闇に怯えるのは羊ではなく狼に違いない。
十六夜咲夜は日当りの良好な席で書類を前にしていた。時間を止めるまでもなく、ここはとても緩やかな時が流れているように彼女には感ぜられた。
メイド長たるもの、紅魔館内におけるメイドの機微は把握しなければならない。実際の確認作業こそ他の者がやるとはいえ、最終的な決済は咲夜に委ねられる。彼女にしてみれば頭の運動と覗き見を兼ねることができ、特にシフト表とそれに付随する休日の希望については、精力的に確認されることになる。
そんな咲夜がある特異な点を見逃すはずがなかった。
司書長と門番長の希望日が同じ。咲夜は紙に書かれた表の端へと目を走らせる。小悪魔と美鈴からの届け出があった日付は一日だけずれていて、そこにも作為的なものを感じ取った咲夜であったが、彼女の手が止まっていることに気づいたメイドが何事かと興味を覚える頃には、咲夜はそのメイドにサインを澄ませた書類を渡していた。
魂魄妖夢が紅魔館の使いだと称するメイドから美鈴名義の手紙を受け取ったのは小悪魔と美鈴の密会からおよそ一週間が経過してからのことであった。この頃には既にメイド各員のシフトは決められており、それを待っての行動開始である。使いの者の人選にあたっては、美鈴が信用のおけて冥界までの使いに耐えられる者を選び、その任は滞り無く勤め上げられた。その伝達手段に手紙を選んだのは、妖夢の主人にあたる幽々子にも興味を持たせられれば幸いと思ったからだ。
妖夢は何度も紅魔館には幽々子の使いで出向いており、面通しの関係上、警備部の数名とは面識がある。その使いの内容というのは毎度のことながらくだらないことで、咲夜などが仕入れてくる幻想郷の外の品、それも専ら食べ物と冥界所蔵の古筆等との交換であった。妖夢にしてみれば世々において西行寺家に伝来してきたものを消耗品などと交換するなぞ以ての外ではあったが、自分を納得させる理由として、幽々子が冥界以外との良好な関係を維持することに苦心しているのだろうという我ながら形の悪い分銅を用意して、なんとか秤の均衡を保とうとしている。斬れば判るとはいえ、主人を斬るわけにもいくまい。――それも事と次第による。
確認自体に関して妖夢に不安は無い。先代の庭師である妖忌には、文武両道を成立させるためにありとあらゆることを教授された。特に剣術は日々の鍛錬と同時に身体的な成長を待つ必要があるためなかなか上手くいかないことも多く、それに対する苛立ちと焦りは文を前にすることで消化されることになった。それでも、知識だけでどうにかなることなど一つたりとて無く、そんな妖夢が気づいた何より大事な教えというのが『斬れば判る』というものであった。
指定された日の前日、妖夢は頭を枕に置くと、手紙の内容を思い返した。これまでに紅魔館側に渡した品の中で幾つか由来が不明なものがあるため、その確認をお願いしたいと云う。古筆などはその由来が大きくその価値を左右するとはいえ、あの館にあってはそういった価値よりも内容そのものに重きを置いていた感が妖夢にはあった。それに、あの館には大きな図書館とその中に潜む知識の塊がいるのだし、彼女らの矜持などを想像してみても、わざわざ確認のために妖夢のような小童を呼ぶとは、妖夢自身からして奇異に思えたのだった。しかも差出人の名義は門番長である美鈴。その日、妖夢は満足に寝ることができなかった。
翌日、妖夢は粗方の仕事を午前中に済ませ、必要になりそうな資料を紐でまとめた。そんな妖夢を起き抜けに見かけた幽々子は襦袢と着物の按配を億劫そうに整えた。彼女の昼餉の支度を整えて出かける旨を伝えると、妖夢は白玉楼から飛び立つ。庭石に薄く被った雪が解けていく様を縁側で眺めながら、己が従者を見送った。
そこに石が無ければ雪は被らず、雪が無くては石もまた。
冥界の外は妖夢には寒く感じられた。霊が二本足で行き交いする冥界にあって、その外が寒いということはありえないはずであった。上空から見下ろす風景の中に白は無く、背を縮めた林に風は見えず、空では昇りはじめたばかりの太陽が薄雲を透かす。季節の節目、その一拍に生じる音には無音の部分がある。一拍を刻む瞬間のそのまた更に一瞬に。
