肺が、無色透明な水に満たされていく。
圧迫されて押し出される空気が、ゴボゴボと泡になって昇っていった。
視界の先には、光を乱反射する水面がゆらゆらと揺らめいている。
あぁ―――と、声にならない言葉が鼓膜を鳴らした。
こんなにも苦しいのに、こんなにも辛いのに、沈んでいく私はその光景に見惚れている。
未練はある。
後悔だってある。
遣り残したことなんて、両手で数えたって足りないくらい。
けれど、私はここで終わる。
この美しくも恐ろしい世界で、私の生涯は終わりを告げるんだと、漠然と理解した。
やがて、水の中に光が届かなくなる。
先ほどまでの美しさは欠片もなく、あるのは漆黒の深い闇。
光の届かない、誰の声も届かない、人が生きることのできない暗く深い闇の世界へ。
そうして、私の意識は仄暗い水の底へ墜落していった。
▼▲―――――――――――――▲▼
仄暗い湖の底から『声』を届けて
▲▼―――――――――――――▼▲
―――奇妙な夢を見た。
それは私の人間としての最後と似ているようで、けれどまったく違う誰かの最後。
水がまるで無数の腕のように、暗く恐ろしい海の底へ引きずり込むあの感覚は、忘れようと思っても忘れられるはずもない。
体感したはずの最後ではないというのに、まるで我が身に起きたのではないかという矛盾した感覚。
まどろみの中で感じる違和感。まるで、違う誰かの最後を追体験するような、そんな奇妙な夢。
そんな恐ろしい体験を悪夢だと感じないのは、私が舟幽霊だからか。
ぬるりと粘りつく、振り払えぬ違和感を抱いたまま、私―――村紗水蜜は緩やかなまどろみから覚醒した。
▼
眠気ゆえに重い瞼を、ゆっくりと開ける。
覚醒した意識はまだ睡眠を欲しているようで、どうにも頭の回転が緩く布団の温かさを恋しがっていた。
けれども、命蓮寺はそろそろ起床の時間帯。あの真面目な星やナズーリンはとっくに起きてることだろう。
だから私も起きないといけないんだけれど、布団が甘い誘惑で眠りに誘おうと私を絡めとっている。
起きなきゃいけない。
けれども眠っていたい。
そんな二律相反が私を苦しめ、布団の中でゴロゴロと理性と本能がぶつかり合う中、なにやら上のほうで「はぁ」と、これ見よがしなため息が聞こえてきた。
ギクリと、布団から顔を出して声のほうに視線を向ける。
そこには、非常に冷め切った目をこちらに向けてくる我等が賢将、ナズーリンが割烹着にお玉を持って枕元に立っていた。
「や、やぁナズーリンおはよう」
「あぁ、おはよう船長。さて、もう朝食の時間は過ぎているわけだが、君はいつまで眠っているつもりかな?
食いしん坊なご主人が子供のように駄々をこねるから、朝食の時間には起きろと散々言ったはずだが……どうやら船長は痴呆の気があるらしい」
なるべくフランクに挨拶して場を和ませようとしたが、どうやら失敗したっぽい。
キリキリと眉尻を跳ね上げるナズーリンに、私は渇いた笑いを上げて誤魔化すしかないわけで。
すると、彼女は満面の笑みを浮かべて私を見下ろした。
そりゃもう、鬼だって泣いて逃げるんじゃないかって位に凄惨な笑みを私に向けたまま。
「へらへら笑ってないで、とっとと起床したまえ船長ッ!!」
「イエスマムッ!!?」
ビリビリとよく通る声で私の起床を促したナズーリンの言葉に、私は大慌てで跳ね起きた。
私たちの中では一番弱いナズーリンだけれど、聖と一緒に家事やらなにやら一手に引き受ける彼女には頭が上がらないわけで。
そして何より、彼女の言うとおりハラペコの星ほど手のつけられないものもない。
聖がいるからまだ大丈夫だろうけれど、暴れだしたら手がつけられない猛獣と化すのである。
あれで人を食べたことがないというのだから驚きだ。……いや、人間を食べる星っていうのも想像できないんだけどさ。
「さっさと着替えて居間に急いでくれよ! 一輪と雲山がご主人を抑えておくのもそろそろ限界だ!」
「もう暴れはじめてんの!?」
「だから急げといっている!!」
声を荒げながら部屋を後にするナズーリンの言葉を聞いて、私は大慌てで普段着に着替え始めた。
普段は大人しくて人が良い奴だっていうのに、どうしてこうハラペコになるとあんなに大暴れしやがるのか、あのうっかり星ちゃんは!!
身だしなみを整える暇もなく、勢いのままに袖に手を通した私はすぐさま部屋から飛び出した。
命蓮寺の端の方、居間に続く渡り廊下を全力疾走しながら手遅れにならないようにと祈るしかない。
ドタドタと慌しい足音を踏み鳴らしながら、文字通り居間へ駆け込んだ私が見たものは、雲山に羽交い絞めにされてる星の姿だった。
ジタバタ暴れる星だけど力で雲山に敵う筈もなく、何とか彼女を諌めてる一輪と、興味無さそうなぬえ、そしてあらあらまあまあと微笑ましそうに星を見つめてる聖。
うん、予想以上に凄まじいに光景なりつつある。
「もう駄目、もう我慢できません!! 私のお腹がギュルギュルと危険信号鳴らしてるんです!!」
「だーから、落ち着きなさいってば星! ほら、船長が来たから朝ごはん食べれるわよ」
ため息交じりの一輪の言葉に、星は「本当ですか!?」ときらきらと目を輝かせてようやく大人しくなった。
一輪と雲山が重々しいため息をこぼした事など気にした風もなく、ハラペコタイガーは鼻歌交じりにスキップして席に着くのである。
そしてタイミングよく、奥のほうから料理を持って現れる我等がナズーリン。そのほかほかと湯気を漂わせる料理の数々がなんとも美味しそう。
「はぁ……やっと大人しくなったか。一輪、すまないが残りの料理を雲山と一緒に持ってきてくれないか?」
「えぇ、わかったわ。また子供みたいに駄々こねられたら堪らないもの」
二人が言葉をこぼしながら、ジトリと星を睨みつけた。
意外なことに申し訳ない気持ちはちゃんとあるようで、二人の視線に気がついたトラはしゅんと項垂れて「すみません」と謝罪の言葉などをひとつ。
そんな彼女の言葉に、ナズーリンは疲れたようにため息をついた。こうしてみると、どっちが主人でどっちが従者なのかわかりゃしない。
なんとも妙な主従である。いつものことなんだけどね。
「船長、そこのうっかり馬鹿が暴れないうちに座ってくれ。すぐに朝食にしよう」
「わ、私うっかりじゃないですよー!」
『いや、うっかりだろ』
なにやら抗議した星の言葉に、私とナズーリン、ぬえのツッコミが綺麗にはもってトラ撃沈。
涙を流しながら机に突っ伏した彼女は、何やらいじけてしまったようで指で「の」の字を書くだけのオブジェと化した。
まぁ、いつものことだし、どうせご飯食べたら機嫌もよくなることだろう。いつまでも細かいことを気にしないのは彼女の美点だ。
そんなわけで、彼女を慰めるでもなく船長は黙して席に着くのである。
「あらあら、朝から仲が良いわね」
「……聖、君の目は節穴か? というか、君のほうからもよく言ってくれ」
「そうねぇ、そうさせてもらうわ」
ナズーリンのため息交じりの言葉に、聖は困ったように苦笑しながら優しく星の頭を撫でてあげている。
なんと羨ま……じゃなくて、なんて甘いんだろう聖は。あと星そこ代われ、500円上げるから。
「それにしてもさ、今日もナズが行くまで眠ってるなんてムラサも相変わらずね」
私がトラに対して羨ましそうな視線を向けていたところ、意地の悪そうな笑みを浮かべたぬえがそんな言葉を紡いでくる。
ムッと視線を彼女に向けると、ニヤニヤとこちらをからかう気満々のぬえが実に楽しそうだ。
心外である。これでもこの身は船長、つまりは船乗りなのだ。
本来私は朝が強いほうだし、すぐさま起きれるぐらいには寝覚めはいいほうだと自負している。二度寝するけど。
「む、何よぬえ。それじゃ私がいつも寝坊してるみたいじゃない」
「してるでしょ。今日なんてここまでナズの声聞こえてきたんだからさ。それとも、船長には今日何か遅れてきた理由でもあるのかしら?」
その言動はどこまでも挑発的で、どんな言葉を返されようと論破してやるという自信が見え隠れする。
こういう顔をしているぬえは非常に厄介で、もともと口が強い上に頭も回るおかげで口喧嘩で勝てたためしがないのだ。
そういう意味で言えば、ナズーリンと似たような苦手意識が彼女にある。
二人とも嫌いってわけじゃないんだけど、どうにも私は口の回る相手とは相性が悪いみたいで。
紅魔館とこの小悪魔さんに嘘をつかずに騙された挙句、いいように煙に巻かれたのは記憶に新しい。
それでも、ここで逃げたら船長の肩書きが廃るというものである。料理を運んできた一輪と雲山が「またか」と呆れた様なため息をついたのは気にしない方向で。
「理由ならあるわよ! 今日はね、夢を見たのよ、夢を!」
「……寝ぼすけめ」
そして帰ってきたぬえの言葉は情け容赦がなかった。心なしかその目が非常に冷めたものに変じたのは勘違いなどではあるまい。
うん、グサッと来た。私のガラスの心が音を立ててブロークンされそうである。
「それがね、ただの夢じゃないの。なんというか、すっごく奇妙でさぁ」
「どっちにしろ、ムラサが寝ぼすけだってことには変わりがないわね」
「まったくだ。君は本来寝起きがいいくせに、すぐに二度寝するからこうなるんだ」
反論したら、いつの間にか敵が二人に増えていたというこの理不尽。
しかも、二人とも私が苦手とする口が強い上に頭も回るタイプと来たもんだ。
私のぬえに対するなけなしの勝率は、ナズーリンの参戦によってあえなくゼロの数字をたたき出したのであった。ぐすん。
「はいはい、みんなそこまで。今日も一日、元気に頑張りましょうね」
パンパンと手を叩いてにっこりと笑みを浮かべたまま仲裁に入る聖に、私たちはそれ以上の口喧嘩を打ち切って箸を持つ。
いつものやり取り。いつもの口喧嘩。だから、聖が止めに入ったらそこで終わりだと、私たちの間でいつの間にか暗黙の了解ができていたりする。
これもすべて、聖に余計な手間をかけさせないためだ。何だかんだで私たちは聖のことが好きだし、それはみんなも同じことだろう。
そも、私たちは聖を中心にして集まった者ばかりなのだ。彼女に迷惑をかけるのは本意ではない。
そういうわけで、私たちは互いに苦笑しあってそれまでのことを水に流すわけだ。
「ほら、ご主人。待ちに待った朝食だよ」
「おかわりはありますか!!?」
「はいはい、あるからそう必死にならないでくれ。部下として私が恥ずかしいだろう。いいから箸を持て」
こんな風に、どっちが上司かわかんない主従のやり取りもいつものこと。
彼女たちのやり取りを見て私たちは笑い、それと同時に安心もしてしまうわけで。
とにもかくにも、これが私の自慢の家族。
これこそが我等が命蓮寺の、いつもどおりの正しい朝なのである。
▼
朝食を終えればみんなの行動は結構ばらばらだ。
聖は、人妖平等の教えを説きに人里へ。
星は普段うっかりしているけれど、根が真面目な彼女は命蓮寺の本堂で瞑想を。
ナズーリンはそんな星の補佐のために、いつも彼女の傍で控えている。
一輪と雲山は、門前で不届き者が来ないか見張り番。
ぬえは……どうだろう、結構自由気ままな奴だから案外いろんな所に出歩いてるのかもしれない。
さて、私はというとバケツと釣竿を片手に道なき道を一直線。
つまり、食材確保と趣味を兼ねた釣りというわけである。うむ。
この道を抜けると紅魔館前に広がってる大きな湖があり、そこが私のお気に入りのフィッシングポイントである。
たかが湖と侮るなかれ、さすがに海には及ばないとはいえ、水平線が拝めたり水深は深かったりと、結構いろんな魚がうようよしていたりするのだ。
中には毒を持った魚が釣れたりして困ることもあるのだけど、だからこその私だ。
どんな魚が食べられるかぐらいは熟知しているつもりだ。船長だし。
「さーって、今日は何が釣れるかなぁ」
暢気な言葉をこぼしながら、深い森の中を突き抜けて進む。
こうやってまっすぐ行ったほうが近道になるし、それにこういった場所を歩くのも嫌いじゃない。
溺れて死ぬ前はしっかりと人間だったわけで、舟幽霊の私は時々こういった森の香りが恋しくなったりするのである。
そうして歩いていけば、薄暗かった視界に光が差す。
鬱蒼と生い茂った木々の隙間を縫うようにその光に向かえば、森の暗がりに慣れた目に本来の光が眩く入り込む。
目が眩んだのも、ほんの一瞬。
その一瞬が過ぎ去ってしまえば、見るものを圧倒する巨大な湖の姿が視界いっぱいに広がった。
「今日も絶好の釣り日和。海釣りと行きたい所だけど、……まぁ幻想郷じゃしょうがない」
少しの不満をこぼしながら、それでも私はくすくすと笑みをこぼした。
無い物ねだりをしたってしょうがない。だって、陸続きの幻想郷には海が存在しないのである。
微妙に船乗りとしての存在意義が薄れたような気がしたが、それはそれ、海とほぼ変わらぬこの広大な湖があるだけでも感謝せねばなるまいよ。
いつも椅子代わりに使っている大岩のところに腰掛けると、私は早速餌の準備に取り掛かった。
最近はルアーなんて物もあるみたいだけど、やっぱり釣りは生餌に限る。
ルアーなんて邪道だよナズーリン!
そんなことを考えていたら、「フィィィィッシュ!」とか高笑いしながらザッパザッパ釣りまくるあのネズミが脳裏に浮かんだ。
……ふんだ、負け惜しみじゃないやい。負け惜しみじゃないんだったら!
「やめよ、情けない」
小さくため息をついて、頭の中から高笑いするネズミの姿をかき消した。
負けは負けなのだ。そこは船長として潔く負けを認めねばなるまいよ。いつかリベンジはするけどね!
そうして、私は餌を針にかけながら、そういえばと今朝の夢のことを思い出していた。
朝の騒動ですっかりと記憶から抜け落ちていたけれど、結局あの夢は何だったのだろうか?
