そこに至るまでの道のりはただ静かで、薄暗くて、時折鼻をふさぎたくなるような、つんとした匂いがする。地下へ地下へと、何が放り込まれているか想像もつかないほど深い場所へと繋がっていく。
今日も足音が一つ、二つ、壁際の燭台から発せられる光は、殆ど必ず二つの影を映し出す。なぜならば、『それ』に一人が襲われた時にはもう一人が助けを求めに上へと上がっていくため。一瞬のうちに二人とも殺された場合はどうなるのかと前に意見があがったけれども、そうすれば三人四人と増強しなければならなくなるし、それすらも全員が一瞬で殺されたらどうしようも無いのではという意見さえも出た。最終的に数を増やすメリットはないという結論に達し、人数は最低限の二人に抑えてある。安全面が考慮されない面で館を辞める者が続出するかと思われたが、その結論を使用人達に発表したところ、不思議なことに一人二人しか辞職を願い出るものは居なかった。どうやら紅魔の庇護はそれほど使用人達にとって価値があるらしかった。
かつんかつんと足音が反響し、まるで怨嗟の声のように音は地の底から反射する。この下に居る相手は、ひょっとして自分達全員を恨んでいるのではないか――? と以前に彼女は考えたことがある。何せ自分達は地上の清浄な空気を吸うことができるし、休暇を取れば行きたいところにも行ける。それに比べて地の底に居るあの方は、今しも四方から壁が迫ってくるのではないかというほど狭い部屋に押し込められ、自由の欠片すら無い過酷な立場に立たされているのだから。それもおそらくはとてもとても長い年月の間を。ええと確か、五百年程? もしくはそれ以上かそれ以下だろうか? もっと細かい数字だったような気がするが、よく覚えていない。
ああそれと、と彼女は付け加えた。それに、あの方は気が触れている。前に同僚からそう聞いたことがあった。そしてその同僚は五ヶ月前にあの方にバラバラにされた。理由はどんなものだったろうか? 虫の居所が悪かったとか、つけているリボンの色が気に入らなかったとか、そんなどうでもいいものだった気がする。まあ、頭がおかしい存在を常識の枠に当てはめようというのが間違いなのだ。くれぐれも、自分は手足をもぎ千切られたあげくに壊れた玩具のように放り投げられないように注意しなければならない。そういえば、あの死体は誰が処理したんだろう? あの方に殺されない相手なんて、本棟の隣にある大図書館の主か、この館の主人ぐらいしか考え付かない。まあ館の主人が後片付けなんてするわけがないけど、しかしあの図書館長が片付けを行ってくれるものだろうか? 彼女の持っている情報が確かならば、あの大図書館の主は一年中埃まみれの本まみれになっていて外に出ることなんてとんと無い筈だ。
まあそれについてはどうでもいいか。しかしまた…あの方はどうしてこんな、底の底にある暗い部屋の中に閉じ込められているのだろうか? 何かそれほどの罪を犯したのだろうか? もともと気が触れていたから? だけど、長い年月の間閉じ込められたのが原因となって狂ったということも――
頬に柔らかい感触。それで思考の沼から引き戻された彼女が辺りを見回した。目の前には取っ手を取り付けた壁としか思えないほどの大きく重厚な扉、後ろには長々と続く石造りの階段。どうやらもう目的地まで到着していたらしい。
