「う~ん……」
幽香は少し、困っていた。
悩みや困惑とは無縁そうな彼女が困っている、というのもなかなか珍しい。
大抵のことでは動じず、何か障害があっても殆どを力でねじ伏せることが可能な、この幻想郷でも指折りの大妖怪である幽香がなぜ、珍しく困った様子なのか。
――それは、その『困った事』の原因が、他ならぬ自分であるからこそ、なのだ。
「……どうしようかしら、これ」
幽香の目の前には、見事に真ん中からぐにゃりと折れ曲がった、彼女のお気に入りの日傘が物言わず鎮座していた。
――どうしてこうなったかという理由は、三十分ほど前に遡ることになるが、非常に簡潔で明瞭である。
いつものように幽香が花の手入れをしていると、彼女の花畑とは知らずに、そのど真ん中で殴り合いの喧嘩をしている妖怪が二人いた。
幽香自身も見た事がない妖怪で、かつこの広大な花畑を幽香のものだとは知らなかったあたりから考えるに、この近くに住む妖怪ではなかったのだろう。
殴り合いの喧嘩をしているうちに、流れ流れてたまたまここまで辿り着いたのだろうが、そんな事は幽香には知ったことではなかった。
とりあえず、二人ともをまとめて容赦なく、割と本気でぶっ飛ばしておいたのだが、そのうちの一人の外皮が予想以上に硬く、殴った時に使った日傘が折れ曲がってしまったのだ。
一人ひとりを幽香の手で殴っていればこうはならなかっただろうが、頭に血が上ったせいで、思わず傘を使ってしまった。
頭に来ていたとは言え、ただの日傘だと分かっていたのにそれを武器代わりにしたのは、幽香の不注意である。
あの二人の妖怪のせいだ、と言うのは簡単だが、いずれにせよ、この傘は直す必要がある。
「……さすがに傘までは直せないわね。仕方ない、人里まで出張るか……」
幽香の知り合いに、傘を修理できるほど手が器用な輩はいない。
買い換えるのではなく、まだこの傘を使いたいのならば、必然的に誰かの手を借りなければならないだろう。
――幽香は大妖怪ではあるが、ごくごくたまに人里に顔を出しているため、別に行きづらいというわけではない。
ただ単に、一人で生きてきてもう相当長いため、雑多な人里が面倒なだけである。
だが、今回に限り、それを言っても始まらないのであるが。
「…….ま、面倒だけど仕方ないわね。さっさと行ってくるとしましょう」
曲がった日傘を片手に、幽香はふわりと浮き、人里へと飛んだ。
さぁ、と吹いた風に、向日葵が丁寧にお辞儀をした。
*********************************
相変わらず、里で最も大きい通りには、それなりの人数の人でごった返していた。
がやがや、と話し声ともノイズともとれない喧噪の中に、幽香は不自然もなく紛れ込んでいた。
「……」
――何でこうも人が多いのかしら。
里にある店の殆どがこの通りに面した場所にある関係上、ある程度は仕方がないと思ってはいたが、それにしては今日は密度がいつもより高い。
――少し、幽香は周りの話し声に聞き耳を立てていると、どうやら今日は里の休日であるらしい。
どうりで、いつも幽香が来る時にはあまり見かけない親子連れが多いと思っていたが、ようやく納得した。
何とも間が悪い時に来たものだ。
――ま、仕方ないか。
幽香はこの喧噪から一刻も早く脱出するかのように、この里では最も顔を出している花屋の主人に教えられた道具屋へと急いだ。
――霧雨道具店、と立派な看板がかけられたその道具屋は、幽香が訪れたことのある里のどの店よりも大きかった。
来客の数も、その辺の店よりも多く、一見して繁盛しているのが分かる。
店員だか丁稚だかは分からないが、店の中で忙しそうに来客の対応や業務に追われている店員の数も、他の場所とは比較になっていない。
この店を教えた花屋の主人も『道具ならこの店』と言っていたが、この盛況ならば納得である。
「……」
だが、如何せん店が大きいせいで、客も店員も人数が多い。
この中を入っていくのは余りにも面倒すぎた。
――さて、どうしようかしらね。
普段では決して遭遇することのない人ごみに、幽香はたたらを踏む。