妖夢は外套の襟を寄せた。彼女は一度だけ自身の持つ二振りの刀の調子を風を斬らせて確かめてから湖面に姿を映す。深さの知れない湖を越えると、そこは得体の知れない紅魔館だ。
「来なさったね」
外見から他の者よりも年長らしい門番隊の一人に出迎えられた妖夢は、そこに門番長の姿が見えないことに細い首を傾げた。少なくとも妖夢がこちらに出向いた際に限って云えば、そのようなことは一度も無かった。
妖夢が所在無い様子でいることを汲み取った門番は、隊長が自室に引き篭っていることを告げた。
「丸々一日、休みを取るなんて滅多に無いんだけど。――前に隊長が休み取ったのっていつ?」
「妹様の弾幕の囮にメイド長から抜擢された翌日ですから、かれこれ三ヶ月は前になりますね」
「そうそう、弾幕を前にしたショックで記憶喪失になったんだ」
「そのまた翌日にはけろっとしてましたね。本人は覚えているんだかいないんだか……」
危うく雑談に走りそうになった口を門番は押し留めて同僚から妖夢に向き直ると、彼女に美鈴の部屋までの道筋を教えてから自分は務めに戻った。妖夢は云われた通りに行かなければ簡単に迷ってしまうことは心得ていたから、忘れない内に館の門を抜けた。
館の中はその名の通り紅一色で、数少ない窓が無ければ、無駄に広さと奥行きのある廊下では距離感すら失くしてしまいそうであった。道すがら擦れ違うメイドたちの一挙一動に乱れは無く、立ち止まって妖夢に礼をする余裕もあった。
然し、妖夢がここを訪れるのは専ら昼日中で、いつもと特別変わった点は見受けられない。館の主が昼間に起きていることもあるとはいえ、彼女を直接に訪ねる者でも無い限りは客に気を留めることは少ない。主が外に出るとなればメイド長である咲夜がその付き添いに当たれば済み、昼間はこの館に余裕の無いときなど無いのだった。
妖夢は決して無作法ではなかったが幽々子以外に特別腰を低くするようなことも無い。彼女はメイド達に一々に返礼をするようなことはせず、薄い本の束を小脇に挟み、外套の裾風を途切れさせることなく手紙の差出人のいる部屋へと向かって行った。
指示された部屋へと向かえば向かう程、角を曲がれば曲がる度、廊下は狭くなっていった。館内、それも中枢部の構造は妖夢の頭の中でも未だに判然としなかったが、館の外れになればそれだけ把握が容易な間取りになっているようだった。目的の部屋の前にたどり着き、その部屋で間違いの無いことを周りを見渡して確認し終えると、目の前の扉を叩いた。
扉が開く前までに羽織っていた外套を畳んで手に引っ掛けた。室内から顔を出したのはもちろん門番長であったが、扉の開いた隙間から奥を見れば、そこには見覚えがあるか定かではない落ち着いた風の女性が椅子に座っていたのだった。
「わざわざ呼び立てしてごめんね」
「それは構わないけど、手紙の用件は間違い無いの?」
「あ、私があんなこと頼むとは思えないんでしょ」
「その通り」
云う間でも無いとは思ったが、変に気を遣うのは得意とする所ではなかったし、どれだけ親しくなろうと、ここが得たいの知れない館の中であることは変わらない。今に歩いてきた廊下を振り返ってみればそこが突然に不浄になっていてもおかしくない。妖夢の返答に機嫌を悪くすることも無く美鈴が部屋へと招き入れる際に妖夢は試しに廊下を見遣ってみたが、流石に不浄にはなっていなかった。帰り道がわからなくなってはいたが。
室内は苦味のある香りが漂っていた。それが部屋の隅で山になるまで運び込まれた書物――中には妖夢の見覚えのあるものもあった――によるものなのか元々のものなのかは妖夢に判別することはできない。西行寺邸では香を焚くような習慣は無い。それもそのはずで、体にしても気持ちにしても腐る物が数えるほどしか無いからである。
三脚ある椅子の内、一つは先ほど見かけた女性が座っていて、もう一つはテーブルから引かれていたから恐らくは美鈴が座っていたものだろう。妖夢はお茶の用意のために勝手場へと向いている美鈴の手を煩わせないよう、自分で椅子を引いてそこに座った。そこは窓を背にした席であったから、妖夢は少しだけ椅子の向きを変えた。
