※ 作中にオリキャラが登場します。
※ さらにバリバリの捏造設定があります。
※ 作品集103『かえるのこはかえらない』の、対になるSSです。そちらもお読みいただけると、より楽しめるかと思います。興味のある方は上記タグよりどうぞ。
※ 以上を踏まえた上で、「こまけぇことは気にすんな!」という方だけ下へどうぞ。
1
道具屋から帰ってきた諏訪子は、様子がおかしかった。
話しかけても上の空で、夕飯にもあまり箸をつけない。あげくにどこぞへと姿を消したアイツを探して、私は神社の中を歩き回った。
ややあって、縁側に腰掛けている見慣れた小さな背中を発見。呆れ半分に息を吐いて、その隣に座り込む。
「何かあったのか? 早苗が心配しているぞ」
「…ちょっとね。昔のことを思い出しちゃってさ」
「昔?」
「似てたんだ。香霖堂の店主が、死んだ息子に」
思考が止まる。呼気を飲みこむ。コイツがその話題を口にするのは…いつ以来だろう。
「顔とか背格好は違うのに、雰囲気がそっくりだった。あれは多分、人と妖怪の合いの子だね。なんだか懐かしくなっちゃったよ」
いつになく柔らかい口調で諏訪子が言う。無限に感じるほど長い沈黙の末に、ようやくどうにか言葉を搾り出す。
「…………そうか」
そう呟くのが、精いっぱいだった。
○ ○ ○
初めて諏訪子に会ったのは、神代の時代の戦場だった。
「あなたにこの国を譲るわ」
自慢の鉄の輪が通じないと悟るなり潔く敗北を認めたその女を、私はまったく信用していなかった。
理由は簡単、アイツの目が気に入らなかった…それだけである。
祟り神である諏訪子の視線には、言い様の無いほどの険があった。一見愛らしいあの姿も、彼女の本性との落差によってさらなる恐怖を生み出すためのものだろう。
(…いけ好かない女だ)
それが第一印象だった。それで構わなかった。仲良くする理由も必然も無いのだから。
信仰を失った神など脆いものだ。仮に何か企んでいるのだとしても、改めて叩き潰せばいいだけのこと。
この時、私にとってのアイツは『敗者』以外の何者でもなかった。
かくして国を譲り受け、新たな神として君臨し…しかし、私の信仰集めはすぐに暗礁に乗り上げた。
どれほど奇跡を示そうと、人々は諏訪子への信仰を捨てなかったのである。強力な祟り神である彼女への畏怖と敬意は、すでにこの国に完全に根付いていた。
問題はそれだけではなかった。今まで諏訪子に睨まれて大人しくしていたこの地の妖怪たちが、彼女が王の座を退いたと知って暴れ始めたのだ。
討伐しようとはしたが、何しろこちらには土地勘が無い。後手後手の対応を強いられる私を見て、民は「やはり諏訪子様でなくては…」と嘆き続けた。
さて、その諏訪子はといえば…この国から出ていくでもなく、といって口出ししてくるでもなく、人間たちからは姿を隠しつつ、悪戦苦闘する私をこっそり眺めていた。
「手を焼いているようだねぇ、大和の神」
「…そういうお前はずいぶんと楽しそうだな。そんな風に見物する暇があるのなら、手の一つでも貸したらどうだ」
「この国の神はもうお前だ。余所者の私が神威を示すのは失礼ってもんでしょ。それに、いいの? 今私が手を出せば、お前は一瞬でこの地の信仰を失っちゃうよ?」
おどけた口調で諏訪子は言った。祭神の座を退いてなお信仰を受け続けるその身には、以前よりも大きな力が備わっていた。
(…なるほど)
確信した。最初に感じた印象は間違っていなかった。アイツは敗北を受け入れるつもりなど毛頭無かったのだ。
妖怪たちの蠢動。祟り神への拭い切れぬ畏怖。私が不手際を重ねれば重ねるほど、人々の信仰は自然と諏訪子に向かう。結果、何をせずともアイツの力は増していく。
こうなることを見越していたからこそ、彼女は降伏を申し出たわけだ。そうやって時間を稼ぎ、力を蓄え、いつか逆襲するために。
といって、強引に排除するのも難しい。今なお畏怖の対象である諏訪子に対してここで力技に出れば、民の信仰は一気に彼女へ向かう…力量で逆転される可能性さえあった。
認識を改める必要があった。あの祟り神は『敗者』ではない。格の差を見せつけられてなお我ら大和の神々に歯向かわんとする、私の『敵』だ。
私と諏訪子の戦い…後に諏訪大戦と呼ばれるそれは、まだ終わってはいなかったのだ。
私がこの地の信仰を己のものとするのが先か、諏訪子が私を超える力を蓄えるのが先か…要はそういう勝負だ。
正直、不利な戦だった。あの女の思惑に乗せられているという状況に、腹立たしい思いがあったのも事実だ。
だから私は考えた。諏訪子の計略を打ち破り、この地を大和のものとする、何か良い手は無いものかと。
「さて、どうしたものか」
信仰が集められない以上、この地の支配に固執しても旨味は薄い。といって支配を諦めれば、この島国を統一するという我ら大和の神々の目的は果たせなくなってしまう。
さらに諏訪子への対策も考える必要があった。アイツを野放しにしておくのは少々危険だ。最低でも我らに歯向かう意志と力は削いでおかなければ。
あれこれと思案し、智恵を絞った末に、私は一つの策を思いついた。
「この国を支配することは諦めた。私は引き上げるから、あとは今まで通りお前が好きなように治めるがいい」
「…へ? 何それ、本気?」
「ああ。信仰が集められない以上、私がここに留まる意味も無いからな。ただし一つだけ条件を飲んでもらうぞ」
「やっぱりそう来るか…で、その条件って何よ?」
「私の代わりに、大和から神を一人呼んである。お前にはその神と融合してもらう」
「ふ~ん、大和の神と融合ねぇ…まぁ、この国から出ていってくれるんなら、それくらいやってあげてもいいけどさ」
生半可な神の一柱や二柱なら完全に取り込む自信があったのだろう。諏訪子は無邪気に笑っていた。
かくして私は大和に戻り、入れ替わりで一人の男が送り込まれ…その日の内に、アイツは大和に怒鳴りこんできた。
「ちょっと! あれのどこが神なんだよ、どこからどう見たって人間じゃない!」
「ただの人間じゃないさ。大和が誇る戦の天才、我らに迫るほどの力を持つ現人神。神々の末席に加えたいって声もあるくらいだ」
当時の大和に、一人の青年がいた。武に長じ、軍略に秀で、神に迫るほどの力の持ち主…でありながら、驚くべきことにその男は純粋に人間だった。
我ら神々でさえ、男の力量に驚嘆し、称賛し、そしてどうしようもなく惜しんでいた。その有り余る才覚に対して、彼が生きる時間はあまりにも短すぎる。
あの男の力を、大和のためにもっと永く活かす術は無いものだろうか…? 大和の神の誰もが悩んでいたこの難題を、私は諏訪子を利用することで解決しようとしたのだ。
「知るか、そんなこと! 大体あんなのとどうやって融合しろっていうんだよ!?」
「男と女が融合するというのがどういうことか、分からんわけでもないだろう」
「なっ…! あ、あの男と夫婦になれっていうの?」
「その通り、今さら嫌とは言わさせんぞ。それとも、ここにいる大和の神々全てを相手にしてみるか?」
「あ、あーうー…」
人間と夫婦になったという事実を以て諏訪子の神威を貶め、その力を削いで今後大和に歯向かえないようにする。
また大和の人間をアイツの夫にすれば、周囲に対してはあの国は大和の一部になったと宣伝することもできる。
