「飽きないの?」
椅子に座り、服に付いた髪の毛を摘み取りながら、私は尋ねる。
「飽きてるよ、随分前にね」
彼女はベッドの縁に腰掛けながら返してきた。
「だろうね」
そりゃあ、そうだろう。
同じ本を何十回と繰り返し読んでいるのだから飽きて当然だ。
「面白い?」
椅子の前の足を持ち上げて、後ろの足でバランスを取る。
ゆらゆら揺れる感覚。
普段味わうことのできない不安定な浮遊感は、なんだか癖になりそうだ。
一人遊びに耽る私を尻目に、彼女は気の抜けた声で返事をくれる。
「まあまあかな」
同じ内容なんだから先の展開なんて決まっている。
そんなものを読んで面白いのだろうか?
私は、分からないな、と頭を掻く。
彼女は、分からないかな、と頬を掻く。
「話の展開が変わる、魔法の本。って訳じゃないよね」
「残念。そんなのがあったら面白いだろうね」
彼女はそう言って口に手を当てて笑う。
私は照れ隠しに、額に手を当てて笑う。
「でも、展開は変えられないけど、登場人物は交代させられるよ」
「え、どうやって?」
彼女は膝の上に本を置くと、左手で矢印を作った。
そして、それを自らのこめかみ辺りに押し当てる。
「頭ってこと?」
そういうこと、と頷いて彼女は胸を張った。
なんだと、少し落胆するが、そんなところだろうと見当はついていたので、顔には出なかった。
「今なら、コイン一枚で出演させてあげるよ」
「でも、それ推理小説なんでしょ?」
彼女は、もちろん、とばかりに大きく首を縦に振った。
「いやいや、駄目じゃん。私、やられちゃうじゃない」
「えっ、死ぬの嫌なの?」
「え、って……できれば生かして欲しいな」
誰だって、例え現実の世界じゃなくても自分が殺されるなんて不快に決まっている。
彼女は残念だと呟いて、本を閉じる。
それを床に置くと、私に声を掛けた。
「私を見てても何も面白いことなんてないよ」
どうやら、先程から見つめていたのが気になったようだ。
「うーん。まあまあ、面白いよ」
「……馬鹿にしてる?」
「ん、褒めてるつもり」
「それはどうも」
彼女は後ろに倒れながら気怠そうにそう言い放った。
そうなると、私の視界から殆ど姿が隠れてしまう。
それじゃあ面白くない。
私は彼女の側へと寄る。
彼女が身体を揺らしてスペースを開けてくれたので、隣に座らせてもらうことにしよう。
ベッドへと腰を落とすと同時に、私は横へ向けて声を放つ。
「外、行かない?」
「行かない」
正しく、即答と言う単語が当て嵌まるだろう。
けれども、私としてもそう簡単に引き下がるつもりはない。
「ここに居ても暇じゃない」
うーん、と唸る声を無視しながら、彼女の服の裾を軽く引っ張る。
「だって……今、昼間でしょ。そんな時間に私が外にいるっておかしくない?」
「そう言われると、確かに変かもね」
けれど、どうせ誰もそんな些細なことは気にしないだろう。
「それに、実はあんまり好きじゃないんだ」
そう言って彼女は私の手から服を引っ張って離す。
「誰か嫌な人でもいるの?」
「ん、えっと、誰とかじゃなくて……全体的に」
ふーん、と気のないような声を出してやる。
向こうも困ったような顔を浮かべている。
「なんと言うか、みんな嫌いじゃないんだけど、好きではないんだよね」
「……分からないでもないね」
彼女は、よっ、という掛け声と共に起き上がる。
私と彼女の身体が並ぶ。
ここが丘陵地ならば、少しは絵になったのかも知れないが、見上げても味気ない天井しか見えない。
そして今度は、私が身体を後ろへ倒す。
重力に任せて体の力を抜いていると
ベッドの上で上半身が三回、小さく跳ねた。
「ねえ、一つお願いがあるんだけど……」
枕になりそうなものを手探りで探していると、彼女が小声で呟くように話し掛けてきた。
「頼み事なんて珍しいね」
興味を抱く私に対して、彼女は言葉を濁すように呻きを漏らす。
あー、うん、とどうにも振るわない言葉ばかりが紡がれる。
まあ、それはそれで見ていて面白いからいいのだが……
少し時間を置いて、彼女が決心したように一度首を縦に振る。
「ずっと気になってたんだ」
そう、虚空を見つめながら呟いたかと思えば、彼女は突然身体を翻す。
そして、私の上に覆い被さってきた。
眼前に彼女の顔が広がる。
見つめ合うのは気恥ずかしかったので、私は視線を横へ逸らした。
そして、彼女はお願いを口にする。
――私の心、読んでくれない?