改めて室内の間取りを確認する。広さこそ二十畳強程もあったが、大きな白い布が被せられた寝台や、今に美鈴がいる勝手場がある場所を含めてなので、この恐ろしく広いであろう館にしては狭いと云えた。扉は先ほどに入ってきたものと、不浄に続いているらしいもの以外には無く、もし早急にこの場から逃げるならば、妖夢のすぐ傍にある床から天井まで続く縦長の窓からが最良であるように思えた。ただし、逆に云えば襲撃がある可能性が高いのもこの窓で、妖夢はどちらにしてもすぐに飛び出せるよう、白楼剣と楼観剣を外套で一まとめにして膝の上に置いた。
「挨拶は必要かな?」
「私からは必要が無いようだけど」
話しかけてきた斜向かいの席の女性は手元の書物に目を落としたままで、呼び易いように呼んで良いからと応えたぎり、黙ってしまった。妖夢は何をしてみようも無かったので、とりあえずは自分の用意してきた本の束の紐を解いた。本の生地と生地が擦れる音がしたときだけ女性は大きめの眼鏡越しに視線を上げたが、本当にそれだけだった。
「司書長さんは紅茶に何か入れます?」
「クリームを小さじで二杯」
「妖夢さんは?」
「そのままで構わない」
美鈴は注文の通りに茶の支度を整えながら、妖夢と小悪魔を見遣った。この二人、反りが合わないのではなかろうか。どちらも自分の主人と自分に対する厳しさしか無いような為人であるし、どちらかの堪忍袋の尾が切れれば、好奇心猫を殺すどころの騒ぎでは済まなくなる。美鈴などはその様を想像しただけで、休みまで取って余計なことをとナイフを鼻先に突き付けるメイド長の眉根の角度まで推測できるのであった。
一方、小悪魔は気楽なもので、上手く美鈴を利用して妖夢を手伝わせることができれば休日中に溜まっていた仕事を片付けることができるし、半人半霊の由来などまで判ればパチュリーにも利があることだろうと手元の本の頁を繰りながら考えていた。問題は話を振る頃合の見極めだけだ。
そして妖夢はというと、用意しておいた御八つだけでは飽き足らずに幽々子が戸棚の中を探り始めるまでには帰りたいとは思っているものの、毎度のことなので半ば諦観してしまっていた。あの方にとってはあれは御八つなどというものではない。あれでは菓子、いやさ、砂糖の塊に過ぎない。
「お二人とも、どうぞ」
美鈴がカップを二人の前に差し出すと、彼女も席に着いた。小悪魔は先ほどから読み続けていた本をようやく閉じると、それを卓に大儀そうに置く。そうして置かれていったであろう本が彼女の傍らには六冊程転がっていた。
「ここは本を読むには良い所だね」
「それって私には勿体無いという意味ですよね」
「わかってるじゃない。妖怪なのに平気な顔をして悪鬼退散だの書いてあるものを読めるなんて無神経も良いところだわ」
「司書長さんもそうじゃないですか」
「私はちゃんと対策してるから大丈夫なの」
そう云ってから、小悪魔は眼鏡の蔓を指先で弾いた。西洋の本では度々、露骨に悪魔を否定する文が出ているから、そうしたものを緩和する術式を施した眼鏡は必須であった。その必要が無いのは、美鈴のように気にしない者かそれを意に介す必要が無いほど凶悪な魔物だけで、それはそれでなかなかできることではない。
「私は漫才を見に来たわけじゃない」
妖夢が紅茶を緑茶と同じ要領で啜りながら呟く。その態度は早く仕事をくれと云わんばかりで、無為な時間は好きではないらしかった。
「安心して。お客としてもてなすのはここまでだから。そうでしょ、門番長」
「司書長さんは何一つもてなしていないじゃないですか」
「照合のためとはいえ、こちら側も少なからず妖夢さんに資料を見せなくちゃならないんだから。それだけで十分なぐらいでしょ」
妖夢は何も応えない。小悪魔は確認が必要な書類と作成しておいた目録とを妖夢に渡すと、さっさと紅茶を飲み終えて作業に入った。妖夢もそれに倣う。美鈴はというと、自分にもできそうなことはないかと考えながら、茶器の後片付けを始めた。
作業は想いの外に捗った。小悪魔がまとめておいた目録を元に指示を出し、妖夢がそれに応え、美鈴が雑事一般を引き受ける。昼食を挟んで一時間がする頃には八割方の作業は終わり、小悪魔が編纂するには十分なだけの量の注釈を赤い色をした墨汁で妖夢が書類に書きこんだ。
