨きをかけて曇天を仰ぐその姿はまさに躁。どん底まで沈んでしまったルナサ姉さんの肩をバッシバッシと叩いて「イケるイケるー」と励まし続けることができるのは、人妖のサラダボールと言われるこの幻想郷でもメルラン姉さんくらいだろう。
常人ならば強烈な鬱の気にあてられて体育座りは必至。そんなルナサ姉さんに接していながら笑顔を保ち続けられるメルラン姉さんは流石と言える。
気付けば、肩を叩く両手が刻むリズムは16ビート。段々と加速していくそのメロディーは紛れも無いロックであった。
ステージも、マイクも、チューニングすらもいらない。音があれば、それだけでライブは生まれる。メルラン姉さんのそういった衝動を第一とした音楽観は私は嫌いではない。
ルナサ姉さんという鬱の化身を相手にしながらこれだけのアップテンポを刻み続けるのはまさに楽聖だからこその為せる技だろう。
そしてその神技は里の人々の注目を当たり前のように集めた。
次第に大きくなっていくオーディエンスの輪。それを見て、より一層激しくなるパーカッションソロ。高まるグルーブ。鳴りだした手拍子。ピューィと吹かれる指笛。そんな群衆のボルテージは東風谷早苗がアコースティックギターをかき鳴らしながら参戦してきたところで最高潮に達した。その傍ら、カンカン、と高い響きのメタリックな音に顔を向ければ、そこにいたのは錨に柄杓を打ちつけてリズムキープをする村紗水蜜。最高のストリートミュージックの誕生であった。スリリングでハイなセッションに往来を歩いていた誰もが夢中になる。
そう。これが音楽なのだ。
最高を維持し続ける人々のテンションをそのままに、演奏はエンディングへと向かい、シンプルなリフをスピーディーに繰り返す現人神と舟幽霊を脇にメルラン姉さんが最後のソロを魅せる。
演武の様に両の手を振り回すその様はまさに圧巻。本職が管楽器吹きということなど誰もが忘れているだろう。
生み出され続ける音は、嵐か、滝か、激情か。
そして、極限まで加速していった乱舞はどこまでも高い音を鳴らし続け――、最後に一打、落雷の様に、シンバルを打つように、メルラン姉さんの右手が高らかにルナサ姉さんの頭をバッシィーン! と叩いた。
そして鳴り響く、拍手と歓声。
ヒラヒラと手を振るメルラン姉さん、現人神、舟幽霊という珍妙なトリオの顔には熱い汗と満面の笑顔が輝いていた。
鳴り止まぬオーディエンスの声援の内に「アンコール! アンコール!」という声が混ざりだす。
困ったなァ、という笑顔で互いを見るお三方。
さて、そろそろ助け船を出してあげようか。
「ありがとうございますっ! 皆さん、このような熱い音楽が好きなのであれば、今晩行われるプリズムリバー楽団のライブにも是非来て下さいねッ!」
大きく声を張り上げ、宣伝を完了。
我ながら商魂がたくましいね。
そんな私はリリカ・プリズムリバー。神童キーボーディストにしてこの落差の激しい姉ふたりの妹。今日もがんばってブッ飛んだ姉達をコントロールだ。
ふと見れば、ルナサ姉さんがうつ伏せになって地面に倒れていた。
このライブを耳にしてもまだ気分が上がらないなんて、重症だなー。
♪♪♪♪
「今晩のライブに、――雨?」
「そ。まぁ、そこまで酷い雨模様にはならないんだろうけれど」
午前十一時のカフェーに少女が五名。
一番窓側に座った私は、セッションの飛び入り参加者ふたりに対して説明をしてあげる。
「一ヶ月前に里の人達からライブの依頼を受けてね。今日の夕方に里の外れの特設野外ステージでライブをする予定なの。人間をメインの客層としたライブは久しぶりだから、こっちも気合入れてたんだけど……、まさか、雨の予報だなんてねぇ。それで、ルナサ姉さんが鬱っちゃったわけ」
「雨の場合、これまではどうしていたの? 雨天中止?」
「いつもなら会場変更をして決行だよ。お世話になってるのは、紅魔館の大ホールと天狗組織の講堂だね」
「……ふむ。どちらも里の人々に足を運んでもらうには厳しい場所ね」
「そう、それで困ってるの。だからといって、雨の中で演奏するのは厳しいしねー」
そう言って傍らに座るルナサ姉さんを見る。机におでこを突っ伏しているその姿に生気は見えない。まぁ、霊なんだから、当然っちゃ当然なんだが。
その隣で「ふぅん?」と頷いてブラックコーヒーに口をつけるファンキーなイカリスト、村紗水蜜はどうやらイマイチ私達姉妹が置かれた状況を分かっていないようだ。せっかく説明してあげたのに。でもまぁ、ずっと地底暮らしを続けていた彼女には分かってもらえないのも当然か。
「なるほど。それはピンチですね。楽器を雨に晒すのは宜しくありませんしねぇ」
一方、中々のギターテクニックを披露してくれた現人神、東風谷早苗は少し分かった風に言葉を紡ぎ、抹茶オレをストローでチューチューと吸っていた。
「あなた、楽器経験者なのー?」
横でロールケーキと格闘していたメルラン姉さんが唐突に現人神に質問。
だが、私としてもそれは先程から気になっていたところだ。暴走癖の激しいメルラン姉さんにしてはナイスなトーク運びだと思う。
「いえ、経験者という程ではありません。ギターは外にいたときに少しだけ触ったことがあるくらいです。あと、吹奏楽をやってる友達もいたので、トランペットを吹かせてもらったこともありますね」
少しだけ触ったことがある、という程度の人がギターを手にして往来を闊歩するなんて外の世界はスゲェ所なんだなぁ。そんなのはスナフキンにしか許されない特権だと思ってたよ。
「いえいえ、いつもギターを持って動いているわけではありません。今日持っていたのは、ただの奇跡ですよ」
……奇跡の二文字で済ませちゃっていいんだろうか。
まぁいいや。この人、いちいちツッコミを入れてたらキリが無さそうだし。
というか、ナチュラルにモノローグに答えないでほしいんだけど。
