その日、誰かが泣いていた。
さざめきは静かで、瞳には雫の一つもない。それでも人は、彼女が泣いているというだろう。
人に触れることを避け、館の片隅で、あるいはその少女は嗚咽を漏らしたかもしれない。
全てを等しく包む、そんな哀愁の中、彼女はずっと泣いていた。
――門番がクビになった日。
紅美鈴は、泣いていた。
■ ● ■
「様子は?」
「凄まじい落ち込みようです。不用意に近づくと気が触れます」
「そう……」
紅魔館の主人とその従者が、遠い窓の向こうから正門を見やる。
何かその一帯だけ結界が施されているような、一種異様な空気に包まれているのが見えた。
主人は悲しげに愁眉をひそめる。
「丸一日経ったけど、変わらないわね」
「お嬢様の力添えで、何とか復職させることはできませんか?」
「……彼女、紅魔館に来たのは本当に昔の話だから……」
紅魔館が生まれた当時、すでにその頃の記憶を持つ者たちはほとんどが消え去った。
まだレミリアが文字通りの意味で幼かった頃のこと、この館は、彼女の父親の手によって作られたのだ。美鈴はそのときから、門番として紅魔館に仕えている。
先日、幻想郷の外で暮らしているその父親から手紙が送られてきた。
……レミリアは何かの手違いだと思ったが、そこには美鈴のクビを宣告する旨が書かれていた。
しかし、最古参の部類に入る彼女の人事権は、父親の掌中にあるようなものだ。逆らえるはずもない。
美鈴は一日経っても、暗澹とした空気をまといながら門の近くをうろついているようだった。直接姿が見えないので分からないが、なんとなく確信できる。
「このままでは病人の発生も時間の問題かと……」
「そこまでひどいとはね。ほっとくわけにもいかない……か」
レミリアは物憂げに頬杖をつき、実際より遠くを見る眼で門に視線を向けていた。
想い出に長い時間はかからない。一瞬だけ、彼女は現実より多くの時間を回想の中で感じた。
目を閉じ、背もたれに深く身を預ける。
最後の言葉は、思ったよりあっさり口を出たかもしれない。
「さようなら、かしらね……それとも……」
なぜならきっと、これから待ち受ける運命がどうなるのか、それを予期できたから。
そして主人は、従者に部外者の排除を命じた。
■ ● ■
そこは静かだった。天を突く怒号、胸が張り裂けるような慟哭、あるいは耳をつんざく悲鳴――そんなものを予想していたわけではない。だがメイド長が考えていた以上に、そこは静かだった。異様だとさえ感じられる。
物理的な静寂とは違う……咲夜は理解した。心に呼びかけるような沈黙。精神が口を閉ざすのだ。
門をくぐると、すぐそこの塀を背に美鈴が座り込んでいた。
ずいぶん真っ白になったように見える。精気の感じられない表情で、虚ろに宙を見上げて笑っていた。笑っていたが、見た瞬間彼女が泣いているように思えた。
彼女の隣には、何かごてごてしい機械が置かれている。
とりあえず悲惨なことになっている美鈴を直視しないように、咲夜は奇妙な機械を指さした。
「……これは?」
「以前から製作していた、門番用の索敵装置ですよー……近くに人間か妖怪が来ると、この画面に場所とおよその視界が表示されるんですー……」
「……あ、あなた大丈夫?」
「えへへ、とりあえずソリトンレーダーと名付けましたー……。クビになっちゃいましたけど、これだけは完成させておこうと思ってー……」
死人じみた動きで立ち上がり、ソリトンレーダーとやらを咲夜に押し付ける美鈴。
かなり危険なものを感じた咲夜は、美鈴の両肩を強くつかんでがくがくと揺さぶった。
逼迫した勢いにまかせて叫ぶ。
「美鈴! 正気に戻って! くじけちゃダメよ、あなたならできる!」
「う……」
美鈴の瞳に少しずつ光が差し込んでくる。
「私は……あぁ……クビに……はは」
「だめだってば美鈴!」
「あぁぁ……私は……うぅ……うぅぅ……さ、咲夜さん……うぅ……」
徐々に心を取り戻してきたのか、さめざめと涙を流す美鈴。
メイド長はそんな美鈴の肩を抱き、しばらく落ち着くまで遠く彼方を眺めていた。
二人が特別親しかったとか、そういうことはない……さして長くない記憶を振り返ってみて、この赤毛の門番が館を去るということがどれほどの意味を持つのか、不意にぽっかりしたわだかまりが胸に生まれたような気がした。
それでも――
美鈴はやがて顔を上げた。
「……もう大丈夫です……すいません」
「無理はするものじゃないわ。辛かったら白状したほうがいいわよ」
「いえ……大丈夫です」
実際にはすがりつくものが欲しかったが、美鈴は自分を叱咤して咲夜から離れた。
今日はやけに紅魔館との距離が遠く感じる。目の前にいるはずの咲夜も、見えない幕で覆われているかのように現実感がない。今手をのばしても、咲夜に触れることはできないのではないか――彼女の心は、そんな錯覚さえ感じた。
「……もう行きます」
「そう……寂しくなるわね」
咲夜は、風の吹く方向を悲しげに眺めていた。美鈴もそれを追う。
万感の思いが胸中をよぎったが、今それを口にすることは正しくはなかろう……語らずとも、生きて伝えることはできる。彼女の言葉を必要としていて、探している者ならば、彼女が語って聞かせなくともいつか必ず見つけてくれるだろう。それで良い。
美鈴はくるりと背中を向けると、迷いを振り切って歩き出した。後ろ姿で咲夜に手を振ってみせる。
「それでも言わないといけませんね。さようならです」
「さよう……なら」
別れの挨拶をかわし、彼女は去った。
そして。
■ ● ■
幻想郷の外れに、博麗神社がある。
結界の境界線上に建てられているらしいが、美鈴は詳しいことは知らない。興味ない。
おそらく二度と、ここに来ることもないだろうから――
見渡してみたが、目につく範囲に巫女はいなかった。気配を頼りに探ってみると、裏のほうで二人、何か談話でもしているようだった。
回ってみる。
ふと、レミリアや咲夜はこの神社によく足を運んでいたらしいことを思い出した。大して意味はない。想い出は、綺麗な結晶になるまできっと心に突き刺さるものなのだろう。
裏庭では巫女ともう一人、スキマを操る大妖怪がお茶を飲んでいた。
ちょうどいい、二人とも博麗大結界の管理人みたいなものだ。
「こんにちは」
声をかける。
言葉の始めが、巫女の言った「胡散臭いのよ」にかぶさったが、二人とも美鈴に気づいて向き直った。
なんとなく、気後れのようなものを感じた。
「……今日は、頼みがあってきました」
「何?」
その先を続けることに、ひどく躊躇を感じたのは確かだ。
だがそれが今の自分にとって最善であると、一日かけてたどり着いた結論を彼女は信じた。
「――幻想郷の外に出して欲しいんです」
二人の動きがわずかに固まる。
しばらく、鳥のさえずりだけが耳に残った。視線を外すタイミングを逸し、美鈴はその間呆けた顔の二人を見つめるしかなかったが。
先に口を開いたのは大妖怪だった。
「……それは、あれかしら。わがままな吸血鬼の命令?」
「いいえ。昨日、私は紅魔館をクビになりました」
二人はほとんど驚いた様子もない。むしろ外に出たいという理由が納得できたらしく、かすかに頷いてすらいる。
美鈴は一抹の悲しさを覚えないでもなかった。
「……私には身を寄せられる場所がありません。幻想郷を出て、故郷の大陸を適当に回りたいと思います」
「そんなひどいことしたの? クビになるような?」
どう説明していいものか、一瞬頭の中で言葉を選んでいたが。
「そんなのはどうでもいいわ。どっちにしても、私の答えは変わらないもの」
それより先に大妖怪が美鈴を制した。
つまらなさそうに、大妖怪は椅子に座りなおした。つまらなさそうに――しどけなく背もたれに片腕を回すその姿は、見るからに大儀そうだった。彼女が本当にどうでもいいと考えていることは、その仕草だけで知れた。
言外に、無駄なことにつき合わせるな、とこぼしているようだ。
思わずむっとしながら、美鈴は大妖怪の隣を歩き去る。
「それはありがとうございます。私はもうきっと幻想郷に戻ってこないですから、結界はすぐに閉めていいですよ――」
「誰が通すなんて言ったのかしら?」
今度は美鈴が動きを止めた。
わけの分からない顔になりながら、背後の大妖怪を振り向く。すでに彼女は美鈴に意味深な笑みを向けていた。
「……通してくれないのなら、勝手に通らせてもらいます」
「できるかしらね。ふふ」
謎の笑いは無視し、幻想郷の外へ歩き出す。ここから先は森の中にポツンと作られた道があるだけだ。
後ろで、巫女が胡散臭げに大妖怪へ何か話しかけるのが聞こえた。美鈴は未練に似たものを一瞬感じたが、最後にはそれも無視した。
しばらく歩くと開けた場所に出た。
思わず足を止める――何か感慨深いものが胸をよぎった。
深く息を吸う。それを胸にとどめたまま、一度目を閉じて自らの足跡を辿った。
様々な想い出をここに残していくことにしよう。ここから先は幻想郷の外。今まで感じてきた多くの出来事は、きっと心に楔を――
「はぁい」
目を開けると、大妖怪が手を振っていた。
対面では、巫女がやる気無げにテーブルに突っ伏して手だけ上げている。
「…………」
だっ。
美鈴は急回転すると、もう一度幻想郷の外に向かって走り出した。
「はぁい」
「…………」
今度はもう、戻る気になれなかった。
「……出してくれる気は、ないんですか」
「とても無理ね。中国全史の暗部として恐れられたあなたを、野放しにするなんてできるわけないわ」
「…………」
昔の話を。
「いまさら無差別に暴れまわって、人をとって食べようとかそんな気にはなれません」
「私はあなたの身を心配してるのよ。外の世界は危険よ……あなたには理解できないでしょうけど、人間は全ての地図の空白を埋めてしまったから。出て行ったらすぐにでも殺されてしまうかもしれないわね」
巫女は突っ伏したまま寝たらしく、大妖怪の話を聞いても全く反応がなかった。
特に何を意識したわけでもなかったが、美鈴は鳥かごから逃げ出した小鳥が即座に野獣の餌になる光景を想像した。
小鳥はきっと……都合のよいものだけが大空にあると考えるのだろう。
「……私が行くあてなんて、本当にないんですよ」
さびしげに美鈴は告げたが、大妖怪は当たり前のようにそれを否定した。
「あなたがそう決めてたとしても、『ここ』はそんな不当な決めつけをしないわ。なぜならここは幻想が今も息づく郷、幻想郷だからよ……あなたが勘違いしているだけで、幻想のスキマはたくさんの不条理を引き受けてくれるの」
自分の台詞に満足したのか、大妖怪は傘をくるくる回してにこりと笑った。
その笑顔を見ると、一日かけて悩んだ結論がひどく愚かなものだったとこき下ろされているような気分になる。
だが不思議と、悪い気はしない。
「いいかしら、美鈴。これからは、修行を積んだ魔法使いが悪い竜を倒したり。腕っぷしの強い剣士が剣一本で国王になるような時代じゃないわ。それで事が収まるような単純な世の中ではなくなりつつあるの。これからは一人一人が自分の持つ才能を役立て、それぞれの暮らす場所で、みんなのためになるよう頑張る。そうでなくてはいけないのよ。そのためには伝説の英雄などというものは邪魔なだけよ。これからは、大地に根を下ろした力こそが必要なの。幻想の心のようにね」
幻想の心のように……
それまで寝ていたように見えた巫女が突然首をもたげ、美鈴に向き直った。
「今までいてもいなくてもいいかなって思ってたけど、やっぱりいいなくなったらきっと寂しくなるわね。幻想郷から誰か一人減っても、同じこと言うでしょうけど。だから、いなくなるよりはいてくれたほうがいいわ、私は」
「全く同感ね」
巫女はまたこてっと無表情にテーブルに倒れながら、大妖怪はくすくす笑いながらそう言ってきた。
けなされているのか、ほめられているのか……一瞬理解できなかったが。
やがて、そういった感情とは無関係な話を彼女はしたのだと気づいた。何だ、はっきり言ったではないか。
いなくなるよりはいてくれたほうがいい、と。
美鈴は思わず笑いたくなった。
「……ありがとうございます。私、幻想郷の中で自分の生きる理由を見つけられそうな気がします」
「ひとまず応援しておくわ。第一、あなたがいなくなるとシナリオが狂うのよね、私は別にいいけれど。そこのとこ分かってるのかしら、彼」
「意味分かんないけど、私も応援だけはしとくわ。再就職できるといいわね」
そんな声に見送られ、美鈴は博麗神社を後にすることにした。
去り際、背中に届いた大妖怪の声が、ひどく耳に残った。
「頑丈で鋭い剣だけが良い剣ではないわ。時には刃がこぼれ、すぐにも折れそうな剣が最良の名剣となることもある。幻想の世も、かくあらん」
■ ● ■
美鈴は幻想郷のあちこちを歩いて回ることにした。
あてなどない。それでもきっと、いつか生きる理由の見つかる日が来るだろう。
しばらく方々に赴き、ふとある竹林に立ち寄った。
静かな妖気が感じられる……きっと長い年月をかけて成長した、いずれも大きな力を秘めた竹ばかりなのだろう。
なんとなく故郷の大陸奥地を思い出す。人知れずこんな場所にひそみ、たまに人里に降りては悪行を繰り返したものだ。
今となっては古い記憶だが。
この辺りに寝床を構えるのも悪くないかもしれないな――そんな風に思いながら、美鈴は竹林の奥のほうへ歩いていった。
妖気はときどき逆巻いて、美鈴の行く手を惑わしたり誘ったり、あるいは導いたりして彼女を歓迎していた。
やがて、美鈴は気配を一つ感じた。
そんじょそこらの雑魚妖怪ではないだろう。足を止め、出方を窺う。
竹林の合間から、人影が飛んできた。
「……ん?」
やってきた少女は、美鈴を見てちょっと首をひねった。
青い帽子と青い服に身を包んだ少女だった。どことなく知的な雰囲気を感じる。
少女はしばし、思考を吟味するようにあごに手を添えてから呟いた。