「これなら、丸一日もお休みいらなかったなぁ」
「そのお休みに仕事をしてるんですから、ちょうど良かったんじゃないですかね」
「私は休日でないとできない仕事をしているの。それ以外に休日なんていらないの」
「司書の方は皆さんがそうしていらっしゃるんですか」
美鈴の質問に小悪魔が眉を顰め、首を振る。ここ数日、あれだけ執拗に追い立てられていたというのに、昨日あたりからぱたりとそういったことが無くなったことを彼女は思い出していた。親愛なる主人が何事か注意してくれたものと考えているが、油断できたものではない。
「悪魔は仕事熱心なことが売りなんだけど……直接にパチュリー様に召喚でもされていなければ、いい加減になっちゃうから」
「幻想郷に流れ着いたような悪魔が多いということか」
「そう。まともなのは私を含めても、十人はいないね」
その内の四名は現在、先日の襲撃のために療養中である。小悪魔が休みを取った今日、図書館に出ているのは三名だけ。彼女らは他の司書を顎で使えるだけの悪魔としての階級と能力があるとはいえ、他の司書の数というのが百名を軽く越えている。メイド長が冬季の間に痛んだ屋根を修理させるためにあらゆる部署から人員を借り出さなければ、どうなっていたかわかったものではない。小悪魔は大きく溜息を吐くと、美鈴に紅茶の給仕を頼んだ。小悪魔は頃合だと踏んでいた。
「ところで魂魄さん。あなた、これからの予定はどうなってるの」
「こちらでの仕事が終わったのなら、八つ刻までには帰りたい」
「八つ刻っていうと……三時? ああ、御八つね。それまでに帰りたいだなんて、まだまだ子供ね」
「そうじゃない」
「如何《どう》、そうじゃないのさ」
「云いたくない」
妖夢の応えを小悪魔は鼻で笑う。妖夢はそれを気にしないよう努めたが、彼女の半身である霊体は小刻みに震えていた。半分は小悪魔に対する怒り、もう半分は幽々子への憤り故だった。妖夢は鼻で溜息を吐くと、美鈴に砂糖を二つ入れてくれるよう頼んだ。小悪魔は口元を歪めたが、妖夢は気づかなかった。
「誰にだって云いたくないことぐらいありますよ」
「そうかもね。私だってパチュリー様以外に名前を教えたりしたくないもの」
美鈴と小悪魔の会話は尋常なものだったが、妖夢は美鈴に供してもらった紅茶のカップを手にしながら、不思議そうに目を瞬いた。
「悪魔は契約者以外に名前を教えないものなの」
小悪魔が気を利かせた風に妖夢に囁く。妖夢はその態度すら気に入らなかったし、自分の迂闊さにも腹が立ったが、やはり気にしないようにして紅茶を口に含んだ。
「美鈴は砂糖を入れないの? さっきもそうだったけど」
「いつもは入れるんですよ」
妖夢は再び目を瞬いた。美鈴が大きな欠伸をする。ああ、今日は本当に天気が良いと彼女は云う。気づけば窓際の妖夢の席は陽光にあてられていた。彼女も小さな口を広げて欠伸をした。彼女の肩に半身が頭を置いていた。
「ねえ、あなた、魂魄って苗字は気に容ってる?」
「気に容るも何も、それが元来のものだ」
「ご両親もそうだったのかな」
「判らない。そんなことは知らない」
「そう」
妖夢は三度、目を瞬いた。なんだ、今の会話に自分が疑問に思うような部分があったか。違う、目が霞んでいるんだ。彼女は指先で目元を擦ったが、何も変わらなかった。そうか、自分は眠いのか。それに気づくと、今度は無性に苛立ってきた。何故に自分はこんな場所で眠くなるのか。陽光が頬にかかる。それが酷く煩わしい。
「やっぱり、一から思い出さないと判らないかな」
「何を」
「判ってもらわないと困るのよ」
「だから、何を――!」
「判らないの?」
妖夢は美鈴が哀しそうな目で自分を眺めていることに気づいた。それが酷く煩わしい。
何故にそのような目で見られなくてはならないのか。それが酷く煩わしい。
小悪魔がごちゃごちゃと判る判らないと繰り返す。それが、酷く、煩わしい。
膝の上に手を遣る。かちゃりと刀が鞘の中で音を上げた。
「……ば、判る」
妖夢が目を閉じたままで口を動かすと、小悪魔は微笑んだ。
『斬れば判る』
妖夢は自分がそう呟いたかどうかすら定かに覚えてはいない。
次に彼女が目を開けたとき、彼女は全てを忘れていたから。