「まぁ、それも一つの奇跡ということで」
……まぁいいや。
「ふむ。つまり、雨の降る中でライブをやりたくない、ということなのね?」
落ち着いた声で場を取り纏めるムラサ。私達姉妹よりもずっと霊歴が長いだけあって、現人神のヤンチャにも動じずにとても冷静だ。澄まし顔でコーヒーに角砂糖を二つ落とす姿には貫録すら感じられる。
「まぁ、そうなんだけどねー。でも、早苗が言ったこととは、また違うのよ」
やんわりとメルラン姉さんが紡いだ言葉に対して、「え?」と疑問を浮かべた顔が二つ。
「私達が演奏する楽器は全て、楽器の幽霊なの。私はトランペットをメインにしていろんな管楽器を扱うんだけど、それは楽器の幽霊を召喚しての演奏なのよー」
「幽霊……ということは、霊力を込めさえすればある程度の状態維持は可能、ということ?」
「流石ムラサ、話が早くて嬉しいわ。まぁ、つまりはそういうことで、雨に打たれたからって簡単に不具合が生じるようなものじゃないのよ、私達が使ってる楽器は」
「そういえば以前、皆さんが霊夢さんを相手に楽器を用いながら弾幕ごっこに興じているところを拝見させて頂いたことがあります。大切な楽器を弾幕に晒せるのは、そういった理由があったからなのですね」
「そうよ早苗ー。私達が召喚できる霊であれば、私達はどんな状態からでもメンテナンスをできるというわけ。だから私達はどんな状況でも臆せずに楽器を手にするのよー」
「ふむ。雨など気にすることもない、ということなのね。……でも、それじゃあ」
言って、ムラサの顔に疑問が浮かぶ。
「今晩のライブに雨が降ろうと、貴方達に支障は無いんじゃないの?」
「そうですよねぇ。そのような楽器であれば雨の中で演奏を行っても問題は無いわけですし。まぁ、お客さんのことを考えると心苦しいですが、雨天中止にするのも申し訳ない話ですよね」
やっぱりこのふたりは幻想郷歴が短いんだなぁ、と改めて思う。
この郷にいる者でプリズムリバー楽団の名を知っている者ならば周知の事を、彼女達は本当に知らないようだ。
見れば、テーブル相手にゼロ距離を保っているルナサ姉さんの身体が細かく震えている。
姉さんの気持ちも分かるが……、真摯な態度で話を聞いてくれているふたりに教えないわけにもいかない。
この、悲しい事実を。
「……実はさ」
ごめんね、ルナサ姉さん。
「ルナサ姉さんは、水が目に入るのが大嫌いなんだ」
「え?」と疑問を浮かべた顔が二つ再臨した。
ふたりの表情をオブラートに包んで表現するとそんな感じ。
シンプルに言うならば「コイツ、何言ってんだ?」って顔。
まぁ、何も知らないんだったらそのリアクションも仕方ないよね。
「ルナサ姉さんは水が目に入るのが大嫌いなんだ」
一応大事なことなので、二回言ってみた。
「え、えーと? 水が目に入るのが嫌いというと、水に顔をつけられない子供のようなものですか?」
「うん、そういうこと」
「はぁ」
なんとも残念な、グダグダとした空気がカフェーの片隅に漂う。
しかし、これはジョークでも冗談でもない。目の中に入る水は品行方正なルナサ姉さんの唯一にして最大の弱点なのだ。水が目に入ったところで演奏できない程のパニックに陥る、という程ではないが、一旦目に水が入ってしまえばそれきりルナサ姉さんはギュッと目を瞑ってしまいステージ上のアイコンタクトは使用不可となってしまう。もちろん、そんな状況下でアンサンブルを行える筈もない。
こうして、私達プリズムリバー楽団は雨の降る中で合奏を行うことができない楽団とあいなっているのである。
「普段の生活で困ることは無いのよねー。姉さんが水中に潜る機会なんてある筈もないし、顔を洗う時だって、目をギュって瞑ってるから痛がることもないし。お風呂に入る時はシャンプーハットを使ってるから大丈夫だし」
ニッコニッコとした笑顔で姉のプライベートを暴露するメルラン姉さんに三度、「え?」と言って固まる淑女ふたり。
ホント、この姉は怖いなぁ……。
「……メルラン、余計なことは言わなくて、いい」
あ、ルナサ姉さんが喋った。
ズモモモといった擬態語と重厚な闇を背負ってプレッシャーを発しながらもその耳は真っ赤である。うーん、威厳も何にも無い。
「だって、本当のことじゃないのー。あ、そうだ! 姉さん、シャンプーハットを被って演奏すればいいんじゃない? そうすれば、例え雨が降ろうと今日のライブは成功間違いなし!」
――輝く月の下、ステージに立つ騒霊三姉妹。奏でる曲は『魔法少女達の百年祭』だ。赤い服を来た私がステージ奥で鍵盤を流し弾き、シャンプーハットを被ったルナサ姉さんのヴァイオリンの音が静かに重なり、そしてフロントに立つメルラン姉さんがその前奏に乗せてキレの良いトランペットの音を高らかに鳴らす。怪しげで、それでいて躍るような神秘的な祭の旋律はその奥に潜む何者かのプレッシャーをひしひしと感じさせ、音、観客、そして演奏者である私達を一つの緊張に纏め上げて――
……ゴメン、メルラン姉さん。無理。シャンプーハット一つがステージに舞い降りるだけで緊張感のあるアンサンブルがどうしてもコントにしか見えなくなっちゃう。
シャンプーハットの存在感、マジパネェ。
「……メルラン、選ばせてあげる。黙る? それとも、殴られる?」
そりゃルナサ姉さんも怒るわ。
「……けれど姉さん? 実際問題、私達はなんらかの手段を考えなければいけないわ。ライブから逃げるなんて、プリズムリバー楽団にあってはいけないことよね?」
――刹那。ピリリと空気が緊張するのを感じた。
ニコニコとした笑顔で、それでいて、推し量れない程の“なにか”をその身に宿して言の葉を紡いだメルラン姉さんに視線が集中する。
メルラン姉さんの表情は笑顔だが……、それは決してふざけている訳でも緩んでいる訳でもない。むしろ、非常に真剣な面持ちと表現しても差し支えないだろう。
