言葉自体に意味があるとすれば、その成立にあたって何某かの意思が介在した場合、その言葉は浸透するに従って無意識の段にまで沁み、知らず知らずの内に、その何某かの影響を受ける、あるいは何某の立場を強固にすることになる。特に名前などが良い例で、その名を当の本人が好きか嫌いかに関わらず、名付け親の意思に影響される。
そう考えると、反面、各節分などの名というのは、自然科学的な見地から生じた正に自然発生的なものと云え、その普遍性・不変性たるや、バビロンにおける分裂が無ければ、神の御名すら凌駕していたに違いない。
「神……ねぇ」
パチュリーはある段落まで書き終えると呟いた。今に手元で書き上げている写本の隣に置かれた原本を閉じ、まじまじと表紙を見つめる。西洋から東洋に渡ったとされる宣教師が書き上げたらしいその本は生地の痛みが激しい。今すぐにでも印刷工房で滅多に外に出て来ない部下たちに渡してしまいたいほどに。
「あの子たちはよく働くけれど……」
「数ヶ国語対訳聖書でしたか、スペクルムでしたか。欠けていた数ページを彼女らが補ったのは」
「前者よ。――まったく、芸術品を作っているわけじゃないのに。そんな暇があったら、写本を作れば良いのよ。あの程度の欠損、頭の中で想像できるんだから」
パチュリーは割って入ってきた小悪魔に機嫌を損ねることはなく、机に向けていた体を横に向けた。小悪魔がわざわざ仕事の手を休めてまで自分の傍に来ていたということは、もうお茶の時間だからだろう。パチュリーは一日の間に飲むお茶の量が一般の者よりも多い。それはもちろん暇だからではなく、持病である喘息との関係からで、それに適した茶を用意するのは小悪魔の役割である。
小悪魔は適度に冷ました湯飲みをパチュリーに恭しく手渡すと、空いた手で例の原本を手に取った。
「こちらはもうよろしいですか」
「良いわよ。ところであなた、それ欲しい?」
パチュリーとしては、既に必要な部分の写本が終わったものの所有権などどうでも良かっただけなのだが、刹那、小悪魔の活動が止まった。主人に対して微笑んだ顔は引き攣り、耳鳴りは止まず、背中には羽まで生える始末。最後は元からであるが、既にまともな生活が送れる精神状態でないことは明白であった。
そんな部下を見るまでもないとばかりに、パチュリーはお茶を啜っている。喘息というのはこれでなかなか性質が悪い病気で、発作や薬で臓腑に負担がかかる分、平均寿命が縮まってしまう場合も多い。かといって本を読むに際してはその周辺は乾燥していることが望ましく、この湯飲み一杯に含まれた水分と保湿成分だけが喉に優しい。
優しいといえばこの子も優しいけれど。パチュリーはそう思い、ようやく小悪魔を見た。未だに彼女の姿勢は変わっていない。パントマイムの特訓の最中でもあるまい。パチュリーにじとりと見られていることに気づいた彼女は、ようやく汗を拭うことで自身の動きと、喉まで出かかっている言葉を思い出したのだった。
「いただきます!」
さて、愛書狂という言葉はどういった発生のものだったか。パチュリーはもう自分の手元に戻ることは無いであろう、小悪魔の胸に抱かれた本を見遣りながら、栓の無いことを考えていた。
ユダヤ人ならダイヤ、アメリカ人なら石油、イギリス人なら紅茶葉といった具合に、世の中には物の流れに敏感な者がいる。ここ幻想郷でも投機こそ存在しないものの、涎を撒き散らしながら何かを追い求める者たちが存在している。だが、この場合はそういった階層の頂点に君臨しているであろう魔理沙やアリスは対象外である。彼女らは鬱積とは無縁であって、好きなときに好きな物を蒐集することができるからだ。
では、そうすることができない者たちはどうか。現在、彼女らは全身の毛穴にまで満ち満ちた欲望を発散させながら、目標に向かって爆走している。
ここは紅魔館。廊下で走るなどもっての他。もし彼女らが敬愛するメイド長や、あまつさえレミリアにでも見つかろうものなら、目に穴が空くというものであった。しかし、彼女らはそういった懸念すら払拭する欲望に従い、ただただ、走っているのだった。
「ぎぃいいやああああ!」
「ぬぼあぁあああああ!」