正直、長い間一人で過ごしてきたせいもあり、大勢の人ごみというのは慣れていないどころか、苦手ですらある。
出来ることならば、とっとと用件を済ませ、この人の多い場所を一刻も早く離れたかった。
やはり自分には、こういった多人数の喧騒は合わない。
それなりに慣れ親しんだ日傘ではあるものの、新しいものに新調した方が手っ取り早くて楽なのではないか、という考えが脳裏をふと掠めたくらいだ。
――ふと。
「いらっしゃい。何かお探しですか?」
「!?」
そんなふうに、少しこの現実から逃避していたからだろうか。
或いは、他に多くの人がいるから気にならなかったからだろうか。
いつの間にか幽香のすぐ後ろからかけられた声に、久々に幽香は驚いた。
――正直なところ、反射的に手が出なかったことだけは幽香自身も驚いたのだが、それはあくまで口にすることではない。
幽香は驚いたことは顔に出さず、いつも人間へと向ける笑みを浮かべて、声をかけられた方を振り返りながら答えた。
「え、ええ。ちょっと道具の修理を頼もうかと――」
「?」
くるり。
振り返った幽香の目に真っ先に飛び込んできた鮮やかな銀色に、答えていた言葉が一瞬、詰まった。
人の里ではえらく珍しい銀髪――無論、毛色が変わった人間はいないことはないが、やはりごくごく少数なのは否めない――を後ろでまとめ、そしてこちらも珍しい眼鏡をかけた、どこか知的そうだが気だるさを感じる雰囲気をまとった青年が、言葉が詰まった幽香を見て首を傾げていた。
「……何か?」
「あ、ああ、いえ。ちょっと貴方、人にしては珍しい毛色をしていたから驚いただけよ」
「ああ……そうですか」
特に関心もなさそうに、青年は冷たくそう返しただけであった。
――もしかしたら、その珍しさ故に、過去に何か髪の色に対して気に障ることがあったのだろうか。
まぁ、幽香はただ思ったことを口にしただけであり、この青年が過去に何があったのだろうが、彼女には何ら関係のないことではあったが。
「……へぇ。金色の髪の毛ならまぁ、人間でも見たことあったけど……銀は私でも見たこと無かったわね。貴方、本当に人間?」
「……何か用があって来たんじゃないんですか? 人間観察なら、ここ以外でやってもらうと助かるんですが」
すぅ、と、青年の目つきが更に細くなった。
口では穏やかに言ってはいるものの、その目と雰囲気は、幽香への敵意にも似た感情を少しも隠していない。
どうやら髪の毛の色や出自あたりに、何か彼の気に障ることがあったのは間違いないようだ。
――こういう敵意をストレートにぶつけられるのは、随分と久しぶりだ。
幽香が普段過ごしている花畑の周りでは、このような敵意を向けてくる妖怪はもういない。
あの辺りの妖怪は、妖精まで含め、全てが幽香の恐ろしさを理解しているからだ。
随分と久しぶりのその感情に、幽香は少し楽しそうに笑みを浮かべた。
――見る者が見れば、恐怖で震え上がるような笑みであるが。
「――貴方、随分と怖いもの知らずなのね。まだ若いのかしら。いくら人間でも、相手を間違えると死ぬわよ?」
「ここは道具屋です。道具に関係ないものは、残念ながら扱っていないんですよ。……それに、貴女が人間でないことは、最初から分かってましたから」
――へぇ。
心ひそかに、幽香は感心した。
幽香が人間ではない、つまり妖怪だと分かっていて、この青年はあのように接していたのだ。
妖怪だと知るだけで震える人間もいる中で、なかなかの胆力の持ち主である。
妖怪と分かっていて声をかけてきたこの青年を、幽香は少し気に入った。
他の人間の店員と違い、自分が妖怪であると分かっているぶん、接しやすいからだろうか。
――それに、何故かは分からないが、この青年は人間と話しているような感じがどうも薄い。
人間としては間違いなく変り種の部類に入っているからかもしれないが、とりあえず何かを頼むのであれば、この青年に話してみるのが精神的に最も楽そうではあった。
「……ま、いいわ。別に用がないわけではないの。この傘を修理してもらおうと思ってきたんだけど」
