――竹林。
青々とした穂先が天を衝き、月明かりに真っ直ぐその身を晒す。
草木も眠る丑三つ時。
夜の闇はますます濃さを増し、魑魅魍魎の跋扈する、人在らざるものの時間に。
――陰々と響く、何かの声。
それは、風に嬲られた竹達の悲鳴か、それとも姿なき者達の断末魔の叫びか――?
違う。
それは、竹林の中から聞こえていた。
「……ろしてやる……」
それは、人の言葉だった。
「……殺してやる……」
しかし――そこに込められた、噴出さんばかりの怨恨の響きは。
「……いつか、必ず……殺してやる……!!」
触れただけで、一切を焼き尽さんばかりの――憤怒は。
月の晩。
まるで巨人の見えざる手に弄ばれたように引き裂かれた竹林の中。
「――カグヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ――!!」
復讐を誓う、咆哮が――幻想郷の夜を震わせた――
人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 ~ Imperishable Night.
Keine Kamishirasawa & Mokou Huziwara -お前”も紅”色に染まれ-
「けんけん――ぱっ。けん、けん――ぱ!」
もう、日も暮れようかという刻限。
聞こえてきたその声に、私はふっと顔を上げる。
田んぼの畦で、子供達が時間も忘れて遊びに夢中になっていた。
子供達の、こういった姿というのは実に微笑ましいものがある。
しかし、こうも日が暮れていては話も違ってくる――
「こら――そこの少年達。何時まで遊んでいる?」
私がそう声をかけると、少年たちは揃って顔を上げる。
私の顔を見るや否や、その瞳をきらきらと輝かせて――
「あ――慧音おねえちゃんだ!」
嬉しそうに足元に駆け寄ってくる子供達に、しゃがみ込んで私はその目の高さを合わせた。
「楽しかったのか?」
「うん!」
「ねえ、慧音おねえちゃんもいっしょにやろう?」
「そうしたいところだが……もう日も暮れる。遊ぶのはまた今度にして、今日はもう家に帰るんだ」
「えー?」
まだまだ遊び足りないと、全身で訴えていた。
そんな彼らを、
「元気に遊ぶ子は好きだ――だが、日が暮れてもまだ遊びたいなんていう我侭な子は嫌いだな?」
「ぅっ……」
見る間に表情の曇る子供達を、私は軽く抱きしめて――汗でしっとりと湿った頭をそっと撫でてやると、
「あまりお前達のお父さんお母さんに心配をかけさせてやるな。
……なに、心配しなくたって私は突然消えたりはしないさ。
また今度会うことがあったら、その時は私も一緒に遊ぼう――だから、今日は帰るんだ。
私との約束、守れるか?」
微笑みかけてやると、少年達はまだ不満が残っているようでありながらも、頷く。
そんな彼らの様子が、また可愛らしく――ちょっとだけ強く、私は彼らを抱きしめた。
「よし――いい子だ」
彼らの頭をもう一度撫で、肩の辺りをぽんぽんと軽く叩いて――私はしゃんと立ち上がった。
すると彼らは、先刻までぐずっていたのが嘘のように一目散に、家へ向かって駆けていく。
恐らくはそれも、誰が一番最初に家に着くかの競走となっているのだろう。
周りがどんな状況になっても、子供というのはそこから楽しみを見つける心の強さを持っている。
そういった側面を持つ人間が――私は、とても好きだ。
私は軽く息を吐いて空を見上げた。
今日も、一日の終わりを告げる夕日の輝きが、幻想郷を一面の紅に包み込む。
知らずため息が漏れるほどに、綺麗な夕焼け空だった。
私――上白沢 慧音がこの幻想郷に居つくようになってから、結構な年月が流れた。
妖怪と人間が共存する不思議な地・幻想郷。
ここで私は、人間達のために力を使い集落を守護することで、彼らと共に住まわせてもらっている。
様々な幻想の生物が入り乱れるこの幻想郷では、外とは違って人間は決して多数に属する種族ではない。
にも関わらず、幻想郷で最も多数に属する種族たる妖怪の主食は、その人間ときているのである。
脆弱な彼らもまた、この幻想郷を構成する大事な存在であることをきちんと自覚はしているため、
妖怪達は決して彼らを戯れに殺したり、絶滅させるような真似はしないが――
人間がまるで動物のように狩られ、喰われることを、看過できる私ではなかった。
幸い、私の白沢としての能力――歴史を操る力は、
この身が半獣であるにもかかわらず、他の妖怪と比べて強力な能力だったらしい。
圧倒的な実力差を持つ大妖怪には勝てないし、物量で雪崩を打たれてもその全てを凌ぎきることは出来ない。
だが――人に手を出すようなら、ただでは、返さない。
手痛い一矢を報い続けるうち、彼らもわざわざそこまで苦労して幻想郷の人間を襲わなくてもと判断したらしい。
最近では、集落を襲い人間を狩ろうとする妖怪の数はめっきりと減り、荒事も大分少なくなった。
では、今の彼らが一体何を食べているかといえば――米や麦、野菜などといった、人間とそう変わりの無い食事風景。
彼らは人間だけしか食べられないのではなく、人間『も』食することが出来る――
究極の雑食性といったほうが正しいのかも知れない。
……もっとも、それ以外の手段として、幻想郷の『外』から人間を調達している妖怪もいる。
そればかりは、私でもどうしようもない。
中と外の人間を差別しているというわけではない。
確かに、外の人間達にされた仕打ちも忘れたわけではないが――それでも。
中や外とは関係なく、私は人間が――心の底から好きなのだ。
ただ、私はこの幻想郷で生きる事を決めた。
幻想郷の人間達を、放っていくことは出来ないから。
だからせめて、私は里の人間達を守り。
外から流れてきた人間達――この幻想郷にしか居場所を見つけられないような者達もまた、全力で守ってやろうと思う。
――そんな事を考えながら、歩いていたときだった。
私が――その少女の姿を見つけたのは。
目を細め、夕日を眺めていたその少女は、今まで一度も会ったことが無かった。
一目見てそう判断できるほど――その少女の持つ印象は独特で強烈だった。
一番最初に感じたのは、少女の纏う不思議な雰囲気。
年の頃は、見たところ、外見的な意味で私と同じぐらいだろうと思う。
ただ、それにしてはあまりに、少女の纏う雰囲気は落ち着き払ったものだった。
その立ち姿といい、浮かべた表情といい――まるで何百年もの間を生き、老成したような印象さえ与える。
一瞬、妖怪かとも思った。
それも、数百年を生き続ける大妖怪の貫禄と余裕を備えているように見えた。
しかし、彼女から感じる『匂い』――これは紛れなく、人間のそれだ。
だからこそ、不思議だった。
肌も髪も、色素が薄い。
そういった髪は、普通は茶色や鬼子の様な金色になることが多いのに、彼女のそれはうっすらと蒼みがかっている。
太陽の光など知らないと言わんばかりに、血の色が透けそうなほど白い肌。
そして、その白を包むのは――椿の花を思わせるような、深い紅色の着物。
整った面持ちは、良家の子女を思わせるようでありながらも、どこか達観した老女のような雰囲気さえ感じる。
彼女の美しさを例えるなら、薄氷で作られた細工。
ほんの少し触れてしまうだけでも、すぐに粉々に崩れてしまいそうな――酷く不安定で、儚げな美しさ。
しかし。
「……私に、何か用?」
夕日から私へと――向けられたその瞳は。
空に輝く夕日をそのまま嵌めこんだかのような、見事な紅。
儚げでおぼろげな印象を軽々と覆してしまう、苛烈なまでの意志の強さと、生命力に満ち溢れていた。
その射抜くような視線に、一瞬気圧されそうになりながらも――私は口を開く。
「いや、特に用というわけではないが……この辺りは、日が沈めば妖怪の領分になる。
人間が一人でいていい場所ではないぞ」
「そう……それは、怖いわね」
瞳から感じた苛烈な気配がふっと消える。
つい、と逸れた視線といい、素っ気無いその言葉といい――私の言葉にまるで興味が無いといった様子だ。
それは、いかにも幻想郷の住民らしいといえばそうなのだが、恐らく彼女は――
「……不思議な場所ね、ここは。ちょっと見ただけだけど、ここでは妖怪と人間が共存している……何故?」
やはり、生粋の幻想郷の住人ではなかった。
私の記憶力も、まだまだ錆付いてはいなかったようだ。
幻想郷に来れば誰もが一度は口にする疑問に、同じように幻想郷の住民として一度は言うべき言葉で答える。
