Coolier - 新生・東方創想話

風の名は(七)

2005/03/22 06:41:58
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あなたにはまだ牙がある。背中に紅い翼が生える。私にはもう翼が無いのに。あなたにはまだ牙がある。あなたは崖下の私を見下ろしている。



地肌に胴を擦りつけるように馬がもがく。馬銜《はみ》の周りに朱を浮かべ、石が目を潰している。荒い息も収まったかと思われたとき、胴が爆ぜた。アリスが人間では不可能な脚力で蹴り上げたそれは妖夢の視界を覆う。巨体が宙に浮いたことに気をとられていれば、致命的な隙となっていたことだろう。

妖夢は然し何の躊躇も無く、下に構えた太刀を振り上げる。肉に刃が食い込んだ瞬間、弾力を感じることもなく、血管と筋肉が筋横に裂かれていった。筋力の水準は二人共に人間を上回っていたが、その限界点は妖夢が圧倒的に上位である。

胴が割れると、小刀を持った人形たちが解体を始める。血と臓物が飛び散り、それらはたしかに妖夢の視界を汚したが、彼女の太刀筋にそれに類したものは生じず、それを見て取ったアリスが慌てて人形たちを引っ込めた。これでは上海人形による攻撃もかわされかねない。

直後、馬の身体を成していたものの全てが妖夢の太刀によって微塵と化した。それは既に太刀筋などという甘いものではない。太刀の範囲にあるもの全てを切り裂く、云わば斬殺領域と化していた。太刀の軌跡はそのためのただのきっかけに過ぎないのであった。

アリスが妖夢と戦い始めて十分も経ってはいなかったが、その激しさ、速さ、何より攻撃の苛烈さにおいて、先の警備隊との一戦とは明らかに段違いのものがあった。

その理由にアリスは気づいていた。妖夢の半身である霊体が見当たらないのである。どういう理屈かは知れないが、あの霊体は妖夢の中の魂よりも上位、より深奥の存在であり、妖夢の欠けた部分を補う形で同化しているらしかった。何かを守るにあたって、これだけの段を備えられるならば、雇う気にもなろうというものだ。

鬼に成る成らないどころではない。あの子はとっくに鬼を孕んでいた。

アリスは妖夢の間合いの鼻先に何体かの人形を突きつけながら時間を稼ぎ、なんとか予断を導くまでになったが、それは事態の打開にはあまり役に立ちそうもない。それでもアリスは内心から沸き出る期待――人形の自律が成功すればこれほどの成果を手にすることができるのだという期待に、口元を歪めずにはいられない。

では、先ずは自律した人形を手に入れようか。アリスの馬銜《はめ》が外れた。

「基底音階、調律開始」

アリスが呟きと共に指揮者のごとく両手を頭の上で斜に構える。何度か拍子を合わせるようにして腕を動かすと、人形達に主人の指を根元から切り落とさせた。これをやると一週間は不自由な生活を送る事になるが、投資としては安いものだった。

滴り落ちる十条の血。それはやがて線となり、無数に分かれ、辺りは紅い線で切り取られていく。途端、人形達が動きを止めていった。妖夢も例外ではない。アリスの見立てから外れるものはここには存在していない。

「遊びから外れると怖いものだな」

藍は暢気にそう呟いたが、彼女もそうはしていられないはずである。というのに、彼女はぶっきらぼうに手を袖に突っ込んだまま、地上を見下ろしていた。というのも、人の頭をした鷲が、どうにもやる気が無い様子だからだった。藍も藍で非常に体調がよろしくなかったから、こうして鷲と一緒に観客を決め込んでいる。とうとう、鷲などは藍の肩に乗るまでになっていた。

「お前も何かの見立てなのかもな……可哀想に」

藍はごわごわとしつつも手触りの良い鷲の羽を撫でる。彼女にあっては、この奇態な鷲も誰かの勝手で生み出されたものの一人にしか思えないのだった。



司書管理部総務課長。それがその悪魔の役職だった。彼女は今、空を飛ぶ目から、地上を見下ろしている。彼女はもう少しそうしていたかったが、彼女は全てを鳥に任せると、目を閉じた。そして地上の目が開く。ここは紅魔館にある応接室の一室。アリスが通された部屋と作りは同じらしいが、やはり、タペストリーは別のものが掛けられていた。

彼女は上座の席に腰を埋め、ゆっくりと辺りを見回す。傍らには補佐役の部下が控えていた。きつめのベストの下は汗ばんでいたが、彼女は気にした風もなく、部下に報告を促した。