「……いや……お前、妖怪だろう?」
「そうですけど」
「お前の歴史からはずいぶんと禍々しいものを感じるな……だがそれほど凶悪には見えないのだが」
なんかちょっとひどいことをいわれているような気もしたが、とりあえず反駁することはやめた。
「今は自分から人に危害を加えたりはしませんよ。昔は……まぁ、幻想郷に来る前の話です」
「そうか」
少女は美鈴の近くまで来ると、ある程度間合いをあけて美鈴を観察したようだった。
何かしらの結論が出たのだろう。少女は最後に美鈴の目を見つめた。
「私の名前は上白沢慧音という。よかったらその話とやらを聞かせてくれないか」
「話ですか……? なぜ?」
「お前からは、人間を襲った歴史が感じられるからな。念のためだ」
「…………」
少女に悪意らしき悪意は感じられなかった。
彼女の言から察すると、どうやら人間を保護する立場にあるらしい。
その頃にはすでに、美鈴の嗅覚は慧音がただの人間でないことを見破っていた。
……鼻でかいで分かったわけではない、念のため。
「分かりました。私の名前は紅美鈴です」
慧音は頷くと、美鈴を別の場所に案内した。
岩の切れ端から、幻想郷がはるか遠くまで見渡せる。
慧音と美鈴は竹林を離れ、ちょっとした高台になっている岩場に来ていた。
ここでは人の耳もないのだろう。わざわざ場所を変えたということはそれなりに気をつかっているということか、それともいざというときは遠慮する気がないということか。
「ここからはいろんな場所がよく見えるだろう」
「ええ……」
幸い、紅魔館は死角になっている。
慧音は美鈴の前に立つと、遠く、米粒くらいにしか見えない場所を指した。なんとなく影形から、それが人里らしいことがおぼろげに感じられる。
「あの里はな、一週間ほど前赤ん坊が生まれたばかりなのだ。玉のような女児だった。両親は若い夫婦だが、今は幸せの只中にいるだろう。これからの営みは艱難に満ちたものだろうが、それを分かっていてながら生きる希望にしたいと、彼らは我が子の誕生を心から祝福しているようだ」
「……別に、私はその子をとって食ったりとか、そんなひどいことはしないって言ったじゃないですか」
「どうかな? お前の歴史は、口で言えるほどぬるいものではあるまい……」
慧音は鋭く美鈴を睨んだ。反論する言葉をなくし、所在なげに視線を逃がす美鈴。
まだ大陸を放浪しているときは――結構当たり前に人里に下りて、人を食ったり人家を破壊したり。
そう、赤子を丸呑みにしたこともあった。
「……昔の話ですよ」
「本当か?」
「ええ」
狂気に克つことはできる。
そのための手段が初めから自分の隣にあったことを、美鈴は紅魔館にきてから知った。
「……お前は不思議な妖怪だな。これほど歴史と見た目がかみ合わない妖怪も珍しい」
「一応、褒めてもらってるんだと解釈することにします」
「最大限の賛辞だよ。かつては、誰と共に歩くこともなく、たった一人で闇に蝕まれていたのだろう?」
そんな時代も、確かにあった。
広い大陸に自分はたった一人ぽっちなのだと、そうとしか考えられない時期が、確かにあった。
思い起こしてみれば……変わったものだ。誰にともなく苦笑する。
「よく分かりますね」
「私は知識と歴史の半獣だからな。お前のことは気に入ったよ」
笑いながら近くの岩に腰掛ける慧音。可憐な見た目にふさわしい花のような笑みだった。なんとなく、普段の表情が硬いのでこんな顔になるとちょっと意外だ。
美鈴も同じく微笑みながら、手ごろな岩に背を預ける。
「事情はなんとなく分かった。しかし忠告するが、あの竹林は危険だぞ。月の民の館があるし、時々不老不死の二人が殺し合いを繰り広げるなどするでな」
「……なんか聞くからにすごそうですね」
「まったく、モコウにはもう少し自重して欲しいものだが、長生きの連中は頭が固いのだ……お前もやはり固いのか?」
モコウというのが誰を指すのか分からなかったが、美鈴は笑って手振りで否定した。
「私の周りの環境も結構大変ですから、臨機応変に対処しないとやってられませんよ」
「そうか……うむ……今、なんかすごそうな歴史を感じた。お前も苦労してるのだな」
いきなりクビにされては、考え方を改めざるを得まい。
美鈴はごまかすように笑って、もう一度遠くの幻想郷を眺めた。
「……私はしばらく、この幻想郷のどこかをさすらうつもりです」
「ひとところに腰を落ち着けはしないのか?」
「それを探すために、旅をしているんですよ」
分かるだろうか。唐突に不安が頭をよぎる。生きる理由を理解できる日が、いつか見つかるとは限らない。
「……悩むときもあるだろう。だが……これは、そうだな、友人からの助言程度に受け取って欲しい。聞いてくれ」
慧音は咳払いを一つついて美鈴に向かい合った。
「信じるものが消えたとき、巣立ちを迎えた者は夜明け前の暗がりに迷ってしまうかもしれない。道を照らすのはただひとつ。胸の奥で輝く、朱紅い雫。たとえ小さな雫でも想いと想いを重ねれば……奇跡を起こす流れとなる」
急に照れくさくなったのか、慧音はぶっきらぼうに顔を背けて腕組みなどした。その仕草が可愛くて、美鈴は思わず笑ってしまう。
慧音はちらりと美鈴を横目で見ると、投げやりな態度になりながら、それでも口調は真摯に続けた。
「……心が持つ、熱い思い……命の雫……一つ一つは小さくても……響きあえば、波紋は大きくなる……」
彼女は最後に手をぐるぐると振り、それをもって言葉の締めくくりとした。どうやら恥ずかしくなってごまかそうとしたらしい。
言葉は、その程度の短いものでしかない。だが美鈴はそれが何物にも変えがたいのだと知っている。
それこそ、胸の奥で熱く輝く朱紅い雫が波紋を広げるように。
一通り腕を振って無意味だと悟ったのだろう、慧音はくるりと振り向いて告げた。
「まぁ、つまり、その、何だ……自分を信じろ、辛くなったら他人を頼れ」
「それはちょっと略しすぎちゃって、さっきの感動が台無しですよ」
もちろん台無しになることなどない。彼女はこんなにもまじめに聞かせてくれたのだから。
慧音はほんのり顔を紅くしながら、再び腕を組んでそっぽを向いた。
美鈴は自然と笑った――いい友達ができたような気分だった。
「じゃあ、私はもう行きますね」
「行くのか」
「ええ」
「そうか……お前とはいつか、また会いたいものだな」
慧音がすっと右手を差し出してくる。美鈴は笑顔でそれに応え、右手を握った。
「……きっとまたいつか、会えますよ」
そう言って、美鈴は慧音と別れた。
■ ● ■
それからまたしばらくの間、行き先のない旅は続いた。
幻想郷は広く、時には暗がりに迷ったこともあった。
それでも美鈴が旅を続けられたのは……いや、彼女自身、その理由を答えることはできないかもしれない。
それでいいのだろうと、美鈴は信じていた。
旅の途中、結界を乗り越え、美鈴は特に変わった場所にやってきた。
長い長い階段の向こうに、人ではない人の気配を感じる。
そこは冥界だった。
冥界に自分の居場所が作れるとは思えなかったが、美鈴は何かに誘われ、白玉楼の長い石段を登り始める。
しばしして、上方からものすごい勢いですっ飛んでくる人影があった。
「何奴!」
双剣を振りかざして美鈴に対峙するその少女には見覚えがあった。巨大な人魂を従えた銀髪の剣士――
「どうも、妖夢さん」
「……あ? 中国さん?」
この凄腕の剣士とは、何かの因縁で昔一度対決していた。妙なものでなぜ対決になったのか今でも思い出せない。最萌だとか、トーナメントだとか……頭に浮かぶのはおぼろげな単語だけだ。
美鈴から白玉楼を訪ねるとは思っていなかったのだろう。下がった構えの向こうに気の抜けた表情が見える。
「どうしてこちらに? 門番は……あっ」
口を押さえて数歩下がる妖夢。紅魔館をクビにされたことは知っているようだが、そんな風にあからさまに気を使われると逆にげんなりする美鈴だった。
「……知ってるならいいですよ。気にしないでください」
「……すいません」
さすがにあれから何週間か経過しているし、噂が広まるのは覚悟していたが。
妖夢はすまなそうに美鈴に頭を下げると、剣を収めて美鈴と共に白玉楼の階段を登り始めた。
「風の噂で……その……だと聞きました。幻想郷の外に出たとか、入水自殺したとかいろいろ言われていたので、心配していたのですが……」
「……そうですか」
そんな風に言われていたのか……妖夢には分からないように気落ちする美鈴。
「白玉楼へは、どうして?」
「いえ、解雇されてから、いろいろな場所を歩いて回って新しい生き方を探していたんですよ」
「へぇ、それは……」
そんな風な世間話ともつかない会話をしていると、また上から人影が接近してきた。今度はひどくのんびりだ。
「あー。やっときたのねー。いつまで待っても来ないから正直心配してたわ」
白玉楼の主人、幽々子だった。
口ぶりから一瞬妖夢に言っているのかと考えたが、よく見ると美鈴のほうを向いている。
「……? 何の話ですか?」
理解できないので訊きかえす。だが幽々子はその返事のほうが理解できないようで、小首をかしげて美鈴を上から下まで見回した。
「だってあなた、自殺したからここにやってきたんじゃないの?」
「違います!」
「そうよねぇ。自殺者がまず行くのはここじゃないし……」
「幽々子様、そんな風にからかうと中国さんに悪いですよ」
「あなたのほうが、よほどひどいことを平然と言っている気もするけど……」
「?」
疑問符を浮かべる妖夢。もはやなんと呼ばれようが慣れているので美鈴は訂正する気も起きない。
三人は白玉楼の長い石段を登り始める。
「話は聞いてるわ。いきなりクビになったんですってね」
「…………」
「幽々子様……」
「でも、意外に落ち込んでるわけじゃなさそうね。さすがだわ」
「いえ……その、私も一人ぼっちじゃないっていうことを教えてくれた人がいましたから」
霊夢も紫も慧音も、彼女らが言ったのは本当はなんでもないような言葉なのかもしれない。だが美鈴には、そんななんでもなさがとても大切に思えた。
「まぁ、残念だけどうちはこれ以上門番は雇えないわ。あ、でも妖夢より有能だったら雇ってあげてもいいかも」
「幽々子様ぁー……」
情けない声を出しつつ幽々子にすがりつく妖夢。それを笑いながら扇子で撃墜する幽々子。
良い主従だ。美鈴は素直にそう感じた。まるで共通点はないように思えるが、一瞬レミリアと咲夜を連想する。
……どうしているだろうか。
「結構、あっちこっちを歩いてきたそうね」
「え? ……なぜそれを?」
「まぁ、私もこれで顔が広いから」
あえなく墜落した妖夢は気にしないのか、扇子で口元を隠し横から美鈴に接近する幽々子。
美鈴はなんとなく幽々子と間合いを取り、妖夢の落下地点に向かった。
「大変だったでしょう……悪魔は幻想郷中で嫌われてるから、それに仕えていたあなたの評判もいいものではなかったわ」
「…………」
そうなのだ。
美鈴への風当たりは、弱いものではなかった。
旅の途中、行き先によっては敵意むき出しで追い返されたこともあった。
「それでも中途で心を折らなかったのは……なぜ?」
「……私は答える言葉を持ちません」
美鈴はうめきながら頭を抑える妖夢の隣に立った。大した怪我ではなさそうだ。
「言葉は、語るためのものではなく、伝えるためのものですから……私はきっと、多くの人に支えられて生きているのだと思います」
それがたとえば紅魔館の住人たちであったり、霊夢や紫であったり、慧音であったり、目の前の妖夢や幽々子であったりするのだ。あるいは想い出の中、記憶の中の人々さえ今も何かを伝えているのかもしれない。
大切なことは、大抵シンプルだから。
だから今まで、挫けることがなかった。
「……強いのね……大陸にいた頃も、そんなに強かったの?」
「……なんで知ってるんですか」
「あなたほど長生きじゃないけど、私もこれで顔が広いから」
美鈴はちらりと背後の幽々子を確認しながら、彼女に対する評価を少し変えた。得体の知れなさでは大妖怪に次いで二位に昇格する。
「……中国さん、大陸が何ですって?」
「昔は大陸にいたんですよ。幻想郷ができる前の話ですけど……」
中国という呼び名は、その頃からあった。
意味は「中国全史の暗部」、「中国の闇」……あまり愉快な記憶ではない。
「幻想郷ができる前から……生きてたんですか?」
「ええ、昔の力は封印しましたから、実質的には大して長生きしていないことになるのですけど」
妖夢にとっては驚きだったのだろう。目をぱちくりして美鈴を見ている。
幽々子が近づいてきて、美鈴の背後で声をかけてきた。
「あなたとこうして話す機会はなかったから、いろいろ聞けて楽しかったわ。残念だけどこれ以上白玉楼には登らないでね。あなたの血は、死人の色がだいぶ濃いから、混乱してしまうわ」
「はい」
素直に従う。妖夢はちょっと状況についていけていないようだったが。
「……これからあなたは、どこに行くの?」
「まだ、当てもない旅の途中です。いずれ、新しく生きる理由を見つけるまで、この旅を続けようと思います」
「そう……そうね……」
幽々子は物憂げに遠方を眺めた。目を細め、何かを考えてるのかもしれない。
しばしして、幽々子はやんわりと微笑みながら美鈴にこう言った。
「あなたがどんな選択をしたとしても、ことの本質は変わりない。それぞれの心に希望の種があればこそ、本当の答えを導き出せるのです。誰かが、一方的に答えを出すなんてことはなにがあっても、あってはならないのです。無論、その場に居合わせるのは今のあなたのように、辛く、苦しいこともあります。悩めばいい。とことん悩めばいい。ですが。立ち向かうことができるのも、その場にいる者だけに許された特権だとわかっているはずです。約束された未来など、どこにもないのですから。悩んだ積み重ねが歴史になり、それに見合う未来をもたらしてくれるのです」