笑顔の奥にある強大なプレッシャー。
最上のライブを魅せるという、プリズムリバー楽団のプライド。誓い。
その、熱意。
先程まで肩透かしを食らった顔をしていた現人神とムラサも今は居住まいを正している。
周囲の客もこちらの張り詰めた空気に気付いたのか、暢気な談笑を既に雲散とさせていた。
閑静な店内に聞こえるのはマスターが食器を片づけるカチャカチャという作業音のみ。
メルラン姉さんが、細めた目の奥から鋭い視線をルナサ姉さんへと差し向ける。
高まる緊張。
思わず流れた汗。
その時、
「……そうね。逃げる訳には、いかないわね」
ルナサ姉さんはまるで弦を弾くように言葉を発して、そして、顔を起こした。
その表情には鬱の気配は1グラムも無い。あるのはアーティストとしての熱意、ただそれだけ。
そして、静かに笑って、
「皆には迷惑を掛けたね。謝るよ。ゴメン」
ペコリと頭を下げるルナサ姉さん。
――スゥと、緊張した空気がかき消えるのを感じた。
隣ではメルラン姉さんが「いいのよー」と手をパタパタと振っている。その眼からはもう圧力を感じられない。
空気がゆっくりと、遊惰なカフェーのそれへと戻っていく。
傍らでは、舟幽霊がフゥと息を吐いていた。
つられて私も一息を吐く。
横を見ると現人神が店員さんにメロンソーダを注文していた。……この人、自由だなぁ。
「……うん。膝を抱えてばかりじゃいけないね。今日のライブをどうするか、それを考えるのが私達の務めだ。さて、どうしようか」
静かに皆の心に語る様な言葉を紡ぐルナサ姉さんのその姿はカリスマと言っても良いと思う。流石は我が楽団のバンドマスターと言ったところか。
繊細な心を持っていながらも、ひたむきに“良い音楽”について考えを巡らせ、進む。
それがルナサ姉さんなんだ。
ルナサ姉さんとメルラン姉さんがフッと視線を合わせ、そして同時にニコリと笑った。
さっきまでの凍傷を起こすような空気は微塵も無い。
姉妹として、グループメンバーとして、なによりも強い信頼があるからこその笑顔なんだろう。
ルナサ姉さんとメルラン姉さん。
心の温度も喋り方も全く異なるふたりだけれど、音楽に対する熱意はどっちも変わらずに強く、大きい。
アレなところが目立つ姉達だが、そんなところは尊敬してあげても良いと、私は本心から思っていたりするんだ。
こんな熱いふたりと音を合わせるんだから、せっかくなら良いコンディションでステージに立ちたい。
なにか良い方法は無いものかなぁ。
言ってしまえば、雨を降らせないようにする手段が見つかればそれがベストなんだけれど――
「――あ!」
そこで私はようやく思い出した。
メロンソーダをチューチューしている目の前の少女の、その本分。
現人神と呼ばれる彼女の奇跡の業。
それは、
「早苗って、雨風をコントロールできるよねッ?」
そう。東風谷早苗は風雨を司る神、八坂神奈子に仕える風祝。
時に雨を呼び、時に風を招いて、農の営みに奇跡を降らせる現人神が彼女なのだ。
そんな奇跡の使い手であればステージの上に煙る雨気を祓うことなど造作も無いことだろう。
だがしかし、見れば彼女の表情は、ネガティブに曇っている。
……嫌な予感。
「申し訳ありません……。今日の日没の頃は神社にて神事を執り行うこととなっていまして、協力はできないんです」
えー。
非常識の化身と思いきや、唐突に面白みの無いことを言い出すとか。なんなんだよこの人はもう。
「ライブの時間はどれ程なのですか?」
「今日の十七時半スタートで、アンコールを含めて終わるのは十九時くらいかな」
「……日の入りに合わせて儀式は終わるのですが、片付けなどもありますから……、間に合うには難しい時間です。ごめんなさい」
そう言って、早苗は頭を下げた。
……まぁ、しょうがないか。守屋神社と言えば、妖怪の山にて最も多くの信仰が集う地。そんな所で神事の一切を取り仕切っているのがこの東風谷早苗なのだ。無一物を常識外れな方向に極めた平生の彼女の姿を見ているとどうにも忘れがちだが、この子の本質はあくまで“真面目な風祝”なのである。丁寧に頭を下げてくれている彼女に無理を言うのも失礼な話だ。
「謝る必要なんて無いわよー。早苗には早苗の仕事があることは私達だって分かってるんだからー」
「本当にすみません。そして、ありがとうございます」
「それで、ちょっと考えたんだけれどー、早苗や神奈子さん以外でも雨雲を消す術を使えるヤツっているわよね? ソイツらに頼んでみたらどうかな!」
しょぼくれた早苗をフォローするかのようにメルラン姉さんが提案をした。
雨雲を消す術……、はて、そんな大層な術を使用できる者などそうはいないと思うが、姉さんは誰の姿を思い描いているのだろう。
「紫なら天候の境界を操ることは簡単そうよね。パチュリーも雨雲を操る魔法を使えた筈だから頼りになりそう。それと、八意先生も天を操作する術を使えると聞いたことがあるわー」
八雲紫、パチュリー・ノーレッジ、八意永琳。
……パニックコメディの元凶トップスリーじゃねーか。
「却下」
「えー、なんでよー」
彼奴らは雨を降らせないかわりに嬉々として媚薬を散布し出すような超一級のハジケリスト達である。アーティスティックなライブが途端にR-18な方向のハイテンションパーティーとなることは疑いようもないだろう。
怖くて頼れたもんじゃない。
もっとこう、安心できるというか、信頼の置ける人妖に助けを請いたいところなのだけれど。
「――ふむ。それじゃあ、私の聖輦船を使う?」
思考の渦の中にいた私に助け船を出してくれたのはコーヒーカップを手にした舟幽霊だった。流石は船長である。その紳士っぷりに思わずキュンとしてしまいそうだ。
「聖輦船を使うとは、どういうことなんですか、ムラサさん?」