「ほら、着いたよメム。しっかりして」ふと気がつけば、付き添いの同僚がぺちぺちと頬を叩いていた。すぐに思考の世界に飛び込んでしまうのはメムの悪い癖で、いつも彼女はそのことで班長から注意を受けていた。確かにこういう癖は直さなければならない。こんな調子が続いて主人の服に紅茶でもこぼしてしまった日には、彼女は首になるか腕や足の一本ぐらいあっと言う間に持って行かれるだろう。メムの中では紅魔館はそういう場所なのだ。
「あ、うん。ごめん」そうメムは言ったが、同僚はそんな言葉など聞く気がまるで無いように、さっさと扉の方を向いてしまった。メムは食事が入った盆を持っているから、この場合は手ぶらな同僚が扉の解呪を行う。ただし中のものが出て来れないように相当に強力な呪法なため、詠唱に慣れていても結構時間がかかる。同僚があれこれと解呪を行っている間に、メムはまたぼんやりと思考の世界に没頭しはじめた。彼女の思考力はどこか別の世界へと一時的に旅立ち、盆を落とさないのが不思議なくらいだった。
それで、さっきはどこまで考えたか…そうだ、どうしてあの方が閉じ込められているかということだ。やはり過去に何か罪を犯したのか? それとも何か災禍をもたらすような事をしそうな為、未然に防ぐために幽閉している? 果たしてどうなのだろう。一体どれほどの時間あの方は閉じ込められているのだろうか? 少なくともメムがメイドになってからは、ずっと牢獄もどきの部屋に入っている。二ヶ月前にここに勤めはじめたから、最低それぐらい。でも皆のあの方に対する慣れたような反応からすれば、それ以上なことは分かりきっている。全く、知らないことが多すぎる。皆色恋沙汰やゴシップには敏感だというのに、あの方の話題となると貝のように口を閉ざすんだから。
同僚の方を見てみると、今は第四段階か第五段階のところまで解呪を完了したようだった。あと段階的には二つ三つ、存外に長い。これくらい強力にしても未だに突き抜けてしまい暴れることがあるそうだから、あの方はとんでもないほどの強力と魔力を兼ね備えているのだろう。近々呪法を更に強力にすることも考えているらしい。いやはや全く大変なことだ。
ふとメムは食事が載せられた盆に目をやった。鉄製の蓋がしてあって中に何が入っているかは分からないが、厨房で直々に渡されたからには作りたてに違いない。そもそもあの方に作り置きの料理を食わせようという者が居れば、その人の顔を見てみたいものだ。肝心な問題は、一体何から作ったかということだ。
はて、やはり人間? それとも牛、鳥、豚? 馬? もしくはそのどれでもない(例えば私達とか)種類のもの?
分からなかった。あの方に関することは何一つ分からなかった。この館の主人であるレミリア・スカーレットのことならば、好きな色から最近気に入っている料理の種類まで手に取るように分かる。これはメイド達の間でまことしやかに囁かれている噂や情報であるから分かるけれど、この地下に幽閉されている方、フランドール・スカーレットのことはさっぱり分からない。この館の主人であるレミリアの妹だということしかメムには分かっていなく、他に知っているのはどんな部屋に居てそこに入るための手順やら必要最低限の事のみ。どうして皆フランドールのことになると口をつぐむのか? 口にした瞬間に幽閉されている筈のフランドールが即座に地上に出現し、矢の如く素早い勢いで襲い掛かり、うっかり口にした愚か者の喉を引き裂いてしまうのだろうか?