十六夜咲夜は日当りの良好な席で書類を前にしていた。時間を止めるまでもなく、ここはとても緩やかな時が流れているように彼女には感ぜられた。
メイド長たるもの、紅魔館内におけるメイドの機微は把握しなければならない。実際の確認作業こそ他の者がやるとはいえ、最終的な決済は咲夜に委ねられる。彼女にしてみれば頭の運動と覗き見を兼ねることができ、特にシフト表とそれに付随する休日の希望については、精力的に確認されることになる。
そんな咲夜がある特異な点を見逃すはずがなかった。
司書長と門番長の希望日が同じ。咲夜は紙に書かれた表の端へと目を走らせる。小悪魔と美鈴からの届け出があった日付は一日だけずれていて、そこにも作為的なものを感じ取った咲夜であったが、彼女の手が止まっていることに気づいたメイドが何事かと興味を覚える頃には、咲夜はそのメイドにサインを澄ませた書類を渡していた。
魂魄妖夢が紅魔館の使いだと称するメイドから美鈴名義の手紙を受け取ったのは小悪魔と美鈴の密会からおよそ一週間が経過してからのことであった。この頃には既にメイド各員のシフトは決められており、それを待っての行動開始である。使いの者の人選にあたっては、美鈴が信用のおけて冥界までの使いに耐えられる者を選び、その任は滞り無く勤め上げられた。その伝達手段に手紙を選んだのは、妖夢の主人にあたる幽々子にも興味を持たせられれば幸いと思ったからだ。
妖夢は何度も紅魔館には幽々子の使いで出向いており、面通しの関係上、警備部の数名とは面識がある。その使いの内容というのは毎度のことながらくだらないことで、咲夜などが仕入れてくる幻想郷の外の品、それも専ら食べ物と冥界所蔵の古筆等との交換であった。妖夢にしてみれば世々において西行寺家に伝来してきたものを消耗品などと交換するなぞ以ての外ではあったが、自分を納得させる理由として、幽々子が冥界以外との良好な関係を維持することに苦心しているのだろうという我ながら形の悪い分銅を用意して、なんとか秤の均衡を保とうとしている。斬れば判るとはいえ、主人を斬るわけにもいくまい。――それも事と次第による。
確認自体に関して妖夢に不安は無い。先代の庭師である妖忌には、文武両道を成立させるためにありとあらゆることを教授された。特に剣術は日々の鍛錬と同時に身体的な成長を待つ必要があるためなかなか上手くいかないことも多く、それに対する苛立ちと焦りは文を前にすることで消化されることになった。それでも、知識だけでどうにかなることなど一つたりとて無く、そんな妖夢が気づいた何より大事な教えというのが『斬れば判る』というものであった。
指定された日の前日、妖夢は頭を枕に置くと、手紙の内容を思い返した。これまでに紅魔館側に渡した品の中で幾つか由来が不明なものがあるため、その確認をお願いしたいと云う。古筆などはその由来が大きくその価値を左右するとはいえ、あの館にあってはそういった価値よりも内容そのものに重きを置いていた感が妖夢にはあった。それに、あの館には大きな図書館とその中に潜む知識の塊がいるのだし、彼女らの矜持などを想像してみても、わざわざ確認のために妖夢のような小童を呼ぶとは、妖夢自身からして奇異に思えたのだった。しかも差出人の名義は門番長である美鈴。その日、妖夢は満足に寝ることができなかった。
翌日、妖夢は粗方の仕事を午前中に済ませ、必要になりそうな資料を紐でまとめた。そんな妖夢を起き抜けに見かけた幽々子は襦袢と着物の按配を億劫そうに整えた。彼女の昼餉の支度を整えて出かける旨を伝えると、妖夢は白玉楼から飛び立つ。庭石に薄く被った雪が解けていく様を縁側で眺めながら、己が従者を見送った。
そこに石が無ければ雪は被らず、雪が無くては石もまた。
冥界の外は妖夢には寒く感じられた。霊が二本足で行き交いする冥界にあって、その外が寒いということはありえないはずであった。上空から見下ろす風景の中に白は無く、背を縮めた林に風は見えず、空では昇りはじめたばかりの太陽が薄雲を透かす。季節の節目、その一拍に生じる音には無音の部分がある。一拍を刻む瞬間のそのまた更に一瞬に。