けれど、早苗の呈した疑問は私も無視ができないところである。あのテンプル船に雲海を消し飛ばすだけの力が有るという話は聞いたことがない。もしかして隠し武装でもあるのだろうか? あれだけのサイズの船だし、艦砲の一つでも装備されていても不思議ではないとは思うが……、はたしてどうなのだろう。
「まさか、ローエングリンですかッ? ローエングリンを撃てるんですかッ!?」
唐突に目をキラッキラに輝かせてワグナー作曲の歌劇のタイトルを連呼し出す現人神。なにこのテンション、わけわかんない。これがゆとり教育の弊害ってヤツか。
「いいえ、武装などではなくて、もっとシンプルなことよ」
現人神の無駄に高いテンションを華麗にグレイズし、ムラサは言う。
「ステージの真上に聖輦船を待機させる。つまり、聖輦船を大きな傘として貴方達を雨から守るというわけ。それだけのことなんだけれど、なかなか有効な手立てだと私は考えるわ。どうかしら?」
なるほど。雨雲をかき消すのではなく、降雨だけを対処するということか。それはナイスな発想の転換だ。
あの船のサイズであれば傘ではなく屋根と呼んでも差し支えることはないと思われる。ステージ上に雨粒が落ちることは決してないはず。それどころか客席すらも完璧に覆い尽くしてしまえるかもしれない。超ド級の船という長大なガーディアンが与えてくれる安心感は計り知れないことだろう。
うん。これはとても良いアイディアだ。
……しかし、無視できない疑問点が一つ。
「ねぇ。聖輦船って、ちゃんとホバリングはできるの?」
ホバリング、つまりは停止飛翔である。
あの船が悠々と空を進む姿は何度も見たことがあるが、空中の一点に静止する姿は発進時、または着陸時の一瞬以外では見たことがない。
ステージの屋根という一定の高度を保ち続けながらの長時間停止運動による務めは、はたしてちゃんとできるものなのだろうか。
「えぇ、勿論できるわ」
しかし私の不安をよそにムラサ船長の回答は明朗としたものだった。
その自信のある表情に嘘や冗談のきらいはちっとも見当たらない。
どうやら私の心配はただの杞憂だったようだ。
「聖輦船は魔法の船。その動力は“乗員を運ぼうとする意志”。通常の飛行機とは機構のなにもかもが違うの。あれはあくまで、船なのよ」
なるほど。船、ね。
そう言われてみれば、あの船が停留する姿は容易に想像できる。
巨大な船が頭上を守ってくれているライブ。なんてワクワクするシチュエーションだろう。
不安の要素なんてちっとも思い浮かばない。
「一カ所に停留することなど出来ない筈がないわ。目標地点にてアンカーを落とすだけで、私の船は半永久的に宙に停止することが可能よ」
なるほど、流石は船だね。アンカーを下ろせば停止飛行ができるなんて、なんとも幻想的なことだ。海に存在していた頃と機構の変わらぬ飛行船。そのなんとファンタスティックなことか。大地にアンカーを落として空中に漂う船というのは、まるでお伽話のワンシーンかのよう。うん。いいねいいね。なんともハッピーだね。けど、ただ一つ直視しないといけない現実があると思うんだよね
「……ねぇ。そのアンカーって、どこに落とすの?」
「そりゃあ、停留する場所の真下に落とすに決まってるじゃない」
――輝く月の下、ステージに立つ騒霊三姉妹。奏でる曲は『魔界地方都市エソテリア』だ。ローテンポの変拍子をルナサ姉さんのアコースティックギターが寂寥感を込めて刻む。それに合わせ、私も響きをコントロールして落ち着いたドラミングを維持する。段々と盛り上がる楽曲。込み上がる感情。そしてついにメルラン姉さんのトランペットがアンサンブルに参入する。と、その瞬間、頬にポツリと一滴の雨が落ちた。しかし、雨はそれきりで、私達は高まった感情をそのままにユニゾンを響かせ続ける。上を見れば、なんとそこにあるのは巨大な一隻の船だ。雨からステージを守ってくれているその姿は例えようもない程に雄大。その安心感を胸に私達はより一層力強く音を鳴らす。熱気を極限まで高めた観客が変拍子に合わせて手拍子を打つ。それがとても気持ち良い。そこに生まれるのは独特のグルーブ感。そして、会場が一体となるイメージ。情念をどこまでも、どこまでも高めて、会場が盛り上がりを最高としたその時、天より巨大なアンカーが勢いよく落ちてステージは木端微塵となった――!!
「却下」
「えぇ!?」
「えぇ!?」じゃないよ。なんだよ、アンカーって。百歩譲って表現してもそれはテロ兵器としか呼べないわ。雨が降らないかわりにアンカーが降るなんて等価交換の原則を無視して100万マイルは突っ走ってるだろう。錬金術士じゃなくても絶叫間違いなしの悪夢であることに異論を唱える者は誰ひとりとしていないと思える。
「良いアイディアだと思ったんだけどなぁ……」
……この船長、思ってたよりも残念な幽霊っぽいなぁ。
まぁ、でもそれもしょうがないか。彼女はつい最近まで鬼の国と呼ばれる地底世界に暮らしていたんだ。火事と喧嘩が花とされるテヤンデイな八百八町ではきっと舞台にアンカーをブチ込むのも一興とされていたんだろう。文化の違いを一笑に付すなんて、文化幽霊たる私が取るべき行動じゃあない。そこは納得しておこう。けれども、まぁ、今後地底からライブ依頼があった際は絶対に断ろうとは強く心に思う。だってそんなファンキーなステージでのライブなんて普通に考えて残機が一ダースは無いと完遂不可能だから。そもそも、そんなステージで行う演奏とは如何程のものだろう。客席の鬼達から次々と投げ込まれる超重量のアンカーを避けながら『旧地獄街道を行く』を演奏する騒霊三姉妹。……ダメだ。シュール過ぎて想像しただけで頭が痛い。どんな奇祭だよソレ。
「――けれど、ムラサさん。“傘”という考え方は良いと私は思いますよ」
スッと、風が吹くように早苗がしょぼくれたムラサに語りかけた。
そして、ニッコリとした顔を私に向ける。
