泳ぐ魚が溺れても、私はそれを救わない。毒蛇の首が途切れても、あなたはそれを恐れてる。
八雲藍は珍しく書斎に引き篭もっていた。彼女の主人である紫が冬眠から目覚める前に、自分の式である橙に宛がう本の選別を行おうという腹積もりで始めたことであったが、気づけば、朝夕に簡単な食事を運んで来てくれる橙の声が耳に入らなくなるほどになっていた。
彼女は何かの干物を口の中で歯に遊ばせながら、やたら長い夜に知り合った白沢から先日に借り受けて来た本の頁を、座卓の上で繰っている。本来の持ち主の性質上、百に届かんばかりの本の数々は分野が偏ることになったが、実際に橙に宛がえそうものはその内の十冊にも満たない。何故それがわかるかというと、藍は既に全ての本を読み終えていたからだった。
藍は四鏡の内の何冊かを傍らに置き、その内の一冊を熱心に読み耽っている。もう、何度目か知れない。
彼女がそうするのは、別に興味深い節があるからではなくて、自分の主人との会話を思い返してのことだった。そもそも、この作業を精力的の行えるのも、彼女が自分の経験からくる知識と本の内容を照らし合わせることができるからだった。彼女が今読んでいるのは、水鏡である。
『――男、家主に「この女の童を鷲の食ひ残しと申しあひたりつるは、いかなることぞ」と問へば、家主「その年のその月日、われ木に登りて侍りしに、鷲幼き子を取りて西の方より来たり巣に落し入れて、鷲の子に飼はせんとせしほどに、この子泣くこと限りなし。鷲の子、その声に驚き恐りて食はざりき。我、稚児泣く声を聞きて、巣のもとに寄りて取りおろし侍りし子なり。さてかく申しあひたるにこそ」と言ひしを聞くに、我が子の鷲に取られにし月日なり』
藍は器用にも干物の欠片を頬に含ませながら朗読する。水気の多い声が狭い書斎の中で徹夜で燃した蝋の匂いと共に揺らいでいた。
『――人の命限りあることは、あさましく侍ることなり』
そこで藍の口は止まる。もう、何度目か知れない。藍はようやく、主人とのかつてのやり取りを思い出していた。たしかあれは、大陸側の妖怪である自分を紫が品定めするように何事か問い質していた頃のことだ。居ながらにして全を知るような主人であるが、その割に細かいことに興味を示す。それは現在も昔も、変わりの無いことだった。もっとも、どれほど過去のことだったか、藍にはわからなくなっていた。百年前のことのようにも思えるし、千年前のことのようにも思える。それでも、主人の言葉は思い出せたのだった。
「今の話、信じられる?」
「それは、但馬で攫われた女児と丹後の女児は同一人物ではない、という意味ですか」
胡散臭い話を延々と聞かされた後では、紫が何を云わんとしているかが藍には容易に想像できた。当時の藍は水鏡なんぞ知らぬし、精々、聞いていた話の中で聞き覚えのある名の国が滅びたという部分に記憶との一致を見るぐらいであった。
つまらなさそうに答えた藍に、紫は口元を扇で隠した。
「質問を変えるわ。鷲は鷲でも、人の頭をした鷲を見たことはある?」
「ええ、ありますよ。そう云えば、私がそれを見たときも、西の空から飛んで来ました」
「太陽は東から昇って西に沈むわよ」
「関係があるのですか?」
「さあ、どうかしらねぇ。そうだ、試しに西から陽を昇らせてみましょうか」
「冗談は止してくださいよ」
その会話の後、思わせぶりに首を回してから席を立った主人を必死で止めたものだ。あのときの目は本気だった。現在ならそれがよくわかる。