普段とは違う、威厳に満ちた立ち居振る舞いだった。
美鈴は静かに目を伏せ、敬意を持って幽々子に一礼した。
ほんの少し当主らしきことをしただけで肩がこったのか、幽々子はくいくいと首と肩を回して表情を崩す。
「ああは言ったけど、気楽やるのが一番よ。でも本当に大切なことは、ちゃんと考え抜いてから決めるのね」
ありがたい言葉だった。
やはり、多くの支えがあって初めて、自分という存在が成り立ちえるのだろうと美鈴は感じた。
「行かれるのですか、中国さん……」
「ええ、きっとまたいつかお邪魔します。ありがたい訓示をいただきに」
「勘弁してちょうだい。あんな疲れることはもうこりごりだわ」
幽々子が笑いながらそう言った。
妖夢も美鈴の前に向き直って、別れの言葉を告げてくる。
「口下手なので、あまり多くを言葉にすることはできませんが――」
「あら、分かってるじゃない」
「茶化すのは後にしてください、幽々子様。その……自らを奮い立たせる勇気、己の過ちを認められる心。これらを兼ね備えてはじめて見出せる希望が、あなたの胸の内にもあるはずです。希望の光は色あせることなく、時代と共に紡がれていくのですから。だからきっと……諦めないでください」
「ええ……ありがとう」
美鈴は二人に向かって頭を垂れると、それまで登ってきた階段を静かに降り始めた。
背後には、美鈴を見送ってくれる二人の気配が、いつまでもそこにあった。
■ ● ■
風の吹くままに続く美鈴の旅は、まだ終わる気配がない。
結局その後、幻想郷をぐるりと一周して、最後まで足を運ぶのを渋っていた場所までやってきた。
そこは綺麗な湖畔だった……湖の反対側は見えない。そんな巨大な湖の湖畔だった。
懐かしい場所だった――
「……元気にしてますか」
まず頭に浮かんだのは完全で瀟洒なメイド長だ。ほとんど毎日無駄のないスケジュールを当たり前のようにこなしつつ、クールにあちこち指示を飛ばし、時折ユーモアも忘れない。ここ数年、紅魔館では一番世話になった人物だった。
次に出てきた顔は館の主だ。夜の王としてその名を轟かせるお嬢様も、実際には可愛いところがたくさんある女の子でもある。何度かお茶に誘われたし、今日もきっと、優雅にお茶を楽しんでいるだろう。
図書館長も思い出される。滅多に図書館から出てこない彼女も、たまに魔女たちが遊びに訪れたときは心なしか楽しそうだった。史書の小悪魔とも美鈴は結構仲が良かった。おそらく今このときも本の整理に追われているに違いない。
そして館で最狂のお嬢様。あの方との思い出は苦いものが多い気がするが――弾幕で殺されかけたりとか――いつかきっと、狂気のしがらみから開放されて自由な空の下を歩く日が来るだろう。
懐かしかった。
膝を抱えた姿勢で座り、見えない紅魔館を夢想する……何もかもが懐かしかった。
紅魔館を離れて一ヶ月あまり。望郷の思いは、美鈴の心を強く締め付ける。
「……元気にしてますか」
膝に顔を埋める。
そのとき自分が泣いていたのを、美鈴は認めたくなかった。こんなところで泣いていては、きっと新しい生き方など見つけることはできないと思ったから。
無人の湖畔、人知れず美鈴は泣いた。知る者は、本人を含めいないはずだった――。
「……それでも人は何かを崇拝してしまうんだよ。メイリン」
だが声は唐突に聞こえた。
思わず顔を上げ、背後を振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。見覚えがある……いや、忘れられそうもない。魔法の森の外れに建てられた店、香霖堂。その店主。
どうして――
言葉は声になる前に、彼女自身気づいていない感情にぶつかって霧散した。
店主は優しげに微笑む。それを見て、美鈴は自分が泣いていたことを思い出した。
「や、これはその、ちが……泣いてたんじゃないですよ。目にゴミが入って……な、泣いてなんか……」
声が震える。
店主はやれやれと肩をすくめると、すっと近づいて美鈴の手をとった。
「久しぶりだね。君が紅魔館を離れたと聞いてから、もうだいぶ経ったよ」
手を導いて、店主は美鈴に座るよう促した。彼もまた座る。
気恥ずかしさで死にそうになったが、美鈴は結局彼の隣の下草に腰掛けた。
奇妙な空気がそこにはあった……甘酸っぱいような、ほろ苦いような、いてもたってもいられなくなるような、だが決して不快ではない空気が。
「音沙汰もなかったし、一時は本気で君の身を案じたものさ。でも、またこうして会えてよかった」
「どうして……?」
「ん? 再会できて嬉しい、それが不思議かい?」
「そ、そうじゃなくて……どうして、私のことを?」
「私のことを」の次にはいろいろな意味があった。会いにきてくれたことや、心配してくれたことや、そもそも今こうして隣に座っていることや。とにかく疑問が沸いて出てくるようで落ち着かなかった。
それら全てが通じたかは分からない。だが店主はそんな杞憂をまったく無意味にするように微笑むと、空に向かって一言告げた。
「さぁてね……秘密にしておこうか」
彼は本当に、心から嬉しそうだった。
美鈴は彼に向かってずるいと言ってやろうかと思った。なぜかそう思わせるほど、安らかな顔だったから。
そんなことを考えられるような心の余裕がだんだん生まれてきて、美鈴は少し拗ねたようにほほを膨らませた。
「コウリンさん人が悪いです。いきなり背中から現れて脅かしておいて、思わせぶりなこと言った挙句に『秘密』なんてひどすぎませんか」
「ははは、いきなり驚かせたことはお詫びするよ。でもメイリンの姿が見えたから……いや、思わずね。許して欲しい」
店主は手を合わせて頭を下げてきた。美鈴も本気で怒っているわけではない。軽く彼女がふふと笑っただけで、彼は赦免された。
「……大変だったんですよー。あっちこっち歩いて回ったんです。いろんな人に知り合って、いろんな言葉を頂きました……私は独りで生きてるんじゃないって、たくさんの人に教えてもらいました」
「そうか……君は変わったね」
「そうですか?」
「そんな風に見える」
特に根拠がないだろうことははっきり分かったが、美鈴は少し嬉しくなった。
「……私がクビになったのは、知ってらっしゃるんですよね」
「ああ、十六夜さんに。……いろいろ、頑張ったんだね。やっぱり君は変わったよ」
今度の言葉は、どこか確信するような響きがあった。
「……なんでそう思います?」
「僕が聞いたとき、君はフラフラで死人みたいだったって。でも今の君は……何というか、内側に一本芯が通ってる感じかな」
店主は美鈴のことをきちんと見てくれていたらしい。彼の一言一言が心をくすぐるのを、彼女は心地よく感じていた。
「それで……君は……どうするか、決めたのかい?」
「それは、まだ……」
「そうか……そうか。……メイリン、僕はこんなことを言うべきではないのだと思う。それでも一つ、君に言わせてくれ」
口調に重要なものを感じ、美鈴は店主のほうへ振り向く。
彼は真剣な眼差しで美鈴を見つめ、静かにこう言った。
「君の居場所は、紅魔館にしかない。だから帰るんだ、君を迎えてくれる場所へ」
「…………」
予想外の言葉だった。いや、違うかもしれない。
この店主ならあるいは、彼女にそんな言葉を告げるかもしれないと、無数の可能性の中でそんな予感があった。
「……それ……無理ですよ。私、解雇されちゃいましたから」
力なく呟く。
「内情に立ち入るつもりはないけれど、話は聞かせてもらったよ。君がクビになった原因は幻想郷の外にあるのだろう。本来ならば連絡を取り合うことさえままならないような環境だ……現状では、君の解雇はほとんど外部の意思のみによるといっていい。つまり、今でも紅魔館の皆は、君の帰りを受け入れることができるんだよ」
その言葉は、確かに甘美で蠱惑的に聞こえた――
「……ねぇ、コウリンさん」
あごを膝に乗せ、今この言葉を誰に伝えたいのかさえ定かでないまま、思ったことをそのままポツリと呟いた。
小さすぎて聞こえないのではないかと一瞬後に危惧したが、店主は美鈴の方を向いたのが分かった。
何を言うべきか、それも定かではない。美鈴は考えることをやめ、思ったままを口にすることにした。
視線はずっと湖の向こう側に固定したまま、美鈴は語り始める。
「とんでもない昔の話です。海の向こう、大陸に昔住んでいた妖怪がいました。それはひどく強力で、とても恐れられ……数多くの災厄を大陸のいたるところにばら撒いてきました」
とつとつと語るその横で、店主に何か顕著な変化が見られることはなかった。
かまわずに美鈴は続ける。
「長いこと生き延び、大陸の闇をほとんど網羅し、たった一人で信じられないほど多くの悪行を重ねてきました。筆舌に尽くしがたい量の伝承が、それ一人によって生み出されたのです。全てが悪しき伝承です」
しゃべりながら、だんだん顔が埋まっていく。自然とうつむき、そのまま上げることはなかった。
「『中国の闇』『地上の狂気』『全四千総魔』『天魔の魔女』……いくつもの通り名が囁かれ、その妖怪は誰もが恐れる悪の化身にすらなりました」
いまさら……無駄なのかもしれない。誰かにこんなことをこぼしても。
「その妖怪の正体は吸血鬼です……大陸に古くから息づく呪いの種族、キョンシー」
誰かにこんなことをこぼしても、決して変わりはしないこともあるだろう。
「たとえ、封印したとしても……悪しき闇の力は決して変わりはしないんですよ。ずっと独りだった私は、紅魔館にきてから狂気に克つすべを知りました。それでも私は、多くの闇を生み出した十字架を背負って生きていかなければならないんです」
「紅魔館の住人が……そんな十字架を恐れるとでも思っているのかい」
店主は彼女の心を汲んでくれたようだった。嬉しいが、感情が現実の前に無力なときもある。
「いいえ、恐れはしないでしょう……でも、温かく迎えてくれますか」
実際には、それを知っているのはレミリアとフランドールだけだ。
だがそんなことは関係ない。美鈴が、彼らと力の狭間にどう生きるかである。
常に過去の呪いと戦い続けるという方法を、彼女は避けたいと感じた。
「どうですか、コウリンさん。それでも彼らは暖かく迎え入れてくれると言いますか。そして私は、そんな彼らに心からありがとうと言えますか……?」
店主はしばし無言だった。
それは、閉じた唇が乾いてくっつく程度の時間だったかもしれない。本当は短い時間を長いと錯覚しながら、美鈴は店主の言葉を待った。
「つまらない問いかけだと思うね、僕は」
店主の言葉は淡白だった。
顔を上げる気力もない。続く言葉の内容も半ば予感しながら、それでも美鈴は問い返した。
「なぜですか……?」
「勝ちの見えた賭けは、面白くもなんともないからさ」
店主の言葉は、最後まで淡白で、そして優しかった。
美鈴はなんと答えていいのか、しばらく分からなくなった。
疑問を際限なくぶつけることはできる――だがその疑問に意味はないのだ。この店主は、間違いなくたった一つの答えしか返さないに決まっているのだから。
そんな沈黙をついて、店主は美鈴に言った。
「どん底には光も届かないよ。這い上がろうと上を見ればいい……なにかあるだろう」
「なにかとは、なにが?」
安易な励ましは聞きたくなかったが、彼の言葉の奥に感じる強い力に、美鈴は聞き耳を立てていた。
それが意味のあるものなのだろうと、漠然とした希望と共に信じたいと思った。
「さあね、知らないよ。なにかあるだろう、なにか」
「そう思えるあなたは、単に幸せな人なんですよ……」
「そうか……そうかもな」
場の均衡を揺らしてはならないと考えたのかもしれない――店主は息を吸う音も隠して、ゆっくりと声を発した。
「そうだね、この世界には奇跡なんてない。神が実在するんだ。信じて祈ることなんてできやしない」
だが、長続きしなかった。完全に顔が隠れた美鈴に向かって、声が割れている。
「……だから、自分でしっかり考えないと……な。君が僕にそう言ったんだぞ。いや、言ってはいないか。だが、そう思わせたんだ」
手が差し伸べられるかと思った。しかし彼はそんなことはしない。
じっと店主の声を聞く美鈴に、ただ声で届かせるだけだった。
「だから、君が……泣くな。なにかあるんだ。奇跡はないかもしれないが、それと同じものが。じゃなけりゃ、誰も生きてなんていけるものか」
「…………」
泣いて……いるのか。美鈴はそのとき初めて涙の雫を感じた。店主には見えないはずなのに。
遠い世界を想像する。今いる場所から遥か彼方に、美鈴を笑いながら招いてくれる紅魔館の住人たちの姿があった。
それを思い浮かべてから、手を伸ばせば触れることもできるのではないかと、ひどく虫のいい希望がどこかに生まれた気がした。
「はい……」
「できるさ、きっと」
美鈴はごしごし涙をこすり、多少まともになった顔で店主に笑いかける。
店主はそんな彼女の腕を取り、立ち上がらせた。
「もし辛くなったら、そのときは香霖堂においで。今日も素敵な品揃えで、香霖堂はあなたのご来店をお待ちしています」
「……ふふ、いつかまたお邪魔します」
辛いことも、あるだろう。
悲しいこともきっと、あるに違いない。
それでも前に進む価値はあるのだ――店主はそれを説いてくれた。
「……本当は……」
店主は美鈴の手をとったまま、なにか言いたげに視線を落とした。
美鈴は彼の言葉を待ったが、顔を上げた彼の表情は語るべき言葉を捨てたことを教えてくれた。それでも何か深い葛藤の中にいたのか、その表情はかすかに寂しげでもあった。
美鈴はほんの少し、淡い期待を胸にふくらませてはいた。だが――これでいいのだ。これで。
店主はメイリンの背を押すと、自らは後ろに一歩下がった。
