鈴仙が目を覚ましたのは、幾つかある食料庫の内の一つ、精肉場でのことだった。彼女がひんやりとした室内の冷気に中てられながら、ぼんやりとした眼で周囲を見回す。縦に長い造りのそこは決して広くはなかったが、ずらりと並んで吊るされた馬や豚、それに某かの胴は闇のはるか先まで続いているようだった。夜目が利くとはいえ、その先までは見通すことはできない。
入り口のドアは重い鉄製で、鍵は外からかけられ、内側からは開かないようになっている。恐らくここには自分のように生きたまま放り込まれる者も少なくないのだろう。
鈴仙は身体に異常が無いか、軽く体操をして確かめると、両の腿に備えられている筒を一つずつ外した。そこには彼女が外の世界で拝借し、爾来、愛用のWz63――銃床等を含めた全長が五百ミリ強の波蘭製短機関銃が分解された状態で収められている。
笑い続ける鈴仙の首筋を打った者がどういうつもりだったか知れないが、それらは全て無事で、三つある弾倉には脱出の際に敵を各個に撃ち払うには充分なだけの弾が込められていた。
それらを筒から取り出し、一分も経たぬ内に組み立てた。最後に銃筒の先端に静音器をねじ込むと、鈴仙はほっとした心地になった。
この手の機関銃は手入れさえすればちょっとやそっとでは壊れないとはいえ、ここは幻想郷、下手をすればあっと云う間に消耗してしまう。幸い、ここでは攻撃力よりも弾幕が張れるかどうかが重要であって、日夜、実包を造り続けていればなんとかなった。しかし、今回はそうもいかないだろう。第一、弾は今さっきに銃に込めたものと、ブレザーの内側に備えてある二つしか無い。
鈴仙はこの部屋を脱出してからどうするかを先に考えることにした。部屋を出た先が見覚えのある場所であれば良いが、それは万に一つの確率であり、楽観の類である。また、師が云ったように窓から飛び出すにしても、どこに窓があるのかがわからないのでは話にならない。やはり適当なメイドを見つけて二三発ぶち込んだ後に行く先を決めるしか無さそうだ。
一頻り考え込んで、やはり一つの案しか残らないことを確認すると、いよいよ、ドアノブに準自動に合わせた銃を突きつけた。弾丸を三発ほど撃ち込むと、ガチャリとノブが落ち、鍵が開いた。銃口から細く立ち昇る硝煙の臭いが鼻を突く。
彼女の耳が萎れてしまったのもこれの所為と云えるのだが、彼女はあまり気にしていない。外の世界の混乱に乗じて生き延びるには、人を狂わす目以外にも、こういった物に頼る必要があったのだと自分を納得させている。
ドアを背中で押しやると、ゆっくりと開き、室内に光が射し込む。しかし、だからといって近くに窓があるとは限らない。この館の空間はあのメイド長によって捻じ曲げられ、光源がどこかというのは、皆目、見当がつかないことが多い。
鈴仙はドアを身体がすり抜けられるところまで開けると、そこから顔を出して辺りを窺った。幸い、地下などではないらしく、長い廊下が左右に続いていた。
隠れる所は見当たらないが、人通りも全く無い。もしかしたら、そのまま見つからずに窓のある所までたどり着くことができるかもしれない。見つかったら見つかったで、そいつの身体に聞くまでである。基本方針が固まると、足を踏み出した。
と、そこで置き去りにした片足に違和感を覚えた。ドアに挟まったかと思ったが、そうではないらしい。彼女は冷や汗を首筋に感じながら、ゆっくりと振り向いた。
明るさに目が慣れた所為か、室内の様子は全くわからない。それでも、自分の足に伸びた血だらけの細い手だけは認めることができた。鈴仙は軽く喉を鳴らしてから、銃口でその手を突く。すると、何やら闇の中から声がしたのだった。
「私達も――」
鈴仙が耳を立てる。どうも聞き覚えのある声だったが、それを気にする間もなく、伸びた手の上から何者かが飛びかかってきた。
「連れてけぇえええええええええ!」
「うがらばぁっ!」
絶叫の中、銃爪が絞られた。
「うはぁ、やっと出られましたよ、司書長さん!」
美鈴は清々しい表情で背伸びをしている。件の司書長こと小悪魔はというと、腹を擦りながら恨めしそうに鈴仙を睨んでいた。
「そんな目したって、謝らないんだからね!」
「うう、便秘の苦しみってこんな感じなのかしらね……」
「それで済むのはそういないんだけど」
準自動だったとはいえ、九ミリの弾丸を腹部に何発か撃ち込まれて便秘程度の苦しみというのは、計算が合わない。これも悪魔としての身体能力とテンパった脳みその為せる業と云えよう。
弾丸は至近で撃ち込まれたために内部に留まってしまったのだが、先ぞに鈴仙が小型ナイフで抉り出して事なきを得ている。手当てをしている最中に暴れる小悪魔を押さえつけていた美鈴の表情は笑顔であった。
テンパっていると云えば、美鈴も美鈴で、額から流れ出て固まった血の跡を気にした様子も無い。こういった状況に慣れているのだろうか。それを想像すると、鈴仙は同情を禁じえないのだった。
何はともあれ、これで脱出経路に関しては問題が無くなった。この二人に聞けばそれで済むのである。だが、そう云う鈴仙に対して、美鈴と小悪魔の反応は芳しいものではなかった。
「普段のパターンと違うみたいなのよね。精肉場が地下に無いってだけで、おかしいんだから」
