※このSSは因幡より稲羽への続編になります。
隠岐の島には兎の怪が居るという。それは人を化かしては弄び、時に気が触れたように荒ぶり誰彼と無く殺戮を為す。島に住むものは人も獣も妖怪すらもが、その災禍を恐れて近寄ることはなかった。
月明かりの下、それは己の縄張りの森で惚けたように座り込み、見るともなく中空を眺めている。人の型の女の姿を採り、妖かしである証に人ならざる兎の耳を生やした姿はいっそ愛らしいとも見えたが、その傍に寄ってまでその印象を覆すことがない者は相当に鈍いと言えるだろう。
まずその身に纏う血の臭いが、殺す側の存在であることを示す。
しなやかに伸びた手をべっとりと付いた血が朱に染め、乾ききらないそれは今し方何者かを殺してきたことを知らせる。それでも生き物が生きる限り、他者を害さずにいられることはない。草をはむ者であろうと、草もまた血を流す。
しかしその生者としての当然も、この女の姿の妖怪に染みついた死臭が否定する。
生きるために他者を喰らったところで、これほどの死臭が満ちることなど有り得ない。その身にまとわりつく死者の怨念は、もはや自身が放つ妖気と区別が付かないほどに混じり合っている。
一体どれほどの殺戮がこの邪気を生み出したのだろうか。
妖怪兎は小さく真っ赤な舌を出して、手に付いた生乾きの血を嘗め取ると唾とともに吐き捨てる。
「不味い……」
彼女には他の妖怪が人などを喰う気が知れなかった。血はのどに引っかかるし味も悪く肉は臭いと来る。しかしなぶったり殺したりするのは、とても楽しい。
植物などを食って満足出来る彼女が人を害する理由は、ただそれだけである。副次的に人を殺すたびに力が増すが、彼女にとってそれは大した関心事ではない。
彼女にとっての最大の関心事は、ただ命を延ばすことである。生まれ落ちたその時から頼る者がなかった彼女は己の感覚のみを信じ、事実妖怪へと変ずるほどに長く生きた。
故に食って不味い物や臭いを嗅いで良くないと感じた物は、たとえ滋養があるものだと判っていても食うことはない。
彼女は時折思うことがある。事物は年を経て妖怪に変ずると言うが、妖怪となる存在は生まれ落ちたその時から妖怪なのではないかと。
生まれたばかりで何も出来ないはずの赤子が、自力でエサを摂り生き延びる時点でそれは常識からの逸脱である。つまりわざわざ妖怪変化でございと化けてでる必要もなく、生まれの始めからそれは化け物なのだと。
そう考えれば、自分を放逐したであろう親の選択は全く正しい。生まれ落ちたその時点で自分が化け物となることを見抜いた、その慧眼をほめてやってすらいいと思う。
まあただの兎ごときではとうに土に帰っているだろうが。てゐはこの土地で自分以外の妖怪兎は見たことがないし、間違いなく死んでいることだろう。
それとも外見は同じながら、妖怪は別に木の股からでも生まれるのだろうか。
まるで石ころのように静止していた彼女の体に、突如緊張が走り瞳に色が戻る。いつの間にか自分の領域に、何者かが侵入しているのを察知したのだ。侵入者は軽い足音を立てて歩いてくると、
「あんたが隠岐の島のてゐ?」
そう言って誰何する。
「だったらなによ?」
「私は伊吹山の萃香。あんたを殺しに来たわ」
萃香と名乗った者が身につけた鎖が、金属をこする音を立てる。
「あんたが? わたしを? 殺す? 寝言は寝てから言いなよ、小鬼」
馬鹿にするように笑いながら、てゐは萃香に向かって吐き捨てる。
目の前の萃香にはいかにも鬼らしいたいそう立派な角が生えてはいたが、その体は腰に付けた瓢箪が巨大に見えるほど小さくまるで幼児であり、鬼と言うのも馬鹿馬鹿しいように見えた。
その上大した妖気すら発していないのだから、てゐが馬鹿にするのも無理はない。人は妖怪を退治し鬼は妖怪を殺すものだとも聞くが、てゐにはこんな小鬼を恐れるつもりは毛頭無かった。
「鬼に大も小もないわ。そんな事も解らないあんたごときが、鬼の萃まる所に居られるはずもない!」
言葉とともに、萃香は拳を振り上げて殴りかかる。洗練されているとは言いがたい動作だったが、ただ途轍もなく速い。それを避けながら、てゐは外見ほど甘い相手ではないようだと判断し直す。
だがその判断すらも甘かったことをすぐに思い知らされた。
萃香が勢い余って拳を地面に叩き付けた瞬間に、てゐは莫大な妖気が萃まるのを感じる。髪の毛を焦がすようなきな臭い感覚にてゐがさらに身を引いた瞬間、萃香の拳は地面に半球状の陥没を生みながらおびただしい妖弾を撒き散らした。
「なにこいつ!」
てゐは驚きの声を上げて飛び退りながらも、空中から萃香に向かって火炎の妖術を放つ。
しかし萃香はそれを避けようともせずに腕を振り上げると、そのまま火炎に包まれながらてゐに向けて力任せに妖気を叩き付けた。
てゐは伸びた木の枝をつかみ、そこを支点に体を移動させてそれを避ける。地面に降りたって萃香の方に向き直る。予想はしていたが、妖術が効いた様子が無いことにてゐは驚きを隠せなかった。
「そんなちんけな妖術で私を倒せるものか! やるならもっとましな術を使うのね!」
畳み掛けるようにして萃香はてゐに向かって殺到する。しかしてゐが地面を軽く蹴った瞬間、萃香は何かに躓いて足をもつれさせた。
「うわっ、とっとお!」
萃香が躓いた辺りの地面が僅かに出っ張っている。てゐが地面に妖術をかけて地面を盛り上がらせたのだ。
てゐはその手をつい先ほど人間を切り刻んできたばかりのかぎ爪に変えると、地面を蹴って木々の間を渡り萃香の後ろに回って襲いかかった。
ほんの刹那の間に鉄をも寸断する五本の爪に切り刻まれ、萃香だったモノはバラバラになって散らばる。
「力はあっても頭が緩いんじゃね……」
馬鹿にするように吐き捨てながら去ろうとするてゐの後ろから、
「確かにちょっと驚いたわね」
と声が掛かった。てゐが弾かれたように振り返ると同時に、その体に数本の冷たいモノが潜り込む。
「ぐっ、あっ!」
てゐの体に突き刺さったのは三本の、てゐの身長を超えるほどの、鉄製の串とでも言うモノだった。それはてゐの体を易々と貫通し、百舌鳥のはやにえのようにその身を地面に縫いつけている。
「山を崩すのにそれっぽっちの爪じゃあね」
どこからとも無くする声が続けた。
バラバラになった萃香の体が霧となって散ると、それはより量を増して萃まり始める。いつの間にか満ちた妖気を含んだ霧の中、伊吹山の萃香は先ほどよりも遙かに密度を増した妖気を持って姿を現した。
「効いてないの!? このっ、抜けろッ!」
「鬼の力で萃めた鉄の針は、妖怪から決して抜けないわ。意外とやったけど、これで終わり!」
萃香は瓢箪の先から中身を口に含んで、てゐが放ったものとは比べものにならない炎を吐き出す。
瓢箪の中身は鬼の酒。鬼の酒を燃やして放った炎は、鬼気を含んで妖怪を焼き尽くす。避けようのないてゐはひとたまりもない。
「訂正。意外とどころかかなりやるわね」
萃香の視線の先には、荒い息を吐いて睨み付けるてゐの姿があった。無理矢理に体を引きちぎって、鉄の串から逃れたらしい。妖怪の再生能力でも塞ぎきれないほどの大きな傷からは血が溢れている。
「封殺の鎖まで使うことになるとはね。伸びろ!」
かけ声とともに振り上げられる萃香の腕につながれた鎖は、その長さを増しながらてゐに向かって襲いかかる。
蛇蝎の如くうねり、警戒音のような耳に障る音を立てながら木々の隙間を縫って襲いかかる鎖に、てゐは空間にあるもの全てを足場にし手でつかんで避け、そのまま逃げに移った。
「へ?」
あっさり逃げるとは思わなかったのか、萃香は惚けた顔をして固まる。その間にもてゐはまさしく脱兎となって逃げていく。
「ちょっ、こら! あっさり逃げるな~!」
萃香は鎖を振り回しながら、あわてて追いかけ始める。
「勝てない相手に掛かっていくほど馬鹿じゃないっての! 三十六計逃げるに如かず!」
追いかけてくる鎖を避けながら森を縫って撒こうとするてゐだが、萃香が固まっているうちに開けた距離からはなかなか変化しない。
「ぅわきゃぁ~!」
と思われたが、突然陥没した地面に萃香が飲み込まれた。落とし穴に嵌ったらしい。体が小さいせいか外からは全く見えない。
さらにてゐが近くにあった蔓を切ると、どこからか大岩が飛んできて轟音とともに萃香入りの穴を塞いだ。てゐはどうやら自分の縄張りを罠で満たしているようである。
「さて今のうちに」
あれくらいで萃香がどうにかなるとも思えなかったので、てゐは一目散に逃げ始める。
その時、穴を塞いだ大岩が早くもぐらぐらと揺れ始める。てゐが傷の痛みをこらえながら逃げていると、遂に後ろから堅い物が砕ける音が鳴り響く。
思わずてゐが振り返ってみると、視界が何かに遮られている。その何かは上に大きく広がっており、上を見上げて、上を見上げて、上を見上げてようやく果てが見えた。巨大すぎて何だか認識出来ないモノは、
「ふっざけんな~~~~~~~~~~~~~!!」
と島中に広がるような大音声を発した。それはよく見れば頭と胴と四肢を備えた人型で、頭からは立派な角を生やしている。
巨大な何かは萃香であった。
落とし穴に落とされたりしたのが余程頭に来たのか顔を真っ赤にして怒り、妖術を用いなくとも火を噴きそうな様相である。
「……巨大化?」
「待~て~!」
あっけにとられながらも逃げ続けるてゐを、巨大萃香が遠雷のような重々しい足音を立てて追いかける。巨大であるために動きが鈍く見えるが、実際は凄まじく広い歩幅でてゐとの距離を詰めていく。
が、途中で足をもつれさせて転倒する。その衝撃に、まるで地震でも起きたかのように大地が揺れた。今度は落とし穴に足を引っかけたらしい。
「うっきー! またしても~」
「おまけ!」
てゐは辺りの木を纏めてなぎ倒すと、萃香に向けてはじき飛ばす。今の萃香の大きさからすれば大したことはない大きさのそれらを、彼女は払おうとして、
「こんなもの! って、ぅえッ!?」
てゐの妖力によってみるみるうちに成長した木々にからみつかれて身動きが取れなくなった。
「ちょっとあんたねえ! もう少し正々堂々とか無いの!」
「そんな強い奴の戯言なんか知らないわよ! そのデカいなりじゃあもう追ってこられないでしょ」
「だったら小さくなればいいじゃないの!」
言った瞬間に巨大な萃香は分裂して、小さな萃香の群れとなる。萃香の軍は空中を泳ぐようにして、てゐに追いすがる。
しかしそれを見て、てゐは痛みに顔を引きつらせながらもにやりと笑みを浮かべていた。なけなしの妖力を使って、てゐは辺りの風を支配する。
「飛んで行きなッ!!」
かけ声とともにてゐの妖力を受けた風は、大旋風となって小さな萃香たちを吹き飛ばす。
「あ~れ~」
小さくなりすぎたために、耐えようもなく遙か彼方に飛んでいく萃香たち。これならそう簡単には追いつけないだろうと、てゐは少し胸をなで下ろした。
てゐが逃げて行く島の反対側、妖気を含んだ霧が萃まって小鬼の姿を取る。萃香は地面にあぐらをかいて座り込むと、不満げな表情で腕を組んだ。
「あら、鬼ごっこはもうおしまい?」
「ごっこじゃないわよ。本物の鬼なんだから」
突然降って湧いた声に、萃香は驚くこともなく返答を返す。声は中空にある裂け目から発せられていた。裂け目からは混沌という言葉を体現するような、万色をねじり混ぜた光景が覗き、無数の感情なき瞳が何を写すでもなく満ちている。
裂け目が広がり、その中から産み落とされるかのように一人の女が現れる。
整った顔立ちに金の髪と瞳。この土地では見ることのない装束。それらが放つ異彩を超えて、自身が放つ強烈な違和感。
それを目の前にすれば誰もが断じるだろう。それは妖怪である、と。
「それであの娘をおいそれと逃がしちゃって良いのかしら?」
「あれだけ逃げ切られたら私の負けでしょ。……すっきりしないけどね」
負けたことは認めているが、負け方には不満があるようである。
「紫にあの兎を始末した方が良い、って言われた時はまた何かたくらんでるのかと思ってたんだけど。実際見たら確かにその通りだったわ」
最初に目の前の妖怪・紫に、たかが兎の始末を頼まれた時には萃香はなんの冗談かと思ったのだが、実際にてゐという妖怪兎を目で見てその印象は完全に覆っていた。間違いなく生きていてはいけない存在だと判断したのだ。
その妖力は大量に殺戮を行っていただけあって、確かに年齢の割には大した物だったがそれは鬼である萃香からすれば大した物でもなかった。問題の中心はそこではなく、てゐの気性の方にあった。
まるでなにもかもを憎むような排他の気配に、切れる頭。食うでもないのに他者を殺して回り、何者ともうち解けない。
「ああいうのを生かしておくと、きっとあとで災いになるわ。私を殺すことだってあるかもね、何か思いも寄らない手段で」
強い者を滅ぼすのがそれと拮抗する強者であるかと言えば、それが成り立つことはむしろ少ない。
竜の血を浴びて不死となった英雄を真に殺したのは対峙する英雄などではなく、彼を取り巻く陰謀と情念と、竜の血を遮ったたった一枚の葉である。
輝ける神を殺したのは邪悪な魔物などではなく、暗躍する道化と、たった一つ不殺の契約を結び忘れた取るに足らない小枝である。
鬼は圧倒的に強く、しかし正直者である。鬼たちは英雄に敗北することを望んではいたが、同時に自分たちを滅ぼすのは身も蓋もない謀略であることも知っていた。それでも鬼は強者を求めて勝負に拘り続けるのだ。
「だったら追いかけて始末しておいてはどうかしら? きっとどこからも文句は出ないわよ」
紫は食事でも勧めるかのように軽く言った。
「負けを認めたからにはこれ以上は追えないよ。鬼の信義に反するわ」
紫の言葉を、萃香は頑固にキッパリと否定する。
「本当に堅いわよねえ、鬼って」
「あと、あんたが殺るのもダメよ。鬼に依頼したからには、鬼の負けで諦めて貰わないとね」
「いやだと言ったら?」
「力ずくでも止めるわ」
二人から莫大な妖気が立ち上り、それはぶつかり合って物理的な火花さえ生み出す。
しかし紫はその場に居合わせただけで息が止まりそうな妖気をあっさりと収めると、
「まあ冗談だけどね。大して殺す気もなかったし」
何事もなかったようにそう言った。
「あ~あ。そんな事だろうと思ったわよ」
肩をすくめて呆れたように言いながら、萃香も合わせるかのようにその妖気を薄くした。