本を片手に逃げ続ける小悪魔の後方で、時間稼ぎのために残った直系の部下が悲鳴を上げる。小悪魔の格好は軽装で、普段から着ているワイシャツの上には首元で結ばれたカーディガンしか無く、ズボンは仕事中に履いていた黒のスラックスであった。何故こんなことになったのか。そう、全ては先ほどパチュリーから貰い受けた本が原因であった。
この本、版元が一つしか確認されておらず、しかも現存しているものは一冊しか無いという、稀本中の稀本であった。題名こそ既に歴史から忘れられたような代物であったが、我らがヴワルの同志たちが共有する目録にはしかと記録されていて、彼女らはパチュリーからのお零れを頂戴した司書長を、元々人のそれとは違う目の色を変えてまで、追い詰めているのであった。かくして、小悪魔は風呂にでも入ろうかと自室から集団浴場に向かうために廊下に出たところで襲撃に遭ったのである。それが午後九時五十分のことだ。
「OGERTNE EN ISA OREBIL EM ISA ONEDNOC EM ISA
《届けられる私はかくして、自由になる私はかくして、断罪される私はかくして》――!」
小悪魔は扉の内の一つを開く呪文を唱え終えると廊下の側壁に出現した扉に逃げ込んだ。この呪文は限定的ながらも、咲夜の空間操作を無視して、思った場所へ移動する門を出現させる。ただし、その場所の想定には幾つかの条件が課せられ、急な詠唱によって出現したそれに飛び込んだ小悪魔にとって、扉から出た先は予想外の場所であった。
悪くてレミリアあるいは咲夜、良くてパチュリーの部屋だと小悪魔は思っていたのだが、彼女が飛び出た先は、彼女が普段から蔑んでいる警備部の隊長室、つまりは紅美鈴の部屋であった。美鈴はちょうど就寝前に華人用に整えられた壇の前で何某かに祈っていたところで、突然出現した闖入者に驚き、持っていた線香を圧し折ってしまったのだった。
「司書長――さん?」
「悪いんだけど、ちょっと匿って!」
「はあ、構いませんが」
形振り構ってはいられぬと、今さっきに自分が入ってきたドアが消え去ると同時に、本物の出入り口のドアに耳を当てる。しかし、それに意味があるとは彼女自身思えない。そもそも、自分は警備部もとい美鈴と仲がよろしくない。
美鈴がどう思ってるかは知らないが、あの何かのあてつけかと思えなくもない汗臭さと根性は、見ていて吐き気すら込み上げてくるのであった。警備部が普段に相手にしているような魑魅魍魎など、何らかの術式を館自体に施しさえすれば文字通り門前払いすることができるし、あの紅白や白黒は咲夜などに任せておけば良いではないか。
何故にわざわざ効率の悪い実戦部隊による迎撃などという方法を採り続けるのか。小悪魔はレミリアの心中を推し量ることができないでいる。
なんにせよ、そういった小悪魔の心中を多少なりともわかっている部下たちが、この警備部が詰めている棟にまで捜索の手を伸ばすことは考えられず、彼女はやおら耳をドアから離すと、美鈴に振り返った。
「みっともないところを見せたわね、今日のことは忘れて――?」
小悪魔が振り返った先では、美鈴が茶の支度を始めていた。白いシーツと布団がかけられただけの簡素なベッドの横に添えられるように置かれた小さめの卓の上では湯気が揺らいでいる。
「あなた、何をしているの?」
「いやぁ、こんな時間にお茶の相手をしてくれる方はそういないもので」
「私はすぐにでも帰りたいんですけどね」
「良いじゃないですか。どうせ帰ってもお風呂に入って寝るだけなんでしょう?」
「……お風呂は諦めたわ。あの子たち、本のことになると箍が外れるんだから。パチュリー様は面白がって何もしてくださらないし。まぁ、あの方の手を煩わせるのも嫌なんだけど」
「大変なんですねぇ」
わかっているのかそうでないのか、美鈴は淡々とお茶をカップに注ぎ、とうとう二人分の用意が整った。小悪魔は観念したのか、本はテーブルに置き、自分は勧められた椅子に座り、肩にかけていたカーディガンを膝に乗せたのだった。彼女がようやく安堵を得たとき、時刻は十時半を回っていた。
「この本が原因なんですか」
「そう。よく考えもせずパチュリー様から頂戴したのが拙かったわ」
「肝心の内容は?」
「ああ、羅語の仏語訳らしいから、あなたじゃ無理だわ」
