「はい、それじゃあ次のグループは中へ入って下さい」
瓦斯室へと続く長い行列の中で私は、自分の番はあとどれくらいかな、とそんなことをただ漠然と思っていた。
――職工屠殺法。
技術革新のめまぐるしい河童社会において、不要となった工場労働者は、ああやって瓦斯室で有毒瓦斯を嗅がされて、殺処分される。その死肉は食用として安く売られ、他の河童たちの胃の中へと納まるのだ。
職を失えば、取る道は餓死か自殺。ならばその手間を省き、ついでに肉も有効利用する。失業者による窃盗などの犯罪も抑止出来て、一石二鳥。
なんとも河童らしい、合理性しかない考え方だ。
幻想郷が出来てからは、科学技術の発展を抑えるため、八雲紫によって発明自体に規制が掛り、職工屠殺自体が行われなくなって久しいが、規制があっても完全に発明が無くなるわけではなかった。
以前に比べ格段に外敵の少なくなった幻想郷では、河童も個体数を増やしていたが、仕事は手作業が多く、したがって失業者が多く出ることもなかった。
規制が掛かった時、他の河童たちは口々に不満不平を漏らしていたが、私は、もう共食いすることもないと内心喜んだものだった。
列が前に進むたびに、死が近づいてくる。だのに、不思議と恐怖心が少ないのは、あまり苦しくはないと聞いているせいか、それともいつかは訪れるであろう運命だったからか。
こうして列に並んでいると、親が瓦斯室へと消えた日を思い出す。まだ少し幼い自分に、ちょっと遠くへ行くだけ、と残酷で優しい嘘を吐いて、両親は食卓へ並ぶことになった。
当然悲しんだ。
けれども、河童の社会ではそれが当たり前だ。次の日にはもう、父の知人の職人のところで技師見習いとしての生活を送っていた。
いつの日か、画期的な発明をして、あの世の両親に報いてやるのだと息巻いていたときもあったなぁ。
そうするとまた、解雇された職工たちが食肉になると気付いたのは一人前になった後だったか。
係員の声に従い、また列が進む。
もう少し、この平穏な世界を満喫したかったな。
河童でない友人たちは、私が食べられてしまうことを告げると、大層悲しんでくれた。
それがまた、私の短い後ろ髪を引く。それでも私は河童だから、これはもうしかたがない。多くの先人たちが――両親が通った道だ。
また列が進んだ。
もう、私の番だ。
「ちょっと待っていただきたい」
ふと、聞きなれた声が舞い降りた。
文さんだ。別れでも惜しみに来てくれたのだろうか。だとしたら嬉しい限りだ。
そう思ったが、ところが文さんは私ではなく係員と話し始めた。
見送りに来た訳ではないようだった。
「ここに居るのはすべて食用にするんですよね」
「いかにも」
「でしたら、殺す前に一匹譲ってはもらえませんか」
むう、と係員は呻った。困惑と疑問の入り混じった顔で、眉を寄せて文さんを見ている。
「何故ですか」
文さんは、少しいやらしい顔で、係員に耳打ちした。
「食品は鮮度が命です。殺して劣化する前に、生のやつを頂きたいんですよ」
「なるほど、しかしこれは前例がありません。どうしたものでしょう」
そういって渋ると、文さんは係員に何かを渡した。
「あなたはこれを受けとって、ちょっとよそ見をしていてくれればいいんですよ。あとは私が適当に一匹持っていきますから、それは飲み代にでもしてください」
その何かを受け取った係員は、ふむ、と納得したようだ。
懐に仕舞われたのは封筒――現金か。
「あなたも物好きな天狗ですねぇ」
「未知を追及するのは記者として当然のことです」
文さんはと胸を張って答えた。
そして文さんは私の手を取ると、それじゃあなたにしましょう、と言って飛び上がった。
――頭が、理解が追いつかない。
上空から列を見やると、これから瓦斯室に入っていくであろう大勢の河童たちの、生気の薄い目がこちらを見ていた。その眼差しに込められた感情は、安楽死を約束された優越感か、それとも苦痛の内に死ぬであろう私への同情か。
