狂想は月に還る――
戦場の月に弾を撒く者よ。
■ ● ■
紅魔館の主とメイド長がそろって不在だと聞かされれば、驚く者もいたかもしれない。
驚きに大した意味はないだろう――館の門番は静かに認めた。大した意味はない。スカーレットの名が恐怖を意味する彼らは、お嬢様が館の奥の暗闇から永遠に出てこないとでも考えているのだから。
もしくは責任者が不在であるべきではないのかもしれない。メイド長こそ紅魔館の顔であることは公然の秘密だから、両者がいなくなるのはことのほかまずい。
門番は、そんな馬鹿げた話を一瞬考えて苦笑した。誰がまずいというのだ。館内のメイドはあまねく有能であり、紅魔館を訪ねる相手などたかが知れている。彼らはお嬢様とメイド長の不在などまるで気にしないのではないかとさえ思えた。
門番は月を見上げる。永夜の術にそれほど大規模な仕掛けは組まれていなかったが、十分だったようだ。やはり紅魔館のメイドはあまねく優秀で、メイド長の腕はその筆頭なのだから。
昨日まで、いやほんの半刻ほど前まで月は望ではなかった。だが月はもうそんな呪いは忘れたらしい……今は懐かしい真円を夜空に輝かせている。
月影が心地よい。風までもが月の帰還を喜んでいることはあるまい――ありえまい。しかし湖上を吹き抜ける夜風は、狂想に身悶えするかのように天高く舞い上がっていく。
門番の少女、美鈴はわずかに左手を差し伸べた。誰もいないが、もし眼前に何者かあったならそれは求愛の仕草に見えたろう。たおやかな手つきは目に見えない憂いを秘めている。白く美しい肌が月の光に触れ、彼女の持つ妖艶な香りをなおのこと引き立たせた。薬指にはめられた指輪が彼女の美に控えめな彩を添える。
風に混じって美鈴はささやいた。聞くものはいない。いや、もし月が耳を備えていたとしても、彼女がつむいだ言葉が何であるかは聞き取れないに違いない。彼女自身の耳にさえ入らないような、そんなかすかなささやきだった。
愛の言葉だったのかもしれないし、恨みの呪詛だったかもしれない。
穏やかに指輪を眺める美鈴の横顔から、それを読み取ることは不可能だろうが。
星降る大地に少女が一人。美鈴はその後しばらく夜空を見上げていたが、やがて唐突に呟いた。
「こんな綺麗な月の夜は、やはり血の騒ぐものなのですね……」
ようやく戻った幻想郷の満月は、魑魅魍魎の跳梁跋扈する狂想に満ちた世界を誘うのだ。その光は理性を焼き、その影は思考を焦がすのだという。
であれば、残るものが狂の一字に染まるのは道理であろう。
美鈴は館を振り仰ぐ――狂気が万人の耳元で呪いを囁くのは、初めから予測していた。その声に導かれ、一つの呪いが成就するだろうことも、やはり分かっていた。
向き直った先には少女がぽつんと佇んでいる。闇が固化した静謐があるのなら、彼女の背後に渦巻く暗黒がそれなのだろうと思わせた。
どうということもない、一人の少女でしかないのだ。だがその姿、振る舞いを見よ。狂気に溢れる闇の蠢動を見よ。
永遠に破滅と共にある狂王を見よ。そして慄きつつその名を叫べ――
「……フランドール・スカーレット様!」
「久しぶりね中国」
狂気の王にして絶対破壊者、フランドール・スカーレットはその一瞬だけ笑ったらしい。
長らくその猛威を潜めていた満月の闇は、今になってこの少女に渦巻く狂気に火をつけた。もはや館内の閉じた空間で満足するはずもない。
彼女が脱走するとき、いつも妨害を仕掛ける図書館長は動かなかった。フランドールが想像を超える静けさと共に館外へ出たので気づいていないのか、それともすでに倒されたか。
どちらにせよ、今の狂王は手遅れだ。止める手段は図書館長にはない。
だが美鈴は全身の気を意思の支配下においただけで、構えすら取らずフランドールと相対した。
広い前庭を挟み向かい合う。踏み込んで拳の届く距離ではない、弾の間合いだ。
「いつになく月が綺麗だと思わない? こんな日は誰か遊び相手が欲しいのよね」
「あなたを通すわけにはいきません。お戻りください」
フランドールは静かに笑った。馬鹿にされたわけではない、それは分かる……美鈴は目を細め、その先も認めた。無力な門番の言葉など、彼女は笑うしかなかろう。