私が体験した最後なら、それは船も一緒に藻屑となって沈んでいるはずだ。あれほど悔しい思いをしたのも、記憶を掘り返してみても早々ありはしない。
けれど、あの夢の誰かは未練がありながら、何もかもを諦めてしまっていた。
心はどこまでも空虚で、ただ淡々と事実を受け止めるだけで、最後に見た水面の光に見惚れて沈んでいく。
暗い水の底に沈んでいくまで、ただ静かに事実だけを受け止めて、そして苦しみながら生涯を終えた誰か。
あんな夢を見てしまったのは、私が同じように水の底に沈んで死んだ舟幽霊だからか、それとももっと別の理由があるのか。
結局、考えても謎しか残らないわけで、今の状況で答えなんか出るはずもない。
はぁっと、小さくため息をこぼし、いざ釣りを開始しようと視線を上げると。
吐息が触れ合いそうな至近距離で、一人の少女がこちらを興味深そうに覗き込んでいたのであった。マル。
「ほわぁっ!!?」
「きゃあっ!!?」
お互い同時に悲鳴を上げて距離をとる。
私は突然現れた彼女に驚いたけれど、どうやら目の前の女の子は私の大声に驚いたみたい。
落ち着いてよくよく観察すれば、その子が人間でないことは一目でわかった。
薄桃色の長い髪が水中を漂うようにゆらゆらと揺らめき、肌は病的なまでに白くて、紺色の着物が風もないのに揺らめいていた。
藤色の瞳は丸く柔らかで、背は150前後だろう女性としては少し小柄、まるで小動物をイメージさせる少女はこちらに興味深そうな視線を送ってくる。
いや、驚いた。何に驚いたって、こんなことってあるんだなーとシミジミ思う。
だってこの子―――私と同じ舟幽霊なのだ。
まだ舟幽霊になって日は浅いみたいで、妖怪になった私とは違って霊ではあるけれど、同族の私が言うんだから間違いない。
まさか、海のないこの幻想郷で、こんなに若い舟幽霊と遭遇するなんて……世の中何があるかわからないもんだわ。
「えっと、こんにちは」
「へ? は、はい!! こんにちは!!」
とにもかくにも、いつまでもお互い固まったままじゃ話にならないわけで。
何事も最初は挨拶が大事だとは聖の弁。その教えを実行してみれば、彼女はどこか慌てた様にぺこりとお辞儀をひとつ。
うん、なんかかわいいなぁこの子。
……って、そうじゃなくて。
「あなた、ここの子?」
「えっと、はい。たぶん、そうだと思います。……よくわからないですけど」
帰ってきた答えはどこか自信なさ気で、多分彼女自身も自分が何なのかよくわかってないんじゃなかろうか。
それにしても、やっぱり自分のことを把握しきれてないってことは、舟幽霊成り立てということなんだろう。
舟幽霊にしては怨念やら無念やらがさっぱりなのも、その辺が影響してるのかもしれない。
だってこの子、間違いなく舟幽霊だって自覚もないだろうし。
「ま、いいや。私は村紗水蜜って言うんだけど、あなた名前は?」
私が問いかければ、なぜか不思議そうな表情で首をかしげる少女。
私が名前を名乗ったのは、きっとこれからこの子としょっちゅう顔を合わせると思ったからだ。
舟幽霊って死んだ場所に縛られるものだし、実際、私は聖に救われるまでずっとそうだった。
だから、この少女はここから動けない。言い換えれば、ここにくればいつも彼女がここにいるというわけで。
私が名前を聞いたのは、それが理由。これからしょっちゅう顔を合わせることになるだろうに、名前も知らないなんてなんか間抜けだ。
一方、少女はどこか不思議そうな表情で、ぽつぽつと何か呟いている。
ここからじゃよく聞こえなかったけれど、けれども、やがて少女は嬉しそうな表情を浮かべて。
「私は、私の名前は―――撫子です、村紗さん」
そんな、この少女にピッタリな名前を口にした。
撫子って言えば、六月ごろから八月にかけて花を咲かせるピンク色の花のことだ。
あぁ確かに、この少女の薄桃色の髪もあってか妙に似合ってる気がして、自然と納得してしまう。
気になるのは、名前を聞かれただけで妙に嬉しそうだってことだけど……まぁ、それは人それぞれか。
「そっか、撫子ね。あ、私のことは船長でいいよ。みんなそう呼んでるしね」
「船長さん……ですか?」
「そう! 大海原を西へ東へ北へ南へ!! 荒ぶる海を仲間と共に舵を取って進む、ムラサ船長とは私のことよ!!」
胸を張りつつ自信満々に言葉にすれば、少女は「おぉ~」と目を輝かせてぱちぱちと拍手してくれる。
うむ、こうやって羨望の眼差しを向けられるのって気持ちいいかも。
うちの仲間たちは絶対にこんな視線向けてこないから、ちょっと新鮮だ。
ぱちぱちと拍手してくれる撫子ちゃん。そこで何かに気がついたのか、彼女は「はて?」といった様子で首をかしげて。
「ところで、……海ってなんですか?」
彼女の不思議そうな言葉で、胸を張っていた私はへなへなとその場に突っ伏したのであった。
こ、これがジェネレーションギャップという奴なのね。幻想郷に海がないから、仕方ないといえばそうなんだけど。
……ていうか、海を知らない舟幽霊ってシュールにもほどがあるんじゃなかろうか?
少なくとも、ぬえ辺りが聞いたら大笑いするのは間違いあるまい。
「あれ? せ、船長さん!? 私何か変なこと言いましたか!?」
少なくとも、舟幽霊としては致命的だったと思う。
その自覚がない彼女に言っても仕方がないので、「なんでもないよー」と口にして私復活。
顔を上げて彼女に視線を送ってみれば、オロオロとする少女が見れたんでちょっと満足。
無知なのはまぁ、先輩として私がいろいろと教えてあげるってことで、ここはひとつ。
幸いにも時間はたっぷりあるし、釣りは日課みたいなもんだから毎日ここ来てるわけだし。
ほら、何も問題はないじゃないか。
見たところ無害なのは容易に想像がつくし、時間はあるんだから今の彼女の状況をじっくり教えてあげればいいのである。
「まぁ、何はともあれ。私はここで釣りをするから、これからしょっちゅう顔を合わせることになるだろうけど、よろしくね撫子」
そう言葉を紡いで、私は握手のために手を伸ばした。
これから顔を合わせる少女への、友愛の証。きっとお世話になると思うから、彼女とは仲良くしていきたいと思うわけで。
撫子は、不思議そうに首をかしげて、それから嬉しそうに微笑んで。
「はい。私からもよろしくお願いします、船長さん」
一言一言を噛み締めるように、静かに目を閉じて少女は言葉を返してくれたのだった。
それが、撫子という少女との出会い。
世にも珍しい、海のない幻想郷で生まれた舟幽霊。
その日、その瞬間から―――私たちは友達としてお互いの手を取り合って握手する。
握手した少女の腕はか細くて、肌が白いこともあって折れてしまいそうな儚さを、私は無意識のうちに感じ取っていた。
▼
その日の夕方、私は上機嫌なままに帰路についた。
生憎と魚は一匹も連れなかったけれど、それ以上の収穫があったんだから機嫌がよくなるのも自明の理だ。
帰りは行きと違って、空を飛びながら帰宅する。結構ぎりぎりまで粘る性質だから、森の中を進んで帰っていると夕飯に間に合わないのだ。
そうなると、もれなくハラペコタイガーのご光臨である。朝食で迷惑をかけている以上、夕飯ぐらいは迷惑をかけないように帰宅しておきたい。
あぁ、なんという仲間思いの船長でしょう。我ながら惚れ惚れするわ。
……ぬえの前で口に出したら、なんか可哀想な者を見る目で見られたけどね!
「おや、船長じゃないか。今帰りかい?」
内心でチクショーと叫んでいると、後ろから声をかけられてそちらに振り向くと、仕事帰りのナズーリンの姿。
大方、星の奴が大事なものでもなくしたんだろう。毎度のことながらご苦労なことだ。
「星、また何か失くしたの?」
「あぁ、まぁいつものことだがね。あれでも、ご主人は他の皆にばれてないと思っているらしい」
「……皆知ってるのにねぇ」
「ま、知らぬが仏という奴さ」
シレッとそんなことをのたまいつつも、ナズーリンの表情は柔らかでまんざらでも無さそう。
何だかんだといって、ナズーリンも今の関係が気に入ってるんだろう。なんともまぁ物好きなものだと思うけれど、私たちも人のこといえないか。
「ところで、船長はどうだった?」
「うん、一匹も連れなかった!」
「ふむ、その割にはずいぶんと嬉しそうだが、何かいいことでもあったのかな?」
さすがナズーリン、鋭いな。
って、さっきの私の反応だと誰でもわかるか。きっと、いろいろと鈍感な星だって気づくに違いない。
ニヤニヤと視線を向けてくるナズーリンに、私はふふんと得意げに笑みをこぼして自慢げに胸を張った。
「聞いて驚きなさい、なんと同族の友達が出来たのよ!」
「ほう、この幻想郷で君と同族か。なるほど、だからそんなに楽しそうなわけだ」
本当はからかってやる心算だったのだろう。
けれども、ナズーリンは得心がいったという風に苦笑して、やれやれと肩をすくめる。
こんな仕草でも、彼女は私に「おめでとう」と暗に祝福してくれているのだ。
ネズミとしてなのか、それともナズーリン自身の性分なのか、彼女は素直じゃないからこういった風にひねくれててひどく分かり辛い。
でも、そんな素直じゃないところこそがナズーリンの魅力だとは星の弁である。
「よかったじゃないか船長、これでめでたく聖の悩みがひとつ解決したわけだ」
「む、何よそれ。どういう意味か説明して御覧なさい、ネズミ」
「説明も何も、君は聖にばかりかまっていたからね。彼女は友達が少ないんじゃないかと心配していたよ?」
そ、それはリアルに心に突き刺さるから勘弁してください。
うぐっと思わず呻いた私を見て、ナズーリンはニヤニヤと笑みをこぼして満足そうだ。
ち、ちくしょう。やっぱりナズーリンに口で勝てる気がまったくしないわ。
「まぁ、君の馴れ馴れしさなら一方的に勘違いしている可能性もありそうだがね」
「失敬なッ!?」
そんなやり取りを交わしていると、目視できる距離に命蓮寺が見えてきた。
門の前でゆっくりと着地すると、一輪と雲山の二人が手をひらひらと振って出迎えてくれる。
特に怒った様子もなく、いつもどおりの笑みを浮かべているってことは、どうやら夕飯の時間帯には間に合ったみたい。
「おかえり、二人とも。帰りが一緒だなんて珍しいわね」
「何、偶然そこでバッタリと出くわしたもんだからね。それもこれも、ご主人のうっかりの賜物かな?」
「あぁ、なるほど。あのトラは今度財布でも無くしたわけ?」
「慧眼恐れ入るね。正にその通りだよ」
やれやれと肩をすくめる二人だけど、表情には相変わらず「しょうがないやつめ」なんて親愛の念が見て取れる。
そしてやっぱり、我等が命蓮寺の誇る毘沙門天代理のうっかり癖は周知の事実みたい。
雲山もうんうんと感慨深く頷いている辺り、やっぱり皆あのトラの悪癖はご存知の様子。
知らぬは本人ばかりなり。これで本人はばれていないつもりなのだから驚きである。
「ムラサもずいぶん上機嫌よね。……ははぁ~ん、さては今日は大量だったわね!?」
「うんにゃ、一匹も連れなかった」
あ、一輪がずっこけた。
「あ、あんたねぇ、じゃあ何でそんなにご機嫌なのよ。いつもはがっくり肩落として帰ってくるくせにさ」
「一輪、我等がムラサ船長はどうやら同族に会ったらしいよ。察するに、ずいぶんと仲良くなったみたいだしね、機嫌がいいのはそのせいだろうさ」
「ムラサの同族って言うと舟幽霊? 海の無いこの幻想郷で?」
「胡散臭いわねぇ」などと疑いの視線を向けてくる一輪の気持ちも、まぁわからなくは無い。
何しろ、私だって彼女を始めてみたときは驚いたし、我が目を疑ったりしたんだから、彼女の疑問ももっともなわけで。
「本当だってば。この目で見たし、話し合ったんだから間違いないよ。あの子は自覚なさそうだけど」
「うーん、やっぱりイマイチ信じがたいんだけど……」
「あら、あんまり疑ってかかっちゃだめよ、一輪」
イマイチ信じ切れない一輪の言葉に、門の奥から言葉が投げかけられた。
私たちにとってはもっとも大事な人の声。愛しくてやまない鈴のような、おっとりとした声。
そちらに視線を向ければ、ニコニコと笑顔を浮かべている聖が、星とぬえを伴って門まで歩いてきているところだった。
これは参った。なにやら門の前で話しているうちにみんなそろってしまったようである。
「姐さん、でもですねぇ……」
「ムラサの言う事ですもの、嘘が苦手な子だし、きっと本当のことだわ。それに、ムラサにせっかくお友達ができたのなら、私はとてもうれしいもの」
……うわぁい、先ほどのナズーリンの言葉が事実であったと如実に語る、その笑顔と台詞が心に刺さる。
隣で件のネズミがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていて、全力で殴りたかったけれど聖の前じゃそれもできやしない。
おのれナズーリン、相変わらず計算づくというわけね。あとで覚えてなさいよこんちくしょう。
「ムラサの同族ねぇ。見間違いだったんじゃないの?」
「むー、ぬえまでそんなこと言うの?」
「もちろん。だってムラサは肝心なところで抜けてるからねぇ。聖は知らないけどこの間も寝ぼけてさぁ……」
「のわぁぁぁぁ!!? ちょっとぬえ、それは言わないでよ!!?」
なんか私の過去の恥を惜しげもなくさらそうとした天邪鬼の口を塞ぎつつ、そんなことを口にするのだけれどぬえのニヤニヤとした笑みは納まらないわけで。
うぐぅ、彼女にアレを見られたのは本当に失敗だった。今でさえ恥ずかしさのあまりに記憶から消去したいって位なのにさ。
「はて、船長は寝ぼけて何か粗相でもしてしまったのですか?」
「あら、私もちょっと気になるわ。ムラサは何をそんなに隠してるのかしら?」
「星、聖、実はこの間ね―――」
「だからやめろってばー!!」
興味津々で聞いてくる星と聖に、ぬえがしゃべる気満々で彼女たちに歩み寄る。
当然、私にとってはたまったものじゃないわけで、何とか彼女がしゃべるのを邪魔するのに必死だった。
その日は、そんなやり取りをしながら一日を終える。
そのときは、彼女との出会いもなんてことのない日常の一コマだと思って、むしろ楽しみが増えたと嬉しく思ったものだ。
夕焼けが地平の向こうへと沈んでいく。
今頃、彼女はあそこで独りきりでいるのだろうかと、そんなことをぼんやりと思っていた。
▼
ふわふわと、釣り道具を一式手にしながら空を飛ぶ。
あれから一夜明けた朝、私はいつもどおりのみんなとの時間を終え、内心楽しみながら湖へと向かっていた。
湖にたどり着いて、上空からいつもの場所に視線を向ければ、いつもの私の指定席の岩でぼんやりと腰掛けている撫子の姿。
相変わらず薄桃色の髪は水の中にいるみたいにゆらゆらと揺れていて、人が通りかかろうものなら幽霊と間違われて逃げられてしまいそうな光景だ。
「……ていうか、あの子は正真正銘の幽霊じゃんか」
何しろ舟幽霊である。正真正銘、疑いようもないほどに立派な幽霊だ。
本人に自覚が致命的なまでに欠けているが、その辺は疑いようがない。
「おーい」などと声をかけながらゆっくりと降下すると、彼女はこちらに気がついたのか私のほうに顔を向ける。
ぶんぶんと大きく手を振れば、彼女は嬉しそうににっこりと笑って手を振り返してくれた。
「おはようございます、船長さん」
「うん、おはよー。今日もいい天気だねー、絶好の釣り日和ってね」
「はい。今日こそ大量目指して、がんばりましょう!」
私の言葉に、グッと手に力を入れながら答えてくれる女の子。
私以上にやる気に満ちているとはこれ如何に?
