「昔の人間のこと? よく憶えてないわ。わたし、その頃はまだ小さかったしね」
テーブルの上の小鬼は、そう云って瓢箪を傾けた。喉を鳴らして酒を呑み、さも幸せそうに息を吐く。
今だって十分小さいぜ、と云おうとして思いとどまった。
じゃあ大きくなりましょうか、なぞと云って巨大化して屋根を蒐集物ごと吹き飛ばすに決まっている。願い下げだ。
「ふん。折角手がかりが手に入ったと思ったのにな」
「手がかりって、何の?」
「そうだな――空を飛ぶ人間の、かな」
人間は、普通空を飛ばない。当たり前だ。それが常識。
「アンタだって空を飛ぶじゃない、人間の癖に。あの巫女といい、幻想郷は変なのばっかね」
「一緒にするな。私は魔法で飛行してるんだ」
そう、普通の人間は、空なんて飛べない。だから、空を飛ぶにはそれなりの力がいる。
私が使うのは、魔法の力。私の「相」である、星の力。そこから「天に在る」力を引き出し、箒に込める。
手続は自動化してあるから、手間は要らない。だから箒を手に取るだけで、私は空を飛べる。
だが、それは「人間が空を飛べる」のとは違う。あくまで、特定条件下で、自然法則に逆らって『飛行』しているだけだ。
それが証拠に、私は箒がないと飛べない。
以前、宴会で箒を神社に忘れてしまい、手近にあったデッキブラシで代用しようとしたことがあるが、ピーキー過ぎて私にゃとても扱いきれなかった。やはり魔女は箒に限る。中身は外見《そとみ》から。形式は、とても重要なのだ。
また当然ながら、魔力が尽きれば私は墜ちることになる。天から星が消えない限り、まずあり得ないことだが。
そして何よりも、飛行しているときの感覚こそが、雄弁に物語るのだ。私は空なんか飛べない、普通の人間なのだと。
宙に浮いた足先。あの拠り所のなさ。私がひたすらに速さを求める理由の一つだ。ただ浮いている状態ほど不安定なものはない。加速に身を任せる方がまだマシだ。とはいえ、速度を上げれば今度は風の抵抗と魔力障壁のバランス調整がシビアになる。結局、どこで綱渡りをするかを選んでいるに過ぎない。
そんな水面下の努力も知らずに(いや、知られちゃ困るが)、何の支えもなく中空を飛翔し赤いリボンをなびかせて、あいつは何て云ったと思う?
「ああ、今日はいい風ね」
冗談じゃないぜ、まったく。
「私にも一杯呉れ」
「何よ、ぶつぶつと考え事してるから、呑まないと思ったわ」
「いいから」
「はいはい」
飾り気のない盃が手渡される。
「こんなの家にあったか?」
そういえば、さっきまでこいつも瓢箪から喇叭呑みしてた筈だが、今は同じような盃を手にしていた。
「今そこらの土を萃《あつ》めて作った。相手がいるなら盃がないとね」
便利な奴だ。
「雑菌とか一緒に練り込まれてないだろうな」
「失礼ね。私の力はそんなにいい加減じゃない。第一、アンタだって茸とか食べるでしょ。気にしても始まらないわ」
「雑菌と菌類は別物だ。ちゃんとその辺区別して味わってるんだよ、人間は」
そう、普通の人間はな。
あいつには、区別がない。人間も妖怪も、あいつにとっては同じだ。
笑って手土産の一つも持って行けば、手づから一杯の茶を煎れてもてなす。
嗤って厄介ごとの一つも起こせば、無数の御札と投針で出迎える。
ただ、それだけ。
力があるから、区別する必要がないのだ。そう考えていた。
吸血鬼だろうと、歳経た魔女であろうと、亡霊であろうと、対等以上に渡り合う力。
そんなものを持っていれば、確かに畏れる必要も区別する必要もないのだろう、と。
だが、本当にそうだろうか。
必要がないから区別しないのか。
そもそも、あいつにはもとより区別なんて存在しないんじゃないか。
「なぁ、お前たち鬼は、なんで居なくなったんだ」
「居なくなってなんかない。出ていっただけ」
「言葉のあやだ。何で出ていったんだ」
「人間達が嘘をついて、騙すからよ」
「なるほど。確かに私の得意技だ。ほら、零れるぞ」
「嘘つけ」
「ああ、嘘だ。じゃあさ、鬼は嘘をつかないのか」
「つかない」
「絶対に?」
「絶対!」
「そうか、絶対か」
その言葉を呑み干すように、盃を傾ける。
「……いや、わたしはちょっとだけならつくかも」
ぼそぼそと呟く鬼を余所に、私は再び思考の霧に沈む。
鬼は、嘘をつかない。騙さない。
何故か。
鬼は、強いから。嘘などつかなくとも勝てるから。
嘘をつき、騙す。それは弱者の業。抗し得ぬ力の差を埋める為の知恵。
だから人間は、鬼を騙す。嘘をつく。そうしなければ勝てないから。
だが、もし人間に、力があったら? 人間は、嘘をつくだろうか。
あいつは、嘘をつかない。
そう、まるで――
「鬼、だな」
「あー、わたしがどうしたって?」
鬼の力は原初の力。萃まり散じて自在なる、分化以前の失われし力。
だが、分化したからといって、それ直ちに失われた、とはならない筈だ。
七つに分かたれた光の外に目に見えぬ光があるように、ただそれは知覚できないだけで、そこに在る。
人間に騙されるようになり、鬼たちは消えた、と云う。
ならば、鬼が消える前の人間は、嘘をついていなかった、ということではないのか。
嘘をつかず騙すことなく、鬼の力に対抗していた人間。
鬼の力が、原初の力であるならば。
それに抗し得る力もまた、原初の力である筈だ。
そもそも、原初の力とは。分化する以前の力とは。
分化。何が、何に。
人間。鬼。妖怪。
かつて、これらは、一つだった――?