「これはあれですね、緊急時用に咲夜さんが構築し直したんですよ」
「それぐらいはここのことを多少なりとも知ってる奴なら誰だって見当がつくわよ。問題は、その緊急時用のパターンがわからないこと」
美鈴は平時・緊急時に関わらず、専ら門の守備に当たり、小悪魔は図書館内の侵入者を撃退するのが役目であったから、二人とも、館内がどのようなパターンで構築されるのか、知らないのであった。鈴仙は呆れたように溜息を吐いてみせる。
「それじゃやっぱり、手探りで脱出するしか無いわけだ」
「どういう状況かもわからないのに? 自殺行為よ」
「自殺行為に巻き込んだのはどこのどなたさんだったっけ?」
「今更それを云うわけ!? あんただって『師匠の教えが試せる』とか喜んでたじゃないのさ」
荒れかけた場を美鈴が収めるが、二人の反りは合いそうにない。これならまだ妖夢と茶を飲んでいたときがましというものであった。それを自分達でぶち壊しにしたことを棚に上げているが、誰もそれに気を留めはしない。
「私としては、咲夜さんに合流するのが一番だと思いますよ。鈴仙さんは脱出すれば済みますけど、私達はそうもいかないし……呉越同舟、ここまで来たら、鈴仙さんも手伝ってくれれば、後々、角が立ったときに良いかと」
とっくのとうに角は立っているが、それをどうこう云っても始まらないのも確かである。精肉場に自分達を押し込んだのが誰かはわからないが、少なくとも殺意は無かったようであるから、事情を説明するなり上手く誤魔化すなりすれば何とかなるだろう、というのが、意見の一致する所であった。この際、騒ぎが大きくなったのは幸いで、個人個人への制裁という形では責任の追及は無い、という冷静な分析もあった。
全員の方針が決定したところで、適当な道案内を見つけるために一行が歩き出すと、鈴仙が先ほどから気にしていたことを口にしたのだった。
「あなたたち、意外と元気よね。あんなに血だらけだったのに」
「え? ああ、目を覚ましたのは大分前なんですよ。でも、下手に動いたら傷が開くし、それで……」
「それで?」
「皆まで聞かないの。傷ついた身体に必要なのは、応急の手当てと休息、それに後一つだけでしょ」
「ああ、栄養補給か――ちょっと待った、それってもしかして!」
後ろを歩いていた鈴仙に二人が振り向く。彼女たちの顔は、気味が悪いくらいに、にやけていた。
どうしてこうなるのか。鈴仙は埒が開かないことを考えながら、小悪魔の後ろを守りつつ、廊下を飛行していた。先を行く美鈴は次から次と襲ってくる、ベストを着込んだ司書らしい者たちを千切っては投げ千切っては投げ、その欠片を小悪魔が何事か呟いて魔法で吹き飛ばしている。鈴仙は弾数の関係で、突拍子も無い奇襲に対してのみ、銃口を向け、きっちり三発ずつ撃ち込んで撃墜している。
「司書長発見! 至急増援を」
そんな伝令が其処彼処で飛び交っていたが、実際に増援が到着することはありえない。造反に協力した部隊の七割強は親衛隊の相手で手一杯であるし、元々の主力であった図書館を占拠していた部隊は既に全滅していた。
大半の者はこの造反行為の終点がどこにあるかは知らされておらず、真の目的など思いもよらぬことであった。当初は館内の指揮系統をかき乱し、良い様に跳梁跋扈していた造反者達は、今やその立場を逆転させられていた。
それでもなお、手を緩めるということは無い。彼女達には後が無いのである。
「きぃえーっ!」
「煩い!」
鈴仙の静音器が外されたWz63が廊下の角から飛び出してきた悪魔に火を吹いた。二発の音が鳴り響くと、ブローバックによって薬莢が対象と供に地面へと落ちていく。これで二つ目の弾倉を全て使い果たした。鈴仙は舌打ちをすると、手早く再装填を行う。それを見ていた小悪魔が問うた。
「弾はあとどれくらいあるの」
「これで最後。無くなったら、私は後方の撹乱に専念するからね」
「ま、上々でしょ。何だったら、進行速度を犠牲にしてでも、全員で固まって動けば良いんだからさ」
「それにしても、これじゃ道案内どころじゃないよ」
「止まっていられないんだから仕方ないでしょ」
「そうなんだけどさぁ……」
美鈴が先ほどに語ったところによれば、あのメイド長が敵を撃ち漏らすはずがない、だから、敵がいない通路を選べば自ずと合流できる。確かにそれは正論かもしれなかったが、その敵がいなくなったのが五分前のことか三十分前のことかわからないのでは、何時まで経っても合流できない。
考え込んでいた鈴仙は美鈴の背中に衝突してしまった。小悪魔も何事かと立ち止まったが、警戒は忘れず、辺りをきょろきょろと見回していた。
「覚えのある場所にでも出た?」
「いえ、それが……」
美鈴が今程に曲がったばかりの角から伸びる廊下の先を指差す。鈴仙も、そして小悪魔さえも、その先を見遣った。
「静か過ぎませんか」
「云われてみれば。その割に、瘴気が濃いわよね」
「そうなの? 私にはわからないけど」
鈴仙にはそういった気配を感じ取ることはできなかったが、その筋の者が二人とも同じ意見だというのだから、そうなのだろうと納得する。鈴仙は傍にあった大きな窓を見つめた。