でもまぁ、いいことだよね。何事もやる気と元気は大事なのでございます。
ゆっくりと着地して、バケツやら何やらを地面に置く。まずは準備からはじめるわけだが、彼女は興味があるのかこちらをじっくりと見つめてくる。
なにやらものめずらしそうな様子を見るに、生前の彼女はこういったことには無縁だったのだろう。
こういっては何だけど、彼女ってこういうことするの向いてなさそうだし。
それに、気になることといえばもうひとつ。
「……そーいえばさ、撫子は何でこんなところで舟幽霊になっちゃったわけ?」
生餌を針に通しながら、昨日から疑問に思っていたことをそれとなく聞いてみた。
水難事故にあったり、あるいは海で殺されたり、そういった恨み妬みが原因で舟幽霊というのは生まれるのである。
その点で言えば、この子はこんな人が来ないところで舟幽霊になってるのも奇妙だし、恨み妬みなんてものを感じない。
舟幽霊としてみれば、こんなにも奇妙な存在はそうそうないと私は思うわけだ。
もしかしたら、何かサスペンスでショッキングな事件が原因なのではないかとワクワク……じゃなくて、心配にもなるわけで。
過ぎたこととはいえ、死に際に引き摺られるなんてことにもなりかねないわけだし。
そんな私の言葉に、彼女は困ったように苦笑すると。
「実は、水浴びしてたら溺れちゃいまして」
なんて、身も蓋も面白みもない答えを返してくれたのである。
ガックリと肩を落とした私は、何も悪くないと思いたい。
何かサスペンスでショッキングな事件が原因かと思えば、蓋を開ければ本人の不注意という答えのみ。
無用な心配をしなくてよかったといえばそうなんだろうけれど、それだけじゃ納得してくれない心の不思議。
「えっと、船長さん。私、何か変なこといいました?」
「いいや、そんなことないよ。ただ何というか、間抜けだなーって」
「う、酷いです。私、結構気にしてるのに」
あ、自覚はあるんだ。なんというか、どこかポケーッとしてる印象があるから、てっきり無いもんだと思ってた。
そんな考えがどうやら顔に出ていたようで、プイッとそっぽを向かれてこっちを見ようともしてくれない。
ううむ、まいった。どうやら拗ねられたみたいである。
そんなやり取りをしている間に、釣りの準備は大方終わってしまったわけで。
私の隣で「プンプン」とご立腹な彼女に苦笑しながら、ロッドを大きくしならせるように振って餌を遠くへ投擲する。
シュルシュルと糸がこすれる音が鳴り、やがて水滴の音が耳に届く。
口笛を吹きながら獲物を待つ中、ふと隣を盗み見てみれば、やっぱり釣りに興味があるみたいで釣竿の先に視線が釘付けだった。
私よりも見た目が年下っぽいこともあって、微笑ましいと言うかなんと言うか、まるで妹が出来たみたいだ。
そういう意味で言えば、ぬえが命蓮寺に来たときと似たような心境なのかもしれないね、私は。
「釣り、興味あるの?」
「えっと、よくわからないですけど……私、昨日初めて見たものだから珍しくて……」
「ふむ、この釣りの楽しさを知らないとは勿体無い。ならばここは船長らしく、君に釣りを伝授してあげよう!」
「……いいんですか? 迷惑になったりしないでしょうか……」
「ノープロブレムってやつよ! さぁさぁ、こっちによって撫子。まずはロッドの持ち方から教えてあげるわ」
ちょいちょいと手招きしてやれば、彼女は悩むように眉を寄せ、顎に手を当てる。
それから私の顔と釣竿を交互に見比べて、やがて答えが出たのか嬉しそうな笑みを浮かべて。
「それじゃあ、不束者ですがよろしくお願いします」
なんか、お嫁さんに来るかのような台詞とともに深々と頭を下げられ、私は反応に困って照れ笑いを浮かべることしか出来なかったのであった。
▼
「それでさー、もう拗ねたときのあの子が可愛いのなんのって!!」
「……へぇー」
その日の夜、居間で昼間の出来事を赤裸々に語る私を見るぬえの目は、これ以上に無いくらいに冷め切ってた。
具体的に言うと、「何語っちゃってんのこいつ、死ねよ」みたいな。
「……死ねよ」
訂正、直に言われたでございまする。
容赦ねぇーよ、この天邪鬼。そのブッチKILLと語る彼女の目が私の背中に薄ら寒いものを流し込むこと請け合いなのだ。
ふふふ、これが封獣ぬえの偽らざる殺意か。格の違いを思い知っちまう船長さんなのである。
……というか、この子マジモンの殺気ぶつけてきてるような気がするんだけど、気のせい?
……気のせい……よね?
「ていうか、私とっくに死んでるんだけどね」
「じゃあ魂ごと消滅すれば?」
「……ぬえ、なんか機嫌悪くない?」
「別にー。それにしても随分とその舟幽霊と仲良くなったのねー」
言葉も態度もやたら刺々しいのに、機嫌が悪くないというには少々無理があるのではなかろうか?
言わないけどね。言ったら余計に意固地になって機嫌悪くさせちゃうし。
しかし、こっちにも彼女が不機嫌になる理由に心当たりが無いわけで、射抜くような視線がもれなく私の胃に大ダメージを与えてくるのである。
由々しき事態である。いや、わりと本気で。
「何よー、仲良くなっちゃいけないって言うの?」
「仲良くなるのは結構。……いや良くないけど、それはともかくよく知りもしない相手のこと聞かされても迷惑だって言ってんの。
それが惚け話ならなおさらよ。殺意の一つや二つ沸くってのが人情でしょう」
「……ぬえ、なんか人情って言葉の使い道を間違ってる気がするんだけど」
「うるさいっ!」
バリッと凄まじい音を立てて、ぬえが煎餅を噛み砕いた。
不機嫌丸出しで眉を吊り上げ、ガリガリと噛み砕きながら租借そのさまは、まるで新手のモンスターである。
「まぁ、船長のデリカシーの無さは今に始まったことじゃないがね」
「こら、ナズーリン。そういうことは言うものじゃありません」
そんな私たちの様子を見かねてか、今まで台所で食器を洗っていたナズーリンと星の主従コンビが居間に戻ってくる。
割烹着姿のナズーリンはため息をつきながら肩をすくめて、星がそんな彼女を諌めているけど、ネズミはどこ吹く風だ。
まぁ私を含め、星がナズーリンに口で勝てるとはミリ単位にも思ってないけどね。
しかし、私にも聞き捨てなら無いものは聞き捨てなら無いわけで。
「なによネズミ、私のどこがデリカシーが無いって言うのよ?」
「いや、無いだろう。今この状況がまさにいい証拠じゃないか」
鋭い視線を受けながらも気にした風も無く、彼女は暢気に座ると煎餅に手を伸ばした。
そういわれると、私も反論が出来ないわけで。
理由はわかんないけど、ぬえが怒ってるのは紛れも無い自分のせいだろうし。
あぁ、そっか。その理由がわからないから、ネズミにデリカシーが無いだの朴念仁だのと言われるわけか。
納得……は出来ないけど、理解は出来たと思う。未だにぬえの怒ってる理由がわかんないけどね。
「それにしても、昨日の今日で随分と仲良くなったのですね」
「うん、まぁね。怨念や妬みを感じない舟幽霊って言うのも珍しいし、話してるといろんなことに興味を持ってくれてさ、なんと言うか、子犬に懐かれてる感じ?」
話せばなんでも興味津々に聞き入ってくれるし、いろんなことに興味を持ってくれる。
笑ったり、怒ったり、悲しんだり、喜んだり。
少し大人しいところはあるけれど、表情をころころと変えて感情を表すところはやっぱり子犬みたいで。
それが伝わったのだろうか。星はなんだか意味深な笑みを浮かべて「なるほど」と一人頷くと、なんだか嬉しそうに私を見つめてくる。
それが照れくさくて、私は視線をそらすのだけど顔が赤いのは誤魔化せないわけで。
そしたら何故か、ぬえとナズーリンのほうからすごい剣幕で睨まれた。
……なんでやねん。
「あ、そうだった。星に頼みたいことあるんだけど、いいかな?」
「はい? 内容にもよりますが、船長が私に頼みごとなんて珍しいですね」
「うん、ちょっと新しい釣竿買いたいから立て替えておいてくれないかなーって」
「釣竿……ですか? ……あぁ、なるほど。それなら、私のほうから立て替えておきましょう。ナズーリン、私の財布を持ってきてくれませんか?」
どうやら、私が何のために釣竿を必要とするか察してくれたらしい。
にこやかに了承してくれた星は、ナズーリンに言葉をかけて財布を持ってくるように頼んでくれた。
ネズミは特に反論も無いらしく、肩を竦めただけで席を立ち、「少々待っていてくれ」と断りを入れてから退出する。
うーん、しっかし割烹着が良く似合うこと。すっかり我が家の厳しいお母さんポジションである。あ、優しいお母さんはもちろん聖で。
「船長も面倒見がいいですね」
「あはは、いやぁなんというか同じ趣味を共有する友人が少なくってねぇ。仲間が増えると嬉しいもんよ」
何しろ釣り仲間といったら私とナズーリンと、あとは天界の比那名居天子ぐらいしかいない。
方や、ダウジングロッド+ルアーのインチキスタイル。
もう片方は、金に飽かせて釣竿を大団旗のごとく複数たてて釣り上げる物量作戦。
しかも、二人ともハイテンションで「フィィィィッシュ!」だの「フハハハハハ!!」だの叫んだり高笑いしたりで鬱陶しい事この上ない。
……あれ、碌な釣り仲間が居ないんだけど気のせい?
いや、それよりも気になるのは……。
「……ところでさぬえ、なんかさっきより機嫌が悪くなってる気がするんだけど?」
「別にッ!!」
バリバリ煎餅を食い破る超ご立腹なぬえ。その目は私を睨みつけて、視線だけで人を殺せそうな勢いである。
……私が何をした?
結局、彼女が怒ってる理由がわかんなくて私が首を傾げていたら、その様子を見ていた星から深いため息をつかれたのだった。
だから、なんでやねん。
▼
さて、そんなやり取りがあった翌日。
私は上機嫌に歌を口ずさみながら人が行き交う人里の通りを歩いている。
ここはお店が集中的に立ち並ぶいわゆる商店街で、私の目的の店もここに立っていた。
幻想郷では数少ない釣り用具専門店。外を出歩くことは危険が伴うんで人間にはあまり人気のない店なんだけど、釣りを好む妖怪にはそれなりに名の知れた店である。
そして私もそんな一妖怪でありまして。生餌なんて普通のお店には置いてたりしないので、釣りが趣味の私としては大いに助かっていたりするわけで。
ありがたやありがたや。
「おっちゃーん、居るー?」
「おぉ、船長さんかい。今日は生餌かい?」
「うん、それもあるけど釣竿もお願いね。なるべく初心者にも扱いやすいのを」
このようにフランクな会話をこなすぐらいには、私はこの店の常連であった。
店の奥から現れたおっちゃんはそろそろ50歳になろうかという年齢で、腰が痛いだの何だの言う割にはまだまだ元気なお人だ。
もうそろそろ初孫も生まれるだとかで、まだまだ頑張らにゃいけねぇよとは本人の弁である。
「お、釣り仲間でも増えたかね?」
「うん、まぁ友達ができてね。その子に教えてあげるんだ」
「ほーう。船長さんはそそっかしい上に馴れ馴れしいからねぇ。早とちりじゃないといいんだがね」
おっちゃん、あんたもかい。ナズといいおっちゃんといい、私のことを何だとおもっとるのか。
……自覚あるけどね。そのことでよく失敗するわけだし。
「まったく、余計なお世話よ。それより、釣竿のことよろしくね」
「おうよ。そこは任せておいてくれや。その友達の身長は?」
「えっと、150cmぐらいかなぁ。体の線が細いから、たぶんそんなに力は強くないと思う」
「なら、なるべく軽くて扱いやすいのがいいかねぇ。……つーか、船長さんみたいな細腕で錨を分投げられる人が居るんだから、見た目じゃ判断できん気もするけどねぇ」
それは暗に人のことを怪力といいたいのか、この人は。
事実だけに反論できないのがなんとも恨めしい。私だって女だから、こういった認識されると結構傷つくものである。
そのことをナズーリンやぬえに話したら鼻で笑われたけどね。……どーいう意味だよちくしょう。
「本人の手に馴染むのが一番いいんだけどなぁ。その子、ここに連れてこれないのかい?」
「あはは、ちょっと事情があってね。とある場所からあんまり移動できないのよ」
「なんだ、地縛霊の類かい?」
「まぁ、そんなところかな。紅魔館近くの湖があるでしょ? あそこに縛られてるみたい」
そんな会話をしながら、私はというと最新式の釣竿に目を移して物色中。
彼女の名誉のため、あえてここは細かいことはぼかしておく。
あの子のことを私がいろいろ説明するのはなんか違う気がするし、本人も自分の死に方にいろいろ思うところがあるみたいだしね。
最新式らしい釣竿に次々と目を移し、あまりの高額さに私が絶望している最中、ふと、違和感に気がついておっちゃんに視線を戻すと。
どういうわけか、顔を青くしたおっちゃんがその場に立ち尽くしていた。
「……おっちゃん?」
あまりにもその様子が普段のおっちゃんとはかけ離れていて、思わず声を投げかける。
私の声にハッとしたように我に返ったおっちゃんが、「わりぃわりぃ」と笑って、すぐに注文した釣竿と生餌を用意してくれた。
ちょっと気になる反応だったけれど、あんまり追及するのもよろしくなさそう。
そんなわけで「ありがとー」とお礼を言いながら、トラにもらったお金で現金払い。
お金の分は後ほど体で払うとしよう。肉体労働的な意味で。
でもまぁ、トラのことだからどーせすぐに財宝とかが集まるんだろうなぁ。それをうっかりで無くすのも星なんだけどね。
そんな失礼なことを考えつつ、見繕ってもらった釣竿と生餌の入った容器を持って店を出ようとして。
「船長さん、その子の名前……わかるか?」
おっちゃんから、そんな疑問を投げかけられた。
後ろを振り返ってみれば、神妙な面持ちのおっちゃんが私に視線を向けたまま微動だにしない。
いつもと違うおっちゃんの様子に疑問を覚えたが、名前ぐらいならいいかと割と楽観的な考えで判断を下し。
「その子の名前はね、撫子だよおっちゃん」
私の言葉に今度こそ、おっちゃんの顔から血の気が引いて恐怖に引きつった。
▼
ぷかぷかと、浮が水面にユラユラと揺れる。
その様子をジーッと目を凝らすように見つめ続けている少女を横に、私はクスクスとついつい笑ってしまう。
集中しすぎて気がついてないのか、彼女の形のいい眉がどんどん釣りあがって気難しげな表情に変化していくのが、なんともまぁおもしろい。
「そんなにジーッと見なくても、来ないときは来ないんだから、適度に気を抜かないと疲れちゃうよ?」
「は、はい」
返事はするが、彼女の表情に変化は無し。
集中しすぎて聞こえちゃいないんだろう。むむむーっと目を凝らすさまはなんとも微笑ましいものだが、教えるほうとしては怒ればいいのか嗜めればいいのか判断に悩むわけで。
うん、こういうときはあれだ。ぬえによくやられているあの秘儀を行うしかあるまいよ。
思い立てばすぐさま実行。私はそろりそろりと彼女の後ろに周り、ニィッとサディスティックな笑みを浮かべて。
「なーでーしーこーちゃん!」
「ぷわあはははははははははははははははっ!!?」
思いっきり彼女の腋をくすぐり始めたのである。
たかがくすぐりと侮るなかれ、体験した人はわかると思うがこれが非常に苦しいものなのだ。
どうやら彼女、この手の攻撃には非常に弱いみたいで釣竿を必死に持ちつつも大笑い。
袖のない服を着ていたのが運の尽き。私の指の動き、じっくりと堪能させてくれるわ!!
