赤い毛糸球が一個と、編み掛けの編み物がひとつ。
球から出た赤い毛糸は編み物の端につながっていて、それはゆっくり……緩やかに編み物を形作っていく。
編み棒も無く、糸がうごめくことによってひとりでに編まれていく編み物。
それがあまりにもつたなくてもどかしいものだから、私は手助けをしてあげるの。
私の手の中には編み棒が一つと鋏が一つ。
手でやわらかく毛玉をほぐして、編み棒で綺麗に編んで。
間違ってしまっても鋏は使わずに、面倒くさくてもそこまで戻る。
鋏の出番はここではないから。
こんな簡単な間違いでは切る必要もないし、そうでなければ完成まであなたの出番は無いわ。
まあ、たいてい完成したときにはちょうど糸が無くなるから出番はほとんど無いのだけれど。
間違いのほうは……私はこれでも編み物は得意なのよ?
どうにもならなくなってしまって切ったことは、そう、数えるほどしかないもの。
長い間私は生きているけど、切った者のことは忘れないわ。
いえ、忘れようが無いのね。
私は意外と義理堅いの。
失敗は恥ずべきこと、背負わなければならぬこと。
私のそれは、その子の運命にかかわることだから……
私は彼らのそれを吸いながら生きるの。
一人は魔女
一人は女の子
一人は少年
そしてもう一人は
私の妹……そして私自身
いつの間にかわたしは眠りこけていたらしい。
わたしは部屋の中心に置かれているテーブルにうつぶせに伏していた。
どれだけ寝ていたのだろう?
顔を上げると、白に包まれる。
一瞬太陽の光かと思いおびえたが、何のことは無い。
ここは真っ白い部屋だったのだ。
どうも頭がまだ寝ぼけているらしい。
わたしはかすかに残る眠気を振り払い、辺りを観察した。
この部屋は、見覚えのあるようでないような。
部屋を見渡せば何の飾り気も無い白い壁にはただ一つ違うスクエア。
年月の経った、紙色をしたカレンダー。
年と月と、週だけが書いてある曖昧なもの。
でも、それだけでも必要な事柄を手に取るには十分だった。
「そう、あれからもう5年経ったのね……やっと5年かしら?」
わたしが変わってしまってから、今は5年経っているらしい。
少なくともカレンダーはそうだった。
この長い長い寿命に細かい日付などどうでもいい。
そして、その長い寿命を知ってしまったのが5年前。
そう、5年前の自分は悩んでいた。
変わる前があったことは確かなのだけれど、そのときの私がどのようであったのか……それすら思い出せなくて悩んでいた。
なぜ自分が急にこんな体になってしまったのか、なぜこんなものが見えるのか、悩んでいた。
この見えるものが何なのか、なぜこれを前にすると血がざわめくのか、悩んでいた。
それが今ではもう、昔を懐かしむほどの余裕ができていた。
余裕ができたからこその、もう5年。
先の見えぬ寿命だからこその、やっと5年。
「今日は久しぶりに悩んでみたいわね。何か悩むようなことは無いかしら……」
背もたれに寄りかかり、考えをめぐらせる。
何か、悩むことは……何か悩むことは……何か、悩むことは?
クスリという笑い声を聞いて、はっとした。
「悩むことを探して悩んでるなんて、滑稽ね、お姉さま」
いつの間にやら、テーブルを挟んだ向かい側の椅子には少女が腰掛けていた。
もう一度、クスリと笑う少女。
ふう、とため息をつく。
驚いても、すぐ冷静になれる。
これも自分が大きくなりすぎたゆえの余裕。
「そうね、終わりの無い思考のループ。これが5年前のわたしよ。今は余裕ができてしまったから昔どおりのループとはいえないけれど」
「今のわたしは昔のわたしを真似てるだけ?」
少女は自分を指差し、明るくかたる。
「あなたではなく、わたしよ。ほんとにあなたは何も知らないのよね」
少女は明るく話す。
「私には運命がまだ無いから」
「そう、ね」
テーブルの上で手を組み、諭すように私は語る。
「あなたにはまだ運命が無いのね」
「だから」
「なら」
「お姉さまが作って頂戴」
「私が編み上げてあげるわ」
「編むべきものは?」
「運命という血の毛糸球」
「編み手に持つ物は?」
「一組ではない、一本の編み棒」
「空いた手には?」
「総てを切り落とす鋭い鋏」
「では」
「では」
「悩みは何?」
「気が触れている妹」
「悩みは何?」
「会いたくても会えない妹」
「悩みは何?」
「破壊という妹の運命」
「―――望みは何?」
「―――永劫という悩みを壊す運命の伴侶」
「お姉さま」
「なあに?」
編み物をするわたしに話しかける妹。
「その毛糸、誰のものだと思う?」
その右手は糸をもてあそんでいる。
「あなたの糸よ」
その手は、毛糸球のほうへと指を滑らせ。
「そう……」
わたしの左胸へと辿り着いた
「あなたの糸よ」
「……わたしの糸?」
そう、糸はわたしから、毛糸球はわたし?