場の成り行き上、ここまで来てしまったが、この二人を見捨てて逃げ出すのも悪くないように思えた。この館にはどんな魔物が巣食っているかもわからないし(事実、鈴仙はフランドールのことすら知らない)、話がこじれたとあっては、二度と師の顔を拝むこともできないというものだ。
それにしても、臭い仲とは云えど、ここまで一緒に乗り切ってきた仲間を見捨てても良いものか。
一人、鈴仙が葛藤していると、思いもよらず、手を引かれて窓の外に放り出された。わけもわからず落下したが、受身だけは忘れない。幸い、それほどの高さではなかったらしく、鈴仙はすぐに立ち上がったのだった。そこに、美鈴と小悪魔が降り立つ。二人の顔は、見てはならないものを見たのか、真っ青であった。
「いきなりどうしたの」
鈴仙が問うた瞬間、小悪魔が倒れた。鈴仙はいよいよ疲れが頂点にでも達したのかと思ったが、それは違った。小悪魔の背中には、ナイフが突き刺さっていたのだった。元々、戦闘に向いているとは云いがたい彼女にとって、それは意識を奪われるには充分な殺傷力があった。
「鈴仙さん、逃げてください!」
「え、え?」
「いいから早く!」
云われても状況がよく飲み込めずにいた鈴仙を美鈴が渾身の力で蹴り飛ばした。鈴仙はWz63を手放さないようしっかりと抱えながら、裏庭の木々の間に着地する。彼女は条件反射的に木の後ろに身を隠すと、美鈴の方を見遣った。
「あ――!」
美鈴の傍にはあの十六夜咲夜が立っていた。その出で立ちは相変わらず毅然としていたが、美鈴はというと、必要以上に怯えているようで、立っていることすらままならないといった様子だ。
鈴仙は耳を澄ませる。咲夜は倒れそうな美鈴の腰に手を回すと、口を開いた。
「怖がらなくて良いのよ」
「ひ、あ、あが」
「あなたを私のものにしてあげる」
なんだなんだ、愛人宣言か。鈴仙は場に不釣合いな展開に余計なことを考えてしまったが、二人の様子から目を離すことができずにいた。再び開いた咲夜の口からは、牙が出ていた。
「がひゃっ!」
美鈴が首を折られた犬のような声を出す。その首筋は、食い千切られていた。血管と筋肉の繊維が牙によって切断され、気管のあたりで血が泡を吹く。動脈からの返り血で咲夜の顔が真っ赤に染まり切る前に、美鈴が膝を曲げ、地面に突っ伏した。咲夜は嬉しそうにそれを眺めながら口元の血を舐め取ると、既に血でべとべととしているハンカチで顔を拭った。
「まだ按配がいまひとつね……」
鈴仙は困惑する。あの人間はいつに吸血鬼になったというのか。美鈴の驚き様と不慣れな噛み方からして、ああなってからそう時間は経っていない様子だ。だが、鈴仙にはどうしても納得ができない。かつてこの館の主人が師に語った所によれば、あのメイド長を眷属にするつもりは無いとのことだった。
元々、吸血鬼などというものは気まぐれだが、こと威厳に関わることでは変に筋が通っているのもまた事実。ならば、今、目の前で血の海の上に佇んでいる化け物は何だ。
鈴仙は云いようの無い怒りを覚えていた。それは仲間として接することができたかもしれない者たちを酷く扱われたからか、はたまたレミリアの横暴からか、判然としない。
咲夜がこちらを見る。鈴仙はその前に飛び出していた。機関銃の音が止んだとき、また一つ、血の塊が地面に置かれた。
「――私が見たのはそれぐらいだな。後の事はよくわからん」
魔理沙の話を聞きながら、アリスは代替用の義指の具合を視ていた。力加減を掴めず、ガラスのコップを三つほど壊してしまったが、一週間やそこらで定着するだろうと結論付けると、人形に用意させたコーヒーを喉に流し込む。
一本やそこらならともかく、切断された十の指全てを元通りにするのは、医学的に大変困難なことである。五本中、一二本は定着しないことも多い。ただ、医術が実現困難なことも、魔術であればそう困難なことではない。ただし、それにはアリスのように義指を用意できる技術があって、かつ、それに見合った能力を有している必要があるから、技術と云うよりは特技と云うべきかもしれない。
「なあ、ちゃんと聞いてたか?」
「あなたみたいに聞いてそうな素振りで聞き流したりしないわよ」
それはそれで器用であるが、別に羨ましくもないアリスである。羨ましいとすれば、聞いた限りでは血飛沫が飛び交っていたらしい紅魔館から帰って、なお、着替えずにいられる神経であった。今いる自宅まで送ってくれた八雲の式神もその点では同じで、別れ際には感謝の言葉ではなく、風呂に入れと言い放ち、ちょうど立ち寄った魔理沙が仲裁に入らなければ、今頃は魔法の森は大混乱に陥っていたことだろう。
「よく、見つからなかったものだわ」
「んー、幾ら透明だったと云っても、私も流石にやばいと思ったさ。だからこうして、お前さんの家に篭らせてもらってるんだ。なー?」
語末は魔理沙の膝に乗っているゴマ模様の猫に向けてのもので、アリスはどこから拾ってきたものかと気になっていたが、興味があると思われるのは癪だったので、未だに訊けずにいる。
「それなら図書館から出た後に逃げれば良かったのよ。どうしてわざわざ、館の中を散策なんてしたの?」
「いや、あまりに誰も気づかないもんだから、楽しくなってさ」
「本当は出口がわからなかっただけなんでしょ」
「それもある」