「ふあっ! ちょ、ちょっと船長さん! く、苦し……苦しひれすぅ!!」
「人の話をちゃーんと聞かない子は、お仕置きだんべぇ~!」
「ぷははははははは!! ひー、ひぃー!! ご、ごめ、ごめんなさひ~!! あはははははははは!!」
おどける様な言葉を紡ぎつつ、くすぐる指の動きはいっそうエスカレートしていく。
こちょこちょとくすぐる度に笑い声を上げ、苦しそうに身をよじる彼女は何かと必死そうである。
彼女の謝罪が聞こえたところでくすぐり地獄から解放し、くたっと力なく倒れた撫子は、疲れきったのか肩で息を繰り返し、頬は上気していて妙に色っぽいことになってた。
ヤバイ、クセになりそうこれ。
「ひ、ひろいれすよぉ~」
「集中することが悪いとはいわないけど、人の話を聞かない撫子が悪い」
ぐったりとしたまま抗議してくる少女に、私は腕を組みつつうんうんと頷きながら返答を返す。
まぁ、少しやりすぎたかなーと思わなくもないけれど、それもこれもこの子がいい声で鳴いてくれるからいけないのである。
ようやく腹筋の痙攣から回復してきたか、その場に座り込んで恨めしそうな視線を向けてくるが、私は知らぬ存ぜぬでどこ吹く風。
うん、たまらんのう。
「うぅ……船長さんは意地悪です」
「あはは、私で意地悪だったらウチには強烈なのが二人いるわよ。私で苦労しているようじゃ、いいおもちゃにされてしまうわね」
「それって、昨日話してくれたナズーリンさんとぬえさんのことですか?」
「そうそう。私以上に容赦ない二人だから、きっと格好のサンドバックだわ。言葉的な意味で」
実際、あの二人なら嬉々として撫子のことからかいそうな気がする。
私でさえ、彼女をからかってると楽しいと感じてしまうのだ。私以上のサド心を持つあの二人が、彼女と出会えばどうなるか?
結果は火を見るより明らかな気がするんで、脳内に涙目になりながら二人におちょくられる撫子を妄想するのは余裕だった。
「……なにか失礼なこと考えてません?」
「いやいや、そんなことないよ。さ、釣りを再開しましょ。昨日教えたとおりに竿を振るんだよ?」
「うぅ、なんかいいようにごまかされた気がします」
「ハッハッハ、気のせい気のせい」
そんな軽いノリで促すと疑い深そうな目で見られたけど、私は口笛を吹いてごまかしてみる。
「わざとらしいです」などとありがたいツッコミをひとつこぼすと、彼女は気を取り直して竿を振った。
竿が大きくしなり、シュルシュルと糸がこすれる音の後、水滴の音が耳に届く。
それからまたもや浮に視線が集中している彼女に苦笑して、私も自分の釣りをするために釣竿を握る。
「どう、使いやすい?」
「はい。でも、よかったんですか? わざわざ新しいのまで買ってもらって……」
「いいっていいって。釣り仲間が増えるのは嬉しいし、私からの友達に対するプレゼントみたいなものよ」
「……とも、だち?」
呆然と、彼女が呟いた。
まるでその言葉が信じられなかったみたいに、目を丸くして私のことを見つめている。
……あれ、あれあれ?
想定外の反応なんだけど、もしかしてナズーリンやおっちゃんの言うみたいに私の勘違いの早とちりだったとか!!?
うん、もしそうだった場合本当にへこむ。主に恥ずかしさと情けなさとかで。
「えっと、もしかして嫌だった?」
「い、いえ!! そんなことないです!! 全然、そんなこと!!」
気落ちしたせいかちょっと元気のなかった私の言葉に、彼女は顔を真っ赤にして全力で否定してくる。
首がもげそうな勢いでぶんぶんと首を振るさまは、なんだかこっちが申し訳なく思えてくるから困りものだ。
しばらくしてようやく首を振るのをやめた彼女は「ただ」と小さく呟いて、どこか戸惑ったような表情で。
「私が、船長さんの友達でいいのかなぁって」
それは、はたしてどのような思いで紡がれた言葉だったのか。
静かであったように思えて、不思議と耳に残る声。その戸惑いの表情に混じるのは、どこか諦めにも似た達観だろうか。
その声が、何を意味するのか。その表情に隠れたものが、何を意味していたのか。
今の私には、それがわからない。理解したくても、知りたくても、それを知る術を今の私は持っていない。
けれど、この心にある答えは変わらない。変わるはずなんてない。
とっくに決まった答えを変えてやるほど、私の頭はうまくできちゃいないのだ。
「もちろん、いいに決まってるじゃない。私はずっと撫子のこと友達だと思ってたんだよ?」
それは、紛れも無い私の心。嘘偽りの無い私の本心。
その言葉を、彼女はどう受け止めてくれたのだろうか。私の言葉を聞き、一瞬瞠目した彼女は、静かに俯いた。
ポツポツと、小さく何かを呟いているようにも見える。それからポタポタと涙が零れ落ちているのが見えて思わずギョッとしたけれど、彼女はグシグシと涙を拭った。
「私で、いいんですか?」
「もっちろん」
「何も知らない、無知な私でも?」
「そんなの関係ないって」
「迷惑、かけちゃうかもしれませんよ?」
「気にしない気にしない。私は舟幽霊の先輩なんだから、存分に迷惑かけなさいな」
胸を堂々と張って、本心の言葉を紡いでいく。
「それに」と、私は笑顔を浮かべて彼女の手を握った。
少し小さくて、ひんやりとした華奢な手。それを、壊れ物を扱うように優しくなでていく。
「私がさ、撫子と友達になりたいんだよ。そりゃ、会って日もたってないけどさ、友達になるのに時間なんて関係ないと思うし。
だから―――友達に、なろうよ」
私の気持ちは変わらない。紛れも無い心からの言葉。
その言葉で、ようやく彼女は顔を上げてくれた。ようやく―――笑顔を浮かべてくれた。
目をこすったせいか目が赤く、けれども精一杯の笑顔を浮かべた彼女の心は、一体どのようなものだったのか。
「私も、船長さんと友達になりたいです」
「うん。じゃあ、私たちは今日からあらためてお友達ね」
「はい」
クスクスと、お互いに笑いあう。
彼女にとって、友達というものがどんなものなのか、私にはわからない。
彼女にとっての友達が、どれほどの意味を持つのか私は知らない。
けれど、今はこうやって笑いあって、手を取り合っている。
今は、それで十分。これから彼女のことを、ゆっくりと知っていけばいいんだ。
何しろ、お互い舟幽霊。これから時間なんて、たっぷりとあるんだから。
「あ、撫子。竿が引いてるよ」
「へ? あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「落ち着いて落ち着いて、急ぐと失敗しちゃうよー」
彼女の竿がぐんぐんと引いて、あわてて彼女は釣竿に全力集中。
「あわわ」などと餌に食いついた魚に翻弄されているあたり、どうやら結果は見えているようである。
私は、彼女と友達になれたことに対する満足感から、そんな彼女の様子を眺めてクスクスと笑う。
ただ―――気になることが、ひとつだけ。
昼間のおっちゃんの反応、あれがどうしても気にかかる。
あの様子だとおそらく、おっちゃんはこの子のことを……撫子のことを知っているはずだ。
気になるのは、どうしてあんなにも恐怖を滲ませたのかという事実。
それがわからない。おっちゃんに聞いても答えてくれなかったから、おそらくあれ以上問いただしても答えてはくれないだろう。
死んだ人間が幽霊として現れたっていうのなら、まぁ納得はできる。けれど、この幻想郷でいまさら幽霊を怖がる人間がいるだろうか?
それに何より、あの反応はもっと違う何かに対する恐れではないかと、そう思えてならないのだ。
答えは出ない。出るはずも無い。けれど、そのことがずっと気にかかったまま、私は針に生餌をつける作業に戻っていた。
▼
さて、あらためて彼女と友達になってそろそろ二週間。
相変わらず彼女はあの湖から動けないけれど、私が毎日そこに向かうんでしっかり友達やってます。
まぁ唯一困ることといえば、何ゆえか日増しにぬえの機嫌が悪くなっていくことなんだけれど、その理由がわかんないんで今のところお手上げ状態。
以前、そのことを撫子に話したらため息をついて「……船長さん、鈍感です」などと非常にありがたくないお言葉をもらいました。
……どういうことよ?
何はともあれ、私の家族とも言うべき命蓮寺のみんなのことも話したし、彼女が聞き上手なもんだからついつい昔話までしてしまったわけで。
私が聖に救われた話やら、聖が封印されてしまった話とか、魔界に封印された聖を助けに言ったこととか、他にも色々。
んで、話を聞いた撫子の反応はというと「皆さん、苦労なされたんですね」と号泣されたときはさすがに私も驚いたけど。
感情豊かなのはいいことだ。うん。
このことをネズミに話したら「この聖バカの話を延々と聞かされて彼女もかわいそうに」などと失礼な言葉を遠慮なくぶちまけられた。
失礼な話である。反論できないのがちょっとあれだが。
そんなわけで、あの日おっちゃんが何を隠していたのか知る機会もなく今日この日、私はいつものように二人分の釣竿とバケツを持っていつもの湖の場所へと向かっていた。
口笛を吹きながら空を飛んでいると、ふと耳にすんなりと入り込むような音楽が届いて、私は首をかしげてスピードを上げる。
湖が見えてくる。目を凝らしてよく見てみると、意外な人物たちがそこに集まっていた。
黒と白、そして赤。三人それぞれの色の衣服に身を包み、ヴァイオリン、トランペット、キーボードを手に演奏している有名な三姉妹。
ルナサ・プリズムリバー、メルラン・プリズムリバー、リリカ・プリズムリバーの騒霊三姉妹が湖の上で演奏を繰り広げ、撫子はいつもの岩の上で目を閉じて聞き入っているようだった。
演奏の邪魔をしないように、ゆっくりと撫子の隣に降り立つ。
けれども私の気遣いも無用だったみたいで、丁度彼女たちの演奏も終わりを告げたところだった。
パチパチと惜しみない拍手を送る彼女の隣で、私も同じく拍手などをひとつ。
そこでようやく、撫子も私がここに来たのだと気づいたらしい。こちらに振り向いた彼女は、それはもうかわいらしい満面の笑みを浮かべてくれた。
「こんにちは、船長さん」
「うん、こんにちは。それにしても、珍しい人がここに来てたのね」
「まぁ、人じゃなくて騒霊だけど」
「そうそう、一人でぼんやりとしてた子がいたからねー」
「私と姉さんたちとで話し合った結果、緊急ライブを開催するに至ったのよ」
お互いに挨拶を交わして三姉妹に視線を向ければ、長女、次女、三女の順になんとものんきな言葉が返ってくる。
相変わらず次女と三女は楽しそうで、長女のほうは小さくため息をこぼしていたりする。
なるほど、長女は長女で妹たちの舵取りが大変そうだ。
「ふーん、私も聞いていいかしら?」
「えぇ、私たちはただ演奏するだけ。聞くも聞かないも、あなたの自由だわ」
「もう、姉さんはそんなだから暗いっていわれるのよ。ぜひとも聞いてくださいっていうのがきっと正解よ」
「メルランは気安すぎるのよ」
なにやら相変わらず騒々しいけれど、私がここにいて彼女たちの演奏を聴いていてもいいみたい。
適当な場所に釣り道具を置き、撫子の隣に腰掛ける。
今日は釣りの予定だったけれど、……まぁ仕方が無い。
偶然とはいえ、あのプリズムリバー三姉妹の生演奏がこんなところで聞けるのだ。
要するに、釣りなんかしている場合ではねぇのである。今日はほぼ確実に収穫ゼロは確定だろうけれど、まぁいいか。
「あの、いいんですか? 何か釣っていかないと怒られるんじゃ……」
「だいじょーぶ大丈夫、私がナズとぬえにユニゾンキックぶち込まれるだけだから」
「全然大丈夫じゃないですよそれっ!!?」
無論、冗談である。主に大丈夫の辺りがだけど。
でもまぁ、ナズーリンもぬえも頭の回転は早いし、なんだかんだで良い奴等だから事情を話せばわかってくれると思う。
その旨を話したらなぜか撫子はそっぽを向き、「ぬえさんは本当に蹴って来るんじゃ……」などと不吉な言葉をこぼしておいでだった。
はっはっは、やだなぁ。本当にありそうで怖いじゃない。
「ま、いいのよ。せっかくプリズムリバー三姉妹の生演奏が聴けるんだから、釣りなんてしてる場合じゃないってね。
それにさ、撫子も聴いていたいでしょ? 彼女たちの演奏。私も聴きたいからね、つまりこれは撫子が気にする必要の無い、私自身の自業自得ってこと」
「あはは、それじゃあ私もこれ以上は何もいわないことにしますね」
ウインクひとつしてそんな言葉を紡いだ彼女にうんうんと頷き、私はあらためて三姉妹に視線を向けた。
こちらに聞く準備が整ったと判断したのか、三人とも顔を見合わせて簡単な合図をするとすぐに演奏を開始した。
激しいようで、楽しいようで、けれどどこか一抹の悲しさを宿す、そんな不思議な曲。
耳に入り込む旋律は心地よくて、まるでその音楽そのものに世界があるかのような錯覚さえ感じるほどだ。
まるで、音が生きているよう。ヴァイオリンの旋律が、トランペットの合奏が、キーボードの音色が、それぞれ補いながら補強する。
三姉妹が演奏する、彼女たちだけが出せる幻想の音。
これは―――素直にすごいと、そう思える迫力が確かに備わっていた。
ふと、隣の撫子に視線を向けると、彼女は瞳を閉じて静かに聞き入っている。
その表情には笑みが浮かんで、実に楽しそうだ。
彼女は、よく笑うようになった。以前はどこか遠慮したような笑顔しか見せなかったのだけれど、今では満面の笑顔を見せてくれる。
それを、私は心から嬉しいと思った。
だって、今の彼女はこんなにも晴れやかに笑っていて、それがとても似合っているから。
そんなことを思った自分自身に苦笑して、私は再び曲に耳を傾ける。
三姉妹の奏でる音色が心地よくて、ずっとこうして聞いていた気分に駆られてしまう。
それはきっと、撫子も同じだろう。私も彼女に習って目を瞑って聞き入れば、よりいっそう彼女たちの音楽を感じ取れた気がした。
それから、何時間と演奏を聴いていただろうか。
辺りはすっかりと夕暮れに染まり、茜色が空を美しく染め上げていた。
今の今まで音楽を聴いていて、まったく飽きが来ないのは彼女たちの力量が素晴らしいからか。
最後の曲の、演奏が終わりを告げる。
私たちは惜しみなし賞賛の言葉と拍手を送ると、彼女たちは深々と一礼をする。
本当は少し名残惜しかったけれど、これ以上聞いていると遅くなってしまいそうだ。
残念だけど、ここらが潮時というやつだったのだろう。
「長い時間、私たち姉妹の演奏を聞いてくれたこと、本当に嬉しく思うわ」
「あはは、そんな堅苦しい挨拶はしなくて良いよ。すんごくよかったよ。ね、撫子?」
「はい! また今度、ぜひ聞かせてください」
「ふふ、そうね。また今度、ここで演奏させてもらおうかしら」
クスクスと苦笑する私達を見てみればわかるとおり、非常に有意義な時間だったと思う。
こんなに晴れやかな気分になれたのはいつ以来だろうか。気持ちが軽いというのはまさに今のような気分を言うのかもしれない。
そんなときであったろうか。撫子がポンッと手を叩いて、何かを思いついたらしくニコニコと笑った。
「そうだ。お礼といっては何ですが、私の特技をお見せしますね」
「特技?」
それは私も初耳である。今まで彼女から話しを聞いていたけれど、そんな話は今まで聞いたことが無い。
なにやら自信満々なその様子を見るに、よほど自身があるらしい。
……うむ、なんだか興味がわいてきた。
「ねぇねぇ撫子、それ私も見ていい?」
「はい、もちろんです」
私の言葉にあっさりと了承の言葉を返してくれると、彼女は岩から降りてその辺の砂をかき集めた。
両手一杯になった砂を見てニコニコとする彼女を見て、何も知らない私たちは首を傾げるしかないわけで。
「いきますよ」と、彼女はどこか楽しそうに言葉を紡ぐ。
何を思ったか、彼女は両手の砂を思いっきり空に放り投げ―――
それは、瞬く間に幻想の光景へと移り変わった。
開いた口がふさがらないとは、この事をいうのだろうか。
そこに広がった光景はあまりにも非現実的であり、それでいてあまりにも綺麗だった。
空中に放り投げられた砂の一粒一粒が、美しい光り輝く蝶の姿に変化したのだ。
キラキラと光り輝く蝶が無数に空へと羽ばたいていく光景は、思わず息を呑むほどに幻想的で。
うまく言葉に表せないのが悔しいけれど、こんなにも綺麗だと感じた光景を、私は知らない。
ひらひらと、生きているかのように蝶は舞う。いや、砂から変じたこの蝶の群れは間違いなく生きている。
「これが、私の能力。生前から持っていた力。偶然会った妖怪の賢者様から、『存在を偽る程度の能力』と、教わったものです。
時間がたつと、元に戻っちゃうんですけどね」
呆然と見上げる私たちの耳に、どこか懐かしむような撫子の言葉が届いた。
存在を偽る。それがどのようなものかは、目の前の光景を見ればすぐに想像がつくだろう。
そこにある物体の存在の根底から偽る力。だからこそ、今目の前で本来は砂だったはずの蝶がまるで生物のように舞っている。
無機物を、生物に。そしてたぶん、その逆も可能なんではなかろうかと、頭の隅でそんなことを考えた。
やがて時間が来たのか、光り輝く蝶たちは本来の姿に戻っていく。
艶やかに舞っていた姿は輪郭を失っていき、やがてそれぞれが一粒の砂へと。
これが、彼女の特技。彼女の、能力。
「うわー、綺麗……」
「本当ねー。ちょっと名残惜しいかな」