「さぁ、もう行くといい。君が幸せになれる場所は、きっと紅魔館にしかないから」
「……ありがとうございます」
振り向かず、言葉だけで最後の礼を述べる。
店主は無言で送り出してくれた。
地を蹴り、湖の上を、懐かしい紅魔館に向かって飛翔する。
「……また、お邪魔しますから!」
湖岸が遠くなったところで、美鈴は一度振り返ってそう叫んだ。
店主には確かに聞こえたろう――それは何の問題もなく理解できる。
そうして手を振る店主に見送られ、美鈴は紅魔館まで飛んで行った。
■ ● ■
「あ」
お嬢様がなにかポツリと呟いた。
完全で瀟洒な従者はお茶を注ぐ手を一瞬止め、ごてごてした機会を見つめるレミリアの姿を眺めた。
使い方は早期にマスターしたらしい。壊したわけではないだろう……
それだけ判断すると、咲夜は何事もなかったようにティーカップをレミリアの前に置いた。
それでも意識半分でお茶をとるレミリアを見て、咲夜はなんとなく訊いてみた。
「どうかされましたか?」
「ソリトンレーダーにね、反応があるの」
例の機械のことだ。咲夜も覗き込む。
確かに光点が一つ、画面上の紅魔館に向けて接近しつつあることが見て取れた。進路から見て、目的地が別のところということはあるまい。
「……念のため、失礼して門へ向かわせていただいてもよろしいでしょうか?」
美鈴がいなくなってから、面倒な妖怪がいくつかこの辺に出没するようになった。
追い払うのに苦労はしないが、手間はかさむ。
が、レミリアはふふと笑みを浮かべながら、それを否定した。
「門に行くのはいいけど、その前に人を集めたほうがいいかしらね。悪いけど咲夜、パチュリーを呼んで来てくれないかしら。できれば小悪魔も。私はフランドールを起こしに行ってくるわ」
「え……どういうことです?」
理解できずに訊き返す。
レミリアは楽しそうに微笑みながら、気軽に一言こう告げた。
「決まってるじゃない。採用面接よ」
■ ● ■
最後にこの風景を見たのは、もう一ヶ月以上前なのだと思い出す。
咲夜に見送られ、この門の向こう側へ旅立って行ったあの日――
無理に思いつめていた自分が、そのときの姿で紅魔館を去る様子が目に浮かぶようだった。
そうだな、変わった。
自分でもそう思う。
……これから大変だろう。一度クビにされた職場にもう一度戻ろうというのだから。
それでも美鈴は気負いせず、軽い足取りで正門前まで向かった。
と。
「遅かったわね。待ちくたびれたわ」
懐かしい声が聞こえた。
驚きと共にその方向を見やる。
その瞬間、彼女は何がなんだか理解できなくなった。
「なに固まってるのよ美鈴。聞いたでしょ、お嬢様がお待ちかねよ」
「……ど……」
どうして?
そこにいたのはレミリアだった。
その隣には咲夜がいる。
少し後ろ、やる気無げに突っ立って美鈴を見ているパチュリーがいた。苦笑しながらその背後に立つ小悪魔もいる。
反対側にはフランドールが頭の後ろで手を組んでいた。
そしてその後ろといわず、横といわず、前庭を埋めるように大量のメイドが美鈴を見ていた。彼女の知る、紅魔館内のほぼ全てのメイドが集まったのではないかとさえ思えた。
「どうして……」
「配下の考えることなんてお見通しじゃないと、優れた上司にはなれないのよ」
レミリアはいたずらっぽく美鈴にウィンクした。
どさりと腰が抜ける。
レミリアは咲夜に何事か呟くと、彼女は頷いて座り込んだ美鈴を引っ張り上げた。
いまいち足腰が立たないが、何とか立つ。
「さて」
咲夜は何か間合いを計るような、そんなもったいぶった仕草で一拍おいてから続けた。
「紅魔館では現在、一部人材が不足している部署があります。就職希望なら今から面接を行いますが?」
「は……はい!」
本当に……お見通しだったのか。
「あなた、名前は?」
「紅美鈴です!」
「ふぅむ、なるほど」
二度頷き、いきなりどこからともなく取り出した画板と紙とペンで何事かさらさら記録していく。
しばらく記帳し、ただそれだけで咲夜はレミリアのところへ戻っていった。紙が彼女に手渡される。
それを見てレミリアが楽しげに微笑んだ。
やり取りが理解できなかったが、咲夜はもう美鈴に何か言う気はないらしい。
「え、あの……終わりですか?」
「そう、一応終わり」
レミリアは本当に楽しそうにころころ笑うと、手にした紙を美鈴に示す。
「咲夜はね、帰ってきたときのあなたの顔を見ただけで、知りたいことは全部分かったって言ってるわ」
「…………」
「ただし」
咲夜はにやりと微笑みながら、手品のようにナイフを現す。
「紅魔館の正門を任せるに足る腕の持ち主か、試さなくてはいけないわね」
「……口ではこういってるけど、咲夜もあなたがどれだけ変わったか、確かめたがってるのよ」
「締まらなくなるようなことは言わないでください。お嬢様」
咲夜と美鈴を中心に、周囲からメイドたちが退避していく。
咲夜は本気でナイフを構えているようだ。
美鈴は咲夜を見据え、静かに頷いた。
美鈴もまた構える。彼女も同様に本気で相手をするつもりだった。おそらく、かつて経験した戦いの中でも特に苛烈な一戦となるだろう。
だがきっと――美鈴は戦いの結末を予覚できた。様な気がした。
何か明確な合図があったわけでもない。それでも二人は、お互い同時に踏み込んでいた。
「……いや、まったく」
吹きすさぶ風に身をゆだねながら、咲夜はそう言ったようだった。
彼女は体のいたるところに傷を追っている。が、どれも軽傷だ。行動不能に陥る傷とはわけが違う。
対して美鈴は、もはや誰がどう見てもボロボロだった。地に倒れ、動くことさえままならない痛みにあえいでいる。
それまで傍観に徹していたレミリアが美鈴に声をかけた。
「……どうしたの? かつて中国の闇とまで言われたあなたが、なぜ全力を出そうとしないの?」
そうだろう……古い力を利用すれば、少なくとも今このように無様な姿をさらすこともない。
だがそれは――違うのだ。
美鈴はそれを守りたかった。
「……古く、まだ私が自分のためだけに生きていた頃の力は、今の紅魔館には不要です。他者に触れ、守るべきものを守りたいと感じる心が、今の私にはあるから……自分のためだけの力は、もう二度と使うまいと心に決めました」
口がうまく動かないので、できるだけ簡潔に伝える。
本当はもっといろいろ、言いたいことがあった。
狂気に克つすべは、初めからそこにあった――
レミリアや咲夜や、パチュリーや小悪魔や、フランドールやメイドたちが言葉ではなく伝えてくれた。
旅の途中、言葉を交わした多くの人がそれを教えてくれた。
大切なことは、大抵シンプルだから。
守りたいものがあるから。
理由はそれだけでいいのだ。
たった……それだけで、いい。
「だから私は、守る力だけで戦うんです」
「……そんなくさい三文芝居のために身体を犠牲にするなんてね。付き合った私が道化みたく思えてきたわ」
咲夜はそんな、愚痴ともつかない何かをこぼした。美鈴はそれを暖かいと感じた。
美鈴はかすかに笑って応えた。咲夜もきっと笑っただろう……
「……あなたの言葉、しかと受け取ったわ。それでは結論ね。咲夜、どうかしら」
レミリアはギャラリー席(いつの間にか椅子が用意されていたのだ)を降り、咲夜のもとへと近づく。他の多くの観衆たちもぞろぞろと輪を縮めた。
咲夜は一瞬、お嬢様も分かりきったことを、と肩をすくめたようだった。
「採用」
それは本当に一瞬。当たり前のように、何の躊躇もなくその言葉は紅魔館の前庭に響き渡った。
そしてほんの少しの静寂。水を打ったような静けさが一呼吸だけ支配したかと思うと、次の瞬間。
「わー!」
と、その場にいる全員が歓声を上げた。
やはりやれやれと肩をすくめ、咲夜はその後を続ける。
「まぁ、あれだけ戦えれば門番としては十分だし。お嬢様、もし大旦那様からお咎めがありましたときは、私が責任を持ちます」
「なに言ってるの、この館で起きたことは全て私の責任よ」
レミリアは倒れたまま起き上がれない美鈴に手を貸した。それに倣って数人のメイドが美鈴を抱え上げる。
本当は、そのときの顔は誰かに見られたくなかったのだけれど。
「あらあら、みっともない顔しちゃって」
笑い事じゃないんですよ、お嬢様。
レミリアの後ろから、図書館組がやってきた。
「……結局戻ってきたのね、中国。大変だと思うけど、これからもよろしく」
「はい……よろしくお願いします」
「よかったですね、美鈴さん。また一緒にお茶でも飲みましょう」
「ええ、是非」
横からはフランドールが来た。
「中国久しぶりー」
「お久しぶりです、フランドール様」
「ねぇ、私もさ、中国みたくいつかは自分の力を制御できるようになる?」
「はい……いつか、必ず」
きっとその日が来るのは遠くない未来だろう。
その後もやいのやいのメイドたちから祝福を受けた。
なんだかもう、本当に、つまらないことで悩んでいたものだ。
店主の言うとおりだった、こんな賭け、勝つに決まっていたじゃないか。
皆はそのまま紅魔館へ向かっていく。途中でレミリアが、思い出したように振り向いた。
「そうそう、忘れてたわ」
咲夜が、パチュリーが、小悪魔が、フランドールが立ち止まる――
「ようこそ、そしてお帰りなさい、美鈴。我らが愛しの紅魔館へ」
大切なことは、大抵シンプルだから――
言葉は語るためのものではなく、伝えるためのものだから――
美鈴は満面の笑みで彼らに応えた。
いつまでも、自分の生きる理由を大切にしよう。自分は、そう……
決して一人で生きているのではないのだから。
■ ● ■
「中国、門番やってたわ。相変わらず暇そうだった」
「あら、それはよかったわ。結界の外に出さなくて正解ね」
「紫、ほんとは結構心配してたんでしょ? 他人に長々と講釈垂れるなんてほとんどしないもの」
「さて、そろそろ帰らないと藍に怒られるわ。それじゃあね」
■ ● ■
「妹紅……妹紅! いないのか」
「ここよ」
「あ。なぁ妹紅、お前は中国という妖怪を知っているか?」
「なにそれ?」
「大昔大陸で暴れまわっていた妖怪だ。だが今では気のいい善人の妖怪になっている。いいか妹紅、そうやって、かつては悪だったものがいずれ善き方向に変わってくるかもしれない、だからお前もだな――」
「うっさい慧音。キモイ」
■ ● ■
「ねぇ妖夢」
「はい?」
「あなたもいつか、年を経るごとに強力になって、いろいろと考えることが多くなると思うけど……」
「……なんですか急に」
「思うけど、そのときは独りで決めようなんて思っちゃダメよ。あなたには、私がついているのだからね」
「……よく分かりませんけど、私は幽々子様をお一人にはしませんよ。ご安心ください」
■ ● ■
「幸せそうだったな……」
店から去っていく赤毛を眺め、店主は寂しく呟いた。
お使いの用事だったらしい。クビになる前からも、彼女が一人で香霖堂にやって来ることはままあったが。
きっと自分が傍らにいるより、紅魔館にいたほうが彼女は幸せだろう。店主は自嘲気味に認めた。
「僕の春は遠そうだ」
肩などすくめ、次の客が来るまで彼は暇をもてあました。
■ ● ■
紅魔館はそんな毎日が平和だった。
「やっぱり平和が一番ね~……ぁふぅ……」
さざめきは静かで、瞳には雫の一つもない。それでも人は、彼女が泣いているというだろう。
人に触れることを避け、館の片隅で、あるいはその少女は嗚咽を漏らしたかもしれない。
全てを等しく包む、そんな哀愁の中、彼女はずっと泣いていた。
――門番がクビになった日。
紅美鈴は、泣いていた。
■ ● ■
「様子は?」
「凄まじい落ち込みようです。不用意に近づくと気が触れます」
「そう……」
紅魔館の主人とその従者が、遠い窓の向こうから正門を見やる。
何かその一帯だけ結界が施されているような、一種異様な空気に包まれているのが見えた。
主人は悲しげに愁眉をひそめる。
「丸一日経ったけど、変わらないわね」
「お嬢様の力添えで、何とか復職させることはできませんか?」
「……彼女、紅魔館に来たのは本当に昔の話だから……」
紅魔館が生まれた当時、すでにその頃の記憶を持つ者たちはほとんどが消え去った。
まだレミリアが文字通りの意味で幼かった頃のこと、この館は、彼女の父親の手によって作られたのだ。美鈴はそのときから、門番として紅魔館に仕えている。
先日、幻想郷の外で暮らしているその父親から手紙が送られてきた。
……レミリアは何かの手違いだと思ったが、そこには美鈴のクビを宣告する旨が書かれていた。
しかし、最古参の部類に入る彼女の人事権は、父親の掌中にあるようなものだ。逆らえるはずもない。
美鈴は一日経っても、暗澹とした空気をまといながら門の近くをうろついているようだった。直接姿が見えないので分からないが、なんとなく確信できる。
「このままでは病人の発生も時間の問題かと……」
「そこまでひどいとはね。ほっとくわけにもいかない……か」
レミリアは物憂げに頬杖をつき、実際より遠くを見る眼で門に視線を向けていた。
想い出に長い時間はかからない。一瞬だけ、彼女は現実より多くの時間を回想の中で感じた。
目を閉じ、背もたれに深く身を預ける。
最後の言葉は、思ったよりあっさり口を出たかもしれない。
「さようなら、かしらね……それとも……」
なぜならきっと、これから待ち受ける運命がどうなるのか、それを予期できたから。
そして主人は、従者に部外者の排除を命じた。
■ ● ■
そこは静かだった。天を突く怒号、胸が張り裂けるような慟哭、あるいは耳をつんざく悲鳴――そんなものを予想していたわけではない。だがメイド長が考えていた以上に、そこは静かだった。異様だとさえ感じられる。
物理的な静寂とは違う……咲夜は理解した。心に呼びかけるような沈黙。精神が口を閉ざすのだ。
門をくぐると、すぐそこの塀を背に美鈴が座り込んでいた。