「それはここは『幻想郷』――幻想の生物と人間達が共に過ごす場所だからだ」
「……幻想、郷……」
自分の口から零れたその名前を、吟味するように少女は考え込み――
「……なるほど、言いえて妙、か……」
答えに一人で納得すると、少女はそのままふらりと私に背を向け、ふらりと歩きはじめる。
「――っておい! ちょっと待て――そっちは、妖怪達の住んでいる――」
「ねえ」
私の制止の言葉には答えず、少女は首だけを振り返って私を見つめて。
「先刻まで、ずっと貴女も眺めてたみたいだけど――夕日、好きなの?」
じっと見つめる瞳は、私の心さえ見抜いてしまいそうなほどに真っ直ぐで。
だから私は、余計な言葉で飾り立てすることもなく――こくりと頷く。
すると少女は、くすりと笑って――
「私は、夕日が嫌いなの――凄くね」
そしてそのまま、今度は振り返る事無く、私の目の前から去っていく。
だんだんと小さくなっていく背中に、私はそれ以上の言葉をかけることが出来なかった。
夕日と同じ輝きを湛えた瞳の強さは、他人を求めているものではない。
外でどのような生き方をしてきたのかは判らないが、世を一人で渡り、生き抜き。
そしてそれに耐えてきた強さが込められている。
その孤高の強さは、虚勢だとは思えないのに。
それでありながら、私は何処か、彼女を放ってはおけないと感じていて。
相反した二つの魅力を持ち合わせた少女に、私はこの時何もすることが出来ないでいた。
見送った背中。
少女の着ていた椿色の着物が、血の一滴の様に闇の中に映えていた。
それから後。
幻想郷の様々な場所で、彼女の姿を見るようになった。
そしてその蒼の髪と、椿色の着物を目にした時――必ず私は、彼女に話しかけるようにしていた。
あの時止められなかった、紅色の背中。
いかなる干渉も、やんわりと拒絶するかのようなあの背中。
それが酷く寂しげに映って、気になって仕方がなかった。
最初は、一言二言を喋る程度だったが。
時を経るに従って、少しづつ私達の間の言葉は豊かになっていった。
丁度集落に、私と同じぐらいの年頃の少女が一人もいなかったのも後押しになったのかも知れない。
壊れてしまいそうな危なげな美しさと対照的に、柳を思わせるような飄々とした立ち居振る舞い。
同じような年頃の少女が、みな彼女のようなを持っているのかは判らなかったが。
少なくとも、教養も知識も豊富な彼女は――
年頃の少女達となにかと話が合わないことの多い私にとって、正に得がたい相手だった。
時に、麓の岩に腰掛け、麗らかな日差しを浴び。
時に、高い杉の木の枝の上に立ち、抜けるような空を眺め。
彼女は色々な場所にいたが、人里でだけは会うことが無かった。
その事について聞いてみても、困ったように笑って誤魔化すだけ。
だから私は、それ以上この件について言及することは無かった。
不思議な関係が続いていた。
少女は、自分のことについて殆ど何も語らなかった。
何処に住んでいるのか。
普段は何をしているのか。
外では、どのような立場にいたのか。
気にならなかったといえば、嘘になる。
やろうと思えば、この少女の歴史を覗き、本人の意思に関係なく全てを知ってしまうことも出来た。
しかし、私はそれをしたくはなかった。
幻想郷の『外』からきた少女――そして、恐らくは。
幻想郷以外に、居場所を求められなかった少女。
私達は、互いの過去を知らなければ、心を許すことも出来ないほど愚かのだろうか。
「……? それ――菫?」
「ああ……綺麗だろう?」
「へぇ……もしかして、初恋の誰かからもらったとか? 随分と年季ものみたいだし」
私とて、知られたくない過去がある。
たとえ知られたとしても、わざわざ口にはしたくない部分だってある。
「まあ、年季ものではあるし、思い入れの強いものではあるがな……私の、宝物だ」
そういうことは――自分の胸の内に、そっとしまっておけばいい。
切れ切れな言葉を風に載せる程度だった会話が、いつの間にか藹藹としたものとなり。
いつしか私達は、軽口を叩きあい、笑顔を咲かせるような間柄となっていた。
少女と話していると、私は楽しかった。
子供達の世話をしながら、日が暮れるまで遊びに付き合うのとは違った楽しさがあった。
少女も、同じ感情を抱いていてくれればいいと思った。
私が見ている限り、少女も私と一緒にいる事を楽しんでいてくれたようだったが。
それでも、時折。
どこか遠くを見つめ、酷く乾いた笑みをふっと浮かべることだけは――彼女は止めなかった。
不思議な少女と関わりを持つようになってから、半年の年月が過ぎて。
相変わらず彼女は人里には降りず、そして私は人間達のために幻想郷を見回る日々の中。
奇妙な噂を、私は耳にした。
「……どうしたの? そんなところでぼうっとして」
唐突に声をかけられ、はっと顔を上げる。
かち合ったのは、怪訝そうに私を覗き込んでいた――夕日のような紅の瞳。
「こんなところで、ずっと俯いて……どこか体の具合でも悪いの?」
「いや……そうではない」
椿の着物の少女の言葉に、私は軽く首を振る。
平常は人間の姿とはいえ、これでも私の体は人間の何倍も頑丈に出来ている。
暑さ寒さに耐える自身はあるし、風邪を引いたり腹痛を起こしたという経験も一度も無い。
「それより、珍しいな……お前から私に話しかけてくるとは」
「俯いたまま何時間もじっとしたままでいる貴女のほうがよほど珍しいわよ。
いつからそうしてたのか知らないけど、もう日も暮れるわよ?」
なに――?
私の知る限り、今日の太陽はまだ南天に高く上っていたはずだ。
そんなに時間が過ぎていたのかと空を見上げれば、太陽はもう山の向こうに最後の紅を投げかけようとしていた。
半日もの間、私はなにをするでもなくぼうっと突っ立っていたというのか。
「――本当に疲れてるんじゃない?」
くすくすと笑う彼女に――返す言葉も無かった。
「いや、まあ……ちょっと、考え事をしていてな」
「考え事……?」
「ああ……まだ噂の域を出るものではないんだが……どうもまた集落が脅かされそうな事態になりそうでな」
私の白沢としての能力は個体としての力も強く、極めて柔軟な使用法も出来る優れたものであることは自覚している。
しかし歴史の操作とは、少々乱暴な言い方をすれば超強力な催眠術のようなものに近い。
こちらの力の総和を軽く捻るような圧倒的な実力の持ち主や、
極めて高い幻視力の持ち主などには全くもって通用しないのである。
基本的には抵抗したり、抗ったりできる類の力ではないために、
効く相手と効かない相手で真っ二つに割れるとも言える。
普通、歴史の修正が通じないような圧倒的な実力を持っているならば、周囲の妖怪を引き連れ王のように君臨するか、
はたまた世俗と一切の関わりを絶ち、誰にも知られない場所に自らの安息を求めるのだろうが――
ここは外ではなく、幻想郷だ。
人間を相手に『からかう』妖怪達の中で、私が危惧するほどの圧倒的な能力を持っている者にも思い当たりがあった。
これが私の杞憂に終わるのならばいい。
「無駄足だったな」と苦笑するだけで、平穏が続いてくれるのだから。
何か被害があってからでは遅い。こういった際の準備というのは、無駄になってしまうことが一番幸せなのだ――
「ちょっとちょっと、顔、顔」
とす――と、眉間の辺りに、少女の人差し指が突き立てられる。
知らずのうちに随分としかめっ面になっていたことに気付き、私は思わず苦笑してしまった。
「……けど貴女、本当に変わってるのね」
「……変わってる……私がか?」
彼女は大真面目に頷く。
「ええ。だってそこまで身を粉にして働いて、集落を心配して、あちこちを駆け巡って……。
今まで何度も見てきたけど、何かの報酬も無いのによくそんなことが続くなって思うわ」
「失敬な。これでもきちんと、集落から日々の生活を遅れるぐらいの報酬は――」
「あれだけ働いてる事を考えたら、そんな報酬なんて少なすぎるぐらいよ」
私の反論を、たった一言でぴしゃりと切り捨てる。
……うーむ。
彼女に、どう説明すれば理解してもらえるのかと思い悩んでみたが、言葉が思いつかない。
「……確かに、他の者達から見れば……私は随分とおかしい事をしてるのかもしれないな」
だから私は、馬鹿げていると思われかねないほど真正直に思った事を口にする。
「だが、それでも私は、彼らのことが大事なんだ。
彼らが例え、私の事をどうも思っていなかったとしても――
私にとって、彼らはこの身を粉にするだけの価値がある。それは変わらないだろう?