「そうね。もうちょっと見ていたかった気もするけど……。ありがとう、お嬢さん。とても素晴らしかった」
リリカ、メルラン、ルナサの言葉通り、彼女たちの感想も上々のようだ。
撫子は褒められたことが嬉しいのか顔を真っ赤にしてて、なんだかこっちまで微笑ましい気持ちになってくる。
それにしても、意外な特技だった。いや、本当に。
撫子がこちらを向いて、悪戯がばれた子供みたいに舌をペロッと出した。
うむ、こちらを驚かす気でわざと黙ってたわね、この子。いい度胸だ。
「それじゃ、私たちはこれで」
「はい。また機会があれば、皆さんの演奏を聞かせてください」
「うん、まったねー」
「はーいはい、リリカも行くわよー」
笑顔で手を振りながら三人を見送る撫子。だんだんと遠ざかっていく三人の影を見送りながら、私も本日使われることのなかった釣り道具を手に持った。
私もそろそろ帰らねばなるまい。これ以上時間をかけると夕飯に間に合わないし、そしたらまたトラが暴れるかもわからないし。
「じゃ、私も帰るね。あの蝶、すっごく綺麗だったわ」
「ありがとうございます、船長さん。帰り道には気をつけてくださいね」
彼女の言葉に「あいよー」などと答えつつ、別れの言葉を告げた私は空を飛ぶ。
時間にはまだ余裕があるけれど、早めに帰っておくにこしたことはあるまい。
そうして、命蓮寺への帰路へついた私は、ゆったりとした速度で空を飛び。
ひらひらと、視界の隅に光り輝く蝶を見た気がして思わずその場で停止した。
振り向けば、光の蝶がゆらゆらと目的もなく空をさまよっている。
その蝶は撫子が見せたあの蝶にそっくりで、私は思わず首をかしげたのだけれど。
「ま、よく似た蝶ぐらいいるわよね。何しろ幻想郷だし」
そんな回答に行き当たって、私はそのまま帰り道を進む。
何しろ、彼女の言葉が本当なら時間がたてば元に戻るのだ。あの時、私たちは蝶が砂に戻るのを見ているんだから、よく似た別の存在だと結論付けるのは至極当然で。
そうして、私は帰りを急いだ。私が目撃したものの意味に、始終気づくこともないままに。
▼
―――うつらうつらとまどろみの中で、私は、私でない誰かの夢を見る―――
目の前で母が泣いていた。
仕事中に妖怪に襲われた父の亡骸の前で、ただ嗚咽をこぼして。
父の遺体は凄惨なもので、あちこちが食い破られ、無事なところを探すほうが難しいくらい。
母は、泣いている。父の死を受け入れられず、ただただ涙をこぼすだけ。
泣いてほしくなかった。
大事な人の涙を、これ以上見ていたくなんかなかった。
その時の私はまだ子供で、死ぬということをよく理解できないほど幼くて。
だから、私は……父がもう一度動いてくれれば、言葉を紡げるようになれば。
母が泣き止んでくれると―――信じて疑わなかったのだ。
嗚咽は悲鳴へ。
悲しみは恐怖へ。
私が望んだ結果は遠くはなれ、死体の姿のまま動き出した父を見て、母は狂ったように泣き叫んだ。
こんなはずじゃなかった。
こんなことがしたかったんじゃない。
けれど私の力が及ぶことはなく、父だったはずのそれは体の部品をごとりごとりとこぼしながら、母に話しけかている。
時間が切れて、ソレは動くことのない骸へと戻っていく。
母が、恐ろしい形相で私を見た。
幼き頃に見た母のその顔は、今までに見たことのない苛烈な表情で。
―――寄るな、化け物ッ!!―――
私のココロを、粉々に砕くその言葉を口にした。
▼
最悪の目覚めだった。
ところどころぼんやりとした不確かな夢は、けれどもこれ以上にないくらい不愉快な夢だった。
誰の夢かは知らない。あるいは、夢を通してみた誰かの記憶だったのか。
跳ね起きた体勢のままあたりを見渡してみれば、いつもよりも10分ほど早い起床であった。
「何だっていうのよ」
ポツリと呟き、私は鬱屈を吐き出すようにため息をつく。
ここ最近、ずっと何かしらの夢を見るようになった。
そのほとんどは所々おぼろげで、明確に覚えていられる箇所はほとんどない。
ほとんどないにもかかわらず、それはどれもこれもが寂しいと感じるものばかり。
そして今日に至っては、実の母らしき人物からの拒絶である。その『誰か』の感情が流れ込んできて、胸が切り裂かれてしまったかのような痛みが、いまだ残ってるのだ。
とてもじゃないけど、いつものように二度寝をする気分にはなれなかった。
だから、結局私は布団を片付けて普段着に着替え始めることにした。たまには、朝に強いムラサ船長というものをみんなに見せねばなるまいよ。
そんなことを思いながら着替えを完了させると、どたどたと慌しい足音が聞こえてくる。
私の部屋の前で止まった足音の主は、部屋の襖を勢いよく開き。
「ムラサー起き……って何だ、もう起きてたの。……つまんないわね」
などと、心底面白くなさそうにはき捨ててくれやがったのである。
一変して不機嫌になった不思議クリーチャー封獣ぬえは、腕を組んでこちらをにらみつけてくるが、そっちの都合など知ったことじゃない。
私だって起きるのは不本意だったのだ。できればもう少し寝ていたかったっつーに。
「……ちょっと、大丈夫? 顔色悪いわよ」
「あはは、大丈夫大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけだからさー」
「気にしないでー」などと続けてみるものの、ぬえの表情は懐疑的だ。
それにしても、ぬえに心配されるとは思わなかったなぁ。指摘しても絶対に認めないだろうから口にしないけどさ。
ひらひらと手を振りつつ、ぬえの背中を押すように部屋から出て、居間へ向かう。
ぬえはいまだ納得していない様子だけど、けれどもこちらが話す気がないのを悟ってか黙ってついてくる。
けれど、それも長く続ける気はなかったようで、ぬえが暢気に背伸びをしながら言葉をかけてきた。
「ムラサ、今日も湖に行くの?」
「まぁ、半ば日課みたいなものだからねぇ」
「……またあんたの言う撫子って子に会うのね」
「友達だからね……って、ぬえ顔が怖いよ?」
何だろう、最近のぬえは撫子のことが話題に上がると途端に不機嫌になってる気がする。
彼女の何が気に入らないのやら。ていうか、そもそもあったこともない相手に気に入らないも何もない気がするし……。
……うーん、わからん。
「別に。ただ、最近あんたはその撫子って子にべったりで、からかう機会が減ってつまんないって思ってさ」
「む……」
言われて、気がついた。
そーいえば、撫子と一緒にいるのが楽しいんで命蓮寺に帰る時間が昼頃だったのが、今は夕方近くまであの湖にいる。
以前は釣りから帰ってきたらぬえとよく会話してたわけだけど、最近はその機会もめっきり減ってしまった。
……あぁ、なるほど。つまり、これはそういうことなんだろうか?
「もしかしてさ、ぬえが不機嫌なのって私が撫子ばっかりにかまってるからとか?」
「―――ッ!!」
疑問を口に出してみれば、ごらんのとおり。
目に見えてわかるほど顔を真っ赤にしたぬえは、「馬鹿じゃないの!」などと言葉にしてそっぽを向く。
どうやらものの見事にビンゴだったようである。あらためて見てみると、ぬえってこんなにもわかりやすい反応をすることがあったんだ。
こういったことに気づけないあたり、私はみんなが言うように鈍感なのかもしれない。いや、きっとそうなんだろう。
だがしかし、だからといってこの絶好の機会を逃す手はないと思うわけですよ。
「はっはぁーん」
「……何よ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべた私に不審の目を向けてくるぬえ。
ふっふっふ、普段からおちょくられている積年の恨み、今ここで晴らしてくれましょうぞ。
そんなことを思った私は悪くないと思いたい。一度ぐらい彼女をからかって普段の雪辱を晴らしたいと思うのもまた人情というわけで。
「いやー、ぬえがまさか私にかまってほしいなんて思わなかったなぁー。あははは、意外と寂しがりなのねぇ」
「だ、だから違うって言ってるでしょ!!」
「オッホッホッホ、顔を真っ赤にしていっても説得力ないよー。うむ、ちこうよれちこうよれ、このムラサ船長が撫で撫でしてあげよう!」
「こ、こら!! 撫でるなこの馬鹿!!」
「ぬえはかわいいのぅ。かわいいのう」
「ひ、人の……人の話を聞けぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
そして引き際を見誤るのも私、ムラサ船長クオリティ。
ぬえの頭を撫で撫でしていたら、悲鳴に近い絶叫とともにあのえげつないフォークみたいな槍で脳天に一撃叩き込まれるのであった。
いや、本当にマジ痛い。でもぬえがかわいかったからいいやと思う、現金な私なのであった。マル。
▼
「と、言うわけで今日はいつもより早く帰るから」
「あ、あはははは……。船長さん、それはいいんですけど頭大丈夫ですか?」
「ひどっ!? 撫子の口からそんな言葉が飛び出すとは夢にも思わなかったわ!!?」
「いや、そういう意味じゃなくてですね……見てて痛々しいんですけど、その人間の顔と同じ大きさのたんこぶ」
なにしろぬえの渾身の一撃である。撫子の苦笑が引きつっているのも仕方があるまい。
私の頭には巨大なたんこぶが鎮座しており、ズキズキとした痛みを遠慮なく注ぎ込んできやがるのだ。
当然、ものすごく痛い。とりあえず、あの子はいっぺん手加減ってものを覚えるべきだと思うんだ。
いや、今回は私も悪かったとは思うけどさ。
「あの、能力使いましょうか? 時間たったらまた痛み出しちゃいますけど」
「いやいや大丈夫大丈夫、今回は私も悪かったんだし、反省するにはちょうどいい痛みよ」
なんでも、彼女の能力はこういった怪我も「怪我をしていない」と根本から偽れるらしい。
偽ってる間は痛みもないし、怪我をしてる場所も怪我をしていない状態に戻るのだとか。
ただ、時間がたつと元に戻るんで結局痛み出すらしいが、その場しのぎにはもってこいだろう。
……なんだ、その制限時間ありの万能能力。私なんて水難事故を引き起こす程度の能力だっていうのに、同じ舟幽霊なのにこの格差。
理不尽だわ。でもその心の優しさが身に沁みる。
「あ、掛かった。掛かりました!!」
そんなことをぼんやりと考えながら彼女を眺めていると当たりが来たようで、すっかり慣れた手つきで竿を操る撫子嬢。
まだまだこの私には及ばないものの、すっかりと釣り人になった彼女は勢いよく竿を引いて、魚を釣り上げる。
50cm超の見事なホンマスである。釣り上げた魚を手にして「やった、やりましたよ!!」とぴょんぴょん跳ねる様はなんとも微笑ましい。
「お見事」
「はい!」
うん、元気のいい返事が彼女の喜びを如実に表してる気がして、私もつられて笑顔を浮かべた。
こんなときは、一緒に笑いあったほうがもっと喜びを分かち合えるものだ。
現にほら、私の目には彼女に犬の尻尾がパタパタ振ってる幻影まで見えているわけで。
……うん、やっぱこの子は子犬っぽいわ。
そんな風に笑いあっていたら、後ろから気配がしてそちらに振り返る。
多い茂る木々の向こう側から、見覚えのある灰色の髪の小さな女の子が姿を見せた。
我らが誇る賢将、ナズーリンその人である。
「およ、ナズーリンどうしたのさ?」
「何、仕事帰りに見かけたものだからね、ちょっとした興味本位さ。それで、そこの彼女が―――」
言葉が、不自然に途切れた。
視線をある一点に向けたまま硬直し、顔を見る見るうちに青ざめさせていくナズーリン。
彼女のその反応に、言いようのない不安を覚える。
いつも飄々としたやつで滅多に余裕を崩さない彼女が、今もこうして不吉なものを見たかのように顔色を悪くさせていた。
そして、その視線の先には、多分。
「……船長、彼女が君の言っていた子か?」
少し間違えば震えてしまいそうな声で、不安を必死に押しとどめた声で、ネズミは問うた。
言いようのない衝動。胸を掻き毟るかのような不安。それに耐え切れなくて、私は撫子のほうに振り返る。
そこで彼女は、瞠目したまま己の顔を手で覆っていた。
フルフルと震える腕、青ざめていく顔、何よりも、信じられないと言わんばかりの、その表情。
「うそ、……違う、……私は、そんなこと一度も……」
ふらふらと後退するその姿はひどく虚ろで、吹けば消えてしまいそうなほど弱々しくて。
明らかに正常でないその姿に、私はあわてて彼女に駆け寄った。
何度も何度も彼女の肩をゆすり、声をかけるけれど、何かをぽつぽつと呪文のように呟くばかりで反応してくれない。
「撫子!」
「……あ」
少し強く、彼女の名を呼んだ。
それでようやく彼女は顔を上げたけれど、そこに浮かんでいた表情は今にも泣いてしまいそうな表情だった。
何かに怯えてる。何かを恐れてる。そんな感情が瞳に張り付いて、その感情が華奢な体を震わせている。
「大丈夫、撫子? どこか、体の具合でも悪いの?」
問いかけてみても、彼女はフルフルと首を振る。
胸に燻る焦燥が消えてくれない。不安が止め処なくあふれてきて、私の心を塗りつぶしてしまいそうだ。
ここで彼女の声が聞こえなかったら、彼女の元気な声が聞こえなかったら、何かが致命的なまでに手遅れになってしまいそうで。
「大丈夫です、ごめんなさい船長さん。心配をかけてしまって」
笑って見せてはくれたけど、その声にはどこか力がない。
明らかに、無理をして作られた笑顔と、無理をしてつむがれた言葉。
納得なんて、できるはずがない。そんな青い顔のままの笑顔でつむがれた言葉なんて、どう納得しろって言うのか。
「ほら、そろそろ時間ですよ。ぬえさんが待ってますから、早く帰ってあげてください」
けれども、彼女が私に気づかれるのを望まないなら。
どんな表情であろうとも、彼女が心からそう願うのであれば。
私にはこれ以上、何もいうことなんかできなくて。
「本当に、大丈夫?」
「はい。私のことは気にせず、たまにはご家族のことを大事にしてあげてください」
「そっか。……うん、そうだね」
だから、全部気がつかなかった振りをして、私は踵を返した。
心配でたまらない。彼女が何を隠しているのか、わからない。それを打ち明けてくれないことが、こんなにも悲しいと思ってしまうぐらいには、私は彼女のことを好いていた。
同じ舟幽霊だとか、そういう意味じゃなくて……一人の友達として。
「また明日ね」と別れの言葉を口にして、ナズーリンのほうに視線を向ける。
先ほどまでよりは大分ましだけど、それでもその顔色は悪い。
まるで誰かをにらみつけているかのような視線を、私は意図的に無視したまま彼女のそばにまで歩み寄った。
「帰ろうか、ナズーリン」
「……あぁ、そのほうがいい」
釣り道具を手に持って言葉をかければ、彼女は重々しく頷いて空へと舞い上がった。
後ろを振り向けば、撫子がどこか名残惜しそうに手を振ってるのが見えて、私も手を振り返してからナズーリンの後を追った。
本当はまだ撫子のことが心配だったけれど、彼女にも何か考えがあってのことだろうと自分自身を無理やり納得させる。
見る見るうちに湖が遠くなる。もう彼女の姿が見えないところまで進んで、私はようやく視線を前に向けた。
あの子のことも気になるけれど、ナズーリンのことも心配だ。
あんなに顔色が悪かったんだ。様子もどこかおかしかったし、心配しないわけがない。
「ナズーリン、大丈夫?」
「……あぁ、心配ない」
彼女に問いかければ、こちらを安心させるような声で言葉を返してくれた。
確かに、先ほどより顔色はいいし、彼女がそういうのならそうなんだろう。飛んでいる姿にも危なげな様子は見えないし、「よかった」と安堵の息をこぼす。
表情は相変わらず浮かないけれど、彼女なりの考えがあるのだろう。
そう、思っていたのに。
「船長、もう彼女とはかかわらないほうがいい」
なんで、彼女はそんな言葉を口にしているというのか。
「……ナズーリン、冗談でも怒るよ」
自分でも、驚くぐらい低い声だったと思う。
そんな声が出たことにも驚いたけれど、それよりも、その声を仲間に向けているという事実こそが、自分自身でも信じられなくて。
けれども、ナズーリンの言葉を許せないと思うのも、また事実で。
その言葉にどんな意味が含まれているのか、どうしてそんな言葉を口にしたのか、そんなことも考えられないくらいに、頭が沸騰してしまって。
彼女は、言葉を続ける。神妙な面持ちのまま、私に言い聞かせるよなそんな声で。
「彼女は危険だと、そう言ったんだよ船長。これ以上、あの子とかかわり続ければ君にどんな影響が出るかわかったもんじゃない」
「だから、どういう意味よ!! あの子のことをよく知りもしないで、何で危険だって言えるの!!?」
私の口から紡ぐ言葉は、自然と大きくなって彼女に向けられた。
友達を悪く言われて黙ってるほど、私は我慢強くない。けれど、ナズーリンが意味もなくそんな言葉を紡がないのは、嫌というほど知っている。
だから、認められない。……いや、きっと私は認めたくなくて、だからこんなにも声を大きくして否定しようとしているんだ。
けれど、ナズーリンは小さくため息を吐いた。言うべきか、言わぬべきか、迷っているような表情のまま、私とは対照的な静かな声で言葉を紡ぐ。
「そうか、君はあの時の彼女を見ていなかったね。船長、君は『怨念や妬みを感じない舟幽霊』だと、彼女のことを評しただろう?