魔理沙が鼻で自分を笑うと、残っていたコーヒーを飲み干す。卓に控えていた人形、恐らくは上海だが(魔理沙には未だによく見分けがつかない)、それが御代わりはどうかとカップを叩く。魔理沙が頷くと、然るべくカップが運ばれて行った。
「なぁ」
「何?」
「あれだけ動けば、無茶しなくても良かったんじゃないのか」
すぐ隣の台所にいる人形の背中を顎で指す。
「あれは単に私の機微を読み取って勝手に動いているだけよ。それは自律とは云わない」
「ほう、それじゃ、御代わりをいれてくれるのも、全てはお前さんの気遣い故、か」
アリスは、台所でコーヒーをいれている人形を見遣ったままの魔理沙を、一瞬、睨み付けた。その所作に魔理沙が気づいたかどうかはわからない。
「――冗談。云ったでしょ、あれは勝手に動いているの」
「そういうことにしとくさ」
黙ってしまったアリスを放って置いて、魔理沙は窓の外を眺めた。半月が雲に隠れてしまうと、魔理沙は卓上の燭台をつまらなさそうに見つめた。
「なぁ」
「何?」
律儀に返すアリスに、魔理沙が問う。俯いた彼女の表情は、燭台に隠れて、アリスからは見えなかった。
「さっきお前が云った、不安。今でもあるのか」
「わかんないなぁ、そんなことは」
「あの刀で斬られたんだろう?」
「斬られたからって、どうにもならないわよ。でも」
「でも?」
「明日の夕食のレシピは決まったわ」
「それは楽しみだ」
魔理沙は顔を上げて心底嬉しそうに微笑むと、人形が抱えて来たコーヒーに口を付けた。
「お嬢様、紅茶です。こちらはパチュリー様の」
「ありがと」
「もう喉がからから。血は多めにいれてくれた?」
「はい、それはもう、たっぷりと」
紅魔館の茶の席。レミリアにとっての朝食の前に、彼女とパチュリーは卓を囲んでいた。咲夜は自分の役目が終わると、いつもと同じように、部屋を出て行った。そうして、一頻り場が収まると、再び入ってくるのである。
「あれで良かったの?」
「パチェはよくやったでしょう。咲夜が我儘を通しただけだし、気にしなくて良いわ」
「それにしたって、あんなに暴れておいて、あっさり魂を元に戻したのよ? あの子は充分に化け物だわ」
「それはほら、元の吸血鬼の魂が古かったからでしょうね。何代か前のものだし、仕方ないんじゃない」
パチュリーは知らないが、あの儀式に使われたタペストリーは咲夜が以前に用意したダミーのもので、彼女はそれを知っていたからこそ、好き勝手に出来た。レミリアはそのことを咲夜から聞いていて、いつパチュリーに話して笑ったものかと考えているが、それは大分先のことで、その頃にはパチュリーの興味は別の研究に向いているのだった。
レミリアは口に含んだ紅茶を存分に味わってから、飲み込む。口腔から昇る匂いは、彼女にとって至福と云って良いものだった。パチュリーはそういった様子を見るたびに貧血の気が起こるが、気にしないようにしている。彼女は自分の分の紅茶を一口飲むと、カップの縁を指で弾いた。
「あなたとしては、一度味を占めれば、って考えだったんでしょう?」
「選択に当たって、材料は多いに越したことは無いわ。大掃除もついでにできたし、一石二鳥じゃないの」
「だから運命も弄らなかったわけだ」
「どうなるかわからないから楽しいのよ」
「ああ、私は賛同できないわ。どうなるかわからないことなんて、やりたくないもの」
「それは悪かったわね」
「人手も随分減っちゃったし、魔理沙は変な術を覚えて何時の間にか本を持って行くし、本当、やってられないわ」
そうは云うが、パチュリーとしても収穫が無かったわけではない。何せ、生身の人間に不完全な形とはいえ化生の魂を定着させることができたのだから、その実証によって、新たな研究の糸口が掴めたのも確かなのだ。病み上がりの小悪魔が扱き使われるのも、そう遠い日のことではないだろう。薄く開けられた目の奥では、確かに知識の光が強くなっていた。
「けど、楽しかったでしょ?」
レミリアがパチュリーの様子を見て取って、意地の悪そうな目で彼女を見つめる。両の肘は卓に付けられ、合わさった手の甲に顎を乗せる。背中では楽しそうに翼が羽ばたいていた。
「否定はしないわ」
「私は大満足。まぁ、咲夜については考え方次第よ。あの子がどれだけしっかりとした考えでやってるかわかったんだからね。竹林の中の奴らや冥界の呆け幽霊にも借りが作れたし、これで不満だなんて云ったら、雨が降るわ」
妖夢と鈴仙は今頃、それぞれの主人を相手にどう説明したものかと苦悶していることだろう。特に鈴仙は咲夜に負わされた傷も浅くはない。帰路にあたっても、一人では歩くこともできず、ちょうど紅魔館の様子を見に寄った八雲の式神に背負ってもらったくらいだ。八雲のは今回は特に悲惨で、入りたい風呂も入れず、魔法使いと兎の両方を送って行くことになった。
傷と云えば美鈴が最も酷かったわけであるが、流石は紅魔館随一の大丈夫であるから、適切な介抱さえ受ければ回復も遅くはない。その役を誰が引き受けたか。知るはレミリアただ一人。
「あなたにとって、罰《ばち》なんてその程度のものなのね」
「そりゃそうよ。私が罰そのものなんだから」
「場都《ばつ》が悪いったらありはしない」
パチュリーが毒吐いたところで、咲夜が入ってきた。彼女は場都が悪そうに微笑むと、並びの良い歯が見える。レミリアは嘆息してから咲夜に紅茶の御代わりを頼むと、目を細めてこう云った。