メムがフランドールの食事の係になるのは、これが最初のことだった。他の誰からもフランドールのことは聞いていないから、あの方の容姿、
言葉遣い、その他諸々―――例えばどれくらい頭がおかしいのか―――についても今日、これからすぐ先の時間に秘密のベールが取り除かれる。一切合財が白日の下へと晒され、今まで足りなかった全ての知識が補完されるのだ。
フランドールに会うということは恐ろしくもあり、また楽しみでもあった。未だ目にしたことが無いフランドールという生き物がどんな姿かたちをしているのか想像すればするほど、頭の中で様々な形がくみ上げられ、ああでもないこうでもないと突き崩されていく。想像よりもよほど綺麗な方なのか、それとも醜悪なのか、一目見た瞬間に柔和な笑顔を浮かべるのか、目をぎらぎらと輝かせて襲い掛かってくるのか、それはまた、未だ聞いたことも見たことも無い新しい大陸に旅立つという時の気持ちにも似ていた。
やがて、ぶん、と鈍い音が鳴り、同僚が扉から離れた。解呪の作業が終了したのだ。メムが見ていると扉の表面を握りこぶし一つ分程の光球が移動し始め、やがて表面に幾何学模様の光の跡を残し、ふっと消える。光の跡は宝石のように輝いていて、その様子をぼうっとして見ていたメムの頭を同僚がぺちんとはたいた。
「ほら、もう開いたっての。あんた、絶対子供の頃ぼんやりって言われてたでしょ」メムが口を開く間も無く同僚はドアをごんごん、と強くノックした。「失礼します、お食事を届けに参りました」
部屋の中からはーい、と無邪気な声が聞こえてきて、メムは身体を震わせた。――これが、初めて聞いた『フランドール』の声だ。思ったより子供っぽい声だな、と思った。
先に部屋の中に入りかけている同僚の後を追うようにしてメムは歩き、ゆっくりと部屋の中に入り込む。少し開いた入り口の扉からは、薄く光が差してきていた。
地下部屋の中は、思っていたほど酷い様子ではなかった。天井にはうっすらと光の灯ったランプが吊るしてあり、部屋のあちこちには最低限の調度品、テーブル、椅子、ベッドなどが配置してある。少なくとも、部屋の隅にネズミの巣が出来ているような不潔なものは見受けられない。
その部屋の中心では、部屋に二脚あるうちの一つに少女が腰掛けていた。身体をこちらの方に向けて退屈そうに足をぶらぶらさせているその様子からは、メムには無邪気さと幼さしか感じ取れなかった。これがあの、『フランドール』なのだろうか?
「おなか空いたー。もうさっきからおなかがぐるぐる鳴ってて仕方が無かったわ。おいしい料理じゃなかったら承知しないからねー」ぶーぶーと顔を膨らませている椅子に座っている少女に、メムは思わずくすくすと笑いそうになった。もしこの少女がフランドールだとしても、今見ている彼女から見て、到底気が触れているなんて思えなかったからだ。狂気というものから遥かに縁遠い少女を、非常に込み入った理由でこんな地の底に幽閉している、とも思えてしまう。
「ご安心下さい、コックが腕によりをかけて調理したものですから、きっと満足されますよ」近くにあったテーブルに盆を置きながら、メムが答える。目の前の少女の無邪気さに、ついさっきまでの緊張感は鳴りを潜めていた。同僚の方はと言えば、開け放たれた扉の近くに立ったまま、動こうとしない。その目はじっとこっちを注視している。――まるで、いつでも逃げられるように身構えているみたいに。
「本当? じゃあ、もう食べても良いよね? もうおなかが空きすぎておなかと背中がくっついちゃいそうなの」笑顔でメムは答えようとして少女の方へと振り向いて、口から出掛かった言葉が消えた。
少女の容姿はとても幼いもので、金色の髪、七色の翼を除けば、成る程レミリア・スカーレットの姉妹と聞いて納得が出来る。おそろいの帽子も、端麗な顔つきも、雰囲気からにじみ出てくるような優雅さも、微かに感じ取れる威厳も、口の端から覗く八重歯も、確かに瓜二つだ。
