私は冷たい湖の夢を見る。
ここであって、ここでない場所。
誰も居ない湖を、私は夢に見る。
*
赤髪の妖怪・紅美鈴は、幻想郷にある湖の畔に棲む妖怪である。
とはいえ住処に居る時は少ない。さして広くはないが色彩豊かな幻想郷を、物見遊山に見て回る。季節により変化し、また年ごとに微妙に色合いを変える風景は、ただその目に収めるだけでも心を満たす。
春はやはり桜が主役だろう。満開の桜に見惚れ、散り際を惜しむのも、花を口実に集まった妖怪たちとと大騒ぎをするのもそれぞれに楽しい。
夏ならばやはり川か湖だろうか。あるいは緑と涼みを兼ねた山か。風流よりは陽気を楽しむ季節といえるだろう。
秋は色を変ずる木々を楽しむべし、と言いたいところではあるが、食の充実を否定するのも難しい。どちらも大いにやれば問題もないだろうが。
冬は言うまでもなく雪だろう。殺風景と言う者もいるが、一面の白もまた興がある。春を待つ楽しみもまた、冬の醍醐味と言えよう。
美鈴は時として人里にさえ訪れる。
無論、妖怪である彼女は人を喰わないでもないが、幻想郷に住む人間は基本的に手強く、里にまで下りて物色をなどするのは賢い選択ではない。時には物好きかつ強力な妖怪が、里の守護に就いている場合もある。理由は様々であるが。
それにもとより幻想郷では人間という種はマイノリティであり、それを常食として生きるのも無理がある。つまり、むやみに喰らえば幻想郷の微妙なバランスを崩しかねない。
よって食うのは、外で溢れかえっている方の人間が主である。しかし、溢れてはいるが、目立たないようにするために無闇に狩るわけにも行かず、やはり天然物は希少だ。故に、これもまた常食とするには心許ない。
よって、里に妖怪が現れたからとて決して不可思議なことではなく、むしろ無差別に人を襲うだけの妖怪など皆無に等しい。無論、不用意に妖怪のテリトリーに入る者、妖怪の時間に出歩く者が食われるのも、また不可思議なことではなかったが。そして無闇に人を襲う妖魔が、人に退治されることも。
美鈴も多数派に属する妖怪であり、人里で出歩くことになんの問題もない。むしろ彼女の感覚からすれば、幻想郷の人間はただ食うには勿体ない者が多く、どうせ食うならば食用扱いの外の人間で済ませればいいと思う。少々減ったところで、いくらでも増えるのは外の人間の良いところだ。
ただし、旅をしている間、美鈴は人里も出歩くとは言え、当然より多く遭遇するのは妖怪である。何せ妖しく怪しい存在であるので、遭遇すれば多くはやっかいごとになる。やっかいごととは解決に面倒を要するものであり、舌なめずりするほどに鬱陶しい。
つまりは騒動に遭えて楽しい、と言うことなのであるが。
やっかいごとを起こす類の者が、やっかいごとを嫌うはずがないのである。力比べ、知恵比べ、根強い人気の弾幕ごっこ等々。妖どもが楽しむネタには事欠かない。
しかし、それもまた程度による。
「そこのチャイニーズ。ちょっと私の遊び相手になりなさい」
その声は、美鈴が中秋の名月を楽しんでいた時にかけられた。虫の鳴き声がむしろ静寂を強調する中、高く澄んだ声が響いたのだった。
その日は住み着いている湖の畔で、ゆっくりと月を肴に酒を飲むつもりだった。そのつもりはあったのだが、満月に影響された誰かが騒ぎを起こすのを期待してもいた。そして望み通り騒ぎの種が、声をかけて来る者が現れた。
その騒ぎの種は、蒼い髪と血のように紅い瞳の、幼くかわいらしい少女だった。
ただし、そこまでしか見ない者はあまりにも間抜けに過ぎるだろう。その少女の背から生えている蝙蝠のような羽は、見逃すにはあまりにも大きすぎる。
最悪なことに、その姿形は間違いなく悪魔のものだった。はじめから魔としてある存在は一般に、変化の類など大多数の妖怪を上回った力を持つのである。
さらに最悪に最悪を重ねて、その少女の口元から覗く発達した犬歯は、その悪魔の中でも最も危険な種・吸血鬼であることを物語っていた。
紅い妖気を纏った飛び切りの魔の出現に、虫たちも恐れを為したか息を潜めていた。
「お誘いはうれしいんだけどね、悪魔のお嬢さん。弾幕ごっこなら他を当たった方が良いわよ」
謙遜するでもなく美鈴は、悪魔の少女にそう伝えた。彼女自身、流行りのパターン作りごっこの腕前は下手の横好き程度だと思っている。横好きと言うだけはあって、好きな遊びではあるのだが。
「あら。私はこっちを含めた方が好きなんだけど」
同時に強い衝撃が空気を叩いた。
まるで瞬間移動でもしたように美鈴に近づき、その幼い体つきの見せる印象を遙か彼方に置き去りにし、さらには音をも置き去りにして放たれた蹴りが美鈴を襲ったのだ。
しかし、空を振るわせた衝撃の元はそれだけではなかった。
同時に美鈴の放った蛇のようにしなる神速の蹴りが、悪魔の少女の迅雷の蹴りを迎え撃ったのだ。二つの蹴りは交差して衝突し、轟音と妖気の欠片を辺りに散らした。
その音が空気に溶けるのが早いか。二人は弾かれたように距離を取り、しかし、緊張する様子もなく互いに視線を交わす。
「まさかそのちっさい体で肉体派とはねぇ。てっきり飛び道具派かと思ったわ」
美鈴は少しの驚きと、隠しきれない喜びが滲んだ感想を漏らす。
いくら妖怪だなんだと言っても、肉を持って存在する以上、体格が大きい方が肉弾戦に有利をもたらす場合が多い。また強い妖力を持つ存在ほど、体を動かさずに妖術だのなんだので物事を済ませようとする傾向がある。噂によると式神を飛ばして自分は寝てばかり、という妖怪もいるとか。
そこまで極端な妖怪が居るというのは眉唾物だが、目の前に居る見た感じ幼い悪魔が肉弾戦を仕掛けてきたのは美鈴にとっても意外であり、また、ずいぶんと愉快なものでもあった。
「私は昔から肉体派よ。パターン作りごっこも好きだけど、目の前にいる同好の士は貴重だわ」
悪魔の少女は言いながら、愉快そうに、チェシャ猫のように目を細めて笑う。それは遊び相手を、弄びの相手を見る表情だ。
「だから、私を退屈させないでよ。こんなに月が紅いから、殺しちゃうわ」
「そうね、退屈させないようにするわ。こんなに月が紅いから、殺されるかもね」
今更に月の狂気が効いたとでも言うように、美鈴も獰猛な笑みを浮かべ、瞳を紅に染める。
視線を僅かに交差させた瞬間、二人は待ちかねたかのように、互いに飛びかかった。風をも上回る速度で、相手の元へと迫る。その瞬間何者かが居合わせたとして、その動きを捉えられる者は少ないだろう。
硬質の音が途切れることなく響き渡る。美鈴の妖気でもって強靱化した拳と、悪魔が伸ばした爪のぶつかり合う音である。赤髪が蛇のように尾を引き、紅色の闇が夜を切り裂く。
美鈴は洗練され、無駄を切りつめた動きでもって闘っている。それは人が使う、悪魔にチャイニーズと言わしめた外見通りの、中国系の武術の型であった。それは有るがままに振る舞うだけで強い、まさに人外の強さを誇る妖怪にとって本来は必要のない物である。
つまりは如何に研鑽を積もうと、それは妖怪にとって遊びに過ぎないのだ。しかし、人が為し得る年月を遙かに超えて、その遊びを続けていけばどうなるのか。
それは最早、一つの幻想である。
ヒトが概念としてしか持ち得ない理想の一撃を、ただの一撃でもって他者の全てを打倒する一撃を、武芸者はなんの気負いもなく放ち続ける。
ならばその幻想と、未だ応酬を続ける悪魔の少女はいったい何なのか。
美鈴の技が妖怪らしからぬ物であるのに対し、その少女の動きはまさに妖怪、いや悪魔そのものと言える物だった。
振り回すかぎ爪はただただ鋭く、その身のこなしは純粋に素早い。美鈴の動きをただ目で見て避け、なんの工夫もなく、しかし致命の一撃を放つ。
それはまさに王者の姿だった。王にはあくせくと小細工を練る必要など無く、ただ、その絶対の力を下々に振り下ろしてやればよい。
魔王はただ其処に在るだけで、既にヒトを遙かに上回る幻想なのだ。
二人の人外は、ヒトが達し得ない高みの力を惜しみなく振るい、闘争に酔いしれていた。
「フッ!」
美鈴が呼気とともに放った拳を少女が受け流そうとする。
同時に轟音が鳴り響く。
その瞬間、美鈴の拳を起点に凄まじい密度の気が炸裂したのだ。
しかし、その気の爆発に乗るようにして悪魔の少女は軽やかに舞い上がり、その影響全てを防ぐ。同時に距離を置いたところから射抜いてやろうと、悪魔の少女は莫大な量の魔力を集めた。
地に降り立ち美鈴に狙いを付けて放とうとした時、奇妙に大きな足音を立てて美鈴が動いた。僅かにその音に気を取られた刹那、美鈴の姿が悪魔の少女の視界から消えた。
少女がほんの数瞬、美鈴の姿を探すその間に。
鍛え上げた鋼鉄同士を叩き付けたような甲高い音。
生身の体が生み出したとは思えない衝撃音を響かせて、少女の背後、密着するほどの距離から放たれた美鈴の寸勁が、悪魔の少女の頭部を粉々に吹き飛ばした。
美鈴が間近まで迫った手段は瞬間移動の類ではなく、一つの歩法とでも言うべき物だった。相手の視点を読み、その注意が行き届かない隙間を縫い、接敵する。歩みそのものは、彼女たちの感覚に於いては、さほど素早いものでもなかったのだ。
ただ素早いだけの動きでは、身体能力で遙かに上を行く相手には意味をなさない。故に美鈴は足音に気を取らせ、そこから少女の気を読み、高密度に練り込んだ気を零距離から叩き込んだのだ。
しかし、美鈴は少女の頭部を吹き飛ばした直後、風切り音とともにすぐさま飛び退いた。美鈴からすれば当然の反応だ。目の前の悪魔はただ、頭を吹き飛ばされただけで、別に首無しの死体などではないのだ。
現に、首無しの少女は何事もなかったように、そのかぎ爪でもって美鈴をなぎ払おうとしたのだから。その爪は美鈴の頬を浅く凪いだだけだったが、止めを刺したなどと思いこんでいれば彼女も頭を持って行かれたところだ。
「頭をもがれるなんてずいぶんと久しぶりだわ」
悪魔は、馬鹿には見えない首でも生えているかのように、口を効いた。頭部を失っているというのに、血は噴水のように吹き上がることもなく、ゆっくりと滴り落ちている。
「来た早々こんなに面白いなんて、素敵な土地ね」
そう言う間に、吹き飛ばされた頭の破片が逆回転でもするように、元の位置へと帰還する。前と後とで変わったのは、少し血で汚れた少女の衣服くらいだろうか。
「あらら。やっぱり効かないのね、それくらいじゃ」
妖怪の基準からも凄まじいとしか言いようのない再生能力を目にして、それでも美鈴は楽しげな雰囲気を崩さなかった。確かに驚きはしたし、戦慄さえしたと言っても良いくらいだったが、それでも強者と対峙する喜びの方が上回っていた。
「いいや。百くらいは体力を奪われたわよ。万ある内のね」
事も無げに悪魔の少女は言い放つ。
「それは治り過ぎよ。西洋の多頭竜じゃないんだから。せいぜい5,6回くらいにしておいてよ」
呆れたように美鈴は言ったが、頭を吹き飛ばされて5,6回もほいほいと復活するなら十分に異常である。
「でも、まあ」
美鈴はそこで言葉を切り、
「百回叩き潰せばいいって事かしらね?」
そう言って太い笑みを漏らした。
「勿論よ。でも、出来るかしら?」
悪魔の少女はころころと笑いながら答えると、先ほど美鈴がして見せたように彼女の視界から姿を消した。
気配だけを頼りに美鈴が防御を固めると下方から凄まじい衝撃が襲い、ガード越しに美鈴を宙に浮かせた。攻撃を受けた美鈴にさえも、それが何であったか見えないほどに、ただただ速く、重い一撃。
美鈴が技量でもって悪魔の少女の視界から消えたのならば、彼女はその桁違いの身体能力でもって美鈴の視認を超えたのだった。魔王の歩みは、ただそれだけで致命の技となるのだ。
その動きは加速に加速を重ね、ただ一人を相手にしているはずが、幾人もの悪魔を同時に相手にしているかのようだった。上下左右、背後、正面から絶え間なく繰り出される爪と蹴りが、それでも未だ防ぎ続ける美鈴の手足とかち合い、空を切り裂き身を穿つ音を奏で続ける。
そして、肉を貫く音。
悪魔の少女の鋭いかぎ爪が遂に美鈴の防御を打ち破り、その胴を深々と貫いた。美鈴ののどに熱い塊が込み上げ、そして。
轟。
寸前まで悪魔の少女があった空間を、硬質の気塊が粉砕する。
「抜け目ないのね、あなた」
悪魔の少女は突き立てた爪を躊躇無く抜き去り、美鈴が放った高圧の気を秘めた拳を直前で避けていた。肉を切らせて骨を断つというやつか、と少女は半ば感心していた。欲を掻いて止めを刺そうとしていれば、今度は全身を吹き飛ばされていたところだろう。
「そりゃこっちの台詞。もうちょっと引きつけようと思ったのに、中から吹き飛ばそうとしてくれたじゃない」
口腔に溜まった血を唾とともに吐き捨てながら美鈴が気の廻りを活性化させると、早々に傷はふさがった。この程度の傷は、そう大した物ではない。
むしろ、誘い込んで放ったカウンターが失敗したことの方が問題であった。目で追いきれないほどの相手である。多少のダメージは良しとしようとしたのだが、内部から魔力を注ぎ込まれようとしたのを見て取っては、悠長に引きつけるわけにも行かなかったのだ。
「なんだ。あなたもしぶといんじゃない」
吸血鬼の目から見ても、素早い回復だと感じたのだろう。
「あんたほどじゃないわよ」
自分自身をさておいて、大概に頑丈な相手だ、と二人は互いに思った。
そして、血が沸き立つほどの強敵であるとも。
秋の夜長さえ短い。逢瀬の時を惜しむように、二つの紅は再び交差した。
止むことなく続く闘いの喧騒は、既に数時間も続いている。辺りの地面は手足の一撃に、あるいは妖気の塊によって、幾つものクレーターが穿たれていた。凡庸な魔であれば即座に雲散霧消しかねない一撃を互いに叩き付け合いながら、未だ二人は衰えた様子を見せない。
美鈴が技量を凝らした攻めを見せれば、悪魔は未来を読んだかのようにそれを防ぎ、美鈴はさらにその裏を掻く。少女が身体能力で美鈴を翻弄しようとすれば、気の流れを掴んだ美鈴が捉えられないはずの相手を捉え、少女はさらにそれを上回る動きを見せた。
拳と爪が激突し、その間で強大な妖気が反発し合う。その身と、妖気によって生み出された斥力は、甲高い音を立てて互いをはじき飛ばした。
美鈴は踵で地を削りながら渾身の一撃のために拳を固め、高速でチャクラを回し気を高める。
悪魔の少女はその羽で空を叩き衝撃を殺しながら、最大の一撃を放とうとその手に紅色の魔力を集める。
美鈴の足が地を踏みしめて止まり、少女が空中にその身を固定させる。武芸者の手には虹色の気塊があり、魔王の手には赤よりも紅い魔光がある。
最早互いの一撃をぶつけるのみ。
一瞬が過ぎる。
さらに数秒が過ぎる。
それでも二人の手にある必殺は、未だ放たれていない。ただ、互いに視線を合わせたまま時が過ぎる。
「この手で詰みね。私の負け」
めまぐるしく動いた二人の時にとって永遠にも等しい数秒のあと、軽いため息混じりに美鈴は言った。
「夜明けまであと十分かしら。良い線行ったわよ、あなた」
悪魔の少女はその外見のままに、可愛らしい微笑みを見せた。
闘いの気配が去ったことを感じ取ったのか、虫たちが喧騒を取り戻す。この場に居座ったままだったというのは、ずいぶんと剛毅な虫たちである。
二人の間では次の互いの一撃が美鈴に止めを刺す、あるいは十分以内に片を付ける一手となると判断したのだろう。夜明けが何をもたらすかと言えば、