「やっぱり、咲夜はその方が良いわ」
主人の賛辞に、従者は一層、微笑みを深めたのだった。
入り口のドアは重い鉄製で、鍵は外からかけられ、内側からは開かないようになっている。恐らくここには自分のように生きたまま放り込まれる者も少なくないのだろう。
鈴仙は身体に異常が無いか、軽く体操をして確かめると、両の腿に備えられている筒を一つずつ外した。そこには彼女が外の世界で拝借し、爾来、愛用のWz63――銃床等を含めた全長が五百ミリ強の波蘭製短機関銃が分解された状態で収められている。
笑い続ける鈴仙の首筋を打った者がどういうつもりだったか知れないが、それらは全て無事で、三つある弾倉には脱出の際に敵を各個に撃ち払うには充分なだけの弾が込められていた。
それらを筒から取り出し、一分も経たぬ内に組み立てた。最後に銃筒の先端に静音器をねじ込むと、鈴仙はほっとした心地になった。
この手の機関銃は手入れさえすればちょっとやそっとでは壊れないとはいえ、ここは幻想郷、下手をすればあっと云う間に消耗してしまう。幸い、ここでは攻撃力よりも弾幕が張れるかどうかが重要であって、日夜、実包を造り続けていればなんとかなった。しかし、今回はそうもいかないだろう。第一、弾は今さっきに銃に込めたものと、ブレザーの内側に備えてある二つしか無い。
鈴仙はこの部屋を脱出してからどうするかを先に考えることにした。部屋を出た先が見覚えのある場所であれば良いが、それは万に一つの確率であり、楽観の類である。また、師が云ったように窓から飛び出すにしても、どこに窓があるのかがわからないのでは話にならない。やはり適当なメイドを見つけて二三発ぶち込んだ後に行く先を決めるしか無さそうだ。
一頻り考え込んで、やはり一つの案しか残らないことを確認すると、いよいよ、ドアノブに準自動に合わせた銃を突きつけた。弾丸を三発ほど撃ち込むと、ガチャリとノブが落ち、鍵が開いた。銃口から細く立ち昇る硝煙の臭いが鼻を突く。
彼女の耳が萎れてしまったのもこれの所為と云えるのだが、彼女はあまり気にしていない。外の世界の混乱に乗じて生き延びるには、人を狂わす目以外にも、こういった物に頼る必要があったのだと自分を納得させている。
ドアを背中で押しやると、ゆっくりと開き、室内に光が射し込む。しかし、だからといって近くに窓があるとは限らない。この館の空間はあのメイド長によって捻じ曲げられ、光源がどこかというのは、皆目、見当がつかないことが多い。
鈴仙はドアを身体がすり抜けられるところまで開けると、そこから顔を出して辺りを窺った。幸い、地下などではないらしく、長い廊下が左右に続いていた。
隠れる所は見当たらないが、人通りも全く無い。もしかしたら、そのまま見つからずに窓のある所までたどり着くことができるかもしれない。見つかったら見つかったで、そいつの身体に聞くまでである。基本方針が固まると、足を踏み出した。
と、そこで置き去りにした片足に違和感を覚えた。ドアに挟まったかと思ったが、そうではないらしい。彼女は冷や汗を首筋に感じながら、ゆっくりと振り向いた。
明るさに目が慣れた所為か、室内の様子は全くわからない。それでも、自分の足に伸びた血だらけの細い手だけは認めることができた。鈴仙は軽く喉を鳴らしてから、銃口でその手を突く。すると、何やら闇の中から声がしたのだった。
「私達も――」
鈴仙が耳を立てる。どうも聞き覚えのある声だったが、それを気にする間もなく、伸びた手の上から何者かが飛びかかってきた。
「連れてけぇえええええええええ!」
「うがらばぁっ!」
絶叫の中、銃爪が絞られた。
「うはぁ、やっと出られましたよ、司書長さん!」
美鈴は清々しい表情で背伸びをしている。件の司書長こと小悪魔はというと、腹を擦りながら恨めしそうに鈴仙を睨んでいた。
「そんな目したって、謝らないんだからね!」
「うう、便秘の苦しみってこんな感じなのかしらね……」
「それで済むのはそういないんだけど」
準自動だったとはいえ、九ミリの弾丸を腹部に何発か撃ち込まれて便秘程度の苦しみというのは、計算が合わない。これも悪魔としての身体能力とテンパった脳みその為せる業と云えよう。
弾丸は至近で撃ち込まれたために内部に留まってしまったのだが、先ぞに鈴仙が小型ナイフで抉り出して事なきを得ている。手当てをしている最中に暴れる小悪魔を押さえつけていた美鈴の表情は笑顔であった。
テンパっていると云えば、美鈴も美鈴で、額から流れ出て固まった血の跡を気にした様子も無い。こういった状況に慣れているのだろうか。それを想像すると、鈴仙は同情を禁じえないのだった。
何はともあれ、これで脱出経路に関しては問題が無くなった。この二人に聞けばそれで済むのである。だが、そう云う鈴仙に対して、美鈴と小悪魔の反応は芳しいものではなかった。
「普段のパターンと違うみたいなのよね。精肉場が地下に無いってだけで、おかしいんだから」
「これはあれですね、緊急時用に咲夜さんが構築し直したんですよ」
「それぐらいはここのことを多少なりとも知ってる奴なら誰だって見当がつくわよ。問題は、その緊急時用のパターンがわからないこと」