ただ、目の前の少女は姉と一つ違っている点があった。
…匂いだった。別に泥臭いとかそういう不潔なものではなく、少女からはきつい血の匂いが、幾千もの死体が転がっている戦場の匂いが、吹き出した鮮血を体中に塗りたくってそのままにしておいたような、そんな匂いがするのだ。姉のレミリアとは比較にもならないような、異常なまでに強い血の匂い。
そこでメムは気付いた。別にこの少女だけから匂いが漂っている訳ではない。この部屋全体からも漂ってきているのだ。ほんの少し変色している床、微かな何かがこびりついているように見えるテーブル、椅子、つんと強い匂いを放つベッド、部屋の隅の暗がりに何かが潜んでいることを連想させるような、薄ぼんやりとした天井の灯り。
ふと、自分が存在しているこの部屋が、まったく次元の違う異世界に転移してしまったような感覚をメムは覚えた。急激に空気が重くなったというか、空気中の密度がいきなり高くなったような。何か危険なものが自分を襲おうとしているように思えて、身体の奥底から強い焦燥感すらも感じた。この部屋に居てはいけない、と、本能が必死に告げていた。
けれども。
気付いたときには、全てが崩れ始めていた。
まず最初に気がついたことは、どうもこの部屋は暑くて仕方が無いということだった。肌が焦げるほど空気は熱く、乾燥しきっていて、まるで焚き火のすぐ傍にいるような。
どうしてかと辺りを見回すと、少女の腕から炎が生えているようだった。いや、生えているのは間違いだ。少女は炎を持っていた。剣のように細長く鋭い炎は、メムのすぐ脇を通っていた。炎の先に目をやれば、同僚の身体に問題の炎は突き刺さっていた。きっと一瞬の出来事だったのだろう、同僚はわけも分からず目をぱちくりさせている。ああ、痛そうだな、とメムはぼんやりそんな事を思った。目の前の情景が、ガラス一枚を隔てた向こう側で行われているみたいに思えていた。
そのうち、同僚が叫び始めた。わあとかぎゃあとか悲鳴をあげるように叫び、支離滅裂な言葉も滅茶苦茶に並べる。あまりに早口で何を言っているのか、メムには聞き取れなかった。やがて炎は本来の目的を思い出したように同僚の身体を包み始め、声帯が焼けたのか叫び声も一瞬で消えた。それとほぼ同時に炎の剣も姿を消し、少女を見れば、その手には炎のかわりにどこから取り出したのか、杖に見えるものが握られていた。どうして杖だと断定できないのかと言われれば、その杖の形状があまりに奇妙に曲がりくねっていて、杖にしては異様なまでに禍々しく見えたからだ。それは杖というよりも、邪神か魔王の爪のように見えた。
少女は嗤っていた。お気に入りのお人形で家族ごっこをしている女の子のように、可愛らしかった。
嗤いながら少女はゆっくりと、客人にでも歩み寄るような優雅な足取りで入り口の扉へと近づき、大きな音を立てて扉を閉める。その間倒れている焼け焦げた同僚には目もくれなかった。メムが見ていると少女は椅子をメムのすぐ隣に持ってきて、座らせるように椅子をぽんぽんと叩く。
少女に従い、すとんと腰を落とすようにメムは椅子に座り込んだ。丁度目線が、少女と同じになった。
「ね、あなた、大丈夫?」少女がメムの眼前で手を振り、メムはこくりと頷いた。多分死んだ母親が目の前に出てきて同じように眼前で手を振ったとしても、今のメムは頷いただろう。それくらいメムの現実感覚は消失していた。何か催眠術に掛かったような、目の前がふわふわする感覚でもあった。