「あなたに潰されたらそれはそれ。生き延びられたのなら毒にも薬にもなるわ、きっとね」
予言でもするかのように紫は言った。胡散臭い笑みを浮かべていたので、本気かどうか判然としなかったが。
「毒はともかく、薬はないんじゃないの?」
萃香の印象では世に災いを撒きこそすれ、益を与えるとは思えなかったのだ。
「ならちょっと面白い物を見せてあげるわ」
そう言って紫が空間に隙間を開けたので、萃香は勧められるままその隙間を通る。
隙間を抜けた先はさっき戦場になった森の、萃香が巨大化して転倒した辺りである。
「ここがどうかしたの?」
「あの木を見てご覧なさいな」
訊ねる萃香に紫が指し示したのは、萃香を封じようとてゐが飛ばしてきた木々である。既にてゐの妖気は薄れ、元の大きさの木に戻っている。
「あれ? ちゃんと生えてる」
折られて飛んできたその木は妖気が抜ける前に根を張り、妖気が抜けたあとも無事にその葉を揺らしていた。その上萃香が倒れたせいで周りの木々が倒れており、新たに居座ったその木々が日照を得る邪魔をする物がない。
「……これくらいなら偶然かもしれないんじゃない?」
少し自信なさげに言う萃香だったが、確かにこの程度ならば有り得ないことではないかも知れない。
「そうね」
紫も萃香の言葉を肯定すると、さらに別の所へと歩き始める。奇妙な現象に内心首をかしげながらも、萃香は紫の後に続いた。
紫が立ち止まった先には、折れた切り株がいくつも並んでいた。先ほどてゐが折った木々の根本の部分だろう。
「今度はあの根の方を見てみなさいな」
紫に言われて萃香が根の方を見てみると、根が虫に食われ病巣が上へと広がろうとしていたのが見て取れた。周りにある折られていない木も樹皮の状態が悪く、同様に虫に食われていることが知れた。放っておけばあの木々はいずれ枯れ果てたことだろう。
「ねえ……。これ、あいつが選んでやった、とかじゃないわよねえ?」
確認するように萃香が訊ねると紫は、
「あら、そんな事をしそうな娘に見えたのね?」
「いやぜんぜん。つか逆」
そう聞き返してきたので萃香は即座に否定した。
「それにしてもあの性格悪そうな兎が、他人に利するような能力でも持っているっていうの?」
確かにこの目でそれらしい現象を見はしたが、あの兎の不吉な気配からは全く逆方向の可能性である。萃香の感覚からすれば博愛に満ちた殺人鬼、などの方がまだしっくり来る。
「さしずめ他人を幸福にする能力と言ったところかしら? まあ不幸を振りまいていたみたいだけどね」
それを紫は心底愉快そうに語る。
「あの娘は今、きっと境界線上にいるんだわ。一つは生来の方向性を含む領域。血みどろの妖怪が幸運を与えるというのも一興ね」
紫は指を一本立て、満面の笑みを浮かべながら語る。
「もう一つは起源を反転する可能性。こちらの方があの娘にはぴったりね。さしずめ不幸を降り撒くもの、災厄そのものとでもなって具現するのかしら?」
紫は二本目の指を立てて、満面の、不吉な笑みを浮かべながら語る。
「それで紫はどっちが良いわけ?」
「面白ければどちらでも良いわよ」
萃香の疑問に紫はあっさりと、全く無責任に答えた。
「本当にあんたってろくでもないわねぇ」
呆れて言う萃香のため息混じりの言葉に、紫はやはり満面の笑みを浮かべた。
「くそ。鬼がなんだっていうのよ。誰がなんと言おうと、わたしは生き延びてやるんだ……」
てゐは傷を押さえながら悪態をついた。
なんとか萃香から逃げて海岸までたどり着いて、てゐはこの島から離れようとしていた。引き離したとはいえ、あの鬼が何時また追ってくるかも知れないこの島には居られないと思ったからだ。
だが萃香から受けた傷と消耗した妖力のせいで、海を渡るのは難しい。何か手はないかと考えていると数人の人影、いや妖怪が居るのが目に入った。彼らは酒盛りをしているらしく、時折大げさな身振りをしたり大声で笑ったりしていた。
楽しそうにする彼らを見て、てゐは苛立ちを感じていた。昔から群れている者を見ると耐え難い苛立ちを感じて、抑えが効かなくなることもしばしばあった。
てゐ自身知る由もなかったが、それは彼女の孤独から来るものだった。自分が一人だというのに、当然のように仲間を持つ存在全てに知らず憎しみを抱いていたのだ。
始めから孤独であったものが、孤独が当然であったものが、どうしてそれに苛まれていると知るだろうか。仲間を持つことを知らず一人で生き抜いてきたてゐは、孤独を癒そうにも孤独以外を知らないのだ。
てゐが苛立ちを抱えながら彼らを見ていると、時折彼らが海に向かって食べ物を投げているのが目に入る。近くの海には常にない量の鮫が泳いでおり、彼らはその鮫たちにエサを与えている様子だった。つまり彼らは鮫の変化であろうと言うことだ。
それを見ててゐはこの島を抜け出す案を考えついた。
「こんばんは、鰐さんたち。ごきげんいかが?」
傷の応急処置を済ませたてゐは、鮫たちの前に現れると屈託のない表情で挨拶をした。
「そう言うあんたは兎か。どうだい、あんたも一杯?」
鮫の変化である鰐の一人が、気の良い笑い顔でてゐに酒を勧めてきた。歯をむき出しにして笑うと見えるその牙は、剣のように鋭い。
「ええ。良ければご相伴にあずかります」
鰐から勧められた大きな杯をてゐが一息に飲み干すと、鰐たちは目を丸くして顔を見合わせ、笑った。それから鰐たちは先を争うかのように、てゐへ酒や食い物を振る舞い始めた。
「それにしてもたくさん鮫の方たちが居ますね。この島の兎達とどちらが多いかしら?」
宴会が盛り上がる中、海を泳ぐ鮫たちを見やりながらてゐはそう鰐の長に問いかけた。
「数え比べて見るかい?」
「海の方に並んでくださればその上を跳ねてわたしが数えましょう。流石に気多の岬までは届かないでしょうけど?」
てゐのからかうような視線に鰐の長は、
「そのまさかをやってやろうじゃねえか! 気多の岬まで届かせてみせるぜ!」
そう言って大いに乗り気になった。
てゐはにこやかな表情の下、内心ほくそ笑んでいた。あまりにも予定通りに事が進むので、鰐どもの間抜けさを哀れんでやりたいほどだった。
海岸からたくさんの鮫が気多の岬に向かって並ぶ。
「それじゃあ数えますよ~。ひとつ、ふたつ、……」
てゐは鮫たちの背を跳ねながら、次々とその数を数えていく。横では鮫の姿に戻った鰐たちが、てゐに伴走して泳いでいく。
てゐは数えているうちにそろそろ耐えきれなくなってきていた。
騙されている鰐どもの間抜けさに。
そして何よりも。
こんなにもたくさんの鮫どもが群れていることに。
「ああ、もう。本当に助かったわ、間抜けな鰐ども! 隠岐から出るのを手伝ってくれてどうもありがとう!」
遂にこらえきれなくなって、てゐは全てをぶちまける。頭では気多の岬に着くまで黙っていればいいと解っているのだが、あらゆる感情がぶちまけてしまえと叫んでいた。
「てめえ、騙しやがったのか!」
怒りの声を上げる鰐の長にてゐは、
「今頃気付くんじゃないわよ、馬鹿が」
そう言って鼻で笑ってやる。
食らい付こうとする鮫たちを踏みつけにしながら、てゐは気多の岬へ向かう。鰐たちが妖弾や水気の刃を放つが、てゐはそれらの弾幕も余裕を持って避ける。
だが迫った妖弾を避けようとした瞬間、塞いでおいた傷が開いたのか激痛がてゐを襲った。痛みに動きが止まったてゐを妖弾がとらえ、さらに数匹の鮫がてゐに食らい付く。
「くそッ、離れなッ!」
水中に引きずり込もうとする鮫たちを妖気の放出で無理矢理引きはがし、てゐは鮫たちを蹴り飛ばした勢いで加速して一気に岬へと向かう。妖術と鮫たちの牙が襲いかかる中、紙一重でてゐは逃げ続ける。
てゐの背中、僅か後ろで鰐の長が牙をかみ合わせる音を聞いた瞬間、てゐは遂に気多の岬の土を踏みしめた。
陸へと上がってからは鰐たちが追ってくる様子もなかったため、てゐは朝まで気多の岬で休息を取った。幾ばくかは回復したが、深い傷の上に無理をしたせいか治りは芳しくない。体の自由が効けば薬草でも探し出して回復の助けに出来るのだが、今の状態ではそれもままならない。
傷の痛みに今更ながら馬鹿なことをしたとてゐは思うが、止まらないのだからどうしようも無いとも考えていた。萃香に開けられた穴と鮫に食いちぎられたせいで、服までぼろ同然である。
そうして回復に努めていると、てゐは複数の人間の気配を感じた。普段ならば気にもとめないが、今の状態では騒ぎを起こしたくはなかった。てゐは妖気を消し、完全に人間に化けて妖怪であることを隠した。
どうやらてゐを見つけたのか一人の人間が近寄ってくる。
「どうしたんだい、お嬢さん? そんなに苦しそうにして」
無事妖怪であることを隠蔽出来たためか、人間の一人が心配そうに声をかけてくる。
てゐはさらに辛そうな顔を作ってやり、
「実は鮫に噛み付かれて命からがら逃げてきたところなのです。その傷がとても痛くて……」
さらに顔を背けて目元を伏せて見せた。
それが抜群の効果を見せたか、人間はあわてた顔になり、
「それはいけない! 海水で良く洗って、風に当てて乾かすと良い」
そう忠告してきた。
てゐはそれを聞くと、
「ありがとうございます! 早速試してみますね」
と言って一目散に海へと向かった。その人間があわててさらに説明を続けようとしていたのにも気付かずに。
数時間後。人間の説明を最後まで聞かずに行ったてゐは、潮風で痛む体に苦しんでいた。
「うぎぎ……。このわたしを騙しやがるとは。あの人間なかなかやるわね……」
実際は騙されたのではなくてゐが勝手に自爆しただけなのだが、そんな事は彼女には知る由もなかった。
「今度会ったらきちんと礼をしてやらなきゃね……。十七分割くらいが良いかしらねぇ」
そのようなことをつぶやきながらてゐは昏く笑う。その人間は全くの無実なのだが。
その時てゐの視界が揺れた。限界が来たのか足下が力無く震える。
「拙い」と考える間もあったか。
てゐの視界がぐるりと回転すると、そのまま闇へと落ちた。
火が爆ぜる音が聞こえる。火に照らされた顔が熱を帯びている。僅かに開いた視界から既に夜であることが知れた。
覚醒し始めた意識が、てゐをいつの間にか柔らかい毛布が包んでいることを感じ取る。
人の気配を感じてそちらに目をやると、
「目が覚めたかい、兎のお嬢さん?」
目を覚ましたてゐに人間の男がそう声をかけてきた。
その顔を見ててゐは覚めかけた意識を、一気に覚醒させて弾かれたように起きあがる。
「あんたさっきの人間! 妖怪を騙すとは良い度胸ね、切り刻んでやるわ!」
怒りを露わにしてすぐさま襲いかかろうとするてゐに、
「いや待て、誤解だ、落ち着け! 君が話の途中で行ってしまったんじゃないか!」
人間の男はあわてて手を振って止めると、そう言って弁解した。
「へ、途中?」
「風で乾かした後に真水で洗わなければならないんだ。そして最後に蒲の穂の粉で血止めをする。倒れている君を見つけて、悪いとは思ったが続きは勝手にやっておいた」
言われててゐが自分の体を見下ろすと、確かに鮫に食いつかれた傷はだいぶ癒えて、萃香の鉄針の跡にも悪い影響を与えていない様子だった。そのような治療法もあるのかと、てゐは感心した。
「もうそこまで治るとは、さすがは妖怪と言ったところかな」
人間もてゐの治りの早さに、感心して言ってきた。
言われてみてようやく、始めから妖怪であると気付かれていたことに思い当たる。てゐが頭の方に手をやると、限界に達したためかいつの間にか耳が元に戻っていた。
「ちょっとあんた。わたしが妖怪だって解ってて助けたわけ?」
人間の理解出来ない行動に、てゐは訝しげに訊ねた。
「まあ倒れて耳が戻っているところを見て気付いたんだけどね。君みたいに綺麗な女性なら妖怪だって助けるさ」
「ばっかじゃないのあんた。妖怪の女なんか助けたってその後で食われるのがオチでしょうに」
気楽に言ってくる人間に、てゐは呆れて言い返した。
「でも君は私を食おうとする様子もないようだし、良いじゃないか」
「わたしがたまたま肉なんか食わないだけよ。殺したりはするけど」
「それに今ちょっと眼福だしね」
「へ?」
にやにやと笑いながら人間に言われて、てゐが状況を把握し直すと自分の傷跡がとてもよく見えたことを思い出した。もう一度体を見下ろすと、一糸まとわぬ姿であることに気付いた。
「ちょ! 早く言いなさいよ馬鹿!」
てゐはあわてて毛布にくるまり直す。それを見て人間の男は軽く笑った。
「わたしの服はどうしたのよ?」
「ぼろぼろになっていたし、手当の邪魔になったから脱がしたよ。布は取っておいたが。私の替えで良ければ、あげてもかまわないよ」
そんな話をしていると別の人間の気配がしたので、てゐは完全に人間へと化け直す。
「おい、オオアナムジ。晩飯が終わったから片付けを……」
髭だらけの、妖怪であるてゐから見てもむさ苦しい男は、続けようとして突然話を止める。
「兄上?」
てゐを助けた人間・オオアナムジが男に呼びかけると、
「お前、こちらの女性は?」
「はい、彼女は……」
そう聞いてきたので、てゐのことを伝えようとする。
そこにてゐが割り込んできて、
「わたくしが怪我をして苦しんでいるところを、この方に助けていただいたのですわ」
そう言ってオオアナムジにすがりつくと、彼を潤んだ目で見つめる。
それを見てむさ苦しい男は、凄まじい目つきでオオアナムジを睨み付けた後、
「此奴に何か良からぬ事をされませんでしたか?」
と聞いてきたので、てゐはさらに熱い視線をオオアナムジに送りながら、
「この方が居なければわたくしはきっと……。感謝の言葉もありませんわ」
と言って涙さえ流す。
その反応にむさ苦しい男は、苦虫を皿一杯噛み潰したような形相を浮かべて去って行こうとした。
「あ、兄上!」
オオアナムジが引き留めようとするが、男は怒りを込めて睨み付けるとそのまま立ち去った。てゐの耳には聞こえていたが、小声で「なんであいつばかり……」などとぶつぶつ言いながら。
「あっはは。やっぱり人間で遊ぶと楽しいわねえ」
てゐは先ほどのしおらしい態度などを一欠片も残さずに、大笑いしていた。その様子にオオアナムジは恨めしい顔をてゐの方に向けて、
「勘弁してくれ……。ただでさえ私は立場が悪いんだ」
と不満を口にした。
てゐはその言葉に意外そうな顔をする。
「人間って群れの中で、仲良しこよしやってるんじゃないの?」
