犬は鳥に恋をした。鳥は大地を愛していた。犬は己の脚を噛み千切った。
アリス・マーガトロイドは紅魔館の一室で膝を組んでいた。下座に当たる席にいる彼女の正面の壁には何かの伝承の一編を模しているらしいタペストリーが飾られていて、そこには今にも崖を落ちようとしている人を助けようと腕を咥え込んだ狼が描かれている。その後ろには悍ましさを覚える首の先が無い蛇が無数にのたくっていた。この館にはきっとこういう部屋が幾つもあって、招かれた者に無用な恐怖を与えるに違いない。
「魔理沙あたりなら、全部引っぺがして繋ぎ合わせるんでしょうけど」
「実際、そうされかけたわ」
長細く伸びた卓の上、冷めた紅茶のカップの周りで手足を動かしていたアリスの人形の動きが止まる。アリスの後ろには十六夜咲夜が立っていた。扉が開け閉めされた音は一度も鳴らなかった。
「それで、どうなったの?」
「ダミーの数が多すぎて諦めたみたいよ」
「今回の件も諦めて済む話なら良いんだけどね」
「容疑者が捕まらない以上、そうもいかないわ」
「これだけの大所帯だと、取りこぼしぐらい仕方ないでしょ」
そう云ったアリス自身、この館の主人にそんな寛容さがあるとは思っていない。度し難いのは、それを本人が知った上で寛容さを装っているらしいということだ。アリスは無意識に下唇を噛んでいた。
「変に勘繰るのはお互いにとって良くないと思わない?」
「そうね。本題に入ってちょうだい」
アリスが瞬きをした直後には咲夜が斜向かいでテーブルに腰を置いていた。彼女のそういった所作を見て相当に疲れているらしいことがアリスにはわかった。
「あなたをここまで連れて来たのは他でもないわ。白玉楼の庭師のことよ」
「宴会での面識以外はこれといって無いわよ。それにしたって、あの幽霊の世話で話どころじゃないんだから」
「興味ぐらいはあるでしょ?」
「そりゃもう。カーとバーが目に見える形で分離してる例なんて他に知らないもの」
「河馬?」
「昔はミイラより河馬の方が珍しかったかもしれないわね」
「どうして河馬とミイラが出てくるのよ」
聞き慣れない言葉に顔をしかめた咲夜をアリスが笑う。彼女の人形は腕を組んで首を何度も頷かせている。咲夜がそれを指で弾くと、人形はアリスの腕にとてとてと歩いていき、しがみ付いた。咲夜は満足そうに鼻から息を吐いてみせた。アリスは話を戻すことにした。
「細かい所は端折らせてもらうわ。カーとバーって云うのは……こっちで云うところの魂魄思想よ。今回の一件の原因がそれだとしたら、むしろカー・バーよりも魂魄の方が近いか。伝承の根源が必ずしも正しいとは限らない。知識人にあっては戒められるべき事実ね」
「まぁ、無関係じゃないことだけは名前でわかったわ」
「そんな話を出すぐらいだから、容疑者はあの子ってこと?」
アリスは妖夢の顔を思い出す。咲夜がアリスの家へ時間を止めてまで急行してきたときに事件の概要は聞いたが、その無意味なまでの惨状からして、ただ斬って周るだけの庭師が仕出かすようには思えなかったものだが。これでは、……これではただの猟奇殺人ではないか。咲夜は大した感慨も無く話を続けていく。
「馬鹿二人を発見して呆けてた兎をしょっ引いて吐かせたけど、そんなところ。藪を突いてなんとやら。出てきたのが蛇なら楽だったんだけど、今回はそれじゃ済まなかったみたいね」
「よく口を割ったものだわ。それとも、割らせたのか知ら」
「あれはとんだ小物よ。いつも背中を気にして歩いているんだから。そんな奴が人を惑わす目を持ってるなんて、世の中は皮肉だらけね」
「小物だとかそうでないとかは関係無いわ。性質の問題」
「そう、性質の問題。話によると、薬の所為で心神喪失の状態になって、それで暴れまわった可能性が高いみたい。肝心の薬はただの睡眠薬だったらしいわ」
「それは計画通りだったのか知ら?」
「計画ですって!」