「でもあなた。どうして時間の引き延ばしに入らなかったのかしら?」
吸血鬼はその強さの代わりに、日光など数多の弱点を持つ。故に日の出まで粘ることが出来れば十分に勝ちと言えるのだが、結局美鈴にそれを狙っていた様子はなく、本気で百たび打ち倒そうとしていたようだ。
「そういうやり方は吸血鬼ハンターの人にでも任せればいいのよ。私は妖怪だからそっちは専門外」
美鈴のその言葉に、予定通りの言葉に、吸血鬼の少女はにんまりと笑った。
「あなた馬鹿ねえ、素敵に。だから、今からあなたは私の物よ」
「はぁ?」
少女の文脈が繋がっていない言葉に、美鈴は困惑した。
「私が気に入ったモノは全て、私のモノよ。負けたんだから大人しく私の所有物になりなさい」
とんでもない王様発言だった。この幻想郷、言動から何から逸脱している輩が多いが、美鈴もここまでかっ飛んでいる者は初めて見た。これほどの変人である。きっとトラブルが向こうから寄ってくるに違いない。
「かしこまりました、お嬢様」
なので、美鈴はたった今からの主人へ優雅に会釈をした。飛び切りに強くて、その上変な相手と関わる機会を逸する、などと言うことは美鈴には考えられなかった。
「よろしい。身を尽くして仕えなさい、紅美鈴」
「え?」
美鈴の反応に、少女は悪戯を成功させた子供の顔で笑う。名乗ってもいないのに名を知られていれば当然驚く。まして美鈴には、特に名を売っていた覚えもなかったのだし。
「あなたの主の名は、レミリア・スカーレット。面白い『偶然』でしょう?」
互いの性は「紅」を示すと言うことだ。
やはりこの選択は正解だった、と美鈴は思う。早くも面白いようだ、この主人に仕えるのは。
*
紅美鈴の仕事ぶりは外見上、だいぶいい加減である。常に門前で控えてるでもなくふらふらと歩き回り、館内で暇を潰していたり、時には絵などを描いていたりするところなどを館のメイドが見ることもある。
絵に関しては手法も対象もバラバラで、また暇を潰す以上の価値を見いだしていないのか、描き上げたあとは自室に放置しているらしい。ただし、誰かしらがこっそりと持ち出しては館内に立てかけてあったり、かつそれがなかなかに様になっているところを見ると彼女の腕前はなかなか達者であるようだ。他にもいくつかある彼女の多芸の源は、暇つぶしの趣味を飽きもせずに延々と続けたことによるようである。
つまり、暇が出るような働きぶりである、と言うことなのだが。
とは言え、永遠に幼き紅き主人も完全で瀟洒なる従者も、その辺りについてはおおざっぱで何も言わない。館で最も偉い存在と、実質的な管理者が何も言わないのであれば下っ端のメイドなどが文句を付けられるはずもない。
それにサボっているはずの門番は、来訪者があればいつの間にか門前にいるのである。それ故に外から来る者には、門前に根を張っているのかとまで思われていたりもするらしい。
例外的に七曜の魔女は顔を合わせるたびに文句を言うが、彼女が毒を吐かない相手はおおよそ存在しないだろう、と言うのがひねくれ者の魔女をよく知る者の一致した見解である。魔女は、本人の言はどうあれ、実際の所来客を歓迎している、というのが侵入者を追い出したりする者の間ではこれまた統一見解であったため、文句を言われつつも半分素通ししているのが実情である。
最近は白黒はおろか、七色まで寄りつくほどだ。
悪態は吐きつつも相手をしている辺り、このスタンスで間違っていないだろうと美鈴は考えている。彼女は二つ名の通りまさに図書館であり、それなりの手続きを踏めば閲覧許可が下りると言うことだろう。ただし、その手続きが閲覧台帳の記入などではなく、弾幕なり機嫌取りなりや、あるいは交換する価値のある智なりであると言うだけの話だ。
よって、一般的門番としては噴飯モノの業務内容だったが、紅魔館の門番としては問題ない、と言うのが美鈴の口にはしない主張である。中に居るのがかよわい姫君でそれを守る騎士である、と言うようなおとぎ話ならともかく、一番危険なのが奥にいる姫君っぽく見える魔王とその妹君の破壊神となれば通常の門番など意味をなすはずもない。
自分の業務は実際のところ受付嬢だ、というのが美鈴の結論となる。顔パスになるか正当なアポを取るか門番を倒してお進み下さい、と言うのが美鈴の方針であり、不作法にしろ実力不足にしろ、門番に止められる者は紅魔館に訪れるのに相応しくない、と言うことである。
なので、本日ここヴワル大図書館に呼ばれたことを恐れる必要はない。先日、モノクロ二色に魔法書を数冊持って行かれたことを問いつめるために呼ばれた、とかでは決してない。無論、問いつめる間もなく焼き払うために呼んだとかではない、はず。
理論武装を終えた美鈴が、ヴワルの前で覚悟を決めて息を吸い込むと、
「美鈴。着いたのならとっとと入りなさい」
魔女の声が掛かり、重い音を立てて図書館の扉が開く。因みに重い音は演出であり、その気があればスムーズに開く。
図書館の主の声から判断すると、機嫌も体調も悪くないようである。
「はい、ただいまー」
どうやら危険がないようだと美鈴が安心して中に入ると、そこは唐突に魔女の書斎であった。執務机に着きこちらを睨め付けているのは当のこの部屋の主、七曜の魔女たるパチュリー・ノーレッジである。紫色の流れるような長い髪の愛らしい顔立ちをした少女なのだが、いつもながらに顔色と目つきが悪い。
顔色が悪いのは病弱であるのが原因であり、目つきが悪いのは視力に難があるためである。かといって今にも死にそうなのかと言えばそうでもなく、多少殺したところで素直に滅びるような殊勝な輩ではない。彼女の病弱は吸血鬼が持つ弱点のようなものであり、彼女の持つ莫大な魔力との等価交換品なのだろう。
「こんにちは、美鈴さん」
その傍らには、彼女の使い魔にしてこの図書館の司書のようなものである、無名の小悪魔が立っていた。赤毛の可愛らしい少女に見えはするが、無名とは言え歴とした悪魔であり外見通りのか弱い存在では決してない。
「遅かったわね美鈴」
もう一人は人間である。人間であるが、そう一括りにするに相応しい存在ではないだろう。悪魔の犬であり時空操作者である銀色の従者・十六夜咲夜は、その二つ名の通り完全で瀟洒なたたずまいでそこにあった。つまりは、立っているだけで様になるほどの麗人であると言うことだ。
ついでに言うならば、美鈴の絵を持ち出しては飾っている主な人物でもある。足りなければ適当にスペースも増やせる便利な特技を持っているため、彼女が絵の飾り場所に困ることはない。入り口と書斎を直結したのも、おそらく彼女の仕業だろう。魔女の方もそれくらいやってのけるだろうが、他人にわざわざ気遣いを見せるタイプではない。
「あれ。咲夜さんも呼ばれてたんですか?」
パチュリーが因縁を付けるために呼んだのでなければ、彼女が自分を呼ぶ理由として思いつくのはせいぜいパシリくらいだったのだが。しかし、咲夜まで呼ばれていたとなると、流石に使いっ走りとして呼ばれたのではないだろう、と美鈴は思った。
「肉体労働者が欲しいんですって」
「図書館の模様替えでもするんですか?」
「そんな用事だったらゴーレムでも呼んで済ますわよ。それよりはマシな判断力を持ってるのが欲しかったの」
ゴーレムよりはマシな頭、とはずいぶんな言いようだが、むしろこの魔女が素直な物言いを始める方が気味が悪い。よって場にいる者が誰も暴言を気にしないまま流れる。
パチュリーが軽く指を鳴らすと、空気が流れ本棚から分厚い一冊が彼女の手元へと移動した。きっちりとした装丁が整えられている本ではなく、表紙に『幻想道具話集』と書かれてはいるが、ぱらぱらとページを捲るパチュリーの手元を覗き見るに、日本語、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語、謎の文字、エトセトラエトセトラ……、と統一性が皆無である。
「最近見つけたこの本でね、ここの湖の起源らしきものを見つけたのよ。もともと大陸の方にあったらしいわ」
*
「どうかあの龍を退治していただきたいのです」
切実な顔でそう告げたのは、ここ一帯でもっとも大きな村の長である。
彼の前には異貌の女があった。この地では滅多に見ることのない金色の髪と瞳を持ち、優雅に不吉に笑う。その女の悠然とした立ち振る舞いは、事物全てを軽いものであると思っているかのようでさえあった。
女の道士など常ならば信用するに値しないが、目の前の人物が放つ異様な存在感に常人たる彼は圧倒されるしかなかった。
「それはよろしいのですけど。龍が居なくても災害など起きますわ。あれほどの水を湛えた湖、川ですもの」
「それはその通りなのですが……」
この村の上流にある湖に棲む龍は時々暴れ出しては、嵐を呼び洪水を起こし村々に被害を与えていた。しかし、異貌の道士が告げた通り龍が居ない水源にも災害は起こるのだ。それにあの湖から連なる水源は豊かなもので、それはまた水害を生みやすいと言うことでもある。
それでも龍が起こす災害は頻繁ではいとはいえ、その規模と被害がひどく大きいため、何とかならないかと長らく考えていたのだ。先日の嵐では村が一つ壊滅しかけたこともあり、龍を退治すべしという気運は高まっていた。
湖の主に逆らうと災いが起きるという老人もいたが、龍の為すことそのものが災いであるというのがほとんどのものの考えだ。
「それでも嵐を呼ばれることはなくなることでしょう。ただの水害であれば何とかしようがありますが、あの嵐はとても人間には……」
村長の訴えに道士は僅かに考え込むと、
「そうまでおっしゃるのならば、何とかいたしますわ」
そう言って満面の、しかし、見る者を不安にさせる笑みを浮かべた。
「それでは報酬の方なのですが……」
「そのようなモノは結構。私のような者からすれば龍の身こそが至上の宝となりますわ。龍退治の依頼そのものが報酬なのですよ」
またもころころと不吉に微笑む。
今更ながらに彼は不安に駆られた。この女に頼み事をして本当に良かったのかと。気付かぬうちに、重大な間違いを犯してしまったのではないかと。
「ではあの地から早晩にも、龍の存在を雲散霧消させてご覧に入れますわ」
どこからともなく、見たこともない意匠の日傘を取り出して差すと、道士は上流へと歩き出した。
「こんにちは、湖の主。あなたを退治するよう頼まれてきましたわ」
道士が村を出てほんの僅かな時の後、彼女は湖の龍の前に既にあった。
健脚なものでも半日はかかろうという道程を、いかにして省略したのであろうか。その手管は不明であったが、既に道士が湖の前にあったことは事実である。
「妖怪が龍退治とは、なかなか奇妙なことだな」
重厚なる声が辺りを震わせて、紅いたてがみの巨龍は目の前の女にそう言った。
「最近は妖怪の領域も手狭になりまして、人間の振りも板に付いてきましたのに……。あっさり見破られるのはひどいですわ」
よよよ、と明らかに作った泣き真似をして、女は妖怪であることを事も無げに認めた。
龍は目の前の女が事象の隙間に潜り込み、遠からぬ道程を零へと縮めたのを感知していた。境界を渡って移動する人間などまず居ない。
しかし、妖怪ならば千里を刹那の間に渡ったとて驚くに値しない。訳の分からぬ異形であるものが、道理に沿って在るはずもない。道理を無視するからこその妖怪、道理のままにあるものはただ珍しいだけの存在だ。
そして何よりも、女は隠しているつもりだったのだろうが、気脈に通じる龍がその粘り着くように強大な妖気を見逃すはずはなかった。その圧倒的な気配は、間違いなく大妖として分類される域のものだ。
「それで人に紛れるために妖怪退治の生業か? ならばさっさと我を滅ぼすが良い」
「あら。抵抗しないんですか?」
妖怪道士は意外そうな顔を作って、まるで不思議そうに龍に尋ねる。つまりは予定通りの反応と言うことだろう。
「なるほど。我が死にたがっていることを知ってここに来たのか。望みは肉か? 玉か? 血か? それとも鱗か爪か牙か? まともな存在では無理だが、お前の妖気から察するに我を殺滅しきることも可能だろう」
龍は既に存在することに飽いていた。
この地から吹き出す水脈、気脈そのものでもあるが故に、龍は己の土地から離れることは出来ない。意識など持たずにいれば無限の時が流れても気にせず在っただろうが、なんの間違いか自意識などというモノを得てしまった。
有るべきでないモノに目覚めてから、退屈と孤独が龍を蝕んだ。紛らわそうと何かが来るようにと暴れてはみても、誰も龍に危機を、楽しみを与える者は居なかった。全くの一方通行のやりとりに飽き、それがただの八つ当たりになるまでも大して時間がかからなかった。それすらももう稀であったが。
最早、己が存在していることそのものが龍にとって鬱陶しい。
「あらあら。頼まれてきたとは言いましたけど、退治するとは言ってませんわ」
道士はおどけて言う。
「私はあなた自身を欲してここまで来ました。これから私が作る郷に大きな湖と、外との境を引く要が欲しいのです。あなたを攫えば一石二鳥ですわ」
「それでは結局我の立場は今と変わらないだろう」
龍は落胆して言った。せっかく己を滅ぼせそうな異能者が現れたというのに、結局それも叶わないとは。
「ならばあなたに夢を与えましょう。夢の世界をその身一つで渡れるよう、夢と現の境界での眠りを得られますように」
「我が見る夢では、我の知ることしか存在しないのではないのか?」
「夢を見るのではなく、夢の世界へ行くのですよ。あなたが知らないものも当然ありますわ」
「……その夢の中では我は龍ではなくてもいいのか?」
「あなたが望むならば。たとえば、人の身として在ることも可能ですわ」
道士は他愛の無い日々を、龍にとっての夢の日々を語り続けた。ただ自由の身であるという一点が、ただの日の光を、風を、めぐる季節を美しく彩るのだと教えてくれた。世界の美しさを知る者の言葉は、無為に過ごした己の永い生に比べなんと華やかなのだろうか。
龍は道士の語る夢の世界に心惹かれていった。卑小な身になったところであらゆる束縛から逃れることなどはあり得ないが、それでも、この重い足かせを取り払ってくれるのならばと、たとえ夢であってもと思った。
「ならばお前の作る郷とやらに行きたい。だが、我をどうやってここから切り離すのだ?」
龍を移動させようとするならば、気脈そのものを動かす必要がある。それこそ龍を殺すよりよほど骨が折れるはずだ。
「あら、何のために私がわざわざ依頼を取り付けたと思います?」
確かにこの道士は、始めから龍について知悉していた様子である。村からの報酬も拒否してきたのだし、依頼を受けてくる必要など皆無だろう。
「ここ一帯の人間の、ほぼ総意としてあなたを否定してもらいたかったんですよ。要らないと言われたモノならば、縁を断ち切ってここから持ち去ることも出来ますわ」
「それはまたタチの悪いことだ。人間達はお前と交わした言葉の意味を理解していまい」
牙をむき出しに苦笑いを浮かべて龍は言った。この妖怪は嘘を言わずに、致命的な詐欺をやらかしてきたのだ。無論人間達にとって。
後日道士は村を訪れると、龍がこの地から消えたことを伝えた。村の人間は半信半疑であったが、その後嵐が来ることはなく、彼女の言葉が真実であったことを確認し喜んだ。