「この傘ですか。随分と見事に折れ曲がってますね。……ちょっと詳しく見せてもらってもいいですか?」
「ええ」
「……ふむ……」
幽香から傘を受け取り、青年はその構造について観察し始めた。
――青年は、先ほどまでの気だるそうな雰囲気は既になく、しげしげと幽香の日傘を観察している。
さっきまでの青年は、どこか根性が曲がった、擦れた性格をしているような印象だったが、日傘を手にしてからはまるで子供のように目を輝かせ、渡した日傘をじっくりと眺めている。
その興味に溢れる真面目な目を見る限り、ただ単なる小生意気なだけの男ではないようだ。
そうしてしばし、青年は傘を眺めていたが、一通り見終わったのだろう、「ふぅ」と一息吐くと、幽香へと向き直った。
「……成程。特に何か特別な造りをしている日傘ではないんですね。ですけど、真ん中の軸も見事に折れ曲がっていますから……そうですね、半日もあれば直せると思いますが」
「あら、そう? ……やっぱり真ん中から曲がればしょうがないか……。じゃあ、とりあえずその傘は預けていくから、修理を頼めるかしら? 今日は人が多いし、急ぎでもないから、また明日あたりに出直してくるわ」
「そうですか。では、この日傘はお預かりします」
「お願いね。……あぁ、そうそう。出来れば貴方が直してくれないかしら、その傘」
ふと、幽香はそう注文を付け加えた。
きょとん、とした表情で、青年は幽香を見返した。
「はぁ……。まぁ、貴女が言うんでしたら、喜んで修理させてもらいますが……。どうしてまた?」
青年の疑問も尤もだった。
今日初めて会ったただの店員にいきなり修理を指名してくれば、誰だってこの青年と同じ疑問を抱くであろう。
だが、幽香からしても、別に何か特別な理由があってそうしたわけではなかった。
――この青年に任せれば大丈夫そうだと、そんな根拠のない予感があったから。
幽香はにっこり微笑み、青年へと言う。
「――いえ、特に理由なんて無いわ。その代わり、きちんと修理、お願いするわ。半日のところを一日あげるんですからね」
「……はは。分かりました。完璧に修理しないと後が怖そうですしね」
青年も笑って、幽香へと返す。
相手が妖怪であると知り、こういうふうに返してくる人物が人里にいようとは、幽香は思いもよらなかった。
絶えず畏怖の対象として見られてきた自分からすれば、『風見幽香』である自分に対して談笑できるだけでも、随分と印象に残る相手だ。
――そこまで考えて、そう言えばこの青年の名前すら知らないことに幽香は気付いた。
本来であれば、単に日傘を修理に来ただけの、もう二度と来ないかもしれない店の一店員の名前なんてどうでもいいのである。
だが、この青年に名指しで修理を依頼したのだ、名前を聞かずにおいて不便はあるが、知っておいて面倒な事はない。
――それに、また里に来る機会があって気が向けば、また立ち話をしに来てもいいかもしれない。
幽香にしては珍しく、そう思ったからであった。
「――ああ、そう言えば貴方、名前は何て言うのかしら?」
「……一応、ここでは霖之助、と呼ばれてますが」
「ふーん。霖之助、ね」
一応、というのはどういうつもりなのかは幽香には不明だが、その青年は霖之助、と言う名前らしい。
――なかなか悪くは無い。
「私は風見幽香。まぁ、余り大きな声で他人には言わない方がいい名前、とだけは言っておくわ」
「はぁ。それはどうも」
どうも要領を掴めないような青年――霖之助の反応に、幽香はふぅ、と胸中で一つ、溜息を吐いた。
――やっぱりか。
彼は、『風見幽香』の名前を知らなかったのだ。
無論、人間の中でもその名前を知っている者は決して多くはないだろうが、知っていたらとてもではないが、本人を目の前にしてこのような口ぶりで接してくることは出来ないはずだ。
――だが、ほんの少しだけ、知っていてそうしているのではないか、と幽香は期待していた。
自分を『妖怪』であると知っていた霖之助ならば、自分は『風見幽香』であると知っていた可能性もゼロではなかった。