まぁ、なんだかんだ言って案を却下した私も傘という考え方自体は間違ってはいないと思っていたりする。雨雲を取っ払えるだけの力を持つ者はこの幻想郷でもそうそう簡単に掴まえられるものじゃない。もっと小規模なレベルで対策を考えた方が良いのは確かだろう。そうなると、ムラサの提示した傘というアイディアは現実的で、考えを推し進めていくべき価値があるものと考えられる。
……けど、なんでだろうね。
意気揚々と“傘”という単語を主張する早苗からは、どうにも不穏なオーラが感じられるんだ。
「私、良い傘を知ってるんですよ」
嫌な予感しかしないんだけど……。
「多々良小傘という名の傘なんですけどね。いやぁ、これが良い声で鳴いてくれるんですよー」
ですよねー。
憧れのボーイフレンドに想いを寄せる乙女のような顔で嗜虐発言をする早苗に、私は溜息を我慢することができない。なんなんだよこの現人神。なんでそんな綺麗な笑顔でこんな残念なセリフを吐けるんだよ。
「あ、あれ? あまり宜しくない感じですか?」
その提案のどこに宜しい感じがあるのか是非とも説明して頂きたいところである。
彼女の理論を纏めると、“良い声で鳴く傘は良い傘だ”という一文に収まる。うん。肯定できるポイントが一カ所も見当たらない。良い声で鳴いてる時点でそれは呪いのアイテムとジャンル分けされるのが妥当としか思えないんだけれど。
「呪いのアイテムだなんて失礼ですよ、リリカさんッ。小傘さんはそんなヘンテコリンなどではなく、とてもカワイイ妖怪なのです!」
ん……、まぁ、それは認めるかな。あの子とは話をしたことはないんだけど、あの愛くるしい見た目と空回りの激しいお気楽さは可愛らしいとは思うよ。
「……リリカさん。外の世界に、とある一冊の書があります」
ふと、空気が冴えた。
見れば、早苗の表情はとても真剣なものとなっていた。
現人神と呼ばれるにふさわしい神聖な佇まいに、私の肌は自然と粟立つ。
窓の外では先程まで吹き荒んでいた風がピタリと止んでいた。
凪。
それはまるで全ての風が一人の少女に恐れを為したかのよう。
私は思わず体を硬くする。
「その書には一つの格言が添えられていました。それは――」
スゥと細められた眼に、黄金にも似た稲穂の色が輝いた。
あぁ、この少女は本当に――
「かわいいは、正義!」
――残念な人だなぁ。
「えーと、東風谷さん? アナタが小傘のことを大好きなのはもう十分に分かったんで、もうそろそろ次に移っていいですか?」
「な、なんですかリリカさんッ、その露骨な距離の取り方とやる気の見られない顔は! 小傘さん案は、もしかして却下ですか!?」
「もしかしなくても却下」
「そ、そんな! ちゃんと考えて頂けましたかっ? あの子は、とってもステージ映えする女の子なんですよ!」
「まぁ、可愛い子だとは思うけどさー」
「でしょう!? ほら、想像してみて下さいよ。雨のステージ、演奏をする皆さん、そこに傘を差した小傘さん……」
「うーん……」
――輝く月の下、ステージに立つ騒霊三姉妹。奏でる曲は『妖怪の山 ~ Mysterious Mountain』だ。手放したヴァイオリンを宙に浮遊させたルナサ姉さんが召喚したのはエレキギターと琴。軽く息を呑み、そして次の瞬間、ハードなギターサウンドと琴のアルペジオを同時に鳴らしたルナサ姉さんにタイミングを合わせて私は三拍子を刻み出す。主旋律を爪弾く姉さんの琴の音が想起させるのは千年に及ぼうとする天狗の歴史だ。淀みの無いヴィヴァーチェの音の波に会場にいる全員が耳を澄ませる。と、その時、ポツリと一滴の雨がルナサ姉さんの頬に落ちた。焦りの思いを抱きつつ、私とルナサ姉さんはBメロの演奏に入る。瞬間、バサリと茄子色の大傘がルナサ姉さんの頭上に開く。ホッと一息を吐いたルナサ姉さんの背後で傘を差してくれているのは、なんと多々良小傘であった。そして、観客席を見渡した彼女は何かを決意したようにコクンと頷き、手を自らの耳にあて、「耳が、大っきくなっちゃった!」と言ってピョコンと耳を模したゴムのおもちゃを広げた。誰もがそれを無視する。そうして、満を持して遂に放たれたメルラン姉さんのトランペットの音に観客は大きな歓声を爆発させた。奏でられるサビのパートはアップテンポの四拍子。ここより先に想起されるのは、荒々しき天狗の風としての雄姿だ。ギアを上げるかのように激しいフレーズを暴れさせるドラム、トランペット、ギターにオーディエンスは最高の盛り上がりを見せ、それを受けた私、メルラン姉さん、ルナサ姉さんは大きな笑顔を咲かせる。その後ろで小傘はひとりシクシクと泣いていた――
「大却下」
「えー」
丁寧に場面をイメージしたんだけれど、どうしたって小傘がヘマをして泣いてしまう未来以外を想像できない。不憫過ぎるだろあの子。ヤバい、私ちょっと泣きそうだ。
というか、ライブ中に変なイタズラをされるのは成功するにしろしないにしろ勘弁なわけで。
ドッキリ道の黒帯を夢見る彼女に背中を任せるというのは正直、避けたいところである。
「そうですか……。あぁ、見たかったなぁ。大勢の人々を前に“こんなにたくさんの人達を驚かせればお腹いっぱいになれる!”なんて夢を見ちゃった小傘さんがショッパイ芸で盛大に滑って涙目になるシーン……、見たかったなぁ……!」
なにこの人こわい。マジで怖い。常識外れってレベルじゃねーぞ。
もういいや。この話題を続けても小傘が可哀そうなことになっていくだけだろう。
さっさと次の案に移ろう。
「ふむ……」
ふと見れば、そこには何かに気付いたようにこちらをジッと見て言葉を選ぶムラサがいた。
いったいどうしたんだろうか。
「いや、ちょっと思ったんだけど……、貴方達姉妹って、霊として結構な力を持ってるわよね。単純な魔力だけで比べれば私よりもずっと強いようにお見受けするわ」
いきなり剣呑なことを言い出すな、この舟幽霊は。
どういう腹積りだ?