咲夜が愉快そうに眉を曲げ、目を見開く。その所作に咲夜自身が舌を打つ。疲れもあるだろうが、何より余計な心配をかけさせた同僚に対する怒りらしい。それは優しさからか、それとも失望からか。付き合いの無いアリスには判るはずも無い。
「こんな大騒ぎになることを前提でやるほど、あの二人の肝は脂っこくない」
「そういう話は止めてよ。明日にでもフォアグラを食べようと思ってたのに」
「あら、それは良かったわね、美味しく食べられるじゃないの。なんだったら、あの二人のをくれてやるわ」
「不味そうだから遠慮しとく」
月に一度の慣例になっている魔理沙との夕食のメニューをまた考え直さなくてはならなくったことに頭を抱える。自分は繊細だという考えは妄執から来るものか。魔理沙に突っ込まれたときのために答えを用意しておく必要もある。それは大変に億劫な精神的作業だった。
「それで、何かわかった?」
「麻薬や覚醒剤の類ならともかく、睡眠薬でそんな状態になるなんて聞いた事が無いし。……やっぱり性質の問題なんでしょうよ」
永遠亭の八意永琳。彼女ならば推論から一発で薬を完成させることもできようが、その弟子となるとどうか。それなりに実験を繰り返して薬を作り上げたはずだ。万が一、その弟子……うどんだったかそばだったか、その某が危険な原材料から調剤したのだとしても、それならば実験段階から障害が生じたに違いない。
となると、やはり性質だけが問題だ。恐らくはいい加減な興味本位から、それも生物学的というよりは家庭の医学から持ってきたような知識から導き出された推論を実証するために、薬などというこれまた野暮な方法で妖夢に粉をかけた。これが事件までの流れだろう。
本の虫というのも性質《たち》が悪い。本に書かれたことがさも素晴らしい事柄のように錯覚するからだ。それも極度の読書家ならば極度であるほど、簡単に。
パチュリーが道を誤らなかったのは何故か。魔理沙が家の中の大半を潰しても箒に跨って笑っていられるのは何故か。それは実証するために、道を進み続けるために本を活用するからだ。
本に影響されて興味本位に実証しようなどと、司書長とかいう輩も魔族にしては堕ち過ぎたものだ。それに付き合った門番は気を遣い、いや使ってか、その気軽さが命取りになったといったところだろう。そんな連中の肝など、塩漬けにしても食えたものじゃない。
可哀想なのは妖夢だ。気にせずにいればそのまま死んだような生を目先の日常で費やし、ゆっくりと腐っていくこともできたろう。それはあの冥界にあっては、貴重な人生と云えたに違いないのだから。
その妖夢の性質だが、これは生物学的なものに走っても解明することは困難だ。幻想郷においてそのような知識など無用の長物。却って、足し算や引き算など、それぐらいの知識が調度良い。円周率を延々と計算するには打って付けの場所でもある。アリストテレスではなくプラトンを知り、ダーウィンよりも教皇を敬うが良い。ここでは伝承や噂など、思考する存在の心に直に沁み渡るものにこそ、現出する権利が与えられる。
妖夢は云わば芸術品だ。まるでそうなるべくして作られた素晴らしい芸術品の持つ何かを彼女は持っている。それが特殊なカー・バーなのか魂魄なのか、正直な所、自分でも半信半疑だ。だが、それが最も良い線であるようにも感じられる。
――咲夜は何事か長々と考え込んでいるらしいアリスの顔を見下ろしながら、薄気味の悪さを首筋に覚えていた。それは寄生を目的とする生物のように張り付き、脊髄を通して全身へと広がろうとする。咲夜はいもしない化け物を頭を振る事で消し去ると、口から新鮮な空気を貪った。そのかすかな音を聞いたとき、ようやくアリスは人形に合わせていた目を咲夜に向けた。
「発見したとして、通常の説得は可能?」
「不可能。でも、急げば希望はあるわ。ううん、急がないと……アーサーはランスロットを失い、リチャードは帰る家を失くす」
「ずいぶんと凝った言い回しね。ただの心神喪失でしょうに」