あの時、私は舟幽霊の君が言うのならそういうこともあるのだろうと納得したよ。何しろ同族の言葉だから、説得力も十分あった。
だがな、船長。彼女は私の姿を見たとき、どんな顔をしていたと思う?」
反論しようとした言葉が、音を立てて凍り付いていく。
彼女が何を紡ごうとしているのかを理解してしまって、頭がそんなはずはないと壊れたラジオみたいに繰り返してる。
聞いてはいけない。耳をふさげ。けれども、心のどこかで―――その言葉を聞くべきだと誰かがささやいた気がした。
「憎悪、嫉妬、怨念、殺意、何もかもがない交ぜになった瞳と、能面のような顔。……あぁ、あそこまで背筋の凍るような思いをしたのは本当に久々だよ。
あの様子だと彼女自身にも自覚はなかったようだが、だからこそ彼女は危うい。いったん自覚した憎悪は、それこそ無尽蔵に沸きあがって止まるまいよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! そんなのおかしいじゃない!! 今まで一緒にいた私にはそんな目を向けてこなかったわ!!
それに私以外にだってプリズムリバーの三姉妹とも普通に話してたし、なんだってナズーリンにだけそんな目を向けてくるって言うのよ!?」
彼女の勘違いであってほしかった。何かの間違いだと、そう願いたかった。
それは、否定してほしいという思いの乗った言葉。勘違いであってほしいと、その一心で私は反論する。
けれども、私がナズーリンに口で勝てたためしがないように、彼女は表情を崩さぬままに。
「……簡単だよ。それはね、君がすでに死者だからだよ船長」
あっさりと、その言葉を紡ぎだしていた。
今度こそ、私は反論するすべをなくしてしまった。
それは、私が無意識に理解するのを避けようとしていたからか。それとも、その可能性があることに目を瞑って見ない振りをしていたからなのか。
彼女は言葉を続ける。静かに、けれどもはっきりとした言葉のままで。
「君は霊から妖怪に変じたとはいえ、元は死んだ人間だ。騒霊の三姉妹もポルターガイストであって生者ではない。
これは推測だが、おそらく彼女の憎悪は生きる者に反応する。君や三姉妹にそれが向けられなかったのは、君たちが生きていない存在だからだ。
だからこそ、君も気づかなかった。だからこそ、彼女も気づかなかった。
船長の言葉通りなら、舟幽霊に成って初めて出会ったのが君だったからこそ、今まで彼女は誰にも憎悪を向けることなくいられたんだ。
生きる者を憎み、妬み、海の中へと引きずり込む。舟幽霊とは、本来そういうものだろう?」
返す言葉が、見つからない。何をつむげばいいのか、それすらもわからない。
彼女の言葉が、あまりにも理にかなっていて……反論する要素が、見つからないのだ。
彼女の言葉のとおり、本来舟幽霊とはそういうものだ。生きる者を憎み、妬み、海の中へと引きずり落とす。
他でもない私が、かつてそうだったのだ。人々に恐れられるあまり、霊から妖怪へと成り上がったくらいには。
なんで、その可能性に気づかなかったのか。何故、その可能性を考えなかったのか。舟幽霊の私こそが、その可能性に気がついて然るべきなのに。
簡単だ。私はきっと―――ずっと、見て見ぬ振りをしていただけだ。
そんなはずはないと自分自身に言い聞かせて、目の前にあった可能性を見ようともしなかった。
「でも、……私はあの子の友達よ」
「船長っ!」
それでも、彼女は私の友達なのだ。
一緒に笑って、一緒に話して、一緒に釣りもして。
二週間と少し。言葉にしてみれば一緒にいた時間はこんなにも少ない。
でも、少ないからなんだ。彼女が憎しみを自覚したから、何だって言うのか。
それを何とかするのが先輩の役目であり、友達だからこそ彼女の悩みを解決しようと思うんじゃないか。
ナズーリンの懸念も理解した。彼女が私のことを心配して言ってくれてるんだって、痛いほどわかってる。
それでも―――やっぱり私は、彼女と友達でいたいと、そう思うから。
だから、譲れない。いくらナズーリンの言葉でも、私はきっと明日も彼女に会いに行く。
「ごめん、ナズーリン。私さ、自分の身かわいさに友達と疎遠になんてなりたくないの」
「しかし……」
「大丈夫だよナズーリン。私は頑丈だからね」
へらへらと笑って、そんな言葉を紡ぐ。
彼女は何かを言葉にしようとして、けれどもそれは紡がれることはなく、代わりにため息がこぼれでた。
心底あきれたような、けれどもどこか納得したような、そんな表情をこちらに向けて。
「君は本当に馬鹿だな」
「あはは、自覚はあるよ」
「ただの馬鹿じゃないぞ、頭に超がつく大馬鹿者だ」
なんとも失礼な言い草だけど、まったく持って事実なんで何も言い返せないわけで。
それに、不思議と嫌な気分がしない。なんともおかしな話だけれど、これが自分らしいと思えてしまう。
ナズーリンはもう一度、大きなため息をひとつついた。視線を私からはずして、それから疲れた様に。
「勝手にしたまえよ。私は知らないからな」
そんな言葉を、紡ぎだしていた。
これがきっと、ナズーリンなりの妥協なんだろう。彼女なりに私のことを心配してくれているのは、よくわかってる。
彼女の推測が事実なら、私も少なからず彼女に影響を受けてしまうかもしれないから。
けれども、それでも私はあの子を放っておきたくなかったんだ。
出会ってからの時間は短いけれど、彼女がどんな風に笑って、どんな風に喜ぶのかを知っているから。
だから、彼女が困っているなら相談に乗ってあげたい。私が、彼女にとってどれくらい救いになれるかはわからないけれど。
それでも、できる限りのことをしてあげたいと、そう思うから。
▼
翌日、私は朝食を食べ終えると湖に向かう。
いつものように釣り道具を持参して、少し急ぐように空を飛んだ。
後ろへ流れていく景色には目もくれず、私が視線を向ける場所はひとつだけ。
湖が見えてくる。いつもの場所に視線を移して見れば、目的の人物は岩場で静かに腰掛けていた。
「やっほー」といつものように手を振って、ゆっくりと撫子の隣に降り立つと、彼女は笑顔を浮かべて「おはようございます」と礼儀正しく返事をしてくれる。
昨日よりは顔色がいいけれど、その笑顔はどこか悲しそうで。
「……えっとさ、大丈夫? 昨日あんなに体調悪そうだったから、心配だったんだけど」
「あはは、大丈夫ですよ船長さん。ほら、私は今日もこんなに―――」
「撫子」
遮るように、名前を呼ぶ。
彼女の言葉をさえぎったのは、その無理に浮かべた笑顔があまりにも痛ましかったから。
こちらを心配させないようにと笑ってると、一目でわかってしまったから。
ぴたりと、彼女の動きが止まる。撫子の肩をつかんでじっと目を見つめて、私は言葉を紡ぎ始めた。
「無理しないでいいんだよ。今の撫子が無理をしてるって、すぐにわかっちゃうんだからさ。
ねぇ、悩みがあるなら、遠慮なく私に相談してよ。先輩だし、それ以上に友達なんだからどんどん相談しちゃってよ」
「……でも」
「えっと、私じゃ頼りないかな?」
「ち、違います! そんなんじゃ、そんなんじゃ……ないんです」
パタパタと手を振ってあわてて否定して、笑顔を取り繕うことをやめた彼女は沈痛な面持ちで項垂れた。
こうやって、彼女の口から聞かないことには何も始まらない。
昨日のナズーリンの言う言葉が事実なら、推測どおりなら、なおのこと彼女本人の口から聞かなければいけないと思ったから。
だから、こうやって少し強引に撫子から話を聞こうとしている。
ナズーリンの杞憂なら、それでいい。杞憂だったなら「やっぱりナズーリンの考えすぎだよ」なんて、あのネズミをからかってあげればいいんだから。
けれど、もしもネズミの杞憂が本当だったなら―――なおのこと、私が彼女の助けになってやりたい。
同じ舟幽霊だからこそできるアドバイスもあるだろうし、何より私が彼女を放っておくなんてしたくないのだ。
私はただ、彼女が話してくれるまでずっと待ち続けている。
どれくらいの時間がたっただろう。数分にも思えたし、あるいは数秒程度の時間だったかもしれない。
そうして、意を決したのか撫子はぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
顔をうつむかせたまま、今にも泣いてしまいそうな、震える声で。
「……昨日、ナズーリンさんを見てから、ずっと声が止まらないんです。憎い、怨めしい、妬ましいって、殺したい、殺してやりたいって、頭の中でずっと。
そんなこと全然思ってないのに、そんなこと考えたくもないのに、なのに頭の中に大勢の誰かがいるみたいに、声が、聞こえるんです。
私、自分がわからないです。こんなこと思いたくないのに、誰かを憎むなんてしたくないのに、なのに私は―――ッ」
それ以上言葉を紡ぐことができずに、彼女は恐る恐ると自分の顔を手で覆う。
耳に届く震えた声が痛ましくて、なんて声をかけたらいいのかわからない。
おそらく、彼女は昨日からずっとその声を聞き続けたんだろう。ナズーリンを見てから、生きている誰かを見てからずっと、彼女の意思とは関係なしに。
私には……困ったことに、彼女の苦しみがわからない。彼女の気持ちを、理解できずにいた。
だって、昔の私はその憎しみに逆らわなかった。そうであるのが当然だと思っていたし、何より生きている誰かが憎くてたまらなかったのだ。
聖に救われるまで、私はずっと―――誰かを憎しみながら殺してきた。
けれども、彼女は違う。
彼女は、誰かを憎むにはあまりにも人が良すぎた。誰も憎みたくないと、そう心から思えるほどに。
だから、彼女はその憎しみに耐えられない。自分が誰かを憎むという事実を許容できず、何度も否定してはその声に耳をふさぐ。
だってほら、今の彼女はこんなにも、脆く儚く崩れ落ちてしまいそうで。
「……ねぇ、船長さん。もう、私たちが会うのはこれっきりにしませんか?」
そんな弱々しい姿で、彼女はそんな言葉を紡ぐ。
顔は俯いたまま良く見えず、けれどもその体は震えて、まるで何かに怯えているみたいで。
「私、怖いんです。誰かに憎しみを向けることも、誰かを恨むということも。
船長さんの大事な人にまでそれを向けそうになったのに、もし、あなたにまでこの憎しみを向けてしまったら、きっと私は自分自身を許せない」
「そんな、そんなこと―――ッ!」
「ねぇ、船長さん」
反論しようとした言葉が、彼女の声に遮られた。
感情の載らない、恐ろしいほどの平坦な声は、果たして本当に彼女のものだったのか。
背筋を薄ら寒いものが這い上がっていくような嫌な予感。再び面を上げた彼女の表情は、怖気が走るほどの能面。
思わず、後ずさった。
目の前の彼女は、目の前にいる少女は本当に、昨日まで共に笑いあっていた少女なのか?
「声が、止まらないんです。憎めって、妬めって、人も妖怪もこの世界すらも。何もかも憎み壊してしまえって、今もずっと聞こえるんです。
もし、私がこの声に従ってしまったら、もし、この声が私の心の本心だったら、そう思うととても恐ろしいんです。
こんな私を、見てほしくない。友達だといってくれたあなただからこそ―――こんな私の姿を、見られたくない」
ナズーリンは、確かに言った。一度自覚した憎悪は、際限なく沸き出すだろうと。
あぁ、確かにそのとおりだ。悔しいほどに、確かな結果が目の前の現実だった。
彼女は泣いている。感情のこもらぬ瞳で、能面のような表情で、けれどもその瞳から溢れる雫が、何よりも彼女の心を映し出していて。
彼女が、苦しんでる。
彼女が、泣いている。
なのに、いったい私に何ができるというのだろう。
今の私がどんな言葉を紡いだって、きっと彼女には慰めにもなりはしない。
だって、私は今彼女が体感している苦しみを知らないのだ。その苦しみを知らない者の言葉なんて、何の説得力もありはしない。
聖は、どんな思いで妖怪たちを救ってきたのだろう。どんな思いで、私を救ってくれたのだろう?