これは?
どういう……
なぜ、なぜ、なぜ!?
わたしは、編み物を完成させる前にその右手に持った鋏で、自分の左胸から生える糸をちょん切った。
刹那、世界は紅く染まり、夢の幻想は現実へと―――
ベッドから跳ね起きる。
寝巻きには汗が染み込み、べっとりと体に張り付いていた。
布がまとわりつく気持ち悪さに嫌悪感を覚えながらも辺りを見回した。
そこは、紅い、紅い、いつもの私の部屋。
傍には姿は見せなくても、最も位の高い従者が控えている私の部屋。
「……ああ、夢ね」
まったく、どうかしているわ。
自分の妹の運命を編むなんて。
―――そもそも、私には妹なんていないのに。
「まったく、気分が悪いわ、十六夜、紅茶を頂戴」
部屋はしん、と静まったまま。
従者は姿を見せる様子が無い。
手を鳴らしてみても、やってくる気配は無かった。
仕方なく、ほかの者を呼ぼうと扉を開ける。
そこは異界と化していた。
意味がわからない。
ここはどこだろう?
昨夜までは確実に普通の洋館だったのに。
なんだろう、この
上下左右に昇るねじれた階段、異次元の色彩をガラスに映す壁に埋まった窓、肉を思わせる脈動する赤い壁。
「なに?これ?」
気持ち悪い、意味がわからない、なぜ!?
そして、クスリと漏れる笑い声。
後ろを振り向けば、金の髪をした、私と同じ紅い眼を持つ、わたしの妹。
その妹の手の中には―――
「お姉さま、遊びましょう」
「……あは、あははっ!そうね、遊びましょうか!!」
―――壊れたおもちゃ。
夢から這い出た己
夢が現実に居るという破綻
破綻から崩れた現実
それは破壊
そして―――ああ、終わらない、慚悔。
だから私がするのは手助けだけ。
編み棒は一つきり。
でもたまに、退屈で退屈で仕方がなくなることがあるの。
長く生きすぎてしまった所為かしらね。
今では後悔も永遠を彩るスパイス。
痛みに飢えたときには仕方が無いからもう片方の手の欠片の鋏を……
球から出た赤い毛糸は編み物の端につながっていて、それはゆっくり……緩やかに編み物を形作っていく。
編み棒も無く、糸がうごめくことによってひとりでに編まれていく編み物。
それがあまりにもつたなくてもどかしいものだから、私は手助けをしてあげるの。
私の手の中には編み棒が一つと鋏が一つ。
手でやわらかく毛玉をほぐして、編み棒で綺麗に編んで。
間違ってしまっても鋏は使わずに、面倒くさくてもそこまで戻る。
鋏の出番はここではないから。
こんな簡単な間違いでは切る必要もないし、そうでなければ完成まであなたの出番は無いわ。
まあ、たいてい完成したときにはちょうど糸が無くなるから出番はほとんど無いのだけれど。
間違いのほうは……私はこれでも編み物は得意なのよ?
どうにもならなくなってしまって切ったことは、そう、数えるほどしかないもの。
長い間私は生きているけど、切った者のことは忘れないわ。
いえ、忘れようが無いのね。
私は意外と義理堅いの。
失敗は恥ずべきこと、背負わなければならぬこと。
私のそれは、その子の運命にかかわることだから……
私は彼らのそれを吸いながら生きるの。
一人は魔女
一人は女の子
一人は少年
そしてもう一人は
私の妹……そして私自身
いつの間にかわたしは眠りこけていたらしい。
わたしは部屋の中心に置かれているテーブルにうつぶせに伏していた。
どれだけ寝ていたのだろう?
顔を上げると、白に包まれる。
一瞬太陽の光かと思いおびえたが、何のことは無い。
ここは真っ白い部屋だったのだ。
どうも頭がまだ寝ぼけているらしい。
わたしはかすかに残る眠気を振り払い、辺りを観察した。
この部屋は、見覚えのあるようでないような。
部屋を見渡せば何の飾り気も無い白い壁にはただ一つ違うスクエア。
年月の経った、紙色をしたカレンダー。
年と月と、週だけが書いてある曖昧なもの。
でも、それだけでも必要な事柄を手に取るには十分だった。
「そう、あれからもう5年経ったのね……やっと5年かしら?」
わたしが変わってしまってから、今は5年経っているらしい。
少なくともカレンダーはそうだった。
この長い長い寿命に細かい日付などどうでもいい。
そして、その長い寿命を知ってしまったのが5年前。
そう、5年前の自分は悩んでいた。
変わる前があったことは確かなのだけれど、そのときの私がどのようであったのか……それすら思い出せなくて悩んでいた。
なぜ自分が急にこんな体になってしまったのか、なぜこんなものが見えるのか、悩んでいた。
この見えるものが何なのか、なぜこれを前にすると血がざわめくのか、悩んでいた。
それが今ではもう、昔を懐かしむほどの余裕ができていた。
余裕ができたからこその、もう5年。
先の見えぬ寿命だからこその、やっと5年。
「今日は久しぶりに悩んでみたいわね。何か悩むようなことは無いかしら……」
背もたれに寄りかかり、考えをめぐらせる。
何か、悩むことは……何か悩むことは……何か、悩むことは?