この館でメイド長などやっている自分だ。発狂者や精神及び神経を患う者など何回と目にしている。そういったものの性質の悪さは、意思の疎通を欠くという一点にあって、力が増したり、想像もできない化け物に生まれ変わるようなことは無い。もっとも、主人の妹である、あのフランドールがそういった状態にでもなれば話は別だが、それは象がマンモスに生まれ変わるようなものだから、そもそも御角が違う。
「現出して放って置かれた魂魄は鬼になると云うのが定説。だけど、鬼は鬼でも、霊夢が扱き使ってるような鬼じゃないわ。悪霊の類よ。そうなったら私じゃなくて霊夢の出番ね」
「なるほど。冥界に任せるまでも無く霊夢が片付ける、か……。彼女の邪魔をすれば冥界側だってただじゃ済まないし。まぁ、それはそれで構わないけど、あなた自身にやる気はあるの?」
アリスは咲夜の問いを受けて今一度、自分の人形に目を向けた。人形は首を傾げた。アリスは心を決めた。
「あるわ。手立てもあるし、それは私にしかできない。もし満足できる結果が出せれば、人形を完全に自律させる足がかりになるわ」
「こっちとしても彼女は無事に確保したいから、頼むわ」
「あら、八つ裂きにするものだとばかり思ってたけど」
「笑って済ませられる内はそうするべきよ」
「部下の仕出かしたこととはいえ、あのお嬢様の威厳に傷がつくからでしょ?」
「笑って済ませられるよう、お互いに努力しましょうよ」
咲夜がいつの間にか取り出したナイフを片手で弄びながら笑ってみせる。アリスは口元だけで笑みを返すと、人形を肩に乗せて立ち上がった。
「それじゃ行くわ。何にしても、この目で確認しないと。ただ単に心神喪失でわけもわからず逃げ回ってるだけかもしれないし」
「そうだとすれば頭を使わずに済むわね。でも、あまり関係無いかもねぇ」
「どう云う意味?」
「だって、もう警備部が押っ取り刀で出動してるもの。あの様子じゃ河馬だの河童だの、そんなものは無視しかねないわ。出来る限りの時間稼ぎはするように私側で尽力したけど、親衛隊の子たち、やる気無いのよねぇ。別にどうなってもお嬢様の利になるわけじゃなし、下手に動こうものならそれで角が立って御咎めを受けかねない。それに……」
咲夜の言葉を最後まで聞かずに、アリスは窓から飛び出して行く。その窓が嵌め殺しになっていることを彼女は知っていたから、建具ごと体で壊して。その際に肩から落ちた人形が、慌ててアリスの後を追って行った。
「ガラスもタダじゃないんだから……」
応接室の窓は全て開閉の可能な物に換えるべきか。咲夜がそんなことを考えながら部屋を出ると、一人のメイドが待っていた。
「あなた、中を片付けておいてもらえるかしら」
メイドは答えない。俯いたまま狭い廊下の壁に背を着けている。どうしたの、調子でも悪いの、そう咲夜が手をメイドの肩に掛けた途端、メイドが抱き着いてきた。
「ちょっと、ふざけている場合じゃ……」
「そう、ふざけている場合じゃありませんよ、メイド長」
声は咲夜の横から聞こえてきた。そちらに向こうとしたとき、咲夜は場の異常さに気づく。メイドに抱きすくめられた腕どころか、身体も重い。メイド、否、それを模した人形の力は尋常なものではなかった。なるほど、この程度の単純なものならば人形師でなくても作成可能か。咲夜は妙に落ち着いてそう考える。
顔だけはなんとか声のした側に向けることができたが、そこには赤いベストに黒い上下という、司書の格好をしたメイドが立っていた。彼女の手には文房具に類する小刀が一つ、鈍い光を備えている。廊下の暗がりが揺らぐ。それは彼女の黒い翼だった。その形は小悪魔のそれよりも鋭角で、かつ大きかった。
「司書長は何所に?」
「馬鹿ね、彼女は遺体安置所よ。じきに灰なり血肉なりになるだろうから、今の内に手を合わせておきなさいな」
「上手く誤魔化したつもりでしょうが、我々悪魔の目は誤魔化せません。それぐらい、ご存知でしょう? あのお客人にも遺体は見せなかったんですからね。確かに魂魄妖夢は危険な状態で野に放たれている。だが、あれこそがダミーだ。あなたが仕掛けた数の多すぎるダミー。手品の種は毎度変えることをおすすめしますよ」