さらに両者の間に子ができれば、神の血と人間離れした才を受け継いだ人材になるはずだ。人間より遥かに長寿で、大和の今後のために大いに役立ってくれるだろう。
それが私の考えた策だった。複数の問題を一気に解決する素晴らしい策だと…この時は本気で思っていた。
「…見てろ。あんな人間、すぐに祟り殺してやる!」
そんな捨て台詞を吐いて、諏訪子は去っていった。
勝った。そう確信した。私の中で、アイツの位置付けは再び『敗者』になっていた。
2
守矢神社の境内に、目立たぬように配された奇岩がある。
あれ以来、諏訪子は毎日その香霖堂とかいう道具屋に通うようになった。そして神社に帰った後は、決まってこうやって縁側に腰掛け、その奇岩を何時間でも見詰めるのだ。
私は何も言わなかった。早苗にも何も言わさせなかった。ただ隣に座り、そんなアイツにいつまででも付き合った。
「…博麗の巫女がいたよ。客というより、普段から入り浸ってるみたいだった」
「あの娘、自分が巫女だって自覚はあるのかね」
「さぁ、そういう関係なのかどうかは分からないし。でもちょっと安心した。あの店主、まだ独りぼっちってわけじゃないみたい」
どこかほっとしたように諏訪子が言う。顔も視線も意識も体も、私ではなくあの奇岩に向けられている…あるいは私は邪魔者でしかないのかもしれない。
(…まさかな)
百年でも千年でも待つつもりだったが…こうまで早く機が巡ってくるとは。歓迎すべきことであるはずなのに、途方も無い重圧が肩にかかるのを感じた。
それでも、やらなければならない。もう、逃げ出すわけにはいかない。
「諏訪子」
「なんだよ」
「やりたいようにやってみろ。他のことは気にするな。私が引き受ける」
「…アンタもつくづく、物好きな女だね」
数秒の沈黙の後で、諏訪子は呆れたように吐息をした。
○ ○ ○
少しの年月が流れた。
あの男と諏訪子との間に娘が生まれたと聞いた私は、早速それを受け取ろうとしばらくぶりに彼女の国を訪れた。
人質として預からせてもらう…名目としてはそんな言葉を用意したが、諏訪子は尋常でない剣幕でそれを拒んだ。
「ふざけるなっ! この子は私の子だ、誰がお前なんかに!!」
片手で赤子を抱き、もう一方の手には通じぬと分かっているはずの鉄の輪を握り締め、ただならぬ殺気を周囲に振り撒き、私を近づけまいとしていた。
そんなアイツを、私は鼻で笑った。目論見通り、彼女の神威はだいぶ衰えていた。曖昧なままだった諏訪大戦の決着を、ここでつけるのも悪くなかろう…そう思った。
一触即発の私たちを止めたのは、諏訪子の夫となったあの男だった。知った顔に懇々と説得され、後日必ず送り届けるという彼を信じ、私はその場は引き下がることにした。
しかし、諏訪子たちの娘はなかなか大和に送られてこなかった。
何度も呼びつけたのだが、あの男はそのたびに「風邪をひいて動かせない」だの「娘は天狗に浚われた」だのと世迷言を並べて「今回ばかりは…」と頭を下げてきた。
他国に婿入りしたとはいえ大和の英雄。ひたすら平身低頭する彼を憐れんだ同輩の神にたしなめられ、渋々私が折れる…そんな日々が続いた。
要するに、諏訪子はどうあっても娘を手放す気はなく、あの男もそれに付き合っていたわけだ。こんな姑息な手がいつまでも続けられると思っているのかと、正直呆れた。
こうなれば根競べだ。一切遠慮せず、私は立て続けに「娘を寄越せ」と催促した。その都度あの男は一人で大和を訪れて下手な言い訳を並べ、私に罵られては帰っていった。
そしてある日、唐突にあの男は娘を連れてきた。ちょうど「いいかげんこちらから乗りこんで連れ去ってやろうか」などと考え始めた頃だったので、大いに拍子抜けした。
聞くところによると、ここ一年ほどの無茶な生活のせいで憔悴していく夫を見兼ねて、諏訪子が娘を手放すことを泣く泣く了承した…とのことだった。
私を倒すために一度は国さえ明け渡した女が、変われば変わるものだ。祟り殺すなどと豪語していたことは忘れてしまったらしい。
そう嘲笑すると同時、私は諏訪子への興味を無くした。そんなことより、ようやく手に入れた娘の方が大事だった。
「これからは私を母だと思うがいい」
ようやく一人で歩けるようになったばかりの幼子を抱き上げて、私は大和の未来に思いを馳せた。
最初の頃は、父や母を想ってなのかよく泣いた。そのたびに抱き締めたり、一緒に寝てやったりしている内に、次第に笑顔を見せてくれるようになった。
その頃になると、私の後についてくるようになった。小さな足を一生懸命動かして私を追う姿は、この上無く微笑ましかった。
初めてしゃべった言葉は「かあこしゃま」だった。それが何か途方も無く名誉なことであるように思えて、あちこちの知り合いに会わせては、その言葉をしゃべらせた。
やがて成長した娘は、親譲りの力と才、私が教えた知識と技を縦横に発揮し、国造りに多大な貢献をしてくれた。
風神である私に仕える身に相応しかろうと、彼女のためだけに風祝という役職を新たに設けた。とても光栄なことだと、心底喜んでくれた。
人間の男と恋仲になり、立場やら何やらを気にして二の足を踏んでいた時は、業を煮やして強引にくっつけてやった。幸せそうな二人を見た時は、少しだけ悔しかった。
彼女が私に向ける視線には、いつだって絶大な信頼と無条件の敬愛が込められていた。常に礼節をもって私に接し、でも時には素直に甘えてくれた。
人間も、神々も、妖怪でさえも、大和の誰もが彼女を絶賛し、褒め称えた。それがどうしようもなく誇らしかった。
彼女が私に逆らったのは…一度だけだった。
「どうしても神になる気は無いのか、お前ならばきっと…いや、いい。正直に言う。お前を失いたくないんだ。これほど頼んでもダメなのかい?」
そんな私の懇願に、困ったような嬉しそうな微笑みを老いの刻まれた顔に浮かべつつ、しかし彼女は首を横に振った。「夫の側に行きたい」、そう言って。
後悔した。結婚なんかさせるんじゃなかった。悲しかったし、寂しかった。
それでも、静かに老いを重ねていく彼女を見ている内に、次第にこれで良かったのだと思えるようになっていった。
そしてとうとう、ずいぶん長いこと待ちぼうけさせている夫の下へと、彼女が旅立つ日がやってきた。
枯木のように痩せ細った私の風祝は、集まった己の子孫や親しかった者たちを一人一人枕元に呼び寄せては、それぞれに別れを告げていった。
最後に呼ばれたのは私だった。どこまでも満ち足りた、幸せの感情だけでできたようなたおやかな笑みを浮かべて、彼女は私に繰り返し感謝の言葉を述べた。
自分を育ててくれたこと。風祝という名誉ある役目を与えてくれたこと。結婚を後押ししてくれたこと。いつも見守っていてくれたこと。
「いいんだ。いいんだよ。お前は本当に良く尽くしてくれた。礼を言わなきゃならないのはこっちの方さ」
交わす言葉の一つ一つに、彼女との思い出が蘇った。笑顔のまま見送るつもりだったのに、簡単なことだと思っていたのに、尋常でない努力が要った。
諏訪子が部屋に飛びこんできたのはその時だった。汗だくのまま、肩で息をしながら、懐かしさと切なさが同居した顔で自分の娘を見詰めていた。
「ひ、久し振り…」
風祝は諏訪子を見た。不思議そうな顔をして、それでも私が教えた通りの礼節を守り、赤の他人に対して失礼が無いように…そんな態度で、アイツに言った。
――どなたですか?