「課長、管理部直轄部隊との連絡が途絶えました」
「術式は不発だったわけか……パチュリー様は脱出できたの?」
「はい、じきに到着するかと」
「そう。それじゃ、それまで下がっていて良いよ。ああ、云わなくてもわかってると思うけど、メイド長の足止めは忘れないでね」

部下は上司の前から下がると、弩連隊の指揮にあたった。それは無駄な努力に終わることになるが、語るに及ばない。部屋に一人残された悪魔は、扉の開く音を聞いた。眠そうな目付きで客人が部屋を眺める。彼女の目に入るのは、ただ一つ。壁に掛けられたタペストリー。そうとは知らず、悪魔は自分の席を空け、客人をそこに座らせた。

「お待ちしていました、パチュリー様」
「咲夜は?」
「既に図書館を出たとのことですが、なあに、間に合いませんよ。冥界のも、よく惹き付けてくれています。パチュリー様が謎を解いてくだされば、全てはあなた様の思うがままです」
「よく云うわ。あれの解れを見つけたのも、これを私に渡したのも、バエルの奸計に乗ってみせたのも、鳥を使おうと言い出したのも……全部、あなたのしたことじゃない」
「奴は馬鹿ですよ。昔からですがね。私がパチュリー様に召喚しなおされたことも知らず、私が自分と同じ境遇だと信じていたんですから」

くく、と悪魔は唇の端を吊り上げた。地を這う蛙などに空を飛ぶ鳥の気持ちはわかるまい。彼女はそう考えていたが、パチュリーは違う。彼女は用意されてあった紅茶を二口で飲み切ると、気管の調子を確かめるように服の内側に手を入れてから、席を立った。

「そのおかげで私は楽になったわ。思っていた以上に」

パチュリーは手に持ったものを強く握り締めた。悪魔は気づいていない。それでも、主人の目の異様さには気づくことができた。眠そうな目の奥には、鮮烈な知識の閃きが漂っている。そのためには何物の犠牲も厭わないという意味も彼女にはわかった。彼女は一歩、後ろに下がった。

「だから、あなたももう楽になって良いわよ」

もう一歩下がると背中に壁があたった。頭の上にはタペストリーが掛かっている。それに気を取られた瞬間、ベストのきつさが感じられなくなった。左胸に太いナイフが突き立っている。パチュリーが彼女の身体から離れると、何事か一瞬の内に呟いた。

悪魔の身体が浮いていく。血を吐いてみてもそれはパチュリーには届かず、目の前の空間に生じた透明な結界に阻まれた。既に生贄は奉げられ、術式は進行している。

「さよなら、バルバトス」

鳥の知識を持つ悪魔は、そのまま身を爆ぜた。彼女は最期に空を飛ぶ目に視界を移した。そこもやはり、血に染まっていた。彼女の見下ろした大地は、どこも血に染まる運命にあった。



ノイズはもういらない。

妖夢の身体は呪縛の空間にあってなお、アリスへと飛び掛かる。だが、完全に制御下に置かれた人形達はそれを許さない。太刀が振り切られる前に人形達が殺到し、その排除と回避に追われてしまう。馬力と正確さにおいて、先程までの比ではない。ノイズが全て取り除かれる、それは妖夢の敗北を意味する。

「フィルタ、格子形を。位相特性を確認――」

アリスの詠唱と同時に、人形達の余分な動きが更に無くなり、妖夢は身体の制御において混乱を覚える。既にアリスが云うところのフィルタは三度被せられ、その都度、妖夢の太刀筋の一つ一つが削り取られていく。こうなっては、一体の人形を落とす事さえ至難であった。

「心、心、心。心を削れ、削れ、削れ。それはノイズ」

アリスには咲夜との会話など頭に無い。目の前の人形を手に入れることだけが全ての目的に取って代わっている。

妖夢には判っていた。それは身体に刷り込まれた絶対法則。魂魄の判例。追い詰められた身体は残された牙を思い出す。いや、それは既に判っていた。

「今、何て云った?」

アリスの耳にノイズが走る。判らぬならば教えよう。

「斬れば判る」

白楼剣が、妖夢の胸を穿っていた。鷲は飛び立つ。ここに求めるものは無いのだ。自由になった鳥に、大地は見下ろすに値しないものだった。
スランプなど言い訳。ただ書き続けるのみ
司馬漬け
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