「……そうね。私はどうか分かんないけど、少なくともルナサ姉さんとメルラン姉さんの魔力はムラサよりも上かな」
「でしょう? ならば、障壁なり結界なりを張って雨から身を守ることもできるんじゃないの?」
なるほど。そう考えるか。まぁ、自然な疑問ではあるよね。
「アンサンブルをする時は、バリアは張れないのよー」
と、答えてくれるのはメルラン姉さんだ。
「む? どうして?」
「バリアを張っちゃうと私達の奏でる音が聞こえ辛くなっちゃうの。私達が生み出す音はただの空気振動じゃなくて霊的作用もあるから、余計にバリアの影響が大きいのよー」
「あぁ、なるほど。……雨だけをピンポイントに防ぐ障壁は、難しいわよねぇ」
「えぇ、障壁を張るとなったら、外的作用の多くがカットされちゃうわ。実は昔、一度だけバリアを張りながら合奏をしたことがあるんだけれど、その時は他パートの音が聞こえなくて互いのテンポがズレにズレて、それはもう酷いものだったわー」
「そうかぁ」
「独奏だったり、よっぽど演奏し慣れてる楽曲ならバリアを張りながらでもできるんだけど……、通常のライブでは避けたいところなの」
「ふむ、分かったわ」
そう。バリアを張りながら合奏を行っても、それは雨に身を晒しながらの合奏と変わらない出来になるのだ。辿り着くところはどちらもアンサンブルの不調和という悲しい結末である。
雨と同様、ステージでのバリアや結界も私達のライブの大敵なのだ。
「でしたら……、ステージより遥か上空に対雨用のバリアなり結界を張ってはいかがでしょうか」
早苗がそっと提案する。
遥か上空ならば音障は確かに発生しないが……、それだけのレベルの結界や魔法を扱うことはかなりの困難であるだろう。そんなことを依頼できる者が、はたして身近にいるだろうか。
「霊夢さんはどうですか? あの人の結界術はこの郷でも屈指のものかと」
博麗霊夢は……、
「却下」
「えー」
あの巫女は人外の者が相手となるとまるで容赦が無い。イベント協力を申し出た暁には興行収入の六割は確実にぶんどっていくだろう。そのあまりの剛腕ぶりに被害者となった妖怪達はただただ泣き寝入りをするしかないのが現状なのである。それでいて、あの巫女は自分の神社の賽銭箱が空である現状に枕を濡らしていたりするのだ。
世の中って、難しいものだよね。
「では、八雲藍さんはどうですか? あの方も結界操作は得意と聞き及んでいますが」
んー……、八雲藍も、
「却下」
「えー」
彼女がこの郷でもトップクラスの才色兼備であることは私を含め誰もが認めるところであろうが、彼女の後ろにいる者が無視するにはあんまりにも胡散臭過ぎるのだ。八雲藍はあくまで八雲紫の式。一見非の打ちどころのないように見える彼女も、影ではスキマの命令を受けて九本の尻尾をピンコ勃ちさせるという謎のプレイを何百年も続けているのである。演奏する私達の頭上を任せるにはあまりにもアブナイ、と評価するのは当然の帰結だろう。
「なるほど! 藍さんは、ある時は正義の味方、ある時は悪魔の手先、良いも悪いもゆかりん次第。ということですね分かりますッ!」
ねぇ、誰かこのロボットアニメオタクをどうにかして。
「てーつじんっ、てーつじん、早く行けー♪」
ちょ、メルラン姉さん! 普通に歌い出さないで!
結界の向こうから怖い大人たちがやってきちゃうからッ!!
「そうですねー。それではいっそ、空さんに雨雲を爆破してもらうというのはどうでしょう。彼女の火力なら不可能ではない筈ですよ?」
……霊烏路空はどう考えたって、
「却下」
「あらら」
誰の目にも爆発オチとなることが見えている。
少女の身である私達にアフロヘアーはかなり辛い。ご勘弁願いたいところだ。
「でも、髪の毛をぐるぐるにできるんなら、ちょっと興味があるかもー」
メルラン姉さん、核エネルギーでパーマをかけるというのは流石に無茶だと思うの。
「では、レミリアさんに雨が降らないように運命を操作してもらうというのは?」
レミリアかぁ。うーん、少し悩むところだが、
「却下」
「そうですか」
あの幼女の運命を操る程度の能力というのはどうにも胡散臭い。というか、厨二臭がヤバい。いざ会場に呼んだところで「クッ、天より降りしきる雨によって力が発動しない……!」とか言い出して使い物にならなくなる未来が簡単に見える。
「では、雲山さんにステージ上空をカバーしてもらうというのはどうですか?」
「却下」
「むぅ……」
雨を防ぐべくステージ真上で力の限り膨張するピンク色のおっさん。
申し訳ないんだけど、それは観客から苦情が来るのが必至の情景だろう。
「では、気質によって天候を変えることのできる天子さんは――」
「却下」
「ですよねぇ」
大事なステージに生粋のトラブルメイカーを近付けたいヤツなんて誰もいないだろう。
「……うーん。こうも都合が合わないとなると、……厳しいですね」
ふむ、と早苗があごに手をあてて呟く。
……確かに厳しい。どうにも良い解決案が出そうにない空気がある。
というか、この郷では実力がある者と性格に難がある者がイコールで結ばれ過ぎているんだ。有効な協力者を探し出すのが困難となるのも仕方の無いことだろう。
他者に協力的な善意の持ち主であって、かつ、大規模の術法を扱えるような者なんてはたして存在するのだろうか。
正直言って、私は思いつかないんだけど――
「あぁ、そうです。良い方がいらっしゃるじゃないですか」
と、早苗があごから手を離し、頭上にピコンと電球を光らせて言う。
「白蓮さんですよ。あの方ならステージ一帯を覆う程のバリアを張れるだけの力は有していますし、仕事仲間として十分過ぎる程に信頼できるだけの大器の持ち主です。それにあの方は根っからの“いいひと”ですから、頼み込めばきっと手伝って頂けるでしょう」
あぁ、そうか。完全に忘れていた。
聖白蓮。ムラサと同時期にこの郷に現れた、人妖問わずに施しを行ってくれる真の聖人だ。命蓮寺の責任者という高い立場にある彼女だが、そのフットワークはとてつもなく軽く、そしてたくましい。東に病気の子供がいれば行ってお粥をアーンしてあげ、西に疲れた母がいれば行ってその稲の束を100キログラム程運んであげるというハイレベルな東奔西走を日々繰り広げるのが彼女なのである。雨に負けないことは自明であろう。