何も言わず、何も答えず、諏訪子は立ち尽くしていた。私はといえば、久し振りどころではない時を挟んで再会したアイツに対して、苛立ちしか感じていなかった。
なんでここで現れる。どうして今やってくる。この娘の命は間もなく尽きるというのに…私たちの最後の時間を邪魔したいのか?
その直後、彼女は逝った。最後の最後、私に向かって「あなたは私の母だった」と言葉を遺し、それに嬉しいよと答えてやると…微笑みながら、永遠の眠りについた。
すぐに盛大な葬儀が執り行われた。決して泣くまいと心に決めていたが、結局は堪えられなかった。
葬儀の最中、気がつけば諏訪子の姿が見えなくなっていた。
だが、その時の私にとっては、それこそどうでもいいことだった。
3
魔法ビン片手に出掛けていった諏訪子を見送り、私もまた守矢神社を後にする。留守を任せた早苗の視線には、何かを訴える色が強く浮かんでいた。
向かう先は幻想郷の端、博麗神社の反対側に位置する屋敷。突然の来訪にも関わらず、その主は笑みさえ浮かべながら私を迎え入れた。
「どういう風の吹きまわしなの? あなたが私に会いに来るなんて」
八雲紫…妖怪の賢者の異名を持つ、幻想郷でも有数の実力者。何かしらの異変が生じた時には、この女が率先して動くと聞いている。
「天狗たちも騒ぎ始めているようだし、お前の耳にも入っているだろう。香霖堂とかいう道具屋に、最近諏訪子が毎日出入りしている話は」
「そのようね。何しろあなたたちは今までが今までだから、注目している者は少なくないわ」
「良かれと思ってやったことなんだがな。結果として騒ぎを起こしてしまったことは自覚も反省もしている」
「今後に活かせなければ反省とは呼べないのだけどね…それで、今日はいったいなんの用なのかしら」
婉然と問う。私を前にしてこの余裕、さすがに大したものだ。しかしその余裕も、私が次に取った行動の前に吹き飛んでいた。
「簡潔に言う。今回ばかりは今までとは違う。誰にも迷惑はかけないと約束する。だからアイツの、諏訪子の邪魔をしないでやってくれ…この通りだ」
幻想郷の守護者を自称する妖怪の顔からは笑みが消え、主の傍らに控えていた九尾の式は驚きで目を丸くする。
その二人の前で、私は手と膝を突き、額を地に擦りつけていた。
「…音に聞こえし軍神がそこまでするなんて、余程の事情があるようね。まずはそれを」
「悪いが言えない。私がそれを言うわけにはいかないんだ」
「さんざん好き勝手やっておいて、今さらそんな虫のいい話が通ると思っているの?」
「ああ、虫のいい話さ。だが、そんなことはこっちだって百も承知だ。その上でこうして頼んでいるんだ」
諏訪子は今、戦っている。神さえ滅ぼすモノと、死に物狂いで戦っている。
私には何もできない。手を貸してやれない。応援する資格さえ無い。私にできるのは、せめてアイツがその戦いに専念できるよう、こうして取り計ってやることだけだ。
「…この際だからはっきり言うけど、私はあなたたちを信用していない。信用していない者と約束なんてできないわ」
冷め切った口調でそう言って…しかし、八雲紫は口の端を緩めた。
「ただ、あなたがそこまでするほどの事情があるのだということは覚えておきましょう。私が譲歩できるのはここまでよ」
「…十分だ。礼を言う」
安堵の息と共に身を起こす。この女さえ派手に動かなければ、話が不必要に大きくなることもない…誰かが諏訪子の邪魔をすることもないだろう。
○ ○ ○
風祝の葬儀が終わり、大和からようやくその悲しみが薄れてきた頃、私の耳に妙な噂が届くようになった。
諏訪子があちこちをうろつき回っている、とのことだった。土着の神であるアイツが出歩くというのは意外な気がしたが、それ以前に不愉快でならなかった。
何をやっているんだ、あの女。私の風祝の死を乗り越えようと皆が頑張っているのに、いたずらに騒ぎ立ててそれを邪魔しようとでもいうのか。
苛立ちを隠そうともせず、私は諏訪子を探しに出かけた。見つけたら問い詰め、罵り、殴り倒してやるつもりだった。
そうやって何かに奔走することで、悲しみを忘れたかった。
諏訪子の足跡を辿るのは簡単だった。行く先々で派手な痕跡を残していたからだ。
ある時は己に匹敵する強大な力の持ち主を強引に捩じ伏せ、ある時は己より遥かに矮小な存在の前で這いつくばって助力を願う。
そうやって傷つき、神としての誇りさえ投げ捨てながら、アイツは必死になって誰かを探していた。
胸騒ぎがした。いったいそれが何に由来するものなのか分からないまま、私は諏訪子を追い続けた。
そして私は、未開の地の山奥にある、小さな岩屋へと行きついた。
誰かが結界でも張っていたのか、周囲にはまったく草木が生えていなかった。不思議と懐かしいものを感じながら、私は軽い気持ちで岩屋の中を覗いてみた。
そこには何も無かった。誰かが暮らしていたような痕跡は、まるで見当たらなかった。ただ一番奥の壁際に、濃い染みがついているのだけが目に付いた。
誰かが、あそこに、座っていたのだ。何年や何十年どころではない。何百年か、あるいはもっと…ただあそこに座り続け、そして死を迎えたのだ。
訪れる者などいるはずもない山奥で、なお何者も近づけないように結界を張って、完全に孤独を貫いて、何一つ成すこともなく、死んだのだ。
自分の全てを虚無に捧げ、喜びも悲しみすらも無い、ただ無意味な生を完遂したのだ。何もかもに背を向けて、己の命を無価値な存在へと貶しめたのだ。
「…………っ!?」
そう理解した瞬間、私は転げるような勢いで、岩屋を飛び出していた。
悲鳴を上げずにいられたのは偶然だった。後にも先にも、あれほどの恐怖を感じたことはない。
想像してしまったのだ。そうやって、この岩屋でたった一人で死んでいったのが、私が愛した風祝だったなら…と。
こんなにも遠大かつ、あまりに救いの無い死に方が、この世にあるのか。そんなものを選ばなければならないほどの何かが、ここにいた誰かの身に起きたというのか。
唐突に悟った。ここにいたのが何者で、諏訪子が追っていたのが誰なのかを。
諏訪子とあの男との間に生まれた別の子供だ。姉に当たるだろう私の風祝と、力の質がよく似ている…懐かしく感じたのはそのせいだ。
心の底から死を望み、しかし神の血を受け継ぐその身は容易なことでは傷さえつかず、だから時の流れが己を滅ぼしてくれるのを、ただひたすらに待ったのだ。
しかし、なぜ、そんなことを? 何より、遺骸はどこにいった?