ああ、それでよく覚えていたのか。そう思うと、藍は自分のしていることが急に馬鹿らしくなってしまって、茶で干物の欠片を喉に流し込むと、手を枕にして仰向けに寝転んだ。その拍子に何冊かの本が座卓や棚の上から崩れ落ちたが、藍はすぐには片付ける気が起きなかった。
抑えていた眠気が瞼を重くする。幾ら妖怪といっても、陽が昇れば起きて沈めば眠るという規則が普段にはできていたから、久しぶりの徹夜続きの日々は相当に負担だった。なんせ日々の楽しみである風呂に入ることすら忘れるほどに本に向かっていたのだ。楽しくなかったと云えば嘘になるが、辛くはなかったと云えばそれもまた嘘になる。
「そう、風呂だ。風呂に入ろう」
その呟きを契機に、藍は瞼から重さが伝わっていったらしい上体を起こすと、背伸びをしてから橙を呼んだ。窓からの入る陽射しの角度からして、まだ昼過ぎぐらいだろうから、橙はまだ風呂の水を抜いていないはずである。しかし、何度呼んでみても橙の返事は無い。いつもであれば呼んでもいないのに藍が床板を軋ませただけで、どこからともなく走り寄って来るというのに。
昼寝でもしているのか、それとも迷い込んだ某にちょっかいを出しているのか。藍はあれこれと想像しながらも、風呂に水が張られていることを確認した。水は綺麗なもので、毛の一本も浮いてはいない。橙もまた風呂に入っていない証拠だった。だが、藍は溜息一つでそれを看過したのだった。
藍が書斎に引き篭もり、紫が冬眠中という状況にあって、橙が式を落とさぬよう風呂に入らないのは賢明な判断と云えたからだ。本当の理由が単に風呂が嫌いというものであっても、藍には普段のように怒ってみせるだけの気力が湧かないでいた。彼女に今あるのは、風呂を焚く程度の気力だけである。
風呂場の隅に設けてある扉から外に出る。雪の被いから這い出てきた緑の匂いが鼻先を撫でる中、藍は小屋へと向かった。小屋といっても、大人二人が縦に寝転べるぐらいの土地を囲むように煉瓦を積み、その上に板を乗せただけの代物である。冬季の直前にはその中に隙間無く薪が詰められていたのだが、今では二日分ぐらいしかない。可能な限り薪は補充していたが、それももう必要無いだろう。
風呂釜に薪を焼べながら、背中をじりじりと射す陽に、冬の終わりを藍は感じていた。春になれば、尻尾の毛並みも変わり始めるだろう。すっかり萎びてしまった九本もある尻尾を振っていると、じきに風呂は焚けたのだった。
藍は肩に掛けていた手拭いで額に浮いた汗を拭うと、湯加減を確認してから、念のために家の周りを空から眺めてみる。そんな危険があるとは自分でも思えないのだが、どうせ風呂に入るならば余計な気を遣わずにゆっくりと肩まで浸かっていたいのだった。
ぐるりと家の周りを見渡すが、あるものといえば頭に雪を乗せた木々だけ。それも見た端からずるりと滑り落ちて行くのだから、見ようによっては間抜けである。
「藍様ぁー!」
「んむぅ?」
どうやら、宙に浮かんでいた藍を橙が先に見つけたらしかった。見ようによっては間抜けである。それを誤魔化すように声のした方を睥睨してみると、なるほど、赤みのかかった黒い点がどんどんとこちらに向かって来ていた。
「橙は元気だなぁ」
橙は手を振っているらしいので、藍も手を振り返してみる。その様は暢気そのもので、橙が慌てているようだということもわからないのであった。そうこうしている間にも、橙は大声を張り上げて藍を呼びながら急接近してくる。結局、藍は橙が腹に強烈な体当たりをかますまで、橙の異常には気づけなかった。
「こ、これは大発見……回転しない方が痛い」
頭から突っ込まれた藍はそれでも平静を装う。この程度で気を乱すようでは、とてもこの家ではやっていけないのであった。