私が、彼らの事を、愛しいと感じている。だから私は、ここまで頑張れる。……そういうことなんだと思う」
次の言葉が彼女の口からもたらされるまでに、少し時間があった。
茜色の空と同じ、その瞳を少し細めて。
彼女は、私の心の奥まで覗き込むようにして――じっと、見つめていた。
「……貴女は本当に――変わってる」
呆れたようなその一言。
「真っ直ぐすぎるのよ――素敵なくらいに」
彼女はふわりと、微笑んでいた。
「他の誰かが貴女と同じ事を言ったら、裏があるのか、それとも世間を知らないだけかって思うけれど……。
貴女が言うと、そんな言葉でも臭みを感じない。……本当、変わってるわ……救いようがないぐらいね」
「それは褒めてるのか、それとも馬鹿にしているのか?」
「決まってるでしょ――両方よ」
笑い声が、幻想郷の夕暮れに響いた。
「まあ……でも、それだけあの集落の人達の事が好きなのは伝わってくるわよ、本当」
「そうだな……私は、彼らのことが大事だ」
ひとしきり、互いに笑った後――私は表情を改めて彼女に向き直る。
「――そして、お前のこともな」
言うべきかどうか、迷っていた。
また、あの日の繰り返しになるのではないかと不安だった。
それでも。
「お前が一体、何処でどの様にして日々を過ごしているのかは知らない。
……だが、もし。もしよかったら、私達と一緒に集落で暮らさないか?」
一番最初に出会ったときの、あの遠ざかっていく小さな背中に。
私は、どうしてももう一度手を伸ばしたかった。
「言ったとおり、どうも物騒な雰囲気になりつつある。……心配なんだ、お前のことが。
お前が集落にいてくれれば、私は安心して原因を突き止めることが出来るし――
それに集落の者達は、皆いい人ばかりだ」
「うん……そうね。貴女がそこまであの人達を好きになる理由も判る。
外の人間より、ずっといい人たちだと思ったわ」
「なら――」
「でも、駄目」
はっきりと。
彼女は首を横に振った。
「それだけは――どうしても、駄目なの」
「…………そうか」
こうもはっきりと、断わられてしまっては。
私にはそれ以上、何も言うことなど出来なかった。
言葉が途切れ、ゆっくりと空の闇が濃さを増していく。
「――ねえ」
夕日を見つめながら、彼女は口を開く。
「貴女は、なんで――夕日が好きなの?」
唐突な言葉だったが。
何も話す事が無くなってしまった今は、それが有難かった。
「……夕日は、私にとって母親代わりだったんだ」
彼女と同じように、私も夕日を眺める。
今日も夕日は、その紅の腕で、世界を暖かく包み込んでいた。
「誰も彼も差別する事無く、沈む夕日は暖かい輝きを私達に投げかけてくれる。
私が一人だったときから、ずっと夕日だけは……私をあの紅で包み込んでくれたんだ……」
「……そっか……」
「……変、か?」
ふるふると、首を横に振る。
「……私が、夕日を嫌いなのはね」
もう、沈もうとする紅を――同じ色をした瞳で見つめて。
「――世界が、血の色に染まったように見えるから」
酷く乾いた笑みを、浮かべていた。
「草も。木も。家も。街も。山も。
私の体の隅々までもが、血で染まったみたいに見えて。酷く、気持ち悪くて……嫌いな色」
椿の紅を思わせる着物を、その身に羽織り。
夕日の事を『嫌いだ』と告げた少女。
「でもね」
そっと、私のほうを振り向いて。
「夕日が好きだっていう、貴女は――嫌いじゃないわよ」
紅に染まった少女の笑顔が、鮮烈な茜の斜陽のように――私の心に残っていた。
少女と別れて――黄昏色に輝いていた空が、黒の天鵞絨を広げたような見事な星空へと変わった頃。
私は気持ちを切り替え、改めて集落の人間達から聞いた噂話に関しての情報の整理をしていた。
獣の咆哮のような叫びが聞こえた――
私が証言を聞きにいった者達全てに共通した情報がそれだった。
それぞれが、その咆哮を妖怪の叫びだと。あるいは、姿無き魂魄たちの無念であると。
その解釈の仕方は十人十色だったが。
これは単なる噂にしては、少々数が多すぎる。
何分、人づてに聞いたものも多かったが、その『咆哮』を実際に耳にした者も多いのである。
そして。
『咆哮』を耳にした者に共通する、もう一つの項目。
『咆哮』を鮮明に捉えたものほど――潜在的に、高い幻視力を備えていたことが気にかかった。
この幻想郷に、狼のように遠吠えをする妖怪はいない。
となると、可能性としては外から新しい妖怪が幻想郷に紛れ込んだという線が浮上してくることとなる。
その上、『咆哮』の存在を万人に悟らせず――
それどころかこの私にさえ、今まで存在を気取らせなかったのも大いに気になった。
力の絶対量はどうか知らないが、少なくとも己の力を隠すことに関して相当手練れているのだろう。
それが世俗との無益な関わりを忌んでより編み出したものや、
力の無い妖怪が自衛のために考え出したというならまだいい。
しかし、予想しうる最悪の事態であった場合ならば。
集落の人間達に、もしものことが起こる前に。
――この手で、仕留めねばならない。
衣装棚から新しい着物に身を包み、袖を通す。
素肌にそっと触れた布地がひんやりとした冷たさを伝え、すっと背筋を伸ばし、表情を引き締めた時。
雲に隠れていた月の光が、窓の外から真っ直ぐに私を照らした。
満月の、月の光が。
私の姿が、変わる。
瞳の色は鮮やかに紅に染まり、臀部の辺りからするりと生える、銀の毛並み豊かな一本の尾。
雨後の筍のように光を浴びてするすると伸びていくのは、白く輝く二本の角。
昔と違い、もう私の体は成熟を迎えたため、これ以上の肉体的な成長は無い。
しかしその静かな変化とは裏腹に、私の体を内側から突き破らんとする精神の昂揚と力の充実。
半獣の私が、白沢としての力を完全に引き出すことのできる満月の夜。
噂の真相が、白であれ黒であれ――
今晩中に、決着をつける。
静かな決意と共に、私は軽く地面を蹴った。
咆哮を聞いた者達が、幻想郷の何処でそれを聞いたのかは事前に調べていた。
私はその場所に向かい、そこに残っている歴史に語りかけ、紐解くことで、その咆哮を聞いた瞬間を『再生』する。
歴史の中で聞いた咆哮――冗談や単なる噂ではなかったようだ。
咆哮が発せられた方角を突き止め、手にした幻想郷の地図に線を描きこんでいく。
最初はただの直線でしかなかったものが、やがて10も飛びまわった頃には、多少の誤差はあれど、線は一点へと収束した。
そこは、丁度あの椿色の着物の少女とよく会う場所の付近。
当然私は何度も足を運び、その一帯の地形に関してはかなり詳しく知っている。
こんな所にあの咆哮を発するような者が隠れ住んでいたのだろうかと、上空でふと首を傾げた時。
私の視界に、見慣れぬものが映った。
私は慌てて引き返し、そのすぐ近くへと降り立つ。
そこにあったのは、結界だった。
それも相当高度に洗練された強い術であることが判る。
妖怪としての力が完全に覚醒している今宵の私でさえ、注意深く目を凝らしていなければその結界を認識することが非常に難しい。
この結界で包んだ場所は、その外の人間にとって『認識できない』存在となるようだ。
だから最初から結界の存在を知っているか、強い力の持ち主でもない限り、
誰もそこに結界があることに気が付かない仕組みになっている。
幻想郷では外の常識は通用しないが、いくらなんでもこんな結界が自然発生するわけがない。
明らかに、その内側には何かが――結界の中を知られたくない誰かがいる。
私は結界に近づき、その境界面にそっと触れてみた。
まるで抵抗も何もなく、するりと手は結界を突き抜けるが――それは決して、結界の内側に侵入できたというわけではない。
その程度の事で干渉が出来るほど、甘い術ではないようだった。
だが、だからといってこのまま諦めて引き下がるような私ではない。
軽く瞳を閉じ、私は意識を収斂させる。
自らの内側で、心臓とは別の『鼓動』を感じる――そこから溢れ出す力の形を、意志を持って整えて。