ずいぶん真っ白になったように見える。精気の感じられない表情で、虚ろに宙を見上げて笑っていた。笑っていたが、見た瞬間彼女が泣いているように思えた。
彼女の隣には、何かごてごてしい機械が置かれている。
とりあえず悲惨なことになっている美鈴を直視しないように、咲夜は奇妙な機械を指さした。
「……これは?」
「以前から製作していた、門番用の索敵装置ですよー……近くに人間か妖怪が来ると、この画面に場所とおよその視界が表示されるんですー……」
「……あ、あなた大丈夫?」
「えへへ、とりあえずソリトンレーダーと名付けましたー……。クビになっちゃいましたけど、これだけは完成させておこうと思ってー……」
死人じみた動きで立ち上がり、ソリトンレーダーとやらを咲夜に押し付ける美鈴。
かなり危険なものを感じた咲夜は、美鈴の両肩を強くつかんでがくがくと揺さぶった。
逼迫した勢いにまかせて叫ぶ。
「美鈴! 正気に戻って! くじけちゃダメよ、あなたならできる!」
「う……」
美鈴の瞳に少しずつ光が差し込んでくる。
「私は……あぁ……クビに……はは」
「だめだってば美鈴!」
「あぁぁ……私は……うぅ……うぅぅ……さ、咲夜さん……うぅ……」
徐々に心を取り戻してきたのか、さめざめと涙を流す美鈴。
メイド長はそんな美鈴の肩を抱き、しばらく落ち着くまで遠く彼方を眺めていた。
二人が特別親しかったとか、そういうことはない……さして長くない記憶を振り返ってみて、この赤毛の門番が館を去るということがどれほどの意味を持つのか、不意にぽっかりしたわだかまりが胸に生まれたような気がした。
それでも――
美鈴はやがて顔を上げた。
「……もう大丈夫です……すいません」
「無理はするものじゃないわ。辛かったら白状したほうがいいわよ」
「いえ……大丈夫です」
実際にはすがりつくものが欲しかったが、美鈴は自分を叱咤して咲夜から離れた。
今日はやけに紅魔館との距離が遠く感じる。目の前にいるはずの咲夜も、見えない幕で覆われているかのように現実感がない。今手をのばしても、咲夜に触れることはできないのではないか――彼女の心は、そんな錯覚さえ感じた。
「……もう行きます」
「そう……寂しくなるわね」
咲夜は、風の吹く方向を悲しげに眺めていた。美鈴もそれを追う。
万感の思いが胸中をよぎったが、今それを口にすることは正しくはなかろう……語らずとも、生きて伝えることはできる。彼女の言葉を必要としていて、探している者ならば、彼女が語って聞かせなくともいつか必ず見つけてくれるだろう。それで良い。
美鈴はくるりと背中を向けると、迷いを振り切って歩き出した。後ろ姿で咲夜に手を振ってみせる。
「それでも言わないといけませんね。さようならです」
「さよう……なら」
別れの挨拶をかわし、彼女は去った。
そして。
■ ● ■
幻想郷の外れに、博麗神社がある。
結界の境界線上に建てられているらしいが、美鈴は詳しいことは知らない。興味ない。
おそらく二度と、ここに来ることもないだろうから――
見渡してみたが、目につく範囲に巫女はいなかった。気配を頼りに探ってみると、裏のほうで二人、何か談話でもしているようだった。
回ってみる。
ふと、レミリアや咲夜はこの神社によく足を運んでいたらしいことを思い出した。大して意味はない。想い出は、綺麗な結晶になるまできっと心に突き刺さるものなのだろう。
裏庭では巫女ともう一人、スキマを操る大妖怪がお茶を飲んでいた。
ちょうどいい、二人とも博麗大結界の管理人みたいなものだ。
「こんにちは」
声をかける。
言葉の始めが、巫女の言った「胡散臭いのよ」にかぶさったが、二人とも美鈴に気づいて向き直った。
なんとなく、気後れのようなものを感じた。
「……今日は、頼みがあってきました」
「何?」
その先を続けることに、ひどく躊躇を感じたのは確かだ。
だがそれが今の自分にとって最善であると、一日かけてたどり着いた結論を彼女は信じた。
「――幻想郷の外に出して欲しいんです」
二人の動きがわずかに固まる。
しばらく、鳥のさえずりだけが耳に残った。視線を外すタイミングを逸し、美鈴はその間呆けた顔の二人を見つめるしかなかったが。
先に口を開いたのは大妖怪だった。
「……それは、あれかしら。わがままな吸血鬼の命令?」
「いいえ。昨日、私は紅魔館をクビになりました」
二人はほとんど驚いた様子もない。むしろ外に出たいという理由が納得できたらしく、かすかに頷いてすらいる。
美鈴は一抹の悲しさを覚えないでもなかった。
「……私には身を寄せられる場所がありません。幻想郷を出て、故郷の大陸を適当に回りたいと思います」
「そんなひどいことしたの? クビになるような?」
どう説明していいものか、一瞬頭の中で言葉を選んでいたが。
「そんなのはどうでもいいわ。どっちにしても、私の答えは変わらないもの」
それより先に大妖怪が美鈴を制した。
つまらなさそうに、大妖怪は椅子に座りなおした。つまらなさそうに――しどけなく背もたれに片腕を回すその姿は、見るからに大儀そうだった。彼女が本当にどうでもいいと考えていることは、その仕草だけで知れた。
言外に、無駄なことにつき合わせるな、とこぼしているようだ。
思わずむっとしながら、美鈴は大妖怪の隣を歩き去る。
「それはありがとうございます。私はもうきっと幻想郷に戻ってこないですから、結界はすぐに閉めていいですよ――」
「誰が通すなんて言ったのかしら?」
今度は美鈴が動きを止めた。
わけの分からない顔になりながら、背後の大妖怪を振り向く。すでに彼女は美鈴に意味深な笑みを向けていた。
「……通してくれないのなら、勝手に通らせてもらいます」
「できるかしらね。ふふ」
謎の笑いは無視し、幻想郷の外へ歩き出す。ここから先は森の中にポツンと作られた道があるだけだ。
後ろで、巫女が胡散臭げに大妖怪へ何か話しかけるのが聞こえた。美鈴は未練に似たものを一瞬感じたが、最後にはそれも無視した。
しばらく歩くと開けた場所に出た。
思わず足を止める――何か感慨深いものが胸をよぎった。
深く息を吸う。それを胸にとどめたまま、一度目を閉じて自らの足跡を辿った。
様々な想い出をここに残していくことにしよう。ここから先は幻想郷の外。今まで感じてきた多くの出来事は、きっと心に楔を――
「はぁい」
目を開けると、大妖怪が手を振っていた。
対面では、巫女がやる気無げにテーブルに突っ伏して手だけ上げている。
「…………」
だっ。
美鈴は急回転すると、もう一度幻想郷の外に向かって走り出した。
「はぁい」
「…………」
今度はもう、戻る気になれなかった。
「……出してくれる気は、ないんですか」
「とても無理ね。中国全史の暗部として恐れられたあなたを、野放しにするなんてできるわけないわ」
「…………」
昔の話を。
「いまさら無差別に暴れまわって、人をとって食べようとかそんな気にはなれません」
「私はあなたの身を心配してるのよ。外の世界は危険よ……あなたには理解できないでしょうけど、人間は全ての地図の空白を埋めてしまったから。出て行ったらすぐにでも殺されてしまうかもしれないわね」
巫女は突っ伏したまま寝たらしく、大妖怪の話を聞いても全く反応がなかった。
特に何を意識したわけでもなかったが、美鈴は鳥かごから逃げ出した小鳥が即座に野獣の餌になる光景を想像した。
小鳥はきっと……都合のよいものだけが大空にあると考えるのだろう。
「……私が行くあてなんて、本当にないんですよ」
さびしげに美鈴は告げたが、大妖怪は当たり前のようにそれを否定した。
「あなたがそう決めてたとしても、『ここ』はそんな不当な決めつけをしないわ。なぜならここは幻想が今も息づく郷、幻想郷だからよ……あなたが勘違いしているだけで、幻想のスキマはたくさんの不条理を引き受けてくれるの」
自分の台詞に満足したのか、大妖怪は傘をくるくる回してにこりと笑った。
その笑顔を見ると、一日かけて悩んだ結論がひどく愚かなものだったとこき下ろされているような気分になる。
だが不思議と、悪い気はしない。
「いいかしら、美鈴。これからは、修行を積んだ魔法使いが悪い竜を倒したり。腕っぷしの強い剣士が剣一本で国王になるような時代じゃないわ。それで事が収まるような単純な世の中ではなくなりつつあるの。これからは一人一人が自分の持つ才能を役立て、それぞれの暮らす場所で、みんなのためになるよう頑張る。そうでなくてはいけないのよ。そのためには伝説の英雄などというものは邪魔なだけよ。これからは、大地に根を下ろした力こそが必要なの。幻想の心のようにね」
幻想の心のように……
それまで寝ていたように見えた巫女が突然首をもたげ、美鈴に向き直った。
「今までいてもいなくてもいいかなって思ってたけど、やっぱりいいなくなったらきっと寂しくなるわね。幻想郷から誰か一人減っても、同じこと言うでしょうけど。だから、いなくなるよりはいてくれたほうがいいわ、私は」
「全く同感ね」
巫女はまたこてっと無表情にテーブルに倒れながら、大妖怪はくすくす笑いながらそう言ってきた。
けなされているのか、ほめられているのか……一瞬理解できなかったが。
やがて、そういった感情とは無関係な話を彼女はしたのだと気づいた。何だ、はっきり言ったではないか。
いなくなるよりはいてくれたほうがいい、と。
美鈴は思わず笑いたくなった。
「……ありがとうございます。私、幻想郷の中で自分の生きる理由を見つけられそうな気がします」
「ひとまず応援しておくわ。第一、あなたがいなくなるとシナリオが狂うのよね、私は別にいいけれど。そこのとこ分かってるのかしら、彼」
「意味分かんないけど、私も応援だけはしとくわ。再就職できるといいわね」
そんな声に見送られ、美鈴は博麗神社を後にすることにした。
去り際、背中に届いた大妖怪の声が、ひどく耳に残った。
「頑丈で鋭い剣だけが良い剣ではないわ。時には刃がこぼれ、すぐにも折れそうな剣が最良の名剣となることもある。幻想の世も、かくあらん」
■ ● ■
美鈴は幻想郷のあちこちを歩いて回ることにした。
あてなどない。それでもきっと、いつか生きる理由の見つかる日が来るだろう。
しばらく方々に赴き、ふとある竹林に立ち寄った。
静かな妖気が感じられる……きっと長い年月をかけて成長した、いずれも大きな力を秘めた竹ばかりなのだろう。
なんとなく故郷の大陸奥地を思い出す。人知れずこんな場所にひそみ、たまに人里に降りては悪行を繰り返したものだ。
今となっては古い記憶だが。
この辺りに寝床を構えるのも悪くないかもしれないな――そんな風に思いながら、美鈴は竹林の奥のほうへ歩いていった。
妖気はときどき逆巻いて、美鈴の行く手を惑わしたり誘ったり、あるいは導いたりして彼女を歓迎していた。
やがて、美鈴は気配を一つ感じた。
そんじょそこらの雑魚妖怪ではないだろう。足を止め、出方を窺う。
竹林の合間から、人影が飛んできた。
「……ん?」
やってきた少女は、美鈴を見てちょっと首をひねった。
青い帽子と青い服に身を包んだ少女だった。どことなく知的な雰囲気を感じる。
少女はしばし、思考を吟味するようにあごに手を添えてから呟いた。
「……いや……お前、妖怪だろう?」
「そうですけど」
「お前の歴史からはずいぶんと禍々しいものを感じるな……だがそれほど凶悪には見えないのだが」
なんかちょっとひどいことをいわれているような気もしたが、とりあえず反駁することはやめた。
「今は自分から人に危害を加えたりはしませんよ。昔は……まぁ、幻想郷に来る前の話です」
「そうか」
少女は美鈴の近くまで来ると、ある程度間合いをあけて美鈴を観察したようだった。
何かしらの結論が出たのだろう。少女は最後に美鈴の目を見つめた。
「私の名前は上白沢慧音という。よかったらその話とやらを聞かせてくれないか」
「話ですか……? なぜ?」
「お前からは、人間を襲った歴史が感じられるからな。念のためだ」
「…………」
少女に悪意らしき悪意は感じられなかった。
彼女の言から察すると、どうやら人間を保護する立場にあるらしい。
その頃にはすでに、美鈴の嗅覚は慧音がただの人間でないことを見破っていた。
……鼻でかいで分かったわけではない、念のため。
「分かりました。私の名前は紅美鈴です」
慧音は頷くと、美鈴を別の場所に案内した。
岩の切れ端から、幻想郷がはるか遠くまで見渡せる。
慧音と美鈴は竹林を離れ、ちょっとした高台になっている岩場に来ていた。
ここでは人の耳もないのだろう。わざわざ場所を変えたということはそれなりに気をつかっているということか、それともいざというときは遠慮する気がないということか。
「ここからはいろんな場所がよく見えるだろう」
「ええ……」
幸い、紅魔館は死角になっている。
慧音は美鈴の前に立つと、遠く、米粒くらいにしか見えない場所を指した。なんとなく影形から、それが人里らしいことがおぼろげに感じられる。
「あの里はな、一週間ほど前赤ん坊が生まれたばかりなのだ。玉のような女児だった。両親は若い夫婦だが、今は幸せの只中にいるだろう。これからの営みは艱難に満ちたものだろうが、それを分かっていてながら生きる希望にしたいと、彼らは我が子の誕生を心から祝福しているようだ」
「……別に、私はその子をとって食ったりとか、そんなひどいことはしないって言ったじゃないですか」
「どうかな? お前の歴史は、口で言えるほどぬるいものではあるまい……」
慧音は鋭く美鈴を睨んだ。反論する言葉をなくし、所在なげに視線を逃がす美鈴。
まだ大陸を放浪しているときは――結構当たり前に人里に下りて、人を食ったり人家を破壊したり。
そう、赤子を丸呑みにしたこともあった。
「……昔の話ですよ」
「本当か?」
「ええ」
狂気に克つことはできる。