美鈴は平時・緊急時に関わらず、専ら門の守備に当たり、小悪魔は図書館内の侵入者を撃退するのが役目であったから、二人とも、館内がどのようなパターンで構築されるのか、知らないのであった。鈴仙は呆れたように溜息を吐いてみせる。
「それじゃやっぱり、手探りで脱出するしか無いわけだ」
「どういう状況かもわからないのに? 自殺行為よ」
「自殺行為に巻き込んだのはどこのどなたさんだったっけ?」
「今更それを云うわけ!? あんただって『師匠の教えが試せる』とか喜んでたじゃないのさ」
荒れかけた場を美鈴が収めるが、二人の反りは合いそうにない。これならまだ妖夢と茶を飲んでいたときがましというものであった。それを自分達でぶち壊しにしたことを棚に上げているが、誰もそれに気を留めはしない。
「私としては、咲夜さんに合流するのが一番だと思いますよ。鈴仙さんは脱出すれば済みますけど、私達はそうもいかないし……呉越同舟、ここまで来たら、鈴仙さんも手伝ってくれれば、後々、角が立ったときに良いかと」
とっくのとうに角は立っているが、それをどうこう云っても始まらないのも確かである。精肉場に自分達を押し込んだのが誰かはわからないが、少なくとも殺意は無かったようであるから、事情を説明するなり上手く誤魔化すなりすれば何とかなるだろう、というのが、意見の一致する所であった。この際、騒ぎが大きくなったのは幸いで、個人個人への制裁という形では責任の追及は無い、という冷静な分析もあった。
全員の方針が決定したところで、適当な道案内を見つけるために一行が歩き出すと、鈴仙が先ほどから気にしていたことを口にしたのだった。
「あなたたち、意外と元気よね。あんなに血だらけだったのに」
「え? ああ、目を覚ましたのは大分前なんですよ。でも、下手に動いたら傷が開くし、それで……」
「それで?」
「皆まで聞かないの。傷ついた身体に必要なのは、応急の手当てと休息、それに後一つだけでしょ」
「ああ、栄養補給か――ちょっと待った、それってもしかして!」
後ろを歩いていた鈴仙に二人が振り向く。彼女たちの顔は、気味が悪いくらいに、にやけていた。
どうしてこうなるのか。鈴仙は埒が開かないことを考えながら、小悪魔の後ろを守りつつ、廊下を飛行していた。先を行く美鈴は次から次と襲ってくる、ベストを着込んだ司書らしい者たちを千切っては投げ千切っては投げ、その欠片を小悪魔が何事か呟いて魔法で吹き飛ばしている。鈴仙は弾数の関係で、突拍子も無い奇襲に対してのみ、銃口を向け、きっちり三発ずつ撃ち込んで撃墜している。
「司書長発見! 至急増援を」
そんな伝令が其処彼処で飛び交っていたが、実際に増援が到着することはありえない。造反に協力した部隊の七割強は親衛隊の相手で手一杯であるし、元々の主力であった図書館を占拠していた部隊は既に全滅していた。
大半の者はこの造反行為の終点がどこにあるかは知らされておらず、真の目的など思いもよらぬことであった。当初は館内の指揮系統をかき乱し、良い様に跳梁跋扈していた造反者達は、今やその立場を逆転させられていた。
それでもなお、手を緩めるということは無い。彼女達には後が無いのである。
「きぃえーっ!」
「煩い!」
鈴仙の静音器が外されたWz63が廊下の角から飛び出してきた悪魔に火を吹いた。二発の音が鳴り響くと、ブローバックによって薬莢が対象と供に地面へと落ちていく。これで二つ目の弾倉を全て使い果たした。鈴仙は舌打ちをすると、手早く再装填を行う。それを見ていた小悪魔が問うた。
「弾はあとどれくらいあるの」
「これで最後。無くなったら、私は後方の撹乱に専念するからね」
「ま、上々でしょ。何だったら、進行速度を犠牲にしてでも、全員で固まって動けば良いんだからさ」
「それにしても、これじゃ道案内どころじゃないよ」
「止まっていられないんだから仕方ないでしょ」
「そうなんだけどさぁ……」
美鈴が先ほどに語ったところによれば、あのメイド長が敵を撃ち漏らすはずがない、だから、敵がいない通路を選べば自ずと合流できる。確かにそれは正論かもしれなかったが、その敵がいなくなったのが五分前のことか三十分前のことかわからないのでは、何時まで経っても合流できない。
考え込んでいた鈴仙は美鈴の背中に衝突してしまった。小悪魔も何事かと立ち止まったが、警戒は忘れず、辺りをきょろきょろと見回していた。
「覚えのある場所にでも出た?」
「いえ、それが……」
美鈴が今程に曲がったばかりの角から伸びる廊下の先を指差す。鈴仙も、そして小悪魔さえも、その先を見遣った。
「静か過ぎませんか」
「云われてみれば。その割に、瘴気が濃いわよね」
「そうなの? 私にはわからないけど」
鈴仙にはそういった気配を感じ取ることはできなかったが、その筋の者が二人とも同じ意見だというのだから、そうなのだろうと納得する。鈴仙は傍にあった大きな窓を見つめた。
場の成り行き上、ここまで来てしまったが、この二人を見捨てて逃げ出すのも悪くないように思えた。この館にはどんな魔物が巣食っているかもわからないし(事実、鈴仙はフランドールのことすら知らない)、話がこじれたとあっては、二度と師の顔を拝むこともできないというものだ。