意識を結界に――結界の『歴史』へと潜らせ、そのまま私は結界の歴史を――喰らった。
……やがて目を開けたときには、丁度人一人が通れるぐらいの『穴』が結界に開いていた。
障壁や結界の類は、私に対して何の力も発揮することは出来ない。
何者をも受け付けぬ壁であっても、その歴史を紐解き、発生の根底を喰らってやれば簡単に消滅するからである。
術者本人ならいざしらず――単なる結界如きが、強い自我や意志を備えているわけもない。
私の能力の前に抵抗出来ないのである。
勿論、結界の規模が果てしなく広域であったり、強力な場合などは、その全てを喰らうのは一仕事だろうが、
こうやって自分が潜り抜けるほどの抜け穴を作り出すことならば造作も無いことだ。
ただし、一部にのみ干渉したことで、結界全体の歴史には大分負荷がかかってしまう。
そのため、恒久的に穴を開け続けることは出来ない。
穴を潜り抜けた後、きちんと歴史を戻し、再び綻び一つない境界面が戻った後。
私の視界に飛び込んできたのは、鬱蒼と茂る広大な竹林だった。
月の光に青々と輝き、その槍先は天を貫く。
これほどまでに見事な――圧倒されるほどの竹を見たのは初めてだった。
このまま暫く、息を呑むようなこの光景を見ていたかったが――私がここに来たのは、噂の究明のためだ。
そしてここがどれだけ美しくあろうと、ここは閉じられた場所であり、この中にはそれを閉じた存在がいる。
結界の中にあっても、まだその存在の気配は感じられない。
しかし、私は気を引き締め直し、竹をかきわけ進んでいった。
しばらく、進んでいくうちに――私は次第に表情が強張るのを止められなかった。
「な……!?」
先刻まで、あれほど幻想的な美しさを誇っていた竹林。
だというのに、今私の目の前にある光景は、立派な竹幹を半ばで引き千切られ、散々に破壊された森の死体だった。
一転を中心に、放射線状に薙ぎ倒されたそれは、まるで爆弾でも放り落とされたかのようで――
その痛々しさに、思わず苦鳴が漏れる。
竹の焦げた異臭も漂っており、本当に爆弾が炸裂したのではないかとさえ思う。
さらに進んでいくうち、広大な竹林のあちこちを虫食いするような様子で、似たような場所が点々と広がっていた。
この頃には、これば爆弾が落とされたのではなく、この結界の内部で何者かが争っていたのではないか――と。
そう考えるようになっていた。
だとしても。
これほどの破壊を撒き散らす争いとは、一体何なのだろう?
少なくとも『弾幕ごっこ』で、これほどまでに酷い有様を生み出すことが出来るものなど――
そんな事を考えていた時だった。
異臭ですっかり曲がりそうになっていた私の鼻に――それ以外の匂いが紛れ込んでくる。
この、嗅いだだけで全身の神経が尖りそうになる不吉な匂いは。
人の、血の匂い。
私は風のように大地を蹴り、その匂いのするほうへと急いで駆け抜け――
そして、一番見たくなかったものと対面することとなった。
端的にいえば、それは。
人『だったモノ』と言えばいいのだろうか。
まるで隕石が落下したように、放射線状に薙ぎ倒された竹たちの中心に『それ』はあった。
全身をぼろぼろに破壊され、濃密な血臭が漂う屍。
特に左胸と思わしき部分は大きく抉られ、風穴が開いていた。
間違いなく死んでいる。
だが、私の心が大槌で殴られたような衝撃を受けたのは。
顔面まで破壊され、何者だったのか見て取ることも出来ないほど酷いその死体が着ていた着物。
血で、べっとりと濡れているが。
椿色の、着物――
「……そ……そん、な…………!?」
自分の言葉が、何処か酷く遠い場所から聞こえてくるようで。
私は――膝の辺りから崩れるようにして、その場にへたり込んでいた。
何故彼女がここにいたのか。
ここで一体、何をしていたのか。
それは判らない。
判っているのは、ただ――
「お前のことも、失いたくは……無かったのに……」
あの時。
無理にでも集落に連れて帰っていれば、こんなことにはならなかっただろう。
遅すぎた。
誰一人、こんな目にあわせたくはなかったのに。
――失われた後では、全てが遅すぎた――
しかし、私の目の前で。
私の想像を絶することが起こったのはその時だった。
少女の死体――その背中から、不思議な紅の輝き広がり、宙に紋様を描いていく。
それはまるで、大きく翼を広げた鳥。
異国の神話に登場する、炎を纏った不死鳥の紋様。
一体何が始まったのか判らず、ただただその光景を食い入るように見つめる私の目の前で。
冷たくなった、彼女の体が――勢いよく燃え上がった。
その炎は苛烈を極め、包まれた彼女の体は骨も残らず燃え尽きるものかと思われたが。
驚くべきことに、その炎は彼女の遺体を焼くどころか――その炎が纏わりついた場所から、肉体を再生し始めたのだ。
あまりのことに、完全に言葉を失う中、みるみるうちに少女の失われた体が、椿色の着物が元に戻っていく。
そして、全ての傷が癒えた後、仕上げとばかりに、まるで太陽が落ちてきたような強い輝きが視界を紅に焼いて――
強い光に、半分以上の視界を失った私だったが。
はっきりと、この目で見た。
倒れていた少女の瞳が、僅かに震え――ゆっくりと、見開かれて。
少女は『生き返った』。
生き返った少女は、全身にびっしりと汗をかき、顔色も酷いものだった。
まるで手負いの獣のように体を抱えてうずくまり、荒い息を噛み砕きながら――それでも。
その瞳の中にあった紅は、今まで見たことが無いほどの苛烈な輝きを宿していた。
「…………また……また、負けた……」
獣のようにむき出した歯を、悔しげに噛み締め――地の底から響くような怨嗟が漏れる。
「…………また…………殺された…………っ……くそッ!!」
華奢な拳を、血が滲むほど握り締め。
地面へと叩きつけて、地獄の底から唸るような声を上げる。
「くそっ――糞糞糞ッ!! 何で――何でいつも!! あいつはッ!! あの女はッ!!」
狂気じみた瞳の輝き――隠そうともしない怒りの感情。
そんな少女の姿を、私は初めて見た。
「あの女は――あの女はァァァァァァァァァァァァァッ!!」
ひたすらに叫び、怒り狂い――地面へとその拳を叩きつけて。
やがて、うっすらと手に血を滲ませながら、彼女はゆっくりと立ち上がる。
炎が吹き上がりそうなほど峻烈な輝きを秘めた瞳が――私を鋭く射抜いた。
「貴女――どこから、入ってきたの?」
その瞳を見た時。
少女の口から漏れた、その言葉の冷たさと熱さに触れた時。
私は彼女が、この閉鎖された空間での被害者などではない事を確信していた。
「ここは、臭い妖怪風情がみだりに足を踏み入れていいところじゃないの――さっさと、消えなさい」
少女は私の正体には気付いていないようだった。
確かに、人の姿の時の私と、この姿の時の私は顔立ちなどが劇的に変化しているというわけではない。
しかし、普通に考えて、人間が角と尾を生やして妖怪になるなどと想像できる者などいないのが当たり前だし、
この体に宿る、私自身の本質的な部分においては――全くの別人といっていいほどに『変化』してしまっている。
そのため、なまじ本質的な部分で他者を判断するような類の者であればあるほど、変身前の私と今の私を結びつけ辛い。
そう、本質的な部分。
今、目の前にいる少女は――本質的な『匂い』こそ、人間のそれと同じだったが。
「お前は……『蓬莱人』なのか……!?」
蓬莱人。
歴史を通じ、万物に通暁している私でもおぼろげな情報の断片しか持たない種族。
不老不死の存在と言われる彼らは何でも、永遠を封じ込めた特殊な薬を嘗めることによって変質した人間。
世に等しく訪れる大きな輪廻の輪より外れ、自らの内に自分だけの輪廻の輪を持つことによって、
何度でも何度でも『蘇る』ことが出来る――終わりなきもの。
この幻想郷にあっても、その噂すら聞くことのなかった『幻想の存在』――
私の問いに、少女は冷ややかな嘲笑を唇の端に浮かべた。
「貴女、私が『生き返る』姿を見ていたんでしょう?
