どこまでも澄み渡る濃紺の夜空。雲ひとつない、見事な月と星の海。
ここ紅魔館の主は昼間が、というより太陽が大の苦手だ。だから外出する時はこういう夜が多い。
そして今宵もまた、夜を好む少女が大きな月を背に、夜空に漂っている。
・・・・・・いや、どうやらいつもと少し違うようだ。
「ふふ・・・・・病弱なあなたが私に敵うと思って?」
一つに、彼女の従者がこの場にいない事。従者がいなければこの少女は我儘の限りを尽くすだろう。
彼女が振るう強大な力を安全かつ確実に、そして長時間安定して御する事ができるのは、紅魔館の中でも一人しかいない。
となれば、今宵の少女は御者のいない暴れ馬か鞘のない妖刀に等しい。
触れた物全てを等しく吹き飛ばし、触れた物全てを等しく微塵に斬り裂いてしまう事だろう。
「時間をかけなければ病弱は関係ないわ」
二つに、病弱と断ぜられた少女がそこにいる事。彼女ときたら、何かやんごとなき事情でもない限り己の住処――図書館から出ようとしない。この出不精根性は賞賛に値する、と誰かが言ったかどうかは分からないが。
そして病弱である彼女の力は誰にも測り知れない。いつ本気を出しているのか、今は本調子でないのか、常に不安定なのだから。
例えるならこの少女は火薬漏れの花火。彼女の実力の波を知り得るのは彼女の体そのものなのだ。
「あら怖い。逃げちゃおうかしら」
「逃げたら格好の標的よ」
「・・・・なんてね。立場の差って奴を教育してやろうかしら?」
そして三つに、一つ屋根の下で暮らすこの二人がほんのちょっぴり殺気立っていた事。
二人合わせて六百年超、もはや人生の大ベテランである。これだけ長生きしているなら、些細な事で感情をむき出しにしたりはしまい。
なのに、今宵は二人とも少しだけ瞳に紅い色を湛えて・・・・・・
真円とは言わないまでも、完全に限りなく近い月の光が二人をそうさせているのかも知れなかった。
「ふっ!」
さながら蝙蝠の親玉となって少女――レミリアが空を切る。
彼女は幻想郷でも上から数えた方が圧倒的に早い程度の実力者、吸血鬼。
見てくれは小さくてもその腕、その足、その牙、その爪・・・・・・どれもが金剛の鈍器か名刀に匹敵する。
そんな『歩く武器』みたいな危険物が本能と殺意のまま動けばどうなるか?
・・・門扉は粉々に吹き飛び、大地には大きな擂り鉢ができ、神木はざく切りの燃料と化し、肉も骨も麩と変わりはあるまい。
そして今の標的は病弱少女――パチュリーに他ならなかった。
「・・・甘い」
レミリアが空を切る刃なら、パチュリーは空を切られ漂う木の葉か空そのもの。
やる気があるのかないのか、体力の温存でも図っているつもりなのか、迫るレミリアが押す風に巻かれてふわりふわりと空を漂う。
さしものレミリアも、空を切れても砕く事はできない。何遍飛んでも同じ事、時間と体力だけを浪費していくのみ。
そして十か二十ほどこの応酬を繰り返し、ついにレミリアは諦めて蝙蝠の羽を小さく畳んでしまった。
・・・・ひょっとしたら追いかけっこに飽きただけなのかも知れないが。
「・・・・・・ねえレミィ、あなた本当にやる気あるの?そんなんじゃいつまで経っても・・・・」
「ちょっと遊んであげただけよ。私の準備運動も兼ねて」
「郷に入りては郷に従え・・・共通の流儀があるでしょう」
「ん~・・・・・それもそうね。じゃあこっちでも準備運動」
子どもの手を広げ、眼下に殺気を叩き込む。
そして閃光。爆音。轟風。噴煙。
昼間に見れば緑の絨毯を成していたであろう庭地はありきたりな破壊のプロセスを辿り、巨大な破壊痕をその場に提供する。
さらに続くは驚嘆。誰何。悲鳴。怒号。
己の足元からは館のメイドたちの喧騒が立ち昇ってくる。きっと、『我儘お嬢様の酔狂なおイタ』という程度には思っている事だろう。
「・・ふむ。今日は好調」
「流石に絶の字はつかないのね」
「明日まで待ってくれてもいいのよ?一浄の間に切り刻んであげる」
「遠慮するわ。我慢できるあなたでもないでしょうに」
手にした本を宙に漂わせ、パラパラとページをめくり出す。これがパチュリーの準備運動、
好きな時に任意の魔法を発動させるためのウォーミングアップという奴だ。
手でめくる程度の速さからだんだん速くなり、ページめくり専用に風が吹いているのではないかという程の速さで本が動く。
それでいてページを止める時は正確そのもの。全く手を触れる事なく、1ページの狂いもなく指したページを次々に示してのける様はまるで見えない誰かがページを繰っているようでもある。
「私の知識の深さ・・・・・・教えてあげる」
「ふん、知識だけあったって何の役にも立ちやしないのよ。そこに実践がなければ、ね」
「じゃあこれを実戦テストとしましょうか?あなたはタフだから、データがたくさん取れるわ」
「無駄ね。テストは0点、何も得られやしない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「我が夜の僕になれ、七曜の魔女!」
「我が力の礎になりなさい、紅の夜王!」
狂気と妖気をばら撒く月の下で対峙する二人。
そんな二人を後押しするかのように、月の輝きがさらに増したように見えた。
「そらっ!」
レミリアが無造作に腕を払う。
たったそれだけで全身から滲み出る魔力は形を成し、まるで人参のような紅い錐となってパチュリーに襲いかかる。
彼女にしてみれば何気なく腕を振ったに過ぎない。だがそこから生み出される魔力塊は、並の人間や妖怪あたりなら一撃でその魔力と衝撃力を以って死に至らしめる恐ろしい代物だ。
そしてパチュリーも、まるで鬱陶しい羽虫を追い払うように腕を払い・・・・・・・・
バチンッ!