そう。その後、二度と、嵐が来ることはなかった。
その年のうちに湖は枯れ、そこから流れる川も残さず干上がった。数年のうちに一帯の緑が消え失せ、人間が去る頃にはかつての面影は一切存在しなかった。
時を同じくしてこの大陸から離れた島国の、いずことも知れない土地に、冷たい水を湛えた湖が生まれたという。その湖の底には今でも、永い夢を見続けている龍が居ると言われる。
*
「それで。その教訓話っぽいのがどうかされたんですか? パチュリー様好みの妖しげな道具の話なんて出てこないじゃありませんか」
咲夜がスッパリキッパリと身も蓋もない感想を述べた。彼女に先を越されたが、美鈴としてもパチュリーが、小悪魔を使って、わざわざ語って聞かせたのに、呪いの魔剣の話も不幸を呼ぶ財宝の話なども含まれていないのは妙だと思ったのだ。
「ああ。そこは前フリみたいなものよ。本題は続き」
わざわざ読まされた上に、主人に前フリとしてあっさりスルーされた小悪魔がさめざめと泣きはらしていたが、同様に咲夜と美鈴もスルーしていた。
パチュリーは壁に立てかけてある、美鈴によって描かれた龍の水墨画を見ながら続ける。
因みに、力強い筆致があまりにも真に迫っていたため、画竜点睛の故事に倣いその絵には目を入れていない。何せ妖怪が書いたものだけに、本当に飛んで行きかねない。パチュリーにしろ描いた当の美鈴にしろ実物の龍を見たことがあるわけではなかったが、それでも魔女の目にそれほどの感覚を抱かせる絵だったのだ。
「その龍を眠らせるのに何らかの道具が使われたらしいの。龍を眠らせるほどの力を秘めたアイテム、興味深いわ」
そのアイテムに思いを馳せたらしいパチュリーを見て、他の三人は魔女の目に妖しい輝きが灯ったような気がした。
他の二人の魔法使いに比べて本以外に対する蒐集癖は薄いパチュリーだが、知識欲に関しては他に引けを取らない。文献にあることは取りあえず試しておきたいらしく、妙な実践を行ってみたりすることもある。さらに今回のことに関しては、目の前に正否を決める証拠物件があるのだ。確かめてみない手はない。
「と言うわけで、ちょっと潜ってきて」
「秋にもなってここの水に入るのは……。正直ぞっとしないわねぇ」
咲夜は湖を見て思わず愚痴る。先日季節はずれも良いところの肝試しをしてきた身ではあったが、直接体に悪そうな季節はずれはどうかと思う。氷精が彷徨くだけあって、ただでさえこの湖は冷たいのだ。
「このくらいならまあ良いじゃないですか」
「妖怪と一緒にしないでちょうだい」
咲夜の言葉に、美鈴は一瞬きょとんとすると、
「ああ! 咲夜さんって人間でしたっけ」
「ふっふっふ……。それはどういう意味かしらねぇ?」
「はっはっは……。深い意味はありませんよー」
二人は引きつった笑みを浮かべつつ、無駄に緊迫感を出してじりじりと距離を取りあっている。
「あのー。私でも水除けの魔法くらい使えますから、そんな心配しなくても」
関係ないことで緊張感溢れる二人に、苦笑いを浮かべて小悪魔が言った。咲夜にしろ美鈴にしろ魔法に関しては門外漢であるので、サポート役兼脱線防止役としてパチュリーに言われて着いてきたのだ。と言っても本気で二人が脱線して暴れ出したら止めようがないので、そうなったら小悪魔はとっとと逃げ出す算段済みではあったが。
小悪魔に水除けの魔法をかけて貰い、三人は湖へと潜り込む。水の冷たさにも耐性があるのか、体が冷えることもないようである。特に実感していなかったが、深海に潜るなどでもしない限りは水圧にも耐えられるなかなかの優れものなのだ。
冷厳なるその水は澄み渡り、見通しはかなり良い。普段空を飛び回っている人妖たちであるから平気だが、湖底の方までよく視界が通っているために常人ならば怖気が走るところだろう。幻想郷の、一体どこに常人が居るのかは謎であるが。
「声、ちゃんと聞こえますか? これが届かないと息が出来ないことになるんですが」
「そういうことは真っ先に確認しなさい」
既に半分も潜ってから言ってきた小悪魔に、息が出来ないとかなり困る咲夜が文句を言った。生真面目そうに見えるが、やはり小悪魔もいい加減らしい。
「まあ何かあっても、咲夜さんならだいたい何とかなるじゃないですか」
気軽に言って来る美鈴に、
「そりゃそうだけどね。でもパチュリー様が言ってたじゃない。本当に龍が居るかも、って」
今のところ龍とやらを拝見したことはないが、パチュリーの文献通り嵐を呼んだりするような輩ならばなかなか手強いはずである。出来うる限り力は温存しておきたい。
「確かにそうですねぇ。寝てる間にこっそり済ませないとヤバイかな」
「ああ、多分じゃなくて居るのね?」
咲夜は美鈴の方を向いて確認を取る。
「龍かどうかはともかく、ちょっとここ気の流れはただの湖にしては大きすぎますから」
だから私には住みやすいんですけど、と美鈴は付け加える。彼女の感覚に従えば、少なくとも大物が居るのは間違いないらしい。
「でもあなたってずいぶん前からここに住んでいたんでしょう。その間なにもなかったの?」
「氷精は昔からうろうろしてましたけどねぇ、静かなもんですよ。て言うか、嵐がしょっちゅう起きてたら吸血鬼は住めませんし。あー、でも妹様の脱走阻止には良いのかな?」
言われてみれば雨が頻繁に降ったりしては、吸血鬼の居住環境としては相応しくない。となるとここに龍が居たとしても、未だ睡眠中と言うことだろう。
「それで、どの辺にいるのかしらねぇ。結構広いわよ、ここ」
咲夜の言う通り、この湖はかなり広い。その上、湖底もかなり起伏に富んでいて、見た感じで判る洞窟も多い。
「多分あそこじゃないかな。かなり大きな気の流れがありますし」
美鈴の指さした先には一際大きい洞穴がある。妖しいと言えばいかにも妖しい感じではある。それに他に手がかりがない今、美鈴の感覚くらいしかあてになるものがない。
「なら、手始めにあそこからで。問題ないわね?」
「はい。いいと思います」
小悪魔の方にも異論はないようだ。
穴に入ってみれば異常は明らかだった。
まず、ある程度中まで入ると大きな空洞になっており、そこには空気があった。かなり深いところ空いていた洞窟だというのに、水が中まで侵入してこないのだ。その上、光が届かない洞窟内だというのに、その空気は森林の空気のように澄んでいる。
「居るわね、こりゃ」
小悪魔の使った、照明の術によって浮かび上がる洞窟内を見回しながら美鈴が言った。
「私もそう思います。見て下さい」
美鈴の言葉に同意した小悪魔が差したのは、彼女が照らす洞窟の壁だった。
「なるほどね。ずいぶんつるつるとした壁だこと」
咲夜が言った通り自然に出来たとは思えない、なめらかな岩壁が広がっている。その上、建材に使用されるような堅固な石質だ。これを削り取ったとなると、龍というのはずいぶんと頑丈な体のようである。
普通ならば歩きにくいであろう洞窟内は、龍が削り取ったと思われるため平坦として歩きやすかった。かなりの距離を何度も方向を変えて歩いているが、それでもまだ余力がある。と言っても歩いているのは人外と、人にカテゴライズするのが憚られるような人間なのだが。
その道程の先に、それは在った。
巨大と言えばいいのか、それとも長大だと言えばいいのか。
視界全てを占めるかのように蜷局を巻いてそこに在る巨龍は、しかし、氷付き動き出すことなど有り得ない石像だった。表情など読めるはずもない石の龍は、それでも虚脱し、安らかに眠りに就いているかのようだった。その鼻先に浮かぶ七色に輝く小さな鈴が、龍を儚げに照らしている。
「歴史書なんかも来る前にいくつか漁ったんですけど、この湖で龍を見たという記述はありませんでした。だから多分、この湖が幻想郷に現れてから、ずっと眠ったままなんだと思います」
「眠ってるって言うけど、石じゃないかしら?」
咲夜の目からすれば眠る眠らない以前に、ただの石像なのではないかと思えたのだ。
「妖怪とかの場合、長い間休眠する時は石化したりすることもありますからね」
小悪魔の言った通り石になって永い時を過ごす者も居るし、また石に封印されたりする場合などもある。普段から石になって眠ったりする者は少ないが。
「これがパチュリー様の言ってたアイテムかな?」
美鈴が言ったのは、龍の石像の前に浮かぶ小さな鈴である。七色に輝くその鈴は、普通なら真っ先に目に入りそうなものだが、龍があまりにも巨大であるために案外と目立っていない。
「あ、美鈴さん! 不用意に触らない方が……」
「へ?」
小悪魔が止めようとした時には、既に美鈴が何の気無しに鈴を触ったあとだった。美鈴があわてて手を離したとたん、鈴は七色を失って紫色に染まり、地面に落下して澄んだ音を響かせる。
その音はなぜか、空気だけでなく美鈴の心にさざ波を残した。まるで記憶のどこかに、鈴の音が引っかかったまま残っているかのように。
ドクン、と何かが震える。
鈴の音が空気に溶けて消えた時、美鈴は大きな鼓動を感じ取った。自分の鼓動かと一瞬疑ったが、それは音ではなかった。二人を見やると、自分の気のせいではない証に怪訝そうな顔で辺りを見回している。
その鼓動はゆっくりと溶け出すように、周期を早めて行く。それと呼応するように、凝り固まっていた石像が生の気配を発し始める。灰色に染まっていた龍の像は、その身を透き通るような白へと変じ、そのたてがみは燃えるような紅を示した。
「これって、やっぱ私が触ったせい?」
「多分そうだと思います……」
「美鈴、あなたねえ。つまみ食いと同じ要領で変なモノにちょっかい出さないの」
「お、それはつまみ食いは良いってことですか? げ」
三人が緊張感に欠ける会話をする間に、龍はその瞳に光を取り戻していた。エメラルドのように輝くその緑色の瞳は、突如ルビーのような紅へと色を変えた。
「あのぅ、これってもしかして……」
美鈴の挙げた声に釣られて、恐る恐る龍の方を見た小悪魔は不安げに口にした。
「怒ってるのかしら?」
咲夜の疑問への返答は、龍が咆吼とともに放った妖気の塊によって為された。空気を震撼させる咆吼と殺到する巨大な気塊に、小悪魔は思わず目をつぶった。
しかし、小悪魔が感じた衝撃は思ったほどのものではなかった。と言うよりはずいぶんと音が遠い。小悪魔が目を開けてみると、周りの景色が変わっている。いつの間にか既に通り過ぎた所へと戻っていたのだ。
「あのでっかいの、もう追って来てますよ」
美鈴の声がずいぶんと近くから聞こえた。今更気付くのも何だが、小悪魔は美鈴の小脇に抱えられていた。とは言え気付かないのも無理はない話で、美鈴がかなりの速度で爆走しているにもかかわらず、どういう走法なのか小悪魔の体には全くと言っていいほど振動が伝わってこないのだ。
「あ、あれ。私?」
場所が突然変わったり姿勢がいきなり変わっていたりで、状況が掴めずに小悪魔はあたふたとしている。
「いちいち曲がっていると追いつかれそうね。まっすぐ行くことにしたから、宜しくね」
美鈴の傍らを滑るように飛行する咲夜は、混乱する小悪魔を気にせずに美鈴に言った。色々と懇切丁寧に説明する状況でもないし、幻想郷の住人は大概あまり説明をしてくれるような親切さを持ち合わせていない。決して小悪魔を混乱したままにしておくのが楽しいから、とかでは決してない。多分。
彼女たちの位置が突然変わったのは、龍の放った気塊を避けるために咲夜が時を止めつつ、小悪魔を美鈴に手渡して移動したからだった。打ち合わせも無しに合わせて動ける二人は良いが、巻き込まれた小悪魔には未だに何が起こったのかさっぱりである。
「はいな。破!」
咲夜に応えて美鈴が突き出した掌から、一瞬にして高圧に高められた気弾が飛び出した。歩を止めることもなくあっさりと生み出されたそれは、耳を劈くような音を立てて壁、いや、岩盤を貫いていった。
気弾が開けた穴を確認する間もなく、すぐさま美鈴は跳び上がる。彼女に抱えられた小悪魔が体に掛かる力を感じると同時に、一瞬前まで居た場所に龍が放ったと思われる妖弾が雨霰と降り注いだ。
美鈴が開けた穴へと飛び込み、小悪魔の視界には岩盤が流れて行くのが映っていたが、突如その視界がコマ落ちしたように途切れて切り替わる。次の瞬間に小悪魔の目に映ったのは蒼い空、彼女が居たのは湖の上空だった。
それを確認するとほぼ同時に、水同士が衝突する音が鳴り響く。美鈴が開けた穴は途中から湖へと抜けたらしく、その一瞬に生じた穴を、聖者が海を裂いて渡るように、咲夜が時間を止めて抜けていったのだった。
未だに事態を掴み切れていない小悪魔に向けて、咲夜がいつの間に拾っていたのか鈴を投げて寄越す。七色に輝いていた鈴は光を失い、今はもう完全に紫色に染まっている。
「パチュリー様にこれを」
「お二人はどうするんです?」
鈴を掴みながら、小悪魔は聞き返した。
「どうするって、ねえ?」
美鈴の方を向いて咲夜が言うと、
「あんなの連れたまま戻ったらパチュリー様キレるじゃない。本に悪そうよ、あれ」
美鈴が小悪魔に言ったのに合わせるように、岩盤を粉砕しながら紅いたてがみの白竜が現れた。岩壁を削り取るどころか、岩盤を体当たりで砕くほどにあの龍は頑丈のようである。
「嘘! もう来たんですか!?」
「そういうわけだから、早く行きなさい」
言いながら咲夜の手にはいつの間にか無数のナイフがあった。
「駄目だったらパチュリー様に後始末してくれるよう、お願いねー」
軽く言う美鈴の周りには幾つもの蒼い気弾が舞っていた。
「はい! お二人とも、ご無事で」
そう言って一礼すると、小悪魔は可能な限りの全力で紅魔館へと向かった。
残された二人は何となく顔を見合わせる。
「ご無事で、なんて言われちゃいましたねぇ」
「あの娘も大げさねぇ。むしろ死亡フラグが立ちそうだわ」
小悪魔の残した台詞に、二人は随分といい加減なコメントを付けた。二人は何とはなしに自分たちが「ここは私達が! あなたは先に行きなさい!」などとシリアスに言っているのを想像したが、あまりにも似合わないので早々にその妄想を破棄した。
馬鹿なことをしている間に、龍はこちらに狙いを定めたらしい。何を考えているのかも判らないが、その荒々しい怒気だけははっきりと伝わってくる。
「それじゃあ、美鈴?」
「行きましょうか、咲夜さん」
二人は視線を交わし、鋭く笑みを浮かべた。
「「幻符」」
二人の宣言が重なる。
「殺人ドール!」
「華想夢葛!」
凍り付いた時の中で設置された大量のナイフが、動き出した時の中で龍に向かって一斉に殺到する。美鈴の周りに漂っていた青白い気の弾丸が、時が動き出したのに合わせてナイフの隙間を埋めるように龍に襲いかかる。
スペルカードの宣言まで行っておいてなんだが、二人には避ける隙間を与えるつもりなど毛頭無かった。どう考えても相手が大きすぎて隙間を作ってやるのも馬鹿馬鹿しかったし、あまり理性的な相手でもないように見受けられたからだ。弾幕ごっこが成立するようには思えない。
ナイフと気弾の絨毯爆撃が着弾すると思われた瞬間、龍が七色の輝きを放った。透き通るように白かった鱗が、陽光を取り込んで増幅し虹色に輝いているのだ。七色の光はそのまま気を帯びて弾丸と化し、龍を中心とした颱風の如く荒れ狂った。
龍が放った虹色の光弾による嵐と、二人が放ったナイフと気弾の混成弾幕は互いに拮抗し打ち消し合う。ガラスが砕けるような音、金属音、爆発音が入り交じり湖上は刹那の間、花火大会のような様相を呈した。