だが、結局はやはりそういう事だったのだろう。
単に妖怪であると知っていて、それだけなら臆することはないと、そう思っていただけだろう。
別に、自分を『幽香』と知っていて、こんなふうに普通に接してきたわけではなかったようである。
――少しだけ、落胆だった。
「じゃあ、また明日ね、霖之助」
「ええ。またのご来店、お待ちしております」
ぺこり、と店員らしいお辞儀をする霖之助に見送られ、幽香はようやく念願だった人里からの脱出を果たした。
――さっきまでなかったはずの名残惜しさが幽香の中にはあったが、それには思考を向けず、人目につかない場所まで来ると、住み慣れた花畑まで真っ直ぐ飛び立った。
*********************************
次の日に幽香は人里へと向かった。
昨日より大分人が減った通りを大手を振って歩き、約束どおり、あの道具店へと向かった。
――霖之助は、昨日と同じようにどこか気だるそうな表情で、店先の道具にはたきをかけていた。
ただ、昨日よりかは幾分、気だるさが増しているようにも見えたが、それは一体どういうことだろうか。
「こんにちは、霖之助。今日も面倒そうな顔してるわね」
「……ああ、いらっしゃいませ。いえ、今日はちょっと寝不足でして」
「あら? もしかして私の日傘の修理のせいかしら?」
幽香の言葉に、霖之助は「ええ、まぁ」と、随分と率直に言い切った。
普通、店員とは、例え客の依頼のために寝不足になっても、その客本人の前で『そうだ』とは言い切らないものなのではないだろうか。
そう考えると、どうもこの霖之助という青年は、商家で店員をしてはいるものの、商売人に向いていないのではないか、とも思うのだが。
「……普通、その客本人の前ではっきりとは言わないわよ」
「あぁ、すみません。よく旦那様にも言われるんですよ。『お前は少々、はっきりと物を言い過ぎるきらいがある』って」
「まぁ、別にいいんだけどね。私もそこまで細かい事言う気はないし。……でも、昨日貴方言ってたじゃない? あの程度なら半日くらいで終わるって」
昨日、確かに霖之助はそう言っていたはずだ。
あの後くらいにすぐ修理に取り掛かったのなら、夜には既に終わっていたはずではないのだろうか。
幽香のそんな言葉に、霖之助は少し、困ったように笑った。
――幽香の初めて見る、随分と若い、少年らしい笑いだった。
「その事なんですが……あの依頼については、すみませんが僕の独断で修理させてもらいました」
「え? ……どういうこと?」
理由を問う幽香に、霖之助はやはり笑みを浮かべたまま、少しだけ声の大きさを落として、答えた。
「僕はこの店では丁稚扱いなんです。お客さんからの依頼を直接受けれる立場じゃないんですよ。だから、店じまいをしてから修理に取り掛かったんです」
「あら、そうだったの。……まぁ、こちらとしては、修理してもらえれば何でもいいんだけど」
「ええ、修理自体は終わってます。……それと、もう一つ、僕の独断でさせてもらったことがあるんですが、こっちは実物を見てもらってから説明することにするんで、ちょっと待っててください」
「え? え、ええ……」
幽香にそう告げると、霖之助は店の奥の方へと入っていってしまった。
――霖之助の言う独断が、一体何を指しているのか、それに幽香は待っている間、思考を割いた。
実物、つまり幽香の預けた日傘を見ながら説明する、ということは、日傘を修理する時に何かあったのだろうか。
幽香としては、傘が元通りになっていれば何も文句を言うつもりはないが、そうでないのなら少し対応を考えなくてはならない。
一応、昨日の段階で、修理に必要なもの以上の時間を与え、完璧な修理を頼んでいるため、それを守れなかったのならば完全に霖之助の責任だ。
それ相応の責任はとってもらおう。
――どう責任を取ってもらうかは、その時に考えるとしましょうか。
店の奥へと向けた幽香の視線の先に、やはり目立つ銀髪が、幽香の見慣れた日傘を片手に現れた。