誰かが私より先にここに来て、それを運んだ――
「……諏訪子……」
事ここに至って。
「諏訪子!」
私は、自分が何かとんでもない過ちを犯していたことに、ようやく気が付いた。
焦燥と衝動に突き動かされて、私は諏訪子の国へと向かった。
諏訪子に会わなければならない。会ってどうするかは分からなかったが、とにかく会わなければならない。
やがて社に辿りつき、その勢いのままに戸を開けると、そこに見知った小柄な女の姿があった。朽ちたカカシのように、転がっていた。
その顔に表情は無く、四肢に力は無く、瞳には意志が無かった。だらしなく開いた小さな唇からは、言葉にもならない微かな声が時折漏れていた。
間違いない。見たのだ。あの岩屋で、この上なく無情な死を迎えた自分の子を、この女は。
「す、諏訪子…」
おずおずと呼びかけると、ひどく緩慢に体を起こして…諏訪子は私に顔を向けた。私はただ、固唾を飲んでアイツの挙動を見守っていた。
罵られるのだろうか。殴られるかもしれない。様々な思いが頭の中を駆け巡り、しかしそれを甘んじて受けようと覚悟を決めた。
だが諏訪子の口から出てきたのは、罵声や怒りの叫びなどではなかった。立ち尽くす私の前で、アイツは嗚咽を始めた。
小さな肩を震わせ、ボロボロと涙を流し、大声で泣きじゃくった。どんな言葉や刃よりも強く、深く、それは私の心を抉った。
そこにいたのは、私が忌み嫌った女でも、謀略をもって大和の神々に挑んだ祟り神でもなかった。
ただ夫を失い、娘を奪われ、息子には自ら死を望むような生を歩ませた…愚かで哀れな母親だった。
「…………」
何を言えばいいのか分からなかった。どうすればいいのかも思いつかなかった。
それ以上一言も発することなく…やがて、私は社を後にした。
もはや悲鳴にしか聞こえない諏訪子の慟哭が、いつまでも背中に突き刺さった。
4
天狗たちとの会合から帰ると、守矢神社には誰もいなかった。戸締まりのつもりか、社全体に結界が施されている。
もしかしなくても諏訪子だろう。してみると、今日は遅くなるのかもしれない。結界を解除して境内に踏み入り…そこで振り返る。
一緒に会合に参加した早苗が、鳥居の前で足を止めて、思い詰めた表情で私を見詰めていた。
「どうかしたのかい?」
「…神奈子様。私は、そんなに、信用なりませんか?」
「何を言って…」
「とぼけないでください! 神奈子様と諏訪子様が、お二人で何かやっていることくらい分かります!」
「…………」
「どうして私には教えてくれないんですか!? 私はそんなに頼りないですか? 未熟であることは分かっています、でも、それでも…!」
訴える言葉は、次第に涙声になっていく。苦い思いを噛みしめながら、私は力無く項垂れた。
「ごめんよ。別にお前を蔑ろにしたり、仲間外れにしていたわけじゃない。この件だけは私たちで蹴りをつけなきゃならないんだ」
「なら、理由を! せめて理由を教えてください!」
「…それはできない。たとえお前の頼みでも」
早苗が息を飲む気配がして…不意に大人しくなる。見れば瞳に涙を浮かべたまま、私の顔を呆然と眺めていた。
「私からは何も言えない。言うわけにはいかない。今ここで私が話してしまえば、諏訪子を裏切ることになる」
「……神奈子様……」
「だから、頼む。私を不審に思うのはいい。だが…」
「…っ!? 神奈子様、何を…やめて、やめてください!」
頭を下げようとして、駆け寄って来た早苗に肩をつかまれて止められる。ややあって、彼女は神妙な顔で尋ねてきた。
「…神奈子様は、諏訪子様を助けようとなさっているのですね?」
「ああ」
「それは、お二人にとって、とても大切なことなのですね?」
「そうだ」
「私はどうすれば良いのでしょうか」
「諏訪子を信じてやってくれ。普段通りに接してくれれば、それでいい」
「…分かりました、そのようにします」
決意を秘めた表情で、早苗は力強く頷いてくれた。
○ ○ ○
それから、長い時が流れた。
大和へと戻った私は、大和の神として、ただ淡々と役目を果たしていた。
諏訪子のことは忘れようとした。努めて考えないようにした。なのに、あの時背に突き刺さったアイツの泣き声が、その痛みが、いつまでも消えてくれなかった。
当たり前だ。こうしている今も私を支えてくれている風祝の子孫は、紛れもなくあの女の血を引いているのだから。
その痛みを無視し続けることもできず、いつしか私は思案に暮れるようになった。自分が何をしたのかを、もう一度見詰め直すことにした。
「…そうか」
要するに、私は逃げたのだ。
経緯はどうあれ、私はアイツから娘を奪ったのだ。あの女の生を狂わせた事実を眼前にしながら、詫びの一言も言わずにずっと顔を背けていたのだ。
敵だったのだ、勝者と敗者なのだ、私は当然の権利を行使しただけだ…そう言ってしまえばその通りだが、しかしそれだけはできなかった。
そう言ってしまったら、その理屈を持ち出してしまったら、私を母と慕ってくれた風祝との思い出までも否定してしまうような気がして。
「よし」
我ながら呆れ果てるほどの時間をかけて、私はようやくそんな結論に至った。となれば次に為すことは決まっている。
諏訪子に会わなければならない。許されないとしても、謝らなければならない。
今度こそ、明確な目的とその理由を胸に、私はアイツの国へと向かった。
幾星霜の時を経てかの地を再訪した私を出迎えたのは、荒れ果てた守矢神社だった。
砕けた石段。崩れた鳥居。人気の無い境内。倒壊した拝殿。これがあの、祟り神として絶大な信仰を集めた諏訪子の社かと目を疑った。
いったい何があったのか。慌ててアイツの姿を探し…程なくして、神社の近くで人間の子供に混じって遊んでいるのを発見した。
「あれ、神奈子じゃん。どしたの急に」
きょとんとした顔で、逆に尋ねられた。ただただ、不思議そうだった。同じ神とは容易には信じられないほど、その力は衰えていた。
「…何をやっている」
「何って、この子たちと遊んでるだけだけど。アンタこそこんなところで何やってるの。あ、もしかして決着つけに来たとか? いいよ、相手になるよ~」