「アレ、あなたの親戚?」
ぶつかり合う弾幕を大した緊張感も伴わずに見やりながら、咲夜は龍が放った光弾に対する率直な感想を述べてみた。目に華やかな七色の弾幕は、美鈴も好んで使うものである。
「あー。多分あんなでっかい親戚は居ないと思うんですけど」
どうにも相打ちに終わりそうな様相を見ながら、美鈴は一応咲夜の言を否定してみた。とは言え、美鈴も自分の生まれをはっきり覚えているわけでもないので、あのような親類縁者が居ないとも限らない。そう言えば自分って何妖怪なんだろう、などとあまりにも今更な事にも思い至った。
「む。結構壊れたナイフが多いわね」
咲夜の手元にはいつの間にか、時間を止めて回収していたらしいナイフがあった。当人にしか判らないが、無傷のナイフと破損したナイフを選り分けて収納用の空間に放り込む。
「直接殴った方が良さそうですね。援護、お願いします」
美鈴は内部の気を高めながら、弾幕の競り合いが終わるのを待つ。
「じゃあ、途切れたら正面を空けるわ」
拮抗が終わった瞬間、龍はさらに光弾の嵐を巻き起こした。力任せなのが趣味なのか、それとも直接狙うのが面倒なのか。
その力任せに放たれた虹色の群れに、巨大な違和感が干渉する。荒れ狂いながら襲いかかるはずの光の嵐は、十戒の如く断ち割られる。咲夜が空間を操作し弾の軌道を変えたのだ。
そして、切り開かれたのは美鈴が直面した位置。
既に気を整えていた美鈴が空を地の如く蹴り、がら空きの真っ正面を疾走する。ほんの一瞬で拳打の間合いに入ろうとした美鈴の目の前に、突然巨大な気塊が発生した。
「どぉわぁっ!」
美鈴は悲鳴を上げつつも殴り付けるための気を相殺に使い、それでも殺しきれない反動をそのまま利用して間合いを取った。
「デカいくせに反応良いわねぇ」
愚痴を零しながらも相手のなかなかの手応えに、美鈴は楽しげに笑みを漏らした。
効果が薄いと考えたのか、龍は光の嵐を止めると天に向かって咆吼を上げる。その声に応えるように、蒼天は突然の黒雲に満たされ遠雷の音を響かせ始めた。
「もしかして……」
美鈴が空を見上げた瞬間に暗雲から閃光が放たれ、空気を焼き切りながら雷が降り注ぐ。
「見てないでちゃんと避けなさいよ」
美鈴は落雷があった場所から遠く離れて、襟首を掴んだまま言う咲夜の声を聞いていた。一瞬遅れて、雷鳴が美鈴の耳に入る。どうやら雷が落ちる前に咲夜が移動させてくれたようだ。
「助かりました、咲夜さん。うげ」
美鈴が顔をしかめて空を見上げると、明らかに自然現象を逸して雷雲全体が輝き始めている。
「きゃ」
美鈴が咲夜を抱えて走り出すのと、直前まで二人がいた場所に落雷があったのはほとんど同時だった。珍しく可愛らしい声を上げた咲夜を、俗に言うお姫様だっこで、抱えながら、追いかけるように次々と落ちてくる雷撃を美鈴は逃げ続ける。時折進行方向に先読みしたように落ちてくる雷を、さらに先読みして避けつつ美鈴は、
「いつまでも鬼ごっこしてるのも何ですし、なんか良い案在りません?」
「雨まで降り出したらお嬢様に叱られそうだしねぇ。ここから直に殴ることにしましょう」
咲夜は美鈴の腕の中から離れ、美鈴と併走して飛行し始める。
「了解」
咲夜の言葉を聞いてどういう手段で行くのか理解したのか、美鈴は追ってくる落雷を避けつつ気を高めすぐにもそれは十分量に達する。美鈴は一瞬歩を止めて、まるで目の前に目標が居るかのように地を踏みしめて構える。咲夜もそれに合わせて傍らに立ち止まった。
足を止めた美鈴に落雷が襲いかかろうとした瞬間、龍は彼女たちを見失った。
同時に、硬質の衝撃音が響く。
時を止めて突然間近に現れた気配を龍が感じ取るのが早いか、最大量の気を集めた美鈴の寸勁が龍の頭部に炸裂したのだ。凄まじい衝撃を受けながら龍は一寸も吹き飛ばされることなく、つまりは一切の消力も無しにその衝撃全てを体に透されたと言うことだ。
僅かに痙攣するように震えると、龍は豪快な水音とともにその身を湖へと落下させた。
泡を立てながら龍が沈んでいくのを見届けていると、美鈴は突然視界が歪むのを感じた。一瞬集中を失い、眠りに落ちかける時のような落下感が彼女を襲う。さらに、首を中心に、ガクン、と衝撃を受けた。
「ちょっと。こんなところで居眠り?」
馬鹿にするような咲夜の声が美鈴の耳に届き、意識がはっきりとする。どうやら本気で落下しそうになったらしく、咲夜が襟首を掴んで支えていた。美鈴が咲夜の方を見ると、口調とは裏腹に珍しく心配そうな顔をしていた。
「すいませんねぇ。気、使いすぎたかな?」
美鈴は咲夜に笑顔を見せながら、自分の言が間違いであることにも気付いていた。全力で気を注ぎ込んだのは間違いないが、自分の体は全力を出したくらいで揺らぐような脆い作りはしていないはずであった。
美鈴はふと、龍が沈んでいく辺りの泡がやけに激しいことに気付いた。直後、ほんの一瞬で収束した濃密な気を感じる。咲夜は美鈴の方をまだ心配そうに見ており、かつ、その方面に特化した感覚を持たないが故にまだ気付いていない。
時空を操る者が目の前に居るというのに、絶望的に時間が足りない。
「っ?!」
咲夜は突然美鈴に突き飛ばされた。咲夜が突然の仕打ちに彼女に食って掛かろうとした瞬間、
眼前を、巨大な気塊が駆け抜けた。
それは、空を抜けて、覆っていた暗雲をドーナッツ状に消し飛ばしていく。
しかし、その光景など、咲夜の目には入っていなかった。彼女の目に映っていたのは、緑色の帽子が、帽子だけが湖へと落ちていく様。龍の文字が書かれた星形のプレートをあしらった帽子は軽い水音を立てて水面に浮かんだ。
*
「パチュリー様!」
珈琲を啜りながらライフワークの如く本を読んでいたパチュリーの元に、あわてた様子の小悪魔が飛んでやってきた。
「騒がしいわね。別にタイムアタックは求めていなかったはずだけど?」
息も絶え絶えの小悪魔に、書に目を通したままのパチュリーがたしなめる。
「このっ、鈴っ、が……」
「なるほど、この鈴が件のアイテムね。あとで解析するから、この本が終わるまでゆっくりしていなさい」
忙しない小悪魔に、パチュリーはあくまでマイペースに本を読んだまま目を離さない。小悪魔は無理矢理はやる心を抑えて、数度深呼吸をする。
「龍が出たんです!!!!」
大きく息を吸い込んで上げた小悪魔の叫びがパチュリーの耳に響く。何となくパチュリーは、自分の髪が風圧で靡いているのではないかと幻視した。
魔女はようやく使い魔の方に向き直ると話を聞く態勢を取る。改めて見た小悪魔の表情は常になく真剣だ。
「何があったか簡潔に話しなさい」
「美鈴が触った時、この鈴が光を失ったのね?」
小悪魔の説明を聞いたパチュリーは、そう小悪魔に聞き返した。彼女は話を聞く傍ら、それを最も重要だと判断したのだ。
「はい、そうです。お二人、大丈夫でしょうか?」
小悪魔は不安げにパチュリーに聞き返すと、主は既に立ち上がっていた。アームチェアディテクティブの如く、滅多に自分から動かないパチュリーにしては珍しいことだ。
「あなたはここに居なさい」
パチュリーは、珍しくアクティブな主人に驚く小悪魔を、そう言ってこの場に留める。
本当はゆっくりとこの鈴の解析を楽しみたいところだったが、どうやらそうも言っていられないようだ。ざっとしたところの解析は既に話の最中に終えてある。未解析の部分があるにせよ、最早本で調べている時間もない。
しくじればパチュリーは、なんだかんだで紅色の吸血鬼の次につき合いの長い人物を失うことになる。彼女との間柄は、まあ友人と言っても差し支えはないだろう。彼女の描いた龍の絵が、ふと目に入る。
「やっぱり目を入れさせないで正解だったわね」
「なんのことです?」
聞き返す小悪魔には応えずに、パチュリーは外へと繋がる門を構築する。喘息が呪を阻害することもなく、体調は何とか及第点のようだ。友人を失わないために、パチュリーは門を開いた。
*
湖上は時が止まったように凍り付いていた。咲夜は水面に浮かぶ帽子を凝視したまま動かず、龍も紅色に染まっていた瞳を緑色に戻して一切の動きを止めていた。
沈黙を破るかのように、いつの間にか咲夜の手にあった無数のナイフが強く握りしめられて音を立てる。
「潰れろ世界」
表情を失った咲夜が呟くと同時に、辺りは彼女が支配する異界と化した。
いかなる時にも属さない空間の中で、咲夜は渾身の力でナイフを投げつけた。それは空間の歪みに囚われて加速を、龍に向けて落下をして行く。圧縮された時空はナイフの過去を、未来さえも写し、1のナイフが無数の時間軸の己とともに殺到し、無数のナイフは無限のナイフとなって龍へと襲いかかる。
耐久限界の加速をかけられたナイフの無限地獄が、岩を易々と砕く龍の身を削り血煙を上げた。しかし、龍は殺意の雨に己が身を穿たれていながら、微動だにしなかった。
「待ちなさい、咲夜」
突然の声の侵入に咲夜の世界が剥がれ落ちる。
咲夜の支配下にある空間に侵入し、声を上げたのはパチュリーであった。無論、ただ声をかければ破れるような世界なはずはなく、尋常ならざる魔力でもって強制的に介入したのだ。不調ではない程度の体調では少々辛い。
「……パチュリー様?」
ようやく正気に返った咲夜が、呆然とパチュリーの方を見た。
「そいつを殺してはダメよ。話にあったでしょ、龍を殺すと罰が当たるって」
「でも、美鈴が!」
「うちの門番は煮ても焼いても喰えないくらいには頑丈よ」
訴える咲夜の言葉を一蹴したパチュリーは、龍へと向き直ると懐から紫色に染まった鈴を取り出した。
「あなたは元の通り夢の中へと戻りなさい。全て元通りにね」
パチュリーは鈴を龍に向かってかざし、解析した通りの手順でその力を解放する。
と言ってもそれは大層な手順が必要なものでもなかった。実のところ魔術的構築物とするのならば、この鈴は大した代物ではなかった。なんの工夫もなく、ただ強い力を込めただけの品。
それは良い夢を見られるようにという、ただただ強い祈りが込められた物だった。つまりは、魔術より奇跡に寄った産物。一足飛びに結果へと至るような物は理詰めの魔女には必要はなく、しかし、今利用せざるを得ないのは少々腹立たしい。それもいずれ征服すべき事象だが、今はまず目の前の事態だ。
鈴の性質に合わせてパチュリーが祈り、その力が作用し始める。おそらくはそれを作り上げた者の色であろう紫に戻っていた鈴は、再び夢を見る龍の虹色に輝き始める。
それと引き替えるように龍は色を失っていく。虹色に輝く鱗は白へと戻り、さらには初めに見た通りの灰色の石へと戻った。そしてその緑色の瞳が光を失う寸前、
「すまない。サクヤ、パチュリー」
そう言い残して完全に石化すると、龍は激しい水音を立てて湖の底へと沈んでいった。
「あの龍、何で私とパチュリー様の名前を?」
咲夜は怪訝そうにパチュリーに訊ねた。名乗った覚えは当然ない。
「夢から覗き見していたんじゃないの。そんな事よりも、そこに浮かんでる土左衛門を拾ってあげたら?」
パチュリーがあごで指した先には水面を漂っている、てっきり吹き飛ばされたとばかり思っていた美鈴の姿があった。傷を負った様子すらなく、それどころか昏々と眠っているようである。
美鈴の何とも無さそうな姿を見て咲夜は何かをこらえるように一瞬上を見上げたが、あまりに何とも無さそうな姿に腹が立ったのか彼女の頭に蹴りを入れた。その衝撃で、上を向いて浮いていた美鈴はひっくり返って水面に顔を沈める。
それでも目覚めず待つこと何十秒か、美鈴の顔周りで激しく泡が立ち、バネ仕掛けのように顔を出した。
「ブハッ! 死ぬかと思ったー、って何でいきなりナイフが!」
「うるさいわね! いつまでも死んだフリしてるからよ!」
なぜかバタフライで逃げ回る美鈴を咲夜がナイフで追い回している。
「やれやれ」
騒がしい二人を横目に見つつ、パチュリーは軽くため息を吐く。同時にパチュリーは日常が保たれたことにほっと胸をなで下ろした。
*
「おはよう、パチェ」
「私はそろそろお休みよ、レミィ」
友人の紅い悪魔が訪ねてきたのはパチュリーがそろそろ寝ようとした頃だった。普段は不規則な時間に眠るパチュリーだったが、本日は色々とあったので、ややこしい後始末を終了させると早々に寝る気になっていた。よって、逆転した健康的生活を送るレミリアとちょうどすれ違うところだったのだ。
後始末とは、美鈴が触れただけで効果が解けるような物は危なっかしくてしょうがないので、件の鈴はパチュリー方式に本へと変換して封じておいたことだ。この方式ならば書を読み解き、理解しない限りは再度効果が現れることはない。問題は自称トレジャーハンターの手癖だが、こればかりはどんな形をしていてもしようがないので諦める。
「取りあえず、うちの門番を失わずにすんだことに礼を言っておくわね」
「分かってたなら忠告くらいしてよ……。知人が減るのは流石の私も歓迎しないわよ」
レミリアは運命を操る程度の能力、というでたらめな力を持つ。何しろ、これほどはっきりとしたイベントである。あらかじめ彼女がこの事態を知悉していたとしても不思議はない。
「事前に知らせると凶と出た、とでも思ってちょうだい。夜に起きれば私が出ばっても良いんだけど、昼だとあの龍とは流石に相性悪いのよね」
「ああ。虹の光に、雨も呼ぶんだったわね」
考えてみればあの門番の弾幕とも、あまり相性は良くないであろうことにパチュリーは思い至った。とは言っても威力の桁が違っていそうではあるが。結局の所、あの龍は寝起きの機嫌の悪さのまま寝ぼけて暴れ、それだけで湖の岸などを粉砕してまわったのだし。
パチュリーは何となく文字通り画竜点睛を欠く絵を眺めながら、夢を見に現を去った龍と変わりなく居る美鈴のことを考えた。
「胡蝶の夢ね。もう、どちらが夢でどちらが現なのかも判らない」
「私の居るところが現よ。私が手に入れられないところに居てもねぇ」
レミリアに言わせれば夢も現もバッサリと切り捨てられる。ビバ私の俺様主義。さすがは生まれながらの魔王、私が居てこその世界だと言ったところだろうか。
「それじゃあ、私は出かけてくるわ。またこき使うけど宜しくねパチェ、お休み」
「気を付けてね、周りに迷惑かけないよう。……お手柔らかにねレミィ、お休み」
去っていく友人を見送りながらも既にまぶたが重い。そろそろ夢と現の境界を越えそうである。ほどほどの危機をスパイスにした日常が続くことを願って、パチュリーは意識を手放した。
*
我は紅き館の夢を見る。
我であって我でない者として。
友が居る館を、我は夢見る。
ここであって、ここでない場所。
誰も居ない湖を、私は夢に見る。
*
赤髪の妖怪・紅美鈴は、幻想郷にある湖の畔に棲む妖怪である。
とはいえ住処に居る時は少ない。さして広くはないが色彩豊かな幻想郷を、物見遊山に見て回る。季節により変化し、また年ごとに微妙に色合いを変える風景は、ただその目に収めるだけでも心を満たす。
春はやはり桜が主役だろう。満開の桜に見惚れ、散り際を惜しむのも、花を口実に集まった妖怪たちとと大騒ぎをするのもそれぞれに楽しい。
夏ならばやはり川か湖だろうか。あるいは緑と涼みを兼ねた山か。風流よりは陽気を楽しむ季節といえるだろう。