「藍様、藍様、凄いの見たよ! 本当に凄いの!」
「私はたった今、凄い目にあったよ……で、何だ?」
「人の頭をした鷲!」
藍は橙にそれを見た場所を聞き質すと、橙に風呂に入るよう云い残して、飛んで行った。そんな面白そうなもの、放って置いたら紫が何をしでかすかわかったものではないのだった。
気絶して倒れこんでいる警備部の者たちを辿っていった先の草原で、アリスは手を出せずにいた。紅魔館の警備部が何人いるか聞いておくべきだったか。とにかく数が多い。どこに潜んでいたのか、アリスの後方から続々と飛び出しては、その内の何十名かが妖夢の振るった太刀で振り払われ、斬り払われる。これでは手を出すどころか、そもそも足を出して近寄ることもままならない。
そんなこととは露知らず、警備部は愛すべき紅美鈴の復讐に心を燃え上がらせていた。しかし。
「誰よ、地雷なんて置いたのは!」
「あいつ幽霊なのに二本足がついてるのが気に食わない!」
「味方を巻き込んでどうすんの! ワイヤーよ、ワイヤーを使うの!」
「騎馬隊の邪魔になるから駄目だそうです!」
「あのジャーンジャーン鳴ってるのってそれか!」
隊長である美鈴の不在により指揮系統がぐちゃぐちゃになっているため、これでは復讐というよりただの足の引っ張り合いである。引っ張られ過ぎて足が無くなった者もいて、血を撒き散らしながらのた打ち回るそういった同僚を見限った騎馬隊が踏んづけ、突撃していく。この様子だと、紅魔館には警備部の一人すら残ってはいないだろう。
「邪魔よ、邪魔。あんたらどこか行ってよ!」
アリスが肩に乗せていた上海人形から放たれるスペクトルで後方から警備部をなぎ倒しながら叫ぶが、効果はほとんど無い。中にはスペクトルの威力を背中に受けてそのまま突っ込んでいく馬鹿までいる。
そういった無駄な努力に辟易したアリスが上空を見上げると、そこには鷲らしき鳥が翼を羽ばたかせ、辺りを睨み付けていた。その顔は誰ともしれぬ人の顔である。
「バー? 魂魄じゃないの!?」
空より来たりし魂の運び手。それが来ている。魂魄ならばそのようなものの力は借りないはずだ。ならば、あれはノイズである可能性もある。何にせよ、警備部を何とかしなくてはどうしようもない。アリスが持ち前の諦めの良さを発揮しかけたとき、上空から弾丸と化した藍が飛来した。
着弾と同時に式が解放され、辺りが尋常で無い数の弾幕で埋め尽くされる。アリスはちょうどその中心点近くにいたため、弾が不規則な味噌擂り運動を発生する前に弾幕をすり抜けた。一方、騎馬隊やら歩兵隊やら工兵隊やらはもろに弾を受けて数多くの負傷者を出している。
当の藍本人はというと、頭から地面に突き刺さり、無事だった警備部の何名かが「祟りじゃあ!」と叫びながら半狂乱で走り回る。
「ぬう、冬眠中の蛙を起こしてしまった……」
「あら、可愛いわね」
アリスの手を借りてなんとか地面から頭を引き抜いた藍は軽く頭を下げる。藍の顔に張り付いた蛙が、今年初の泣き声をあげてどこかへ逃げて行った。きっとこれからあの蛙はチルノに凍らせられたりしながらも逞しく生きていくに違いない。アリスと藍は無責任な感動の下に意気投合していた。
「おかげで変な連中も一旦撤退したし、これで仕事にかかれるわ。ありがとう」
「何の何の。これも幻想郷の平和のため」
その安全を最も脅かすのが彼女の主人である。藍は半ば自棄になっていた。
「ところであなた、ちょっと臭いわよ」
「臭いほどに味があると云うではないか」
「うわ、これじゃブルーチーズも食べられないわ」
