夏夜の月が、新しい齢を刻み始めた。月面がどのような色形でも、私の召使いの働き具合は悪い。新月ならば真新しい高揚感で、満月ならば力を漲らせて、中間ならば数味欠けて失敗する。
小花の呼び鈴で急かせども急かせども、彼女は来ない。地上階にも聴こえているだろうに、冷たい紅茶を用意してこない。どこで油を売っているのだろう。小悪魔油の収益で、新人を召喚雇用すべきか。猫っぽい敏腕司書。
仮想の下僕を三、四名帰らせたところで、彼女が銀盆を持ってきた。妖精メイドで館内が混んでいたそうだ。濃い目に淹れたぬるい紅茶、半溶けの氷のバケツ、端の反った透明グラス、
「これは頼んでない」
「隠し通路の書棚で見つけました。本じゃないのは珍しいなーって」
天然の紅木材、ブラッドウッドの小箱。道中の混雑だけではない。きっちり道草もしていたのではないか。
まあいいか。溜め息で流した。この道具は行方不明になっていた、思い出深い一品だ。こんな三日月の晩に発見されたのも、何かの運命や時の悪戯かもしれない。
小悪魔を隣に着席させ、蓋を開けさせた。裏面は緋無地、表面は種々の絵を描いた、
「タロットカードですね」
「貴方は占いの経験は?」
「ないです。魔界の友達にハイカラな蒐集家がいただけです。パチュリー様は?」
「あるけど、それはもう一般には適さない。永久欠番と重大なバグの所為で」
かつてはお抱えの占術師に任命されていた。枚数が多過ぎて訳わからん。パチェ、お前がやれと。札が抜け、解任され、欠陥品になって幾度月が巡ったか。
「欠番って何ですか」
「タロットは通常、大アルカナ二十二枚と小アルカナ五十六枚の計七十八枚から成るの。数えてみて」
十枚刻みで、彼女は絵札を卓に置いていった。五十六十七十と来て、
「七十四、七十五、七十六。二枚足りませんね。パチュリー様が紛失されたのですか」
「カードに相応しい場所に行かせた。バグというのは」
全符を裏返して、徹底的に切った。上から三枚引いて並べて、裏返す。
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
今度は適当に、混ざらないように合わせた。同様の三枚引き。
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
魔術で旋風を生んで、上空で掻き混ぜた。三枚返せば、
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
小悪魔がオカルトだと驚いていた。オカルトな存在が何を言うか。
「私の魔法じゃないわ。貴方もやるといい」
彼女は五回試した。徐々にシャッフルを雑にして。何度目も、どこの三枚を取っても同結果。
「呪われてませんかこれ」
「悪いものは棲んでいないわ」
そう出るように運命付けられた。
紙に目印の爪痕をつけようとしたので、止めさせた。
「壊さないであげて。代わりに貴方をカードで見ましょう」
「粗悪品でわかるんですか」
「粗悪魔の貴方にはぴったりね」
泣きべそはアイスティーで黙らせた。末の春摘みの初々しさが、渋味と重みで潰されている。軽やかな華やぎと葡萄風の香味は、彼女のぽかで失踪した。小さな悪魔に、完全で瀟洒な一杯を期待してはいけないか。
絵札と箱を押しつけられたとき、幾つか決まり事を設けられた。小アルカナどころか大アルカナの領域で挫折した初心者なのに、注文がうるさかった。
――占うことはただ一つ。私と、私が最も運命を変えたあいつに起こること。パチェの趣味の遊具にするな。
時効だろう。彼女に隠れてやればいい。今夜ひとつ禁を解く。第一、タロットに大まかな未来予知を託すのは難しい。
「質問を決めて。健康財力恋愛対人、できるだけ細かく。絞った方が読みやすい」
「うーん、なら仕事運で。ご褒美が出るかどうか」
「一生懸命かと思いきや単純な欲張りね」
――貴方の魔力と親しみやすい、第三の月夜毎に独りでやりなさい。枚数もそうね、三枚にして。過去と現在と未来とも取れる。運命を捉えるにはいいでしょ。もっと具体的な配置法がある? 十字架型? 論外、大したことなさそうね。