「助言をありがとう。それじゃ私からも助言をしてあげるわ」
咲夜の云うが早いか、司書のベストのボタンが一つ外れた。そしてもう一つ。更にもう一つ。全てのボタンが外れたとき、司書の首が外れていた。
「全てのダミーをダミーと思った時点であなたの負けよ」
司書が倒れると同時に、咲夜を抱きすくめていた人形も倒れる。そして、廊下の暗がりから一人のメイドが現れた。顔立ちは小奇麗だがこれといった特徴は無い。ただ、手から先は陶器のような艶と形を保っている。彼女は倒れた司書の間接という間接を外すと、綺麗に折り畳んでしまった。
「思ったより早く司書管理部が動き出しました」
「もう少し時間を稼げると思ったんだけど……。他の親衛隊はそっちに行ったの?」
「はい。私は布団を畳んいでましたので遅れたのですが、それが幸いしました」
「幸い? あまり私を侮らないことね」
咲夜が指を弾くと、あらぬ方向からナイフが飛来し、メイドの顔の横を掠めて行った。そこは先の司書が立っていた場所である。メイドが嬉しそうに微笑むと、咲夜は彼女に顔を向けた
「それにしても、あなたは何でも綺麗に外せるのね。襲われたらひとたまりも無さそう」
「とんでもない。私には一つだけ人様に自慢できるものがあるのですよ」
そう云いながら、メイドは咲夜の乱れた着衣を直していく。てきぱきと、それでいて間違いの無いよう。そうして、最後に咲夜の顔に自分の顔を近づけると、こう呟いた。
「それは、馬銜《はめ》を外さないことです」
咲夜は心底嬉しそうな表情を作ると、メイドの口元にキスをした。
「侮るなって云ったでしょう?」
赤面しているメイドにその言葉は聞こえたのか。咲夜はそれを確認することなく、自分の目的のために動き出した。彼女にとって、今回の一件はちょうど良いダミーだった。真実ほど有効なダミーは無い。今の所、全てを把握しているのは彼女だけであった。
アリス・マーガトロイドは紅魔館の一室で膝を組んでいた。下座に当たる席にいる彼女の正面の壁には何かの伝承の一編を模しているらしいタペストリーが飾られていて、そこには今にも崖を落ちようとしている人を助けようと腕を咥え込んだ狼が描かれている。その後ろには悍ましさを覚える首の先が無い蛇が無数にのたくっていた。この館にはきっとこういう部屋が幾つもあって、招かれた者に無用な恐怖を与えるに違いない。
「魔理沙あたりなら、全部引っぺがして繋ぎ合わせるんでしょうけど」
「実際、そうされかけたわ」
長細く伸びた卓の上、冷めた紅茶のカップの周りで手足を動かしていたアリスの人形の動きが止まる。アリスの後ろには十六夜咲夜が立っていた。扉が開け閉めされた音は一度も鳴らなかった。
「それで、どうなったの?」
「ダミーの数が多すぎて諦めたみたいよ」
「今回の件も諦めて済む話なら良いんだけどね」
「容疑者が捕まらない以上、そうもいかないわ」
「これだけの大所帯だと、取りこぼしぐらい仕方ないでしょ」
そう云ったアリス自身、この館の主人にそんな寛容さがあるとは思っていない。度し難いのは、それを本人が知った上で寛容さを装っているらしいということだ。アリスは無意識に下唇を噛んでいた。
「変に勘繰るのはお互いにとって良くないと思わない?」
「そうね。本題に入ってちょうだい」
アリスが瞬きをした直後には咲夜が斜向かいでテーブルに腰を置いていた。彼女のそういった所作を見て相当に疲れているらしいことがアリスにはわかった。
「あなたをここまで連れて来たのは他でもないわ。白玉楼の庭師のことよ」
「宴会での面識以外はこれといって無いわよ。それにしたって、あの幽霊の世話で話どころじゃないんだから」
「興味ぐらいはあるでしょ?」
「そりゃもう。カーとバーが目に見える形で分離してる例なんて他に知らないもの」
「河馬?」
「昔はミイラより河馬の方が珍しかったかもしれないわね」