魔理沙との会食における献立が次々に減っていくことにアリスが頭を悩ませる。そんなアリスを見兼ねたのか、藍が彼女の肩を叩いた。
「どういう事情かは知らないが、協力してくれれば夕食ぐらいは馳走するぞ」
「二人分、お願いするわ」
「構わんぞ。紫様が寝てるから、食材には多少の余裕があるのだ」
たまには和食も良いかもしれない。アリスがなけなしの希望を胸に、顔を上げた。
「それじゃあなたは、あの空を飛んでる気味の悪いのを惹き付けて。私はあの子を鎮めるから」
「人目を惹くのは得意だ。任せてもらおう」
「それじゃお願いね……って、なんで脱ぐのよ! 脱がなくて良いわよ!」
さも当然のように着衣を脱ぎ始めた藍を大慌てで制止する。上海人形は目を手で覆ってちょこちょこと辺りを走り回っていた。
「私の目を惹いてどうすんの!」
「駄目なのか?」
「駄目駄目駄目駄目駄目……絶対駄目!」
「何を照れているんだか。同じ女同士じゃないか」
「何でも良いから普通に惹き付けて」
「わかったわかった、ほら、行くぞ」
妖夢もこちらに気づいたらしい。判断力を保っているというよりは、修行によって磨き上げられた身体そのもので動いているようだ。状況を判断する能力こそ欠如しているが、戦闘となれば心そのものが無いため、その反射神経は神速に達する。その証拠に、彼女の周りでは得物を振り上げたまま力尽きた者がダース単位で転がっていた。
「さて、それじゃ先ずは様子を見させてもらおうかしら」
飛び立った藍を追おうとする妖夢に細心の注意を払いながらも迅速に接近する。間合いは太刀の二歩ばかり外。それを維持できなくなったとき、アリスは一刀両断されることになる。妖夢が藍からアリスへと目標を切り替えたとき、アリスは既に数十体の人形を展開していた。
人形たちの黄昏。アリスは人形のような妖夢を見て、そんなことを思った。
八雲藍は珍しく書斎に引き篭もっていた。彼女の主人である紫が冬眠から目覚める前に、自分の式である橙に宛がう本の選別を行おうという腹積もりで始めたことであったが、気づけば、朝夕に簡単な食事を運んで来てくれる橙の声が耳に入らなくなるほどになっていた。
彼女は何かの干物を口の中で歯に遊ばせながら、やたら長い夜に知り合った白沢から先日に借り受けて来た本の頁を、座卓の上で繰っている。本来の持ち主の性質上、百に届かんばかりの本の数々は分野が偏ることになったが、実際に橙に宛がえそうものはその内の十冊にも満たない。何故それがわかるかというと、藍は既に全ての本を読み終えていたからだった。
藍は四鏡の内の何冊かを傍らに置き、その内の一冊を熱心に読み耽っている。もう、何度目か知れない。
彼女がそうするのは、別に興味深い節があるからではなくて、自分の主人との会話を思い返してのことだった。そもそも、この作業を精力的の行えるのも、彼女が自分の経験からくる知識と本の内容を照らし合わせることができるからだった。彼女が今読んでいるのは、水鏡である。
『――男、家主に「この女の童を鷲の食ひ残しと申しあひたりつるは、いかなることぞ」と問へば、家主「その年のその月日、われ木に登りて侍りしに、鷲幼き子を取りて西の方より来たり巣に落し入れて、鷲の子に飼はせんとせしほどに、この子泣くこと限りなし。鷲の子、その声に驚き恐りて食はざりき。我、稚児泣く声を聞きて、巣のもとに寄りて取りおろし侍りし子なり。さてかく申しあひたるにこそ」と言ひしを聞くに、我が子の鷲に取られにし月日なり』
藍は器用にも干物の欠片を頬に含ませながら朗読する。水気の多い声が狭い書斎の中で徹夜で燃した蝋の匂いと共に揺らいでいた。