救おうとする側に立ってこそわかる、その難しさ。
なんて思い上がりだろう。私ならきっと彼女を救えるなんて、その考えが甘いことだと思い知らされる。
私に彼女は救えない。私はその憎しみに身をゆだね、彼女はその憎しみに抗おうとしている。
ゆだねた者と、抗おうとする者。その違いは些細なことだけれど、今この場においては致命的な差異となって目の前に立ちはだかっていた。
「ねぇ、撫子」
理解してしまった。意気込んでいた心がへし折れてしまいそうなほどに。
私には、彼女を救えない。彼女の悩みを解消してやれない。
そして何より、今の彼女は今まで自覚していなかった反動か憎しみに飲まれつつある。
舟幽霊ならば誰もが持つ悪意。彼女はそれを許容できずに、理性と悪意の狭間で擦り切れそうになっていた。
だってほら、あんなにも笑っていた彼女が、今はこんなにも感情がそがれ落ちてしまったように私を見つめている。
今日だって、よほど無理をして笑ったのだろう。だって、鈍感な私にもわかってしまうぐらい悲しそうだったから。
あと二、三日も立てば彼女はその憎しみに飲まれて、舟幽霊らしい悪霊へと成り果てる。
悪意と理性の狭間で擦り切れて、今の彼女の人格は殆ど残るまい。
だから、私には救えない。救えるとしたら、それはきっと―――
「私には、あなたを救えない。悔しいけど、あなたの悩みを解決する方法を、私は知らない。でも、聖ならきっと……あなたを救えるから」
私を救ってくれた聖を置いて、他にいない。
そうだ、聖なら彼女を何とかしてくれる。聖なら、きっと彼女の憎悪を断ち切ってくれる。
かつての私を救ってくれたみたいに、その力でこの子を絶対に助けてくれるに違いない。
「聖なら絶対にあなたを救える。何しろ、この悪名高いムラサ船長を救った人なんだよ? あなたの憎しみも、ここに縛られている因果も、きっとあの人なら何とかしてくれるから。
それでさ、何もかもが解決したらさ、私たちのとこに来なよ。聖を中心に集まった妖怪たちの寺、命蓮寺に」
自分がふがいなくて、涙がこぼれそうだった。
自分が彼女を救えないのもそうだし、肝心なときに結局聖を頼ってしまう自分自身が、惨めで情けなくて仕方がない。
けれども、時間はあまり多くない。彼女のこの様子では、いつ理性が崩壊するかわからない。
「私が、船長さんのところに?」
「うん」
「迷惑じゃ、ないですか?」
「そんなことないよ。うちはお人よしの集まりだからね。二名ぐらい例外がいるけど」
「ナズーリンさんとぬえさんですね」
「うん、よくわかってらっしゃる」
お互い、くすくすと笑いあった。
けれども、彼女は感情が欠落しつつあるのかぎこちない笑顔だったけれど、それでも泣いていられるよりはずっといい。
「だからさ」と、優しく彼女を抱きしめる。小柄で、華奢で、今にも折れてしまいそうな体は、冷水のように冷たかった。
泣いている子供をあやすように、優しく背中をなでてやる。
「ここで、少しだけ待ってて。事情を説明して、すぐに聖に来てもらうから。約束する」
時間がない。猶予は限られている。それがどれほど残っているのかもわからず、下手をすれば今すぐにでもそれは起こってしまうのかもしれない。
けれども、諦めるつもりなんてなかったし、見捨てるなんてする気もない。
私には、できないけれど。私には、彼女を救えないけれども。
それでも―――彼女を救える人をここに連れてくるぐらいなら、私にもできるから。
「はい、それじゃあいい子に待ってます」
「うん、よろしい」
満足できる声が聞けて、私は彼女から離れる。
何はともあれ、今は時間が惜しい。いつ彼女がその憎悪に飲まれるかわからない以上、時間との勝負だ。
きびすを返して、私は空へと舞い上がる。
今日は確か、聖は一日中命蓮寺にいる予定だったはずだ。
探す手間が省けたのは、不幸中の幸いだった。問題は、ここが命蓮寺と結構な距離があるところか。
悩んでる暇なんてない。私は全速力で命蓮寺へ向かって帰還する、その直前。
「さようなら」と、誰かの泣きそうな声が聞こえた気がした。
▼
「なるほど、事情はわかりました」
静かな声で、聖は深々とうなずいた。
命蓮寺の彼女の私室に急いで駆けつけた私は、ありのままのすべてを話して「彼女を救ってほしい」と頭を下げていた。
みんな、私が慌しい様子で帰ってきたので何事かと思ったのだろう。ここには、命蓮寺のメンバー全員が集まっている。
その中で、私の言葉を聞き終えたナズーリンがこの静けさの中で言葉を開く。
「私は、正直反対といいたいところだがね」
「ナズーリン、それは……」
「ご主人、君の気持ちもわかるが、今の彼女の言葉が本当なら尚更だ」
この中で、撫子にあったことがあるのは私の他にはナズーリンだけ。
彼女はおそらく、今の私の説明だけで撫子がどれだけ危うい状態かを察したのだろう。
だからこそ、彼女はその意見を紡ぐ。聖の身を案じているからこそ、彼女はその意見を言葉にしたのだ。
それはわかってる。わかってるけれど、それでも私の心が納得なんてしてくれなくて、思わず彼女をにらみつけてしまった。
「昨日も言っただろう、船長。彼女は危険だよ。聖が成りたてに後れを取るとは思わないが、万が一ということもある。
それにだ、聖とて万能なわけじゃない。それは君もわかっているだろう?」
「けど―――ッ!」
そんなことぐらい、わかってる。
聖だって万能じゃない。聖にだって限界がある。
けれども、彼女しか救えないと思うのだ。
彼女だったら、あの子を救えると、信じて疑わない自分がいる。
都合のいい妄信。都合のいい言葉。都合のいい幻想。
結局、これは私のわがままでしかない。ナズーリンの言うとおり、聖に危害が及ぶ可能性だって、ゼロとは言い切れないんだ。
それでも、私は。
「私にとっては、あの子は大事な友達なんだよ。一緒に笑って、一緒に喜んで、時には喧嘩もしたし、怒られたりもしたけど、かけがえのない親友なの!
私が彼女を救えるなら、とっくに何とかしてる。けれども、私じゃだめだ。駄目なのよ!」
「……船長」
涙が、こぼれて止まらない。
悔しくて、情けなくて、結局聖にしか頼るすべがない私自身が憎くてたまらない。
私が彼女を救えるなら、それでよかった。あの子の憎しみを何とかできるなら、聖に頼み込むこともなかった。
けれど、憎しみを受け入れていた私と、憎しみに抗おうとする彼女とでは、致命的に舟幽霊として違ってしまっている。
私じゃ救えない。私では、あの子の憎しみをどうにもできないし、擦り切れていく心を保つことすらもできやしない。
ゆっくりと、聖が立ち上がる。いつものようににっこりと笑顔を浮かべて、私の前まで歩み寄った。
「ムラサ、その子のところに案内して頂戴。私にどこまで出来るかわからないけれど、私でいいのなら力になるわ」
「聖、君というやつは……」
暖かい、聖の言葉。その言葉に、私は……いや、私たちは何度救われてきたことだろう。
ナズーリンは深いため息をつき、けれども「しょうがない」と苦笑した。
きっと、彼女はあえてあんな言葉を口にしたんだろう。みんな聖を慕ってるから、聖の決めたことに否という奴は殆どいない。
だからこそ、ナズーリンのようにちゃんと意見を言う奴は貴重だ。
彼女の言葉で考えさせられることも多いし、それは私たちも良くわかってる。
それを吟味し、考え、それでも―――聖は私の願いを聞き入れてくれた。
うれしく思うのと同時に、申し訳なさが心を支配する。
本当に、いつもいつも……彼女には頭が上がらない。
「ネズミは考えすぎなのよ。私と雲山は元から賛成。仲間が増えるのはいいことだわ」
「ナズーリンには悪いですけど、私も賛成です。救えるのなら救えたほうがいいですからね。聖、微力ながらお手伝いしますよ」
「私はどうでもいいんだけど……ま、賛成でいいや。これでムラサが落ち込んだら面白くないし、妹分が出来るのも悪くないしねー」
「なんだ、ぬえまで。これじゃあ私だけが悪者みたいじゃないか。やれやれ、ネズミには住みづらい世の中になったもんだ」
みんなの言葉にいろいろ言いつつも、ナズーリンは気にした風もなく苦笑して肩をすくめただけ。
彼女も、心の奥の方では賛成だったのだろう。それでも、従者として、仲間として、わずかな可能性といえど危険性を示唆しておかねばならないものだ。
みんなの言葉が、こんなにも温かい。
聖を救出するために集った仲間。恩人を救いたいがために、再び集まった仲間たち。
みんなが集まったときも、思ったことがある。そして今私の心にあるのも、同じ思い。
彼女たちは他にない、最高の仲間たちだと。
「ありがとう、みんな」
うまく、言葉は伝わっただろうか。うまく、みんなに感謝の気持ちは伝わっただろうか?
その思いを裏付けるように、みんなが笑って私の頭をはたいていく。
少し痛かったけれど、でもみんなの気持ちがこもっていた気がして、この痛みも悪くないとそう思えた。
あぁ、本当に私は―――最高の仲間と共にいるのだと、その事をうれしく思いながら。
▼
みんなを連れて、あの湖へ。
空はすっかりと茜色に染まってしまい、もう少しすれば夜の帳が落ちることだろう。
驚くほどの静寂の中、誰も言葉を発しないまま湖へとたどり着いた。
聞こえるのは虫の声と、わずかな風の音。
視界一杯に広がる湖の中に、彼女の姿が―――
「撫子?」
どこにも、見当たらなかった。
ぞわりと、背筋を言い知れない不安が駆け上っていく。
いつもいたはずの彼女の姿がない。ここから移動できないはずの彼女の姿が、どこにも見当たらない。
不安ばかりが募っていく。ここ最近、すっかりと見慣れてしまったはずの彼女の姿は、私の不安を晴らすことなく影も形も見当たらなかった。
「撫子!!?」
今度は、大声を張り上げた。ばしゃばしゃと水飛沫を立てながら湖の浅い場所に入り込む。
どこにもいない。姿が見えない。声も聞こえない。
そんなはずはない。だって彼女はここに縛られて動けないんだから。
ここにいなきゃおかしいのに、ここにいるのが当たり前だったはずなのに、それじゃあなんで―――なんで彼女はここにいないのか!?
「どこ、どこにいるの!!?」
「ちょっと、ムラサ! それ以上そっちにいったら危ないって!!?」
より湖の奥に行こうとした私を、ぬえが腕を掴んで引き止める。
けれど、力ばかり強い私はそれじゃ止まらなくて、私を止めるのに一輪と雲山も加わってようやく私の体は止まった。
辺りを見回しても、彼女の姿は見えない。いつもここにくれば笑いかけてくれた彼女は、どこにもいない。
巫女でも供養に来たのか、それとも、もっと別の何かが原因なのかはわからないけれど。
あぁ、いない。……もう、彼女は……いないんだ。
「……何でよ」
ポロポロと、瞳から熱いものがこみ上げてくる。
どんな理由があったのかはわからない。どんな原因があって、彼女が消えてしまったのかわからない。
けれども、現実は確かにここに突きつけられている。
「何でよ」
言葉が止まらない。
悔しくて、悲しくて、何かを言葉にしないと胸が張り裂けてしまいそうで。
言葉と涙が苦しさを紛らわすようにこぼれて、頭がぐちゃぐちゃで何を考えていいかもわからない。
「約束したじゃないの! ここで待っていてと! 何もかも終わったら、命蓮寺においでって!!
なのに何で、……何でどこにもいないのよ!!」
はたしてそれは、誰に向けた慟哭だったのか。
もう少しで助けられるはずだったのに、もう少しで彼女を救えるはずだったのに。
けれども、私たちがここに訪れたときはもう手遅れで、彼女の姿はどこにもない。
もう一度、泣き出してしまいそうな感情を言葉にして吐き出そうとしたそのとき―――
リィン……と、鈴の音のような音が聞こえた気がした。
「……これは」
「蝶?」
星と聖の、呆然とした言葉が耳に届いた。
心なしか一輪たちの拘束も緩んで、その光景に視線を向ける。
そこに、あの日の光り輝く蝶がいた。
あの時、彼女が見せた能力で生み出された、偽りの蝶。
それが、湖のある一点で、鈴の音のような音を響かせて止まった。
ここから少し先、急に水深が深くなっているその場所で、あの子が生み出した蝶は静かに羽を動かしている。
水面に止まるという、ある意味ではありえない光景。
まるで、誰かがここに来てほしいと、そう願っているようにも見えて。
「あ!?」
「ムラサ!!?」
彼女たちを振り払って、私はその蝶が止まっている場所まで泳いでいく。
蝶が止まっている場所にまでたどり着くと、私は思いっきり息を吸い込んで潜水を開始した。
視界に移るのは一面の湖の世界。水の中でさまざまな魚が横切り、底無しとも思える暗闇が真下に口を開けている。
リィンと、また鈴の音。
光り輝く蝶が、水中でも羽ばたきながら底無しの暗闇へと向かっていく。
まるで、彼女がここに誘っているようにも思えて。
まるで彼女が、ここに見てもらいたいものがあるとでもいわんばかりに。
ふと、上を見上げた。そこで見た光景は―――撫子と始めたあったあの日、夢で見た光景とまったく同じ水面が映っていた。
(―――ぁ)
まさか、という思いがついて出る。
この先に何があるのか―――おぼろげながらも、理解してしまった。
反転し、私は水底に向かって泳いでいく。
舟幽霊だったことが幸いして、潜水時間には自信がある。丸一日ぐらい潜ってたって、多分平気なはずだ。
暗闇の淵へと進んでいく。しばらく進むと、先を進んでいたはずの蝶がその場でゆらゆらと漂っていた。
多分、私を待っていたんだろう。私の姿を認めた途端、再び降下していったのがいい証拠だ。
やがて視界が意味を成さなくなる。目を閉じているのと変わらない暗闇の中、唯一の光は目の前を行く蝶の光だけ。
どれくらい潜っていただろう。音が意味を成さなくなり、時間の感覚もなく、もはや上に進んでいるのか下に進んでいるのかすらもわからない。
1分か、10分か、それとも一時間か。
そろそろ疲労を感じ始めたその頃に、目の前を進んでいた蝶が「ナニカ」に止まった。
蝶の光が、そのナニカを映し出す。見る人が見れば、きっと悲鳴を上げただろう光景が、底に広がっている。
白骨化した頭蓋骨が水面のほうを見上げ、くすんだ桃色の毛髪がゆらゆらと揺らめいている。
窪んだ眼孔は何を見つめていたのか、黒く深く、見るものを覗き込むようなそれに、果たして私の姿は映っているのか。
紺色の着物。ところどころひび割れた骨。そして、―――体中を覆うような、鎖と荒縄で雁字搦めにされたその姿。
―――実は、水浴びしてたら溺れちゃいまして―――
(嘘つき……、こんなのはね、殺されたって言うんだよ)
かつての、あの子の言葉が脳裏によみがえる。
鎖と縄の先には、長い年月の果てに削れて丸くなった大きな岩。
きっと、『彼女』は自分の死に様を知っていた。溺れ死んだなんて、これはそんなものじゃ説明がつかない。
『彼女』は殺されたんだ。それも多分、里のみんなや……実の親に。
だって、一人や二人で出来るようなことじゃない。これだけの岩を沈めようと思ったら、それなりの人数が必要になるはずだから。
最近見ていた夢が、次々とこの光景の裏づけを強めていく。
どれもこれも悲しかった。辛い目にあって、泣き出しそうなことばかりのあの夢は―――きっと、この子の記憶だ。
そんな目にあっておきながら、悲しい目にあっておきながら、夢の『彼女』は一度も誰かを恨まなかった。
だから、きっと『彼女』は自分が許容できなかった。
誰かを恨む自分自身を、許せなかった。
だから、多分『彼女』は自分自ら―――何らかの方法で消えたんだ。
その考えがあっているかはわからない。
でも、あの子の性格を考えたら、それが一番正解に近いような気がして。
ゆっくりと、『彼女』に近づいた。近くで見れば所々骨が陥没していて、よっぽどひどい暴力にも曝されたんだろうことは、容易に想像がつく。
慈しむ様に、その亡骸を抱きしめた。陥没した場所を優しく撫でて、怪我をした子供をあやすみたいに。
(ずっと、待ってたんだね)
きっと、あの夢を見始めた頃から、『彼女』は誰かを求めてた。
多分、それも無意識に。
それが同族の私と波長が重なってあんな夢を見たのだろうか。
考えたって答えは出ない。悩んだって、正解なんて今の私にはわからない。
けれど、これだけはわかる。
この亡骸が『彼女』で、あの夢は彼女の救いを求める声だったんだと。
(あなたの声、ちゃんと届いてたよ……『撫子』)
▼
命蓮寺の中庭に、小さな墓が立てられている。
あたりはすっかりと暗くなってしまって、どこか遠くの虫の鳴き声が届いてくる。
あのあと、彼女の亡骸を力任せに引き上げた私は、聖に頼んでこのお墓を作ってもらった。
彼女は快く協力してくれて、今は仮だけどこんなに立派なものを作ってくれた。
線香の煙を見ながら、ぼんやりと私はその前に座り込んでいる。
また一人、また一人、自分の仕事でここから離れていく中で、ぬえだけが私の側で佇んでいた。
「……」
「……」
お互い、無言のまま時間だけが過ぎていく。
今日はまん丸な月が空に昇り、妖怪も今日は元気に動き回ることだろう。
この空なら、彼女も迷わず向こうへ行けたかなーと、ぼんやりとそんなことを願ってしまう。
彼女は、もういない。私がであった舟幽霊の彼女は、何の痕跡も残さずに消えていってしまった。
どうして消えてしまったのか、時間がたてば元に戻ってしまうはずのあの蝶が、どうしてまだあの姿のままだったのか。
わからないことは一杯ある。けれど、事実だけは―――認めないといけないと思うから。
「ムラサ」
「うん?」
「そろそろ、戻りなさいよ。風邪引くわよ」
「私、舟幽霊だから大丈夫」
「……馬鹿」
くしゃりと、ぬえに頭を撫でられた。
いつもはもっと怒るくせに、今日は私が落ち込んでるのをわかってるのか妙に優しい。
気持ちよかったし、彼女が撫でてくれるのは結構レアなんでされるがままに。
彼女の心配が、心に沁みる。いつものように気丈なところはどこにもなくて、まるで子を心配する母みたい。
言うと怒られそうだから、黙って撫でられてるけどさ。
「ねぇ、ぬえ」
「なによ」
「あの子、救われたのかな」
「知るか」
身も蓋もなかった。危うくがっくりと肩を落としそうになった私は悪くないと思いたい。
こんなときでも、やっぱり彼女はぬえのままだ。
身も蓋もなくサバサバしてて、天邪鬼で、気分屋のつかめない女の子。
でも。
「でもまぁ、多分救われてたんでしょ。今まであんたが話してたその子は、楽しそうみたいだからね」
そんな風に、不器用に慰めてくれるのも、なんだか彼女らしかった。
ぐしぐしと、頭を撫でる手の力が強くなる。きっと今頃、慣れないことを言って顔を真っ赤にさせてるに違いない。
「そうかな?」
「そうよ。だから、そんなに落ち込むなこの馬鹿」
今度はバンバンと頭を叩かれた。
イタイイタイって言ってもやめてくれなくて、だんだんと彼女の表情がニヤニヤしてきているのはどういうことか。
「さすがムラサ。脳みそが詰まってない分軽い音がするわね」
「ヒドッ!!?」
「脳みそ軽いんだから、小難しいこと考えたって仕方ないでしょ。あんたじゃ一生理解できないって」
……これは、慰めてくれてる……んだよね? 慰めてるんだよね?