秋は色を変ずる木々を楽しむべし、と言いたいところではあるが、食の充実を否定するのも難しい。どちらも大いにやれば問題もないだろうが。
冬は言うまでもなく雪だろう。殺風景と言う者もいるが、一面の白もまた興がある。春を待つ楽しみもまた、冬の醍醐味と言えよう。
美鈴は時として人里にさえ訪れる。
無論、妖怪である彼女は人を喰わないでもないが、幻想郷に住む人間は基本的に手強く、里にまで下りて物色をなどするのは賢い選択ではない。時には物好きかつ強力な妖怪が、里の守護に就いている場合もある。理由は様々であるが。
それにもとより幻想郷では人間という種はマイノリティであり、それを常食として生きるのも無理がある。つまり、むやみに喰らえば幻想郷の微妙なバランスを崩しかねない。
よって食うのは、外で溢れかえっている方の人間が主である。しかし、溢れてはいるが、目立たないようにするために無闇に狩るわけにも行かず、やはり天然物は希少だ。故に、これもまた常食とするには心許ない。
よって、里に妖怪が現れたからとて決して不可思議なことではなく、むしろ無差別に人を襲うだけの妖怪など皆無に等しい。無論、不用意に妖怪のテリトリーに入る者、妖怪の時間に出歩く者が食われるのも、また不可思議なことではなかったが。そして無闇に人を襲う妖魔が、人に退治されることも。
美鈴も多数派に属する妖怪であり、人里で出歩くことになんの問題もない。むしろ彼女の感覚からすれば、幻想郷の人間はただ食うには勿体ない者が多く、どうせ食うならば食用扱いの外の人間で済ませればいいと思う。少々減ったところで、いくらでも増えるのは外の人間の良いところだ。
ただし、旅をしている間、美鈴は人里も出歩くとは言え、当然より多く遭遇するのは妖怪である。何せ妖しく怪しい存在であるので、遭遇すれば多くはやっかいごとになる。やっかいごととは解決に面倒を要するものであり、舌なめずりするほどに鬱陶しい。
つまりは騒動に遭えて楽しい、と言うことなのであるが。
やっかいごとを起こす類の者が、やっかいごとを嫌うはずがないのである。力比べ、知恵比べ、根強い人気の弾幕ごっこ等々。妖どもが楽しむネタには事欠かない。
しかし、それもまた程度による。
「そこのチャイニーズ。ちょっと私の遊び相手になりなさい」
その声は、美鈴が中秋の名月を楽しんでいた時にかけられた。虫の鳴き声がむしろ静寂を強調する中、高く澄んだ声が響いたのだった。
その日は住み着いている湖の畔で、ゆっくりと月を肴に酒を飲むつもりだった。そのつもりはあったのだが、満月に影響された誰かが騒ぎを起こすのを期待してもいた。そして望み通り騒ぎの種が、声をかけて来る者が現れた。
その騒ぎの種は、蒼い髪と血のように紅い瞳の、幼くかわいらしい少女だった。
ただし、そこまでしか見ない者はあまりにも間抜けに過ぎるだろう。その少女の背から生えている蝙蝠のような羽は、見逃すにはあまりにも大きすぎる。
最悪なことに、その姿形は間違いなく悪魔のものだった。はじめから魔としてある存在は一般に、変化の類など大多数の妖怪を上回った力を持つのである。
さらに最悪に最悪を重ねて、その少女の口元から覗く発達した犬歯は、その悪魔の中でも最も危険な種・吸血鬼であることを物語っていた。
紅い妖気を纏った飛び切りの魔の出現に、虫たちも恐れを為したか息を潜めていた。
「お誘いはうれしいんだけどね、悪魔のお嬢さん。弾幕ごっこなら他を当たった方が良いわよ」
謙遜するでもなく美鈴は、悪魔の少女にそう伝えた。彼女自身、流行りのパターン作りごっこの腕前は下手の横好き程度だと思っている。横好きと言うだけはあって、好きな遊びではあるのだが。
「あら。私はこっちを含めた方が好きなんだけど」
同時に強い衝撃が空気を叩いた。
まるで瞬間移動でもしたように美鈴に近づき、その幼い体つきの見せる印象を遙か彼方に置き去りにし、さらには音をも置き去りにして放たれた蹴りが美鈴を襲ったのだ。
しかし、空を振るわせた衝撃の元はそれだけではなかった。
同時に美鈴の放った蛇のようにしなる神速の蹴りが、悪魔の少女の迅雷の蹴りを迎え撃ったのだ。二つの蹴りは交差して衝突し、轟音と妖気の欠片を辺りに散らした。
その音が空気に溶けるのが早いか。二人は弾かれたように距離を取り、しかし、緊張する様子もなく互いに視線を交わす。
「まさかそのちっさい体で肉体派とはねぇ。てっきり飛び道具派かと思ったわ」
美鈴は少しの驚きと、隠しきれない喜びが滲んだ感想を漏らす。
いくら妖怪だなんだと言っても、肉を持って存在する以上、体格が大きい方が肉弾戦に有利をもたらす場合が多い。また強い妖力を持つ存在ほど、体を動かさずに妖術だのなんだので物事を済ませようとする傾向がある。噂によると式神を飛ばして自分は寝てばかり、という妖怪もいるとか。
そこまで極端な妖怪が居るというのは眉唾物だが、目の前に居る見た感じ幼い悪魔が肉弾戦を仕掛けてきたのは美鈴にとっても意外であり、また、ずいぶんと愉快なものでもあった。
「私は昔から肉体派よ。パターン作りごっこも好きだけど、目の前にいる同好の士は貴重だわ」
悪魔の少女は言いながら、愉快そうに、チェシャ猫のように目を細めて笑う。それは遊び相手を、弄びの相手を見る表情だ。
「だから、私を退屈させないでよ。こんなに月が紅いから、殺しちゃうわ」
「そうね、退屈させないようにするわ。こんなに月が紅いから、殺されるかもね」
今更に月の狂気が効いたとでも言うように、美鈴も獰猛な笑みを浮かべ、瞳を紅に染める。
視線を僅かに交差させた瞬間、二人は待ちかねたかのように、互いに飛びかかった。風をも上回る速度で、相手の元へと迫る。その瞬間何者かが居合わせたとして、その動きを捉えられる者は少ないだろう。
硬質の音が途切れることなく響き渡る。美鈴の妖気でもって強靱化した拳と、悪魔が伸ばした爪のぶつかり合う音である。赤髪が蛇のように尾を引き、紅色の闇が夜を切り裂く。
美鈴は洗練され、無駄を切りつめた動きでもって闘っている。それは人が使う、悪魔にチャイニーズと言わしめた外見通りの、中国系の武術の型であった。それは有るがままに振る舞うだけで強い、まさに人外の強さを誇る妖怪にとって本来は必要のない物である。
つまりは如何に研鑽を積もうと、それは妖怪にとって遊びに過ぎないのだ。しかし、人が為し得る年月を遙かに超えて、その遊びを続けていけばどうなるのか。
それは最早、一つの幻想である。
ヒトが概念としてしか持ち得ない理想の一撃を、ただの一撃でもって他者の全てを打倒する一撃を、武芸者はなんの気負いもなく放ち続ける。
ならばその幻想と、未だ応酬を続ける悪魔の少女はいったい何なのか。
美鈴の技が妖怪らしからぬ物であるのに対し、その少女の動きはまさに妖怪、いや悪魔そのものと言える物だった。
振り回すかぎ爪はただただ鋭く、その身のこなしは純粋に素早い。美鈴の動きをただ目で見て避け、なんの工夫もなく、しかし致命の一撃を放つ。
それはまさに王者の姿だった。王にはあくせくと小細工を練る必要など無く、ただ、その絶対の力を下々に振り下ろしてやればよい。
魔王はただ其処に在るだけで、既にヒトを遙かに上回る幻想なのだ。
二人の人外は、ヒトが達し得ない高みの力を惜しみなく振るい、闘争に酔いしれていた。
「フッ!」
美鈴が呼気とともに放った拳を少女が受け流そうとする。
同時に轟音が鳴り響く。
その瞬間、美鈴の拳を起点に凄まじい密度の気が炸裂したのだ。
しかし、その気の爆発に乗るようにして悪魔の少女は軽やかに舞い上がり、その影響全てを防ぐ。同時に距離を置いたところから射抜いてやろうと、悪魔の少女は莫大な量の魔力を集めた。
地に降り立ち美鈴に狙いを付けて放とうとした時、奇妙に大きな足音を立てて美鈴が動いた。僅かにその音に気を取られた刹那、美鈴の姿が悪魔の少女の視界から消えた。
少女がほんの数瞬、美鈴の姿を探すその間に。
鍛え上げた鋼鉄同士を叩き付けたような甲高い音。
生身の体が生み出したとは思えない衝撃音を響かせて、少女の背後、密着するほどの距離から放たれた美鈴の寸勁が、悪魔の少女の頭部を粉々に吹き飛ばした。
美鈴が間近まで迫った手段は瞬間移動の類ではなく、一つの歩法とでも言うべき物だった。相手の視点を読み、その注意が行き届かない隙間を縫い、接敵する。歩みそのものは、彼女たちの感覚に於いては、さほど素早いものでもなかったのだ。
ただ素早いだけの動きでは、身体能力で遙かに上を行く相手には意味をなさない。故に美鈴は足音に気を取らせ、そこから少女の気を読み、高密度に練り込んだ気を零距離から叩き込んだのだ。
しかし、美鈴は少女の頭部を吹き飛ばした直後、風切り音とともにすぐさま飛び退いた。美鈴からすれば当然の反応だ。目の前の悪魔はただ、頭を吹き飛ばされただけで、別に首無しの死体などではないのだ。
現に、首無しの少女は何事もなかったように、そのかぎ爪でもって美鈴をなぎ払おうとしたのだから。その爪は美鈴の頬を浅く凪いだだけだったが、止めを刺したなどと思いこんでいれば彼女も頭を持って行かれたところだ。
「頭をもがれるなんてずいぶんと久しぶりだわ」
悪魔は、馬鹿には見えない首でも生えているかのように、口を効いた。頭部を失っているというのに、血は噴水のように吹き上がることもなく、ゆっくりと滴り落ちている。
「来た早々こんなに面白いなんて、素敵な土地ね」
そう言う間に、吹き飛ばされた頭の破片が逆回転でもするように、元の位置へと帰還する。前と後とで変わったのは、少し血で汚れた少女の衣服くらいだろうか。
「あらら。やっぱり効かないのね、それくらいじゃ」
妖怪の基準からも凄まじいとしか言いようのない再生能力を目にして、それでも美鈴は楽しげな雰囲気を崩さなかった。確かに驚きはしたし、戦慄さえしたと言っても良いくらいだったが、それでも強者と対峙する喜びの方が上回っていた。
「いいや。百くらいは体力を奪われたわよ。万ある内のね」
事も無げに悪魔の少女は言い放つ。
「それは治り過ぎよ。西洋の多頭竜じゃないんだから。せいぜい5,6回くらいにしておいてよ」
呆れたように美鈴は言ったが、頭を吹き飛ばされて5,6回もほいほいと復活するなら十分に異常である。
「でも、まあ」
美鈴はそこで言葉を切り、
「百回叩き潰せばいいって事かしらね?」
そう言って太い笑みを漏らした。
「勿論よ。でも、出来るかしら?」
悪魔の少女はころころと笑いながら答えると、先ほど美鈴がして見せたように彼女の視界から姿を消した。
気配だけを頼りに美鈴が防御を固めると下方から凄まじい衝撃が襲い、ガード越しに美鈴を宙に浮かせた。攻撃を受けた美鈴にさえも、それが何であったか見えないほどに、ただただ速く、重い一撃。
美鈴が技量でもって悪魔の少女の視界から消えたのならば、彼女はその桁違いの身体能力でもって美鈴の視認を超えたのだった。魔王の歩みは、ただそれだけで致命の技となるのだ。
その動きは加速に加速を重ね、ただ一人を相手にしているはずが、幾人もの悪魔を同時に相手にしているかのようだった。上下左右、背後、正面から絶え間なく繰り出される爪と蹴りが、それでも未だ防ぎ続ける美鈴の手足とかち合い、空を切り裂き身を穿つ音を奏で続ける。
そして、肉を貫く音。
悪魔の少女の鋭いかぎ爪が遂に美鈴の防御を打ち破り、その胴を深々と貫いた。美鈴ののどに熱い塊が込み上げ、そして。
轟。
寸前まで悪魔の少女があった空間を、硬質の気塊が粉砕する。
「抜け目ないのね、あなた」
悪魔の少女は突き立てた爪を躊躇無く抜き去り、美鈴が放った高圧の気を秘めた拳を直前で避けていた。肉を切らせて骨を断つというやつか、と少女は半ば感心していた。欲を掻いて止めを刺そうとしていれば、今度は全身を吹き飛ばされていたところだろう。
「そりゃこっちの台詞。もうちょっと引きつけようと思ったのに、中から吹き飛ばそうとしてくれたじゃない」
口腔に溜まった血を唾とともに吐き捨てながら美鈴が気の廻りを活性化させると、早々に傷はふさがった。この程度の傷は、そう大した物ではない。
むしろ、誘い込んで放ったカウンターが失敗したことの方が問題であった。目で追いきれないほどの相手である。多少のダメージは良しとしようとしたのだが、内部から魔力を注ぎ込まれようとしたのを見て取っては、悠長に引きつけるわけにも行かなかったのだ。
「なんだ。あなたもしぶといんじゃない」
吸血鬼の目から見ても、素早い回復だと感じたのだろう。
「あんたほどじゃないわよ」
自分自身をさておいて、大概に頑丈な相手だ、と二人は互いに思った。
そして、血が沸き立つほどの強敵であるとも。
秋の夜長さえ短い。逢瀬の時を惜しむように、二つの紅は再び交差した。
止むことなく続く闘いの喧騒は、既に数時間も続いている。辺りの地面は手足の一撃に、あるいは妖気の塊によって、幾つものクレーターが穿たれていた。凡庸な魔であれば即座に雲散霧消しかねない一撃を互いに叩き付け合いながら、未だ二人は衰えた様子を見せない。
美鈴が技量を凝らした攻めを見せれば、悪魔は未来を読んだかのようにそれを防ぎ、美鈴はさらにその裏を掻く。少女が身体能力で美鈴を翻弄しようとすれば、気の流れを掴んだ美鈴が捉えられないはずの相手を捉え、少女はさらにそれを上回る動きを見せた。
拳と爪が激突し、その間で強大な妖気が反発し合う。その身と、妖気によって生み出された斥力は、甲高い音を立てて互いをはじき飛ばした。
美鈴は踵で地を削りながら渾身の一撃のために拳を固め、高速でチャクラを回し気を高める。
悪魔の少女はその羽で空を叩き衝撃を殺しながら、最大の一撃を放とうとその手に紅色の魔力を集める。
美鈴の足が地を踏みしめて止まり、少女が空中にその身を固定させる。武芸者の手には虹色の気塊があり、魔王の手には赤よりも紅い魔光がある。
最早互いの一撃をぶつけるのみ。
一瞬が過ぎる。
さらに数秒が過ぎる。
それでも二人の手にある必殺は、未だ放たれていない。ただ、互いに視線を合わせたまま時が過ぎる。
「この手で詰みね。私の負け」
めまぐるしく動いた二人の時にとって永遠にも等しい数秒のあと、軽いため息混じりに美鈴は言った。
「夜明けまであと十分かしら。良い線行ったわよ、あなた」
悪魔の少女はその外見のままに、可愛らしい微笑みを見せた。
闘いの気配が去ったことを感じ取ったのか、虫たちが喧騒を取り戻す。この場に居座ったままだったというのは、ずいぶんと剛毅な虫たちである。
二人の間では次の互いの一撃が美鈴に止めを刺す、あるいは十分以内に片を付ける一手となると判断したのだろう。夜明けが何をもたらすかと言えば、
「でもあなた。どうして時間の引き延ばしに入らなかったのかしら?」
吸血鬼はその強さの代わりに、日光など数多の弱点を持つ。故に日の出まで粘ることが出来れば十分に勝ちと言えるのだが、結局美鈴にそれを狙っていた様子はなく、本気で百たび打ち倒そうとしていたようだ。
「そういうやり方は吸血鬼ハンターの人にでも任せればいいのよ。私は妖怪だからそっちは専門外」
美鈴のその言葉に、予定通りの言葉に、吸血鬼の少女はにんまりと笑った。
「あなた馬鹿ねえ、素敵に。だから、今からあなたは私の物よ」
「はぁ?」
少女の文脈が繋がっていない言葉に、美鈴は困惑した。