『――人の命限りあることは、あさましく侍ることなり』
そこで藍の口は止まる。もう、何度目か知れない。藍はようやく、主人とのかつてのやり取りを思い出していた。たしかあれは、大陸側の妖怪である自分を紫が品定めするように何事か問い質していた頃のことだ。居ながらにして全を知るような主人であるが、その割に細かいことに興味を示す。それは現在も昔も、変わりの無いことだった。もっとも、どれほど過去のことだったか、藍にはわからなくなっていた。百年前のことのようにも思えるし、千年前のことのようにも思える。それでも、主人の言葉は思い出せたのだった。
「今の話、信じられる?」
「それは、但馬で攫われた女児と丹後の女児は同一人物ではない、という意味ですか」
胡散臭い話を延々と聞かされた後では、紫が何を云わんとしているかが藍には容易に想像できた。当時の藍は水鏡なんぞ知らぬし、精々、聞いていた話の中で聞き覚えのある名の国が滅びたという部分に記憶との一致を見るぐらいであった。
つまらなさそうに答えた藍に、紫は口元を扇で隠した。
「質問を変えるわ。鷲は鷲でも、人の頭をした鷲を見たことはある?」
「ええ、ありますよ。そう云えば、私がそれを見たときも、西の空から飛んで来ました」
「太陽は東から昇って西に沈むわよ」
「関係があるのですか?」
「さあ、どうかしらねぇ。そうだ、試しに西から陽を昇らせてみましょうか」
「冗談は止してくださいよ」
その会話の後、思わせぶりに首を回してから席を立った主人を必死で止めたものだ。あのときの目は本気だった。現在ならそれがよくわかる。
ああ、それでよく覚えていたのか。そう思うと、藍は自分のしていることが急に馬鹿らしくなってしまって、茶で干物の欠片を喉に流し込むと、手を枕にして仰向けに寝転んだ。その拍子に何冊かの本が座卓や棚の上から崩れ落ちたが、藍はすぐには片付ける気が起きなかった。
抑えていた眠気が瞼を重くする。幾ら妖怪といっても、陽が昇れば起きて沈めば眠るという規則が普段にはできていたから、久しぶりの徹夜続きの日々は相当に負担だった。なんせ日々の楽しみである風呂に入ることすら忘れるほどに本に向かっていたのだ。楽しくなかったと云えば嘘になるが、辛くはなかったと云えばそれもまた嘘になる。
「そう、風呂だ。風呂に入ろう」
その呟きを契機に、藍は瞼から重さが伝わっていったらしい上体を起こすと、背伸びをしてから橙を呼んだ。窓からの入る陽射しの角度からして、まだ昼過ぎぐらいだろうから、橙はまだ風呂の水を抜いていないはずである。しかし、何度呼んでみても橙の返事は無い。いつもであれば呼んでもいないのに藍が床板を軋ませただけで、どこからともなく走り寄って来るというのに。
昼寝でもしているのか、それとも迷い込んだ某にちょっかいを出しているのか。藍はあれこれと想像しながらも、風呂に水が張られていることを確認した。水は綺麗なもので、毛の一本も浮いてはいない。橙もまた風呂に入っていない証拠だった。だが、藍は溜息一つでそれを看過したのだった。
藍が書斎に引き篭もり、紫が冬眠中という状況にあって、橙が式を落とさぬよう風呂に入らないのは賢明な判断と云えたからだ。本当の理由が単に風呂が嫌いというものであっても、藍には普段のように怒ってみせるだけの気力が湧かないでいた。彼女に今あるのは、風呂を焚く程度の気力だけである。