――逆位置禁止。当たらなかったし面倒じゃない。パチェの技量を信頼する。その札の適切な位置で読んで。
――面白いことを選りすぐって伝えなさい。私を退屈させるな。
――切る前に、
「切る前に貴方の象徴符を一枚抜き出すわ。それを除いて占う」
「私のシンボル」
大アルカナ、もしくは小アルカナの人物カード十六枚から選べと指示されていた。象徴は不変だった。
私は小悪魔を、棒の小姓で表現した。
「意味は?」
「個性的な取り次ぎ役。若い。未熟者」
「チェンジで」
地味で嫌だそうだ。私っぽいのでこれにしましょうと、悪魔の絵を突き出された。ひよっこ占い師の彼女も、悪魔を己としていたか。私が修正した。
小悪魔が駄々をこねるので、愚者に換えてやった。名称は教えずに。
「何ですこの家出したような人。道化師?」
「夢見る旅人」
愚者。旺盛な好奇心で突き進む幼子。何でもできるかもしれない。何もできないかもしれない。不安定な、万能の可能性の持ち主。やっぱり個性的で、危ない未熟者。
彼女に頼まれたときは、二枚象徴カードを置いていた。彼女と、彼女に人生を塗り替えられた者と。
私が彼女の役を任せたのは、玉座の皇帝だった。女帝の受動的な繁栄のイメージは、どうも彼女にそぐわなかった。館を統べる地位、何かを得るために動く力、カリスマとわがまま、彼女は私の親友で、私達の王だと感じた。
その王様の特別な「あいつ」には、吊るされた男。逆さに吊られても苦しみを見せない。彼女は頑なさを緩めて、与えられた場と主君に従った。結果、能力と心を正しく活かせるようになった。不可避のものの受容、内的成長、抜群の奉仕。彼女は主のためならば、自ら吊られるだろう。そして彼女の危機とあらば、自身の得物で縄を切り落とす。臨機応変。寓意画に沿っていた。
いなくなった二札。
「貴方も混ぜたわね。裏にすると必ずあのセットになるから、表のまま。好きに、ぴんと来たものを三枚選択しなさい」
「シャッフルの必要あったんですか」
「作法よ」
読書机の半分にカードを並べて、小悪魔は悩んでいた。アイスクリームのフレーバーに迷う、富豪の少女のようだった。グラスの紅茶を空にして、注ぎ足した。飲みながら、愚者と共に見守った。
「これとこれ、これにします」
選り分けて、残りを山にした。
彼女の好みと直感の組み合わせは、一見明るくて、輝かしくて、私の胸を抉った。
太陽、星、二つの杯。辛い絵と、当てのない絵と、一度引いてやりたかった絵だった。
「紅い月の統治する館で、どうして太陽?」
「あ、お日様で当たりでしたか。見るからに幸せそうでしょう。子供笑ってますし、季節の向日葵が咲いてますし。日はパチュリー様の属性のひとつですし」
彼女の推測するように、太陽は広く幸運の一枚とされている。しかし私には、殊彼女達の将来に関しては、不運のシンボルとしか思えなかった。出会うと胸騒ぎがした。私はこちら側の人間です。月の名を授かれど、星の時間を過ごせど、日からは離れられないのです。吊るされた彼女が、行儀よく訴えているようで。引き裂くものを見通した。
「貴方なりに健全に勤めているようね。先月の小夜会は楽しかったかしら。また平等にパーティーがあるかもしれないわ。怠けなければ。貴方の興味に正直になるのは吉。おかげでタロット箱を見つけられた」
「結構無難ですね」
「言葉も魔術、病は気から。強い予言は他者の行動に影響を与えるわ。貴方もカードや易や星読みを学ぶかもしれない。覚えておきなさい。軽率に破滅を唱えないこと」
終焉を、悟ってしまうことはあるけれど。
皇帝に占い業を解かれる前、最後に引いたのが太陽だった。後の二枚からは、あまりいいメッセージを受けられなかった。休息、疲労、短い蝋燭。吊るされた男は、既に長くなかった。そこに、黄色い陽光の札。天にも昇る心地。天にも。来るべきときが来たのだなと、勘で察した。依頼人の王様には告げなかった。
――未来は見えるのでしょう。何故タロットを始めたの。
――目が悪い日もあるの。理解しろ。は? 責任感や愛情の行為じゃないわ、陳腐ね。私はあいつとの愉快な事件を掴みたい。