夜風は変わらずに涼やかだった。肌に心地よいとさえ感じる。
「あなたの力は、今のあなたが使うべきものではありません。自重ください」
「あんたが遊び相手になってくれるの? でも、つまらなそうね」
美鈴の言葉を聞いている様子もなく、フランドールは夜の闇に一歩踏み出した。
左手を突き出し、指先が美鈴に向かう。かすかに逆流する気配が美鈴の五感を刺激したとき、彼女は本能に逆らわず全力で横に飛んだ。
フランドールの笑みが深まる。天を裂くように大笑しながら、彼女の放った何かは空間を一瞬で破壊していた。およそ他人が理解しうるものではなく、純粋に破壊のみの力か、そうでなければ狂気そのものか。常識外の力が破壊した場所は、直前まで美鈴が立っていた場所だった。
地をこするように片ひざを突き、わずかに外れた破壊跡を横目で確認しながら、美鈴は悲しげに眉をひそめた。立ち上がる――
「あはははははは! 意外! ちゃんとよけられるじゃないの、中国! あはははははは!」
「……月の光で血が騒ぐのは、あなただけではないのですよ」
拳を一度握り締め、手ごたえを肌に覚えさせてから力を抜く。ごうごうと渦巻く体内の気は、何か獣じみた叫びをこだまさせているようでもあった。
――かつて、まだ美鈴が紅魔館に来る前のこと。彼女は大陸のいたるところを彷徨し、言い伝えに残るほとんど全ての悪行に関わってきた。多くの退廃と災禍と滅亡を導いて来た彼女はやがて中国全史の暗部として恐れられ、恐怖と共に一つの名前が囁かれたという。
一つの伝説となり、彼女の存在自体が中国の闇となったとき。すなわちその名、ただ「中国」と。
それは、まだ美鈴が紅魔館に来る前のこと。彼女が大陸吸血鬼――キョンシーとして狂気と共に生きていた時代の話だ。
スカーレット家に仕えると決めて以来、魔性の力は封印していたが。
美鈴は呼気と共に力を込め、気を操った。自然界から導き入れた気を自己の体内に巡らし、自分の内に潜む力を倍加する。繰気の技を持つ者しか使えない、内功の法だ。
さらに周囲の気の流れにも意思を伸ばす。同時にフランドールを鋭く見据え、できるだけ低く冷静な口調になるよう努めながら、告げた。
「あなたの力は、無敵の力なのです。遠くの地では、神の誕生と共にその力を賜った一族があったと聞きます」
意識を集中しながら話すのは困難だったが、今をおいて通じる機会は他になかろうと、そんなおぼろげな予感が脳裏をよぎったのだ。
フランドールはやはり、聞く耳もない風だった。が、美鈴はふと、そんな狂気の彼女を見て笑みをこぼした。
この世界からは、もうだいぶ昔に純粋なものが失われてしまった気がする。人の心は純粋にはなれないのだ。純粋でない心で見れば、他の全てが純粋にならないのは当たり前だった。だからもう、純粋なものは失われてしまったのだ。
しかし彼女が見つめる少女は、これ以上ないほど純粋に違いない……ほんの一瞬、フランドールと共に笑い出したい気分に駆られた。滅亡にさらされながら、それを愛でたいと思った。
いや、儚い夢想にすぎない。
伝えなければならないからだ。
彼女の周りの気が、一瞬反転した。それは美鈴が限定的な支配をおいたということ。極度の集中を強いるこの術は、あまりに危険な反動を術者にもたらすと共に、周囲の気の流れを全て可視化し、あらゆる危険を完全に予測して回避することができる。
フランドールが動くのが分かった。殺すつもりで動いているだろう。彼女の背後で陽炎のように揺らめく闇が、それを教えてくれた。
「あははははははっは!」
気の支配は長くは続かない。その前に頭が持たない。死ぬ気で跳ぶ――わずかでも接近できる限界の位置を跳ぶ。全身をかすめて、空間そのものが破壊される気配を感じた。
意識を連結させようとするたびに脳が煮え立つ。それに抗いながら、なお美鈴は必死で伝えた。言葉があった――
「私たちの知らない世界に、そんな種族がいたのです――彼らは大陸をひとつ支配し、また神にも挑んだと。あなたにも、それと同じことができる……できるのです」
美鈴はもはや前後不覚に陥る錯覚さえ感じていたが、フランドールのもとへ向かうことだけはやめなかった。