私は、文さんを好きだった。友人としてではなく、憧れの人でもなく、純粋に恋愛の相手として。
でも文さんはそう思っていなかった。
親しい人が自分をただの肉としてしか見ていない。その事実に、背筋がうすら寒くなった。
彼女の家に着いた。
「何か飲みますか」
未だ混乱の収まらない私は、適当に、と声を絞り出した。
椅子に座って、出されたお茶をちびちびと飲む間、文さんは風呂に湯を張っていた。
少し落ち着いてくると、今更ながら、逃げるチャンスでは、と思い当たる。
幸い、今は見られていない。
音を立てないよう慎重に椅子から立ち上がり、玄関のドアに手を掛けたところで、どう足掻いても逃げられそうに無いということに思い当たった。
幻想郷最速の彼女をどうやって振り切るのか。今は光学迷彩すら持ち合わせていない。
最初から、私が打てる手など無かったのだ。そのことに気づいた私は、椅子に戻ると、ははは、と乾いた笑いを漏らした。まるで、いかれた機械のように。
空になった湯呑みが冷めた頃、洗面所から出てきた文さんは、まるで獲物を見るかのような目つきで、先に体を洗ってきなさい、と言って別の部屋に行ってしまった。
どうしようもないので、言われるがまま、お風呂を借りた。
温かい湯船につかっていると、お湯の熱が肌から体の芯まで伝わって、私がまだ生きていると言う実感が沸いて来る。
そして同時に、これから私を食べようとしている文さんが恐ろしくなった。
どうやって食べるんだろう。刃物でばらばらにされて焼かれるのか煮られるのか、それとも、そのまま丸かじりか。
恐らくとても痛いんだろう。そう思うと、湯船は十分温かいのに体の震えが止まらない。
あと少しで、私の人生は幕を下ろす。最後の晩餐で食べられるのは――皿の上に乗るのは、私。
せめてもの悪足掻きに、逆上せるまで風呂に浸かった。この命があと僅かでも長く生きられるように。
四十分ほどもかけて、ようやく震えを隠して風呂から上がると、洗面所にはバスタオルと文さんの――私には少し大きいワイシャツが一枚。私の服は見当たらない。
「上がりましたか? にとりの服は今洗って乾かしてますので、少しの間それで我慢してください」
もうじき食べられるのに今さら服にとやかく言うつもりもない。
体を拭いて、ドライヤーは使わずに大雑把に髪を乾かすと、下着もなしにシャツを羽織って洗面所を出る。
「どこか適当に座って待っていてください」
入れ替わりに彼女も風呂に入った。
文さんが上がるまでの、二十分程度だろうか、文さんのベッドの中でずっと震えながら、あと十分、あと五分、と残りの時間を数えていた。
文さんは、下着を着けている以外は私とそう変わらない恰好で洗面所から出てきた。ベッドに近づくと、なかなか積極的ですね、と少々興奮気味に言うのだ。
そんなわけあるか。一体どこのだれが知り合いに、いや好きな人に食われることに積極的になるというのか。
文さんはそっとベッドに入って、私の上に馬乗りになる。両手は頭の高さまで挙がったところで、文さんの両手に押さえつけられた。
とうとうそのときが来て、怖くて怖くて、ぎゅっと瞑った目の端から、堪えきれない涙がこめかみを伝って耳へと流れた。
文さんの吐く息が段々と近づいてきて、もう逃げようにも逃げられなくて、目の端から一層、泪が溢れる。
そして、まず初めに唇に、柔らかな感触が当たった。
何かが口の中に進入してきて、それが文さんの舌だと分かって、舌を食い千切られると思うと、尚のこと体が硬直する。
文さんの舌は、私の舌を吸い上げるように、引き摺り出すように嬲った。何度か息継ぎを挟みながら、執拗にそれは繰り返される。
やがて気が済んだのか、荒い息とともに文さんは口を放した。
口の端から、私のとも文さんのともつかない唾液が糸を引いた。それを文さんは乱雑に手で拭った。
「そんなに恐ろしいですか、私」