クスリという笑い声を聞いて、はっとした。
「悩むことを探して悩んでるなんて、滑稽ね、お姉さま」
いつの間にやら、テーブルを挟んだ向かい側の椅子には少女が腰掛けていた。
もう一度、クスリと笑う少女。
ふう、とため息をつく。
驚いても、すぐ冷静になれる。
これも自分が大きくなりすぎたゆえの余裕。
「そうね、終わりの無い思考のループ。これが5年前のわたしよ。今は余裕ができてしまったから昔どおりのループとはいえないけれど」
「今のわたしは昔のわたしを真似てるだけ?」
少女は自分を指差し、明るくかたる。
「あなたではなく、わたしよ。ほんとにあなたは何も知らないのよね」
少女は明るく話す。
「私には運命がまだ無いから」
「そう、ね」
テーブルの上で手を組み、諭すように私は語る。
「あなたにはまだ運命が無いのね」
「だから」
「なら」
「お姉さまが作って頂戴」
「私が編み上げてあげるわ」
「編むべきものは?」
「運命という血の毛糸球」
「編み手に持つ物は?」
「一組ではない、一本の編み棒」
「空いた手には?」
「総てを切り落とす鋭い鋏」
「では」
「では」
「悩みは何?」
「気が触れている妹」
「悩みは何?」
「会いたくても会えない妹」
「悩みは何?」
「破壊という妹の運命」
「―――望みは何?」
「―――永劫という悩みを壊す運命の伴侶」
「お姉さま」
「なあに?」
編み物をするわたしに話しかける妹。
「その毛糸、誰のものだと思う?」
その右手は糸をもてあそんでいる。
「あなたの糸よ」
その手は、毛糸球のほうへと指を滑らせ。
「そう……」
わたしの左胸へと辿り着いた
「あなたの糸よ」
「……わたしの糸?」
そう、糸はわたしから、毛糸球はわたし?
これは?
どういう……
なぜ、なぜ、なぜ!?
わたしは、編み物を完成させる前にその右手に持った鋏で、自分の左胸から生える糸をちょん切った。
刹那、世界は紅く染まり、夢の幻想は現実へと―――
ベッドから跳ね起きる。
寝巻きには汗が染み込み、べっとりと体に張り付いていた。
布がまとわりつく気持ち悪さに嫌悪感を覚えながらも辺りを見回した。
そこは、紅い、紅い、いつもの私の部屋。
傍には姿は見せなくても、最も位の高い従者が控えている私の部屋。
「……ああ、夢ね」
まったく、どうかしているわ。
自分の妹の運命を編むなんて。
―――そもそも、私には妹なんていないのに。
「まったく、気分が悪いわ、十六夜、紅茶を頂戴」
部屋はしん、と静まったまま。
従者は姿を見せる様子が無い。
手を鳴らしてみても、やってくる気配は無かった。
仕方なく、ほかの者を呼ぼうと扉を開ける。
そこは異界と化していた。
意味がわからない。
ここはどこだろう?
昨夜までは確実に普通の洋館だったのに。
なんだろう、この
上下左右に昇るねじれた階段、異次元の色彩をガラスに映す壁に埋まった窓、肉を思わせる脈動する赤い壁。
「なに?これ?」
気持ち悪い、意味がわからない、なぜ!?
そして、クスリと漏れる笑い声。
後ろを振り向けば、金の髪をした、私と同じ紅い眼を持つ、わたしの妹。
その妹の手の中には―――
「お姉さま、遊びましょう」
「……あは、あははっ!そうね、遊びましょうか!!」
―――壊れたおもちゃ。
夢から這い出た己
夢が現実に居るという破綻
破綻から崩れた現実
それは破壊
そして―――ああ、終わらない、慚悔。
だから私がするのは手助けだけ。
編み棒は一つきり。
でもたまに、退屈で退屈で仕方がなくなることがあるの。
長く生きすぎてしまった所為かしらね。
今では後悔も永遠を彩るスパイス。
痛みに飢えたときには仕方が無いからもう片方の手の欠片の鋏を……