唐突で脈絡のないお願いに困惑してしまう。
私としてはもっと簡単な頼みごとかと思っていたのだが、今回は勘が外れてしまったようだ。
それにしても……
「どうして?」
今まで生きてきて、思考を読まれることに不快感を示す者は多くいたが、自ら進んで読まれようとする人物はいなかった。
だから、何故。
そう疑問が浮かぶのは当然と言えるだろう。
「駄目かな?」
彼女は私の質問に答えず、逆に返事を要求する。
それに対して再び、どうして、と問う。
そして彼女は、やはり同じ言葉を向けてくるのだった。
どちらも折れる気配のない押し問答。
その流れを変えるために、私は黙り込む。
彼女もそれに倣って口を噤む。
二人して口を横に引っ張りながら見つめ合う。
他に誰かいれば笑われること間違いないだろう。
――時が過ぎて行く。
背中が蒸れてきたので寝返りを打ちたいなあ、などと余計なことが頭を過ぎり始める。
その時、沈黙に堪えられなくなったのか、彼女の口が動き始める。
でもやはり、何か思うところがあったのか、とてもゆっくりとした調子で発された。
「……ずっと考えてたんだ」
彼女の右手の人差し指が私の胸の固く閉じた瞼を這う。
「みんな、私のことを情緒不安定だって言うんだ」
彼女は何かを噛みしめるように目を閉じる。
そして、首を数回横に振った。
「オブラートに包んでるけど、簡単に言えば頭がおかしいってね」
「本当におかしいの?」
彼女はどうだろう、と言って曖昧に微笑んだ。
「だからね。確かめて欲しいの」
上瞼と下瞼の間に爪が差し込まれる。
一瞬、痛いと感じたけれど、爪は眼球に触れている訳でもなく、結局私の気のせいだった。
「覗いてくれない?」
――気の狂っている私の心を。
彼女にしては低い声で、しかし、とても澄んだ音色で、そう問われた。
胸にある目に痺れたような感覚が走る。
それを無視しつつ私は彼女を見返す。
口元はきつく結ばれているのに、目元は細められている。
なんとも、ちぐはぐな表情だった。
では、ばらばらな外面なものの中身は、果たして、ぐちゃぐちゃなのだろうか?
そうだと決めつけるのは、あまりに軽率ではないだろうか。
だがまあ、仕方ないと言えば仕方ないか。
普通は、人の内面など知る由もないのだから。
私にはその内側を覗くことができる。
彼女の中を見れば何が映るのだろうか?
興味と呼ぶには程遠い、薄らとした好奇心が生まれたのを感じた。
「とりあえず、暑苦しいよ」
私は彼女のおとがいを手のひらで押し上げる。
柔らかい感触を押し込む不思議な感じが伝わってきた。
彼女は一度大きく身体を振るわせた後、横へ転がるようにして、私の上から退いた。
私はぐるりと身体を横に一回転させる。
腕を組んで頭の下に敷く。
深呼吸をしながら、横目に彼女を見る。
そして、目を二度擦ることになる。
なぜなら、意味の分からないものが目に入ったからだ。
そう、彼女はベッドの上を転がったり叩いたりと訳の分からない行動を取っていた。
バタバタ、という表現がぴったり合うだろう。
先程まで、あんなに静かな態度を取っていたのに、手のひらを返したような変わり身だ。
こういう、意味不明な行動が彼女の精神が不安定だと言われる要因なのだろうか?
流石の私でも、これは理解に苦しむ。
しばらくその様子を観察していると、徐々にその発作は治まっていった。
「えー、その……大丈夫?」
なんと声を掛けるべきか迷いながらも、なんとか言葉を捻り出す。
彼女は私の言葉に、再び身体を大きく振るわせる。
そして次の瞬間には、匍匐状態のまま肘を使って私の側まで寄ってきた。
彼女の顔が迫る。
その表情は目も口もとても険しいものだった。
正直に言って、少し恐いな、と思った。
おっかなびっくりの私に、彼女は一言、力強く訴えた。
「舌、噛んだじゃない」
彼女は舌を出して見せる。
なるほど、舌の端から軽く血が出ていた。
「まあ、すぐに治るし別にいいんだけどね」
そう捨てるように言って彼女は立ち上がり床に置いた本を拾う。
もう、何と言うか……いや何も言うまい。
私の口からは笑いしか漏れてはこなかった。
――彼女の後姿を眺めながら声を掛ける。
「ねえ、いいの?」
「ん、ああ、別にいいよ」
答えは聞くまでもないしね。
そう彼女は面倒そうに口を動かす。
自分から聞いておいて自己完結させる。
確かに私の答えは彼女の言う通りなのだけど。
なんとも勝手なものだ。
まあ、それに対して私は何の不満も湧いては来ないのだが……
彼女は本を広げて適当にページを捲る。
その横顔を見ながら一言、問いかける。
「私はどう見える?」
「飽きないね」
その返事を聞いた私は首を一回転させる。
そして、大きく伸びをする。
それから、私は邪魔にならないように近くの椅子へと移動する。
そしてまた、私たちは下らない暇つぶしを再開するのだった。
ただ少しだけ、彼女のことが分かった気がした。
そんな曰く言い難い気持ちにさせるお話だったかな?
でも決して嫌いじゃない。
というか好ましい。
なんなんだろう、この感情は。そして自分で言うのも何ですが、なんなんだろう、この感想は。
透き通るような、染み入るようなお話、ごちそうさまでした。