「私が気に入ったモノは全て、私のモノよ。負けたんだから大人しく私の所有物になりなさい」
とんでもない王様発言だった。この幻想郷、言動から何から逸脱している輩が多いが、美鈴もここまでかっ飛んでいる者は初めて見た。これほどの変人である。きっとトラブルが向こうから寄ってくるに違いない。
「かしこまりました、お嬢様」
なので、美鈴はたった今からの主人へ優雅に会釈をした。飛び切りに強くて、その上変な相手と関わる機会を逸する、などと言うことは美鈴には考えられなかった。
「よろしい。身を尽くして仕えなさい、紅美鈴」
「え?」
美鈴の反応に、少女は悪戯を成功させた子供の顔で笑う。名乗ってもいないのに名を知られていれば当然驚く。まして美鈴には、特に名を売っていた覚えもなかったのだし。
「あなたの主の名は、レミリア・スカーレット。面白い『偶然』でしょう?」
互いの性は「紅」を示すと言うことだ。
やはりこの選択は正解だった、と美鈴は思う。早くも面白いようだ、この主人に仕えるのは。
*
紅美鈴の仕事ぶりは外見上、だいぶいい加減である。常に門前で控えてるでもなくふらふらと歩き回り、館内で暇を潰していたり、時には絵などを描いていたりするところなどを館のメイドが見ることもある。
絵に関しては手法も対象もバラバラで、また暇を潰す以上の価値を見いだしていないのか、描き上げたあとは自室に放置しているらしい。ただし、誰かしらがこっそりと持ち出しては館内に立てかけてあったり、かつそれがなかなかに様になっているところを見ると彼女の腕前はなかなか達者であるようだ。他にもいくつかある彼女の多芸の源は、暇つぶしの趣味を飽きもせずに延々と続けたことによるようである。
つまり、暇が出るような働きぶりである、と言うことなのだが。
とは言え、永遠に幼き紅き主人も完全で瀟洒なる従者も、その辺りについてはおおざっぱで何も言わない。館で最も偉い存在と、実質的な管理者が何も言わないのであれば下っ端のメイドなどが文句を付けられるはずもない。
それにサボっているはずの門番は、来訪者があればいつの間にか門前にいるのである。それ故に外から来る者には、門前に根を張っているのかとまで思われていたりもするらしい。
例外的に七曜の魔女は顔を合わせるたびに文句を言うが、彼女が毒を吐かない相手はおおよそ存在しないだろう、と言うのがひねくれ者の魔女をよく知る者の一致した見解である。魔女は、本人の言はどうあれ、実際の所来客を歓迎している、というのが侵入者を追い出したりする者の間ではこれまた統一見解であったため、文句を言われつつも半分素通ししているのが実情である。
最近は白黒はおろか、七色まで寄りつくほどだ。
悪態は吐きつつも相手をしている辺り、このスタンスで間違っていないだろうと美鈴は考えている。彼女は二つ名の通りまさに図書館であり、それなりの手続きを踏めば閲覧許可が下りると言うことだろう。ただし、その手続きが閲覧台帳の記入などではなく、弾幕なり機嫌取りなりや、あるいは交換する価値のある智なりであると言うだけの話だ。
よって、一般的門番としては噴飯モノの業務内容だったが、紅魔館の門番としては問題ない、と言うのが美鈴の口にはしない主張である。中に居るのがかよわい姫君でそれを守る騎士である、と言うようなおとぎ話ならともかく、一番危険なのが奥にいる姫君っぽく見える魔王とその妹君の破壊神となれば通常の門番など意味をなすはずもない。
自分の業務は実際のところ受付嬢だ、というのが美鈴の結論となる。顔パスになるか正当なアポを取るか門番を倒してお進み下さい、と言うのが美鈴の方針であり、不作法にしろ実力不足にしろ、門番に止められる者は紅魔館に訪れるのに相応しくない、と言うことである。
なので、本日ここヴワル大図書館に呼ばれたことを恐れる必要はない。先日、モノクロ二色に魔法書を数冊持って行かれたことを問いつめるために呼ばれた、とかでは決してない。無論、問いつめる間もなく焼き払うために呼んだとかではない、はず。
理論武装を終えた美鈴が、ヴワルの前で覚悟を決めて息を吸い込むと、
「美鈴。着いたのならとっとと入りなさい」
魔女の声が掛かり、重い音を立てて図書館の扉が開く。因みに重い音は演出であり、その気があればスムーズに開く。
図書館の主の声から判断すると、機嫌も体調も悪くないようである。
「はい、ただいまー」
どうやら危険がないようだと美鈴が安心して中に入ると、そこは唐突に魔女の書斎であった。執務机に着きこちらを睨め付けているのは当のこの部屋の主、七曜の魔女たるパチュリー・ノーレッジである。紫色の流れるような長い髪の愛らしい顔立ちをした少女なのだが、いつもながらに顔色と目つきが悪い。
顔色が悪いのは病弱であるのが原因であり、目つきが悪いのは視力に難があるためである。かといって今にも死にそうなのかと言えばそうでもなく、多少殺したところで素直に滅びるような殊勝な輩ではない。彼女の病弱は吸血鬼が持つ弱点のようなものであり、彼女の持つ莫大な魔力との等価交換品なのだろう。
「こんにちは、美鈴さん」
その傍らには、彼女の使い魔にしてこの図書館の司書のようなものである、無名の小悪魔が立っていた。赤毛の可愛らしい少女に見えはするが、無名とは言え歴とした悪魔であり外見通りのか弱い存在では決してない。
「遅かったわね美鈴」
もう一人は人間である。人間であるが、そう一括りにするに相応しい存在ではないだろう。悪魔の犬であり時空操作者である銀色の従者・十六夜咲夜は、その二つ名の通り完全で瀟洒なたたずまいでそこにあった。つまりは、立っているだけで様になるほどの麗人であると言うことだ。
ついでに言うならば、美鈴の絵を持ち出しては飾っている主な人物でもある。足りなければ適当にスペースも増やせる便利な特技を持っているため、彼女が絵の飾り場所に困ることはない。入り口と書斎を直結したのも、おそらく彼女の仕業だろう。魔女の方もそれくらいやってのけるだろうが、他人にわざわざ気遣いを見せるタイプではない。
「あれ。咲夜さんも呼ばれてたんですか?」
パチュリーが因縁を付けるために呼んだのでなければ、彼女が自分を呼ぶ理由として思いつくのはせいぜいパシリくらいだったのだが。しかし、咲夜まで呼ばれていたとなると、流石に使いっ走りとして呼ばれたのではないだろう、と美鈴は思った。
「肉体労働者が欲しいんですって」
「図書館の模様替えでもするんですか?」
「そんな用事だったらゴーレムでも呼んで済ますわよ。それよりはマシな判断力を持ってるのが欲しかったの」
ゴーレムよりはマシな頭、とはずいぶんな言いようだが、むしろこの魔女が素直な物言いを始める方が気味が悪い。よって場にいる者が誰も暴言を気にしないまま流れる。
パチュリーが軽く指を鳴らすと、空気が流れ本棚から分厚い一冊が彼女の手元へと移動した。きっちりとした装丁が整えられている本ではなく、表紙に『幻想道具話集』と書かれてはいるが、ぱらぱらとページを捲るパチュリーの手元を覗き見るに、日本語、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語、謎の文字、エトセトラエトセトラ……、と統一性が皆無である。
「最近見つけたこの本でね、ここの湖の起源らしきものを見つけたのよ。もともと大陸の方にあったらしいわ」
*
「どうかあの龍を退治していただきたいのです」
切実な顔でそう告げたのは、ここ一帯でもっとも大きな村の長である。
彼の前には異貌の女があった。この地では滅多に見ることのない金色の髪と瞳を持ち、優雅に不吉に笑う。その女の悠然とした立ち振る舞いは、事物全てを軽いものであると思っているかのようでさえあった。
女の道士など常ならば信用するに値しないが、目の前の人物が放つ異様な存在感に常人たる彼は圧倒されるしかなかった。
「それはよろしいのですけど。龍が居なくても災害など起きますわ。あれほどの水を湛えた湖、川ですもの」
「それはその通りなのですが……」
この村の上流にある湖に棲む龍は時々暴れ出しては、嵐を呼び洪水を起こし村々に被害を与えていた。しかし、異貌の道士が告げた通り龍が居ない水源にも災害は起こるのだ。それにあの湖から連なる水源は豊かなもので、それはまた水害を生みやすいと言うことでもある。
それでも龍が起こす災害は頻繁ではいとはいえ、その規模と被害がひどく大きいため、何とかならないかと長らく考えていたのだ。先日の嵐では村が一つ壊滅しかけたこともあり、龍を退治すべしという気運は高まっていた。
湖の主に逆らうと災いが起きるという老人もいたが、龍の為すことそのものが災いであるというのがほとんどのものの考えだ。
「それでも嵐を呼ばれることはなくなることでしょう。ただの水害であれば何とかしようがありますが、あの嵐はとても人間には……」
村長の訴えに道士は僅かに考え込むと、
「そうまでおっしゃるのならば、何とかいたしますわ」
そう言って満面の、しかし、見る者を不安にさせる笑みを浮かべた。
「それでは報酬の方なのですが……」
「そのようなモノは結構。私のような者からすれば龍の身こそが至上の宝となりますわ。龍退治の依頼そのものが報酬なのですよ」
またもころころと不吉に微笑む。
今更ながらに彼は不安に駆られた。この女に頼み事をして本当に良かったのかと。気付かぬうちに、重大な間違いを犯してしまったのではないかと。
「ではあの地から早晩にも、龍の存在を雲散霧消させてご覧に入れますわ」
どこからともなく、見たこともない意匠の日傘を取り出して差すと、道士は上流へと歩き出した。
「こんにちは、湖の主。あなたを退治するよう頼まれてきましたわ」
道士が村を出てほんの僅かな時の後、彼女は湖の龍の前に既にあった。
健脚なものでも半日はかかろうという道程を、いかにして省略したのであろうか。その手管は不明であったが、既に道士が湖の前にあったことは事実である。
「妖怪が龍退治とは、なかなか奇妙なことだな」
重厚なる声が辺りを震わせて、紅いたてがみの巨龍は目の前の女にそう言った。
「最近は妖怪の領域も手狭になりまして、人間の振りも板に付いてきましたのに……。あっさり見破られるのはひどいですわ」
よよよ、と明らかに作った泣き真似をして、女は妖怪であることを事も無げに認めた。
龍は目の前の女が事象の隙間に潜り込み、遠からぬ道程を零へと縮めたのを感知していた。境界を渡って移動する人間などまず居ない。
しかし、妖怪ならば千里を刹那の間に渡ったとて驚くに値しない。訳の分からぬ異形であるものが、道理に沿って在るはずもない。道理を無視するからこその妖怪、道理のままにあるものはただ珍しいだけの存在だ。
そして何よりも、女は隠しているつもりだったのだろうが、気脈に通じる龍がその粘り着くように強大な妖気を見逃すはずはなかった。その圧倒的な気配は、間違いなく大妖として分類される域のものだ。
「それで人に紛れるために妖怪退治の生業か? ならばさっさと我を滅ぼすが良い」
「あら。抵抗しないんですか?」
妖怪道士は意外そうな顔を作って、まるで不思議そうに龍に尋ねる。つまりは予定通りの反応と言うことだろう。
「なるほど。我が死にたがっていることを知ってここに来たのか。望みは肉か? 玉か? 血か? それとも鱗か爪か牙か? まともな存在では無理だが、お前の妖気から察するに我を殺滅しきることも可能だろう」
龍は既に存在することに飽いていた。
この地から吹き出す水脈、気脈そのものでもあるが故に、龍は己の土地から離れることは出来ない。意識など持たずにいれば無限の時が流れても気にせず在っただろうが、なんの間違いか自意識などというモノを得てしまった。
有るべきでないモノに目覚めてから、退屈と孤独が龍を蝕んだ。紛らわそうと何かが来るようにと暴れてはみても、誰も龍に危機を、楽しみを与える者は居なかった。全くの一方通行のやりとりに飽き、それがただの八つ当たりになるまでも大して時間がかからなかった。それすらももう稀であったが。
最早、己が存在していることそのものが龍にとって鬱陶しい。
「あらあら。頼まれてきたとは言いましたけど、退治するとは言ってませんわ」
道士はおどけて言う。
「私はあなた自身を欲してここまで来ました。これから私が作る郷に大きな湖と、外との境を引く要が欲しいのです。あなたを攫えば一石二鳥ですわ」
「それでは結局我の立場は今と変わらないだろう」
龍は落胆して言った。せっかく己を滅ぼせそうな異能者が現れたというのに、結局それも叶わないとは。
「ならばあなたに夢を与えましょう。夢の世界をその身一つで渡れるよう、夢と現の境界での眠りを得られますように」
「我が見る夢では、我の知ることしか存在しないのではないのか?」
「夢を見るのではなく、夢の世界へ行くのですよ。あなたが知らないものも当然ありますわ」
「……その夢の中では我は龍ではなくてもいいのか?」
「あなたが望むならば。たとえば、人の身として在ることも可能ですわ」
道士は他愛の無い日々を、龍にとっての夢の日々を語り続けた。ただ自由の身であるという一点が、ただの日の光を、風を、めぐる季節を美しく彩るのだと教えてくれた。世界の美しさを知る者の言葉は、無為に過ごした己の永い生に比べなんと華やかなのだろうか。
龍は道士の語る夢の世界に心惹かれていった。卑小な身になったところであらゆる束縛から逃れることなどはあり得ないが、それでも、この重い足かせを取り払ってくれるのならばと、たとえ夢であってもと思った。
「ならばお前の作る郷とやらに行きたい。だが、我をどうやってここから切り離すのだ?」
龍を移動させようとするならば、気脈そのものを動かす必要がある。それこそ龍を殺すよりよほど骨が折れるはずだ。
「あら、何のために私がわざわざ依頼を取り付けたと思います?」
確かにこの道士は、始めから龍について知悉していた様子である。村からの報酬も拒否してきたのだし、依頼を受けてくる必要など皆無だろう。
「ここ一帯の人間の、ほぼ総意としてあなたを否定してもらいたかったんですよ。要らないと言われたモノならば、縁を断ち切ってここから持ち去ることも出来ますわ」
「それはまたタチの悪いことだ。人間達はお前と交わした言葉の意味を理解していまい」
牙をむき出しに苦笑いを浮かべて龍は言った。この妖怪は嘘を言わずに、致命的な詐欺をやらかしてきたのだ。無論人間達にとって。
後日道士は村を訪れると、龍がこの地から消えたことを伝えた。村の人間は半信半疑であったが、その後嵐が来ることはなく、彼女の言葉が真実であったことを確認し喜んだ。
そう。その後、二度と、嵐が来ることはなかった。
その年のうちに湖は枯れ、そこから流れる川も残さず干上がった。数年のうちに一帯の緑が消え失せ、人間が去る頃にはかつての面影は一切存在しなかった。
時を同じくしてこの大陸から離れた島国の、いずことも知れない土地に、冷たい水を湛えた湖が生まれたという。その湖の底には今でも、永い夢を見続けている龍が居ると言われる。
*
「それで。その教訓話っぽいのがどうかされたんですか? パチュリー様好みの妖しげな道具の話なんて出てこないじゃありませんか」
咲夜がスッパリキッパリと身も蓋もない感想を述べた。彼女に先を越されたが、美鈴としてもパチュリーが、小悪魔を使って、わざわざ語って聞かせたのに、呪いの魔剣の話も不幸を呼ぶ財宝の話なども含まれていないのは妙だと思ったのだ。