拳を固めて、殴るまねをしながら、諏訪子は笑った。私への怒りも、悲しみも、そこには感じられなかった。
それが、どうしようもなく、不快だった。
「いいから来い!」
「え~、なんだよぉ…相変わらず強引だなぁ」
諏訪子を社へと連れ戻し、説明させようとした。焦燥に似た何かに突き動かされ、そうせずにはいられなかった。
「なんなんだ、この有様はっ! お前がいながら、何故こうも社が荒れているんだ!? これでは集まる信仰も集まらないだろう!?」
「ああ、何かと思ったらそんなことか」
「そ、そんなことだと…!?」
「まぁ、なんというか、ぶっちゃけどうでも良くなっちゃったんだよね。祟りとか、信仰とか、いろいろとさ」
それから諏訪子は、恐ろしいことを口にした。
神としての在り方を変えたのだと。信仰を集めて君臨するのはやめたのだと。誰かや何かを祟ることも、もう長いことやっていないのだと。
「この国を見てよ、神奈子。私はほとんど何もしていない。人間にほんの少し知恵と技を授けてやっただけ。
ただそれだけで妖怪を追い払い、天の猛威にさえ抗って、自分たちだけで国をここまで大きく豊かにしてしまった」
そういう諏訪子の瞳は輝いていた。まるで我が子を誇るように、嬉しそうだった。
「いつか、人は神の加護無しに己の命運を切り開く力を手に入れるだろう。この国はその先駆けになるんだ!」
どこまでも清々しく、透明で、喜びに満ちたその笑顔が。
「…………ふざけるな」
「へ?」
私には、この上無くおぞましいものに見えた。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなあああああっ!!」
「ちょっ…何怒ってるんだよ?」
唖然とする諏訪子を置き去りにして、私は彼女の神社を復活させるべく奔走した。当初の目的だった謝ることさえ後回しにして、全力をそれに傾けた。
奇跡を示して人を呼び集め、社を修復させた。大和から風祝の一族を連れてきて、処務に当たらせた。祭神としてふさわしい仕事を、諏訪子の代わりに勤めていった。
そんな私を、アイツは呆れた顔で眺めていた。しかしそれで何か言ってくるでもなく、ただ無邪気に遊び呆けていた。
気がつけば、私と諏訪子は一つの神社を二柱で動かす『共同経営者』になっていた。
5
天狗たちが妙に騒がしかった日の夜(どこぞの吸血鬼に慶事があったらしい)、諏訪子は帰ってこなかった。
早苗に先に休むよう告げて、私は鳥居の前に立った。今もアイツがいるのだろう魔法の森を見詰めて、ただそこに立ち尽くしていた。
これでも長い付き合いなのだ。あの女が何を考えているのかくらい、大体分かる。
(…勝負に出る気なんだろう? 今がその時だと、覚悟を決めたんだろう?)
私は信じる。いつか、諏訪子が絶望に打ち勝つことを。
○ ○ ○
信仰を蘇らせること自体は難しくなかった。問題は、それをいかにして諏訪子へと向けさせるかだ。
私が何を言っても、アイツは手伝おうとしなかった。神としての仕事を完全に放棄し、ただ毎日ふらふらと出掛けては童のように遊んでいた。
祟り神が祟ることをやめれば、あの陰湿さが鳴りを潜めてしまえば、残るのは本来それを際立たせるための側面だった稚気だけということなのだろう。
このままでは諏訪子は完全に忘れ去られてしまう…悩んだ末に、諏訪子の存在を物語る内容の神事をいくつか考案し、それを執り行わせることにした。
発奮材料になればと、かつての私たちの戦いを連想させるような、ある意味で挑発的な祭事も行わせてはみたが…結局アイツがそれらに興味を示すことは無かった。
私なりにいろいろ考え、工夫を凝らし、神社を盛り立てていった。何も言わない諏訪子に歯痒さを感じながら、それでも為すべきと信じる務めを黙々と果たし続けた。
こうして、かつてのそれとはだいぶ形を異にしながらも、守矢神社は再生していった。
祭の成功を見届けて社に戻る。縁側では、諏訪子が一足先に杯を傾けていた。
「お疲れさん。先にやらせてもらってるよ」
「残しといてくれればそれでいいさ。まぁ、後は人間たちに任せておいても大丈夫だろうし…私もいただくとしようか」
隣に座りこむ。杯を手にすると、慰労のつもりか諏訪子がそこに酒を注いできた。
「悪いね」
「何言ってんの、働き者には御褒美をあげないとね。今年のお酒はよくできてるよ」
私がこの神社に居座るようになって、ずいぶん経った。過去の経緯を知らない者の目には友人に見えるほどに、私と彼女は親しくなっていた。
信仰集めも順調で、全盛期の頃と比べればまだ劣るとはいえ、諏訪子の力もかなり回復していた。
あれから大和には一度も帰っていない。私にとっても、ここはもう人間の言うところの故郷に等しい場所になっていた。
それでも、私は諏訪子との間にどうしようもない距離を感じていた。それは恐らく彼女も同じはずだ。
理由は分かっている。とても簡単なことだ。
私はまだ、諏訪子に謝っていない。
「…………」
鳥たちが歌う。陽光が木々を照らし、美しく緑が映える。どこからか花の香りが漂い、祭囃子が遠く響く。
「諏訪子…」
今こそ言えると思った。言わなければならないと思った。
「言うな」
短く、鋭く。口を開きかけた私を、諏訪子が制した。
「…だが!」
「謝るな」
より明確に。より峻烈に。謝罪の言葉は摘み取られた。二の句が継げないでいる私の横で、アイツは力無く笑った。
「私だって馬鹿じゃない。お前がなんのためにここに来たかくらい、分かってるさ」
「…なら、どうして」
「謝らせてくれないのか、って? …神奈子、アンタは一つ勘違いしてる。私は、私たちは、決して不幸な家族なんかじゃなかった。ちゃんと幸せだったんだ」
遠い目をして、諏訪子は言った。私は、それをただ黙って聞くことしかできなかった。
「…良い奴だったよ、アレは。敵だったはずなのに、気がつけばこの地の全てを己のものにしていた。誰一人傷つけることなく、皆にそれを望まれながらね。