「どうして河馬とミイラが出てくるのよ」
聞き慣れない言葉に顔をしかめた咲夜をアリスが笑う。彼女の人形は腕を組んで首を何度も頷かせている。咲夜がそれを指で弾くと、人形はアリスの腕にとてとてと歩いていき、しがみ付いた。咲夜は満足そうに鼻から息を吐いてみせた。アリスは話を戻すことにした。
「細かい所は端折らせてもらうわ。カーとバーって云うのは……こっちで云うところの魂魄思想よ。今回の一件の原因がそれだとしたら、むしろカー・バーよりも魂魄の方が近いか。伝承の根源が必ずしも正しいとは限らない。知識人にあっては戒められるべき事実ね」
「まぁ、無関係じゃないことだけは名前でわかったわ」
「そんな話を出すぐらいだから、容疑者はあの子ってこと?」
アリスは妖夢の顔を思い出す。咲夜がアリスの家へ時間を止めてまで急行してきたときに事件の概要は聞いたが、その無意味なまでの惨状からして、ただ斬って周るだけの庭師が仕出かすようには思えなかったものだが。これでは、……これではただの猟奇殺人ではないか。咲夜は大した感慨も無く話を続けていく。
「馬鹿二人を発見して呆けてた兎をしょっ引いて吐かせたけど、そんなところ。藪を突いてなんとやら。出てきたのが蛇なら楽だったんだけど、今回はそれじゃ済まなかったみたいね」
「よく口を割ったものだわ。それとも、割らせたのか知ら」
「あれはとんだ小物よ。いつも背中を気にして歩いているんだから。そんな奴が人を惑わす目を持ってるなんて、世の中は皮肉だらけね」
「小物だとかそうでないとかは関係無いわ。性質の問題」
「そう、性質の問題。話によると、薬の所為で心神喪失の状態になって、それで暴れまわった可能性が高いみたい。肝心の薬はただの睡眠薬だったらしいわ」
「それは計画通りだったのか知ら?」
「計画ですって!」
咲夜が愉快そうに眉を曲げ、目を見開く。その所作に咲夜自身が舌を打つ。疲れもあるだろうが、何より余計な心配をかけさせた同僚に対する怒りらしい。それは優しさからか、それとも失望からか。付き合いの無いアリスには判るはずも無い。
「こんな大騒ぎになることを前提でやるほど、あの二人の肝は脂っこくない」
「そういう話は止めてよ。明日にでもフォアグラを食べようと思ってたのに」
「あら、それは良かったわね、美味しく食べられるじゃないの。なんだったら、あの二人のをくれてやるわ」
「不味そうだから遠慮しとく」
月に一度の慣例になっている魔理沙との夕食のメニューをまた考え直さなくてはならなくったことに頭を抱える。自分は繊細だという考えは妄執から来るものか。魔理沙に突っ込まれたときのために答えを用意しておく必要もある。それは大変に億劫な精神的作業だった。
「それで、何かわかった?」
「麻薬や覚醒剤の類ならともかく、睡眠薬でそんな状態になるなんて聞いた事が無いし。……やっぱり性質の問題なんでしょうよ」
永遠亭の八意永琳。彼女ならば推論から一発で薬を完成させることもできようが、その弟子となるとどうか。それなりに実験を繰り返して薬を作り上げたはずだ。万が一、その弟子……うどんだったかそばだったか、その某が危険な原材料から調剤したのだとしても、それならば実験段階から障害が生じたに違いない。
となると、やはり性質だけが問題だ。恐らくはいい加減な興味本位から、それも生物学的というよりは家庭の医学から持ってきたような知識から導き出された推論を実証するために、薬などというこれまた野暮な方法で妖夢に粉をかけた。これが事件までの流れだろう。
本の虫というのも性質《たち》が悪い。本に書かれたことがさも素晴らしい事柄のように錯覚するからだ。それも極度の読書家ならば極度であるほど、簡単に。
パチュリーが道を誤らなかったのは何故か。魔理沙が家の中の大半を潰しても箒に跨って笑っていられるのは何故か。それは実証するために、道を進み続けるために本を活用するからだ。