妖夢は外套の襟を寄せた。彼女は一度だけ自身の持つ二振りの刀の調子を風を斬らせて確かめてから湖面に姿を映す。深さの知れない湖を越えると、そこは得体の知れない紅魔館だ。
「来なさったね」
外見から他の者よりも年長らしい門番隊の一人に出迎えられた妖夢は、そこに門番長の姿が見えないことに細い首を傾げた。少なくとも妖夢がこちらに出向いた際に限って云えば、そのようなことは一度も無かった。
妖夢が所在無い様子でいることを汲み取った門番は、隊長が自室に引き篭っていることを告げた。
「丸々一日、休みを取るなんて滅多に無いんだけど。――前に隊長が休み取ったのっていつ?」
「妹様の弾幕の囮にメイド長から抜擢された翌日ですから、かれこれ三ヶ月は前になりますね」
「そうそう、弾幕を前にしたショックで記憶喪失になったんだ」
「そのまた翌日にはけろっとしてましたね。本人は覚えているんだかいないんだか……」
危うく雑談に走りそうになった口を門番は押し留めて同僚から妖夢に向き直ると、彼女に美鈴の部屋までの道筋を教えてから自分は務めに戻った。妖夢は云われた通りに行かなければ簡単に迷ってしまうことは心得ていたから、忘れない内に館の門を抜けた。
館の中はその名の通り紅一色で、数少ない窓が無ければ、無駄に広さと奥行きのある廊下では距離感すら失くしてしまいそうであった。道すがら擦れ違うメイドたちの一挙一動に乱れは無く、立ち止まって妖夢に礼をする余裕もあった。
然し、妖夢がここを訪れるのは専ら昼日中で、いつもと特別変わった点は見受けられない。館の主が昼間に起きていることもあるとはいえ、彼女を直接に訪ねる者でも無い限りは客に気を留めることは少ない。主が外に出るとなればメイド長である咲夜がその付き添いに当たれば済み、昼間はこの館に余裕の無いときなど無いのだった。
妖夢は決して無作法ではなかったが幽々子以外に特別腰を低くするようなことも無い。彼女はメイド達に一々に返礼をするようなことはせず、薄い本の束を小脇に挟み、外套の裾風を途切れさせることなく手紙の差出人のいる部屋へと向かって行った。
指示された部屋へと向かえば向かう程、角を曲がれば曲がる度、廊下は狭くなっていった。館内、それも中枢部の構造は妖夢の頭の中でも未だに判然としなかったが、館の外れになればそれだけ把握が容易な間取りになっているようだった。目的の部屋の前にたどり着き、その部屋で間違いの無いことを周りを見渡して確認し終えると、目の前の扉を叩いた。
扉が開く前までに羽織っていた外套を畳んで手に引っ掛けた。室内から顔を出したのはもちろん門番長であったが、扉の開いた隙間から奥を見れば、そこには見覚えがあるか定かではない落ち着いた風の女性が椅子に座っていたのだった。
「わざわざ呼び立てしてごめんね」
「それは構わないけど、手紙の用件は間違い無いの?」
「あ、私があんなこと頼むとは思えないんでしょ」
「その通り」
云う間でも無いとは思ったが、変に気を遣うのは得意とする所ではなかったし、どれだけ親しくなろうと、ここが得たいの知れない館の中であることは変わらない。今に歩いてきた廊下を振り返ってみればそこが突然に不浄になっていてもおかしくない。妖夢の返答に機嫌を悪くすることも無く美鈴が部屋へと招き入れる際に妖夢は試しに廊下を見遣ってみたが、流石に不浄にはなっていなかった。帰り道がわからなくなってはいたが。
室内は苦味のある香りが漂っていた。それが部屋の隅で山になるまで運び込まれた書物――中には妖夢の見覚えのあるものもあった――によるものなのか元々のものなのかは妖夢に判別することはできない。西行寺邸では香を焚くような習慣は無い。それもそのはずで、体にしても気持ちにしても腐る物が数えるほどしか無いからである。
三脚ある椅子の内、一つは先ほど見かけた女性が座っていて、もう一つはテーブルから引かれていたから恐らくは美鈴が座っていたものだろう。妖夢はお茶の用意のために勝手場へと向いている美鈴の手を煩わせないよう、自分で椅子を引いてそこに座った。そこは窓を背にした席であったから、妖夢は少しだけ椅子の向きを変えた。