そのための手段が初めから自分の隣にあったことを、美鈴は紅魔館にきてから知った。
「……お前は不思議な妖怪だな。これほど歴史と見た目がかみ合わない妖怪も珍しい」
「一応、褒めてもらってるんだと解釈することにします」
「最大限の賛辞だよ。かつては、誰と共に歩くこともなく、たった一人で闇に蝕まれていたのだろう?」
そんな時代も、確かにあった。
広い大陸に自分はたった一人ぽっちなのだと、そうとしか考えられない時期が、確かにあった。
思い起こしてみれば……変わったものだ。誰にともなく苦笑する。
「よく分かりますね」
「私は知識と歴史の半獣だからな。お前のことは気に入ったよ」
笑いながら近くの岩に腰掛ける慧音。可憐な見た目にふさわしい花のような笑みだった。なんとなく、普段の表情が硬いのでこんな顔になるとちょっと意外だ。
美鈴も同じく微笑みながら、手ごろな岩に背を預ける。
「事情はなんとなく分かった。しかし忠告するが、あの竹林は危険だぞ。月の民の館があるし、時々不老不死の二人が殺し合いを繰り広げるなどするでな」
「……なんか聞くからにすごそうですね」
「まったく、モコウにはもう少し自重して欲しいものだが、長生きの連中は頭が固いのだ……お前もやはり固いのか?」
モコウというのが誰を指すのか分からなかったが、美鈴は笑って手振りで否定した。
「私の周りの環境も結構大変ですから、臨機応変に対処しないとやってられませんよ」
「そうか……うむ……今、なんかすごそうな歴史を感じた。お前も苦労してるのだな」
いきなりクビにされては、考え方を改めざるを得まい。
美鈴はごまかすように笑って、もう一度遠くの幻想郷を眺めた。
「……私はしばらく、この幻想郷のどこかをさすらうつもりです」
「ひとところに腰を落ち着けはしないのか?」
「それを探すために、旅をしているんですよ」
分かるだろうか。唐突に不安が頭をよぎる。生きる理由を理解できる日が、いつか見つかるとは限らない。
「……悩むときもあるだろう。だが……これは、そうだな、友人からの助言程度に受け取って欲しい。聞いてくれ」
慧音は咳払いを一つついて美鈴に向かい合った。
「信じるものが消えたとき、巣立ちを迎えた者は夜明け前の暗がりに迷ってしまうかもしれない。道を照らすのはただひとつ。胸の奥で輝く、朱紅い雫。たとえ小さな雫でも想いと想いを重ねれば……奇跡を起こす流れとなる」
急に照れくさくなったのか、慧音はぶっきらぼうに顔を背けて腕組みなどした。その仕草が可愛くて、美鈴は思わず笑ってしまう。
慧音はちらりと美鈴を横目で見ると、投げやりな態度になりながら、それでも口調は真摯に続けた。
「……心が持つ、熱い思い……命の雫……一つ一つは小さくても……響きあえば、波紋は大きくなる……」
彼女は最後に手をぐるぐると振り、それをもって言葉の締めくくりとした。どうやら恥ずかしくなってごまかそうとしたらしい。
言葉は、その程度の短いものでしかない。だが美鈴はそれが何物にも変えがたいのだと知っている。
それこそ、胸の奥で熱く輝く朱紅い雫が波紋を広げるように。
一通り腕を振って無意味だと悟ったのだろう、慧音はくるりと振り向いて告げた。
「まぁ、つまり、その、何だ……自分を信じろ、辛くなったら他人を頼れ」
「それはちょっと略しすぎちゃって、さっきの感動が台無しですよ」
もちろん台無しになることなどない。彼女はこんなにもまじめに聞かせてくれたのだから。
慧音はほんのり顔を紅くしながら、再び腕を組んでそっぽを向いた。
美鈴は自然と笑った――いい友達ができたような気分だった。
「じゃあ、私はもう行きますね」
「行くのか」
「ええ」
「そうか……お前とはいつか、また会いたいものだな」
慧音がすっと右手を差し出してくる。美鈴は笑顔でそれに応え、右手を握った。
「……きっとまたいつか、会えますよ」
そう言って、美鈴は慧音と別れた。
■ ● ■
それからまたしばらくの間、行き先のない旅は続いた。
幻想郷は広く、時には暗がりに迷ったこともあった。
それでも美鈴が旅を続けられたのは……いや、彼女自身、その理由を答えることはできないかもしれない。
それでいいのだろうと、美鈴は信じていた。
旅の途中、結界を乗り越え、美鈴は特に変わった場所にやってきた。
長い長い階段の向こうに、人ではない人の気配を感じる。
そこは冥界だった。
冥界に自分の居場所が作れるとは思えなかったが、美鈴は何かに誘われ、白玉楼の長い石段を登り始める。
しばしして、上方からものすごい勢いですっ飛んでくる人影があった。
「何奴!」
双剣を振りかざして美鈴に対峙するその少女には見覚えがあった。巨大な人魂を従えた銀髪の剣士――
「どうも、妖夢さん」
「……あ? 中国さん?」
この凄腕の剣士とは、何かの因縁で昔一度対決していた。妙なものでなぜ対決になったのか今でも思い出せない。最萌だとか、トーナメントだとか……頭に浮かぶのはおぼろげな単語だけだ。
美鈴から白玉楼を訪ねるとは思っていなかったのだろう。下がった構えの向こうに気の抜けた表情が見える。
「どうしてこちらに? 門番は……あっ」
口を押さえて数歩下がる妖夢。紅魔館をクビにされたことは知っているようだが、そんな風にあからさまに気を使われると逆にげんなりする美鈴だった。
「……知ってるならいいですよ。気にしないでください」
「……すいません」
さすがにあれから何週間か経過しているし、噂が広まるのは覚悟していたが。
妖夢はすまなそうに美鈴に頭を下げると、剣を収めて美鈴と共に白玉楼の階段を登り始めた。
「風の噂で……その……だと聞きました。幻想郷の外に出たとか、入水自殺したとかいろいろ言われていたので、心配していたのですが……」
「……そうですか」
そんな風に言われていたのか……妖夢には分からないように気落ちする美鈴。
「白玉楼へは、どうして?」
「いえ、解雇されてから、いろいろな場所を歩いて回って新しい生き方を探していたんですよ」
「へぇ、それは……」
そんな風な世間話ともつかない会話をしていると、また上から人影が接近してきた。今度はひどくのんびりだ。
「あー。やっときたのねー。いつまで待っても来ないから正直心配してたわ」
白玉楼の主人、幽々子だった。
口ぶりから一瞬妖夢に言っているのかと考えたが、よく見ると美鈴のほうを向いている。
「……? 何の話ですか?」
理解できないので訊きかえす。だが幽々子はその返事のほうが理解できないようで、小首をかしげて美鈴を上から下まで見回した。
「だってあなた、自殺したからここにやってきたんじゃないの?」
「違います!」
「そうよねぇ。自殺者がまず行くのはここじゃないし……」
「幽々子様、そんな風にからかうと中国さんに悪いですよ」
「あなたのほうが、よほどひどいことを平然と言っている気もするけど……」
「?」
疑問符を浮かべる妖夢。もはやなんと呼ばれようが慣れているので美鈴は訂正する気も起きない。
三人は白玉楼の長い石段を登り始める。
「話は聞いてるわ。いきなりクビになったんですってね」
「…………」
「幽々子様……」
「でも、意外に落ち込んでるわけじゃなさそうね。さすがだわ」
「いえ……その、私も一人ぼっちじゃないっていうことを教えてくれた人がいましたから」
霊夢も紫も慧音も、彼女らが言ったのは本当はなんでもないような言葉なのかもしれない。だが美鈴には、そんななんでもなさがとても大切に思えた。
「まぁ、残念だけどうちはこれ以上門番は雇えないわ。あ、でも妖夢より有能だったら雇ってあげてもいいかも」
「幽々子様ぁー……」
情けない声を出しつつ幽々子にすがりつく妖夢。それを笑いながら扇子で撃墜する幽々子。
良い主従だ。美鈴は素直にそう感じた。まるで共通点はないように思えるが、一瞬レミリアと咲夜を連想する。
……どうしているだろうか。
「結構、あっちこっちを歩いてきたそうね」
「え? ……なぜそれを?」
「まぁ、私もこれで顔が広いから」
あえなく墜落した妖夢は気にしないのか、扇子で口元を隠し横から美鈴に接近する幽々子。
美鈴はなんとなく幽々子と間合いを取り、妖夢の落下地点に向かった。
「大変だったでしょう……悪魔は幻想郷中で嫌われてるから、それに仕えていたあなたの評判もいいものではなかったわ」
「…………」
そうなのだ。
美鈴への風当たりは、弱いものではなかった。
旅の途中、行き先によっては敵意むき出しで追い返されたこともあった。
「それでも中途で心を折らなかったのは……なぜ?」
「……私は答える言葉を持ちません」
美鈴はうめきながら頭を抑える妖夢の隣に立った。大した怪我ではなさそうだ。
「言葉は、語るためのものではなく、伝えるためのものですから……私はきっと、多くの人に支えられて生きているのだと思います」
それがたとえば紅魔館の住人たちであったり、霊夢や紫であったり、慧音であったり、目の前の妖夢や幽々子であったりするのだ。あるいは想い出の中、記憶の中の人々さえ今も何かを伝えているのかもしれない。
大切なことは、大抵シンプルだから。
だから今まで、挫けることがなかった。
「……強いのね……大陸にいた頃も、そんなに強かったの?」
「……なんで知ってるんですか」
「あなたほど長生きじゃないけど、私もこれで顔が広いから」
美鈴はちらりと背後の幽々子を確認しながら、彼女に対する評価を少し変えた。得体の知れなさでは大妖怪に次いで二位に昇格する。
「……中国さん、大陸が何ですって?」
「昔は大陸にいたんですよ。幻想郷ができる前の話ですけど……」
中国という呼び名は、その頃からあった。
意味は「中国全史の暗部」、「中国の闇」……あまり愉快な記憶ではない。
「幻想郷ができる前から……生きてたんですか?」
「ええ、昔の力は封印しましたから、実質的には大して長生きしていないことになるのですけど」
妖夢にとっては驚きだったのだろう。目をぱちくりして美鈴を見ている。
幽々子が近づいてきて、美鈴の背後で声をかけてきた。
「あなたとこうして話す機会はなかったから、いろいろ聞けて楽しかったわ。残念だけどこれ以上白玉楼には登らないでね。あなたの血は、死人の色がだいぶ濃いから、混乱してしまうわ」
「はい」
素直に従う。妖夢はちょっと状況についていけていないようだったが。
「……これからあなたは、どこに行くの?」
「まだ、当てもない旅の途中です。いずれ、新しく生きる理由を見つけるまで、この旅を続けようと思います」
「そう……そうね……」
幽々子は物憂げに遠方を眺めた。目を細め、何かを考えてるのかもしれない。
しばしして、幽々子はやんわりと微笑みながら美鈴にこう言った。
「あなたがどんな選択をしたとしても、ことの本質は変わりない。それぞれの心に希望の種があればこそ、本当の答えを導き出せるのです。誰かが、一方的に答えを出すなんてことはなにがあっても、あってはならないのです。無論、その場に居合わせるのは今のあなたのように、辛く、苦しいこともあります。悩めばいい。とことん悩めばいい。ですが。立ち向かうことができるのも、その場にいる者だけに許された特権だとわかっているはずです。約束された未来など、どこにもないのですから。悩んだ積み重ねが歴史になり、それに見合う未来をもたらしてくれるのです」
普段とは違う、威厳に満ちた立ち居振る舞いだった。
美鈴は静かに目を伏せ、敬意を持って幽々子に一礼した。
ほんの少し当主らしきことをしただけで肩がこったのか、幽々子はくいくいと首と肩を回して表情を崩す。
「ああは言ったけど、気楽やるのが一番よ。でも本当に大切なことは、ちゃんと考え抜いてから決めるのね」
ありがたい言葉だった。
やはり、多くの支えがあって初めて、自分という存在が成り立ちえるのだろうと美鈴は感じた。
「行かれるのですか、中国さん……」
「ええ、きっとまたいつかお邪魔します。ありがたい訓示をいただきに」
「勘弁してちょうだい。あんな疲れることはもうこりごりだわ」
幽々子が笑いながらそう言った。
妖夢も美鈴の前に向き直って、別れの言葉を告げてくる。
「口下手なので、あまり多くを言葉にすることはできませんが――」
「あら、分かってるじゃない」
「茶化すのは後にしてください、幽々子様。その……自らを奮い立たせる勇気、己の過ちを認められる心。これらを兼ね備えてはじめて見出せる希望が、あなたの胸の内にもあるはずです。希望の光は色あせることなく、時代と共に紡がれていくのですから。だからきっと……諦めないでください」
「ええ……ありがとう」
美鈴は二人に向かって頭を垂れると、それまで登ってきた階段を静かに降り始めた。
背後には、美鈴を見送ってくれる二人の気配が、いつまでもそこにあった。
■ ● ■
風の吹くままに続く美鈴の旅は、まだ終わる気配がない。
結局その後、幻想郷をぐるりと一周して、最後まで足を運ぶのを渋っていた場所までやってきた。
そこは綺麗な湖畔だった……湖の反対側は見えない。そんな巨大な湖の湖畔だった。
懐かしい場所だった――
「……元気にしてますか」
まず頭に浮かんだのは完全で瀟洒なメイド長だ。ほとんど毎日無駄のないスケジュールを当たり前のようにこなしつつ、クールにあちこち指示を飛ばし、時折ユーモアも忘れない。ここ数年、紅魔館では一番世話になった人物だった。
次に出てきた顔は館の主だ。夜の王としてその名を轟かせるお嬢様も、実際には可愛いところがたくさんある女の子でもある。何度かお茶に誘われたし、今日もきっと、優雅にお茶を楽しんでいるだろう。
図書館長も思い出される。滅多に図書館から出てこない彼女も、たまに魔女たちが遊びに訪れたときは心なしか楽しそうだった。史書の小悪魔とも美鈴は結構仲が良かった。おそらく今このときも本の整理に追われているに違いない。