あいつは、人間も妖怪も区別しない。そしておそらく、鬼も。
あいつには、全て同じく見えているから。その原初は、全て同じであるから。
嘘をつかず、何も区別せず、則《のり》を越えて空を飛ぶのは。
あいつもまた――原初の者であるから。
私とは、違う、存在で、ある、から――
「酒」
「なによぅ、不景気な顔して呑まないでよね。折角のお酒が勿体無い」
「五月蝿い。いいから酒」
「はいはい。意外に弱いわね。この程度で潰れないでよ?」
盃を呷る。熱い胃の腑とは裏腹に心が冷える。自分の考えに潰されそうだ。
私は、弱い。弱点だらけだ。
呆れるほどに――普通の人間だ。
強い力を持つ者は、何かしらおかしな弱点がある。故に強い。
自身、強い魔力を持ちながら喘息という弱点を持つ魔女の言だ。
吸血鬼なら、日の光。
目の前の鬼なら、炒った豆。
ならば、あんなにも強いあいつの弱点とはなんだ。
心の赴くままに飛翔し、自在に着弾する。あらゆるものを捕らえて離さぬ結界を司りながら、自身はなにものにも囚われない。
あいつに弱点なんて――――
「あーもう、陰気臭いったらないわ。神社でお祓いでもして貰いなさいよ」
――――――あった。
「博麗、か」
そうだ。それこそが、弱点なのだ。
ずっと、勘違いしていた。
博麗の巫女だから。故に強いのだと。
違う。
あいつは強い。およそ人間の概念では計れぬほどに。そう、まるで「鬼」のように。
そして自由だ。人妖の境界など、たやすく飛び越えるほどに。
それはおそらく、最も旧き「人」の能力《ちから》。あらゆる存在へと分化する以前の、原初の存在《ちから》。
それほどの力の持ち主にこそ相応しき枷。初めて許される弱点。
それが「博麗である」ということなのだ。
博麗の巫女である、という事実は、あいつの能力を何一つ縛ることはない。
だが考えてもみろ。
どんなにいい加減に見えても、巫女の象徴である紅白を纏う。
いつでも自在に空を飛べる身でありながら、あの賽銭の入らない神社から離れることはない。
参拝客のこない境内の掃除を、いつだって欠かさない。
何故だ、と問えば、あいつはこう応えるだろう。
「いや、まぁそういう決まりだから」
誰が決めたわけでもなく、ただ従う他ない則。それが弱点。
博麗は、まさにあいつの弱点に他ならない。
「ははは、何てこった」
強いわけだ。
この幻想郷の扉にして鍵たる博麗大結界。それを枷として、弱点として負える存在なのだから。
そして、それこそが。
あいつを、たった今も「人間」たらしめている。
たとえ、非常識に空を飛ぼうとも。
たとえ、妖怪と見紛う力を発揮したとしても。
たとえ、鬼と渡り合おうとも。
「博麗」である限り。あいつが、博麗の巫女となって、「人」の「間」に在る限り。
私と同じ、人間だ。
「おい、遊びに行こうぜ。博麗神社へ」
「あら、調子戻ったっぽいわね。で、何でまたいきなり」
「宴会のいい口実を思いついた。これなら三日おきといわず毎日あいつのところで宴会だ」
「へえ? んじゃ、また面子を萃めるとするか」
小鬼はにやりと笑い、盃を一息に呑み干した。
「よし、そうと決まれば膳は急げ灰汁抜きも急げってな」
使い慣れた箒を手に取る。
あいつは、最も旧くより来た人であり、日々最も新しき人間と成る、永遠の第零番。
原初の力携えて、昨日も今日も明日も、ただひたすら巫女であり続ける。
今頃、境内を掃除しながら「暇ね。こう暇だとお茶でも飲みたくなるわ」なんて云ってるに違いない。
よかったな、これで今日からは暇知らずだぜ。
霊夢、すごい発見だ。実はな――
「今日も明日も明後日も、ずーっとお前の誕生日だ!」
「今日も明日も明後日も、ずーっとお前の誕生日だ!」
笑えました。いや、ホントに。
霊夢がアレな性格だから、魔理沙の方が感情移入しやすくてなんとなく共感できました。
すいません。
「おい、遊びに行こうぜ~」あたりから解らなくなりました。