とりあえず遠目には、日傘に劇的な変化がないのを確認し、その後の対処についての思考を、幽香は後回しとした。
霖之助はそのまま慌しく、幽香の元へと戻ってくる。
「お待たせしました。……何だかやたら怖い笑いを浮かべてましたけど、何かあったんですか?」
「え? そ、そうかしら?」
――どうやら、どういう方法で責任を取ってもらおうかと考えていたのが顔に出ていたようだ。
幽香は、ここが自分より遥かに弱い人間の大勢いる人里であることを忘れかけていた。
いつも通りに妙な笑みを浮かべれば、それは色んな意味で目立つに決まっている。
危ないところであった。
「それより、さっきの続きをお願いするわ。言っておくけど、私の日傘が前と変わりすぎてたら……分かってるわよね?」
凄みを利かせ、幽香は霖之助を睨め付ける。
あの花畑の近くに住む生物であれば、どんな妖怪でも妖精でも恐れをなして逃げていくその目を前にして、意外にも霖之助は肩を竦めただけだった。
「ええ、分かってますよ。まずは見た目を確認してください」
霖之助から日傘を受け取り、幽香は店先でそれを開いた。
――まず、ぱっと見た印象では、昨日以前の傘と変わっている部分は見当たらなかった。
傘布の色、傘の軸、取っ手など、見た目に変化はない。
預ける前と殆ど同一だ。
――ただ、前よりも少し重い感じが、幽香にはした。
「……見た目は変わってないわね。けど、前より少し重いわ」
「成程、そうですか。……僕が独断でさせてもらったことは、その傘に少しだけ、改造を入れさせてもらったんです」
「……改造ですって?」
「そう。……そう怖い目で睨まないで下さいよ。改造と言っても、確認してもらったとおり、見た目は前と全く同じに収まる範囲のものですから」
幽香に睨まれても、霖之助は飄々としたままだった。
――こいつ、もう度胸あるを通り越して、ただの鈍感な奴じゃないのかしら。
幽香としては割と力を入れて睨んでいるつもりなのだが、霖之助は全く態度が変わらない。
いくら度胸がある者でも、幽香くらいの力量を持った妖怪が力を込めた視線を向ければ、平常どおりの態度ではいられないはずである。
先ほど幽香が思ったように、自身に対する敵意に鈍感なのか――それとも、幽香が本気で自分に危害を加えるつもりがないことを見透かしているのか。
そんな幽香の考えには全く気付かず、霖之助はその説明を続けた。
「まず、傘布です。調べさせてもらったんですが、特に何の加工も無い布でしたので、紫外線をカットする機能を持つ布に替えさせてもらいました。日傘を常用するくらいだから、そういった機能があった方がいいと思ったので。見た目を全く同じにするのに苦労したんですよ」
「……そう。紫外線を、ね」
霖之助に言われて、幽香はもう一度、その傘布をじっくりと見つめた。
――言われてみれば、確かに布が少し新しくなっている。
だが、霖之助の言うとおり、色や模様などはほぼ同一だ。持ち主である幽香がじっくりと見て、それでようやく気付くくらいだ。
他人であれば、まず判別は不能だろう。
それに、霖之助が付加したという、紫外線をカットする機能は、正直有り難い。
日傘を指してはいるものの、外の直射日光が当たる場所にいることが多い幽香だ。
そういう機能はあって困るものでは決して無い。
「あともう一つ。傘の強度を全体的に上げさせてもらいました。……少々乱暴な扱いをしても壊れない程度には、ね」
「……何? また私が壊して持ち込むとでも思ってるの?」
「まぁ、転ばぬ先の何とやら、ですよ。特に幽香、貴女の名前を知っていれば、その保険はかけておくに越した事は無いでしょうし。……あの『フラワーマスター』の貴女には、ね」
「――貴方、知ってたの? 私の事」
霖之助の言葉に、幽香は驚いた。
昨日、幽香が霖之助に教えたのは名前だけだ。
とりあえず『余り他人に言わない方がいい名前』とだけは言っておいたが、それだけで幽香があの妖精にも恐れられる『フラワーマスター』であることを知ったとは考えにくい。
驚く幽香に、霖之助は事も無げに頷いた。