私の予知は、愉快ではなかったから。あくまでも主観だが、王は優しい。情の使い道を、百八十度傲慢に取り違えているだけで。慈悲と無慈悲は紙一重。仮の明日であっても、傷付けてはならない。
体調管理も万全な彼女は、わかっていたのだろう。糊の利いた忠臣の格好で、私に見事な紅茶を運んできた。非の打ち所がなかった。彼女は私の特命の占術を知っていた。能力での清掃中に、私の所作を見たそうだ。私に、主を示すカードが欲しいと乞うた。プレゼントしたい人がいると。誰とは訊かなかった。館の長は許すだろう。喜ぶ。私は茶代に支払った。七十八枚のセットは、一枚欠けた。不細工な皇帝だと、彼女は嬉しそうに笑っていた。あくまでも主観だが、吊るし人も優しかった。情の対象を、精密に選別しているだけで。
不吉な太陽は現実となり、残された夜の帝王は彼女を送った。私に、占えていたのかと訊ねなかった。彼女の象徴を求められた。タロットは七十六枚になった。逆さ吊りの男を指で弾いていた。満足させてやれたようねと。右腕の意志を尊重して、人らしく生かした。彼女は一人の王様になった。椅子と日傘の周囲には、誰も要らない。
以降、カードはあの三枚組に囚われるようになった。
「星。ご褒美は手に入るかもしれないわ。ただし高望みは厳禁。怠慢も駄目。動かない夢は叶わない。太陽が先なのよね。宝は努力に見合ったもの。周りにも祝福されるでしょうね。全員が、貴方が貰うべきだと認める」
「賞状みたいですね」
「表彰には贅沢な副賞がつきもの」
彼女達を見る際、星札はいい出方をしなかった。他に足を引っ張られていた。光ある未来や、進展とは読み解けなかった。双方の、届かない願望を表していた。星は二人の理想形ではなかったのかもしれない。人間関係に直すと、友情の側面が大きい。友の括りで王は妥協しなかった。出したかったのは、
「二つの杯。対人関係の均衡がツキを生むわ。特に一対一の状況。貴方の報酬は、風変わりな交流や協力で獲得するものかもしれないわね。星々に後押しはされている。それから、私のお茶のお代わりを淹れるといいわ」
「最後パチュリー様の個人的な注文でしょう」
「杯じゃない。カップもグラスも用途は同じ」
「いいお告げだったのか、からかわれたのか」
男女が聖杯を手に向かい合う、対等な絵のカード。結婚の宣誓とする説もある。友愛や恋愛、更にはそれ以上の繋がりの一幕だ。正式の占いでは、一回も現れなかった。おめでとうと暢気に一声かける気は、十分あったのに。代理で固定の三枚が、深い結びつきを語っていた。
小悪魔は山札に太陽達を戻して、眺め返していた。
「ついてそうなのを引いたはずなんですけどね。最高に強運なのって、どれですか」
大規模なばば抜きのように、扇状に広げて向けられた。
「おみくじじゃあるまいし。常時運のいい札なんてないわ。逆もまた然り」
私の七曜魔法のようなものだ。塔の落雷で立ち上がった者もいる。日光で倒れた者もいる。世界や十の杯、十の硬貨は限界や最大値かもしれない。以後は右肩下がり。最強はない。
それでも彼女達に限って言うならば、
「統計上、これが二、三枚目に来たときは痛快な大騒ぎになった」
「行商人ですか。テーブルに品物。辺りに百合と薔薇」
「魔術師。よくも悪くも目的があって何かを創る者。物事をしたい、変えたいという魔法の心の表れ。実際にやるかは不明だけれど、やることが多かったわ」
冥界を模して、箱庭の霊園を作った月。節分やミステリーサークルの企画時。三段三神ロケットでの、月面侵略計画中。進行を支持するかのように、魔術師がサインをくれた。このカードは活動までは約束していない。けれども皇帝や吊るされた男が、支えて進ませた。
創造者の符を上端から下端まで見詰め、小悪魔は私に押し出した。
「パチュリー様のシンボルカードです」
「そうかしら」
私の象徴は設定していなかった。仮定するとしたら、隠者か硬貨の小姓だと考えていた。
「魔術師は裏返せば舌先三寸の詐欺師よ。会話が成り立たないこともある」
「今やられたばかりです」
魔術師を表に、残部を裏の集まりにして、彼女は黒ベストの胸を張った。
「パチュリー様の魔法や知識で、遊べたこともありました。皆びっくりしたり、笑ったり、パチュリー様はそういうものを創る方です」