風呂場の隅に設けてある扉から外に出る。雪の被いから這い出てきた緑の匂いが鼻先を撫でる中、藍は小屋へと向かった。小屋といっても、大人二人が縦に寝転べるぐらいの土地を囲むように煉瓦を積み、その上に板を乗せただけの代物である。冬季の直前にはその中に隙間無く薪が詰められていたのだが、今では二日分ぐらいしかない。可能な限り薪は補充していたが、それももう必要無いだろう。
風呂釜に薪を焼べながら、背中をじりじりと射す陽に、冬の終わりを藍は感じていた。春になれば、尻尾の毛並みも変わり始めるだろう。すっかり萎びてしまった九本もある尻尾を振っていると、じきに風呂は焚けたのだった。
藍は肩に掛けていた手拭いで額に浮いた汗を拭うと、湯加減を確認してから、念のために家の周りを空から眺めてみる。そんな危険があるとは自分でも思えないのだが、どうせ風呂に入るならば余計な気を遣わずにゆっくりと肩まで浸かっていたいのだった。
ぐるりと家の周りを見渡すが、あるものといえば頭に雪を乗せた木々だけ。それも見た端からずるりと滑り落ちて行くのだから、見ようによっては間抜けである。
「藍様ぁー!」
「んむぅ?」
どうやら、宙に浮かんでいた藍を橙が先に見つけたらしかった。見ようによっては間抜けである。それを誤魔化すように声のした方を睥睨してみると、なるほど、赤みのかかった黒い点がどんどんとこちらに向かって来ていた。
「橙は元気だなぁ」
橙は手を振っているらしいので、藍も手を振り返してみる。その様は暢気そのもので、橙が慌てているようだということもわからないのであった。そうこうしている間にも、橙は大声を張り上げて藍を呼びながら急接近してくる。結局、藍は橙が腹に強烈な体当たりをかますまで、橙の異常には気づけなかった。
「こ、これは大発見……回転しない方が痛い」
頭から突っ込まれた藍はそれでも平静を装う。この程度で気を乱すようでは、とてもこの家ではやっていけないのであった。
「藍様、藍様、凄いの見たよ! 本当に凄いの!」
「私はたった今、凄い目にあったよ……で、何だ?」
「人の頭をした鷲!」
藍は橙にそれを見た場所を聞き質すと、橙に風呂に入るよう云い残して、飛んで行った。そんな面白そうなもの、放って置いたら紫が何をしでかすかわかったものではないのだった。
気絶して倒れこんでいる警備部の者たちを辿っていった先の草原で、アリスは手を出せずにいた。紅魔館の警備部が何人いるか聞いておくべきだったか。とにかく数が多い。どこに潜んでいたのか、アリスの後方から続々と飛び出しては、その内の何十名かが妖夢の振るった太刀で振り払われ、斬り払われる。これでは手を出すどころか、そもそも足を出して近寄ることもままならない。
そんなこととは露知らず、警備部は愛すべき紅美鈴の復讐に心を燃え上がらせていた。しかし。
「誰よ、地雷なんて置いたのは!」
「あいつ幽霊なのに二本足がついてるのが気に食わない!」
「味方を巻き込んでどうすんの! ワイヤーよ、ワイヤーを使うの!」
「騎馬隊の邪魔になるから駄目だそうです!」
「あのジャーンジャーン鳴ってるのってそれか!」
隊長である美鈴の不在により指揮系統がぐちゃぐちゃになっているため、これでは復讐というよりただの足の引っ張り合いである。引っ張られ過ぎて足が無くなった者もいて、血を撒き散らしながらのた打ち回るそういった同僚を見限った騎馬隊が踏んづけ、突撃していく。この様子だと、紅魔館には警備部の一人すら残ってはいないだろう。
「邪魔よ、邪魔。あんたらどこか行ってよ!」
アリスが肩に乗せていた上海人形から放たれるスペクトルで後方から警備部をなぎ倒しながら叫ぶが、効果はほとんど無い。中にはスペクトルの威力を背中に受けてそのまま突っ込んでいく馬鹿までいる。