「ええ、まぁ。……僕は稗田の御阿礼とも交流があるので、その時に」
「……そう」
――幽香はようやく、合点がいった。
だから霖之助は、最初から幽香が人間でないことを知っていたのか。
だから幽香が名前を告げた時も、特に驚く様子がなかったのだろう。
『風見幽香』が、どのような妖怪かも知っていたからであろう。
――しかし、逆に自分が『風見幽香』であると知っていて、こんなふうに対等に接してくる霖之助に、感謝もした。
最初から『風見幽香』と知っていて、こんなふうに接してくる輩で生きているのは、今目の前にいる霖之助くらいしかいない。
他は自分に挑んできた酔狂な妖怪くらいだったので、勿論今は生きていないからだ。
「……貴方、変わってるのね。普通、私が『風見幽香』だと知っててこんなふうに接してくる人間、いないわよ?」
「ああ……まぁ、そうでしょうね。だけど、僕は少し違うんで」
「ふーん…………ん?」
すん、と、あまり慣れない匂いが、幽香の鼻を衝いた。
昨日は人が多く、人間の匂いで全く気付かなかったが、今はこの店内にいる人物の匂いが一人一人分かる。
目の前にいる霖之助からは、人間とも妖怪ともつかない匂いが、した。
――そこで、幽香は気付いた。
いくらその稗田の御阿礼が幽香に詳しくとも、霖之助自身が幽香に会ったことも見たこともはないはずだ。
初対面の時、まだ名乗ってもいなかったときに、自分を『風見幽香』だと気付けたはずが無い。
それなのに、霖之助は幽香を妖怪である、とは気付いていた。
――それは、人間では気付くことができない、自分と同種の匂いを感じたからではないのか。
だが、その割には霖之助からは、人里で生活しているからとはいえ、無視できない人間の匂いもする。
と、いう事は。
「……霖之助。貴方、もしかして混ざり物?」
「……ええ、まぁ」
無表情のまま、霖之助は頷いた。
――随分と、幽香は驚いた。
この幻想郷の大部分を構成する二つの種族に爪弾きにさせる運命を生まれた瞬間から強いられた種族が今、目の前にいる。
だから、髪の毛について幽香が『人間らしくない』というニュアンスを含めて言った時に、敵意にも近い感情を滲ませていたのだろう。
今でこそこの人里で商家の丁稚をしているが、それまでの人生は、幽香にも容易に想像できる。
――この、見た目の若さには決して比例しない、どこか擦れ、達観しているかのような態度は、その凄惨な過去を潜り抜けてきたためであろう。
だが、そんなのは幽香には何ら関係がない。
――そう、関係がないのだ。
「……そう。ま、私には関係ないし、どうでもいいわ。貴方が何者なのか、なんてことはね」
「――そうですか」
相変わらず、霖之助は無表情のままだ。
しかし、声からは固さがなくなっていた。
恐らく、この手の問答は数え切れないくらい経験している彼にとって、幽香がどう答えたとしても、然程関心のあることではないものと化してしまっているのだろう。
ただそれでも、それこそ数え切れないほど『否定』されているだろう霖之助にとっては、『無関心』の方が、やはり幾分かは気が楽になるのだろう。
――何だかんだ言って、まだ若いのね。
そう幽香は思うが、己の出自に関する心的外傷など、経験した者にしか分からないものもあるのだろう。
特に半妖は、この幻想郷全体の種族の価値観に関わってくることである。
並の出自とは規模も深さも違うのだ。
そういった諸々も含め、幽香は『関係ない』と言ったのだが。
「……ふーん。まぁ、頑丈にしてもらったのは正直、助かるわ。重さもそんなに気にならないし。これで間違って傘で妖怪を殴っても大丈夫ね」
「……そういう用途で使うために頑丈にしたんじゃないんですけどね……」
ぶんぶん、と振ったり、こんこん、と骨を叩いて強度を確かめる幽香に、霖之助は頭を抱える。
良かれ、と思ってした改造ではあったが、もしかしたら虎に爪を研ぐやすりを与えてしまった結果になったのかもしれない、と。
ばさ、と、幽香は受け取った日傘を開き、霖之助に向けて優雅に微笑んだ。
「ありがと、助かったわ。それじゃ、お代は――」