そこまで知っててまだ判らないのなら、その目は硝子玉よりも役に立たないわね」
そのまま、するりと私の傍を通りすぎようとする。
「まあ、いいわ――もう今日はここに用は無いし。
貴女が消えないのなら、私がここから消える――せいぜい、満月の夜を楽し――」
「――待て」
私はその肩を掴んで押し留めた。
少女の顔に、さっと怒りの色が広がっていく。
「その臭い手をどけなさいよ――妖怪」
「ここで何があったのか、教えて欲しい」
私への暴言には対しては、眼を瞑って。
その問いが、さらなる怒りを招く事を承知で、それでも確かめねばならない事を聞く。
「お前はここで、一体何と戦っていた? 何故、このような閉じられた空間の中で戦っていたんだ?」
「……それを貴女に教えなければいけない理由は何なの?」
「ここまで無差別に力を振り回す妖怪を、私は知らない。
場合によっては、幻想郷の和を乱す可能性がある――だから知っておきたい」
誰も殺させたくは無い。
集落の、皆も。
――この、少女も。
「教えて欲しい。お前は、一体誰と戦い――敗れたんだ?」
『敗れた』という言葉が――私の口を衝いて出たとき。
鬱陶しげに私を睨みつけていた少女の雰囲気が、一気に変わった。
全身の毛が逆立つほどの赫怒を感じ、本能が激しく警鐘を鳴らす――
「私は、まだ――敗れてないッ!!」
少女は私の手首を掴むや否や、それを力づくで引き剥がした。
箸より重いものを持ったことがあるようには見えない華奢な手から繰り出された膂力に、驚くより早く。
そのまま彼女は、私の腕を力任せに振り払う――抵抗も出来ず投げ飛ばされ、竹幹に打ち据えられた背中に呼吸が詰まった。
「妖怪風情に、何が判る――私達の因縁の、何が!!」
少女は今や――その表情を鬼へと変えていた。
内側から溢れる力にその髪は逆立ち、眼窩の奥で輝く紅は、まるで地の底から吹き上がる溶岩のよう。
焦げるように熱い怒りが煮えたぎり、彼女から放たれるその熱気に、ひりつくような痛みさえ覚える。
いや――これは、単なる比喩などではない。
少女の周りの空気が、本当に熱を帯びている。
足元に生えていた草がみるみる水分を失い、炎も無くゆっくりと焦げていく事に、私は言葉を失った。
「……このまま見逃しておこうと思ったけど、気が変わった」
焼け付くような言葉を吐きながら、少女はゆっくりとその指を開いていく。
硝子より脆い氷で作られたように細く、白い腕を掲げながら――
「死になさい――この、醜い妖怪如きがァァァァァァァァァ!!」
瞬間――少女は紅の弾丸と化し、私へ向かって突撃した。
その少女の体は華奢で、力を入れて抱きしめれば壊れてしまいそうなほど細い。
だが、そんな姿とは裏腹――まるで野生の獣を思わせるような凄まじい勢いで私との合間を詰めていく。
振り上げた指先には、武器も何も無い。
単に熊の手のように指を湾曲させ、振りかぶっただけに過ぎない。
しかし、私が間一髪で避けた一撃は、まるで猛禽の爪の様にこめかみの辺りをかすめ、一文字に肉を抉っていった。
ぱっ――と、血が弾け、敷き詰められた竹の葉に飛沫が飛び散る。
「逃げるなぁぁぁぁっ!!」
少女は手を緩めない。
そのまま両腕を振り上げ――滅茶苦茶に振り回し、襲い掛かってきた。
少女の動きは武術などの類を納めているわけではない、極めて粗雑な動きだったが――恐ろしいほど戦い慣れている。
完全に妖怪となっている今の私の肉体は、人間の基本性能の数段上を行くはずだが、
今の動きを見る限り、この少女と相対しても差異は無いように思えた。
重く鋭い連撃を、研ぎ澄まされた直感によって何とか躱し、私は一旦距離を置いて体制を立て直そうと試みる。
しかしそれより、少女が懐から抜き出したものを、残像も残らぬ速度でこちらに投げ放つ動きの方が速かった。
頭を下げ、掠めるようにぎりぎりのところでやりすごしたそれは――複雑精緻な文様を描いた、数枚の符札。
紙で作られているはずのそれらは、まるで鋭利な刃物のように闇を切り裂き、深々と背後の竹に突き刺さっていく。
そして次の瞬間、天に聳えるような火柱が符札から吹き上がる。
咄嗟に前転してその場を離れていなければ、炎に巻き込まれ黒焦げになってしまっていただろう。
「ちょこまかちょこまかと……鼠のように逃げ回って、恥ずかしいとは思わないの?」
圧倒的なまでの力と速度で、私を圧倒してみせた少女の姿。
この様な時に、こんな感想を抱くことは不謹慎なのだろうが。
炎の照り返しを受け、凛と立った姿は――今まで感じたことが無いほどに、活き活きとした力に溢れていた。
さっと、少女は宙に手を翳す。
瞬間、彼女の背中に不死鳥の紋様が浮かび、その炎の羽根をゆっくりと広げる。
彼女の掌から、凄まじい勢いで炎が吹き上がった。
「鼠は鼠らしく――炎に焦がれてしまえばいい!!」
瞬間、高速で放たれたのは、弾丸の用に打ち出された火炎弾。
それは、決して幻想郷でよく見られる『弾幕ごっこ』などではない。
本気で、ただ相手を『殺す』ためだけに練り上げられた弾幕――
吹き上がる炎以上の憎悪と殺意を露に、火炎弾は複雑な軌道を編みながら、私の命を焼き尽さんと牙を剥く。
私は日頃の弾幕の経験を活用し、燃え上がる炎の塊をやり過ごし、楔のように鋭く放たれたものは紙一重で躱していく。
竹林に次々に着弾する火炎弾は火柱を生み、広がった炎の海はこの世の果てさえ思わせた。
反撃をする暇が見つからない。
紙一重で致命傷だけは裁いているが、すれ違った炎は確実に皮膚を焼き、焦げた跡が体のあちこちに走っていた。
満月の夜の私の体は、平常のそれよりも更に数段生命力と治癒力が高い――
こめかみの傷ももう塞がってしまっていたものの、このまま押され続けていればいつかは炎がまともに私を捉えるだろう。
あれほどの高熱と速度ならば、私のこの命を、それこそ周りの竹のように燃やし尽くすことになるのは明白だった。
それでも。
私は、この弾幕に消されてしまわぬよう、張り裂けんばかりの声で叫んでいた。
「因縁と言ったな!? ――お前は何をそんなに怒り狂っている!?」
私の知っている少女とは、明らかに違う姿。
あの、どこか達観した、まるで風の中に立つ柳のような飄々さがまるで感じられない。
自らの内から火山のように吹き上がる怒りに完全に身を任せたその様子は、まるで泣き叫ぶ幼児さえ思わせる。
「お前をそこまで感情的に追い立てるものは何なんだ!?」
「叫んでる余裕があるの――妖怪ッ!!」
弾幕が視界を塞いだ、ほんの一瞬。
それをついて、少女は再び突撃する。
――その一撃が、この体勢からでは躱せそうにないことを、本能的に私は感じ取っていた。
だが、こんな所で命を失うわけには行かない。
判断は、一瞬――
意識を剣のように研ぎ澄ませ、私の白沢としての能力を完全に解き放つ。
彼女の次の一撃が、何であるのか。
その結果――私がどうなるのか。
その歴史を『先読み』して。
平常ならば抗えぬ、その歴史に――力の全てを持って『抗う』。
――間一髪のところで受け止めた腕は、そのあまりの衝撃の重さにぎしりと嫌な音を響かせていた。
「あの女は! 私の、父様に……恥をかかせた!!」
「なに……!?」
「――あの女は!! 賤しい身分でありながら……私の父様の求婚を断り――信じられないような恥をかかせたッ!!」
両手を受け止め、そのままがっちりと握り締めあう形となる。
完全に力が拮抗する中、己の内側から沸きあがる怒りをそのまま、少女は言葉の形に表していく――
「私にとって――私達の家にとって、当主である父様は誇りだった!