「ああ。そこは前フリみたいなものよ。本題は続き」
わざわざ読まされた上に、主人に前フリとしてあっさりスルーされた小悪魔がさめざめと泣きはらしていたが、同様に咲夜と美鈴もスルーしていた。
パチュリーは壁に立てかけてある、美鈴によって描かれた龍の水墨画を見ながら続ける。
因みに、力強い筆致があまりにも真に迫っていたため、画竜点睛の故事に倣いその絵には目を入れていない。何せ妖怪が書いたものだけに、本当に飛んで行きかねない。パチュリーにしろ描いた当の美鈴にしろ実物の龍を見たことがあるわけではなかったが、それでも魔女の目にそれほどの感覚を抱かせる絵だったのだ。
「その龍を眠らせるのに何らかの道具が使われたらしいの。龍を眠らせるほどの力を秘めたアイテム、興味深いわ」
そのアイテムに思いを馳せたらしいパチュリーを見て、他の三人は魔女の目に妖しい輝きが灯ったような気がした。
他の二人の魔法使いに比べて本以外に対する蒐集癖は薄いパチュリーだが、知識欲に関しては他に引けを取らない。文献にあることは取りあえず試しておきたいらしく、妙な実践を行ってみたりすることもある。さらに今回のことに関しては、目の前に正否を決める証拠物件があるのだ。確かめてみない手はない。
「と言うわけで、ちょっと潜ってきて」
「秋にもなってここの水に入るのは……。正直ぞっとしないわねぇ」
咲夜は湖を見て思わず愚痴る。先日季節はずれも良いところの肝試しをしてきた身ではあったが、直接体に悪そうな季節はずれはどうかと思う。氷精が彷徨くだけあって、ただでさえこの湖は冷たいのだ。
「このくらいならまあ良いじゃないですか」
「妖怪と一緒にしないでちょうだい」
咲夜の言葉に、美鈴は一瞬きょとんとすると、
「ああ! 咲夜さんって人間でしたっけ」
「ふっふっふ……。それはどういう意味かしらねぇ?」
「はっはっは……。深い意味はありませんよー」
二人は引きつった笑みを浮かべつつ、無駄に緊迫感を出してじりじりと距離を取りあっている。
「あのー。私でも水除けの魔法くらい使えますから、そんな心配しなくても」
関係ないことで緊張感溢れる二人に、苦笑いを浮かべて小悪魔が言った。咲夜にしろ美鈴にしろ魔法に関しては門外漢であるので、サポート役兼脱線防止役としてパチュリーに言われて着いてきたのだ。と言っても本気で二人が脱線して暴れ出したら止めようがないので、そうなったら小悪魔はとっとと逃げ出す算段済みではあったが。
小悪魔に水除けの魔法をかけて貰い、三人は湖へと潜り込む。水の冷たさにも耐性があるのか、体が冷えることもないようである。特に実感していなかったが、深海に潜るなどでもしない限りは水圧にも耐えられるなかなかの優れものなのだ。
冷厳なるその水は澄み渡り、見通しはかなり良い。普段空を飛び回っている人妖たちであるから平気だが、湖底の方までよく視界が通っているために常人ならば怖気が走るところだろう。幻想郷の、一体どこに常人が居るのかは謎であるが。
「声、ちゃんと聞こえますか? これが届かないと息が出来ないことになるんですが」
「そういうことは真っ先に確認しなさい」
既に半分も潜ってから言ってきた小悪魔に、息が出来ないとかなり困る咲夜が文句を言った。生真面目そうに見えるが、やはり小悪魔もいい加減らしい。
「まあ何かあっても、咲夜さんならだいたい何とかなるじゃないですか」
気軽に言って来る美鈴に、
「そりゃそうだけどね。でもパチュリー様が言ってたじゃない。本当に龍が居るかも、って」
今のところ龍とやらを拝見したことはないが、パチュリーの文献通り嵐を呼んだりするような輩ならばなかなか手強いはずである。出来うる限り力は温存しておきたい。
「確かにそうですねぇ。寝てる間にこっそり済ませないとヤバイかな」
「ああ、多分じゃなくて居るのね?」
咲夜は美鈴の方を向いて確認を取る。
「龍かどうかはともかく、ちょっとここ気の流れはただの湖にしては大きすぎますから」
だから私には住みやすいんですけど、と美鈴は付け加える。彼女の感覚に従えば、少なくとも大物が居るのは間違いないらしい。
「でもあなたってずいぶん前からここに住んでいたんでしょう。その間なにもなかったの?」
「氷精は昔からうろうろしてましたけどねぇ、静かなもんですよ。て言うか、嵐がしょっちゅう起きてたら吸血鬼は住めませんし。あー、でも妹様の脱走阻止には良いのかな?」
言われてみれば雨が頻繁に降ったりしては、吸血鬼の居住環境としては相応しくない。となるとここに龍が居たとしても、未だ睡眠中と言うことだろう。
「それで、どの辺にいるのかしらねぇ。結構広いわよ、ここ」
咲夜の言う通り、この湖はかなり広い。その上、湖底もかなり起伏に富んでいて、見た感じで判る洞窟も多い。
「多分あそこじゃないかな。かなり大きな気の流れがありますし」
美鈴の指さした先には一際大きい洞穴がある。妖しいと言えばいかにも妖しい感じではある。それに他に手がかりがない今、美鈴の感覚くらいしかあてになるものがない。
「なら、手始めにあそこからで。問題ないわね?」
「はい。いいと思います」
小悪魔の方にも異論はないようだ。
穴に入ってみれば異常は明らかだった。
まず、ある程度中まで入ると大きな空洞になっており、そこには空気があった。かなり深いところ空いていた洞窟だというのに、水が中まで侵入してこないのだ。その上、光が届かない洞窟内だというのに、その空気は森林の空気のように澄んでいる。
「居るわね、こりゃ」
小悪魔の使った、照明の術によって浮かび上がる洞窟内を見回しながら美鈴が言った。
「私もそう思います。見て下さい」
美鈴の言葉に同意した小悪魔が差したのは、彼女が照らす洞窟の壁だった。
「なるほどね。ずいぶんつるつるとした壁だこと」
咲夜が言った通り自然に出来たとは思えない、なめらかな岩壁が広がっている。その上、建材に使用されるような堅固な石質だ。これを削り取ったとなると、龍というのはずいぶんと頑丈な体のようである。
普通ならば歩きにくいであろう洞窟内は、龍が削り取ったと思われるため平坦として歩きやすかった。かなりの距離を何度も方向を変えて歩いているが、それでもまだ余力がある。と言っても歩いているのは人外と、人にカテゴライズするのが憚られるような人間なのだが。
その道程の先に、それは在った。
巨大と言えばいいのか、それとも長大だと言えばいいのか。
視界全てを占めるかのように蜷局を巻いてそこに在る巨龍は、しかし、氷付き動き出すことなど有り得ない石像だった。表情など読めるはずもない石の龍は、それでも虚脱し、安らかに眠りに就いているかのようだった。その鼻先に浮かぶ七色に輝く小さな鈴が、龍を儚げに照らしている。
「歴史書なんかも来る前にいくつか漁ったんですけど、この湖で龍を見たという記述はありませんでした。だから多分、この湖が幻想郷に現れてから、ずっと眠ったままなんだと思います」
「眠ってるって言うけど、石じゃないかしら?」
咲夜の目からすれば眠る眠らない以前に、ただの石像なのではないかと思えたのだ。
「妖怪とかの場合、長い間休眠する時は石化したりすることもありますからね」
小悪魔の言った通り石になって永い時を過ごす者も居るし、また石に封印されたりする場合などもある。普段から石になって眠ったりする者は少ないが。
「これがパチュリー様の言ってたアイテムかな?」
美鈴が言ったのは、龍の石像の前に浮かぶ小さな鈴である。七色に輝くその鈴は、普通なら真っ先に目に入りそうなものだが、龍があまりにも巨大であるために案外と目立っていない。
「あ、美鈴さん! 不用意に触らない方が……」
「へ?」
小悪魔が止めようとした時には、既に美鈴が何の気無しに鈴を触ったあとだった。美鈴があわてて手を離したとたん、鈴は七色を失って紫色に染まり、地面に落下して澄んだ音を響かせる。
その音はなぜか、空気だけでなく美鈴の心にさざ波を残した。まるで記憶のどこかに、鈴の音が引っかかったまま残っているかのように。
ドクン、と何かが震える。
鈴の音が空気に溶けて消えた時、美鈴は大きな鼓動を感じ取った。自分の鼓動かと一瞬疑ったが、それは音ではなかった。二人を見やると、自分の気のせいではない証に怪訝そうな顔で辺りを見回している。
その鼓動はゆっくりと溶け出すように、周期を早めて行く。それと呼応するように、凝り固まっていた石像が生の気配を発し始める。灰色に染まっていた龍の像は、その身を透き通るような白へと変じ、そのたてがみは燃えるような紅を示した。
「これって、やっぱ私が触ったせい?」
「多分そうだと思います……」
「美鈴、あなたねえ。つまみ食いと同じ要領で変なモノにちょっかい出さないの」
「お、それはつまみ食いは良いってことですか? げ」
三人が緊張感に欠ける会話をする間に、龍はその瞳に光を取り戻していた。エメラルドのように輝くその緑色の瞳は、突如ルビーのような紅へと色を変えた。
「あのぅ、これってもしかして……」
美鈴の挙げた声に釣られて、恐る恐る龍の方を見た小悪魔は不安げに口にした。
「怒ってるのかしら?」
咲夜の疑問への返答は、龍が咆吼とともに放った妖気の塊によって為された。空気を震撼させる咆吼と殺到する巨大な気塊に、小悪魔は思わず目をつぶった。
しかし、小悪魔が感じた衝撃は思ったほどのものではなかった。と言うよりはずいぶんと音が遠い。小悪魔が目を開けてみると、周りの景色が変わっている。いつの間にか既に通り過ぎた所へと戻っていたのだ。
「あのでっかいの、もう追って来てますよ」
美鈴の声がずいぶんと近くから聞こえた。今更気付くのも何だが、小悪魔は美鈴の小脇に抱えられていた。とは言え気付かないのも無理はない話で、美鈴がかなりの速度で爆走しているにもかかわらず、どういう走法なのか小悪魔の体には全くと言っていいほど振動が伝わってこないのだ。
「あ、あれ。私?」
場所が突然変わったり姿勢がいきなり変わっていたりで、状況が掴めずに小悪魔はあたふたとしている。
「いちいち曲がっていると追いつかれそうね。まっすぐ行くことにしたから、宜しくね」
美鈴の傍らを滑るように飛行する咲夜は、混乱する小悪魔を気にせずに美鈴に言った。色々と懇切丁寧に説明する状況でもないし、幻想郷の住人は大概あまり説明をしてくれるような親切さを持ち合わせていない。決して小悪魔を混乱したままにしておくのが楽しいから、とかでは決してない。多分。
彼女たちの位置が突然変わったのは、龍の放った気塊を避けるために咲夜が時を止めつつ、小悪魔を美鈴に手渡して移動したからだった。打ち合わせも無しに合わせて動ける二人は良いが、巻き込まれた小悪魔には未だに何が起こったのかさっぱりである。
「はいな。破!」
咲夜に応えて美鈴が突き出した掌から、一瞬にして高圧に高められた気弾が飛び出した。歩を止めることもなくあっさりと生み出されたそれは、耳を劈くような音を立てて壁、いや、岩盤を貫いていった。
気弾が開けた穴を確認する間もなく、すぐさま美鈴は跳び上がる。彼女に抱えられた小悪魔が体に掛かる力を感じると同時に、一瞬前まで居た場所に龍が放ったと思われる妖弾が雨霰と降り注いだ。
美鈴が開けた穴へと飛び込み、小悪魔の視界には岩盤が流れて行くのが映っていたが、突如その視界がコマ落ちしたように途切れて切り替わる。次の瞬間に小悪魔の目に映ったのは蒼い空、彼女が居たのは湖の上空だった。
それを確認するとほぼ同時に、水同士が衝突する音が鳴り響く。美鈴が開けた穴は途中から湖へと抜けたらしく、その一瞬に生じた穴を、聖者が海を裂いて渡るように、咲夜が時間を止めて抜けていったのだった。
未だに事態を掴み切れていない小悪魔に向けて、咲夜がいつの間に拾っていたのか鈴を投げて寄越す。七色に輝いていた鈴は光を失い、今はもう完全に紫色に染まっている。
「パチュリー様にこれを」
「お二人はどうするんです?」
鈴を掴みながら、小悪魔は聞き返した。
「どうするって、ねえ?」
美鈴の方を向いて咲夜が言うと、
「あんなの連れたまま戻ったらパチュリー様キレるじゃない。本に悪そうよ、あれ」
美鈴が小悪魔に言ったのに合わせるように、岩盤を粉砕しながら紅いたてがみの白竜が現れた。岩壁を削り取るどころか、岩盤を体当たりで砕くほどにあの龍は頑丈のようである。
「嘘! もう来たんですか!?」
「そういうわけだから、早く行きなさい」
言いながら咲夜の手にはいつの間にか無数のナイフがあった。
「駄目だったらパチュリー様に後始末してくれるよう、お願いねー」
軽く言う美鈴の周りには幾つもの蒼い気弾が舞っていた。
「はい! お二人とも、ご無事で」
そう言って一礼すると、小悪魔は可能な限りの全力で紅魔館へと向かった。
残された二人は何となく顔を見合わせる。
「ご無事で、なんて言われちゃいましたねぇ」
「あの娘も大げさねぇ。むしろ死亡フラグが立ちそうだわ」
小悪魔の残した台詞に、二人は随分といい加減なコメントを付けた。二人は何とはなしに自分たちが「ここは私達が! あなたは先に行きなさい!」などとシリアスに言っているのを想像したが、あまりにも似合わないので早々にその妄想を破棄した。
馬鹿なことをしている間に、龍はこちらに狙いを定めたらしい。何を考えているのかも判らないが、その荒々しい怒気だけははっきりと伝わってくる。
「それじゃあ、美鈴?」
「行きましょうか、咲夜さん」
二人は視線を交わし、鋭く笑みを浮かべた。
「「幻符」」
二人の宣言が重なる。
「殺人ドール!」
「華想夢葛!」
凍り付いた時の中で設置された大量のナイフが、動き出した時の中で龍に向かって一斉に殺到する。美鈴の周りに漂っていた青白い気の弾丸が、時が動き出したのに合わせてナイフの隙間を埋めるように龍に襲いかかる。
スペルカードの宣言まで行っておいてなんだが、二人には避ける隙間を与えるつもりなど毛頭無かった。どう考えても相手が大きすぎて隙間を作ってやるのも馬鹿馬鹿しかったし、あまり理性的な相手でもないように見受けられたからだ。弾幕ごっこが成立するようには思えない。
ナイフと気弾の絨毯爆撃が着弾すると思われた瞬間、龍が七色の輝きを放った。透き通るように白かった鱗が、陽光を取り込んで増幅し虹色に輝いているのだ。七色の光はそのまま気を帯びて弾丸と化し、龍を中心とした颱風の如く荒れ狂った。
龍が放った虹色の光弾による嵐と、二人が放ったナイフと気弾の混成弾幕は互いに拮抗し打ち消し合う。ガラスが砕けるような音、金属音、爆発音が入り交じり湖上は刹那の間、花火大会のような様相を呈した。
「アレ、あなたの親戚?」
ぶつかり合う弾幕を大した緊張感も伴わずに見やりながら、咲夜は龍が放った光弾に対する率直な感想を述べてみた。目に華やかな七色の弾幕は、美鈴も好んで使うものである。
「あー。多分あんなでっかい親戚は居ないと思うんですけど」
どうにも相打ちに終わりそうな様相を見ながら、美鈴は一応咲夜の言を否定してみた。とは言え、美鈴も自分の生まれをはっきり覚えているわけでもないので、あのような親類縁者が居ないとも限らない。そう言えば自分って何妖怪なんだろう、などとあまりにも今更な事にも思い至った。
「む。結構壊れたナイフが多いわね」