てゐの想像では、群れの中で争いなどは起きないものだと思っていたのだが。
「そうだったら良いんだけどね。残念ながら私は立場が低くて、荷物持ち扱いなんだよ」
そう言ってオオアナムジは皮肉げに笑ってみせる。本来の立場としては他にもたくさん居る兄たちと同格のはずなのだが、母の身分のせいか彼の扱いは非常に悪い。
「ふぅん。人間にも仲間はずれとかあるのね」
「そういうことさ。流石にいきなり殺しに来たりはしないと思いたいんだけどね」
「それって本当に仲間なわけ? つかそんなにやばいんだったら、群れの連中のご機嫌取りでもしてなさいよ。妖怪助けなんて馬鹿な事してないでさぁ」
予想よりもずいぶんと殺伐としているらしい人間の群れに、てゐは呆れた。なんの得にもならないことをする、目の前の男にも。
「放っておいたら後で気になるからね」
「だから食われたらどうするって言ってるのよ、さっきも言ったけど」
「今回は食われなかったじゃないか。まあ食われたらその時に考えよう」
てゐは虐げられているくせに、あまりにも気楽なこの男に呆れ返った。あまりにも呆れたので、
「そのすっごい馬鹿さならきっと大物になるわよ、あんた。その前に早死にする方が先だろうけど」
そう馬鹿にしながらも、てゐは半ば本気で言ってやった。
「出来れば早死にしない方だと良いんだけどね」
オオアナムジは笑いながら言った。
早死にしない方が良いと言ったオオアナムジだったが、翌日早くも死んでいるところをてゐに発見された。焼けた大岩で潰すという、妖怪もびっくりな殺し方である。
言ったそばから死んでいるオオアナムジに呆れながらも、昨日助けられた恩があったので何とかしてやることにした。
貝殻の粉と汁を合わせた薬に妖気を混ぜて塗ってやると、てゐが驚くほど早く傷が癒えた。因みにこの製法は昔、貝の妖怪を脅して聞き出した。
「あんた人間のくせによく抜け殻にならなかったわねぇ。普通完全に死ぬと思うんだけど」
「一応私の先祖は神様らしいからね。そのおかげかな?」
てゐは胡散臭い話だと思ったが、ずいぶん治りが早かったことも鑑みるとあながち誤りでもないのかも知れない。
「あんたの兄弟って人間にしておくのが勿体ないわねぇ。地獄にでも行ったら歓迎されるわよ」
「はっはっは……。いや、私もここまでとは思わなかったんだけどね」
「良いからもうちょっと気をつけなよ」
とは言ってみたが今度は大木に挟まれているオオアナムジを発見して、いろいろと呆れ返った。今度は死んでいなかったが。
「いい加減あの群れから離れた方が良くない?」
乗りかかった船という奴で、てゐはオオアナムジを引っ張り出して忠告してやる。
彼の兄弟もなかなか凄まじい執念である、とてゐは思った。一体彼らを駆り立てるものはなんなのか。
「どうにも私が君に気に入られたように見えたのが、余程腹に据えかねたらしくてね。何せ彼らはここに嫁探しに来たのだから」
ついでにてゐに治療されているところを見た者が居て、なおさら怒りを駆り立てたらしい。
「ふぅん。発情期なのかしらねぇ?」
ずいぶんと派手な求愛行動だと、てゐは思う。妖怪であることも見抜けないくせにずいぶんと入れ込むものであると、てゐは他人事のように考えた。
逃げる先を相談されたので、てゐは深い森がある土地でもどうかと言ってやった。深い森があるならば隠れるには向いている。
それならば紀国が良いだろうというので、ついでに妖怪除けになる自分の服の布をくれてやった。
「それを身につけていれば大抵の妖怪は近寄らないわよ。何せろくでもない妖気が染みついてるからねぇ」
「すまない。この恩は必ず返すよ」
「ああ、偉くなったら百倍くらいにして返してちょうだい」
てゐは稲羽の地で、これまでになく穏やかに暮らしていた。鬼にやられた傷を治そうとずいぶんと妖力を使っていたのもあるし、何より仲間から見放される人間を見たせいで、積極的に人を襲う気がなくなっていたのもあった。
縄張りから食べ物を取ってきて食べているので、食べ物を奪いに人里に降りていくこともなかった。取ってきてそのまま食べることもあるが、ものによっては手を加えてから食べたりしていた。
よく誤解する人間が多いが大抵の妖怪は、人間などより余程文化的な生活を送っているのだ。
そんな平穏なある日のこと。何をするでもなく山を歩いていると、てゐは人間の声を聞きつけた。全くもって暇だったので特に目的も無しにそちらに行ってみると、人間の女の子供が一人座り込んで泣きわめいていた。
「あんた、こんな所でなにやってるの?」
この辺りは人間があまり来るところではなかった。てゐが来た時は居なかったが、このような山奥には妖怪が居ることが多いため、大人であっても刺激しないよう静かに訪れるものだった。泣きわめくなど論外である。
それに妖怪でなくても腹を空かせた獣からすれば、人間の子供などごちそう以外の何者でもない。
それらを鑑みれば自殺以外の理由でこんな所へ来て騒ぐことはないだろうが、まさか人の世も子供が自ら死を選ぶほど荒れてはいまい。故にてゐには人間の子供がこんな所にいて騒いでいる理由が思い当たらず、理由を聞いてみたのだ。
しかし人間の子供は泣きやまず、答えもしない。
「聞けってばさ」
言ってみるが答えない。
「食うわよ」
びくりと震えて泣きやむ子供。その子供は恐る恐るてゐの方を見る。
実際に食うことはないが、効果は抜群だったらしい。もっとも殺すことは往々にあったので、迫力は十分だったのかも知れないが。
「で。なんでこんな所にいたのさ?」
「おうちわからない……」
たどたどしい説明を聞くと、どうやらこの人間の子供は麓の村に住んでいるらしい。それが虫を追いかけているうちに、道に迷ってここまで来たという。割とよくある話ではあった。
しかしてゐからすると驚くべき事に聞こえた。自分の方向感覚が当てにならない場所に行く、という考えが凄まじく突飛に聞こえたのだ。方向もわからずに歩くとは知られざる人間の一面を見た、と本気で考えすらした。どうやら人間はからかうと面白い以外にも奇妙な習性があるようだと、てゐは思った。
麓にあるという村は、着いてみるとかなりの規模だった。そんなにたくさんの人間の村を見たわけではないが、少なくともこれまでてゐが見た中では一番大きい。
てゐはわざわざ人間の子供をその村まで連れて来ていた。
理由を挙げれば何となく暇だったことが一つ。
それとあの馬鹿な人間がやったことの、逆をやってみるのも一興かと思ったのだ。つまり妖怪の人間助けである。人間と違い本来こちらが殺す側であるので、てゐにとっては気楽なものである。
子供を連れて堂々と村を歩いていると、昼間から出歩く妖怪に村人がぎょっとして立ち止まる。その反応が面白くて、こういうやり口の楽しみ方もあるのかとてゐは思う。たくさんいる人間を見ても、特に憎しみは湧いてこなかった。
「こっちで良いわけ?」
「うん。こっちがおうちー」
てゐの問いかけに人間の子はにこにこ笑いながら答える。
崖を一気に飛び降りたり木の上を飛び回ったりした時におびえるかと思っていたのだが、逆にそれが楽しかったらしくいつの間にか妙に懐かれていた。
人間の子が言う方に向かっていくと、ひときわ大きな家、いや屋敷が見えた。そこには数人の男が出たり入ったりして、慌ただしい様子である。その中心には不安げな表情の女が立っていた。
人間の子がその女を見て歩き出すと、同じようにこちらを見た女が子供に向かって走り出した。
「ゆえ!」
「ははうえー」
女はゆえというらしい子供を決して離すまいとするかのように抱きしめる。余程心配していたのか、その目には大粒の涙が浮かんでいた。
「どこへ行っていたの? 心配したわよ」
「おうちがわからなくなって、お山からうさぎさんに連れて来てもらったの」
言われててゐの方を見ると、女は驚きの表情を浮かべた。
「どうして妖怪の方が……?」
それ言うのも無理はない。妖怪が人間を助けるなど前代未聞である。
「気まぐれよ気まぐれ。だから次はないかもね。気を付けるのね、せいぜい」
そう言って立ち去ろうとしたてゐに、ゆえが駆け寄ってくる。
「うさぎさんありがとー」
予想もしなかった礼の言葉に、てゐは思わず目を丸くする。
珍しく本心からゆえに笑いかけると、
「じゃあ、二度と会わないようにね」
と言っててゐは風のように跳び去った。
「兎神様~」
「ブホッ!」
食後にまったりと茶を啜っていたところ、いきなりかけられた言葉を聞いててゐは茶を吹き出した。
吹き出した茶を拭いていると、てゐが住む庵に人間の子供が入ってくる。因みにこの庵はてゐが住み着いた時に半日で造ったものだが、下手な人間の家よりも遙かに頑丈である。
「あんたね。何よその背中が痒くなる呼び方」
「母上がね、失礼だからそう呼ばなきゃダメだって」
呼び方に文句を付けるてゐに答えたのは、数年分成長したゆえであった。とは言ってもまだ十かそこらであり、まだまだ幼い。
てゐを兎神などと呼ぶのは決して故無きことではなく、実際辺りの人間にありがたがられていたのである。
ゆえを村まで連れて行った時の人間の反応があまりにも面白かったので似たようなことを繰り返していたら、天気の具合のことに相談に乗ってやる機会があった。それをきっかけに時折相談事を受けるようになり、その度に妖怪にとっては大したこともない知恵を教えてやっていたら、いつの間にか神扱いである。
「わたしの前ではてゐで良いわよ、全く」
「じゃあてゐと私の秘密~」
てゐの言葉に、ゆえはうれしそうに顔をほころばせる。
それを見ててゐも少し笑った。てゐは口には出さないが、誰かがいるというのはずいぶんと心地よいと最近思うようになっていた。
「それで今日は何か言われてきたの?」
ゆえはてゐの所に好んで訪れているが、この庵までの道は険しく気軽に来るところではない。基本的には用事を頼まれてくることが多いのである。
「そうそう。村の人が狩りに出かけた時に、うさぎの妖怪を見かけたんだって」
その言葉にてゐは顔色を変えた。
「それでどうしたの!」
「う、うん。なにもしないで逃げちゃったって」
てゐは真剣な顔で考え込むと、
「ちょっと出かけてくるわ。あんたはここにいな」
「どこ行くの?」
「昔の自分に会いに行く、ってところかね。格好付けて言うと」
そう言って庵を出た。
辺りに残る妖気を探る。それなりに隠れてはいるが、まだまだその隠蔽は未熟で跡をたどるのは難しくない。しかしその跡を感じ取っててゐは顔をしかめた。
「ったく。コイツ本当に昔のわたし並みの馬鹿だわ」
その妖気の流れは完全にてゐの縄張りの中に侵入している。その後向かった方は別の妖怪の縄張りの方向である。緩衝地帯もなにもない様子で動いている。
有り体に言ってこの跡を残した妖怪は、妖怪同士の縄張りの把握も出来ないほど未熟であると言うことだ。
てゐもまだ変化するようになって間もない頃に、他の妖怪の縄張りに気付かずに入って酷い目に遭ったことがあった。
「こっちの方にいる奴はっと。確かまだまっとうな奴ね」
妖気の向かう方へと疾風の速さでてゐは突き進む。
その先にいたのは恐ろしく筋骨隆々とした老人と、横たわるうさぎの耳を生やした少女。
「狒狒の爺さん。悪いけどその娘わたしにくれない?」
「お前さんは、隣の兎か。同族のようじゃが知り合いか?」
「いんや。今初めて見た」
「なら別に放っておいても良いじゃろう。それとも何か欲しがる理由でも有るのかの?」
狒狒の言葉にてゐは返答に困った。追いかけては来たものの、明確な理由があったわけでもないのだ。
「爺さん、そいつどんな様子だった?」
「いきなり儂を見て襲いかかって来たよ。何かする前に勝手に倒れたがの」
見るとその兎はそこかしこに傷を負い、やつれてもいた。その状態のまま向こう見ずに襲いかかったのだという。
「爺さんに仲間はいる?」
「何人か居るよ。一緒じゃったが帰らせた」
その予想通りの言葉にてゐは納得した。
「そいつはそれが妬ましかったのよ。自分は一人なのに、なんで爺さんには仲間がいるのかってね」
「ほぅ。体験談かの、そりゃあ?」
「恥ずかしながらね。若気の至り、っていうほど前の話じゃないけど」
「ならそのちんまいのを連れて行くが良い」
「いいの?」
あっさりと話が通ったのが、てゐには意外だった。縄張りの一部を手放す覚悟もしていたのだが。
「仲間が誰も居ないのは辛い。お前さんがその一人目になってやると良い」
狒狒も傍に誰も居ないつらさを知っていたのか、その言葉には実感がこもっていた。
「ありがと。恩に着るわ」
てゐは小さい妖怪兎を抱えると、自分の庵へと向かった。
てゐが庵に帰ると、ゆえは入り口でまっていた。
「おかえりー、てゐ。あ、その子」
「ただいま。ゆえ、今日はもう帰りな」
「ん、どうして?」
「あー。多分コイツ暴れるわ、経験上」
「てゐはだいじょうぶなの?」
心配そうに言うゆえに、
「こんな小娘にどうにかされるほど落ちぶれちゃい無いわよ。稲羽の兎神様なんでしょ?」
そう言っててゐは胸を張って見せた。
「うん! じゃあまた来るねー」
てゐは手を振ってゆえを見送った。
「さてと。コイツが起きるまでにご飯でも作っておこうかね」
弱っている様子なので、粥にでもしようとまず米を水につけておく。
その間、拾ってきた兎の様子を見る。無理をしている様子から、やはり変化したてだろうと当たりを付ける。
力を付けてきて調子に乗り、そして手痛いしっぺ返しを喰らう。てゐがずいぶんと昔に通った道であり、つい最近数倍になってまた喰らったものだ。
米が水を吸ってきたところで釜戸に火を入れる。こういう時妖術は便利なもので、人間がやる面倒な手続きを省いて一瞬で火が点く。
鍋を火にかけてしばらく見守る。鍋がコトコトといいだした頃に、バレバレの不意打ちを仕掛けてくる間抜けがいたので、腕をつかみ取って壁に向けて放り投げてやる。
てゐが力加減を適当にやったので、兎はかなり激しい音を立てて壁に叩き付けられた。庵自身も僅かに揺れたが、壁を含めて壊れた様子もない。てゐは自分が建てた庵ながら頑丈なものだと自画自賛した。
「いったぁ~」
「あんたごときがわたしに勝とうなんて何百年か早い」
「何よあんた偉そうに!」
「偉いのよ、敬いな。はいエサ」