本に影響されて興味本位に実証しようなどと、司書長とかいう輩も魔族にしては堕ち過ぎたものだ。それに付き合った門番は気を遣い、いや使ってか、その気軽さが命取りになったといったところだろう。そんな連中の肝など、塩漬けにしても食えたものじゃない。
可哀想なのは妖夢だ。気にせずにいればそのまま死んだような生を目先の日常で費やし、ゆっくりと腐っていくこともできたろう。それはあの冥界にあっては、貴重な人生と云えたに違いないのだから。
その妖夢の性質だが、これは生物学的なものに走っても解明することは困難だ。幻想郷においてそのような知識など無用の長物。却って、足し算や引き算など、それぐらいの知識が調度良い。円周率を延々と計算するには打って付けの場所でもある。アリストテレスではなくプラトンを知り、ダーウィンよりも教皇を敬うが良い。ここでは伝承や噂など、思考する存在の心に直に沁み渡るものにこそ、現出する権利が与えられる。
妖夢は云わば芸術品だ。まるでそうなるべくして作られた素晴らしい芸術品の持つ何かを彼女は持っている。それが特殊なカー・バーなのか魂魄なのか、正直な所、自分でも半信半疑だ。だが、それが最も良い線であるようにも感じられる。
――咲夜は何事か長々と考え込んでいるらしいアリスの顔を見下ろしながら、薄気味の悪さを首筋に覚えていた。それは寄生を目的とする生物のように張り付き、脊髄を通して全身へと広がろうとする。咲夜はいもしない化け物を頭を振る事で消し去ると、口から新鮮な空気を貪った。そのかすかな音を聞いたとき、ようやくアリスは人形に合わせていた目を咲夜に向けた。
「発見したとして、通常の説得は可能?」
「不可能。でも、急げば希望はあるわ。ううん、急がないと……アーサーはランスロットを失い、リチャードは帰る家を失くす」
「ずいぶんと凝った言い回しね。ただの心神喪失でしょうに」
この館でメイド長などやっている自分だ。発狂者や精神及び神経を患う者など何回と目にしている。そういったものの性質の悪さは、意思の疎通を欠くという一点にあって、力が増したり、想像もできない化け物に生まれ変わるようなことは無い。もっとも、主人の妹である、あのフランドールがそういった状態にでもなれば話は別だが、それは象がマンモスに生まれ変わるようなものだから、そもそも御角が違う。
「現出して放って置かれた魂魄は鬼になると云うのが定説。だけど、鬼は鬼でも、霊夢が扱き使ってるような鬼じゃないわ。悪霊の類よ。そうなったら私じゃなくて霊夢の出番ね」
「なるほど。冥界に任せるまでも無く霊夢が片付ける、か……。彼女の邪魔をすれば冥界側だってただじゃ済まないし。まぁ、それはそれで構わないけど、あなた自身にやる気はあるの?」
アリスは咲夜の問いを受けて今一度、自分の人形に目を向けた。人形は首を傾げた。アリスは心を決めた。
「あるわ。手立てもあるし、それは私にしかできない。もし満足できる結果が出せれば、人形を完全に自律させる足がかりになるわ」
「こっちとしても彼女は無事に確保したいから、頼むわ」
「あら、八つ裂きにするものだとばかり思ってたけど」
「笑って済ませられる内はそうするべきよ」
「部下の仕出かしたこととはいえ、あのお嬢様の威厳に傷がつくからでしょ?」
「笑って済ませられるよう、お互いに努力しましょうよ」
咲夜がいつの間にか取り出したナイフを片手で弄びながら笑ってみせる。アリスは口元だけで笑みを返すと、人形を肩に乗せて立ち上がった。
「それじゃ行くわ。何にしても、この目で確認しないと。ただ単に心神喪失でわけもわからず逃げ回ってるだけかもしれないし」
「そうだとすれば頭を使わずに済むわね。でも、あまり関係無いかもねぇ」
「どう云う意味?」
「だって、もう警備部が押っ取り刀で出動してるもの。あの様子じゃ河馬だの河童だの、そんなものは無視しかねないわ。出来る限りの時間稼ぎはするように私側で尽力したけど、親衛隊の子たち、やる気無いのよねぇ。別にどうなってもお嬢様の利になるわけじゃなし、下手に動こうものならそれで角が立って御咎めを受けかねない。それに……」