お前が娘を連れてこいと言った時も、嫌だという私にとことんまで付き合ってくれた。一言の愚痴も漏らさず、英雄と呼ばれた誇りを泥に塗れさせてまで。
心の底からこの国を、私のことを愛してくれた。息子だってそうだ。私は家族を愛し、家族も私を愛してくれた。これは嘘でも虚勢でもない。
私たちは幸せだった。だから謝らなくていい。私たちが、ただ不幸なだけの家族だったみたいな言い方は、二度とするな。
頼むから…しないでくれ」
そういう諏訪子の背中は、ひどく小さく見えた。このまま消えてしまうのではないかと不安になるほどに。
「…私が憎くないのか」
「そりゃ、憎いさ。理屈で考えれば、憎くないはずがない。
でも、憎もうって気持ちが湧いてこないんだ。こうしてお前の顔を見ても、なんの感慨も浮かんでこない。
それに、お前は娘を幸せにしてくれた。少なくともそのことについては感謝してるんだ…私にはできなかったから。
だから、もういい。おあいこってことにしよう」
縁側からふらりと腰を上げて、諏訪子は境内に出た。どことなく蛙に似た奇妙な岩の前で立ち止まり、手にしていた杯を傾け、酒を浴びせた。
かつて私がこの社で王として過ごしていた時には、あんな岩は無かった。ここが見る影も無く荒れ果てていた時でさえ、あの岩の周りだけは綺麗に手入れされていた。
「…その下か?」
尋ねると、諏訪子は私に背を向けたまま小さく頷いた。
「あの男がこの地に来たばかりの頃、贈り物だと言って持ってきた。山奥で見つけたんだそうだ。
バカみたい。こんなもので女の、しかも神の気を引こうとしたんだから。怒るより前に呆れてしまった」
「そうだったのか。よく眺めていたから、蛙が好きなのかと思っていた」
「…もしかして私を蛙に見立てた神事を始めたのはそれが理由? アンタも相当に単純だね。
でも、楽しかった。アイツがいて、あの子がいて、私がいて…いつだって、笑顔がそこにあって。
今日のことを、明日のことを、たくさんたくさん話し合った。幸せだったよ。本当に、本当に幸せだった」
「…………」
「…娘をお前に奪われた分、私は息子を大事に育てた。甘やかしたわけじゃない。教えるべきことは教えたし、叱る時はちゃんと叱った。
でもそれ以外は、なるべくあの子の意に沿うようにしてやった。けど、きっと、それが良くなかったんだ。
人と神の…まぁ、妖怪でもなんでもいいけど…混血っていうのはね、どうしようもないくらい孤独なんだ。
人間より遥かに長寿だけど、異種の親よりは早く死ぬ。どちらの時間でも生きられないから、どちらの世界にも属せない。
だから何かが絶対に必要なんだよ。生きる時間が違っても生涯を懸けて愛せる誰かか、一生を捧げるに相応しい役目か、そんな何かが。
恥ずかしながら、母親になっておきながら、こんな当たり前のことに気づいたのは何もかも手遅れになった後だった」
感情を含まない声で、諏訪子は言った。だがそれは、まるで彼女自身を切り刻む言葉のように、私には聞こえた。
「お前がしたように、むりやりにでも結婚させて、何か重たい役目でも押し付けてやれば良かった。
それに従ってくれてもいいし、反発してくれたって構わない。そんなものでも、生きる指針さえ見つけてくれれば、少なくともあんな死に方はしないで済んだんだ。
私は愚かな母親だった。お前のようにはなれなかった。要するに、それだけの話だ。
…だから、もういい。もういいんだ」
告げる言葉も無く、私はただアイツの背中を見詰め続けていた。たった数歩のその距離が、果てしなく遠く感じられた。
謝りたいのに、謝らなければならないのに、なのに「謝るな」と言われてしまったら…いったいどうすればいいんだ。
そしてまた、時は流れた。
人間は過ちを重ね、苦難を乗り越え、時に手と手を取り合い、それを繰り返し…やがて諏訪子が予言した通り、神の加護無しに己の命運を切り開く力を手に入れつつあった。
だが同時にそれは、人間が神を必要としなくなったということでもあった。すさまじい速度で信仰は失われていき、かつての知己は次々と消え…私たちの力も衰えていった。
「…このままでは、私たちは消えてしまう」
愕然として呟く私に、諏訪子はあっけらかんとした口調で答えた。
「別にいいじゃない。それが時勢というものさ。私たちがお役御免だというなら、素直に消えていけばいい」
あらゆる情念を捨て去ったような、清らかで穏やかで…そしてどこまでも空虚な物言いだった。
それを聞いて、ついに私は自分を欺けなくなった。守矢神社を再訪した時以来、ずっと感じていた疑念が事実なのだと認めるしかなくなった。
諏訪子は、もう…滅びたいんじゃないのか? 信仰集めをやめたのも、神としての仕事を放棄したのも、少しでも早くその時が来ることを望んでいるからじゃないのか?
恐ろしいことを私は知った。絶望とは、本物の絶望とは、神ですら滅ぼすのだ。
そしてその前には、神でさえもが、かくも無力なのだ…!
私がやってきたことは無駄だったのか。諏訪子がそれを望んでいるのなら、黙って滅びさせてやるのがアイツのためなんじゃないのか。
それでも諦めるわけにはいかなかった。ここで諦めたら、私たちは本当に消滅する…今なお大和の神でもある私より、守矢の神でしかない諏訪子の方が先に、確実に。
一筋の光明も見えないまま、私は足掻き続けた。
6
「ただいまーっ! 神奈子、お土産にカニ買ってきたよー♪」
「わ~いカニなんて久し振り~♪ パクパクモグモグ…ってカニカマじゃないかああっ!?」
「ぐふふふふ引っ掛かったなババァ! いつぞや紛い物を押し付けた仕返しだあッ!!」
「なんだと蛙女! よろしくやってたくせに! もはや問答無用ッ!!」
「おもしろい、受けて立つ! 今の私をあの時と同じと思うな!」
帰って来た諏訪子は浮かれていた。分かりやすく上機嫌だった。
「エクスパンデッド・オンバシラァァァ!!!」
「だいだらぼっちの参拝ッ! マグマの両生類ッ!!」
「いやあああああ!? 神社が、神社があああああああっ!!」
きっと、何か良いことがあったのだ!