てゐは粥の入った鍋を机の上に置くと、蓋を取ってやる。すると粥自身と散らした葉の香りが庵に広がった。
兎はごくりとのどを鳴らしながらも、
「誰が施しなんか……」
と固辞しようとするが、同時に腹の虫の方が不満の声を上げた。顔に朱を散らして恥ずかしそうにする。
「良いから食べなって。まさか毒の嗅ぎ分けが出来ないほどの間抜けでもないでしょ?」
てゐと鍋を交互に睨み付ける兎だったが、背に腹は代えられないのか粥にがっつき始める。
「ふぁふぉふぃ!」
「冷ましながら食べろって。あー化けたてじゃあ分からないか」
てゐは匙を取ってすくい、息を吹いて冷ましてやる。
そうすると食べ方を理解したのか、兎は同じようにして冷ましながら食べ始める。
それを見ていると何だか妙な、くすぐったい気分になってきたが、悪くないとてゐは思った。
「わたしはてゐ。あんたは?」
食べ終わったのを見計らって、てゐは兎に訊ねる。
「……うい」
一瞬口ごもったようだったが、妖怪兎・ういは観念したように名乗った。
その反応を見て昔の自分を鑑みると、ずいぶんとこの子はましそうだとてゐは思った。
自分を最初に痛い目に遭わせた妖怪は、既に消滅したか再生の時を待っているかのはずである。敵を罠に嵌めて叩き潰した自分に比べれば、なにも考えずに真っ正直に掛かってきたういなどかわいいものだ。
「うい、あんたは今日からここで暮らすの。嫌ならわたしをブッ倒して出るように」
「ハァ? 何よそれ、勝手に」
ういは反論してくるが怒っている様子ではなく、てゐの意図が掴めずに訝しがっているようだ。
「わたしが、仲間を欲しがってるからよ」
「仲間?」
ういは不思議そうに聞き返す。
「そ。まさか同族だって事が判らないとか言わないわよね。それともその目は節穴で、頭も虚なわけ?」
「そんな事見れば判るわよっ!」
なかなか元気が良い。いきなり倒れたというのは、疲労の方が原因だったのだろう。
「里の人間が兎を見たっていうから探してたの」
「……なによ。あんたには仲間いるんじゃない」
「最近はね。本当に最近」
不満げに言うういに答えた通り、こんなにも穏やかに暮らしているのはてゐが生きてきた中のほんの僅かな期間。
「ほんの少し前までは、群れてる奴を片っ端から殺してたもんよ。とっても楽しかったわ、すっきりしてね」
「……あんたが?」
ういは疑わしそうに聞き返す。目の前の妖怪からはそんな淀んだ気配を感じられず、むしろ妖怪に似つかわしくない晴れやかな気配ですらあった。
しかしういは、てゐの目を見てぎょっとした。赤い紅い、狂気に染まった、妖怪さえも震えさせる昏い瞳。
「親の前で子供を引き裂いてやるのも、外面に騙された間抜けを焼き殺してやるのも、偉そうにしてる妖怪を後ろからなます切りにしてやるのもね」
ほんの少し前までに実際やっていたことだ。今思いだしてもその記憶は喜悦に満ちている。そのころのてゐは楽しんで殺戮を為し、血にまみれては満足して眠りについていた。
馬鹿なことをしたと思うのはあくまでも今の自分であって、間違いなくてゐはかつて殺戮に酔っていたのだ。
「まあいくら妖怪でもそんな事をしていれば、鬼だって殺しに来るってモンよ。こんな風にね」
そう言っててゐが上着をはだけると、露わになったのは白い肌に穿たれた禍々しい三つの穴。ういは異様な光景に息を呑んだ。
通例妖怪の再生能力は、他のまっとうな生物事物を遙かにしのぐ。切られた腕をつなぎ直し、引きちぎられた首をも手ずから戻し、粉砕されたとて年を経れば戻るものもいる。
その妖怪が、たった三つの穴を塞げずにいるという。
確かに傷自体は塞がり血を流しているわけでもないが、むしろそれが穴の異常さを際だてていた。
「鬼に殺されるって言うのは、多分こういう事ね」
鬼に殺されるようではもう駄目だと言うことだろう、そうてゐは考えていた。
最初は自分を殺しに来た、ただのとんでもなく強い妖怪だとてゐは思っていたのだが、それはおそらく違う。
奇妙なことに鬼に傷つけられたこの穴は、いくら塞ごうとしても妖気が集まらない。自然物の精気を集めようとしても空回りする。鬼に殺された部分がまるで、なにもかもから見放されているかのようだった。
てゐは結論する。正直馬鹿の鬼にまで死んでしまえと言われるモノに、この世のどこにも居場所はないのだろうと。
「とまあ、悪いことをすると鬼が来るってお話。手遅れになる前にやめておけって事ね」
自分は手遅れだがまだういは若く、ねじ曲がってもいない。そうてゐは思う。
てゐが瞬きをすると、昏い瞳は嘘のようにただの赤みがかった瞳に変わる。もうこの話は終わりだと言うように。
「まだ本調子じゃないんだから今日はもう寝な。回復したらこき使うけど」
てゐは黙り込むういに毛布を投げてやる。
「あのさ……」
「ん?」
ういがてゐにためらいがちに声をかけた。
「あんたもまだ、その、手遅れじゃないよ、きっと。それだけ。おやすみっ!」
ういは赤い顔を隠すように、急いで毛布に潜り込んだ。てゐは予想もしない言葉にあっけにとられた。
ゆえに最初に会った時も、そんな気にさせられたことがあった。
こんな小娘たちの言葉に心が楽になるのは、本当に不思議だとてゐは思う。
「てゐー! てゐー!」
「あ、ゆえ」
息を切らせて入ってきたのはゆえである。もうそれなりの年頃だというのに、野山を駆け回るわであまり印象に変化がない。
「あんたねえ。いい加減女の端くれなんだからもう少し……」
「てゐまで母上みたいな事言わないでよ~」
「てゐったら最近わたしにもこんな調子なんだから。あんたの母上みたいに」
「うぐ」
てゐも自覚があったのか、ゆえに言われて言葉を詰まらせた。
ういはゆえと仲良く過ごしてきたせいか、見た目をちょうどゆえに合わせるように変化させている。
その数年の間に、いつの間にか鬼に開けられた穴が消えていた。永久に残るのではないか、あるいは鬼がまた来る証ではないか、と思っていたてゐにはだいぶ意外だった。てゐにも何となく理由が分かる気もしたが、明確な言葉にするには少々恥ずかしい。
「そんな事よりてゐ! お客さん、じゃなくてお客様! すごい……」
「稲羽の兎神殿は居られるか?」
興奮して言うゆえの後ろから男の声がした。何やらてゐには聞き覚えのある声である。
「あれ、あんた?」
「久しぶりだね。私としたことが名前を聞き忘れていたから、探すのに苦労すると思ったんだが。まさかこの地で知らない者が居ないとはね」
腰に下げた剣の鞘は装飾が施され仕立ての立派な服を着てはいたが、男は気多の岬で出会った変わり者の人間・オオアナムジに間違いなかった。
「約束通り、恩を返しに来た。オオクニヌシとして、出来る限りのことを尽くそう」
礼を正し、オオクニヌシとなった男が言った。
オオクニヌシとはずいぶん大層な名を得たものだとてゐは思う。
「ならば稲羽のてゐとして、わたしと、その一族が住む家を望みます」
てゐもまた礼を正し、オオクニヌシに求めた。
「家? それに一族と言ってもそこのお嬢さんだけじゃないのかい?」
彼の言う通り二人しかいないのではこの庵で十分であった。しかし、
「一族はこれから増やすの。わたしやういみたいなのを拾ってきてね。この島中から拾ってくる妖怪兎が、全て入りきるほどの家よ。これなら百倍返しってとこじゃない?」
そう前から決めていたことを伝えた。オオクニヌシが礼をしに来たのは渡りに船と言ったところだ。
「ちょうど良いから今からちょっと行ってくるわ。留守番よろしく!」
あっけにとられる一同を残して、稲羽のてゐは早速同族を探しに跳んでいってしまった。
「それでまあ帰ってきた時は、連れてきた子たちと一緒に呆れたもんよ。まさかここまででっかい家をくれるとは思わなくてさぁ」
ほんの数ヶ月で日本列島中を回ってきたてゐも、それに連れられてきた兎達も、傲然とそびえ立つ永遠亭に口を開けて見上げたものだった。今ではかなりイナバ達が増えたというのに、それでもまだ空き部屋の方が多い。
というより明らかに増えていた。築三千年前後ともなれば妖怪化も当然だろうが。
「あー。何か稲羽の素兎の話とはずれちゃったか」
てゐも話しているうちに今日が乗ったためか、ずいぶんと脱線してしまった気がする。
「かまわんよ。いや、むしろ歓迎だな。元々一般に語られていない話を聞きたかったんだしな」
慧音にはむしろ興味深い話であったようである。
「それにしてもこの大国主って言う人、ずいぶんと好色に語られているのだけど。その辺はどうだったのかしら?」
一般に流布している方の資料を読みながら、てゐの話を聞いていた永琳が口を挟んだ。確かに西方の多神教の主神並みの記述である。
「あーそれねえ。そこかしこで女作ってたみたいよ。稲羽に来るたびに奥さんに怒られたって愚痴言ってたけどさ、だったら浮気なんかやめておけって言うのに」
流石にのどが渇いてきたので、てゐはお茶で舌をしめらせる。
大国主の正妻は悋気が強い上に、親が親だけあって人間離れした暴れ様だった。というよりてゐが会った時は、その怒り狂った様子しかあまり見たことがないので、そのような印象しかない。初めて会った時は稲羽まで逃げた。
その上時々、過保護な親がわざわざ現界して一緒に暴れたりもしていた。親バカもほどほどにして欲しいとてゐは思ったものだ。
「ほぅ。稲羽にはちょくちょく来ていたのか」
「んー。まあたまにね。忙しかったみたいだし」
特に気にすることもなくてゐが慧音の言葉に頷くと、永琳と慧音が意味ありげに顔を見合わせた。
「何だかてゐ、通われ妻みたいね?」
「バォッ!!」
突然の永琳の言葉にてゐは茶を吹き出した。さらに呼吸もままならないほどむせている。
「む、脈有りか」
「これは重要な資料になるわね」
何やら二人とも目を輝かせててゐに迫る。
「それ本筋と関係ない! 残念! 関係者の話の方が先よ、先!」
「ちっ。まあ、後でみっちりと聞かせてもらうわよ」
「うむ。逃げられるとは思わないことだな」
問いつめる気満々の二人に、てゐはげっそりとした。
気を取り直して、慧音に渡された資料を読み始める。もう話を聞いた関係者のリストには、知っている者、知らない者、懐かしい者、あまり思い出したくない者と色々あった。
「うちの子たちにはもう聞いたんだ?」
「先日の肝試しの時に何人か来ていただろう。その時に聞いたよ」
「……ちょっと。なんで紫がいるのよ」
「鬼をけしかけたのは彼女らしいぞ」
「あ、の、す、き、ま、は~! なんでそんな大昔からわたしに迷惑かけてんのよ!」
「知らんよ。まあそうでなくともいずれ来たんじゃないか?」
「……まあね。でも鬼にまで直接聞くとは手が込んでるねえ。鬼ヶ島ってどこだっけ?」
「ああ。萃香ならよく博麗神社に出入りしているぞ。霊夢に紹介されてつい先日聞いた」
「ちょっと! なんで幻想郷に鬼が居るのよ! 居ないって約束でしょ!」
「春か夏辺りにかけて住み着いたらしいぞ。詳しい事情は知らないが」
「ちょっと旅に出るわ。百年ほど」
「まあ待て。彼女はもうお前を襲う気はないらしいぞ」
宴会場は既に死屍累々。残すところ数人のイナバと、酒に酔わない二人の蓬莱人のみである。
普段はいろいろと騒ぎを起こして回っているイナバ達は、酔いつぶれている妹たちが冷えないように布団を掛けて回っている。もう手が掛からなくなった者達に何かしてやるのが楽しくて、彼女たちの足取りも軽い。
輝夜と妹紅は酔いもしない酒を、静かに飲み続けていた。
「ねえ妹紅。今日はどういう吹き回しだったのかしら?」
沈黙を破って輝夜が口を開く。
「あんたの差し金でしょ。本物が彷徨くところで、人間と妖怪が肝試しだなんて。二重に訳わかんないわ。その上季節はずれだし」
妹紅は先日行われた、輝夜主催の肝試しのことを口にした。
肝試しと言ったところで結局いつもの通り、輝夜が送った刺客と妹紅が対峙するという構図のスパイス程度である。
ただ一つ。
その中の人間が、ただの人間であるはずの者が唯一の違い。
「まあ私も化け物を気取るには早かったって事ね。あんな人間が居るんじゃさ」
そこに含まれていた人間たちは、本当に妖怪よりも妖怪じみていた。言ってることからやってることまで、あまりにも人間像から外れていた。
あんな人間たちの前では死なないだけ人間なんて、ただの珍しい者その一だろうと妹紅は思う。
「今頃そんな事に気付くなんてね。そんなだから駄目なのよ、あなたは」
「それじゃああんたはいつから解ってたのよ?」
心底馬鹿にした口調で言ってきた輝夜に、妹紅は不満げに聞き返した。
「そんな事気にしたこともないわ。永琳が居て、イナバ達が居る。別に人間なんて居なくても幸せじゃない?」
「ぐ。それじゃあ私が二重に馬鹿みたいじゃない」
慧音が居るのに、そんな事にも気付かなかった自分が馬鹿みたいだと妹紅は思った。
「その通りよ、二重の馬鹿」
「姫~。持ってきたよー」
「妹紅もごゆっくり~」
「わたしらもう少し飲んでるね~」
そこにイナバ達が酒を持ってきた。
「ご苦労様」
「何よその酒?」
「名付けて蓬莱の酒、かしらね」
そう言って輝夜は小さな御猪口に酒を満たして妹紅に渡す。
「ずいぶんとちまちま飲む酒ね」
そう言いながら妹紅は軽く飲み干す。
「きっつ~! って、おお?」
酔わないはずの身がぐらりと酩酊を覚える。死ななくなってから久しく覚えのない感覚に妹紅は驚きを隠せない。
「まだ味とか付けられないけどね。ようやくそこまでこぎ着けたんですって」
妹紅の様子に微笑みながら輝夜は言う。
元々は蓬莱の薬を無効化する毒を研究していたのだが、永遠亭で暮らすうちにどうせなら蓬莱人でも酔える酒を造ることに方向転換したらしい。永琳を中心に、数百年をかけての研究は未だ続行中である。
「酒一つに大げさねえ」
と妹紅は言うが、
「酒造りなんて永久に研究中じゃないかしら?」
という輝夜の言葉になるほどと頷いた。
「それじゃあ蓬莱人でも酔える、ありがたい酒に乾杯させて貰おうかしらね」
今度は妹紅が輝夜に注いでやりながら言った。
「そうしましょうか」
輝夜も妹紅の御猪口に注ぎ直してやりながら言った。
「「乾杯」」
軽く互いの御猪口をあわせると、二人は酒を飲み干した。
隠岐の島には兎の怪が居るという。それは人を化かしては弄び、時に気が触れたように荒ぶり誰彼と無く殺戮を為す。島に住むものは人も獣も妖怪すらもが、その災禍を恐れて近寄ることはなかった。