なぜそこまでして進むのか。命を懸け、それでも進む意味は何か。
美鈴は自問に正しく答えられる言葉を持たなかった。が、それで全くかまわない。
言葉は、語るためではなく、伝えるためにあるのだから。
また一つ、破壊が美鈴に牙を向ける。フランドールとの距離は少しずつ縮まっていた。
「別の話をしましょう。同じことなのですが……あなたの狂気は、あなたを封じているのです」
段々何も考えられなくなってきた。今まで音だったものが耳鳴りに変わる。笑い声があめ色に溶けてどこかに消えた。
「あなたの力は、理由のいらない力です。それはどこまでもあなたを呪い、どこまでもあなたを蝕むでしょう。だから狂気が呪いを封じ、あなたがあなたであることは変わらず守られる」
言葉さえ考えられなくなってきた。だんだん支離滅裂になっていく――
それでも言葉は伝えるのだ。ただそれだけを信じた。
「でも、いずれ……狂気の守りがなくても、あなたがあなたでいられるような、そんな日がきっと来ます。それは、あなたが世界中を支配することもできる日なのです」
視界さえ白く反転する。気の流れだけが後に残った。
考えることもできないような、そんな遠い世界に、迷い込んで――
「あなたはきっと……そんな力を手にできます。それは制御すること。力を、自らのものとすること。力を、知り、必要であるものを、知り、理に混じって、それら全てを決めるこ、と……」
ごぼり、と妙な音がした。
突然暴れるように異音を立てた喉で、急に周りの世界が自覚できた。
いつの間にか、もう目の前にフランドールがいる。
狂気は収まったのか……先ほどまでとは違う、ぱちくりとした目が愛らしいと一瞬思った。一瞬だ、それ以上は力がもたなかった。
「中国……?」
やはり正気の声だ。安堵する。
そのせいでずるりと、美鈴の体が崩れ落ちた。フランドールの肩にもたれかかるように支えられていた身体は、その時点でぼろ雑巾のような無様な姿になった。
美鈴が、自分の身体がズタボロになるまで破壊されているのに気づいたのは、大地に横たわってから後だった。
「中国!」
美鈴はその後、指一つ動かせない状態でさらに何事か呟いた。
だが呼吸もできない美鈴の言葉は、フランドールには伝わらなかった。それは美鈴にも分かってたが、呟きが終わったとき、美鈴は満足げに微笑んだ。
まだ彼女が大陸をさまよっていた頃。
狂気が彼女を支配していた頃。
ただ失うことでしか自分を知ることができなかった頃。
……一人の男が彼女を救った。当時のスカーレット家当主だった。
そして彼女はスカーレット家に仕えることになった。
やがて彼女は知ったのだ。狂気に克つすべは、そこに初めからあったのだと。
彼女は、ただそれを呟いた。
暗闇の中、誰にも声が届かないとしても、失望せずともよい。
言葉は語るためのものではなく、伝えるためのものだ。
語らずとも、生きて伝えることはできる。彼女の言葉を必要としていて、探している者ならば、彼女が語って聞かせなくともいつか必ず見つけてくれるだろう。それで良い。
「美鈴! 死んじゃダメだよ! 美鈴!」
月の光も遠く、届くの声は闇の中。
だがそれでも、失望せずともよいのだ。
いつか必ず……見つけてくれるだろうから。
■ ● ■
フランドールが泣きながら大騒ぎしたわりに、美鈴はその後問題なく回復していた。
まだ門番業務に出られるほどではないが、今はベッドからも頻繁に出て、見舞いに来た部下や客と話などすることが多い。
そんな折、メイド長が美鈴の部屋を訪ねた。
「具合はどうかしら?」
美鈴は机で部下からの励ましの手紙を呼んでいた。振り向いて会釈する。
「おかげさまで順調です」
「まったく。フランドール様の攻撃を正面から受けたというのに、恐ろしいくらいぴんぴんしてるわね……」
土産の果物をことりと机に置き、咲夜はため息交じりに部屋の中を見渡した。
美鈴はありがたく果物をかごから取り出し、おいしそうに食べ始める。
不意に窓の外を眺めた。ここ最近外には出ていない。窓から見る外界は、美鈴を手招きしているように思えた。
「フランドール様のご様子は、何か変わりありますか?」