聞き様によってはただ蔑まれてるだけのような気がするんだけど……うーん、やっぱりぬえはわかりづらい。
「……ぬえの優しさはわかりづらい」
「私がわかりやすく優しかったら、それはそれで怖いんじゃないの」
「うん」
素直に答えたら思いっきり叩かれた。ものすごく痛い。
頭を抑えつつぬえに視線を向ければ、彼女はジト目で私をにらみつけていたりする。
なんだろう、この理不尽。やっぱりぬえが相手だと、どう受け答えしたらいいものか悩んでしまうわ。
「そこは嘘でもそんなことないって言うところじゃないの?」
「そんなものかなー?」
「そんなもんなの」
ふんっと、彼女はそっぽを向いた。
その様子がかわいらしくてくすくすと笑ってしまうと、頬を真っ赤にしながらこっちをにらみつけてくるぬえの姿。
そんなほほえましい気持ちを覚えながら、私は立ち上がった。
いつまでも落ち込んでなんかいられない。いつまでもみんなに心配ばかりかけていられない。
頭を切り替えろ、村紗水蜜。いつまでもこんな調子じゃ、あの子に顔向けできないじゃないか。
きっとあの子は、いつまでも悲しんでる私なんて、見たくないと思うから。
「戻ろうか」
「ふーん、やっと?」
「うん、いつまでもくよくよしてられないしね。それから……ありがとう、ぬえ」
紛れもない本心の言葉で、偽りのない素直な思いを、彼女に投げかける。
すると、顔を真っ赤にしたぬえが「馬鹿じゃないの! 本当に馬鹿!!」なんて照れ隠しに怒りながらずかずかと縁側に歩いていく。
その様子がおかしくて、私は苦笑しながら彼女の後を追う。
リィンっと、あの時の鈴の音。
空を見上げれば、私を導いたあの蝶がひらひらと空へと昇っていく。
彼女が生み出し、元に戻らなかった新たな命。あれが偽りなのか、それとももっと新しいものなのか、それはわからないけれど。
「来世に会うことがあったら、また友達になろう」
あの蝶に話しかければ、彼女に届くような気がして。
祈るように、私は言葉を投げかける。
彼女に届くかなんてわからない。きっと、聞こえるはずなんてない、私の自己満足。
ぬえが私を呼んでいる。
「ごめんごめん」と謝りながら、私は彼女の元へと歩いていく。
時間にすれば、三週間足らず。
一ヶ月にも満たない、不思議な友好関係。
けれども、その時間はかけがえのないもので、私たちは互いに満たされていた。
それだけは、自信を持って言えると思うから。
▼
【エピローグ】
大切な友達が、あの青空へと舞い上がった。
見る見るうちに小さくなる背中を見ながら、私はごめんなさいと、胸中で謝っていた。
「さようなら」
今にも、泣き出してしまいそうな声だった。
涙がぼろぼろとこぼれて、遠くへ行ってしまう彼女の背中が滲んでしまって見えなくなる。
彼女を見送ってから、私はいつもの岩に腰掛けた。胸の動機を押さえるように、大きく深呼吸するけれど、私の心臓は破裂してしまいそうだった。
頭に響く、ナニカの声。誰かを憎めと、誰かを恨めと、憎悪の声が私の脳内で反響する。
止まない。止まらない。頭を掻き毟りたい衝動を必死に抑えながら、きっと彼女は間に合わないと、漠然と理解していた。
神経が磨り減っていく、精神が磨耗する。その悪意の声に逆らうと意思が飲み込まれてしまいそうで、頭が万力で締め上げられてるみたい。
その前に、彼女の大切な家族に取り返しのつかないことをしてしまう前に―――自分のことは、自分で蹴りをつけないといけないと、そう思うから。
「は……ぁ」
喉からこぼれたのは、そんなかすれた声。
今の私なら、きっと自分を殺せる。肥大化した憎しみは、私の能力を底上げしているみたいで、いつかの蝶がまだ元に戻っていないのを見つけてしまった。
今の私の能力は多分、『存在を書き換える程度の能力』とでも言うべきか。
今の私の力なら、この力なら、自分の存在を根本から消してしまえるだろうから。
「……もう、限界のようね」
空から、声が聞こえてきた。
見上げれば、生前に私にこの能力のことを教えてくれた賢者様が、そこに佇んでいる。
あぁ、懐かしいなぁなんて、そんな間の抜けたことをぼんやりと思ってしまう。
「あぁ、喋らなくていいわよ。今のあなたは、喋ることすら辛いでしょう。まったく、因果なものね。
その力を何かに利用できるかと思えばあなたは里の者の手によって死に、舟幽霊として蘇ったかと思えば、肥大化した憎悪に後押しされて能力は異常な進化を遂げた。
里であなたのことを聞いた人間がいたことも災いしたのかしらね。未だにあなたは里の者たちにとっては恐怖の対象であり、その恐怖があなたを霊から妖怪へと押し上げた。
三十年前のあの時、あなたが父親の死を偽ろうとしなければ、こんなことにはならなかったでしょうに」
重々しくため息をつき、彼女は私を見下ろしている。
あはは、さすがは賢者様。何もかもお見通しなんですね。
私の力を利用しようとしてたという話は、初耳でしたけど。
「このまま、あなたを放っておくことは出来なくなった。今のあなたを放っておけば、この世界を壊しかねないもの。私が、あなたを殺してもいいのだけど……」
彼女の言葉に、私は静かに首を横に振る。
それに賢者様は「そう」と静かに言葉にしただけで、静かに私を見つめている。
不思議と、怖くはない。
今にも殺されるかもしれないのに恐怖がわかないのは、私自身の覚悟が出来てしまったからなのか。
「未練は、ない?」
未練なら、一杯ある。
もっとあの人と話していたかったし、もっとあの人と笑いあっていたかった。
あの人の家族に会って、いろんな話をして、一杯おいしいものを食べて。
そんな、普通の女の子らしい日々を、もう少しだけ―――おくっていたかった。
けれども、自分の体のことぐらい自分が良くわかってる。
もう私の精神は、致命的なまでに手遅れなまでに、憎悪にすり減らされていた。
でも、それでも私は。
「私は、あの人に、救われたから」
あの時、あの人は私の名を聞いてくれた。
あの時、彼女は友達になろうと言ってくれた。
それが、私にとってどれほど嬉しい言葉だったか。
あの言葉がどれほど、私の心を救ってくれたか。
あの人と笑って、あの人と言葉を交えて、あの人と一緒に遊んで。
かけがえのない時間を、楽しいと思える時間を、あの人は一杯くれたから。
だから、私はきっと笑って逝ける。
一杯、一杯嘘もついたけれど、それでも私は、あの人に笑っていてほしかったから。
「そう」
その言葉に、温かみが含まれていたような気がした。
不器用に、私は笑ってみせる。感情がごっそりと削げ落ちていきそうで、うまく笑えていたかはわからなかったけれど。
力を行使する。私の力は触れて、ただ念じるだけでいい。
ぼんやりと体の輪郭が消えていくような感覚。自己が曖昧になって、感情も何もかもが靄がかかったみたいにあやふやで。
視界が真っ白になる。体の感覚は、当に消えてしまってわからない。
意識が朦朧としていく中、ふと―――彼女のことが思い浮かんだ。
私が消えてしまったら、あの人は悲しんでくれるだろうか? 泣いてしまうのだろうか?
泣いてほしくないなぁなんて、そんなことをぼんやりと思う。
消えていく自己の中、私はただ願っていた。
それが、分不相応な願いだったとしても。
彼女に、届かないとわかっていても。
願わずにはいられない、そんな想い。
ねぇ、船長さん。私は、あなたと共にいられて幸せでした。
あなたと一緒にいられたから、私はずっと笑っていられました。
あなたが私にどれほどの幸せをくれたのか、きっと自覚なんてないのでしょう。
でもね、船長さん。私は、そんなあなたの鈍感なところが大好きでした。
ねぇ、船長さん。
もし、……もしも私が生まれ変わることが出来て、もう一度あなたに会えたら。
その時はもう一度。
―――もう一度、私と友達になってくれますか?―――
鬼門である能力持ちのオリキャラですが、違和感なく読めました。
ムラサが死者であるからこそ築けた友好関係ですね。
楽しく読ませていただきました。
言葉では表現できないほどの感動を与えてくれました。涙が出るかと思いましたよ。
心にしみる良い作品を有難うございました。
心が動かされました
とても胸を打つ話でした。村紗、良いお姉ちゃんだなぁ。
あぁ神様、仏様、作者様。どうか二人がいつかまた友達になれるよう、お導き下さい。
>舟幽霊だったことが幸いして、潜水時間には自身がある。丸一日ぐらい潜ってたって、多分平気なはずだ。
潜水時間には『自信』がある。ではないかと。
能力ありオリキャラでも
面白いSSはいっぱいあると思います(多少の違和感の有無はあれど)
実際、貴方の作品は面白かったです。
追記:ところどころムラぬえで2828がマッハしたのは内緒です。
今はもういない桜の少女の面影を重ねていたのでしょうか。
…映姫様、何卒恩情をお願いします。
しかし、いまは異能を受け入れ始めている。我々がそりをするためには、一体どうすればいいのだろう?
なんだろう……とにかく幸せになってほしいな、と
日常パートもそれだけで作品作れるぐらい面白かったです。
それぞれのキャラ付けや位置・役割がきっちり形になっててまったく違和感なしで読めました。
ムラぬえ2828
3回中2回は非常に悲惨な最期を遂げていますががが。
それくらい彼女は今を幸せに生きている(?)ということかしら。
彼女と同じくらいとまではいかないかもしれないけど、撫子さんにも救いはあったのだと信じたい。
魅力的な性格、容姿、特異な能力を持ち、またその力ゆえに不幸な目にも遭う。
でも心は歪まず、作品内のキャラからも好意を持たれ、時に賞賛もされる。
最期は「美しい思い出」として美しく去る。
自分のオリキャラが苦手だという気持ちは、つまり嫉妬なのかな。
嫉妬を掻き立ててくれる、魅力的な話、魅力的なキャラでした。
日常パートと、シリアスパートの暖かさと冷たさにあまりにも差がありすぎて、心に来るものがありました。
彼女は、船長の真っ直ぐさに救われたんだなぁ、と。
だから、あんな終わり方でも、彼女はきっと幸せだったんだろうなぁ。
今までのパターンから、欝な展開になるのは分かってましたから。
ぶっちゃけ、彼女は感情のままに暴れても良かったと思いますよ。怨念から生まれた妖怪なんてザラですし、その結果退治されてしまっても、ある意味では救いになったと思います。
ダークサイドに染まりきれなかったのが、或いは彼女の最大の不幸だったのではないか?
そう思います。
しかし、ただ隣にいるだけで救われることもある。
尊いねぇ。
魅力的に描かれていて良かったです。
そしてツンデレなぬえに2828してしまいました。
誤字?をひとつ報告。
租借そのさまは~→咀嚼(する)そのさまは
氏は短編ほのぼの主体のイメージがあったので、
今作のような中~長編の作品はとても新鮮な印象を受けました。
このくらい長い話も良いですね。
しかし、某所での作品からずっと読んでる人間なので、彼女とこういう形で創想話で出会うと思いませんでした。
驚くとともに、作者の表現手法の広さに感心しました。
かわいいおとなしめキャラって、東方にはいない貴重な成分です。
しかし悲しい話だ……
もっと彼女に感情移入できればなあと。
綺麗にまとめにいってしまって、強烈に引き込む力がいまいちだったと思いました。
彼女の来世に幸あらんことを。
他の命蓮寺メンバーもそれぞれ個性が出ていたし面白かった。
唯一欠点に思ったのは、撫子の悲惨な過去の具体性に欠けていたところです。
そこをもう少し色濃く描ければ、撫子に対してさらに感情移入できたんじゃないかなと思いました。
その点をー10点として、今回このような評価とさせていただきます。
次回作も楽しみに待ってます。