月明かりの下、それは己の縄張りの森で惚けたように座り込み、見るともなく中空を眺めている。人の型の女の姿を採り、妖かしである証に人ならざる兎の耳を生やした姿はいっそ愛らしいとも見えたが、その傍に寄ってまでその印象を覆すことがない者は相当に鈍いと言えるだろう。
まずその身に纏う血の臭いが、殺す側の存在であることを示す。
しなやかに伸びた手をべっとりと付いた血が朱に染め、乾ききらないそれは今し方何者かを殺してきたことを知らせる。それでも生き物が生きる限り、他者を害さずにいられることはない。草をはむ者であろうと、草もまた血を流す。
しかしその生者としての当然も、この女の姿の妖怪に染みついた死臭が否定する。
生きるために他者を喰らったところで、これほどの死臭が満ちることなど有り得ない。その身にまとわりつく死者の怨念は、もはや自身が放つ妖気と区別が付かないほどに混じり合っている。
一体どれほどの殺戮がこの邪気を生み出したのだろうか。
妖怪兎は小さく真っ赤な舌を出して、手に付いた生乾きの血を嘗め取ると唾とともに吐き捨てる。
「不味い……」
彼女には他の妖怪が人などを喰う気が知れなかった。血はのどに引っかかるし味も悪く肉は臭いと来る。しかしなぶったり殺したりするのは、とても楽しい。
植物などを食って満足出来る彼女が人を害する理由は、ただそれだけである。副次的に人を殺すたびに力が増すが、彼女にとってそれは大した関心事ではない。
彼女にとっての最大の関心事は、ただ命を延ばすことである。生まれ落ちたその時から頼る者がなかった彼女は己の感覚のみを信じ、事実妖怪へと変ずるほどに長く生きた。
故に食って不味い物や臭いを嗅いで良くないと感じた物は、たとえ滋養があるものだと判っていても食うことはない。
彼女は時折思うことがある。事物は年を経て妖怪に変ずると言うが、妖怪となる存在は生まれ落ちたその時から妖怪なのではないかと。
生まれたばかりで何も出来ないはずの赤子が、自力でエサを摂り生き延びる時点でそれは常識からの逸脱である。つまりわざわざ妖怪変化でございと化けてでる必要もなく、生まれの始めからそれは化け物なのだと。
そう考えれば、自分を放逐したであろう親の選択は全く正しい。生まれ落ちたその時点で自分が化け物となることを見抜いた、その慧眼をほめてやってすらいいと思う。
まあただの兎ごときではとうに土に帰っているだろうが。てゐはこの土地で自分以外の妖怪兎は見たことがないし、間違いなく死んでいることだろう。
それとも外見は同じながら、妖怪は別に木の股からでも生まれるのだろうか。
まるで石ころのように静止していた彼女の体に、突如緊張が走り瞳に色が戻る。いつの間にか自分の領域に、何者かが侵入しているのを察知したのだ。侵入者は軽い足音を立てて歩いてくると、
「あんたが隠岐の島のてゐ?」
そう言って誰何する。
「だったらなによ?」
「私は伊吹山の萃香。あんたを殺しに来たわ」
萃香と名乗った者が身につけた鎖が、金属をこする音を立てる。
「あんたが? わたしを? 殺す? 寝言は寝てから言いなよ、小鬼」
馬鹿にするように笑いながら、てゐは萃香に向かって吐き捨てる。
目の前の萃香にはいかにも鬼らしいたいそう立派な角が生えてはいたが、その体は腰に付けた瓢箪が巨大に見えるほど小さくまるで幼児であり、鬼と言うのも馬鹿馬鹿しいように見えた。
その上大した妖気すら発していないのだから、てゐが馬鹿にするのも無理はない。人は妖怪を退治し鬼は妖怪を殺すものだとも聞くが、てゐにはこんな小鬼を恐れるつもりは毛頭無かった。
「鬼に大も小もないわ。そんな事も解らないあんたごときが、鬼の萃まる所に居られるはずもない!」
言葉とともに、萃香は拳を振り上げて殴りかかる。洗練されているとは言いがたい動作だったが、ただ途轍もなく速い。それを避けながら、てゐは外見ほど甘い相手ではないようだと判断し直す。
だがその判断すらも甘かったことをすぐに思い知らされた。
萃香が勢い余って拳を地面に叩き付けた瞬間に、てゐは莫大な妖気が萃まるのを感じる。髪の毛を焦がすようなきな臭い感覚にてゐがさらに身を引いた瞬間、萃香の拳は地面に半球状の陥没を生みながらおびただしい妖弾を撒き散らした。
「なにこいつ!」
てゐは驚きの声を上げて飛び退りながらも、空中から萃香に向かって火炎の妖術を放つ。
しかし萃香はそれを避けようともせずに腕を振り上げると、そのまま火炎に包まれながらてゐに向けて力任せに妖気を叩き付けた。
てゐは伸びた木の枝をつかみ、そこを支点に体を移動させてそれを避ける。地面に降りたって萃香の方に向き直る。予想はしていたが、妖術が効いた様子が無いことにてゐは驚きを隠せなかった。
「そんなちんけな妖術で私を倒せるものか! やるならもっとましな術を使うのね!」
畳み掛けるようにして萃香はてゐに向かって殺到する。しかしてゐが地面を軽く蹴った瞬間、萃香は何かに躓いて足をもつれさせた。
「うわっ、とっとお!」
萃香が躓いた辺りの地面が僅かに出っ張っている。てゐが地面に妖術をかけて地面を盛り上がらせたのだ。
てゐはその手をつい先ほど人間を切り刻んできたばかりのかぎ爪に変えると、地面を蹴って木々の間を渡り萃香の後ろに回って襲いかかった。
ほんの刹那の間に鉄をも寸断する五本の爪に切り刻まれ、萃香だったモノはバラバラになって散らばる。
「力はあっても頭が緩いんじゃね……」
馬鹿にするように吐き捨てながら去ろうとするてゐの後ろから、
「確かにちょっと驚いたわね」
と声が掛かった。てゐが弾かれたように振り返ると同時に、その体に数本の冷たいモノが潜り込む。
「ぐっ、あっ!」
てゐの体に突き刺さったのは三本の、てゐの身長を超えるほどの、鉄製の串とでも言うモノだった。それはてゐの体を易々と貫通し、百舌鳥のはやにえのようにその身を地面に縫いつけている。
「山を崩すのにそれっぽっちの爪じゃあね」
どこからとも無くする声が続けた。
バラバラになった萃香の体が霧となって散ると、それはより量を増して萃まり始める。いつの間にか満ちた妖気を含んだ霧の中、伊吹山の萃香は先ほどよりも遙かに密度を増した妖気を持って姿を現した。
「効いてないの!? このっ、抜けろッ!」
「鬼の力で萃めた鉄の針は、妖怪から決して抜けないわ。意外とやったけど、これで終わり!」
萃香は瓢箪の先から中身を口に含んで、てゐが放ったものとは比べものにならない炎を吐き出す。
瓢箪の中身は鬼の酒。鬼の酒を燃やして放った炎は、鬼気を含んで妖怪を焼き尽くす。避けようのないてゐはひとたまりもない。
「訂正。意外とどころかかなりやるわね」
萃香の視線の先には、荒い息を吐いて睨み付けるてゐの姿があった。無理矢理に体を引きちぎって、鉄の串から逃れたらしい。妖怪の再生能力でも塞ぎきれないほどの大きな傷からは血が溢れている。
「封殺の鎖まで使うことになるとはね。伸びろ!」
かけ声とともに振り上げられる萃香の腕につながれた鎖は、その長さを増しながらてゐに向かって襲いかかる。
蛇蝎の如くうねり、警戒音のような耳に障る音を立てながら木々の隙間を縫って襲いかかる鎖に、てゐは空間にあるもの全てを足場にし手でつかんで避け、そのまま逃げに移った。
「へ?」
あっさり逃げるとは思わなかったのか、萃香は惚けた顔をして固まる。その間にもてゐはまさしく脱兎となって逃げていく。
「ちょっ、こら! あっさり逃げるな~!」
萃香は鎖を振り回しながら、あわてて追いかけ始める。
「勝てない相手に掛かっていくほど馬鹿じゃないっての! 三十六計逃げるに如かず!」
追いかけてくる鎖を避けながら森を縫って撒こうとするてゐだが、萃香が固まっているうちに開けた距離からはなかなか変化しない。
「ぅわきゃぁ~!」
と思われたが、突然陥没した地面に萃香が飲み込まれた。落とし穴に嵌ったらしい。体が小さいせいか外からは全く見えない。
さらにてゐが近くにあった蔓を切ると、どこからか大岩が飛んできて轟音とともに萃香入りの穴を塞いだ。てゐはどうやら自分の縄張りを罠で満たしているようである。
「さて今のうちに」
あれくらいで萃香がどうにかなるとも思えなかったので、てゐは一目散に逃げ始める。
その時、穴を塞いだ大岩が早くもぐらぐらと揺れ始める。てゐが傷の痛みをこらえながら逃げていると、遂に後ろから堅い物が砕ける音が鳴り響く。
思わずてゐが振り返ってみると、視界が何かに遮られている。その何かは上に大きく広がっており、上を見上げて、上を見上げて、上を見上げてようやく果てが見えた。巨大すぎて何だか認識出来ないモノは、
「ふっざけんな~~~~~~~~~~~~~!!」
と島中に広がるような大音声を発した。それはよく見れば頭と胴と四肢を備えた人型で、頭からは立派な角を生やしている。
巨大な何かは萃香であった。
落とし穴に落とされたりしたのが余程頭に来たのか顔を真っ赤にして怒り、妖術を用いなくとも火を噴きそうな様相である。
「……巨大化?」
「待~て~!」
あっけにとられながらも逃げ続けるてゐを、巨大萃香が遠雷のような重々しい足音を立てて追いかける。巨大であるために動きが鈍く見えるが、実際は凄まじく広い歩幅でてゐとの距離を詰めていく。
が、途中で足をもつれさせて転倒する。その衝撃に、まるで地震でも起きたかのように大地が揺れた。今度は落とし穴に足を引っかけたらしい。
「うっきー! またしても~」
「おまけ!」
てゐは辺りの木を纏めてなぎ倒すと、萃香に向けてはじき飛ばす。今の萃香の大きさからすれば大したことはない大きさのそれらを、彼女は払おうとして、
「こんなもの! って、ぅえッ!?」
てゐの妖力によってみるみるうちに成長した木々にからみつかれて身動きが取れなくなった。
「ちょっとあんたねえ! もう少し正々堂々とか無いの!」
「そんな強い奴の戯言なんか知らないわよ! そのデカいなりじゃあもう追ってこられないでしょ」
「だったら小さくなればいいじゃないの!」
言った瞬間に巨大な萃香は分裂して、小さな萃香の群れとなる。萃香の軍は空中を泳ぐようにして、てゐに追いすがる。
しかしそれを見て、てゐは痛みに顔を引きつらせながらもにやりと笑みを浮かべていた。なけなしの妖力を使って、てゐは辺りの風を支配する。
「飛んで行きなッ!!」
かけ声とともにてゐの妖力を受けた風は、大旋風となって小さな萃香たちを吹き飛ばす。
「あ~れ~」
小さくなりすぎたために、耐えようもなく遙か彼方に飛んでいく萃香たち。これならそう簡単には追いつけないだろうと、てゐは少し胸をなで下ろした。
てゐが逃げて行く島の反対側、妖気を含んだ霧が萃まって小鬼の姿を取る。萃香は地面にあぐらをかいて座り込むと、不満げな表情で腕を組んだ。
「あら、鬼ごっこはもうおしまい?」
「ごっこじゃないわよ。本物の鬼なんだから」
突然降って湧いた声に、萃香は驚くこともなく返答を返す。声は中空にある裂け目から発せられていた。裂け目からは混沌という言葉を体現するような、万色をねじり混ぜた光景が覗き、無数の感情なき瞳が何を写すでもなく満ちている。
裂け目が広がり、その中から産み落とされるかのように一人の女が現れる。
整った顔立ちに金の髪と瞳。この土地では見ることのない装束。それらが放つ異彩を超えて、自身が放つ強烈な違和感。
それを目の前にすれば誰もが断じるだろう。それは妖怪である、と。
「それであの娘をおいそれと逃がしちゃって良いのかしら?」
「あれだけ逃げ切られたら私の負けでしょ。……すっきりしないけどね」
負けたことは認めているが、負け方には不満があるようである。
「紫にあの兎を始末した方が良い、って言われた時はまた何かたくらんでるのかと思ってたんだけど。実際見たら確かにその通りだったわ」
最初に目の前の妖怪・紫に、たかが兎の始末を頼まれた時には萃香はなんの冗談かと思ったのだが、実際にてゐという妖怪兎を目で見てその印象は完全に覆っていた。間違いなく生きていてはいけない存在だと判断したのだ。
その妖力は大量に殺戮を行っていただけあって、確かに年齢の割には大した物だったがそれは鬼である萃香からすれば大した物でもなかった。問題の中心はそこではなく、てゐの気性の方にあった。
まるでなにもかもを憎むような排他の気配に、切れる頭。食うでもないのに他者を殺して回り、何者ともうち解けない。
「ああいうのを生かしておくと、きっとあとで災いになるわ。私を殺すことだってあるかもね、何か思いも寄らない手段で」
強い者を滅ぼすのがそれと拮抗する強者であるかと言えば、それが成り立つことはむしろ少ない。
竜の血を浴びて不死となった英雄を真に殺したのは対峙する英雄などではなく、彼を取り巻く陰謀と情念と、竜の血を遮ったたった一枚の葉である。
輝ける神を殺したのは邪悪な魔物などではなく、暗躍する道化と、たった一つ不殺の契約を結び忘れた取るに足らない小枝である。
鬼は圧倒的に強く、しかし正直者である。鬼たちは英雄に敗北することを望んではいたが、同時に自分たちを滅ぼすのは身も蓋もない謀略であることも知っていた。それでも鬼は強者を求めて勝負に拘り続けるのだ。
「だったら追いかけて始末しておいてはどうかしら? きっとどこからも文句は出ないわよ」
紫は食事でも勧めるかのように軽く言った。
「負けを認めたからにはこれ以上は追えないよ。鬼の信義に反するわ」
紫の言葉を、萃香は頑固にキッパリと否定する。
「本当に堅いわよねえ、鬼って」
「あと、あんたが殺るのもダメよ。鬼に依頼したからには、鬼の負けで諦めて貰わないとね」
「いやだと言ったら?」
「力ずくでも止めるわ」
二人から莫大な妖気が立ち上り、それはぶつかり合って物理的な火花さえ生み出す。
しかし紫はその場に居合わせただけで息が止まりそうな妖気をあっさりと収めると、
「まあ冗談だけどね。大して殺す気もなかったし」
何事もなかったようにそう言った。
「あ~あ。そんな事だろうと思ったわよ」
肩をすくめて呆れたように言いながら、萃香も合わせるかのようにその妖気を薄くした。
「あなたに潰されたらそれはそれ。生き延びられたのなら毒にも薬にもなるわ、きっとね」
予言でもするかのように紫は言った。胡散臭い笑みを浮かべていたので、本気かどうか判然としなかったが。
「毒はともかく、薬はないんじゃないの?」