心がすっぽり抜け落ちてしまったような状態のまま、メムはゆっくりと部屋中を見回す。するとさっきまでは居るはずがなかった、沢山の妖怪や人がメムには見えた。彼ら彼女らは、それぞれ様々な状態だった。手足が千切れていたり、首が無かったり、焼け焦げてしまい皮が剥がれてしまっていたり、中には顔面がぐちゃぐちゃになっている人もいた。団子みたいに丸められている人もいる。なんとなくその彼ら彼女らの様がおかしくなって、メムは笑った。
と、異形の人々の中に、メムはさっき焼け死んだばかりの同僚の姿を見つけた。メムが手を振ると、同僚も手を振り返して来た。ただ、段々振っている方の手が炭になってぼろぼろと下に零れていた。だけど同僚は手を振ることをやめなかった。それが仕事なのか、はたまた強迫観念に苛まれているからなのか。メムが手を下ろしても彼女はずっと振り続けていた。メムは同僚から目を離し、そして少女を見た。
少しの間、メムと少女は見つめ合っていた。互いの中にあるものを推し量るみたいに、内面に潜んでいるものを見つけ出そうとするみたいに。
「そういえば、一つお聞きしたいのですが」メムは唐突に口を開き、少女はそれに反応した。「なんであんなことをしたので?」メムは煙を出している同僚の方を指差した。
「ああ、うんと、なんかそうしたほうが良い気がしたの。あと、おなか減ってたから食べれるかなと思って」少女は可愛らしく首を傾げながら返答し、メムは成る程と頷いた。
「それより貴方、名前は何ていうの?」メムは一瞬、自分の名前が何だったか分からなかった。メムかもしれないし、レムかもしれないし、ひょっとしたらもっと他の名前かもしれない。だが結局、メムですと彼女は答えた。
「じゃあメム、聞きたいけど、貴方本当に大丈夫? なんとなく目がおかしくなっている気がするけど」少女はメムの目をじっと覗き込み、少女はメムの目の中に虚ろさと空白を感じ取った。メムのほうは、少女の中にぎらぎら光り輝く何かと、無限の如く燃え盛っている炎のようなものを認めた。ある意味それは具現化した破滅と言っても良かった。少女の中には破滅と滅亡を形にしたものが棲んでいるのだ。それは普段は隠れ潜み、時に少女の意思で形を作り、時に自らの意思で目にするものを滅ぼし――いわゆる暴走と形容される――殺害と虐殺を執り行い、つまり彼女の中には破滅の神が棲んでいることと同義で―――
「メム!」少女――フランドールの声にメムは我に返った。どうやらまた思考の世界に入り込んでいたらしい。なんとかの神様がうんたらかんたら、さてどこまで妄想は続くのか。いやはや、恐ろしいものだと思います。全くだよ、メム。それじゃあ今日の授業はこれで終わり、きちんと明日までに復習してくること。
「はい、先生」そう言ってメムはくすくすと笑った。よく分からないが、兎に角おかしくてたまらなかった。その様子を見てフランドールは、呆れたような顔をした。
暫くするとフランドールはメムに興味を無くしたのか、テーブルの上の盆に近づき、蓋を開けて料理を食べ始めた。果たして悪魔の妹がどんな料理を食べているのか知りたくてメムが目をやると、フランドールは何かケーキに似ているようなものを食べていた。よく見ると無理矢理ケーキの形にした人間の脳みそだったが、驚くよりもむしろメムは納得していた。ああなるほど、館の地下に秘匿された破滅の持ち主は人間の脳みそを好んで食べるのか。
メムはフランドールが咀嚼する様を、メムにしか見えない人々が思い思いの行動を取る様を眺めていた。今ならば部屋から飛び出して地上に助けを求めることが可能だったかもしれないが、メムは何かをするという気にはならなかった。ただじっと傍観していただけだった。
やがてフランドールは食べ終わり、食べ足りなかったのだろうか、燃えカスとなったメムの同僚の所まで行くと、焼けた腕を手に取り、かぶりついた。姉のレミリアが見ればはしたないと叱り付けるかもしれないが、生憎ここにはフランドールとメムの二人きりしか居ない。フランドールは焼けた腕が気に入らなかったのか、べっと床に口の中の残骸を吐き出した。きっとフランドールが寝ている時にでも清掃係がやってきて掃除していくのだろう。