「ああ、いえ、今回はいりませんよ」
代金を払おうとした幽香を、霖之助は止める。
――それ自体に幽香が損をするわけではないが、突然の訝しい申し出に、眉を潜めずにはいられなかった。
「……どういうこと? まぁ、私としては別に損をしないからいいんだけど、どうにも腑に落ちないわ」
「言ったでしょう? 今回は僕の『独断』で修理させてもらったと。修理や改造には僕の私物を使っているんで、逆に代金を貰っては困るんですよ。商家なだけあって、金銭の出入りには厳しいんです。……今回は、僕も改造や修理について勉強させてもらった、ということで」
「……そう。そういう事ならいいわ」
霖之助の説明に、幽香は納得したように頷いた。
確かに、この店の責任者に許可を取らずに行った独断行為など、バレれば面倒しか待っていないだろう。
幽香としても代金を払うことなく、修理をしてもらえたのだ。
それを断る理由は何一つない。
「それじゃ、今回はありがと。次があれば、またお願いするわ」
「それは有り難いんですが……道具はもう少し、大切に扱ってほしいものですけどね、幽香」
「……ま、覚えてたらね」
霖之助に見送られ、昨日と同じように幽香は自分の居場所へと戻っていく。
――昨日と違うのは、幽香のトレードマークである日傘が、しっかりと彼女の手に握られていることであった。
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香霖堂の店内は、今日はいつものような静寂ではなかった。
二人の人影が、今は店内にある。
「――随分と懐かしい話をするね、幽香」
「あら、そうかしら? 私としては結構最近のような気がするんだけど」
互いに会話をする男女の声が、店内に響く。
一人はこの店の主である、日傘を手にしてそのメンテナンスを行っている香霖堂店主、森近霖之助。
もう一人は、その日傘の持ち主である『フラワーマスター』、風見幽香。
幽香はカウンター近くに霖之助によって用意された椅子に座り、これも霖之助に用意された紅茶を片手に、今しがたまで昔話をしていた。
――そう、昔話である。
はぁ、と幽香は一つ、溜息を吐いた。
溜息で、口の前まで持ってこられていた紅茶の水面が漣だった。
「あの頃の貴方は、まだ初々しくて良かったのにね。ちゃんと客には敬語を使っていたし、どこか気だるそうだったけど、今よりは覇気があった。それがどうして今ではこんな感じになったのかしら……」
「あの頃は奉公の身だったからね。世話になっているのだから、その店の方針に従うのは当たり前だろう?」
お互い軽口を叩き合うのは、付き合いが長い証拠だからだろう。
幻想郷縁起に記されている幽香の評価しか知らない人物が見たら、幽霊でも見たような顔をして逃げていくような光景だが、霖之助と幽香にしてみれば、これは随分と前から当たり前の光景と化していた。
付き合いが熟練すると、大抵はこういうふうになるものだろう。
少なくとも霖之助はそう思っている。
「……しかし、君は相変わらずだね。この傘を丈夫にしたのは、君に武器として使ってもらうためじゃないと、あの時にも言ったはずだろう?」
「あら、使えるものは使う。これって道具の基本じゃない?」
「それはあくまで道具の持つ本来の用途に沿う使い方をした時だけだ。それとも君の頭の中の辞典の日傘の欄には武器である、とでも書いてあるのかい?」
霖之助は呆れたように溜息を吐く。
結局、あれからも何度か強化、改造をしており、最初に改造した時よりも強度は増しているにも関わらず、今霖之助がメンテナンスを行っているように、よくどこかに綻びを生ませた状態で店へと持ち込んでくる。
霖之助も一応半妖であり、なおかつ男性であるために、人間の男よりは膂力も優れてはいるが、このレベルの強度を持った傘を壊そうと思っても一筋縄ではいかないだろう。
――本当に、一体どういう使い方をすればこうもところどころを故障させることができるのか、謎である。
「……そうは思ってないけど、大切にはしてるわよ? だからこうやって、今でも貴方の所に修理に来るんじゃない」