萃香の印象では世に災いを撒きこそすれ、益を与えるとは思えなかったのだ。
「ならちょっと面白い物を見せてあげるわ」
そう言って紫が空間に隙間を開けたので、萃香は勧められるままその隙間を通る。
隙間を抜けた先はさっき戦場になった森の、萃香が巨大化して転倒した辺りである。
「ここがどうかしたの?」
「あの木を見てご覧なさいな」
訊ねる萃香に紫が指し示したのは、萃香を封じようとてゐが飛ばしてきた木々である。既にてゐの妖気は薄れ、元の大きさの木に戻っている。
「あれ? ちゃんと生えてる」
折られて飛んできたその木は妖気が抜ける前に根を張り、妖気が抜けたあとも無事にその葉を揺らしていた。その上萃香が倒れたせいで周りの木々が倒れており、新たに居座ったその木々が日照を得る邪魔をする物がない。
「……これくらいなら偶然かもしれないんじゃない?」
少し自信なさげに言う萃香だったが、確かにこの程度ならば有り得ないことではないかも知れない。
「そうね」
紫も萃香の言葉を肯定すると、さらに別の所へと歩き始める。奇妙な現象に内心首をかしげながらも、萃香は紫の後に続いた。
紫が立ち止まった先には、折れた切り株がいくつも並んでいた。先ほどてゐが折った木々の根本の部分だろう。
「今度はあの根の方を見てみなさいな」
紫に言われて萃香が根の方を見てみると、根が虫に食われ病巣が上へと広がろうとしていたのが見て取れた。周りにある折られていない木も樹皮の状態が悪く、同様に虫に食われていることが知れた。放っておけばあの木々はいずれ枯れ果てたことだろう。
「ねえ……。これ、あいつが選んでやった、とかじゃないわよねえ?」
確認するように萃香が訊ねると紫は、
「あら、そんな事をしそうな娘に見えたのね?」
「いやぜんぜん。つか逆」
そう聞き返してきたので萃香は即座に否定した。
「それにしてもあの性格悪そうな兎が、他人に利するような能力でも持っているっていうの?」
確かにこの目でそれらしい現象を見はしたが、あの兎の不吉な気配からは全く逆方向の可能性である。萃香の感覚からすれば博愛に満ちた殺人鬼、などの方がまだしっくり来る。
「さしずめ他人を幸福にする能力と言ったところかしら? まあ不幸を振りまいていたみたいだけどね」
それを紫は心底愉快そうに語る。
「あの娘は今、きっと境界線上にいるんだわ。一つは生来の方向性を含む領域。血みどろの妖怪が幸運を与えるというのも一興ね」
紫は指を一本立て、満面の笑みを浮かべながら語る。
「もう一つは起源を反転する可能性。こちらの方があの娘にはぴったりね。さしずめ不幸を降り撒くもの、災厄そのものとでもなって具現するのかしら?」
紫は二本目の指を立てて、満面の、不吉な笑みを浮かべながら語る。
「それで紫はどっちが良いわけ?」
「面白ければどちらでも良いわよ」
萃香の疑問に紫はあっさりと、全く無責任に答えた。
「本当にあんたってろくでもないわねぇ」
呆れて言う萃香のため息混じりの言葉に、紫はやはり満面の笑みを浮かべた。
「くそ。鬼がなんだっていうのよ。誰がなんと言おうと、わたしは生き延びてやるんだ……」
てゐは傷を押さえながら悪態をついた。
なんとか萃香から逃げて海岸までたどり着いて、てゐはこの島から離れようとしていた。引き離したとはいえ、あの鬼が何時また追ってくるかも知れないこの島には居られないと思ったからだ。
だが萃香から受けた傷と消耗した妖力のせいで、海を渡るのは難しい。何か手はないかと考えていると数人の人影、いや妖怪が居るのが目に入った。彼らは酒盛りをしているらしく、時折大げさな身振りをしたり大声で笑ったりしていた。
楽しそうにする彼らを見て、てゐは苛立ちを感じていた。昔から群れている者を見ると耐え難い苛立ちを感じて、抑えが効かなくなることもしばしばあった。
てゐ自身知る由もなかったが、それは彼女の孤独から来るものだった。自分が一人だというのに、当然のように仲間を持つ存在全てに知らず憎しみを抱いていたのだ。
始めから孤独であったものが、孤独が当然であったものが、どうしてそれに苛まれていると知るだろうか。仲間を持つことを知らず一人で生き抜いてきたてゐは、孤独を癒そうにも孤独以外を知らないのだ。
てゐが苛立ちを抱えながら彼らを見ていると、時折彼らが海に向かって食べ物を投げているのが目に入る。近くの海には常にない量の鮫が泳いでおり、彼らはその鮫たちにエサを与えている様子だった。つまり彼らは鮫の変化であろうと言うことだ。
それを見ててゐはこの島を抜け出す案を考えついた。
「こんばんは、鰐さんたち。ごきげんいかが?」
傷の応急処置を済ませたてゐは、鮫たちの前に現れると屈託のない表情で挨拶をした。
「そう言うあんたは兎か。どうだい、あんたも一杯?」
鮫の変化である鰐の一人が、気の良い笑い顔でてゐに酒を勧めてきた。歯をむき出しにして笑うと見えるその牙は、剣のように鋭い。
「ええ。良ければご相伴にあずかります」
鰐から勧められた大きな杯をてゐが一息に飲み干すと、鰐たちは目を丸くして顔を見合わせ、笑った。それから鰐たちは先を争うかのように、てゐへ酒や食い物を振る舞い始めた。
「それにしてもたくさん鮫の方たちが居ますね。この島の兎達とどちらが多いかしら?」
宴会が盛り上がる中、海を泳ぐ鮫たちを見やりながらてゐはそう鰐の長に問いかけた。
「数え比べて見るかい?」
「海の方に並んでくださればその上を跳ねてわたしが数えましょう。流石に気多の岬までは届かないでしょうけど?」
てゐのからかうような視線に鰐の長は、
「そのまさかをやってやろうじゃねえか! 気多の岬まで届かせてみせるぜ!」
そう言って大いに乗り気になった。
てゐはにこやかな表情の下、内心ほくそ笑んでいた。あまりにも予定通りに事が進むので、鰐どもの間抜けさを哀れんでやりたいほどだった。
海岸からたくさんの鮫が気多の岬に向かって並ぶ。
「それじゃあ数えますよ~。ひとつ、ふたつ、……」
てゐは鮫たちの背を跳ねながら、次々とその数を数えていく。横では鮫の姿に戻った鰐たちが、てゐに伴走して泳いでいく。
てゐは数えているうちにそろそろ耐えきれなくなってきていた。
騙されている鰐どもの間抜けさに。
そして何よりも。
こんなにもたくさんの鮫どもが群れていることに。
「ああ、もう。本当に助かったわ、間抜けな鰐ども! 隠岐から出るのを手伝ってくれてどうもありがとう!」
遂にこらえきれなくなって、てゐは全てをぶちまける。頭では気多の岬に着くまで黙っていればいいと解っているのだが、あらゆる感情がぶちまけてしまえと叫んでいた。
「てめえ、騙しやがったのか!」
怒りの声を上げる鰐の長にてゐは、
「今頃気付くんじゃないわよ、馬鹿が」
そう言って鼻で笑ってやる。
食らい付こうとする鮫たちを踏みつけにしながら、てゐは気多の岬へ向かう。鰐たちが妖弾や水気の刃を放つが、てゐはそれらの弾幕も余裕を持って避ける。
だが迫った妖弾を避けようとした瞬間、塞いでおいた傷が開いたのか激痛がてゐを襲った。痛みに動きが止まったてゐを妖弾がとらえ、さらに数匹の鮫がてゐに食らい付く。
「くそッ、離れなッ!」
水中に引きずり込もうとする鮫たちを妖気の放出で無理矢理引きはがし、てゐは鮫たちを蹴り飛ばした勢いで加速して一気に岬へと向かう。妖術と鮫たちの牙が襲いかかる中、紙一重でてゐは逃げ続ける。
てゐの背中、僅か後ろで鰐の長が牙をかみ合わせる音を聞いた瞬間、てゐは遂に気多の岬の土を踏みしめた。
陸へと上がってからは鰐たちが追ってくる様子もなかったため、てゐは朝まで気多の岬で休息を取った。幾ばくかは回復したが、深い傷の上に無理をしたせいか治りは芳しくない。体の自由が効けば薬草でも探し出して回復の助けに出来るのだが、今の状態ではそれもままならない。
傷の痛みに今更ながら馬鹿なことをしたとてゐは思うが、止まらないのだからどうしようも無いとも考えていた。萃香に開けられた穴と鮫に食いちぎられたせいで、服までぼろ同然である。
そうして回復に努めていると、てゐは複数の人間の気配を感じた。普段ならば気にもとめないが、今の状態では騒ぎを起こしたくはなかった。てゐは妖気を消し、完全に人間に化けて妖怪であることを隠した。
どうやらてゐを見つけたのか一人の人間が近寄ってくる。
「どうしたんだい、お嬢さん? そんなに苦しそうにして」
無事妖怪であることを隠蔽出来たためか、人間の一人が心配そうに声をかけてくる。
てゐはさらに辛そうな顔を作ってやり、
「実は鮫に噛み付かれて命からがら逃げてきたところなのです。その傷がとても痛くて……」
さらに顔を背けて目元を伏せて見せた。
それが抜群の効果を見せたか、人間はあわてた顔になり、
「それはいけない! 海水で良く洗って、風に当てて乾かすと良い」
そう忠告してきた。
てゐはそれを聞くと、
「ありがとうございます! 早速試してみますね」
と言って一目散に海へと向かった。その人間があわててさらに説明を続けようとしていたのにも気付かずに。
数時間後。人間の説明を最後まで聞かずに行ったてゐは、潮風で痛む体に苦しんでいた。
「うぎぎ……。このわたしを騙しやがるとは。あの人間なかなかやるわね……」
実際は騙されたのではなくてゐが勝手に自爆しただけなのだが、そんな事は彼女には知る由もなかった。
「今度会ったらきちんと礼をしてやらなきゃね……。十七分割くらいが良いかしらねぇ」
そのようなことをつぶやきながらてゐは昏く笑う。その人間は全くの無実なのだが。
その時てゐの視界が揺れた。限界が来たのか足下が力無く震える。
「拙い」と考える間もあったか。
てゐの視界がぐるりと回転すると、そのまま闇へと落ちた。
火が爆ぜる音が聞こえる。火に照らされた顔が熱を帯びている。僅かに開いた視界から既に夜であることが知れた。
覚醒し始めた意識が、てゐをいつの間にか柔らかい毛布が包んでいることを感じ取る。
人の気配を感じてそちらに目をやると、
「目が覚めたかい、兎のお嬢さん?」
目を覚ましたてゐに人間の男がそう声をかけてきた。
その顔を見ててゐは覚めかけた意識を、一気に覚醒させて弾かれたように起きあがる。
「あんたさっきの人間! 妖怪を騙すとは良い度胸ね、切り刻んでやるわ!」
怒りを露わにしてすぐさま襲いかかろうとするてゐに、
「いや待て、誤解だ、落ち着け! 君が話の途中で行ってしまったんじゃないか!」
人間の男はあわてて手を振って止めると、そう言って弁解した。
「へ、途中?」
「風で乾かした後に真水で洗わなければならないんだ。そして最後に蒲の穂の粉で血止めをする。倒れている君を見つけて、悪いとは思ったが続きは勝手にやっておいた」
言われててゐが自分の体を見下ろすと、確かに鮫に食いつかれた傷はだいぶ癒えて、萃香の鉄針の跡にも悪い影響を与えていない様子だった。そのような治療法もあるのかと、てゐは感心した。
「もうそこまで治るとは、さすがは妖怪と言ったところかな」
人間もてゐの治りの早さに、感心して言ってきた。
言われてみてようやく、始めから妖怪であると気付かれていたことに思い当たる。てゐが頭の方に手をやると、限界に達したためかいつの間にか耳が元に戻っていた。
「ちょっとあんた。わたしが妖怪だって解ってて助けたわけ?」
人間の理解出来ない行動に、てゐは訝しげに訊ねた。
「まあ倒れて耳が戻っているところを見て気付いたんだけどね。君みたいに綺麗な女性なら妖怪だって助けるさ」
「ばっかじゃないのあんた。妖怪の女なんか助けたってその後で食われるのがオチでしょうに」
気楽に言ってくる人間に、てゐは呆れて言い返した。
「でも君は私を食おうとする様子もないようだし、良いじゃないか」
「わたしがたまたま肉なんか食わないだけよ。殺したりはするけど」
「それに今ちょっと眼福だしね」
「へ?」
にやにやと笑いながら人間に言われて、てゐが状況を把握し直すと自分の傷跡がとてもよく見えたことを思い出した。もう一度体を見下ろすと、一糸まとわぬ姿であることに気付いた。
「ちょ! 早く言いなさいよ馬鹿!」
てゐはあわてて毛布にくるまり直す。それを見て人間の男は軽く笑った。
「わたしの服はどうしたのよ?」
「ぼろぼろになっていたし、手当の邪魔になったから脱がしたよ。布は取っておいたが。私の替えで良ければ、あげてもかまわないよ」
そんな話をしていると別の人間の気配がしたので、てゐは完全に人間へと化け直す。
「おい、オオアナムジ。晩飯が終わったから片付けを……」
髭だらけの、妖怪であるてゐから見てもむさ苦しい男は、続けようとして突然話を止める。
「兄上?」
てゐを助けた人間・オオアナムジが男に呼びかけると、
「お前、こちらの女性は?」
「はい、彼女は……」
そう聞いてきたので、てゐのことを伝えようとする。
そこにてゐが割り込んできて、
「わたくしが怪我をして苦しんでいるところを、この方に助けていただいたのですわ」
そう言ってオオアナムジにすがりつくと、彼を潤んだ目で見つめる。
それを見てむさ苦しい男は、凄まじい目つきでオオアナムジを睨み付けた後、
「此奴に何か良からぬ事をされませんでしたか?」
と聞いてきたので、てゐはさらに熱い視線をオオアナムジに送りながら、
「この方が居なければわたくしはきっと……。感謝の言葉もありませんわ」
と言って涙さえ流す。
その反応にむさ苦しい男は、苦虫を皿一杯噛み潰したような形相を浮かべて去って行こうとした。
「あ、兄上!」
オオアナムジが引き留めようとするが、男は怒りを込めて睨み付けるとそのまま立ち去った。てゐの耳には聞こえていたが、小声で「なんであいつばかり……」などとぶつぶつ言いながら。
「あっはは。やっぱり人間で遊ぶと楽しいわねえ」
てゐは先ほどのしおらしい態度などを一欠片も残さずに、大笑いしていた。その様子にオオアナムジは恨めしい顔をてゐの方に向けて、
「勘弁してくれ……。ただでさえ私は立場が悪いんだ」
と不満を口にした。
てゐはその言葉に意外そうな顔をする。
「人間って群れの中で、仲良しこよしやってるんじゃないの?」
てゐの想像では、群れの中で争いなどは起きないものだと思っていたのだが。
「そうだったら良いんだけどね。残念ながら私は立場が低くて、荷物持ち扱いなんだよ」