改めて室内の間取りを確認する。広さこそ二十畳強程もあったが、大きな白い布が被せられた寝台や、今に美鈴がいる勝手場がある場所を含めてなので、この恐ろしく広いであろう館にしては狭いと云えた。扉は先ほどに入ってきたものと、不浄に続いているらしいもの以外には無く、もし早急にこの場から逃げるならば、妖夢のすぐ傍にある床から天井まで続く縦長の窓からが最良であるように思えた。ただし、逆に云えば襲撃がある可能性が高いのもこの窓で、妖夢はどちらにしてもすぐに飛び出せるよう、白楼剣と楼観剣を外套で一まとめにして膝の上に置いた。
「挨拶は必要かな?」
「私からは必要が無いようだけど」
話しかけてきた斜向かいの席の女性は手元の書物に目を落としたままで、呼び易いように呼んで良いからと応えたぎり、黙ってしまった。妖夢は何をしてみようも無かったので、とりあえずは自分の用意してきた本の束の紐を解いた。本の生地と生地が擦れる音がしたときだけ女性は大きめの眼鏡越しに視線を上げたが、本当にそれだけだった。
「司書長さんは紅茶に何か入れます?」
「クリームを小さじで二杯」
「妖夢さんは?」
「そのままで構わない」
美鈴は注文の通りに茶の支度を整えながら、妖夢と小悪魔を見遣った。この二人、反りが合わないのではなかろうか。どちらも自分の主人と自分に対する厳しさしか無いような為人であるし、どちらかの堪忍袋の尾が切れれば、好奇心猫を殺すどころの騒ぎでは済まなくなる。美鈴などはその様を想像しただけで、休みまで取って余計なことをとナイフを鼻先に突き付けるメイド長の眉根の角度まで推測できるのであった。
一方、小悪魔は気楽なもので、上手く美鈴を利用して妖夢を手伝わせることができれば休日中に溜まっていた仕事を片付けることができるし、半人半霊の由来などまで判ればパチュリーにも利があることだろうと手元の本の頁を繰りながら考えていた。問題は話を振る頃合の見極めだけだ。
そして妖夢はというと、用意しておいた御八つだけでは飽き足らずに幽々子が戸棚の中を探り始めるまでには帰りたいとは思っているものの、毎度のことなので半ば諦観してしまっていた。あの方にとってはあれは御八つなどというものではない。あれでは菓子、いやさ、砂糖の塊に過ぎない。
「お二人とも、どうぞ」
美鈴がカップを二人の前に差し出すと、彼女も席に着いた。小悪魔は先ほどから読み続けていた本をようやく閉じると、それを卓に大儀そうに置く。そうして置かれていったであろう本が彼女の傍らには六冊程転がっていた。
「ここは本を読むには良い所だね」
「それって私には勿体無いという意味ですよね」
「わかってるじゃない。妖怪なのに平気な顔をして悪鬼退散だの書いてあるものを読めるなんて無神経も良いところだわ」
「司書長さんもそうじゃないですか」
「私はちゃんと対策してるから大丈夫なの」
そう云ってから、小悪魔は眼鏡の蔓を指先で弾いた。西洋の本では度々、露骨に悪魔を否定する文が出ているから、そうしたものを緩和する術式を施した眼鏡は必須であった。その必要が無いのは、美鈴のように気にしない者かそれを意に介す必要が無いほど凶悪な魔物だけで、それはそれでなかなかできることではない。
「私は漫才を見に来たわけじゃない」
妖夢が紅茶を緑茶と同じ要領で啜りながら呟く。その態度は早く仕事をくれと云わんばかりで、無為な時間は好きではないらしかった。
「安心して。お客としてもてなすのはここまでだから。そうでしょ、門番長」
「司書長さんは何一つもてなしていないじゃないですか」
「照合のためとはいえ、こちら側も少なからず妖夢さんに資料を見せなくちゃならないんだから。それだけで十分なぐらいでしょ」
妖夢は何も応えない。小悪魔は確認が必要な書類と作成しておいた目録とを妖夢に渡すと、さっさと紅茶を飲み終えて作業に入った。妖夢もそれに倣う。美鈴はというと、自分にもできそうなことはないかと考えながら、茶器の後片付けを始めた。
作業は想いの外に捗った。小悪魔がまとめておいた目録を元に指示を出し、妖夢がそれに応え、美鈴が雑事一般を引き受ける。昼食を挟んで一時間がする頃には八割方の作業は終わり、小悪魔が編纂するには十分なだけの量の注釈を赤い色をした墨汁で妖夢が書類に書きこんだ。