咲夜の言葉を最後まで聞かずに、アリスは窓から飛び出して行く。その窓が嵌め殺しになっていることを彼女は知っていたから、建具ごと体で壊して。その際に肩から落ちた人形が、慌ててアリスの後を追って行った。
「ガラスもタダじゃないんだから……」
応接室の窓は全て開閉の可能な物に換えるべきか。咲夜がそんなことを考えながら部屋を出ると、一人のメイドが待っていた。
「あなた、中を片付けておいてもらえるかしら」
メイドは答えない。俯いたまま狭い廊下の壁に背を着けている。どうしたの、調子でも悪いの、そう咲夜が手をメイドの肩に掛けた途端、メイドが抱き着いてきた。
「ちょっと、ふざけている場合じゃ……」
「そう、ふざけている場合じゃありませんよ、メイド長」
声は咲夜の横から聞こえてきた。そちらに向こうとしたとき、咲夜は場の異常さに気づく。メイドに抱きすくめられた腕どころか、身体も重い。メイド、否、それを模した人形の力は尋常なものではなかった。なるほど、この程度の単純なものならば人形師でなくても作成可能か。咲夜は妙に落ち着いてそう考える。
顔だけはなんとか声のした側に向けることができたが、そこには赤いベストに黒い上下という、司書の格好をしたメイドが立っていた。彼女の手には文房具に類する小刀が一つ、鈍い光を備えている。廊下の暗がりが揺らぐ。それは彼女の黒い翼だった。その形は小悪魔のそれよりも鋭角で、かつ大きかった。
「司書長は何所に?」
「馬鹿ね、彼女は遺体安置所よ。じきに灰なり血肉なりになるだろうから、今の内に手を合わせておきなさいな」
「上手く誤魔化したつもりでしょうが、我々悪魔の目は誤魔化せません。それぐらい、ご存知でしょう? あのお客人にも遺体は見せなかったんですからね。確かに魂魄妖夢は危険な状態で野に放たれている。だが、あれこそがダミーだ。あなたが仕掛けた数の多すぎるダミー。手品の種は毎度変えることをおすすめしますよ」
「助言をありがとう。それじゃ私からも助言をしてあげるわ」
咲夜の云うが早いか、司書のベストのボタンが一つ外れた。そしてもう一つ。更にもう一つ。全てのボタンが外れたとき、司書の首が外れていた。
「全てのダミーをダミーと思った時点であなたの負けよ」
司書が倒れると同時に、咲夜を抱きすくめていた人形も倒れる。そして、廊下の暗がりから一人のメイドが現れた。顔立ちは小奇麗だがこれといった特徴は無い。ただ、手から先は陶器のような艶と形を保っている。彼女は倒れた司書の間接という間接を外すと、綺麗に折り畳んでしまった。
「思ったより早く司書管理部が動き出しました」
「もう少し時間を稼げると思ったんだけど……。他の親衛隊はそっちに行ったの?」
「はい。私は布団を畳んいでましたので遅れたのですが、それが幸いしました」
「幸い? あまり私を侮らないことね」
咲夜が指を弾くと、あらぬ方向からナイフが飛来し、メイドの顔の横を掠めて行った。そこは先の司書が立っていた場所である。メイドが嬉しそうに微笑むと、咲夜は彼女に顔を向けた
「それにしても、あなたは何でも綺麗に外せるのね。襲われたらひとたまりも無さそう」
「とんでもない。私には一つだけ人様に自慢できるものがあるのですよ」
そう云いながら、メイドは咲夜の乱れた着衣を直していく。てきぱきと、それでいて間違いの無いよう。そうして、最後に咲夜の顔に自分の顔を近づけると、こう呟いた。
「それは、馬銜《はめ》を外さないことです」
咲夜は心底嬉しそうな表情を作ると、メイドの口元にキスをした。
「侮るなって云ったでしょう?」
赤面しているメイドにその言葉は聞こえたのか。咲夜はそれを確認することなく、自分の目的のために動き出した。彼女にとって、今回の一件はちょうど良いダミーだった。真実ほど有効なダミーは無い。今の所、全てを把握しているのは彼女だけであった。
お早い治療を期待してますー