そう言ってオオアナムジは皮肉げに笑ってみせる。本来の立場としては他にもたくさん居る兄たちと同格のはずなのだが、母の身分のせいか彼の扱いは非常に悪い。
「ふぅん。人間にも仲間はずれとかあるのね」
「そういうことさ。流石にいきなり殺しに来たりはしないと思いたいんだけどね」
「それって本当に仲間なわけ? つかそんなにやばいんだったら、群れの連中のご機嫌取りでもしてなさいよ。妖怪助けなんて馬鹿な事してないでさぁ」
予想よりもずいぶんと殺伐としているらしい人間の群れに、てゐは呆れた。なんの得にもならないことをする、目の前の男にも。
「放っておいたら後で気になるからね」
「だから食われたらどうするって言ってるのよ、さっきも言ったけど」
「今回は食われなかったじゃないか。まあ食われたらその時に考えよう」
てゐは虐げられているくせに、あまりにも気楽なこの男に呆れ返った。あまりにも呆れたので、
「そのすっごい馬鹿さならきっと大物になるわよ、あんた。その前に早死にする方が先だろうけど」
そう馬鹿にしながらも、てゐは半ば本気で言ってやった。
「出来れば早死にしない方だと良いんだけどね」
オオアナムジは笑いながら言った。
早死にしない方が良いと言ったオオアナムジだったが、翌日早くも死んでいるところをてゐに発見された。焼けた大岩で潰すという、妖怪もびっくりな殺し方である。
言ったそばから死んでいるオオアナムジに呆れながらも、昨日助けられた恩があったので何とかしてやることにした。
貝殻の粉と汁を合わせた薬に妖気を混ぜて塗ってやると、てゐが驚くほど早く傷が癒えた。因みにこの製法は昔、貝の妖怪を脅して聞き出した。
「あんた人間のくせによく抜け殻にならなかったわねぇ。普通完全に死ぬと思うんだけど」
「一応私の先祖は神様らしいからね。そのおかげかな?」
てゐは胡散臭い話だと思ったが、ずいぶん治りが早かったことも鑑みるとあながち誤りでもないのかも知れない。
「あんたの兄弟って人間にしておくのが勿体ないわねぇ。地獄にでも行ったら歓迎されるわよ」
「はっはっは……。いや、私もここまでとは思わなかったんだけどね」
「良いからもうちょっと気をつけなよ」
とは言ってみたが今度は大木に挟まれているオオアナムジを発見して、いろいろと呆れ返った。今度は死んでいなかったが。
「いい加減あの群れから離れた方が良くない?」
乗りかかった船という奴で、てゐはオオアナムジを引っ張り出して忠告してやる。
彼の兄弟もなかなか凄まじい執念である、とてゐは思った。一体彼らを駆り立てるものはなんなのか。
「どうにも私が君に気に入られたように見えたのが、余程腹に据えかねたらしくてね。何せ彼らはここに嫁探しに来たのだから」
ついでにてゐに治療されているところを見た者が居て、なおさら怒りを駆り立てたらしい。
「ふぅん。発情期なのかしらねぇ?」
ずいぶんと派手な求愛行動だと、てゐは思う。妖怪であることも見抜けないくせにずいぶんと入れ込むものであると、てゐは他人事のように考えた。
逃げる先を相談されたので、てゐは深い森がある土地でもどうかと言ってやった。深い森があるならば隠れるには向いている。
それならば紀国が良いだろうというので、ついでに妖怪除けになる自分の服の布をくれてやった。
「それを身につけていれば大抵の妖怪は近寄らないわよ。何せろくでもない妖気が染みついてるからねぇ」
「すまない。この恩は必ず返すよ」
「ああ、偉くなったら百倍くらいにして返してちょうだい」
てゐは稲羽の地で、これまでになく穏やかに暮らしていた。鬼にやられた傷を治そうとずいぶんと妖力を使っていたのもあるし、何より仲間から見放される人間を見たせいで、積極的に人を襲う気がなくなっていたのもあった。
縄張りから食べ物を取ってきて食べているので、食べ物を奪いに人里に降りていくこともなかった。取ってきてそのまま食べることもあるが、ものによっては手を加えてから食べたりしていた。
よく誤解する人間が多いが大抵の妖怪は、人間などより余程文化的な生活を送っているのだ。
そんな平穏なある日のこと。何をするでもなく山を歩いていると、てゐは人間の声を聞きつけた。全くもって暇だったので特に目的も無しにそちらに行ってみると、人間の女の子供が一人座り込んで泣きわめいていた。
「あんた、こんな所でなにやってるの?」
この辺りは人間があまり来るところではなかった。てゐが来た時は居なかったが、このような山奥には妖怪が居ることが多いため、大人であっても刺激しないよう静かに訪れるものだった。泣きわめくなど論外である。
それに妖怪でなくても腹を空かせた獣からすれば、人間の子供などごちそう以外の何者でもない。
それらを鑑みれば自殺以外の理由でこんな所へ来て騒ぐことはないだろうが、まさか人の世も子供が自ら死を選ぶほど荒れてはいまい。故にてゐには人間の子供がこんな所にいて騒いでいる理由が思い当たらず、理由を聞いてみたのだ。
しかし人間の子供は泣きやまず、答えもしない。
「聞けってばさ」
言ってみるが答えない。
「食うわよ」
びくりと震えて泣きやむ子供。その子供は恐る恐るてゐの方を見る。
実際に食うことはないが、効果は抜群だったらしい。もっとも殺すことは往々にあったので、迫力は十分だったのかも知れないが。
「で。なんでこんな所にいたのさ?」
「おうちわからない……」
たどたどしい説明を聞くと、どうやらこの人間の子供は麓の村に住んでいるらしい。それが虫を追いかけているうちに、道に迷ってここまで来たという。割とよくある話ではあった。
しかしてゐからすると驚くべき事に聞こえた。自分の方向感覚が当てにならない場所に行く、という考えが凄まじく突飛に聞こえたのだ。方向もわからずに歩くとは知られざる人間の一面を見た、と本気で考えすらした。どうやら人間はからかうと面白い以外にも奇妙な習性があるようだと、てゐは思った。
麓にあるという村は、着いてみるとかなりの規模だった。そんなにたくさんの人間の村を見たわけではないが、少なくともこれまでてゐが見た中では一番大きい。
てゐはわざわざ人間の子供をその村まで連れて来ていた。
理由を挙げれば何となく暇だったことが一つ。
それとあの馬鹿な人間がやったことの、逆をやってみるのも一興かと思ったのだ。つまり妖怪の人間助けである。人間と違い本来こちらが殺す側であるので、てゐにとっては気楽なものである。
子供を連れて堂々と村を歩いていると、昼間から出歩く妖怪に村人がぎょっとして立ち止まる。その反応が面白くて、こういうやり口の楽しみ方もあるのかとてゐは思う。たくさんいる人間を見ても、特に憎しみは湧いてこなかった。
「こっちで良いわけ?」
「うん。こっちがおうちー」
てゐの問いかけに人間の子はにこにこ笑いながら答える。
崖を一気に飛び降りたり木の上を飛び回ったりした時におびえるかと思っていたのだが、逆にそれが楽しかったらしくいつの間にか妙に懐かれていた。
人間の子が言う方に向かっていくと、ひときわ大きな家、いや屋敷が見えた。そこには数人の男が出たり入ったりして、慌ただしい様子である。その中心には不安げな表情の女が立っていた。
人間の子がその女を見て歩き出すと、同じようにこちらを見た女が子供に向かって走り出した。
「ゆえ!」
「ははうえー」
女はゆえというらしい子供を決して離すまいとするかのように抱きしめる。余程心配していたのか、その目には大粒の涙が浮かんでいた。
「どこへ行っていたの? 心配したわよ」
「おうちがわからなくなって、お山からうさぎさんに連れて来てもらったの」
言われててゐの方を見ると、女は驚きの表情を浮かべた。
「どうして妖怪の方が……?」
それ言うのも無理はない。妖怪が人間を助けるなど前代未聞である。
「気まぐれよ気まぐれ。だから次はないかもね。気を付けるのね、せいぜい」
そう言って立ち去ろうとしたてゐに、ゆえが駆け寄ってくる。
「うさぎさんありがとー」
予想もしなかった礼の言葉に、てゐは思わず目を丸くする。
珍しく本心からゆえに笑いかけると、
「じゃあ、二度と会わないようにね」
と言っててゐは風のように跳び去った。
「兎神様~」
「ブホッ!」
食後にまったりと茶を啜っていたところ、いきなりかけられた言葉を聞いててゐは茶を吹き出した。
吹き出した茶を拭いていると、てゐが住む庵に人間の子供が入ってくる。因みにこの庵はてゐが住み着いた時に半日で造ったものだが、下手な人間の家よりも遙かに頑丈である。
「あんたね。何よその背中が痒くなる呼び方」
「母上がね、失礼だからそう呼ばなきゃダメだって」
呼び方に文句を付けるてゐに答えたのは、数年分成長したゆえであった。とは言ってもまだ十かそこらであり、まだまだ幼い。
てゐを兎神などと呼ぶのは決して故無きことではなく、実際辺りの人間にありがたがられていたのである。
ゆえを村まで連れて行った時の人間の反応があまりにも面白かったので似たようなことを繰り返していたら、天気の具合のことに相談に乗ってやる機会があった。それをきっかけに時折相談事を受けるようになり、その度に妖怪にとっては大したこともない知恵を教えてやっていたら、いつの間にか神扱いである。
「わたしの前ではてゐで良いわよ、全く」
「じゃあてゐと私の秘密~」
てゐの言葉に、ゆえはうれしそうに顔をほころばせる。
それを見ててゐも少し笑った。てゐは口には出さないが、誰かがいるというのはずいぶんと心地よいと最近思うようになっていた。
「それで今日は何か言われてきたの?」
ゆえはてゐの所に好んで訪れているが、この庵までの道は険しく気軽に来るところではない。基本的には用事を頼まれてくることが多いのである。
「そうそう。村の人が狩りに出かけた時に、うさぎの妖怪を見かけたんだって」
その言葉にてゐは顔色を変えた。
「それでどうしたの!」
「う、うん。なにもしないで逃げちゃったって」
てゐは真剣な顔で考え込むと、
「ちょっと出かけてくるわ。あんたはここにいな」
「どこ行くの?」
「昔の自分に会いに行く、ってところかね。格好付けて言うと」
そう言って庵を出た。
辺りに残る妖気を探る。それなりに隠れてはいるが、まだまだその隠蔽は未熟で跡をたどるのは難しくない。しかしその跡を感じ取っててゐは顔をしかめた。
「ったく。コイツ本当に昔のわたし並みの馬鹿だわ」
その妖気の流れは完全にてゐの縄張りの中に侵入している。その後向かった方は別の妖怪の縄張りの方向である。緩衝地帯もなにもない様子で動いている。
有り体に言ってこの跡を残した妖怪は、妖怪同士の縄張りの把握も出来ないほど未熟であると言うことだ。
てゐもまだ変化するようになって間もない頃に、他の妖怪の縄張りに気付かずに入って酷い目に遭ったことがあった。
「こっちの方にいる奴はっと。確かまだまっとうな奴ね」
妖気の向かう方へと疾風の速さでてゐは突き進む。
その先にいたのは恐ろしく筋骨隆々とした老人と、横たわるうさぎの耳を生やした少女。
「狒狒の爺さん。悪いけどその娘わたしにくれない?」
「お前さんは、隣の兎か。同族のようじゃが知り合いか?」
「いんや。今初めて見た」
「なら別に放っておいても良いじゃろう。それとも何か欲しがる理由でも有るのかの?」
狒狒の言葉にてゐは返答に困った。追いかけては来たものの、明確な理由があったわけでもないのだ。
「爺さん、そいつどんな様子だった?」
「いきなり儂を見て襲いかかって来たよ。何かする前に勝手に倒れたがの」
見るとその兎はそこかしこに傷を負い、やつれてもいた。その状態のまま向こう見ずに襲いかかったのだという。
「爺さんに仲間はいる?」
「何人か居るよ。一緒じゃったが帰らせた」
その予想通りの言葉にてゐは納得した。
「そいつはそれが妬ましかったのよ。自分は一人なのに、なんで爺さんには仲間がいるのかってね」
「ほぅ。体験談かの、そりゃあ?」
「恥ずかしながらね。若気の至り、っていうほど前の話じゃないけど」
「ならそのちんまいのを連れて行くが良い」
「いいの?」
あっさりと話が通ったのが、てゐには意外だった。縄張りの一部を手放す覚悟もしていたのだが。
「仲間が誰も居ないのは辛い。お前さんがその一人目になってやると良い」
狒狒も傍に誰も居ないつらさを知っていたのか、その言葉には実感がこもっていた。
「ありがと。恩に着るわ」
てゐは小さい妖怪兎を抱えると、自分の庵へと向かった。
てゐが庵に帰ると、ゆえは入り口でまっていた。
「おかえりー、てゐ。あ、その子」
「ただいま。ゆえ、今日はもう帰りな」
「ん、どうして?」
「あー。多分コイツ暴れるわ、経験上」
「てゐはだいじょうぶなの?」
心配そうに言うゆえに、
「こんな小娘にどうにかされるほど落ちぶれちゃい無いわよ。稲羽の兎神様なんでしょ?」
そう言っててゐは胸を張って見せた。
「うん! じゃあまた来るねー」
てゐは手を振ってゆえを見送った。
「さてと。コイツが起きるまでにご飯でも作っておこうかね」
弱っている様子なので、粥にでもしようとまず米を水につけておく。
その間、拾ってきた兎の様子を見る。無理をしている様子から、やはり変化したてだろうと当たりを付ける。
力を付けてきて調子に乗り、そして手痛いしっぺ返しを喰らう。てゐがずいぶんと昔に通った道であり、つい最近数倍になってまた喰らったものだ。
米が水を吸ってきたところで釜戸に火を入れる。こういう時妖術は便利なもので、人間がやる面倒な手続きを省いて一瞬で火が点く。
鍋を火にかけてしばらく見守る。鍋がコトコトといいだした頃に、バレバレの不意打ちを仕掛けてくる間抜けがいたので、腕をつかみ取って壁に向けて放り投げてやる。
てゐが力加減を適当にやったので、兎はかなり激しい音を立てて壁に叩き付けられた。庵自身も僅かに揺れたが、壁を含めて壊れた様子もない。てゐは自分が建てた庵ながら頑丈なものだと自画自賛した。
「いったぁ~」
「あんたごときがわたしに勝とうなんて何百年か早い」
「何よあんた偉そうに!」
「偉いのよ、敬いな。はいエサ」
てゐは粥の入った鍋を机の上に置くと、蓋を取ってやる。すると粥自身と散らした葉の香りが庵に広がった。
兎はごくりとのどを鳴らしながらも、
「誰が施しなんか……」
と固辞しようとするが、同時に腹の虫の方が不満の声を上げた。顔に朱を散らして恥ずかしそうにする。