小悪魔が自分のカップの傍に置いた本に美鈴が手を伸ばしたところで、小悪魔はその手を止めさせた。こうして普段の会話をする分には支障が無い程度の公用語を館内ではそれぞれが用いているとはいえ、学術的あるいは文学的な言い回し及びそのために用意された言語についての理解力に関してはそれぞれに雲泥の差があることが常である。
このまま本に関してはお終いにしても良かったが、どうにも自分の知識を鼻にかけるのを嫌う小悪魔としては、好意というよりは自身のために、美鈴の興味を損ねることはしたくなかった。お茶のお礼にざっと読んだ範囲でなら教えてあげる、と前置きしてから、小悪魔は美鈴に説明した。
自然科学に関しては古代ギリシャあたりまで遡る必要があるとはいえ、それに影響された後世の知識階級に生まれたこの本の筆者が、その観念を新たにした東洋での経験を信仰と比較して抽出した内容であるということを噛み砕くには、小悪魔は十分な知識があった。そこから自分なりの考えを発展させるとなるとパチュリーのような研究者・探求者としての側面が必要にはなってくるが、それはこの際、不要である。
「要するに、今に話した段落が全てよ」
「それはまぁなんとなくわかるんですけど、バビロンとか分裂とかがちょっと……」
「ああ、それは――」
そういった会話を挟みつつ、大体の説明を小悪魔がし終えたとき、彼女らのお茶は既に四杯目ほど注ぎ直されていた。
「例えば、あなたの名前とかは誰かが……まぁ普通は親御さんでしょうけど、その人たちが考えてつけたもの。私みたいなのは先に名前があるという場合がほとんどだから、例えにすらならない」
「私の場合、紅は別ですけどね」
「ああ、それ苗字だったの。ごめんごめん、てっきり、紅が名前で、字《あざな》が美鈴かと思ってたけど」
「いいんですよ。第一、そこまで気にしてくれる方どころか、名を呼んでくれる方自体が少ないんですから」
「なんにせよ、紅が苗字なら、それは自然発生的なものじゃないわよね」
「そうなんですか」
「うんっと、考えようによってはあなたも妖怪なのだから、自然発生的なものかもしれないけど」
粘り気のある目付きで見られていることに気づいた美鈴が、寝巻き用のシャツの襟をわざとらしく整える。あまり人に関心を持たれたことが無い所為か、どうにもそわそわしてしまうのだった。そんな美鈴の様子にはあまり気を留めず、小悪魔は考察を続ける。
「だとすると、例えとしては、もっと適切なのがいた気が……ああ、あのたまに冥界からお使いに来る子、なんだっけ?」
「妖夢さんですか」
「そうそう、それそれ、その妖夢さん。苗字も一々名乗るから、覚えてるのよ。魂魄、魂魄妖夢。この場合、名前よりも苗字の方が重要だから。苗字というのは名前と違って意思が介在し辛いのよ。どこそこの教会や神社の人がつけたというのなら別だけど」
「ああ、なるほど、あの子は半人半霊ですから、魂魄というのは自然発生的だ、と」
「そういうこと。でも、そんな単純なものじゃないわ。半人半霊って、そう簡単に生まれるものだと思ってる?」
「木の股から生まれるわけじゃなし、普通にご両親から生まれるんでしょ?」
「そのご両親は半人半霊じゃないわよね。どう考えても」
「え? あれ?」
サラブレッドと同じこと。ある特定の血統を何世代かごとに辿らない限り、半人半霊は生まれない。そのことに今更ながら感心した様子で美鈴が何度か頷いた。思っていたほど体育会系の脳無しではないようだと小悪魔が美鈴に対する認識を改める。
「どちらかが人間でどちらかが幽霊もしくはそれに類したものじゃないと生まれないわよね。なんだかこうして話していると、幽霊から子供が生まれるよりも木の股から子供が生まれる方がよっぽど現実味があるけどさ」
「でも、だとすると、ご両親は魂魄じゃないですよね」
「そこらへんが曖昧なのよね。一族としての苗字が魂魄なのだとしたら、そもそもこの例えにあてはまらなくなるかもしれないし、何らかの形で受け継がれる苗字が魂魄であれば、それはもう苗字というより、襲名よね」
話が変な方向に向かっていることには二人とも気づいていたが、ここまで話が進んだ後ではお互いに相手への気遣いやら自分の関心やらで引っ込みがつかなくなっている。どちらが先だったか。ある提案が二人の間で生じた。
「確認しましょう」
「そうしましょう」