……うん。考えれば考える程、彼女に頼るのが最適と思える。
思いつく限り、彼女に依頼することによるリスクは存在しない。
どうやら聖白蓮の力を借りることがファイナルアンサーとなりそうだ。
「ごめん。話の腰を折るようだけど、ちょっと言っていいかな」
ふと、ムラサが申し訳ない気持ちをいっぱいに、言の葉を挟んだ。
……嫌な既視感。
「聖は、昨日の夜からずっと堂に籠って黙想をしているの。修行の一環に過ぎないから頼めばすぐに腰を上げてくれるとは思うんだけど、……正直、私はあまり聖の修行の邪魔をしたくないんだ。どうしても、と言うのなら頼んであげるけれど、他に手段があるんだったらできればそっちを選んでほしい」
むぅ。
修行中、かぁ。
「わがままを言って、ごめん」
そう言って深く頭を下げるムラサ。
うーん。これは、厳しい。ムラサの態度から見て白蓮が現在真剣に修行に打ち込んでいるであろうことはよく分かるんだけど……、はっきり言って他の手段というものが浮かびそうにないのが現状なんだ。
ムラサと白蓮には申し訳ないけれど、私としては白蓮に協力するという案で話を進めたい。
正直、先程からどうにも会議の流れが悪い。このままグダグダ話しあっていては、有効策がなにも生まれないままタイムリミットを迎えるという最悪の展開もあり得る。
今日は野外でのライブだから、音響確認の必要性などもあってリハーサルの時間が最低でも一時間は欲しいところなのだ。
現在の時刻は十二時ちょっと前。
つまり、四時間後には降雨への対応策を用意し終えていたいところなのである。
ぶしつけなことは承知の上だ。
聖白蓮に頭を下げて、依頼するしかない。
「……よそう、リリカ」
と、そこでそれまでの論議を静観し続けていたルナサ姉さんが口を開いた。
だが、しかし、その発言はとてもネガティブ。
何を言い出すつもりなんだ、この姉は。
「よそう、って……。なによ、ルナサ姉さん。聖白蓮に不満でもあるの?」
「……他者に無茶を言って協力をしてもらうのは道徳的じゃない。私が言いたいのは、そういうこと」
「そんなことくらい私も分かってるわよ。けど、他に手段が無いのならしょうがないじゃない!」
思わず荒げてしまった声に、店内のお客さんがこちらを振り返る。
けど、イライラするのを、どうしても止められそうにない。
私だってできれば他人に迷惑なんてかけたくない。けれど、他にどうしようもないんなら、有力な者に頼るしかないだろう。
それを、この姉は……!
「道徳的じゃない、だって? そんなことは私だって十分分かってるわよ! でも、他に頼れるヤツがいそうにないんだからしょうがないでしょう!?」
「リリカ、落ち着いて」
「姉さんが落ち着き過ぎなの! じゃあどうするのよ、この状況を! 姉さんは誰か他に丁度良く頼れるヤツがいるとでも言うの!?」
「……そもそも、他者に頼ろうとしてばかりいるのが間違いなんじゃないかな」
「ッ?」
心に響く声で、ルナサ姉さんは言った。
ただ私の言うことに文句をつけているのではない、のか?
「……私は、こうも皆の都合が合わないのは、天が私達に“自分たちの力だけで解決しろ”と伝えようとしているからじゃないかと思っているんだ。例え今回は誰かの助力によって雨中でのライブを成功させたとしても次回はその助力を得られるとは限らない。誰かに頼って雨天のライブを成功させても、それは只の逃げでしかないんだ」
粛々と話を紡ぐルナサ姉さんに、いつのまにか店内にいる者の全てが耳を向けていた。
気付けば、私の内にあった苛立ちの猛る心も、既に冷静さを取り戻していた。
シンと静まったカフェーで、姉さんはひとり、眼に静謐な炎を宿して――、
「雨の中でライブをするのに一番良い方法。……それは簡単。私が雨を嫌がらなければいいんだ」
――言った。
「今後も雨の日にライブをすることは多々あると思う。その時の為にも、私は今、逃げる訳にはいかない」
そして、店内に声援と拍手の嵐が巻き起こった。
ブラボー、ハラショー、ワンダフォー。
見れば、そこかしこでブランチを食していたお客の全てがスタンディングオベーションでルナサ姉さんに応援の声を贈ってくれている。目の前では早苗とムラサも祝福の拍手を大音量で打ち鳴らしていた。ふと、横を見ればそこではマスターが「これは私の気持ちです」と苺のタルトとアイスティーをルナサ姉さんの前に差し出している真っ最中。そしてメルラン姉さんは靴を脱いで椅子の上に立ち、トランペットで高らかに『ビッグブリッヂの死闘』を吹き散らかしていた。
「……皆、気持ちは嬉しいけど、ちょっと落ち着いて」
ルナサ姉さんがドウドウと言い、そして、切り分けられた苺のタルトをメルラン姉さんの口元へと寄せた。瞬間、メルラン姉さんの口がマウスピースより離れてパクリとタルトに飛びつく。躁快なバトルミュージックが唐突に鳴り止み、店内には再び静けさが舞い戻った。
「リリカ、私の主張は以上なのだけれど、どう?」
こちらを見るルナサ姉さんの眼には金色の炎が揺らめいていた。
いつもの澄まし顔の内におびただしい熱量を抱えてこちらに問うてくるその姿に、私はハァと溜息を一つ。
確実性を求めるのなら、聖白蓮に依頼をするのが一番だ。ルナサ姉さんが目に水が入るのを嫌がらないようになる、というのは一番真っ当な解決法だが、しかしそれに頼るのはあまりに夢想的と言わざるを得ない。どれだけの覚悟があったとしても、自身のコンプレックスをたったの四時間で克服するというのは難しい話だろう。
けど、悲しいかな、私は十二分に知ってるんだ。
「……ったく、しょーがないなー」
ルナサ姉さんは弱っちそうに見えて、その実誰よりも頑固な騒霊だということを。
一度決めたことは絶対に曲げない、熱い心を持っているということを。
「分かったよ。ルナサ姉さんの案に私は賛成する」
だから、私がするべきことは、確実性がどうのこうのと理屈をこねるということなどではなく、ひたすらに真っ直ぐな姉を応援すること。
それだけなんだ。
そして、店内に再び拍手の音が満ちた。