咲夜の手元にはいつの間にか、時間を止めて回収していたらしいナイフがあった。当人にしか判らないが、無傷のナイフと破損したナイフを選り分けて収納用の空間に放り込む。
「直接殴った方が良さそうですね。援護、お願いします」
美鈴は内部の気を高めながら、弾幕の競り合いが終わるのを待つ。
「じゃあ、途切れたら正面を空けるわ」
拮抗が終わった瞬間、龍はさらに光弾の嵐を巻き起こした。力任せなのが趣味なのか、それとも直接狙うのが面倒なのか。
その力任せに放たれた虹色の群れに、巨大な違和感が干渉する。荒れ狂いながら襲いかかるはずの光の嵐は、十戒の如く断ち割られる。咲夜が空間を操作し弾の軌道を変えたのだ。
そして、切り開かれたのは美鈴が直面した位置。
既に気を整えていた美鈴が空を地の如く蹴り、がら空きの真っ正面を疾走する。ほんの一瞬で拳打の間合いに入ろうとした美鈴の目の前に、突然巨大な気塊が発生した。
「どぉわぁっ!」
美鈴は悲鳴を上げつつも殴り付けるための気を相殺に使い、それでも殺しきれない反動をそのまま利用して間合いを取った。
「デカいくせに反応良いわねぇ」
愚痴を零しながらも相手のなかなかの手応えに、美鈴は楽しげに笑みを漏らした。
効果が薄いと考えたのか、龍は光の嵐を止めると天に向かって咆吼を上げる。その声に応えるように、蒼天は突然の黒雲に満たされ遠雷の音を響かせ始めた。
「もしかして……」
美鈴が空を見上げた瞬間に暗雲から閃光が放たれ、空気を焼き切りながら雷が降り注ぐ。
「見てないでちゃんと避けなさいよ」
美鈴は落雷があった場所から遠く離れて、襟首を掴んだまま言う咲夜の声を聞いていた。一瞬遅れて、雷鳴が美鈴の耳に入る。どうやら雷が落ちる前に咲夜が移動させてくれたようだ。
「助かりました、咲夜さん。うげ」
美鈴が顔をしかめて空を見上げると、明らかに自然現象を逸して雷雲全体が輝き始めている。
「きゃ」
美鈴が咲夜を抱えて走り出すのと、直前まで二人がいた場所に落雷があったのはほとんど同時だった。珍しく可愛らしい声を上げた咲夜を、俗に言うお姫様だっこで、抱えながら、追いかけるように次々と落ちてくる雷撃を美鈴は逃げ続ける。時折進行方向に先読みしたように落ちてくる雷を、さらに先読みして避けつつ美鈴は、
「いつまでも鬼ごっこしてるのも何ですし、なんか良い案在りません?」
「雨まで降り出したらお嬢様に叱られそうだしねぇ。ここから直に殴ることにしましょう」
咲夜は美鈴の腕の中から離れ、美鈴と併走して飛行し始める。
「了解」
咲夜の言葉を聞いてどういう手段で行くのか理解したのか、美鈴は追ってくる落雷を避けつつ気を高めすぐにもそれは十分量に達する。美鈴は一瞬歩を止めて、まるで目の前に目標が居るかのように地を踏みしめて構える。咲夜もそれに合わせて傍らに立ち止まった。
足を止めた美鈴に落雷が襲いかかろうとした瞬間、龍は彼女たちを見失った。
同時に、硬質の衝撃音が響く。
時を止めて突然間近に現れた気配を龍が感じ取るのが早いか、最大量の気を集めた美鈴の寸勁が龍の頭部に炸裂したのだ。凄まじい衝撃を受けながら龍は一寸も吹き飛ばされることなく、つまりは一切の消力も無しにその衝撃全てを体に透されたと言うことだ。
僅かに痙攣するように震えると、龍は豪快な水音とともにその身を湖へと落下させた。
泡を立てながら龍が沈んでいくのを見届けていると、美鈴は突然視界が歪むのを感じた。一瞬集中を失い、眠りに落ちかける時のような落下感が彼女を襲う。さらに、首を中心に、ガクン、と衝撃を受けた。
「ちょっと。こんなところで居眠り?」
馬鹿にするような咲夜の声が美鈴の耳に届き、意識がはっきりとする。どうやら本気で落下しそうになったらしく、咲夜が襟首を掴んで支えていた。美鈴が咲夜の方を見ると、口調とは裏腹に珍しく心配そうな顔をしていた。
「すいませんねぇ。気、使いすぎたかな?」
美鈴は咲夜に笑顔を見せながら、自分の言が間違いであることにも気付いていた。全力で気を注ぎ込んだのは間違いないが、自分の体は全力を出したくらいで揺らぐような脆い作りはしていないはずであった。
美鈴はふと、龍が沈んでいく辺りの泡がやけに激しいことに気付いた。直後、ほんの一瞬で収束した濃密な気を感じる。咲夜は美鈴の方をまだ心配そうに見ており、かつ、その方面に特化した感覚を持たないが故にまだ気付いていない。
時空を操る者が目の前に居るというのに、絶望的に時間が足りない。
「っ?!」
咲夜は突然美鈴に突き飛ばされた。咲夜が突然の仕打ちに彼女に食って掛かろうとした瞬間、
眼前を、巨大な気塊が駆け抜けた。
それは、空を抜けて、覆っていた暗雲をドーナッツ状に消し飛ばしていく。
しかし、その光景など、咲夜の目には入っていなかった。彼女の目に映っていたのは、緑色の帽子が、帽子だけが湖へと落ちていく様。龍の文字が書かれた星形のプレートをあしらった帽子は軽い水音を立てて水面に浮かんだ。
*
「パチュリー様!」
珈琲を啜りながらライフワークの如く本を読んでいたパチュリーの元に、あわてた様子の小悪魔が飛んでやってきた。
「騒がしいわね。別にタイムアタックは求めていなかったはずだけど?」
息も絶え絶えの小悪魔に、書に目を通したままのパチュリーがたしなめる。
「このっ、鈴っ、が……」
「なるほど、この鈴が件のアイテムね。あとで解析するから、この本が終わるまでゆっくりしていなさい」
忙しない小悪魔に、パチュリーはあくまでマイペースに本を読んだまま目を離さない。小悪魔は無理矢理はやる心を抑えて、数度深呼吸をする。
「龍が出たんです!!!!」
大きく息を吸い込んで上げた小悪魔の叫びがパチュリーの耳に響く。何となくパチュリーは、自分の髪が風圧で靡いているのではないかと幻視した。
魔女はようやく使い魔の方に向き直ると話を聞く態勢を取る。改めて見た小悪魔の表情は常になく真剣だ。
「何があったか簡潔に話しなさい」
「美鈴が触った時、この鈴が光を失ったのね?」
小悪魔の説明を聞いたパチュリーは、そう小悪魔に聞き返した。彼女は話を聞く傍ら、それを最も重要だと判断したのだ。
「はい、そうです。お二人、大丈夫でしょうか?」
小悪魔は不安げにパチュリーに聞き返すと、主は既に立ち上がっていた。アームチェアディテクティブの如く、滅多に自分から動かないパチュリーにしては珍しいことだ。
「あなたはここに居なさい」
パチュリーは、珍しくアクティブな主人に驚く小悪魔を、そう言ってこの場に留める。
本当はゆっくりとこの鈴の解析を楽しみたいところだったが、どうやらそうも言っていられないようだ。ざっとしたところの解析は既に話の最中に終えてある。未解析の部分があるにせよ、最早本で調べている時間もない。
しくじればパチュリーは、なんだかんだで紅色の吸血鬼の次につき合いの長い人物を失うことになる。彼女との間柄は、まあ友人と言っても差し支えはないだろう。彼女の描いた龍の絵が、ふと目に入る。
「やっぱり目を入れさせないで正解だったわね」
「なんのことです?」
聞き返す小悪魔には応えずに、パチュリーは外へと繋がる門を構築する。喘息が呪を阻害することもなく、体調は何とか及第点のようだ。友人を失わないために、パチュリーは門を開いた。
*
湖上は時が止まったように凍り付いていた。咲夜は水面に浮かぶ帽子を凝視したまま動かず、龍も紅色に染まっていた瞳を緑色に戻して一切の動きを止めていた。
沈黙を破るかのように、いつの間にか咲夜の手にあった無数のナイフが強く握りしめられて音を立てる。
「潰れろ世界」
表情を失った咲夜が呟くと同時に、辺りは彼女が支配する異界と化した。
いかなる時にも属さない空間の中で、咲夜は渾身の力でナイフを投げつけた。それは空間の歪みに囚われて加速を、龍に向けて落下をして行く。圧縮された時空はナイフの過去を、未来さえも写し、1のナイフが無数の時間軸の己とともに殺到し、無数のナイフは無限のナイフとなって龍へと襲いかかる。
耐久限界の加速をかけられたナイフの無限地獄が、岩を易々と砕く龍の身を削り血煙を上げた。しかし、龍は殺意の雨に己が身を穿たれていながら、微動だにしなかった。
「待ちなさい、咲夜」
突然の声の侵入に咲夜の世界が剥がれ落ちる。
咲夜の支配下にある空間に侵入し、声を上げたのはパチュリーであった。無論、ただ声をかければ破れるような世界なはずはなく、尋常ならざる魔力でもって強制的に介入したのだ。不調ではない程度の体調では少々辛い。
「……パチュリー様?」
ようやく正気に返った咲夜が、呆然とパチュリーの方を見た。
「そいつを殺してはダメよ。話にあったでしょ、龍を殺すと罰が当たるって」
「でも、美鈴が!」
「うちの門番は煮ても焼いても喰えないくらいには頑丈よ」
訴える咲夜の言葉を一蹴したパチュリーは、龍へと向き直ると懐から紫色に染まった鈴を取り出した。
「あなたは元の通り夢の中へと戻りなさい。全て元通りにね」
パチュリーは鈴を龍に向かってかざし、解析した通りの手順でその力を解放する。
と言ってもそれは大層な手順が必要なものでもなかった。実のところ魔術的構築物とするのならば、この鈴は大した代物ではなかった。なんの工夫もなく、ただ強い力を込めただけの品。
それは良い夢を見られるようにという、ただただ強い祈りが込められた物だった。つまりは、魔術より奇跡に寄った産物。一足飛びに結果へと至るような物は理詰めの魔女には必要はなく、しかし、今利用せざるを得ないのは少々腹立たしい。それもいずれ征服すべき事象だが、今はまず目の前の事態だ。
鈴の性質に合わせてパチュリーが祈り、その力が作用し始める。おそらくはそれを作り上げた者の色であろう紫に戻っていた鈴は、再び夢を見る龍の虹色に輝き始める。
それと引き替えるように龍は色を失っていく。虹色に輝く鱗は白へと戻り、さらには初めに見た通りの灰色の石へと戻った。そしてその緑色の瞳が光を失う寸前、
「すまない。サクヤ、パチュリー」
そう言い残して完全に石化すると、龍は激しい水音を立てて湖の底へと沈んでいった。
「あの龍、何で私とパチュリー様の名前を?」
咲夜は怪訝そうにパチュリーに訊ねた。名乗った覚えは当然ない。
「夢から覗き見していたんじゃないの。そんな事よりも、そこに浮かんでる土左衛門を拾ってあげたら?」
パチュリーがあごで指した先には水面を漂っている、てっきり吹き飛ばされたとばかり思っていた美鈴の姿があった。傷を負った様子すらなく、それどころか昏々と眠っているようである。
美鈴の何とも無さそうな姿を見て咲夜は何かをこらえるように一瞬上を見上げたが、あまりに何とも無さそうな姿に腹が立ったのか彼女の頭に蹴りを入れた。その衝撃で、上を向いて浮いていた美鈴はひっくり返って水面に顔を沈める。
それでも目覚めず待つこと何十秒か、美鈴の顔周りで激しく泡が立ち、バネ仕掛けのように顔を出した。
「ブハッ! 死ぬかと思ったー、って何でいきなりナイフが!」
「うるさいわね! いつまでも死んだフリしてるからよ!」
なぜかバタフライで逃げ回る美鈴を咲夜がナイフで追い回している。
「やれやれ」
騒がしい二人を横目に見つつ、パチュリーは軽くため息を吐く。同時にパチュリーは日常が保たれたことにほっと胸をなで下ろした。
*
「おはよう、パチェ」
「私はそろそろお休みよ、レミィ」
友人の紅い悪魔が訪ねてきたのはパチュリーがそろそろ寝ようとした頃だった。普段は不規則な時間に眠るパチュリーだったが、本日は色々とあったので、ややこしい後始末を終了させると早々に寝る気になっていた。よって、逆転した健康的生活を送るレミリアとちょうどすれ違うところだったのだ。
後始末とは、美鈴が触れただけで効果が解けるような物は危なっかしくてしょうがないので、件の鈴はパチュリー方式に本へと変換して封じておいたことだ。この方式ならば書を読み解き、理解しない限りは再度効果が現れることはない。問題は自称トレジャーハンターの手癖だが、こればかりはどんな形をしていてもしようがないので諦める。
「取りあえず、うちの門番を失わずにすんだことに礼を言っておくわね」
「分かってたなら忠告くらいしてよ……。知人が減るのは流石の私も歓迎しないわよ」
レミリアは運命を操る程度の能力、というでたらめな力を持つ。何しろ、これほどはっきりとしたイベントである。あらかじめ彼女がこの事態を知悉していたとしても不思議はない。
「事前に知らせると凶と出た、とでも思ってちょうだい。夜に起きれば私が出ばっても良いんだけど、昼だとあの龍とは流石に相性悪いのよね」
「ああ。虹の光に、雨も呼ぶんだったわね」
考えてみればあの門番の弾幕とも、あまり相性は良くないであろうことにパチュリーは思い至った。とは言っても威力の桁が違っていそうではあるが。結局の所、あの龍は寝起きの機嫌の悪さのまま寝ぼけて暴れ、それだけで湖の岸などを粉砕してまわったのだし。
パチュリーは何となく文字通り画竜点睛を欠く絵を眺めながら、夢を見に現を去った龍と変わりなく居る美鈴のことを考えた。
「胡蝶の夢ね。もう、どちらが夢でどちらが現なのかも判らない」
「私の居るところが現よ。私が手に入れられないところに居てもねぇ」
レミリアに言わせれば夢も現もバッサリと切り捨てられる。ビバ私の俺様主義。さすがは生まれながらの魔王、私が居てこその世界だと言ったところだろうか。
「それじゃあ、私は出かけてくるわ。またこき使うけど宜しくねパチェ、お休み」
「気を付けてね、周りに迷惑かけないよう。……お手柔らかにねレミィ、お休み」
去っていく友人を見送りながらも既にまぶたが重い。そろそろ夢と現の境界を越えそうである。ほどほどの危機をスパイスにした日常が続くことを願って、パチュリーは意識を手放した。
*
我は紅き館の夢を見る。
我であって我でない者として。
友が居る館を、我は夢見る。
私が思うに、咲夜と美鈴は絶対仲が良い。お互いの秘密とか知っていて、なおかつそれが周囲にばれないようにかくまってるとか。
肉弾格闘においてはレミ様にひけをとらない中国、格好いいです。感服。
こんな日女にあこがれ・・・はしないけど。
あなたの描く幻想郷は、とても自分の理想のそれと重なります。
俺設定万歳!
しかも、ひとSSで二度美味しい。 ご馳走様でした。
氏の心の中には幻想郷がしかと存在してますね。
美鈴、咲夜、レミリア、パチェ、小悪魔。全部に萌えて燃えました。
長さを感じさせない魅力に溢れた作品に、ファンファーレの嵐を。
スタンディングオベレーション!!
しかしまあ、美鈴のカッコイイこと♪
自分にはイジメられ役の美鈴のイメージが定着してしまっているのですが、
こんな美鈴もまた素晴らしい。
いやいや、これは中々面白い。
特にさらりとした読後感を至上のものとする俺にはこの上ないものでしたよ。
二次創作とはかく在るべき、の一つの指標的な作品といっても差し支えないかと。
きっと幻想郷にはこの話のように隠れた実力者がもっさり居るに違いない!!
そしてそいつらは日ごろは本性を隠し、雑魚キャラ、弄られキャラとして振舞っているんだ!!
そして、一度本性に火が着くと・・・・・・!!!!
これだからたまんねぇ、幻想郷ってのはよ!!!!
いい美鈴解釈でした
キャラがみんなカッコ可愛く描写されてて素晴らしい