それにしても、臭い仲とは云えど、ここまで一緒に乗り切ってきた仲間を見捨てても良いものか。
一人、鈴仙が葛藤していると、思いもよらず、手を引かれて窓の外に放り出された。わけもわからず落下したが、受身だけは忘れない。幸い、それほどの高さではなかったらしく、鈴仙はすぐに立ち上がったのだった。そこに、美鈴と小悪魔が降り立つ。二人の顔は、見てはならないものを見たのか、真っ青であった。
「いきなりどうしたの」
鈴仙が問うた瞬間、小悪魔が倒れた。鈴仙はいよいよ疲れが頂点にでも達したのかと思ったが、それは違った。小悪魔の背中には、ナイフが突き刺さっていたのだった。元々、戦闘に向いているとは云いがたい彼女にとって、それは意識を奪われるには充分な殺傷力があった。
「鈴仙さん、逃げてください!」
「え、え?」
「いいから早く!」
云われても状況がよく飲み込めずにいた鈴仙を美鈴が渾身の力で蹴り飛ばした。鈴仙はWz63を手放さないようしっかりと抱えながら、裏庭の木々の間に着地する。彼女は条件反射的に木の後ろに身を隠すと、美鈴の方を見遣った。
「あ――!」
美鈴の傍にはあの十六夜咲夜が立っていた。その出で立ちは相変わらず毅然としていたが、美鈴はというと、必要以上に怯えているようで、立っていることすらままならないといった様子だ。
鈴仙は耳を澄ませる。咲夜は倒れそうな美鈴の腰に手を回すと、口を開いた。
「怖がらなくて良いのよ」
「ひ、あ、あが」
「あなたを私のものにしてあげる」
なんだなんだ、愛人宣言か。鈴仙は場に不釣合いな展開に余計なことを考えてしまったが、二人の様子から目を離すことができずにいた。再び開いた咲夜の口からは、牙が出ていた。
「がひゃっ!」
美鈴が首を折られた犬のような声を出す。その首筋は、食い千切られていた。血管と筋肉の繊維が牙によって切断され、気管のあたりで血が泡を吹く。動脈からの返り血で咲夜の顔が真っ赤に染まり切る前に、美鈴が膝を曲げ、地面に突っ伏した。咲夜は嬉しそうにそれを眺めながら口元の血を舐め取ると、既に血でべとべととしているハンカチで顔を拭った。
「まだ按配がいまひとつね……」
鈴仙は困惑する。あの人間はいつに吸血鬼になったというのか。美鈴の驚き様と不慣れな噛み方からして、ああなってからそう時間は経っていない様子だ。だが、鈴仙にはどうしても納得ができない。かつてこの館の主人が師に語った所によれば、あのメイド長を眷属にするつもりは無いとのことだった。
元々、吸血鬼などというものは気まぐれだが、こと威厳に関わることでは変に筋が通っているのもまた事実。ならば、今、目の前で血の海の上に佇んでいる化け物は何だ。
鈴仙は云いようの無い怒りを覚えていた。それは仲間として接することができたかもしれない者たちを酷く扱われたからか、はたまたレミリアの横暴からか、判然としない。
咲夜がこちらを見る。鈴仙はその前に飛び出していた。機関銃の音が止んだとき、また一つ、血の塊が地面に置かれた。
「――私が見たのはそれぐらいだな。後の事はよくわからん」
魔理沙の話を聞きながら、アリスは代替用の義指の具合を視ていた。力加減を掴めず、ガラスのコップを三つほど壊してしまったが、一週間やそこらで定着するだろうと結論付けると、人形に用意させたコーヒーを喉に流し込む。
一本やそこらならともかく、切断された十の指全てを元通りにするのは、医学的に大変困難なことである。五本中、一二本は定着しないことも多い。ただ、医術が実現困難なことも、魔術であればそう困難なことではない。ただし、それにはアリスのように義指を用意できる技術があって、かつ、それに見合った能力を有している必要があるから、技術と云うよりは特技と云うべきかもしれない。
「なあ、ちゃんと聞いてたか?」
「あなたみたいに聞いてそうな素振りで聞き流したりしないわよ」
それはそれで器用であるが、別に羨ましくもないアリスである。羨ましいとすれば、聞いた限りでは血飛沫が飛び交っていたらしい紅魔館から帰って、なお、着替えずにいられる神経であった。今いる自宅まで送ってくれた八雲の式神もその点では同じで、別れ際には感謝の言葉ではなく、風呂に入れと言い放ち、ちょうど立ち寄った魔理沙が仲裁に入らなければ、今頃は魔法の森は大混乱に陥っていたことだろう。
「よく、見つからなかったものだわ」
「んー、幾ら透明だったと云っても、私も流石にやばいと思ったさ。だからこうして、お前さんの家に篭らせてもらってるんだ。なー?」
語末は魔理沙の膝に乗っているゴマ模様の猫に向けてのもので、アリスはどこから拾ってきたものかと気になっていたが、興味があると思われるのは癪だったので、未だに訊けずにいる。
「それなら図書館から出た後に逃げれば良かったのよ。どうしてわざわざ、館の中を散策なんてしたの?」
「いや、あまりに誰も気づかないもんだから、楽しくなってさ」
「本当は出口がわからなかっただけなんでしょ」
「それもある」
魔理沙が鼻で自分を笑うと、残っていたコーヒーを飲み干す。卓に控えていた人形、恐らくは上海だが(魔理沙には未だによく見分けがつかない)、それが御代わりはどうかとカップを叩く。魔理沙が頷くと、然るべくカップが運ばれて行った。