「? 変わったこと……。あまりないと思うけれど」
「そうですか……」
天井を見上げ、ため息を一つこぼす。
今はそれでいいだろう。だが、いつか――
「思ったより元気そうね。愛の力?」
「!? ななな何をおっしゃりますか?」
……寝込んでいたときに香霖堂店主が見舞いに来て、それから驚異的な回復を遂げたというのは、一部にしか知られていない実話だが。
メイド長は意味ありげな笑みをひとつ浮かべる。
美鈴が睨むと、今度は瀟洒に微笑んだ。
「今まで忙しくて、お見舞いにこれなくて悪かったわ。早めに職場復帰してちょうだいね」
「任せてください。今すぐにでも戻れるくらいですよ」
「それは頼もしいわね……あ、そうそう」
メイド長は懐から一枚の封筒を取り出した。
「これ、届いてたわ」
「なんですか?」
およそ、見た目から幻想郷の物でないことは察せられた。
全く心当たりがない。
「開けてみれば分かるんじゃないかしら……じゃあ、私はもう行くわね」
咲夜はきびすを返し、美鈴はかすかに頭を下げてそれを見送った。
窓の外には青空が広がっていた。きっと美鈴も知らない場所が、この空の下にいくつもあるだろう。
フランドールも、いつか――きっと、彼女の知らない空の下に歩き出すはずだ。
それを信じて、美鈴は笑った。
紅魔館はそんな毎日が平和だった。
「やっぱり平和が一番ね~……ぁふぅ……」
■ ● ■
ちなみに封筒の中身は辞令だった。
「娘を泣かせたから貴様はクビだ!」
幻想郷の外にいるスカーレット家の当主は、結構な親バカだった。
戦場の月に弾を撒く者よ。
■ ● ■
紅魔館の主とメイド長がそろって不在だと聞かされれば、驚く者もいたかもしれない。
驚きに大した意味はないだろう――館の門番は静かに認めた。大した意味はない。スカーレットの名が恐怖を意味する彼らは、お嬢様が館の奥の暗闇から永遠に出てこないとでも考えているのだから。
もしくは責任者が不在であるべきではないのかもしれない。メイド長こそ紅魔館の顔であることは公然の秘密だから、両者がいなくなるのはことのほかまずい。
門番は、そんな馬鹿げた話を一瞬考えて苦笑した。誰がまずいというのだ。館内のメイドはあまねく有能であり、紅魔館を訪ねる相手などたかが知れている。彼らはお嬢様とメイド長の不在などまるで気にしないのではないかとさえ思えた。
門番は月を見上げる。永夜の術にそれほど大規模な仕掛けは組まれていなかったが、十分だったようだ。やはり紅魔館のメイドはあまねく優秀で、メイド長の腕はその筆頭なのだから。
昨日まで、いやほんの半刻ほど前まで月は望ではなかった。だが月はもうそんな呪いは忘れたらしい……今は懐かしい真円を夜空に輝かせている。
月影が心地よい。風までもが月の帰還を喜んでいることはあるまい――ありえまい。しかし湖上を吹き抜ける夜風は、狂想に身悶えするかのように天高く舞い上がっていく。
門番の少女、美鈴はわずかに左手を差し伸べた。誰もいないが、もし眼前に何者かあったならそれは求愛の仕草に見えたろう。たおやかな手つきは目に見えない憂いを秘めている。白く美しい肌が月の光に触れ、彼女の持つ妖艶な香りをなおのこと引き立たせた。薬指にはめられた指輪が彼女の美に控えめな彩を添える。
風に混じって美鈴はささやいた。聞くものはいない。いや、もし月が耳を備えていたとしても、彼女がつむいだ言葉が何であるかは聞き取れないに違いない。彼女自身の耳にさえ入らないような、そんなかすかなささやきだった。
愛の言葉だったのかもしれないし、恨みの呪詛だったかもしれない。
穏やかに指輪を眺める美鈴の横顔から、それを読み取ることは不可能だろうが。
星降る大地に少女が一人。美鈴はその後しばらく夜空を見上げていたが、やがて唐突に呟いた。
「こんな綺麗な月の夜は、やはり血の騒ぐものなのですね……」
ようやく戻った幻想郷の満月は、魑魅魍魎の跳梁跋扈する狂想に満ちた世界を誘うのだ。その光は理性を焼き、その影は思考を焦がすのだという。
であれば、残るものが狂の一字に染まるのは道理であろう。