「それ自体は有り難いけどね。だがこの傘の強度を考えた場合、『大切にしている』という言葉は使えないと思うよ」
「……本当にああ言えばこう言うわね。あの頃はこんなんじゃなかったのに……」
「なに、いくら僕が半分妖怪でも、変化が訪れる程度の年月は経っているということさ。……まぁ、半妖の僕と純粋な妖怪の君とでは、流れる時間の感覚も違うんだろうけどね」
それは幽香が、この昔話の出来事を『最近のこと』と言っていることからも伺える。
霖之助からすれば、この昔話自体から現在まで、決して無視できない年月が経っていると感じている。
それは普段、魔理沙や霊夢が霖之助に対して感じる気持ちであるが、こういう時には霖之助が感じる立場に回るのだ。
幽香や紫など、純粋な妖怪を前にすると感じるこの感覚は――決して、心地いいものではないのだが――ある意味新鮮だ。
「……まぁ、使い方が荒いのはいけないが、最初に来た時みたいに思いっきり圧し折ってから修理に来ないあたりは感謝してるよ。修理出来ないわけじゃないが、ここまで改造した傘をあそこまで壊すと修理が少々面倒だからね。今みたいにちょくちょく来てくれた方が、僕も助かる」
「……そりゃ、ね……」
――確かに、この日傘の強度は、昔幽香が使っていた頃よりも格段に上がった。
少々妖怪をぶっ飛ばした程度では、傘布の部分の細い骨すらも折り曲がりはしない。
弾幕すらも防ぐ、ちょっとした盾レベルの強度を持っているのだ。
――だが、それゆえに、修理が必要な故障も、格段に減った。
それはつまり、この傘の修理の回数も格段に減ったことになる。
最近はスペルカードルールが幻想郷に導入されたこともあり、傘の出番は少し前よりも増えているが、それでもなかなか修理が必要なほどは故障しないものだ。
――だから、こうして大きな故障が見られないうちに、霖之助に修理を依頼しているのだ。
大きな故障が起こってから来たのでは、数年に一度しか、この香霖堂を訪れることがないのだから。
「……今思えば、この傘が僕への最初の依頼物になるんだな」
「……霖之助が私よりも前に、『独断』で依頼を受けてなければ、そうなるわね」
「ふむ。やはり自分が最初に手がけた道具は、やはり愛着が湧くものだね。……ほら、終わったよ、幽香」
「そ。ありがと」
ひょい、と霖之助は日傘を幽香へと手渡す。
幽香はそれを受け取り、とりあえず椅子の傍へと置いた。
――幽香がこの香霖堂へと来た用事は済んだが、幽香は帰る様子が無い。
一方、霖之助も、帰宅を促す言葉は無い。
幽香の傘のメンテナンスが終わった後の残りの時間は、互いに付き合いの長い友人と過ごすと、随分前から決めているからだ。
尤も、その時は幽香が一方的に決めた――この時間が終わってから代金を払う、と幽香が言い切ったせいもあり、霖之助が折れたのだが――ものであるが、霖之助の方もこの時間には慣れてしまっていた。
何よりこの時間を過ごさねば、メンテナンスの代金を払ってもらえないのだ。
必要悪、というものだろう。
メンテナンスが終わった霖之助はカウンターに戻り、幽香と同じように、自分の湯呑みに緑茶を淹れた。
それを一口啜ってから、霖之助は口を開いた。
「……しかし、あの頃の話を君からするなんて、珍しいものだね。妖怪にも懐古趣味というものがあるのかい?」
「あら、たまにはいいじゃない。昔と今の変化が分かって、なかなか面白いと思うわよ?」
「……ま、それも一興かな」
今日も、香霖堂には来客がない。
――ただ一人の、旧い旧い顧客兼友人以外には。
ならば旧友という間柄もしっくりくるってもんです。
少しだけ若い霖之助と、全然変わらない幽香さん。良い昔話でした。
愛想のいい香霖というのも新鮮。
>>だから霖之助は、最初から幽香が妖怪でないことを知っていたのか。
「妖怪」じゃなくて「人間」じゃないですか。
この文だと幽香が人間になってしまいますよ。
今の二人の関係がいい感じでよかったです。
それにつけても、やっぱり商売向いてなさすぎだ、霖之助。