そして館で最狂のお嬢様。あの方との思い出は苦いものが多い気がするが――弾幕で殺されかけたりとか――いつかきっと、狂気のしがらみから開放されて自由な空の下を歩く日が来るだろう。
懐かしかった。
膝を抱えた姿勢で座り、見えない紅魔館を夢想する……何もかもが懐かしかった。
紅魔館を離れて一ヶ月あまり。望郷の思いは、美鈴の心を強く締め付ける。
「……元気にしてますか」
膝に顔を埋める。
そのとき自分が泣いていたのを、美鈴は認めたくなかった。こんなところで泣いていては、きっと新しい生き方など見つけることはできないと思ったから。
無人の湖畔、人知れず美鈴は泣いた。知る者は、本人を含めいないはずだった――。
「……それでも人は何かを崇拝してしまうんだよ。メイリン」
だが声は唐突に聞こえた。
思わず顔を上げ、背後を振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。見覚えがある……いや、忘れられそうもない。魔法の森の外れに建てられた店、香霖堂。その店主。
どうして――
言葉は声になる前に、彼女自身気づいていない感情にぶつかって霧散した。
店主は優しげに微笑む。それを見て、美鈴は自分が泣いていたことを思い出した。
「や、これはその、ちが……泣いてたんじゃないですよ。目にゴミが入って……な、泣いてなんか……」
声が震える。
店主はやれやれと肩をすくめると、すっと近づいて美鈴の手をとった。
「久しぶりだね。君が紅魔館を離れたと聞いてから、もうだいぶ経ったよ」
手を導いて、店主は美鈴に座るよう促した。彼もまた座る。
気恥ずかしさで死にそうになったが、美鈴は結局彼の隣の下草に腰掛けた。
奇妙な空気がそこにはあった……甘酸っぱいような、ほろ苦いような、いてもたってもいられなくなるような、だが決して不快ではない空気が。
「音沙汰もなかったし、一時は本気で君の身を案じたものさ。でも、またこうして会えてよかった」
「どうして……?」
「ん? 再会できて嬉しい、それが不思議かい?」
「そ、そうじゃなくて……どうして、私のことを?」
「私のことを」の次にはいろいろな意味があった。会いにきてくれたことや、心配してくれたことや、そもそも今こうして隣に座っていることや。とにかく疑問が沸いて出てくるようで落ち着かなかった。
それら全てが通じたかは分からない。だが店主はそんな杞憂をまったく無意味にするように微笑むと、空に向かって一言告げた。
「さぁてね……秘密にしておこうか」
彼は本当に、心から嬉しそうだった。
美鈴は彼に向かってずるいと言ってやろうかと思った。なぜかそう思わせるほど、安らかな顔だったから。
そんなことを考えられるような心の余裕がだんだん生まれてきて、美鈴は少し拗ねたようにほほを膨らませた。
「コウリンさん人が悪いです。いきなり背中から現れて脅かしておいて、思わせぶりなこと言った挙句に『秘密』なんてひどすぎませんか」
「ははは、いきなり驚かせたことはお詫びするよ。でもメイリンの姿が見えたから……いや、思わずね。許して欲しい」
店主は手を合わせて頭を下げてきた。美鈴も本気で怒っているわけではない。軽く彼女がふふと笑っただけで、彼は赦免された。
「……大変だったんですよー。あっちこっち歩いて回ったんです。いろんな人に知り合って、いろんな言葉を頂きました……私は独りで生きてるんじゃないって、たくさんの人に教えてもらいました」
「そうか……君は変わったね」
「そうですか?」
「そんな風に見える」
特に根拠がないだろうことははっきり分かったが、美鈴は少し嬉しくなった。
「……私がクビになったのは、知ってらっしゃるんですよね」
「ああ、十六夜さんに。……いろいろ、頑張ったんだね。やっぱり君は変わったよ」
今度の言葉は、どこか確信するような響きがあった。
「……なんでそう思います?」
「僕が聞いたとき、君はフラフラで死人みたいだったって。でも今の君は……何というか、内側に一本芯が通ってる感じかな」
店主は美鈴のことをきちんと見てくれていたらしい。彼の一言一言が心をくすぐるのを、彼女は心地よく感じていた。
「それで……君は……どうするか、決めたのかい?」
「それは、まだ……」
「そうか……そうか。……メイリン、僕はこんなことを言うべきではないのだと思う。それでも一つ、君に言わせてくれ」
口調に重要なものを感じ、美鈴は店主のほうへ振り向く。
彼は真剣な眼差しで美鈴を見つめ、静かにこう言った。
「君の居場所は、紅魔館にしかない。だから帰るんだ、君を迎えてくれる場所へ」
「…………」
予想外の言葉だった。いや、違うかもしれない。
この店主ならあるいは、彼女にそんな言葉を告げるかもしれないと、無数の可能性の中でそんな予感があった。
「……それ……無理ですよ。私、解雇されちゃいましたから」
力なく呟く。
「内情に立ち入るつもりはないけれど、話は聞かせてもらったよ。君がクビになった原因は幻想郷の外にあるのだろう。本来ならば連絡を取り合うことさえままならないような環境だ……現状では、君の解雇はほとんど外部の意思のみによるといっていい。つまり、今でも紅魔館の皆は、君の帰りを受け入れることができるんだよ」
その言葉は、確かに甘美で蠱惑的に聞こえた――
「……ねぇ、コウリンさん」
あごを膝に乗せ、今この言葉を誰に伝えたいのかさえ定かでないまま、思ったことをそのままポツリと呟いた。
小さすぎて聞こえないのではないかと一瞬後に危惧したが、店主は美鈴の方を向いたのが分かった。
何を言うべきか、それも定かではない。美鈴は考えることをやめ、思ったままを口にすることにした。
視線はずっと湖の向こう側に固定したまま、美鈴は語り始める。
「とんでもない昔の話です。海の向こう、大陸に昔住んでいた妖怪がいました。それはひどく強力で、とても恐れられ……数多くの災厄を大陸のいたるところにばら撒いてきました」
とつとつと語るその横で、店主に何か顕著な変化が見られることはなかった。
かまわずに美鈴は続ける。
「長いこと生き延び、大陸の闇をほとんど網羅し、たった一人で信じられないほど多くの悪行を重ねてきました。筆舌に尽くしがたい量の伝承が、それ一人によって生み出されたのです。全てが悪しき伝承です」
しゃべりながら、だんだん顔が埋まっていく。自然とうつむき、そのまま上げることはなかった。
「『中国の闇』『地上の狂気』『全四千総魔』『天魔の魔女』……いくつもの通り名が囁かれ、その妖怪は誰もが恐れる悪の化身にすらなりました」
いまさら……無駄なのかもしれない。誰かにこんなことをこぼしても。
「その妖怪の正体は吸血鬼です……大陸に古くから息づく呪いの種族、キョンシー」
誰かにこんなことをこぼしても、決して変わりはしないこともあるだろう。
「たとえ、封印したとしても……悪しき闇の力は決して変わりはしないんですよ。ずっと独りだった私は、紅魔館にきてから狂気に克つすべを知りました。それでも私は、多くの闇を生み出した十字架を背負って生きていかなければならないんです」
「紅魔館の住人が……そんな十字架を恐れるとでも思っているのかい」
店主は彼女の心を汲んでくれたようだった。嬉しいが、感情が現実の前に無力なときもある。
「いいえ、恐れはしないでしょう……でも、温かく迎えてくれますか」
実際には、それを知っているのはレミリアとフランドールだけだ。
だがそんなことは関係ない。美鈴が、彼らと力の狭間にどう生きるかである。
常に過去の呪いと戦い続けるという方法を、彼女は避けたいと感じた。
「どうですか、コウリンさん。それでも彼らは暖かく迎え入れてくれると言いますか。そして私は、そんな彼らに心からありがとうと言えますか……?」
店主はしばし無言だった。
それは、閉じた唇が乾いてくっつく程度の時間だったかもしれない。本当は短い時間を長いと錯覚しながら、美鈴は店主の言葉を待った。
「つまらない問いかけだと思うね、僕は」
店主の言葉は淡白だった。
顔を上げる気力もない。続く言葉の内容も半ば予感しながら、それでも美鈴は問い返した。
「なぜですか……?」
「勝ちの見えた賭けは、面白くもなんともないからさ」
店主の言葉は、最後まで淡白で、そして優しかった。
美鈴はなんと答えていいのか、しばらく分からなくなった。
疑問を際限なくぶつけることはできる――だがその疑問に意味はないのだ。この店主は、間違いなくたった一つの答えしか返さないに決まっているのだから。
そんな沈黙をついて、店主は美鈴に言った。
「どん底には光も届かないよ。這い上がろうと上を見ればいい……なにかあるだろう」
「なにかとは、なにが?」
安易な励ましは聞きたくなかったが、彼の言葉の奥に感じる強い力に、美鈴は聞き耳を立てていた。
それが意味のあるものなのだろうと、漠然とした希望と共に信じたいと思った。
「さあね、知らないよ。なにかあるだろう、なにか」
「そう思えるあなたは、単に幸せな人なんですよ……」
「そうか……そうかもな」
場の均衡を揺らしてはならないと考えたのかもしれない――店主は息を吸う音も隠して、ゆっくりと声を発した。
「そうだね、この世界には奇跡なんてない。神が実在するんだ。信じて祈ることなんてできやしない」
だが、長続きしなかった。完全に顔が隠れた美鈴に向かって、声が割れている。
「……だから、自分でしっかり考えないと……な。君が僕にそう言ったんだぞ。いや、言ってはいないか。だが、そう思わせたんだ」
手が差し伸べられるかと思った。しかし彼はそんなことはしない。
じっと店主の声を聞く美鈴に、ただ声で届かせるだけだった。
「だから、君が……泣くな。なにかあるんだ。奇跡はないかもしれないが、それと同じものが。じゃなけりゃ、誰も生きてなんていけるものか」
「…………」
泣いて……いるのか。美鈴はそのとき初めて涙の雫を感じた。店主には見えないはずなのに。
遠い世界を想像する。今いる場所から遥か彼方に、美鈴を笑いながら招いてくれる紅魔館の住人たちの姿があった。
それを思い浮かべてから、手を伸ばせば触れることもできるのではないかと、ひどく虫のいい希望がどこかに生まれた気がした。
「はい……」
「できるさ、きっと」
美鈴はごしごし涙をこすり、多少まともになった顔で店主に笑いかける。
店主はそんな彼女の腕を取り、立ち上がらせた。
「もし辛くなったら、そのときは香霖堂においで。今日も素敵な品揃えで、香霖堂はあなたのご来店をお待ちしています」
「……ふふ、いつかまたお邪魔します」
辛いことも、あるだろう。
悲しいこともきっと、あるに違いない。
それでも前に進む価値はあるのだ――店主はそれを説いてくれた。
「……本当は……」
店主は美鈴の手をとったまま、なにか言いたげに視線を落とした。
美鈴は彼の言葉を待ったが、顔を上げた彼の表情は語るべき言葉を捨てたことを教えてくれた。それでも何か深い葛藤の中にいたのか、その表情はかすかに寂しげでもあった。
美鈴はほんの少し、淡い期待を胸にふくらませてはいた。だが――これでいいのだ。これで。
店主はメイリンの背を押すと、自らは後ろに一歩下がった。
「さぁ、もう行くといい。君が幸せになれる場所は、きっと紅魔館にしかないから」
「……ありがとうございます」
振り向かず、言葉だけで最後の礼を述べる。
店主は無言で送り出してくれた。
地を蹴り、湖の上を、懐かしい紅魔館に向かって飛翔する。
「……また、お邪魔しますから!」
湖岸が遠くなったところで、美鈴は一度振り返ってそう叫んだ。
店主には確かに聞こえたろう――それは何の問題もなく理解できる。
そうして手を振る店主に見送られ、美鈴は紅魔館まで飛んで行った。
■ ● ■
「あ」
お嬢様がなにかポツリと呟いた。
完全で瀟洒な従者はお茶を注ぐ手を一瞬止め、ごてごてした機会を見つめるレミリアの姿を眺めた。
使い方は早期にマスターしたらしい。壊したわけではないだろう……
それだけ判断すると、咲夜は何事もなかったようにティーカップをレミリアの前に置いた。
それでも意識半分でお茶をとるレミリアを見て、咲夜はなんとなく訊いてみた。
「どうかされましたか?」
「ソリトンレーダーにね、反応があるの」
例の機械のことだ。咲夜も覗き込む。
確かに光点が一つ、画面上の紅魔館に向けて接近しつつあることが見て取れた。進路から見て、目的地が別のところということはあるまい。
「……念のため、失礼して門へ向かわせていただいてもよろしいでしょうか?」
美鈴がいなくなってから、面倒な妖怪がいくつかこの辺に出没するようになった。
追い払うのに苦労はしないが、手間はかさむ。
が、レミリアはふふと笑みを浮かべながら、それを否定した。
「門に行くのはいいけど、その前に人を集めたほうがいいかしらね。悪いけど咲夜、パチュリーを呼んで来てくれないかしら。できれば小悪魔も。私はフランドールを起こしに行ってくるわ」
「え……どういうことです?」
理解できずに訊き返す。
レミリアは楽しそうに微笑みながら、気軽に一言こう告げた。
「決まってるじゃない。採用面接よ」
■ ● ■
最後にこの風景を見たのは、もう一ヶ月以上前なのだと思い出す。
咲夜に見送られ、この門の向こう側へ旅立って行ったあの日――
無理に思いつめていた自分が、そのときの姿で紅魔館を去る様子が目に浮かぶようだった。
そうだな、変わった。
自分でもそう思う。
……これから大変だろう。一度クビにされた職場にもう一度戻ろうというのだから。
それでも美鈴は気負いせず、軽い足取りで正門前まで向かった。
と。
「遅かったわね。待ちくたびれたわ」
懐かしい声が聞こえた。
驚きと共にその方向を見やる。
その瞬間、彼女は何がなんだか理解できなくなった。
「なに固まってるのよ美鈴。聞いたでしょ、お嬢様がお待ちかねよ」
「……ど……」
どうして?