美鈴は館を振り仰ぐ――狂気が万人の耳元で呪いを囁くのは、初めから予測していた。その声に導かれ、一つの呪いが成就するだろうことも、やはり分かっていた。
向き直った先には少女がぽつんと佇んでいる。闇が固化した静謐があるのなら、彼女の背後に渦巻く暗黒がそれなのだろうと思わせた。
どうということもない、一人の少女でしかないのだ。だがその姿、振る舞いを見よ。狂気に溢れる闇の蠢動を見よ。
永遠に破滅と共にある狂王を見よ。そして慄きつつその名を叫べ――
「……フランドール・スカーレット様!」
「久しぶりね中国」
狂気の王にして絶対破壊者、フランドール・スカーレットはその一瞬だけ笑ったらしい。
長らくその猛威を潜めていた満月の闇は、今になってこの少女に渦巻く狂気に火をつけた。もはや館内の閉じた空間で満足するはずもない。
彼女が脱走するとき、いつも妨害を仕掛ける図書館長は動かなかった。フランドールが想像を超える静けさと共に館外へ出たので気づいていないのか、それともすでに倒されたか。
どちらにせよ、今の狂王は手遅れだ。止める手段は図書館長にはない。
だが美鈴は全身の気を意思の支配下においただけで、構えすら取らずフランドールと相対した。
広い前庭を挟み向かい合う。踏み込んで拳の届く距離ではない、弾の間合いだ。
「いつになく月が綺麗だと思わない? こんな日は誰か遊び相手が欲しいのよね」
「あなたを通すわけにはいきません。お戻りください」
フランドールは静かに笑った。馬鹿にされたわけではない、それは分かる……美鈴は目を細め、その先も認めた。無力な門番の言葉など、彼女は笑うしかなかろう。
夜風は変わらずに涼やかだった。肌に心地よいとさえ感じる。
「あなたの力は、今のあなたが使うべきものではありません。自重ください」
「あんたが遊び相手になってくれるの? でも、つまらなそうね」
美鈴の言葉を聞いている様子もなく、フランドールは夜の闇に一歩踏み出した。
左手を突き出し、指先が美鈴に向かう。かすかに逆流する気配が美鈴の五感を刺激したとき、彼女は本能に逆らわず全力で横に飛んだ。
フランドールの笑みが深まる。天を裂くように大笑しながら、彼女の放った何かは空間を一瞬で破壊していた。およそ他人が理解しうるものではなく、純粋に破壊のみの力か、そうでなければ狂気そのものか。常識外の力が破壊した場所は、直前まで美鈴が立っていた場所だった。
地をこするように片ひざを突き、わずかに外れた破壊跡を横目で確認しながら、美鈴は悲しげに眉をひそめた。立ち上がる――
「あはははははは! 意外! ちゃんとよけられるじゃないの、中国! あはははははは!」
「……月の光で血が騒ぐのは、あなただけではないのですよ」
拳を一度握り締め、手ごたえを肌に覚えさせてから力を抜く。ごうごうと渦巻く体内の気は、何か獣じみた叫びをこだまさせているようでもあった。
――かつて、まだ美鈴が紅魔館に来る前のこと。彼女は大陸のいたるところを彷徨し、言い伝えに残るほとんど全ての悪行に関わってきた。多くの退廃と災禍と滅亡を導いて来た彼女はやがて中国全史の暗部として恐れられ、恐怖と共に一つの名前が囁かれたという。
一つの伝説となり、彼女の存在自体が中国の闇となったとき。すなわちその名、ただ「中国」と。
それは、まだ美鈴が紅魔館に来る前のこと。彼女が大陸吸血鬼――キョンシーとして狂気と共に生きていた時代の話だ。
スカーレット家に仕えると決めて以来、魔性の力は封印していたが。
美鈴は呼気と共に力を込め、気を操った。自然界から導き入れた気を自己の体内に巡らし、自分の内に潜む力を倍加する。繰気の技を持つ者しか使えない、内功の法だ。
さらに周囲の気の流れにも意思を伸ばす。同時にフランドールを鋭く見据え、できるだけ低く冷静な口調になるよう努めながら、告げた。
「あなたの力は、無敵の力なのです。遠くの地では、神の誕生と共にその力を賜った一族があったと聞きます」
意識を集中しながら話すのは困難だったが、今をおいて通じる機会は他になかろうと、そんなおぼろげな予感が脳裏をよぎったのだ。
フランドールはやはり、聞く耳もない風だった。が、美鈴はふと、そんな狂気の彼女を見て笑みをこぼした。