ふとメムは疑問に思った。どうして自分はこの部屋に居るのだろうか? 何かの用事で入ってきたには違いないが、何故来たのかがさっぱり検討がつかない。フランドールに聞いてみようかと思ったが、そんな真似をすれば馬鹿と思われてしまうだろう。彼女は館の主人の妹なのだから、きっとメイド一人を解雇するなんていとも容易くできるに違いない。
自分の中で何かが矛盾していて、どこかが大きく食い違っているのが分かった。しかしこれも彼女がここに来た理由と同じく検討もつかない。いっそのこと、メイド長に休暇を取らせてくれるように申請でもしてみようか。田舎に帰って自分を見つめなおせばこの問題も解決するかもしれない。そうだ、お母さんは元気にしてるだろうか? 確かメムが紅魔館にやってくる前に彼女は墓に入っていたけれど、多分メムが帰ってくると知ったら大急ぎで土の中から飛び出して出迎える準備をするに違いない。それじゃあ帰る前にはきちんと連絡しないといけないし、疫病で死んだ友達皆にも手紙でも送らないと。
そんな事を考えていたものだから、いつのまにやら目の前にいたフランドールに声を掛けられた時、メムは本気で驚いた。その拍子に彼女は後ろに仰け反り、椅子が大きく音を立てて倒れた。メムは床に強かに頭を打ちつけて、目の前で極小の星が踊った。頭の中がぐるぐると回転して、例えるなら小規模な渦の中に巻き込まれた感じだった。
起き上がり目の前がなんとか形を持って見えるようになったとき、部屋の中は赤くなっていた。目をごしごしと擦ってみても色は変わらず、部屋は白でも灰色でも黄色でもなく、真紅のように赤かった。手を見ると、自分すらも赤くなっている。目がおかしくなったのか、それとも元々この部屋は赤く、頭を打ったことで自分の目が正常な感覚を取り戻したのか?
真紅の部屋で元の色彩のままで居るのは、フランドールただ一人だけだった。虹色の翼は意思表示をするかのようにばさばさと動き、メムの目にはフランドールを通して赤黒い何かが見える。それは彼女が今まで見てきたどんな生物にも似ていなかった。きっとこれから世界中を旅して回るとしても、あんな生き物を見ることは無いに違いないとメムは確信した。
どうやら少女は何かを話しているらしいが、耳が馬鹿になっているのかどうにも聞き取れない。メムがフランドールを見ていると、少女の後ろに居た人々が怯えた顔で後ずさっていた。メムは自分の置かれている状況が段々と分からなくなってきた。視界は赤と黒でとぎれとぎれになり、記憶は所々がぶつ切りとなっていた。今この瞬間、自分がこの赤い牢獄に存在しているのかどうかさえ分からない。ひょっとして自分はもう死んでしまっていて、何かの弾みでこの部屋の住人になってしまったのかもしれないのだ。そうだ、誰がそうではないことを証明してくれるだろう?
ぢぢ、と自分の脇で変な音が聞こえた。すぐ後に考えることすら出来ないほどの痛みがやってきて、メムは悲鳴をあげた。右腕を見ると、付け根のところから切れている。切れた腕の端の部分が、溶接でもされたように炭化している。何本か腕と肩を繋ぐ糸みたいなものもはみ出ていた。身体から生えている糸を見ると、メムは途方も無い痛みと共に眩暈を覚えた。色んな不快な感覚がどっと押し寄せてきて、メムは気分が悪くなった。
フランドールの方になんとか目を向けると、彼女の手からまた炎の剣が生えていた。どうやらその剣がメムの右腕を切断したらしかった。ああなんてこと、酷すぎる。これじゃあ家に帰ってもお母さんに叱られてしまう。きっとたくさん怒った後に追い出されてしまう。腕が無い子供なんて家には絶対入れないよとか言われて、そしたら自分はどうすれば良いのだろう?