「それはどうも。褒め言葉より紅茶がいいわ」
茶器の盆の重さに耐え、彼女は飛んでいった。
愚者も千慮に必ず一得あり。彼女の閃きを肯定するのも、ありかもしれない。皇帝付きだから、差し詰め宮廷魔術師か。
彼女達が、私の助力で記憶に残るひとときを作れたのならいい。箱を覗く度に、時が巻き戻って笑顔になるような。
私、魔術師を円卓に据えて、念入りに七十五枚の緋札を切った。三枚に変更はなかった。
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
専属の占い師を辞めてからも、これらのカードとは真剣に対話をしてきた。確信し、秘蔵の本棚に休ませて消えるまで。
二人の訊き手を失った、欠落セットの三枚組。彼らは、とこしえの絆を表現している。
回転する運命の輪は、ひとの力ではどうにもできない転機。大アルカナ全体が、抗い難い神がかった要素を有している。止まらない物語。輪はその中でも、流れに勢いがある。瞬間最大風速のようなものだが、続けば砦も瓦礫に変える嵐。かの皇帝の、己にも制御不可能な能力を想像させた。
八本の剣の絵では、後ろ手に縛られた女性が立っている。目隠しつき。足元は不自由な沼。突き立った剣に囲まれている。下手に走れば怪我をするだろう。背景は城。剣は王の従者の武器に、城は私達の暮らす館に見えた。小アルカナは、小説の一章。彼女は窮屈に制限されている。肉体を離れ、思考する他ない。だが頭も拘束され、緊張で自ら囚人になっている。
六つの杯は、泥沼の絵画よりも温かみがある。懐かしさを覚える、レモンの配色。お伽噺のような西洋風の町で、少年が少女に白い花の杯を贈る。ここではカップは、水や魚ではなく生花の容器になっている。二人は花を渡す側にも、貰う側にもなったのだろう。家庭や過去を意味するカードだ。
三枚を総括して、私は互いが互いに為したことの強さを思い知らされた。皇帝調に述べれば、
『私はお前の生を狂わせたけれど、何ら後悔はしていないわ。永久の満月にも等しい時間を過ごせた。しかし私は、お前をいかに遇するべきかわからなかった。がんじがらめにされて、身動きが取れなかった。種族や情念は通り過ぎている、もっと紅いものなの。でもお前が去る今、やっと確実な命令を下せる。怖くない。私のために死になさい。私のために死んで、私の中で生き続けなさい。私の心を、未来永劫束縛させてやる』
吊るされた死者も、恭しく同調するのだろう。苦難などありませんでした。歯がゆい感情も今日で終わりです。案外心の広いお嬢様は、私の願いに応えてくださるでしょう。貴方のために逝かせてください。貴方のために逝って、貴方の中で生きさせてください。貴方の時は私のものです。死の床で、ナイフの二、三本は飛び出したかもしれない。
飛躍した読解かもしれないが、私には自信がある。七十六枚のカードが証明だ。少なくとも、彼女達は相手への言い表し難い心を抱いていた。
過去は現在でも、未来でも呼吸する。
ひとつ気になるのは、三枚引きの続き。一人になった二人の今後。禁を破って小悪魔を占ったのだ、もうひとつルール違反を犯してもいいか。私は山札をめくってみた。
「欠番とバグの次は、落丁と」
外枠のみの白紙符だった。先刻小悪魔が机に展開したときは、抜けがなかったのに。
ふと思い当たって、私の象徴カードを足した。不動の三枚も山に送る。お手玉のように捏ねて、四枚。横一列に整列させ、引っ繰り返した。
「そんな訳で私もいます。お嬢様の退屈解消は一任しました、といったところかしら」
運命の輪、八本の剣、六つの杯。そして、魔術師。彼女達の幸せとあった札、私そのもの。
大掛かりな遊びを、準備しようか。私は自力で立案実践する、割と活発な魔法使いだ。かすかな風にローブの身体が浮いた。
「パチュリー様、お茶入りましたけど」
「小悪魔、徹夜と力仕事の元気はある? あるわね。花畑に迷路でもこしらえましょう」
「私何も返事してませんよ」
「ほうれん草は嫌いなの。事後報告事後承諾で結構。主役の花は、そうね」
六つの杯を満たしていた、