彼女らはそれぞれが就寝につくことになる午前二時の直前まで、計画の立案と検討を行った。一方、小悪魔の部下たちは警邏任務の補佐および統括を行っていた咲夜に壁に釘突けにされており、その様子を部屋への帰路に見かけた小悪魔の冷笑を忘れられた者はいなかった。
そう考えると、反面、各節分などの名というのは、自然科学的な見地から生じた正に自然発生的なものと云え、その普遍性・不変性たるや、バビロンにおける分裂が無ければ、神の御名すら凌駕していたに違いない。
「神……ねぇ」
パチュリーはある段落まで書き終えると呟いた。今に手元で書き上げている写本の隣に置かれた原本を閉じ、まじまじと表紙を見つめる。西洋から東洋に渡ったとされる宣教師が書き上げたらしいその本は生地の痛みが激しい。今すぐにでも印刷工房で滅多に外に出て来ない部下たちに渡してしまいたいほどに。
「あの子たちはよく働くけれど……」
「数ヶ国語対訳聖書でしたか、スペクルムでしたか。欠けていた数ページを彼女らが補ったのは」
「前者よ。――まったく、芸術品を作っているわけじゃないのに。そんな暇があったら、写本を作れば良いのよ。あの程度の欠損、頭の中で想像できるんだから」
パチュリーは割って入ってきた小悪魔に機嫌を損ねることはなく、机に向けていた体を横に向けた。小悪魔がわざわざ仕事の手を休めてまで自分の傍に来ていたということは、もうお茶の時間だからだろう。パチュリーは一日の間に飲むお茶の量が一般の者よりも多い。それはもちろん暇だからではなく、持病である喘息との関係からで、それに適した茶を用意するのは小悪魔の役割である。
小悪魔は適度に冷ました湯飲みをパチュリーに恭しく手渡すと、空いた手で例の原本を手に取った。
「こちらはもうよろしいですか」
「良いわよ。ところであなた、それ欲しい?」
パチュリーとしては、既に必要な部分の写本が終わったものの所有権などどうでも良かっただけなのだが、刹那、小悪魔の活動が止まった。主人に対して微笑んだ顔は引き攣り、耳鳴りは止まず、背中には羽まで生える始末。最後は元からであるが、既にまともな生活が送れる精神状態でないことは明白であった。
そんな部下を見るまでもないとばかりに、パチュリーはお茶を啜っている。喘息というのはこれでなかなか性質が悪い病気で、発作や薬で臓腑に負担がかかる分、平均寿命が縮まってしまう場合も多い。かといって本を読むに際してはその周辺は乾燥していることが望ましく、この湯飲み一杯に含まれた水分と保湿成分だけが喉に優しい。
優しいといえばこの子も優しいけれど。パチュリーはそう思い、ようやく小悪魔を見た。未だに彼女の姿勢は変わっていない。パントマイムの特訓の最中でもあるまい。パチュリーにじとりと見られていることに気づいた彼女は、ようやく汗を拭うことで自身の動きと、喉まで出かかっている言葉を思い出したのだった。
「いただきます!」
さて、愛書狂という言葉はどういった発生のものだったか。パチュリーはもう自分の手元に戻ることは無いであろう、小悪魔の胸に抱かれた本を見遣りながら、栓の無いことを考えていた。
ユダヤ人ならダイヤ、アメリカ人なら石油、イギリス人なら紅茶葉といった具合に、世の中には物の流れに敏感な者がいる。ここ幻想郷でも投機こそ存在しないものの、涎を撒き散らしながら何かを追い求める者たちが存在している。だが、この場合はそういった階層の頂点に君臨しているであろう魔理沙やアリスは対象外である。彼女らは鬱積とは無縁であって、好きなときに好きな物を蒐集することができるからだ。
では、そうすることができない者たちはどうか。現在、彼女らは全身の毛穴にまで満ち満ちた欲望を発散させながら、目標に向かって爆走している。
ここは紅魔館。廊下で走るなどもっての他。もし彼女らが敬愛するメイド長や、あまつさえレミリアにでも見つかろうものなら、目に穴が空くというものであった。しかし、彼女らはそういった懸念すら払拭する欲望に従い、ただただ、走っているのだった。
「ぎぃいいやああああ!」
「ぬぼあぁあああああ!」
本を片手に逃げ続ける小悪魔の後方で、時間稼ぎのために残った直系の部下が悲鳴を上げる。小悪魔の格好は軽装で、普段から着ているワイシャツの上には首元で結ばれたカーディガンしか無く、ズボンは仕事中に履いていた黒のスラックスであった。何故こんなことになったのか。そう、全ては先ほどパチュリーから貰い受けた本が原因であった。