「良いから食べなって。まさか毒の嗅ぎ分けが出来ないほどの間抜けでもないでしょ?」
てゐと鍋を交互に睨み付ける兎だったが、背に腹は代えられないのか粥にがっつき始める。
「ふぁふぉふぃ!」
「冷ましながら食べろって。あー化けたてじゃあ分からないか」
てゐは匙を取ってすくい、息を吹いて冷ましてやる。
そうすると食べ方を理解したのか、兎は同じようにして冷ましながら食べ始める。
それを見ていると何だか妙な、くすぐったい気分になってきたが、悪くないとてゐは思った。
「わたしはてゐ。あんたは?」
食べ終わったのを見計らって、てゐは兎に訊ねる。
「……うい」
一瞬口ごもったようだったが、妖怪兎・ういは観念したように名乗った。
その反応を見て昔の自分を鑑みると、ずいぶんとこの子はましそうだとてゐは思った。
自分を最初に痛い目に遭わせた妖怪は、既に消滅したか再生の時を待っているかのはずである。敵を罠に嵌めて叩き潰した自分に比べれば、なにも考えずに真っ正直に掛かってきたういなどかわいいものだ。
「うい、あんたは今日からここで暮らすの。嫌ならわたしをブッ倒して出るように」
「ハァ? 何よそれ、勝手に」
ういは反論してくるが怒っている様子ではなく、てゐの意図が掴めずに訝しがっているようだ。
「わたしが、仲間を欲しがってるからよ」
「仲間?」
ういは不思議そうに聞き返す。
「そ。まさか同族だって事が判らないとか言わないわよね。それともその目は節穴で、頭も虚なわけ?」
「そんな事見れば判るわよっ!」
なかなか元気が良い。いきなり倒れたというのは、疲労の方が原因だったのだろう。
「里の人間が兎を見たっていうから探してたの」
「……なによ。あんたには仲間いるんじゃない」
「最近はね。本当に最近」
不満げに言うういに答えた通り、こんなにも穏やかに暮らしているのはてゐが生きてきた中のほんの僅かな期間。
「ほんの少し前までは、群れてる奴を片っ端から殺してたもんよ。とっても楽しかったわ、すっきりしてね」
「……あんたが?」
ういは疑わしそうに聞き返す。目の前の妖怪からはそんな淀んだ気配を感じられず、むしろ妖怪に似つかわしくない晴れやかな気配ですらあった。
しかしういは、てゐの目を見てぎょっとした。赤い紅い、狂気に染まった、妖怪さえも震えさせる昏い瞳。
「親の前で子供を引き裂いてやるのも、外面に騙された間抜けを焼き殺してやるのも、偉そうにしてる妖怪を後ろからなます切りにしてやるのもね」
ほんの少し前までに実際やっていたことだ。今思いだしてもその記憶は喜悦に満ちている。そのころのてゐは楽しんで殺戮を為し、血にまみれては満足して眠りについていた。
馬鹿なことをしたと思うのはあくまでも今の自分であって、間違いなくてゐはかつて殺戮に酔っていたのだ。
「まあいくら妖怪でもそんな事をしていれば、鬼だって殺しに来るってモンよ。こんな風にね」
そう言っててゐが上着をはだけると、露わになったのは白い肌に穿たれた禍々しい三つの穴。ういは異様な光景に息を呑んだ。
通例妖怪の再生能力は、他のまっとうな生物事物を遙かにしのぐ。切られた腕をつなぎ直し、引きちぎられた首をも手ずから戻し、粉砕されたとて年を経れば戻るものもいる。
その妖怪が、たった三つの穴を塞げずにいるという。
確かに傷自体は塞がり血を流しているわけでもないが、むしろそれが穴の異常さを際だてていた。
「鬼に殺されるって言うのは、多分こういう事ね」
鬼に殺されるようではもう駄目だと言うことだろう、そうてゐは考えていた。
最初は自分を殺しに来た、ただのとんでもなく強い妖怪だとてゐは思っていたのだが、それはおそらく違う。
奇妙なことに鬼に傷つけられたこの穴は、いくら塞ごうとしても妖気が集まらない。自然物の精気を集めようとしても空回りする。鬼に殺された部分がまるで、なにもかもから見放されているかのようだった。
てゐは結論する。正直馬鹿の鬼にまで死んでしまえと言われるモノに、この世のどこにも居場所はないのだろうと。
「とまあ、悪いことをすると鬼が来るってお話。手遅れになる前にやめておけって事ね」
自分は手遅れだがまだういは若く、ねじ曲がってもいない。そうてゐは思う。
てゐが瞬きをすると、昏い瞳は嘘のようにただの赤みがかった瞳に変わる。もうこの話は終わりだと言うように。
「まだ本調子じゃないんだから今日はもう寝な。回復したらこき使うけど」
てゐは黙り込むういに毛布を投げてやる。
「あのさ……」
「ん?」
ういがてゐにためらいがちに声をかけた。
「あんたもまだ、その、手遅れじゃないよ、きっと。それだけ。おやすみっ!」
ういは赤い顔を隠すように、急いで毛布に潜り込んだ。てゐは予想もしない言葉にあっけにとられた。
ゆえに最初に会った時も、そんな気にさせられたことがあった。
こんな小娘たちの言葉に心が楽になるのは、本当に不思議だとてゐは思う。
「てゐー! てゐー!」
「あ、ゆえ」
息を切らせて入ってきたのはゆえである。もうそれなりの年頃だというのに、野山を駆け回るわであまり印象に変化がない。
「あんたねえ。いい加減女の端くれなんだからもう少し……」
「てゐまで母上みたいな事言わないでよ~」
「てゐったら最近わたしにもこんな調子なんだから。あんたの母上みたいに」
「うぐ」
てゐも自覚があったのか、ゆえに言われて言葉を詰まらせた。
ういはゆえと仲良く過ごしてきたせいか、見た目をちょうどゆえに合わせるように変化させている。
その数年の間に、いつの間にか鬼に開けられた穴が消えていた。永久に残るのではないか、あるいは鬼がまた来る証ではないか、と思っていたてゐにはだいぶ意外だった。てゐにも何となく理由が分かる気もしたが、明確な言葉にするには少々恥ずかしい。
「そんな事よりてゐ! お客さん、じゃなくてお客様! すごい……」
「稲羽の兎神殿は居られるか?」
興奮して言うゆえの後ろから男の声がした。何やらてゐには聞き覚えのある声である。
「あれ、あんた?」
「久しぶりだね。私としたことが名前を聞き忘れていたから、探すのに苦労すると思ったんだが。まさかこの地で知らない者が居ないとはね」
腰に下げた剣の鞘は装飾が施され仕立ての立派な服を着てはいたが、男は気多の岬で出会った変わり者の人間・オオアナムジに間違いなかった。
「約束通り、恩を返しに来た。オオクニヌシとして、出来る限りのことを尽くそう」
礼を正し、オオクニヌシとなった男が言った。
オオクニヌシとはずいぶん大層な名を得たものだとてゐは思う。
「ならば稲羽のてゐとして、わたしと、その一族が住む家を望みます」
てゐもまた礼を正し、オオクニヌシに求めた。
「家? それに一族と言ってもそこのお嬢さんだけじゃないのかい?」
彼の言う通り二人しかいないのではこの庵で十分であった。しかし、
「一族はこれから増やすの。わたしやういみたいなのを拾ってきてね。この島中から拾ってくる妖怪兎が、全て入りきるほどの家よ。これなら百倍返しってとこじゃない?」
そう前から決めていたことを伝えた。オオクニヌシが礼をしに来たのは渡りに船と言ったところだ。
「ちょうど良いから今からちょっと行ってくるわ。留守番よろしく!」
あっけにとられる一同を残して、稲羽のてゐは早速同族を探しに跳んでいってしまった。
「それでまあ帰ってきた時は、連れてきた子たちと一緒に呆れたもんよ。まさかここまででっかい家をくれるとは思わなくてさぁ」
ほんの数ヶ月で日本列島中を回ってきたてゐも、それに連れられてきた兎達も、傲然とそびえ立つ永遠亭に口を開けて見上げたものだった。今ではかなりイナバ達が増えたというのに、それでもまだ空き部屋の方が多い。
というより明らかに増えていた。築三千年前後ともなれば妖怪化も当然だろうが。
「あー。何か稲羽の素兎の話とはずれちゃったか」
てゐも話しているうちに今日が乗ったためか、ずいぶんと脱線してしまった気がする。
「かまわんよ。いや、むしろ歓迎だな。元々一般に語られていない話を聞きたかったんだしな」
慧音にはむしろ興味深い話であったようである。
「それにしてもこの大国主って言う人、ずいぶんと好色に語られているのだけど。その辺はどうだったのかしら?」
一般に流布している方の資料を読みながら、てゐの話を聞いていた永琳が口を挟んだ。確かに西方の多神教の主神並みの記述である。
「あーそれねえ。そこかしこで女作ってたみたいよ。稲羽に来るたびに奥さんに怒られたって愚痴言ってたけどさ、だったら浮気なんかやめておけって言うのに」
流石にのどが渇いてきたので、てゐはお茶で舌をしめらせる。
大国主の正妻は悋気が強い上に、親が親だけあって人間離れした暴れ様だった。というよりてゐが会った時は、その怒り狂った様子しかあまり見たことがないので、そのような印象しかない。初めて会った時は稲羽まで逃げた。
その上時々、過保護な親がわざわざ現界して一緒に暴れたりもしていた。親バカもほどほどにして欲しいとてゐは思ったものだ。
「ほぅ。稲羽にはちょくちょく来ていたのか」
「んー。まあたまにね。忙しかったみたいだし」
特に気にすることもなくてゐが慧音の言葉に頷くと、永琳と慧音が意味ありげに顔を見合わせた。
「何だかてゐ、通われ妻みたいね?」
「バォッ!!」
突然の永琳の言葉にてゐは茶を吹き出した。さらに呼吸もままならないほどむせている。
「む、脈有りか」
「これは重要な資料になるわね」
何やら二人とも目を輝かせててゐに迫る。
「それ本筋と関係ない! 残念! 関係者の話の方が先よ、先!」
「ちっ。まあ、後でみっちりと聞かせてもらうわよ」
「うむ。逃げられるとは思わないことだな」
問いつめる気満々の二人に、てゐはげっそりとした。
気を取り直して、慧音に渡された資料を読み始める。もう話を聞いた関係者のリストには、知っている者、知らない者、懐かしい者、あまり思い出したくない者と色々あった。
「うちの子たちにはもう聞いたんだ?」
「先日の肝試しの時に何人か来ていただろう。その時に聞いたよ」
「……ちょっと。なんで紫がいるのよ」
「鬼をけしかけたのは彼女らしいぞ」
「あ、の、す、き、ま、は~! なんでそんな大昔からわたしに迷惑かけてんのよ!」
「知らんよ。まあそうでなくともいずれ来たんじゃないか?」
「……まあね。でも鬼にまで直接聞くとは手が込んでるねえ。鬼ヶ島ってどこだっけ?」
「ああ。萃香ならよく博麗神社に出入りしているぞ。霊夢に紹介されてつい先日聞いた」
「ちょっと! なんで幻想郷に鬼が居るのよ! 居ないって約束でしょ!」
「春か夏辺りにかけて住み着いたらしいぞ。詳しい事情は知らないが」
「ちょっと旅に出るわ。百年ほど」
「まあ待て。彼女はもうお前を襲う気はないらしいぞ」
宴会場は既に死屍累々。残すところ数人のイナバと、酒に酔わない二人の蓬莱人のみである。
普段はいろいろと騒ぎを起こして回っているイナバ達は、酔いつぶれている妹たちが冷えないように布団を掛けて回っている。もう手が掛からなくなった者達に何かしてやるのが楽しくて、彼女たちの足取りも軽い。
輝夜と妹紅は酔いもしない酒を、静かに飲み続けていた。
「ねえ妹紅。今日はどういう吹き回しだったのかしら?」
沈黙を破って輝夜が口を開く。
「あんたの差し金でしょ。本物が彷徨くところで、人間と妖怪が肝試しだなんて。二重に訳わかんないわ。その上季節はずれだし」
妹紅は先日行われた、輝夜主催の肝試しのことを口にした。
肝試しと言ったところで結局いつもの通り、輝夜が送った刺客と妹紅が対峙するという構図のスパイス程度である。
ただ一つ。
その中の人間が、ただの人間であるはずの者が唯一の違い。
「まあ私も化け物を気取るには早かったって事ね。あんな人間が居るんじゃさ」
そこに含まれていた人間たちは、本当に妖怪よりも妖怪じみていた。言ってることからやってることまで、あまりにも人間像から外れていた。
あんな人間たちの前では死なないだけ人間なんて、ただの珍しい者その一だろうと妹紅は思う。
「今頃そんな事に気付くなんてね。そんなだから駄目なのよ、あなたは」
「それじゃああんたはいつから解ってたのよ?」
心底馬鹿にした口調で言ってきた輝夜に、妹紅は不満げに聞き返した。
「そんな事気にしたこともないわ。永琳が居て、イナバ達が居る。別に人間なんて居なくても幸せじゃない?」
「ぐ。それじゃあ私が二重に馬鹿みたいじゃない」
慧音が居るのに、そんな事にも気付かなかった自分が馬鹿みたいだと妹紅は思った。
「その通りよ、二重の馬鹿」
「姫~。持ってきたよー」
「妹紅もごゆっくり~」
「わたしらもう少し飲んでるね~」
そこにイナバ達が酒を持ってきた。
「ご苦労様」
「何よその酒?」
「名付けて蓬莱の酒、かしらね」
そう言って輝夜は小さな御猪口に酒を満たして妹紅に渡す。
「ずいぶんとちまちま飲む酒ね」
そう言いながら妹紅は軽く飲み干す。
「きっつ~! って、おお?」
酔わないはずの身がぐらりと酩酊を覚える。死ななくなってから久しく覚えのない感覚に妹紅は驚きを隠せない。
「まだ味とか付けられないけどね。ようやくそこまでこぎ着けたんですって」
妹紅の様子に微笑みながら輝夜は言う。
元々は蓬莱の薬を無効化する毒を研究していたのだが、永遠亭で暮らすうちにどうせなら蓬莱人でも酔える酒を造ることに方向転換したらしい。永琳を中心に、数百年をかけての研究は未だ続行中である。
「酒一つに大げさねえ」
と妹紅は言うが、
「酒造りなんて永久に研究中じゃないかしら?」
という輝夜の言葉になるほどと頷いた。
「それじゃあ蓬莱人でも酔える、ありがたい酒に乾杯させて貰おうかしらね」
今度は妹紅が輝夜に注いでやりながら言った。
「そうしましょうか」
輝夜も妹紅の御猪口に注ぎ直してやりながら言った。
「「乾杯」」
軽く互いの御猪口をあわせると、二人は酒を飲み干した。
今この時ほど、てゐを可愛いと思った日はありません。
あと、ゆえをください。
ういとセットなら尚良し。
>あまり東方じゃないんじゃないか
東方キャラをモチーフと絡めて掘り下げている以上、やはり東方だと思うのですよ。
幻想郷の中に秘められた伝説とお伽噺。
それらを慧音が纏めていると思いつつふり返るとまた一味もふた味も違ってきます。
ありがとうとざいました。
最高のてゐですよ。これは。