無造作に払った腕は紅い錐を打ち返し、紅魔館の一角に落ちてまたしても爆音と噴煙を上げる。
だが、決してパチュリーは無造作に腕を振ったわけではない。腕に少し多めに魔力を流し、あらゆる波長の魔力を拒む小さな防御結界を作り出し、それでレミリアの魔力塊を打ったのだ。
かくして二人の眼下では上を下への大騒ぎとなっているが、当の本人たちは我関せずといった感じで虚空で睨み合いを続けている。
「なかなかやるじゃない・・・・・・・ちょっと叩いたらすぐ折れそうな腕のくせして」
「そんな正面きった手抜きの攻撃、避けるまでもないのよ」
「なるほどね~・・・じゃあ、こんなのはどう?」
自慢の牙で指先に傷をつけ、血の滴を空に落とす。
紅い玉はむくむくと膨れ上がり、まるでレミリアのシンボル――蝙蝠の形を作って六芒の星を背負い、レミリアを護る衛星のごとく漂い始めた。
その紅い蝙蝠が一匹、ニ匹、三匹、四匹。レミリアの周りを飛び回り、目と思われる黒い穴をじっとパチュリーに向けている。
「征きなさい、我が血肉たち・・・」
レミリアの声に応え、血でできた蝙蝠たちは鋭い牙の生えた口(?)を大きく開けて殺意という名の咆哮をあげる。
吸血鬼という種族の生命力は、他のあらゆる生物と比べても圧倒的に桁が違う。
特にレミリアクラスの実力者となると、たった一匹の霧散した蝙蝠からでも元の姿を取り戻す事ができてしまう。
それはつまり、言い換えれば『レミリアは血の一滴に至るまでレミリアそのもの』であり、魔力のこもった血の一滴が宙に放り出されればそれは即ち本体を護る使い魔となる。
そして、レミリアはその蝙蝠たちに名を与える。名を与えたなら、痛みも恐怖も知らぬ彼らはその存在が尽きるまで主に忠を尽くすのだ。
『サーヴァントフライヤー』
それが、彼らの名だ。
レミリアと同じ魔力を持つ彼らは次々に殺意を形にし、一抱えはあろうかという巨大な楔と成してパチュリーを貫かんと撃ち出した。
最初にレミリアが放った錐とは大きさが全く違う。結界で打ち返そうとすれば打ち返せずに押し切られるだろうし、風に漂う木の葉のごとく避けようとすれば第二波、第三波に巻き込まれるだろう。能動的に動いても同じ事だ。
ならば腕だけに展開している結界を全身に展開し、押し切られないよう自重と魔力を以って全身を支える・・・・・・
妥当な防御策がパチュリーの脳裏をよぎるが、それではこちらの動きが完全に止まった所へレミリアが付け入るに違いない。
「仕方ないわね・・・・・・・・・」
魔道書のページをめくり、あるページに目を通すパチュリー。
彼女が持ち歩いている魔道書は、単なる読書用ではない。それは魔力増幅器にして数多の魔術を使う為の鍵・・・・・・
パチュリーにだけ持ち歩く事ができ、パチュリーにだけ使いこなす事ができる、世界で唯一つのパチュリー専用マジックアイテムなのだ。
そして懐よりカードを1枚出し、それに封じられた力に与えられた名を紡ぐ。
――我は呼ぶ、深緑の魔風
――我は纏う、新緑の息吹
見た目は何の変哲もないカードから眩い光が発せられ、やがて実体を持たぬ光の玉となりパチュリーの右手に宿る。
その手を迫り来る紅の楔にかざし、パチュリーは静かに呟いた。
――来たれ、大樹の子よ
――鳴らせ、魔風の笛を
――木符『シルフィホルン』
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