○ ○ ○
「ほう。お前、私が見えるのか」
早苗に出会ったのはそんな時だった。
驚いた。早苗は初代の風祝に、私が諏訪子から奪ったあの娘に生き写しだったのだ。
声も。顔立ちも。素直な性格も。諏訪子のそれと、異名の由来にもなったあの男のそれとが合わさったような、独特の色合いの髪も…何もかも。
…まぁ初代の風祝と比べると、少しばかり思い込みの激しいところはあったが。それと栄養状態が良いせいか、体の発育もかなり良かった。
私は狂喜した。この娘ならきっと諏訪子を救ってくれると信じた。滅びを望む母を救うために、初代の風祝が蘇ってきてくれたのではないか…と、馬鹿なことさえ考えた。
喜び勇んで、私は二人を引き合わせた。目を丸くして早苗を見て、しかし諏訪子は気の無い挨拶だけして奥に引っ込んでしまった。
困惑した。落胆した。もっと違う反応を期待していたのに。
だが、それから私たちの生活は少し変わった。先祖帰りということか、早苗は人間離れした力の持ち主だった。潜在的には初代の風祝さえ超えているかもしれない。
それでいて、彼女は力の使い方をまるで心得ていなかった。このままでは暴走するか、己の力に飲み込まれるか…いずれにしろ、ろくなことにはなるまい。
だから私たちは、早苗に力の使い方を教えることにした。私は力の引き出し方を、諏訪子はそれを制御する術を。
「…なんだって私がこんなことしなきゃなんないのよ。お前が連れてきた娘でしょ?」
「何を言ってる、お前の子孫じゃないか。それに私は力技は得意だが、チマチマと細かい仕事は苦手なんだ。そういうのはお前の領分だろう? 適材適所だよ」
「それはそうかもしれないけど…」
「うだうだ言ってないで、少しは働け。私は神事で忙しいんだ」
「…あーうー」
ブツブツ文句を言いながらも、諏訪子は早苗の訓練を手掛けるようになった。私たちの教えと、本人の資質が合わさって、彼女は見る間にその才を開花させていった。
そんな早苗の異常に気が付くのは、いつも諏訪子が先だった。疲れているみたいだから休ませた方がいいとか、悩み事があるみたいだからそれとなく聞いてやれとか。
「やっぱり本物の母親には勝てないな」
嬉しくて、少しだけ悔しくて、私がからかうように言うと。
「…私はあの娘の母親じゃない」
悲しさと惨めさに顔を歪め、毒を噛み締めるように、諏訪子はそう答えた。
それから諏訪子の早苗への接し方は変わった。口調や態度はほとんど変わらないのに、明らかに線を引くようになった。
死んだ娘への義理なのか。彼女の影を、早苗の中に求めてしまうことへの自己嫌悪なのか。あるいは、それ故に早苗を早苗として見てやれない罪悪感からなのか。
それはまるで、自分が早苗と親しくするのは悪いことなのだと、無言で主張しているかのようだった。
もう、無理なのか。早苗でもダメなのか。諏訪子を救うことなどできないのか。アイツから娘を奪い、全てを狂わせた私には、最初からその資格さえ無かったというのか。
絶望が、私の心をも蝕み始めていた。
その頃、私は神事の参考にしようとあちこちの祭を見物するようになっていた。
いくつかの祭が立て続けに行われるので、しばらく留守にする旨を告げて、日本各地を西から東に飛び回り…その途中で、私は一度守矢神社に戻ってみることにした。
たまたま近くを通っただけで、予定に無い行動だった。そんなことをした理由も特には無いが…強いて言うなら、早苗の顔でも見たかったのかもしれない。
鳥居の前に降り立ち、そこで私は足を止めた。境内を掃き清める早苗と、縁側に座ってそれをぼんやりと眺める諏訪子の姿が見えた。
二人からは死角になっていて、こちらには気づいていない。帰来の旨を告げようとして…その時だった。
「あ、あの…早苗」
不意に、諏訪子が早苗に話しかけていた。
「はい? どうかしましたか、諏訪子様」
素直に応じて、早苗が諏訪子に近寄っていく。声を出す機を逸し、なんとなく成り行きを見守っていた私は、そこで慌てて鳥居の影に隠れた。
理由は分からないが、そうすべきだと感じた。絶対に邪魔をしてはならないと思った。
「あの…その…ちょっと、お願いがあるんだけど…」
「お願い、ですか? …なんでしょうか?」
帽子を目深に被って顔を隠し、相手に目も合わせられないような様子で、諏訪子はたどたどしく願いを口にした。
「あ、頭を…撫でても…いい?」
一瞬きょとんとして…しかしすぐに早苗は笑顔になった。
「はい、どうぞ。私なんかの頭で良ければ」
諏訪子の手が届きやすいように腰を曲げて、早苗が頭を差し出す。まるで触れてはいけないものに触れるように、諏訪子はゆっくりとそこに手を伸ばしていった。
ややあって、早苗の髪に、諏訪子の指が触れる。二度、三度とそれを梳く。頭全体を、慈しむように、何度も何度も撫で返す。
「…ふふっ」
黙って撫でられるままだった早苗が、不意に笑みを零した。
「なんだか、今日の諏訪子様はお母さんみたいです」
その言葉を聞いた瞬間。
「…っ」
諏訪子は、早苗を自分の胸に抱き寄せていた。
強引に。力強く。決して離すまいと、必死に両腕を絡みつかせて。
「諏訪子様…?」
「う、うん…」
いきなり抱き付かれて、早苗は驚いていた。しかしそれ以上に、自分の取った行動に、諏訪子自身が信じられないでいるらしかった。
「あの…」
「……うん……」
しばしの沈黙があって…戯れだと判断したのか、それとも無意識に何かを感じ取ったのか、早苗が体の力を抜いて、親に子が甘えるように、諏訪子の胸に顔を埋めた。
「ただいま、お母さん」
とても言葉では言い表せないような、混沌とした何かを顔に浮かべて。
「…お帰り、なさい」
そう言って、諏訪子は早苗を抱き締めていた。
「…なんだ…」
なんだよ。
おい、諏訪子――
「…お前、そんな風に笑うことだってできるんじゃないか」
気がつけば私の頬を、熱い雫が流れ落ちていた。
私の腹は決まった。
私も諏訪子も、ここで消えるわけにはいかない。ここで消えていいわけがない。
幻想郷に行こう。あそこなら、私たちが在り続けることもできるはずだ。
早苗も一緒だ。諏訪子のためでもあるし、私が離れたくないというのもある。だが早苗自身のためにもそうすべきだ。
あの娘の力は強過ぎる。いくらその使い方を教えたとしても、いずれは人間の世界での居場所を失う。ならば、私たちで面倒を見るべきだ。
そうとも。ここまで来たら認めよう。いいかげん、その事実を受け入れよう。
私に諏訪子は救えない。
そんなことができる者がいるとすれば、それはこの世でただ一人…他ならぬ諏訪子自身だけだ。
だがそれを側で支え続けてやることなら、私にだってできるはずだ!