私は、決して望まれた子供では無かった……対屋にも入れてもらえなかったけれど!
それでも、高貴な身分だった私達の『家』に生まれられたこと、父様の娘であったことは私の誇りだった!!
なのに、たかだか成り上がった小金持ちの――それも拾い子のくせをして!! あの女は父様の求婚を断わった!!
それが、どれ程の屈辱か……どれほど、家来達に示しのつかない泥をつけられたことかッ!!」
蓬莱の薬の力か――はたまた、彼女の怒りがもたらしたものか。
妖怪である私を圧倒しかねないほどの凄まじい力をその細腕に込め。
瞳に、昏い炎を燃え上がらせる。
「私は、あの女に復讐してやると誓った……なのにあの女は、そんな私の前から姿を消した!
聞けばあの女は、月から地上に落とされた賤しい罪人、月に帰った以上、手を出すことさえ出来ない!!
父様の名に、傷をつけておきながら!! あの女は――私達の前から消え去った!!
厚顔無恥にも程があるやりかたで!!」
不意にその力が緩められる。
唐突だったために、大きく体勢を崩した私に―― 一歩踏み込んだ少女の膝蹴りが炸裂する。
その衝撃に、まるで鞠のように跳ね上げられて宙を舞った。
冗談のように視界が流れ、数本の竹達を薙ぎ倒して、私の体はようやく停止する。
咳き込んだ喉の奥で、赤いものが弾けていた。
「だから、私は――あの女が最後に遺した薬を奪った。
あの女が世話になった、恩義を感じた男を殺して――だってそうでしょう?
あの女は、父様の今まで保ってきた威厳を――『命』を奪ったのだから!!」
少女の方も、あれだけの動きに加え、一気にまくし立て――息が切れたらしい。
しばらくは顔を上げることも出来ず、顔を真っ赤にして荒く息を吐き出す。
「……それでも、本当なら……」
掠れるよう、絞り出した声は―― 一瞬、普段の少女に戻ったかと思うほど穏やかで。
「本当なら、私の復讐はそこで終わるはずだった。
いくら不老不死になったからとはいえ、月に行けるわけじゃない。
もう二度と、地上に降りてこないのなら――不服だけど、顔も見ないのならまだましだと思ってたわ」
額に張り付いた髪を、指で払いのけて。
「――でも」
――顔を、上げた時。
「あの女は、ここにいた」
その顔に、煉獄の炎さえ思わせる苛烈な二つの蜀が灯っていた。
「あの女は、父様に恥をかかせながら――私の家を侮辱しておきながら!!
まだのうのうと、地上に残っていた!! だから今度こそ殺す!! 絶対に――ここであの女を殺す!!
あの女の命を――この、死なない体で奪いつくすッ!!」
爆発したように踏み込み、突き出された拳――私は真正面から受け止めた。
人の体温とは思えないほどの高温に纏われた拳は、それ自体の破壊力に加え、じりじりと私の掌を焼いていく。
それでも。
「お前の言いたいことは判った――だが!!」
私は、苦痛に歪みそうになる表情を引き締め――真正面から、少女の瞳と相対した。
「何故お前は、そうまでして過去に囚われる!?」
熱い。
少女の近くにいるだけで、産毛がちりちりと焦げていく。
手首から先の感覚が無くなって久しい。。
それでも私は、目の前の少女から決して目線を離さなかった。
「お前の怒りは、真実のものだったのだろう――それが判らないわけではない!
だが、何故これほどの時を経て、まだその怒りに囚われ続ける!?」
私は、知っていたから。
この少女が、私に見せてくれた数々の表情を。
「いや――むしろお前は、自らその過去に囚われているのではないのか!?」
数々の、心を――知っていたから。
「何故、もっと肩の力を抜いて生きられない!? 何故他の生き方を選べない!!
お前なら出来るはずだろうに! 何故お前は、そうまでして復讐に身を焦がす!!
そうやって、過去の因縁の鎖で自分を縛りつけようとするんだ!!」
私の、心からの叫びに。
「――貴女も、真っ直ぐなのね」
熱が消え。
炎が消えて。
少女の瞳から、嘘のように怒りが消えた。
「……かもしれないわね。私はただ、叫んでいるだけで……本当はもう、そこまで身を焦がすほど憎くないのかもしれない。
泥を塗られた私の家への仕打ちに、腹を立て続けるには……少しばかり、時間は流れすぎたわ」
その穏やかな瞳は、私がよく知る少女の目で。
「――でもね」
どこか、達観した飄々さと共に。
「今更――この生き方を変えることなんて出来ないのよ」
瞬間、私の足元から凄まじい勢いで火柱が吹き上がる――
慌てて回避した時、少女は地面を蹴って空に舞っていた。
炎が噴出す直前、交錯した視線。
彼女の瞳の奥から、はっきりと感じた――
触れれば崩れそうなほど、儚い輝きに。
――このまま、彼女を見送ってはいけない。
あの小さくなっていく背中を、今度こそ私は捕まえなくてはいけない。
私も地面を蹴って空に浮き、夜空に浮かぶ椿の花を目掛け、銀の矢となって駆け抜けた。
一直線に飛ぶ紅の弾丸を、私は全力で追いかけた。
どうやらこの結界の中は、空間も相当歪んでいるらしい――
これほどの速度で飛べば、数秒で結界の外に出ているはずだというのに。
彼女を追いかけている間、竹林の先に果てが見えることは無かった。
「何で――追いかけてくるッ!!」
私の先を行く紅の弾丸が、怒りと共に掌を翳す。
再び撃ち出される、大量の炎の弾丸。
それはまるで、彗星が尾を残して飛ぶように美しく。
一つでも当たれば、流れ星のように燃え尽きてしまう凶暴さを備えて。
さらにその火炎の弾幕の隙を埋めるかのように、大量に吐き出される符札。
完全に密集した弾幕は、さながら目の前に壁が生まれたかのようだった。
受け止めることは不可能。
無傷でやり過ごす手段も何処にも無い。
だから、私は。
自分の体に必要不可欠な『部位』だけを守るように、腕を交錯させ―― 一気に加速し、弾幕へと突撃した。
「な――!?」
少女の顔が、この自殺行為的な特攻への驚愕に彩られる。
だがこれが、調べた『歴史』の中で一番まともな選択肢だった。
さらにそこから、ありとあらゆる手段で交錯する弾丸の歴史を『書き換え』る。
結果、かわし損ねた火炎弾の一つが髪を焦がし、背中に袈裟掛けに一閃、焼けるような痛みが走ったが――
それだけの。被害で。
あの絶望的な弾幕を潜り抜け――私は先行する少女に取り付き、一気に引き倒した。
そのまま二人、錐揉みするようにして地面へと激突する。
少女が放った火炎の弾幕で、竹林は炎の海と化していた。
「……何故だ……?」
少女の上に馬乗りになるようにして――その動きを抑え込む。
「何故お前は、出来ないなどと諦める……生き方が変えられないなどと、簡単に言ってしまうんだ」
私の頬から、知らず涙が溢れていた。
「ここは、外とは違う。例え見果てぬ夢、叶わぬ願いであっても……ここなら、叶う。
なぜならここは、幻想の住まう場所。……幻想が在っても、許される場所だからだ」
この、幻想郷にあっても――まだこの少女は、己の縛った孤独の鎖から抜け出せないのか。
「お前も見ただろう? その目で。その心で。ここがどういう場所なのかを。
私は、お前の憎むその女を知らない。お前達の間に、どれ程深い確執があるのか完全には理解できない。
だが、永劫の時を生きるというのなら……この地に来てまで、その過去に縛られずともいいんだ」
この私でさえも、居場所を見つけられたこの地で――本当に私は、この少女に対して何も出来ないでいるのか――
「それを、お前も――本当は判ってるんじゃ、ないのか――?」
こうしている間にも、竹林の火炎は燃え広がり、私達の姿を紅に染め上げる。
瞳の中に、その炎の輝きと同じ苛烈さと――脆さを秘めていた少女は。
「………………黙れ……」
瞳の奥の炎が――初めて揺らぎ、そして爆発した。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ――黙れぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええッ!!」
凄まじい速度で跳ね上がった膝が、私を軽々と跳ね飛ばす。
「お前に……何が判る! お前に私の何が判るッ!!」
瞬間、辺りの炎全てが、彼女の怒りに呼応するように一斉に空へと吹き上がった。
今までのそれとは比べ物にならないほどの力が、少女へと収束していく――
「今更止めて何になる!? 私が、人間と共に暮らして――何になる!!