「これなら、丸一日もお休みいらなかったなぁ」
「そのお休みに仕事をしてるんですから、ちょうど良かったんじゃないですかね」
「私は休日でないとできない仕事をしているの。それ以外に休日なんていらないの」
「司書の方は皆さんがそうしていらっしゃるんですか」
美鈴の質問に小悪魔が眉を顰め、首を振る。ここ数日、あれだけ執拗に追い立てられていたというのに、昨日あたりからぱたりとそういったことが無くなったことを彼女は思い出していた。親愛なる主人が何事か注意してくれたものと考えているが、油断できたものではない。
「悪魔は仕事熱心なことが売りなんだけど……直接にパチュリー様に召喚でもされていなければ、いい加減になっちゃうから」
「幻想郷に流れ着いたような悪魔が多いということか」
「そう。まともなのは私を含めても、十人はいないね」
その内の四名は現在、先日の襲撃のために療養中である。小悪魔が休みを取った今日、図書館に出ているのは三名だけ。彼女らは他の司書を顎で使えるだけの悪魔としての階級と能力があるとはいえ、他の司書の数というのが百名を軽く越えている。メイド長が冬季の間に痛んだ屋根を修理させるためにあらゆる部署から人員を借り出さなければ、どうなっていたかわかったものではない。小悪魔は大きく溜息を吐くと、美鈴に紅茶の給仕を頼んだ。小悪魔は頃合だと踏んでいた。
「ところで魂魄さん。あなた、これからの予定はどうなってるの」
「こちらでの仕事が終わったのなら、八つ刻までには帰りたい」
「八つ刻っていうと……三時? ああ、御八つね。それまでに帰りたいだなんて、まだまだ子供ね」
「そうじゃない」
「如何《どう》、そうじゃないのさ」
「云いたくない」
妖夢の応えを小悪魔は鼻で笑う。妖夢はそれを気にしないよう努めたが、彼女の半身である霊体は小刻みに震えていた。半分は小悪魔に対する怒り、もう半分は幽々子への憤り故だった。妖夢は鼻で溜息を吐くと、美鈴に砂糖を二つ入れてくれるよう頼んだ。小悪魔は口元を歪めたが、妖夢は気づかなかった。
「誰にだって云いたくないことぐらいありますよ」
「そうかもね。私だってパチュリー様以外に名前を教えたりしたくないもの」
美鈴と小悪魔の会話は尋常なものだったが、妖夢は美鈴に供してもらった紅茶のカップを手にしながら、不思議そうに目を瞬いた。
「悪魔は契約者以外に名前を教えないものなの」
小悪魔が気を利かせた風に妖夢に囁く。妖夢はその態度すら気に入らなかったし、自分の迂闊さにも腹が立ったが、やはり気にしないようにして紅茶を口に含んだ。
「美鈴は砂糖を入れないの? さっきもそうだったけど」
「いつもは入れるんですよ」
妖夢は再び目を瞬いた。美鈴が大きな欠伸をする。ああ、今日は本当に天気が良いと彼女は云う。気づけば窓際の妖夢の席は陽光にあてられていた。彼女も小さな口を広げて欠伸をした。彼女の肩に半身が頭を置いていた。
「ねえ、あなた、魂魄って苗字は気に容ってる?」
「気に容るも何も、それが元来のものだ」
「ご両親もそうだったのかな」
「判らない。そんなことは知らない」
「そう」
妖夢は三度、目を瞬いた。なんだ、今の会話に自分が疑問に思うような部分があったか。違う、目が霞んでいるんだ。彼女は指先で目元を擦ったが、何も変わらなかった。そうか、自分は眠いのか。それに気づくと、今度は無性に苛立ってきた。何故に自分はこんな場所で眠くなるのか。陽光が頬にかかる。それが酷く煩わしい。
「やっぱり、一から思い出さないと判らないかな」
「何を」
「判ってもらわないと困るのよ」
「だから、何を――!」
「判らないの?」
妖夢は美鈴が哀しそうな目で自分を眺めていることに気づいた。それが酷く煩わしい。
何故にそのような目で見られなくてはならないのか。それが酷く煩わしい。
小悪魔がごちゃごちゃと判る判らないと繰り返す。それが、酷く、煩わしい。
膝の上に手を遣る。かちゃりと刀が鞘の中で音を上げた。
「……ば、判る」
妖夢が目を閉じたままで口を動かすと、小悪魔は微笑んだ。
『斬れば判る』
妖夢は自分がそう呟いたかどうかすら定かに覚えてはいない。
次に彼女が目を開けたとき、彼女は全てを忘れていたから。