そこにいたのはレミリアだった。
その隣には咲夜がいる。
少し後ろ、やる気無げに突っ立って美鈴を見ているパチュリーがいた。苦笑しながらその背後に立つ小悪魔もいる。
反対側にはフランドールが頭の後ろで手を組んでいた。
そしてその後ろといわず、横といわず、前庭を埋めるように大量のメイドが美鈴を見ていた。彼女の知る、紅魔館内のほぼ全てのメイドが集まったのではないかとさえ思えた。
「どうして……」
「配下の考えることなんてお見通しじゃないと、優れた上司にはなれないのよ」
レミリアはいたずらっぽく美鈴にウィンクした。
どさりと腰が抜ける。
レミリアは咲夜に何事か呟くと、彼女は頷いて座り込んだ美鈴を引っ張り上げた。
いまいち足腰が立たないが、何とか立つ。
「さて」
咲夜は何か間合いを計るような、そんなもったいぶった仕草で一拍おいてから続けた。
「紅魔館では現在、一部人材が不足している部署があります。就職希望なら今から面接を行いますが?」
「は……はい!」
本当に……お見通しだったのか。
「あなた、名前は?」
「紅美鈴です!」
「ふぅむ、なるほど」
二度頷き、いきなりどこからともなく取り出した画板と紙とペンで何事かさらさら記録していく。
しばらく記帳し、ただそれだけで咲夜はレミリアのところへ戻っていった。紙が彼女に手渡される。
それを見てレミリアが楽しげに微笑んだ。
やり取りが理解できなかったが、咲夜はもう美鈴に何か言う気はないらしい。
「え、あの……終わりですか?」
「そう、一応終わり」
レミリアは本当に楽しそうにころころ笑うと、手にした紙を美鈴に示す。
「咲夜はね、帰ってきたときのあなたの顔を見ただけで、知りたいことは全部分かったって言ってるわ」
「…………」
「ただし」
咲夜はにやりと微笑みながら、手品のようにナイフを現す。
「紅魔館の正門を任せるに足る腕の持ち主か、試さなくてはいけないわね」
「……口ではこういってるけど、咲夜もあなたがどれだけ変わったか、確かめたがってるのよ」
「締まらなくなるようなことは言わないでください。お嬢様」
咲夜と美鈴を中心に、周囲からメイドたちが退避していく。
咲夜は本気でナイフを構えているようだ。
美鈴は咲夜を見据え、静かに頷いた。
美鈴もまた構える。彼女も同様に本気で相手をするつもりだった。おそらく、かつて経験した戦いの中でも特に苛烈な一戦となるだろう。
だがきっと――美鈴は戦いの結末を予覚できた。様な気がした。
何か明確な合図があったわけでもない。それでも二人は、お互い同時に踏み込んでいた。
「……いや、まったく」
吹きすさぶ風に身をゆだねながら、咲夜はそう言ったようだった。
彼女は体のいたるところに傷を追っている。が、どれも軽傷だ。行動不能に陥る傷とはわけが違う。
対して美鈴は、もはや誰がどう見てもボロボロだった。地に倒れ、動くことさえままならない痛みにあえいでいる。
それまで傍観に徹していたレミリアが美鈴に声をかけた。
「……どうしたの? かつて中国の闇とまで言われたあなたが、なぜ全力を出そうとしないの?」
そうだろう……古い力を利用すれば、少なくとも今このように無様な姿をさらすこともない。
だがそれは――違うのだ。
美鈴はそれを守りたかった。
「……古く、まだ私が自分のためだけに生きていた頃の力は、今の紅魔館には不要です。他者に触れ、守るべきものを守りたいと感じる心が、今の私にはあるから……自分のためだけの力は、もう二度と使うまいと心に決めました」
口がうまく動かないので、できるだけ簡潔に伝える。
本当はもっといろいろ、言いたいことがあった。
狂気に克つすべは、初めからそこにあった――
レミリアや咲夜や、パチュリーや小悪魔や、フランドールやメイドたちが言葉ではなく伝えてくれた。
旅の途中、言葉を交わした多くの人がそれを教えてくれた。
大切なことは、大抵シンプルだから。
守りたいものがあるから。
理由はそれだけでいいのだ。
たった……それだけで、いい。
「だから私は、守る力だけで戦うんです」
「……そんなくさい三文芝居のために身体を犠牲にするなんてね。付き合った私が道化みたく思えてきたわ」
咲夜はそんな、愚痴ともつかない何かをこぼした。美鈴はそれを暖かいと感じた。
美鈴はかすかに笑って応えた。咲夜もきっと笑っただろう……
「……あなたの言葉、しかと受け取ったわ。それでは結論ね。咲夜、どうかしら」
レミリアはギャラリー席(いつの間にか椅子が用意されていたのだ)を降り、咲夜のもとへと近づく。他の多くの観衆たちもぞろぞろと輪を縮めた。
咲夜は一瞬、お嬢様も分かりきったことを、と肩をすくめたようだった。
「採用」
それは本当に一瞬。当たり前のように、何の躊躇もなくその言葉は紅魔館の前庭に響き渡った。
そしてほんの少しの静寂。水を打ったような静けさが一呼吸だけ支配したかと思うと、次の瞬間。
「わー!」
と、その場にいる全員が歓声を上げた。
やはりやれやれと肩をすくめ、咲夜はその後を続ける。
「まぁ、あれだけ戦えれば門番としては十分だし。お嬢様、もし大旦那様からお咎めがありましたときは、私が責任を持ちます」
「なに言ってるの、この館で起きたことは全て私の責任よ」
レミリアは倒れたまま起き上がれない美鈴に手を貸した。それに倣って数人のメイドが美鈴を抱え上げる。
本当は、そのときの顔は誰かに見られたくなかったのだけれど。
「あらあら、みっともない顔しちゃって」
笑い事じゃないんですよ、お嬢様。
レミリアの後ろから、図書館組がやってきた。
「……結局戻ってきたのね、中国。大変だと思うけど、これからもよろしく」
「はい……よろしくお願いします」
「よかったですね、美鈴さん。また一緒にお茶でも飲みましょう」
「ええ、是非」
横からはフランドールが来た。
「中国久しぶりー」
「お久しぶりです、フランドール様」
「ねぇ、私もさ、中国みたくいつかは自分の力を制御できるようになる?」
「はい……いつか、必ず」
きっとその日が来るのは遠くない未来だろう。
その後もやいのやいのメイドたちから祝福を受けた。
なんだかもう、本当に、つまらないことで悩んでいたものだ。
店主の言うとおりだった、こんな賭け、勝つに決まっていたじゃないか。
皆はそのまま紅魔館へ向かっていく。途中でレミリアが、思い出したように振り向いた。
「そうそう、忘れてたわ」
咲夜が、パチュリーが、小悪魔が、フランドールが立ち止まる――
「ようこそ、そしてお帰りなさい、美鈴。我らが愛しの紅魔館へ」
大切なことは、大抵シンプルだから――
言葉は語るためのものではなく、伝えるためのものだから――
美鈴は満面の笑みで彼らに応えた。
いつまでも、自分の生きる理由を大切にしよう。自分は、そう……
決して一人で生きているのではないのだから。
■ ● ■
「中国、門番やってたわ。相変わらず暇そうだった」
「あら、それはよかったわ。結界の外に出さなくて正解ね」
「紫、ほんとは結構心配してたんでしょ? 他人に長々と講釈垂れるなんてほとんどしないもの」
「さて、そろそろ帰らないと藍に怒られるわ。それじゃあね」
■ ● ■
「妹紅……妹紅! いないのか」
「ここよ」
「あ。なぁ妹紅、お前は中国という妖怪を知っているか?」
「なにそれ?」
「大昔大陸で暴れまわっていた妖怪だ。だが今では気のいい善人の妖怪になっている。いいか妹紅、そうやって、かつては悪だったものがいずれ善き方向に変わってくるかもしれない、だからお前もだな――」
「うっさい慧音。キモイ」
■ ● ■
「ねぇ妖夢」
「はい?」
「あなたもいつか、年を経るごとに強力になって、いろいろと考えることが多くなると思うけど……」
「……なんですか急に」
「思うけど、そのときは独りで決めようなんて思っちゃダメよ。あなたには、私がついているのだからね」
「……よく分かりませんけど、私は幽々子様をお一人にはしませんよ。ご安心ください」
■ ● ■
「幸せそうだったな……」
店から去っていく赤毛を眺め、店主は寂しく呟いた。
お使いの用事だったらしい。クビになる前からも、彼女が一人で香霖堂にやって来ることはままあったが。
きっと自分が傍らにいるより、紅魔館にいたほうが彼女は幸せだろう。店主は自嘲気味に認めた。
「僕の春は遠そうだ」
肩などすくめ、次の客が来るまで彼は暇をもてあました。
■ ● ■
紅魔館はそんな毎日が平和だった。
「やっぱり平和が一番ね~……ぁふぅ……」
また、コーリンこと森近霖之助さんのキャラは、もうちょっと不器用な男って感じです。いい男であることには変わらないのですがー。
素敵な紅美鈴をありがとうございました。
しかし中国がレーダー作ってても違和感を感じなかったのが不思議だw
(※50点を個人的に満点としております)
あと、静かに現代ッ子っぽい妹紅がw
美鈴が力を封印しているというのはまさに賛同するところです。
ついに萃夢想でも出場が決まりそうなようで、これでますます
彼女の出番が増えることになりそうです。
あと、何気に妹紅がツボでした。
大切なものは最初から元いた場所にあったのですね。
美しいストーリーでした。
そして最後まで中国と言い続ける妖夢に乾杯w
変わったけど変わってない門番ライフを最萌優勝者に・・・
中国が昔強力だった説はステキですね。カッチョイイ
(赤は98版の方が好み)
でも最後の香霖堂店主さんの言葉、あれは駄目ですよ。
某三白眼の黒魔術士さんの髪の毛ロールケーキ娘に向けた最終巻の台詞じゃないッすか。
というか天魔の魔女ってあんたそれもそのままア○リーだって・・・
ってことで、良い文章かいてるくせに良い部分でパクッテルので-90点くらいです。
頼むから次はまんま台詞ぱくるとかやめてください・・・
この話を書いた腐りジャム様に賛辞と感謝の念を捧げます。
ありがとうございました。
美鈴が毎回最後に言うこのセリフが大好きです
あと霖之助とは清い交際をしてほしい