もう父様はいない――私の事を知る人間は、この世の何処にもいない――誰一人として残っていない!!」
炎を纏う不死の翼が、彼女の力の奔流に応え、さらに成長していく。
周囲の空気が耐えられず、彼女を包み込むようにして炎が巻き起こった。
「この体になるために、私は人を殺した!!
顔も知らない、どんな風に生きてきたかも知らないような人を、その為だけに殺した!!
ならば、私はその人に今更どんな顔をしてやればいい!? どのように――責任を取ってやればいい!?」
彼女の、力の根幹を成す感情。
――憎悪の炎が。
今、私を真正面から捉えていた。
「消し去ってやる!! お前ごと――あの女も、私さえも!! 何もかもこの炎で消し去ってやる!!」
今の彼女から感じる力は。
彼女の体を引き裂かんばかりに溢れ出す、その力は。
この障壁を消し飛ばし、幻想郷を丸ごと灰燼に帰してもなお、お釣りがくるほどの破壊力を秘めていた。
例えこれが炸裂しても――蓬莱人であるこの少女に、死が訪れることは無い。
幻想郷の常識外れの力を持つ妖怪達も、多少被害は蒙るだろうが、おおむねは生き残るだろう。
私も、この力を完全に防御に回せば、致命傷を避けることぐらいは出来る。
だが。
これが炸裂すれば、集落の人間達は間違いなく消滅するだろう。
その死を、感じることさえなく。
明日もまた、平穏な一日が訪れると信じている彼らに。
――明日は、来ない。
それを許すわけには、いかなかったから。
今まで、一度だってこれほどまでに自らの力を開放し、集中させたことは無かった。
自分自身のことながら、私が今まで使っていた力は、白沢としての能力の一端に過ぎなかった事を理解する。
――もう、止めるしかない。
彼女を。
人を、護ると――誓った私の。
この手で。
「お前には、永久に判らない――妖怪の、お前にはッ!!」
紅の軌道が、空へと跳ね上がり――大きく蜻蛉を描いて、私の元へと向かってくる。
「人でなくなった、私の気持ちがッ!!」
自らで認めることの出来ない全てを――消し去ってしまうために。
「妖怪でもない、人間でさえもない!!」
世界が、紅に染まる。
「こんな私に、居場所なんて無い――!!」
少女も、紅に――染まっていた。
「――何処にだってあるものかァァァァァァァァァッ!!」
その、言葉に。
私は応える事無く――ただ、全ての力を込めて地面を蹴り、迎え撃つ。
閉じられた、竹林の中。
月は満ち、炎が燃え盛るこの世界で。
銀と紅が交錯して。
椿が一輪、弾けた。
二人とも、交錯は無我夢中だった。
自分達が一体、どういう状況なのか――把握するのには、互いに時間がかかった。
私の目の前で、少女は焦点の合わない瞳のまま――ただ体全体で、激しい呼吸を繰り返していた。
それがやがて落ち着き、焦点の合わなかった瞳に光が差して。
意思の光を、取り戻して――そして。
「………………な…………そん……な……!?」
驚愕に見開いた瞳は、目の前の光景が信じられない取った様子だった。
幻想郷はまだ残っている。
足元ではまだ、炎の海が広がっている。
ただ、少女の体に傷はなく。
私の力は、少女の収束していた力だけを狙い、見事にその存在を消し去り。
私の脇腹に――深々と、少女の指が突き刺さった姿で。
夜空を覆うような、雲に。
月が――翳っていた。
「人間でも、妖怪でもない……居場所など、何処にもない。
その気持ちは、私にはよく判る……。私も、それに打ちのめされたことがある」
月の光を失い、人の姿に戻った私は――溢れ出す痛みに堪えながら。
それでも少女に、微笑を浮かべて。
「私は――半獣だからな」
「…………!!」
少女の顔に、驚愕が広がっていく。
慌てて、私の腹部から指を引き抜こうとして。
しかし、引き抜いた衝撃に血が噴出す可能性に――結局どうすることも出来ず、不安げに視線が宙を泳いだ。
それでも私は、私を貫いたその細い手に、そっと私の手を重ねて。
「妖怪でもない……人間でもない、狭間の存在。
月が満ちるときだけ、ああやって妖怪の姿となる……半端な存在。
……でも……そんな、私でも……ここにいる者達は、な……。
私の事を、誰一人……『半獣だから』とは否定しなかった……。
この私に、居場所を、くれた……」
一言一言を紡ぐたびに、私の命の熱が消えていくような錯覚を覚える。
既に意識の半分以上が、白くぼやけだしていた。
しかし、私はまだ伝えなければならなかった。
この少女に。
かつての私と、同じ悲しみを抱えた――この少女に。
「……それでも、まだ怖いのなら。共にはいられないと、一人で震えるのなら……」
――もう、一人ではない事を。
「私がお前の……傍に、いてやる……」
あの日、老翁がくれたもの。
あの日、少年がくれたもの。
人の心の『温かさ』――
半端な存在の私に、伝えることが出来るだろうか?