この世界からは、もうだいぶ昔に純粋なものが失われてしまった気がする。人の心は純粋にはなれないのだ。純粋でない心で見れば、他の全てが純粋にならないのは当たり前だった。だからもう、純粋なものは失われてしまったのだ。
しかし彼女が見つめる少女は、これ以上ないほど純粋に違いない……ほんの一瞬、フランドールと共に笑い出したい気分に駆られた。滅亡にさらされながら、それを愛でたいと思った。
いや、儚い夢想にすぎない。
伝えなければならないからだ。
彼女の周りの気が、一瞬反転した。それは美鈴が限定的な支配をおいたということ。極度の集中を強いるこの術は、あまりに危険な反動を術者にもたらすと共に、周囲の気の流れを全て可視化し、あらゆる危険を完全に予測して回避することができる。
フランドールが動くのが分かった。殺すつもりで動いているだろう。彼女の背後で陽炎のように揺らめく闇が、それを教えてくれた。
「あははははははっは!」
気の支配は長くは続かない。その前に頭が持たない。死ぬ気で跳ぶ――わずかでも接近できる限界の位置を跳ぶ。全身をかすめて、空間そのものが破壊される気配を感じた。
意識を連結させようとするたびに脳が煮え立つ。それに抗いながら、なお美鈴は必死で伝えた。言葉があった――
「私たちの知らない世界に、そんな種族がいたのです――彼らは大陸をひとつ支配し、また神にも挑んだと。あなたにも、それと同じことができる……できるのです」
美鈴はもはや前後不覚に陥る錯覚さえ感じていたが、フランドールのもとへ向かうことだけはやめなかった。
なぜそこまでして進むのか。命を懸け、それでも進む意味は何か。
美鈴は自問に正しく答えられる言葉を持たなかった。が、それで全くかまわない。
言葉は、語るためではなく、伝えるためにあるのだから。
また一つ、破壊が美鈴に牙を向ける。フランドールとの距離は少しずつ縮まっていた。
「別の話をしましょう。同じことなのですが……あなたの狂気は、あなたを封じているのです」
段々何も考えられなくなってきた。今まで音だったものが耳鳴りに変わる。笑い声があめ色に溶けてどこかに消えた。
「あなたの力は、理由のいらない力です。それはどこまでもあなたを呪い、どこまでもあなたを蝕むでしょう。だから狂気が呪いを封じ、あなたがあなたであることは変わらず守られる」
言葉さえ考えられなくなってきた。だんだん支離滅裂になっていく――
それでも言葉は伝えるのだ。ただそれだけを信じた。
「でも、いずれ……狂気の守りがなくても、あなたがあなたでいられるような、そんな日がきっと来ます。それは、あなたが世界中を支配することもできる日なのです」
視界さえ白く反転する。気の流れだけが後に残った。
考えることもできないような、そんな遠い世界に、迷い込んで――
「あなたはきっと……そんな力を手にできます。それは制御すること。力を、自らのものとすること。力を、知り、必要であるものを、知り、理に混じって、それら全てを決めるこ、と……」
ごぼり、と妙な音がした。
突然暴れるように異音を立てた喉で、急に周りの世界が自覚できた。
いつの間にか、もう目の前にフランドールがいる。
狂気は収まったのか……先ほどまでとは違う、ぱちくりとした目が愛らしいと一瞬思った。一瞬だ、それ以上は力がもたなかった。
「中国……?」
やはり正気の声だ。安堵する。
そのせいでずるりと、美鈴の体が崩れ落ちた。フランドールの肩にもたれかかるように支えられていた身体は、その時点でぼろ雑巾のような無様な姿になった。
美鈴が、自分の身体がズタボロになるまで破壊されているのに気づいたのは、大地に横たわってから後だった。
「中国!」
美鈴はその後、指一つ動かせない状態でさらに何事か呟いた。
だが呼吸もできない美鈴の言葉は、フランドールには伝わらなかった。それは美鈴にも分かってたが、呟きが終わったとき、美鈴は満足げに微笑んだ。
まだ彼女が大陸をさまよっていた頃。
狂気が彼女を支配していた頃。
ただ失うことでしか自分を知ることができなかった頃。
……一人の男が彼女を救った。当時のスカーレット家当主だった。