メムはぐすぐすと泣き出した。その様子を見て少女は嗤った。嗤いながらメムの右腕を拾い上げて、小指のところを噛み千切った。その瞬間、元々メムの右腕の小指があったところに、凄まじい痛みが走った気がした。どこかの本で読んだことがある、きっとこれは幻痛だ。だからと言ってどうなるものでもないのだけれど。
フランドールがしゃがみこんで、メムと同じ目線に合わせる。少女の後ろでは、必死の形相で異形の人々が逃げ惑っていた。自分のところにもこの幾千の人々を焼き尽くし、切り刻む炎の剣が襲い掛かってくると恐れているみたいだった。その炎の剣は、メムの目から見て真っ黒だった。何かの悪魔のように真っ黒だ。
「とっても美味しかったよ、メム。ありがとう」メムは最初何を言われているのか分からなかったが、さっきフランドールが言っていたことと考え合わせて、ようやく気がついた。おそらく耳が馬鹿になっていた時、フランドールは自分を食べさせて欲しいとかそういうことを言っていたのだ。何て職場だろう、右腕を食べられたのだから、少しぐらい給金を上げて欲しいものだ。
どういたしまして、と返そうと思い口をあけた。中から言葉が出てくる代わりに血が吹き出た。メムは残った左手で口元を押さえたが、大半がフランドールの服にかかってしまった。少女はついさっき自分が燃やしたメイドと同じくらい、その血を気にしていないようだった。
フランドールが顔にかかった血を手のひらですくい、ぺろりと一舐めした。フランドールのその行動を見て、改めてメムは思い知った。…彼女は吸血鬼なのだ。夜の世界において絶対な力を持つ眷族。闇夜に飛び、日の光を忌避し、男の首を撥ね、女の血を吸い、子供の頭をデザート代わりにむしゃむしゃと食らう。非道さと残虐さを兼ね備えた種族なのだ。その非道と残虐の化身は、今目の前で自分の血を啜っている。これほど恐ろしい状況というものがあるだろうか。
やがてフランドールはまた嗤いだした。今度はさっきと違って凶人のような嗤い方だった。気が触れている人特有の、言葉にも文章にも形容できそうもない嗤い声を聞いて、メムは心の奥底が凍りつくのを感じ取った。
今目の前に居る存在は自分達とは懸け離れている。少女を理解することなんて誰にも出来ないのだ。当たり前だ、人が蟻の思考を理解できないのと同じく、フランドールを理解することなど出来やしないのだ。フランドールは姉のレミリアからもあまりに離れすぎている。溝や距離の問題ではない、次元の問題だ。自分達と彼女の間には無限の距離が離れていて、千億もの月日を重ねてさえも到達することは不可能だ。そもそも、少女はどうしてこんな部屋の中に閉じ込められたままで居られるのだ? 少女がその気になれば、自分の中に隠れ住んでいる存在の力を行使して、いつでもこんな館を、幻想郷を、自分達が住んでいる大地すらも潰せるのに。
どうして他の人がフランドールの噂をしないのか、この時ようやく理解できた気がした。
メムの口から、ようやく言葉を搾り出すことが出来た。「どうして」と、ただ、言うことができたのはその言葉だけだったのだけれども。
答える代わりにフランドールは嗤った。嗤いながら炎の剣を振り上げた。きっとその動作に対して理由は無いのだろう。なにせ、目の前の相手は気が触れている。
少女の手にその炎の剣は、あまりにも大きすぎるというのに、あまりにもしっくりときていた。炎の剣は少女を持ち主として選び、少女は炎剣を得物として選んだ。まさに幼い死神だった。
そしてフランドールは答えた。質問の意図など掴める筈が無いと言うのに、少女はきっぱりと言いのけていた。
「その方が楽しいから」
赤く赤い少女は、黒くおぞましいものを内に秘めた少女は、手にした炎の剣を振り下ろした。億の生命を終結させ、兆の存在に害を為すその剣を。
メムの視界が赤く黒く真紅に漆黒に染まる。全ての思考は吹き飛び、塵となり、灰と化して消えた。身体も、存在意義も、魂も、メムの全てがその刹那、崩れ落ちた。
最後に彼女が見たものは、
禍々しい形状の劫火の剣を手にしたまま、真紅の牢獄の中で嗤い続ける少女の姿だった。