この本、版元が一つしか確認されておらず、しかも現存しているものは一冊しか無いという、稀本中の稀本であった。題名こそ既に歴史から忘れられたような代物であったが、我らがヴワルの同志たちが共有する目録にはしかと記録されていて、彼女らはパチュリーからのお零れを頂戴した司書長を、元々人のそれとは違う目の色を変えてまで、追い詰めているのであった。かくして、小悪魔は風呂にでも入ろうかと自室から集団浴場に向かうために廊下に出たところで襲撃に遭ったのである。それが午後九時五十分のことだ。
「OGERTNE EN ISA OREBIL EM ISA ONEDNOC EM ISA
《届けられる私はかくして、自由になる私はかくして、断罪される私はかくして》――!」
小悪魔は扉の内の一つを開く呪文を唱え終えると廊下の側壁に出現した扉に逃げ込んだ。この呪文は限定的ながらも、咲夜の空間操作を無視して、思った場所へ移動する門を出現させる。ただし、その場所の想定には幾つかの条件が課せられ、急な詠唱によって出現したそれに飛び込んだ小悪魔にとって、扉から出た先は予想外の場所であった。
悪くてレミリアあるいは咲夜、良くてパチュリーの部屋だと小悪魔は思っていたのだが、彼女が飛び出た先は、彼女が普段から蔑んでいる警備部の隊長室、つまりは紅美鈴の部屋であった。美鈴はちょうど就寝前に華人用に整えられた壇の前で何某かに祈っていたところで、突然出現した闖入者に驚き、持っていた線香を圧し折ってしまったのだった。
「司書長――さん?」
「悪いんだけど、ちょっと匿って!」
「はあ、構いませんが」
形振り構ってはいられぬと、今さっきに自分が入ってきたドアが消え去ると同時に、本物の出入り口のドアに耳を当てる。しかし、それに意味があるとは彼女自身思えない。そもそも、自分は警備部もとい美鈴と仲がよろしくない。
美鈴がどう思ってるかは知らないが、あの何かのあてつけかと思えなくもない汗臭さと根性は、見ていて吐き気すら込み上げてくるのであった。警備部が普段に相手にしているような魑魅魍魎など、何らかの術式を館自体に施しさえすれば文字通り門前払いすることができるし、あの紅白や白黒は咲夜などに任せておけば良いではないか。
何故にわざわざ効率の悪い実戦部隊による迎撃などという方法を採り続けるのか。小悪魔はレミリアの心中を推し量ることができないでいる。
なんにせよ、そういった小悪魔の心中を多少なりともわかっている部下たちが、この警備部が詰めている棟にまで捜索の手を伸ばすことは考えられず、彼女はやおら耳をドアから離すと、美鈴に振り返った。
「みっともないところを見せたわね、今日のことは忘れて――?」
小悪魔が振り返った先では、美鈴が茶の支度を始めていた。白いシーツと布団がかけられただけの簡素なベッドの横に添えられるように置かれた小さめの卓の上では湯気が揺らいでいる。
「あなた、何をしているの?」
「いやぁ、こんな時間にお茶の相手をしてくれる方はそういないもので」
「私はすぐにでも帰りたいんですけどね」
「良いじゃないですか。どうせ帰ってもお風呂に入って寝るだけなんでしょう?」
「……お風呂は諦めたわ。あの子たち、本のことになると箍が外れるんだから。パチュリー様は面白がって何もしてくださらないし。まぁ、あの方の手を煩わせるのも嫌なんだけど」
「大変なんですねぇ」
わかっているのかそうでないのか、美鈴は淡々とお茶をカップに注ぎ、とうとう二人分の用意が整った。小悪魔は観念したのか、本はテーブルに置き、自分は勧められた椅子に座り、肩にかけていたカーディガンを膝に乗せたのだった。彼女がようやく安堵を得たとき、時刻は十時半を回っていた。
「この本が原因なんですか」
「そう。よく考えもせずパチュリー様から頂戴したのが拙かったわ」
「肝心の内容は?」
「ああ、羅語の仏語訳らしいから、あなたじゃ無理だわ」
小悪魔が自分のカップの傍に置いた本に美鈴が手を伸ばしたところで、小悪魔はその手を止めさせた。こうして普段の会話をする分には支障が無い程度の公用語を館内ではそれぞれが用いているとはいえ、学術的あるいは文学的な言い回し及びそのために用意された言語についての理解力に関してはそれぞれに雲泥の差があることが常である。