「ありがとう、リリカ。メルランも、それでいいかな」
そうルナサ姉さんに問われたメルラン姉さんは、タルトをゴクリと飲み込み、そして笑顔でファンファーレを吹き鳴らした。
さて、そうと決まったのなら早速行動開始だ。
本来なら、私達に拍手を送ってくれている店内の皆にお礼として一曲演奏してあげるところなのだが、今はとにかく時間が惜しい。
彼らへの返礼は、今日のライブで行うとしよう。
「……慣れるなら、やはり水場まで行くべきかな」
「そうだね。ちょっと距離はあるけれど、湖で特訓するのが一番だと思うよ」
「……分かった。それじゃあ私は支払いを済ませてくる。残ったアイスティーはリリカにあげるよ」
「ありがとー、ルナサ姉さん」
姉さんの苦手意識がショック療法で簡単に改善されるとは思っていないが、やはり飛び込んでみないことには進展しないこともあるだろう。
舞台はカフェーから霧の湖へ。
さぁ、ここからが本番だ。
「行かれるんですか?」
瞬間、早苗がフワリと問うてきた。
「まぁね。真正面から雨に打ち勝つんなら、ウダウダしてる時間なんてないよ」
「そうですか。……大変心苦しいのですが、私がお付き合いできるのはここまでです。そろそろ社に帰って神事の用意を始めないといけないので」
むぅ、そっかぁ。
ここからは早苗の常識から外れた考え方が役に立つ場面が多くあるかもしれない、と密かに考えていただけに、残念だ。
けど、本職の用事があるんなら仕方がないよね。
「お役に立つことはできませんでしたが、せめて、今日のライブが成功することを祈らせて頂きますね」
「ありがと。奇跡の使い手によるお祈りなんて、随分と効果が期待できそうじゃん?」
「えぇ、私もそう思います」
コイツはいけしゃあしゃあと本当にもう……。
「……奇跡とは本来、非常にアテにならないものです」
突然、空気が澄んだ。
見れば、早苗は蒼穹の向こうを見るような爽やかな眼で私を見ていた。
その真剣で晴れやかな表情に私は思わず目を見張る。
目の前に座っている少女は只の常識外れではなく、私達とは異なる視点を持った現人神。
直感的に、そんなことを理解した。
だがしかし、そんな彼女に見つめられている今の状況は決して居心地の悪いものではない。
むしろ、空気の綺麗な所にいるような、静かな風に吹かれているような、不思議な心地の良さを私は感じた。
「奇跡とは、言ってしまえば“起こり得ないと思える事象が生じること”に過ぎません。少しの勉強もしていないのにテストで百点をとるのも奇跡であれば、毎日頑張って勉強をしていたのにテスト当日にシャープペンの芯がなくなって赤点をとってしまうのも奇跡の一つ。悲しいことですが、奇跡の発生確率は努力や祈りの量と少しの相関関係もないのです」
やはりこの少女は真面目なんだな、と思う。
遠くを見るような、私の心を見るような。そんな眼には多くの憂いと、そしてそれを超えてきたことでようやく得ることのできる柔らかく、強く、明るい光が在った。
「ですから、目標に向かって前進し続ける方に、私は奇跡など必要ないと思うのです。奇跡など無くともその方は目標を達成するでしょうから」
……どうやら、私はこの風祝のことを誤解していたようだ。
彼女は決して、常識外れの人間などではない。
常識をしっかりと知っていて、それでいてソレに囚われないようにして生きているのが東風谷早苗という少女なんだ。
そうでなければ絶対に、絶対にこんな深い眼を有することはできない筈だから。
「奇跡なんかの助けを借りずにライブを成功させる。皆さんならそれができると、私は信じていますよ」
そう言って、早苗はフッと笑顔を作った。
どうやらこれで風祝からのエールはおしまいのようだ。
……なかなか、良い事を言ってくれるじゃん。
「サンキュ、早苗。アンタみたいなヤツからそう言ってもらえたら、こっちも自信がつくよ」
「いえいえ、偉そうにモノを語ってしまってすみませんでした。では、私はこれで失礼します」
ペコリと頭を下げて席を立ち、会計へと向かう早苗の背中を、私はぼんやりと見る。
目標に向かって前進し続ける者に奇跡など必要ない、か。
それはとても強いメッセージである。
しかし、だからこそ私の胸に確かな不安を残した。
私達プリズムリバー楽団のライブ成功への意思は強い。それは疑うところの無い事実だ。
しかし、現実問題として私達に残された事実は三時間しかないのである。
たったそれっぽっちの時間ではたしてどれだけ前進できるのか。
それを真剣に考えればやはり、状況は明るくない、という結論に達せざるを得ないだろう。
ま、そうは言っても、後はもうやるしかないんだけどね。
愚痴を言っている暇なんて無い。
どんな不安のある状況だろうと、私達はただ前進するしかないんだ。
そうして決意を込め直し、私は拳をギュッと握った。
「――そうそう。大切なことを言い忘れていました」
と、背を向けていた早苗が唐突にこちらに振り向いて言った。
はて、あれだけの格言を残しておきながらまだ言い足りないことがあったのだろうか。
「先程私が言ったことは全て現実に根ざした事実です。しかし、ここは幻想郷ですから」
そして、現人神は薫風のようサラリと笑って、
「“奇跡の発生確率は努力や祈りの量と少しの相関関係もない”などという常識に囚われてはいけないのですよ」
言った。
なんだそりゃ。
結局は“頑張ったヤツにはちゃんと奇跡が起きる”ってことか。
さっきと言ってることが全然違うじゃん。
……まったくもう。ホントに、この現人神は、
「変なヤツだなー」
「はい、よく言われます」
すごく爽やかな顔で答えられた。
それがあんまりにおかしくて、私はつい笑ってしまった。
「では、私はこれにて失礼します。皆さんのライブの成功を、私も心からお祈りさせて頂きますね」
そう言って、奇跡の使い手、東風谷早苗は笑みを浮かべたまま、やはり薫風のように去っていった。
次を読んで来ます。
キャラが活き活きしていて、読んでいて楽しかった
出だしはすごく興奮した 最高だ
早苗さんが残念美人過ぎるww
次が楽しみになる
とても良い
ギャグ要素満点のキャラがぱっと見せるシリアスが本当に、本当に良かったです。