そして彼女はスカーレット家に仕えることになった。
やがて彼女は知ったのだ。狂気に克つすべは、そこに初めからあったのだと。
彼女は、ただそれを呟いた。
暗闇の中、誰にも声が届かないとしても、失望せずともよい。
言葉は語るためのものではなく、伝えるためのものだ。
語らずとも、生きて伝えることはできる。彼女の言葉を必要としていて、探している者ならば、彼女が語って聞かせなくともいつか必ず見つけてくれるだろう。それで良い。
「美鈴! 死んじゃダメだよ! 美鈴!」
月の光も遠く、届くの声は闇の中。
だがそれでも、失望せずともよいのだ。
いつか必ず……見つけてくれるだろうから。
■ ● ■
フランドールが泣きながら大騒ぎしたわりに、美鈴はその後問題なく回復していた。
まだ門番業務に出られるほどではないが、今はベッドからも頻繁に出て、見舞いに来た部下や客と話などすることが多い。
そんな折、メイド長が美鈴の部屋を訪ねた。
「具合はどうかしら?」
美鈴は机で部下からの励ましの手紙を呼んでいた。振り向いて会釈する。
「おかげさまで順調です」
「まったく。フランドール様の攻撃を正面から受けたというのに、恐ろしいくらいぴんぴんしてるわね……」
土産の果物をことりと机に置き、咲夜はため息交じりに部屋の中を見渡した。
美鈴はありがたく果物をかごから取り出し、おいしそうに食べ始める。
不意に窓の外を眺めた。ここ最近外には出ていない。窓から見る外界は、美鈴を手招きしているように思えた。
「フランドール様のご様子は、何か変わりありますか?」
「? 変わったこと……。あまりないと思うけれど」
「そうですか……」
天井を見上げ、ため息を一つこぼす。
今はそれでいいだろう。だが、いつか――
「思ったより元気そうね。愛の力?」
「!? ななな何をおっしゃりますか?」
……寝込んでいたときに香霖堂店主が見舞いに来て、それから驚異的な回復を遂げたというのは、一部にしか知られていない実話だが。
メイド長は意味ありげな笑みをひとつ浮かべる。
美鈴が睨むと、今度は瀟洒に微笑んだ。
「今まで忙しくて、お見舞いにこれなくて悪かったわ。早めに職場復帰してちょうだいね」
「任せてください。今すぐにでも戻れるくらいですよ」
「それは頼もしいわね……あ、そうそう」
メイド長は懐から一枚の封筒を取り出した。
「これ、届いてたわ」
「なんですか?」
およそ、見た目から幻想郷の物でないことは察せられた。
全く心当たりがない。
「開けてみれば分かるんじゃないかしら……じゃあ、私はもう行くわね」
咲夜はきびすを返し、美鈴はかすかに頭を下げてそれを見送った。
窓の外には青空が広がっていた。きっと美鈴も知らない場所が、この空の下にいくつもあるだろう。
フランドールも、いつか――きっと、彼女の知らない空の下に歩き出すはずだ。
それを信じて、美鈴は笑った。
紅魔館はそんな毎日が平和だった。
「やっぱり平和が一番ね~……ぁふぅ……」
■ ● ■
ちなみに封筒の中身は辞令だった。
「娘を泣かせたから貴様はクビだ!」
幻想郷の外にいるスカーレット家の当主は、結構な親バカだった。
フランさまが暴れに出てくるくだりではかなり納得。
確かに月がマリス砲なみの満月光線ぶっぱなしてると、狂気の象徴のようなフランさまはどうなるんだろう、と思いました。
お姉さま、月に兎狩りに行くとか帰り道に考えてたんでしょうか(笑)
そして待ってました「後ろ指さされない」!
符号は自分適当ですね・・・、この中黒とかも3つ全角で書いて、三点リーダーは使わなかったりしてますし。
ネタのほうですが私はいいと思います。
他の文章書きさんから観ての意見って大事だから参考にさせたいかなーと。
かっこいい美鈴はいいですね~
それはそれで(笑)
「後ろ指さされない」活用させて頂いてます。
前回も参考にして、自分の作品を大幅に校正してみました。
やっぱり基準を一にすると、かなり見易くなりますね。
次回も期待しています。
と、黄昏フロンティア様の日記で美鈴のスイムソウ参戦が
現実味を増してきていることが書かれていました。
待ちわびた瞬間がいよいよ具現化してきているようです。