このまま本に関してはお終いにしても良かったが、どうにも自分の知識を鼻にかけるのを嫌う小悪魔としては、好意というよりは自身のために、美鈴の興味を損ねることはしたくなかった。お茶のお礼にざっと読んだ範囲でなら教えてあげる、と前置きしてから、小悪魔は美鈴に説明した。
自然科学に関しては古代ギリシャあたりまで遡る必要があるとはいえ、それに影響された後世の知識階級に生まれたこの本の筆者が、その観念を新たにした東洋での経験を信仰と比較して抽出した内容であるということを噛み砕くには、小悪魔は十分な知識があった。そこから自分なりの考えを発展させるとなるとパチュリーのような研究者・探求者としての側面が必要にはなってくるが、それはこの際、不要である。
「要するに、今に話した段落が全てよ」
「それはまぁなんとなくわかるんですけど、バビロンとか分裂とかがちょっと……」
「ああ、それは――」
そういった会話を挟みつつ、大体の説明を小悪魔がし終えたとき、彼女らのお茶は既に四杯目ほど注ぎ直されていた。
「例えば、あなたの名前とかは誰かが……まぁ普通は親御さんでしょうけど、その人たちが考えてつけたもの。私みたいなのは先に名前があるという場合がほとんどだから、例えにすらならない」
「私の場合、紅は別ですけどね」
「ああ、それ苗字だったの。ごめんごめん、てっきり、紅が名前で、字《あざな》が美鈴かと思ってたけど」
「いいんですよ。第一、そこまで気にしてくれる方どころか、名を呼んでくれる方自体が少ないんですから」
「なんにせよ、紅が苗字なら、それは自然発生的なものじゃないわよね」
「そうなんですか」
「うんっと、考えようによってはあなたも妖怪なのだから、自然発生的なものかもしれないけど」
粘り気のある目付きで見られていることに気づいた美鈴が、寝巻き用のシャツの襟をわざとらしく整える。あまり人に関心を持たれたことが無い所為か、どうにもそわそわしてしまうのだった。そんな美鈴の様子にはあまり気を留めず、小悪魔は考察を続ける。
「だとすると、例えとしては、もっと適切なのがいた気が……ああ、あのたまに冥界からお使いに来る子、なんだっけ?」
「妖夢さんですか」
「そうそう、それそれ、その妖夢さん。苗字も一々名乗るから、覚えてるのよ。魂魄、魂魄妖夢。この場合、名前よりも苗字の方が重要だから。苗字というのは名前と違って意思が介在し辛いのよ。どこそこの教会や神社の人がつけたというのなら別だけど」
「ああ、なるほど、あの子は半人半霊ですから、魂魄というのは自然発生的だ、と」
「そういうこと。でも、そんな単純なものじゃないわ。半人半霊って、そう簡単に生まれるものだと思ってる?」
「木の股から生まれるわけじゃなし、普通にご両親から生まれるんでしょ?」
「そのご両親は半人半霊じゃないわよね。どう考えても」
「え? あれ?」
サラブレッドと同じこと。ある特定の血統を何世代かごとに辿らない限り、半人半霊は生まれない。そのことに今更ながら感心した様子で美鈴が何度か頷いた。思っていたほど体育会系の脳無しではないようだと小悪魔が美鈴に対する認識を改める。
「どちらかが人間でどちらかが幽霊もしくはそれに類したものじゃないと生まれないわよね。なんだかこうして話していると、幽霊から子供が生まれるよりも木の股から子供が生まれる方がよっぽど現実味があるけどさ」
「でも、だとすると、ご両親は魂魄じゃないですよね」
「そこらへんが曖昧なのよね。一族としての苗字が魂魄なのだとしたら、そもそもこの例えにあてはまらなくなるかもしれないし、何らかの形で受け継がれる苗字が魂魄であれば、それはもう苗字というより、襲名よね」
話が変な方向に向かっていることには二人とも気づいていたが、ここまで話が進んだ後ではお互いに相手への気遣いやら自分の関心やらで引っ込みがつかなくなっている。どちらが先だったか。ある提案が二人の間で生じた。
「確認しましょう」
「そうしましょう」
彼女らはそれぞれが就寝につくことになる午前二時の直前まで、計画の立案と検討を行った。一方、小悪魔の部下たちは警邏任務の補佐および統括を行っていた咲夜に壁に釘突けにされており、その様子を部屋への帰路に見かけた小悪魔の冷笑を忘れられた者はいなかった。