そういった無駄な努力に辟易したアリスが上空を見上げると、そこには鷲らしき鳥が翼を羽ばたかせ、辺りを睨み付けていた。その顔は誰ともしれぬ人の顔である。
「バー? 魂魄じゃないの!?」
空より来たりし魂の運び手。それが来ている。魂魄ならばそのようなものの力は借りないはずだ。ならば、あれはノイズである可能性もある。何にせよ、警備部を何とかしなくてはどうしようもない。アリスが持ち前の諦めの良さを発揮しかけたとき、上空から弾丸と化した藍が飛来した。
着弾と同時に式が解放され、辺りが尋常で無い数の弾幕で埋め尽くされる。アリスはちょうどその中心点近くにいたため、弾が不規則な味噌擂り運動を発生する前に弾幕をすり抜けた。一方、騎馬隊やら歩兵隊やら工兵隊やらはもろに弾を受けて数多くの負傷者を出している。
当の藍本人はというと、頭から地面に突き刺さり、無事だった警備部の何名かが「祟りじゃあ!」と叫びながら半狂乱で走り回る。
「ぬう、冬眠中の蛙を起こしてしまった……」
「あら、可愛いわね」
アリスの手を借りてなんとか地面から頭を引き抜いた藍は軽く頭を下げる。藍の顔に張り付いた蛙が、今年初の泣き声をあげてどこかへ逃げて行った。きっとこれからあの蛙はチルノに凍らせられたりしながらも逞しく生きていくに違いない。アリスと藍は無責任な感動の下に意気投合していた。
「おかげで変な連中も一旦撤退したし、これで仕事にかかれるわ。ありがとう」
「何の何の。これも幻想郷の平和のため」
その安全を最も脅かすのが彼女の主人である。藍は半ば自棄になっていた。
「ところであなた、ちょっと臭いわよ」
「臭いほどに味があると云うではないか」
「うわ、これじゃブルーチーズも食べられないわ」
魔理沙との会食における献立が次々に減っていくことにアリスが頭を悩ませる。そんなアリスを見兼ねたのか、藍が彼女の肩を叩いた。
「どういう事情かは知らないが、協力してくれれば夕食ぐらいは馳走するぞ」
「二人分、お願いするわ」
「構わんぞ。紫様が寝てるから、食材には多少の余裕があるのだ」
たまには和食も良いかもしれない。アリスがなけなしの希望を胸に、顔を上げた。
「それじゃあなたは、あの空を飛んでる気味の悪いのを惹き付けて。私はあの子を鎮めるから」
「人目を惹くのは得意だ。任せてもらおう」
「それじゃお願いね……って、なんで脱ぐのよ! 脱がなくて良いわよ!」
さも当然のように着衣を脱ぎ始めた藍を大慌てで制止する。上海人形は目を手で覆ってちょこちょこと辺りを走り回っていた。
「私の目を惹いてどうすんの!」
「駄目なのか?」
「駄目駄目駄目駄目駄目……絶対駄目!」
「何を照れているんだか。同じ女同士じゃないか」
「何でも良いから普通に惹き付けて」
「わかったわかった、ほら、行くぞ」
妖夢もこちらに気づいたらしい。判断力を保っているというよりは、修行によって磨き上げられた身体そのもので動いているようだ。状況を判断する能力こそ欠如しているが、戦闘となれば心そのものが無いため、その反射神経は神速に達する。その証拠に、彼女の周りでは得物を振り上げたまま力尽きた者がダース単位で転がっていた。
「さて、それじゃ先ずは様子を見させてもらおうかしら」
飛び立った藍を追おうとする妖夢に細心の注意を払いながらも迅速に接近する。間合いは太刀の二歩ばかり外。それを維持できなくなったとき、アリスは一刀両断されることになる。妖夢が藍からアリスへと目標を切り替えたとき、アリスは既に数十体の人形を展開していた。
人形たちの黄昏。アリスは人形のような妖夢を見て、そんなことを思った。