そう尋ねる文さんの顔は、さっきまでの興奮で赤くなっていたのとは違って、私の反応が気に入らないのか、どこか不満そうだった
「だっで・・・いっ、いぎだままだべられるのは、ひぐっ、すごぐいだいからこわい」
・・・
「え、なんですか、ほんとに私がにとりを、弱肉強食的な意味で食べると思ったのですか?」
泣きながら何度も頷いた。
だって、そういう目的で、係員に賄賂を――
「いやまあ、状況が状況でしたけどね? さすがに友人を食べようとは思いませんよ?」
え・・・それじゃあ。
「わだし、死なない?」
「もちろん。そのためにここに連れ込んだわけですよ」
――ああ、助かったんだ。
安堵して、そしたらまた泪が溢れて止まらなくなった。
文さんは私の上体を起こすと、そっと胸に抱いた。私は抱きついたまま、文さんの服が濡れるのもお構いなしに大泣きした。
「正直焦りましたよ、あなたが食肉になるだなんて聞いた時は。河童もたいそう旧い因習を引きずっていますね」
文さんはずっと、優しく背中をさすってくれている。
「まだ思いも伝えていないのに死なれては困りますよ」
――それは、どういう意味だろう。
文さんを見ると、赤い顔で私を見据えます。
「私ね、にとりを好きなんですよ」
「ふぇ?」
「いっつも元気で明るくて、人間と仲良くなりたいけど人見知りで、いつも川底から人間を見てる。その視線が私に向いたらどんない良いかと、いつも思っていました」
今一度、私の頭の中は真っ白になった。
私も、文さんと同じく赤い顔をしているのだろう。
「それって、告白・・・ですか」
「ええ、でも返事は聞きませんよ」
またも文さんは、獲物を見る目で不敵に笑った。
「私はあの係員に袖の下を渡してあなたを買いました」
ゆっくりと文さんの顔が近付く。
私は目を瞑った。
再びベッドの上に寝かされて――
「だからもう、あなたは私のものですよね」
私は、文さんに食べられてしまいました。
こうして私は生き永らえ、ついでに、文さんと相思相愛となった。
怪我の功名、というやつかな。
あとで河童でない友人に会いに行ったら、私はすでに亡き者と認識されていて、まるで幽霊でも出たかのような反応をされた。
皆が私の生還を喜んで、少しばかり涙してくれる友人も居た。文さんと恋仲になったことを言うと、食べられるってそういう意味だったのかー、と言って、宵闇の友人にはゲラゲラと笑われた。
ちくしょう、そういう意味じゃなかったんだけどな。まあいいや。結果オーライだ。
しばらくは、肉は人里で買うことにしよう。
幻想郷にカニバニズムが蔓延しているとは
幽々子様なら、河童を全滅させそうですね
にとりが食べられる様子も、克明に書いて欲しかったですね
削除覚悟で
あと、山の賢者は呼びにくいから やまけんでいいね
お邪魔致します。前半部分の重い淡々とした描写に力量を感じますわ。三人で議論致しました。
門番は電車の都合で帰ってしまいましたのであしからず。 蝶
おお、こわいこわい。
しかし中身はとても素敵な恋愛小説なのですね。
とても気に入ってしまいました。
淡々とした回想がとてもよかったです。
・・・・でもやっぱりこう言うの受け付けない人も居るんだろうなあ。
投稿された作品は全部読ませて頂きましたが、新作で長編が
読んでみたいな〜(チラッ
でしょうねえ。でも東方って結構暗いというか、死を連想させるような、あるいは死そのものを取り扱ったものが多いように感じます。
だからこそ、少女らのいい加減な会話が引き立つのかもしれません。
>>25さん
頑張ってはいるんですが、いやはや、なかなか思うとおりにはいかんものです。
なんとかご期待に沿えるよう、精進いたします。
芥川作品はいくつかは読んでいたが河童は読んだことなかったなそういえば・・・
芥川の河童は結構衝撃的なので、読まれる際は心してかかった方がいいですよ。
自分も初めて読んだときは度肝を抜かれました。羅生門なんて生温い。