「一人が平気だと、あくまで言い張るなら……私のほうから、お前に会いにいってやる。
心に溜めているものがあるなら、今のように私にぶつけてしまえばいい……。
お前が、過去以外に……己の居場所を、見つけられないなら……私がお前の、『今』の居場所になって……やる……」
溢れ出した血が器官を逆流し、激しく咳き込む。
半身の感覚が薄れつつあった。
「判った――判ったから!! これ以上、喋ったら……貴女が……!!」
私は最後まで、人間のために生きたい。
「…………だから……もう……そんな、悲しい事を叫ぶな」
私に、共にあることの暖かさと強さを教えてくれたのは、人間だから。
「その綺麗な目に、そんな悲しい光を見せるな」
この、脆く崩れてしまいそうな――心を持った。
「お前の歴史は、もう一人で紡がなくてもいい」
『人』である少女の為に、何かしてやりたいと願って――
「……私が、ここに……いるのだから……」
私の冷たい血に染まりながら――少女の手は、暖かく。
私は、微笑を浮かべ――
その、まま――
「……ねえ……? しっかりしてよ……目を、開けてよ」
「目を開けてよ――ねえ、ねえってば!?」
ざあざあと、雨の振る音が耳についた。
私はゆっくりと目を開ける。
そこは何処かの山小屋のようだった。
古いが、堅牢な作りの屋根が――叩きつけるような雨を、しっかりと防いでいる。
そして、そんな私を見下ろしていたのは――
「……やっと…………やっと、目を覚ました……」
私を見下ろす、少女の顔は――泣いていた。
「もう、目を覚まさないかと……思った、から…………」
「……言っただろう……私の体は、頑丈だとな」
白い頬を伝う、二筋の涙をそっと拭ってやる。
私の傷は、まだ塞がってはいなかったが――清潔に消毒され、応急処置的ながらも治療が施されていた。
「……これはお前が?」
「死んじゃったら、意味が無いと思ったけど……それでも、何もしないよりましだと思って……」
「月が出ていれば、癒えていてもおかしくないんだがな……済まなかった」
「……もう、いいわよ」
目の周りを、赤く腫らしながらも。
少女は、呆れたように笑顔を浮かべる。
「貴女が生きてたんだから」
その表情は、先刻のそれとも、普段の彼女とも違う――見た目の通りの、少女の笑みで。
今までの、どの笑顔よりも――可愛らしく輝いていた。
「……それより、何で半獣って一言も言わなかったのよ……」
「あの頭に血が上った状態で何を言っても無駄だったと思うがな……。
それにお前だって、自分が蓬莱人であるなどと一言も言わなかったろうに」
「それは……その、言う機会がなかったし、別に言う必要も無いと思ったから――」
「そうだ。……お前も私も、そんなことは関係ない。要は中身ということだ」
「中身……肝?」
「待てどうしてそうなる」
「知ってる? 蓬莱人の生き胆を食べると、食べた相手も不老不死になるのよ」
「人間は好きだが、食料として摂取する趣味はないぞ」
「そんなに歴史って美味しいのかしら?」
「拳固で殴るか?」
こういったやりとりは、つい数刻前にもやっていたはずなのに――
もう随分と長く、この空気を感じていなかった気がする。
死を誘う狂熱とは違う――ほんのりと暖かい空気を、存分に味わった。
「私達って……まだまだ互いのこと、知らないことばかりなのね」
「そうだな。……そして、互いに知らなければならないこと……知られたくないこと。まだまだ、沢山ある」
「……それはこれから、時間をかけて知っていけば……いいのかしら?」
「ああ。……互いに、時間ならまだまだ余裕が在りそうだからな」
ふぅ、と息を吐いて――私は少女の顔を見つめた。
「差し当たっては、だ」
「?」
「そろそろ、お前の名前が知りたいのだが?」
……少女は、きょとんとした様子で私を見返して――
「……そういえば、私の貴女の名前を知らなかったわね」
今頃になって、改まってするというのも変だが。
私達は、互いに咳払いをひとつ払い、姿勢を正して。
「妹紅。今は妹紅と名乗ってるわ――藤原妹紅」
「私は慧音だ。上白沢慧音という」
数拍、合間を置いてから。
『――変な名前!!』
私達は、それこそ年頃の少女のように、大きな声を上げて笑った。
……あれから、何百年という時間が過ぎて。
私はいつも通り、地平の果てに沈む夕日を眺めていた。
「また――眺めてるの、夕日を?」
その声に振り返ると、あの日の少女――妹紅が私の隣に並ぶ。
「慧音も好きよねぇ……こう毎日毎日眺めてて、飽きないかしら普通?」
「そうか? 空の模様や、空気の違い……それに、その日一日をどう過ごしたか。
そんなことでも、夕日は表情を変える……一日だって同じ夕焼けは見られないのだぞ?」
「駄目だわ――これは筋金入りね。もう随分前から判ってたことだけど」
大仰に肩をすくめ、呆れたように首を振る。
彼女と顔を合わせるのは、数日振り――案外、早く帰ってきたものだ。
「そういえば、久々に昔の事を思い出していてな」
「えーと、昔のことは色々と勘弁して欲しいんですけど慧音さん」
「お前に殺されかかったあの夜の時のこととかな?」
「あーあーあー!!」
耳を塞ぎながら絶叫する妹紅。
……今の彼女は、あの達観した雰囲気と――少女らしさ。
その二つを兼ね備えたような感じになっている。
「もう、若気の至りってことで色々と許してよ……」
「まあ、あの頃のお前は随分と青かったな」
「慧音……いつもいつも思うんだけど、私にだけ随分と意地が悪くない?」
「腹を割った仲だからな」
「いい加減にしないと拳固で殴るわよ?」
「それは遠慮しておこうか」
幸いにして、私の寿命は果てしなく長く、妹紅に至ってはそもそも寿命が存在しない。
そのため、私達の関係は、もう長いこと続いていたが――妹紅とは常に一緒にいるわけではなかった。
日に何度も顔を合わせることもあれば、それこそ数十年間一度も顔を見かけなかったこともある。
それは彼女が、未だに人の集落に住む事をよしとしないという一面から来ている。
「気持ちは嬉しいけど――そんなに、馴れ合いって好きになれないのよ。好意を裏切るようで、ごめんね?」
私はもう、彼女を意地でも集落に住ませようとは思わなかった。
何故なら、あの日から彼女の瞳に脆さを感じなくなったから。
なかなか心の内を見せず、柳のように飄々と振舞うのは相変わらずだが――それでも。
もう、孤独の悲しみに、心を痛めることは無いようだから。
私が、彼女の居場所に――なってやれたようだから。
「……お前は相変わらず、夕焼けは嫌いか?」
「よく覚えてたわね、そんなの……」
「当たり前だ。私は知識と歴史に通暁する白沢だぞ? 記憶力には自信がある」
「そういう時は普通『妹紅との初めての出会いだからな。忘れるはずが無い』って言うのがセオリーじゃないの?」
「互いにわかりきっている事を口に出さなくてもいいだろう。お前だって覚えてるじゃないか」
「ま、そうだけどね」
ぺろりと舌の先を出して――妹紅は、その瞳と同じ輝きを放つ空を見つめる。
「そうね……まあ、昔ほどじゃないけど、あまり好きじゃないわ」
「そうか……」
「……でも、ね?」
細めた瞳を、私へと向けて――
「夕日を見つめる慧音の姿が――紅に染まった慧音のその髪が、炎みたいに輝く姿が見れるから……それは、とても好きよ」
そんな事を口にする妹紅もまた、夕日の輝きに紅に染まって。
この時が一番、美しく輝いていると――私は思う。
「それじゃ、またそろそろ出かけるわ」
「ああ。……次は何処に行くつもりだ?」
「ん、紅魔館の近くの湖まで。まあ、二・三日で戻ってこれると思うわよ」
夕日の、最後の残滓が沈む頃。
私達は、互いに軽く手を上げて、その姿を見送り。
そして、互いに背を向け――振り返る事無く、歩き始めた――
妹紅は、定まって住む場所を持たずに、幻想郷のあちこちをその足で巡り。
私は集落の人間を守るために、彼らの中で過ごしていく。
私達の歴史が交錯するのは、風の向くまま気の向くまま。
それでも――私達は。
いつ果てるやも知れぬ、長い長い人生の旅路を――今日も共に歩んでいる。
――此処の名は幻想郷。
妖怪と人間――少女達の飛び交う、幻想と弾幕の世界。
そんな所に、居場所を見つけ――私達は今日も生きている。
――言葉が、意味を成さない程度に。
自分の貧弱な語彙では、上手く伝えられないが、連撃レスするぐらい、来た。
連続する紅はとても荒々しいけど風に晒されれば崩れるほど儚くて。
それもそのはず、愛する父をなくして、知らぬ人を殺して、人から外れて死を忘れて。
そんな彼女が軽々と群れれるわけがない。
でもやっぱりそこは大人の魅力けーねさん!
過去というつらい歴史を持つもの同士、いい意味で紅に染まっていこうーと。
いやー、善いものを読ませていただきました、感服です。
似た者同士の二人が出会って、語らい、理解しあう過程が素晴らしい。
特に戦いのシーンは熱過ぎて叫びそうでしたw
前回の話も素晴らしかったけど、今回もやってくれる!
そして寂しそうな妹紅。怒りに震える妹紅。悲しむ妹紅。愛らしい妹紅。
全てが愛しい(*´д`*)
正直脱帽です。