諏訪子に無断で、私は守矢神社を幻想郷へと転移させた。
さぁ、ここからは大忙しだ。早苗にはナントカとかいう神社への交渉を頼み、私は山の天狗たちに会いに行くことにした。
出掛ける前に気になって、神社で寝てると宣言した諏訪子の様子を見にいってみた。
縁側に腰掛けて、あの奇岩を眺めていた。きっと独りになるや否や、一番最初にあの岩がちゃんとあるかどうかを確認していたのだ。
「…わざわざあんなものまで持ってこなくてよかったのに」
私がいることに気付いて、諏訪子がぶすっと呟いた。
「大切なものなんだろう?」
そう言い返す。否定も肯定もせず、彼女はただ奇岩を見詰めていた。
○ ○ ○
「大噴火ケロちゃんアッパァァァァァァァァァッッ!!!!!」
「スペース・オンバシラ・落としぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ!!!!!」
地球環境を一変させるほどの破壊力を秘めた諏訪子の拳骨と、大陸の一部を消滅させるほどの威力を宿した私の鉄拳が交錯する。
一瞬の後、私の一撃は彼女の顔面を捉え、彼女のそれもまた私の胴を打ち抜いていた。
「「ぐはああっ!?」」
すさまじい衝撃が五体を貫き、気がつけば成層圏の辺りまで吹き飛ばされていた。そのまま垂直に落下して、受け身も取れずに地面に激突する。
その途中で確認したところ、アイツもアイツで私の一撃で地面に叩きつけられ、自分の体で作ったクレーターの中心で引っ繰り返っているようだった。
手足が動かない。体に力が入らない。ダメージは深刻だった…戦闘不能だ。まぁ、それは向こうも同じだろうが。
「ふ、ふん。どうだ、参ったか。お前なんか、やろうと思えばいつだってやっつけられたんだ」
「…そっちだって起き上がれもしないくせに、よく言うよ」
息を吸って、吐いて、しばらくお互いに回復に努める。背中を大地に預けたまま、幻想郷の星空を眺めていた。
「…ねぇ、知ってる? 死んだ人間の魂は、空に昇って星になるそうだよ」
不意に、諏訪子がそんなことを言った。
「なんだそりゃ、聞いたことないぞ。どこの神話だ」
「早苗の持ってるマンガ。死んだ人間は星になって、生きている人間をいつまでも空から見守ってるんだってさ」
「それじゃ空はあっという間に星で埋め尽くされてしまうじゃないか。そんなものはただの作り話だ」
「そうだね。私もそう思う。でも、もし…もし、本当にその話の通りだったら…今の私を見て、あの子たちはなんて言うだろう」
「…………」
「何を今さらと蔑むだろうか。裏切り者と罵るだろうか。赤の他人を自分たちの代わりにしただけだと嘲るだろうか。
私のしたことは、なんだったんだろう。自分の過ちを偉そうに語って、誰かを救った気持ちになりたかっただけなのかな。
それで、そんなことで、許されたいなんて思っていたんだろうか。
そんな自己満足のために、私は、私は自分の子を話の道具にして――」
「諏訪子」
強引に言葉を遮る。
「…お前が今感じている痛みは、お前だけのものだ。私はそれを癒してやれない。一緒に背負ってやることもできない」
拳を握り締める。言葉に意志を込める。
「だが、これだけは言っておく。今のお前を笑う者がいたら、私がソイツを殴る。それがどこの誰だろうと、ソイツが泣いて謝るまで絶対に許さない。
どうしてとか、なんのためだとか、そんなことはどうでもいい。私がそうしたいから、そうするべきだと心の底から思うから、そうする」
肯定する。確信する。断言する。
「お前のやったことは、無意味じゃない」
この地に来て良かったと思えることの一つが、かつてこの国のどこにでもあった美しい夜空を、もう一度見られたことだった。
満天の星を初めて見た早苗は大はしゃぎだった。つい最近のことなのに、なんだかずいぶん昔のことのような気がする。
こうして私が眺めている星空を、諏訪子も今、同じように見上げているのだろう。
「やい、大和の神。私はお前が嫌いだ」
出し抜けに、諏訪子はそう言い出した。
「お前のせいで人間なんかと結婚する羽目になったし、お前がしつこく呼び出して勘気を当てるせいで、夫は体を壊してしまった。
娘は私の、母親の顔も憶えちゃいなかった。息子だってな、お前が私から娘を奪ったりしなけりゃ、きっとあんな風には育てなかったんだ」
「そうか」
「あのまま静かに消えるつもりだったのに、勝手に私の神社を乗っ取りやがって。
大体なんだよ、あの神事は。私を馬鹿にするのもいいかげんにしろ」
「何言ってるんだ、サボリ魔のくせに」
「うるさい。お前のせいで、私のライフスタイルはメチャメチャだ。何もかも全部お前のせいだ。
お前なんか嫌いだ。大っ嫌いだ。
だから、だからな。一度しか言わない。耳の穴かっぽじって、しっかり拝聴しろ!」
―― あ り が と う
「神奈子様ーっ、諏訪子様ーっ!」
聞き慣れた声に名を呼ばれる。痛む体をなんとか起こして顔を向けると、早苗がこちらに飛んでくるところだった。
「もう、いったいなんなんですか二人で大暴れして…この世の終わりかと思いました」
「…終わった」
「え?」
「終わったんだ」
形を変え、立場を変えて、ずっと昔から続いてきた、私たちの諏訪大戦が――今、ようやく。
分かったような分からないような顔をして、早苗が引っ繰り返ったままの諏訪子に駆け寄っていく。その顔を覗き込んだ彼女が、驚いた声をあげた。
「す、諏訪子様!? どうしたんですか、もしかしてどこかにお怪我を…」
「…平気。大丈夫」
「でも、泣いていらっしゃるじゃないですか」
「うるさい! 泣いてないやいっ!」
ようやく起き上がった諏訪子が、顔を袖でぐしぐしと拭う。
風が吹き抜ける。どうしようもないほどの達成感を胸に、私は静かに微笑んだ。
この日、私は真実の『友』を得た。
終
諏訪子の在り方がもう本当に弱くて強くて、切なすぎる。
諏訪子が早苗を抱き締めるシーンでは神奈子じゃないけど目頭が熱くなりました。
長きに渡って繰り広げられた諏訪大戦の戦後にどうか幸あれ。素晴らしいお話でした。
しかし前作の後書き、あれは伏線だったのか……
香霖絡みの話がもうちょい見たかったかも
いい作品です
神奈子、諏訪子の心情や葛藤、神であるがゆえに人間の幸せとはどういうものなのか、
母としての生き方に思い悩む2人の姿、神ゆえの孤独さと次代への希望など。
本当にうまく表現されていて心に残る作品でした。