「なぁ」
「何?」
「あれだけ動けば、無茶しなくても良かったんじゃないのか」
すぐ隣の台所にいる人形の背中を顎で指す。
「あれは単に私の機微を読み取って勝手に動いているだけよ。それは自律とは云わない」
「ほう、それじゃ、御代わりをいれてくれるのも、全てはお前さんの気遣い故、か」
アリスは、台所でコーヒーをいれている人形を見遣ったままの魔理沙を、一瞬、睨み付けた。その所作に魔理沙が気づいたかどうかはわからない。
「――冗談。云ったでしょ、あれは勝手に動いているの」
「そういうことにしとくさ」
黙ってしまったアリスを放って置いて、魔理沙は窓の外を眺めた。半月が雲に隠れてしまうと、魔理沙は卓上の燭台をつまらなさそうに見つめた。
「なぁ」
「何?」
律儀に返すアリスに、魔理沙が問う。俯いた彼女の表情は、燭台に隠れて、アリスからは見えなかった。
「さっきお前が云った、不安。今でもあるのか」
「わかんないなぁ、そんなことは」
「あの刀で斬られたんだろう?」
「斬られたからって、どうにもならないわよ。でも」
「でも?」
「明日の夕食のレシピは決まったわ」
「それは楽しみだ」
魔理沙は顔を上げて心底嬉しそうに微笑むと、人形が抱えて来たコーヒーに口を付けた。
「お嬢様、紅茶です。こちらはパチュリー様の」
「ありがと」
「もう喉がからから。血は多めにいれてくれた?」
「はい、それはもう、たっぷりと」
紅魔館の茶の席。レミリアにとっての朝食の前に、彼女とパチュリーは卓を囲んでいた。咲夜は自分の役目が終わると、いつもと同じように、部屋を出て行った。そうして、一頻り場が収まると、再び入ってくるのである。
「あれで良かったの?」
「パチェはよくやったでしょう。咲夜が我儘を通しただけだし、気にしなくて良いわ」
「それにしたって、あんなに暴れておいて、あっさり魂を元に戻したのよ? あの子は充分に化け物だわ」
「それはほら、元の吸血鬼の魂が古かったからでしょうね。何代か前のものだし、仕方ないんじゃない」
パチュリーは知らないが、あの儀式に使われたタペストリーは咲夜が以前に用意したダミーのもので、彼女はそれを知っていたからこそ、好き勝手に出来た。レミリアはそのことを咲夜から聞いていて、いつパチュリーに話して笑ったものかと考えているが、それは大分先のことで、その頃にはパチュリーの興味は別の研究に向いているのだった。
レミリアは口に含んだ紅茶を存分に味わってから、飲み込む。口腔から昇る匂いは、彼女にとって至福と云って良いものだった。パチュリーはそういった様子を見るたびに貧血の気が起こるが、気にしないようにしている。彼女は自分の分の紅茶を一口飲むと、カップの縁を指で弾いた。
「あなたとしては、一度味を占めれば、って考えだったんでしょう?」
「選択に当たって、材料は多いに越したことは無いわ。大掃除もついでにできたし、一石二鳥じゃないの」
「だから運命も弄らなかったわけだ」
「どうなるかわからないから楽しいのよ」
「ああ、私は賛同できないわ。どうなるかわからないことなんて、やりたくないもの」
「それは悪かったわね」
「人手も随分減っちゃったし、魔理沙は変な術を覚えて何時の間にか本を持って行くし、本当、やってられないわ」
そうは云うが、パチュリーとしても収穫が無かったわけではない。何せ、生身の人間に不完全な形とはいえ化生の魂を定着させることができたのだから、その実証によって、新たな研究の糸口が掴めたのも確かなのだ。病み上がりの小悪魔が扱き使われるのも、そう遠い日のことではないだろう。薄く開けられた目の奥では、確かに知識の光が強くなっていた。
「けど、楽しかったでしょ?」
レミリアがパチュリーの様子を見て取って、意地の悪そうな目で彼女を見つめる。両の肘は卓に付けられ、合わさった手の甲に顎を乗せる。背中では楽しそうに翼が羽ばたいていた。
「否定はしないわ」
「私は大満足。まぁ、咲夜については考え方次第よ。あの子がどれだけしっかりとした考えでやってるかわかったんだからね。竹林の中の奴らや冥界の呆け幽霊にも借りが作れたし、これで不満だなんて云ったら、雨が降るわ」
妖夢と鈴仙は今頃、それぞれの主人を相手にどう説明したものかと苦悶していることだろう。特に鈴仙は咲夜に負わされた傷も浅くはない。帰路にあたっても、一人では歩くこともできず、ちょうど紅魔館の様子を見に寄った八雲の式神に背負ってもらったくらいだ。八雲のは今回は特に悲惨で、入りたい風呂も入れず、魔法使いと兎の両方を送って行くことになった。
傷と云えば美鈴が最も酷かったわけであるが、流石は紅魔館随一の大丈夫であるから、適切な介抱さえ受ければ回復も遅くはない。その役を誰が引き受けたか。知るはレミリアただ一人。
「あなたにとって、罰《ばち》なんてその程度のものなのね」
「そりゃそうよ。私が罰そのものなんだから」
「場都《ばつ》が悪いったらありはしない」
パチュリーが毒吐いたところで、咲夜が入ってきた。彼女は場都が悪そうに微笑むと、並びの良い歯が見える。レミリアは嘆息してから咲夜に紅茶の御代わりを頼むと、目を細めてこう云った。
「やっぱり、咲夜はその方が良いわ」
主人の賛辞に、従者は一層、微笑みを深めたのだった。