「白花。白の勿忘草なんてどうかしら」
「宙吊りのトラップは仕掛けます?」
「思い切りやりなさい。ティーセットとシャベル持参」
彼女を疾走させて、私はタロットをまとめた。足りない二枚に、面白おかしく微笑んだ。
真夜中の鐘がときめいた。運命の時計は、今晩も忙しなく回っている。
小花の呼び鈴で急かせども急かせども、彼女は来ない。地上階にも聴こえているだろうに、冷たい紅茶を用意してこない。どこで油を売っているのだろう。小悪魔油の収益で、新人を召喚雇用すべきか。猫っぽい敏腕司書。
仮想の下僕を三、四名帰らせたところで、彼女が銀盆を持ってきた。妖精メイドで館内が混んでいたそうだ。濃い目に淹れたぬるい紅茶、半溶けの氷のバケツ、端の反った透明グラス、
「これは頼んでない」
「隠し通路の書棚で見つけました。本じゃないのは珍しいなーって」
天然の紅木材、ブラッドウッドの小箱。道中の混雑だけではない。きっちり道草もしていたのではないか。
まあいいか。溜め息で流した。この道具は行方不明になっていた、思い出深い一品だ。こんな三日月の晩に発見されたのも、何かの運命や時の悪戯かもしれない。
小悪魔を隣に着席させ、蓋を開けさせた。裏面は緋無地、表面は種々の絵を描いた、
「タロットカードですね」
「貴方は占いの経験は?」
「ないです。魔界の友達にハイカラな蒐集家がいただけです。パチュリー様は?」
「あるけど、それはもう一般には適さない。永久欠番と重大なバグの所為で」
かつてはお抱えの占術師に任命されていた。枚数が多過ぎて訳わからん。パチェ、お前がやれと。札が抜け、解任され、欠陥品になって幾度月が巡ったか。
「欠番って何ですか」
「タロットは通常、大アルカナ二十二枚と小アルカナ五十六枚の計七十八枚から成るの。数えてみて」
十枚刻みで、彼女は絵札を卓に置いていった。五十六十七十と来て、
「七十四、七十五、七十六。二枚足りませんね。パチュリー様が紛失されたのですか」
「カードに相応しい場所に行かせた。バグというのは」
全符を裏返して、徹底的に切った。上から三枚引いて並べて、裏返す。
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
今度は適当に、混ざらないように合わせた。同様の三枚引き。
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
魔術で旋風を生んで、上空で掻き混ぜた。三枚返せば、
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
小悪魔がオカルトだと驚いていた。オカルトな存在が何を言うか。
「私の魔法じゃないわ。貴方もやるといい」
彼女は五回試した。徐々にシャッフルを雑にして。何度目も、どこの三枚を取っても同結果。
「呪われてませんかこれ」
「悪いものは棲んでいないわ」
そう出るように運命付けられた。
紙に目印の爪痕をつけようとしたので、止めさせた。
「壊さないであげて。代わりに貴方をカードで見ましょう」
「粗悪品でわかるんですか」
「粗悪魔の貴方にはぴったりね」
泣きべそはアイスティーで黙らせた。末の春摘みの初々しさが、渋味と重みで潰されている。軽やかな華やぎと葡萄風の香味は、彼女のぽかで失踪した。小さな悪魔に、完全で瀟洒な一杯を期待してはいけないか。
絵札と箱を押しつけられたとき、幾つか決まり事を設けられた。小アルカナどころか大アルカナの領域で挫折した初心者なのに、注文がうるさかった。
――占うことはただ一つ。私と、私が最も運命を変えたあいつに起こること。パチェの趣味の遊具にするな。
時効だろう。彼女に隠れてやればいい。今夜ひとつ禁を解く。第一、タロットに大まかな未来予知を託すのは難しい。
「質問を決めて。健康財力恋愛対人、できるだけ細かく。絞った方が読みやすい」
「うーん、なら仕事運で。ご褒美が出るかどうか」
「一生懸命かと思いきや単純な欲張りね」
――貴方の魔力と親しみやすい、第三の月夜毎に独りでやりなさい。枚数もそうね、三枚にして。過去と現在と未来とも取れる。運命を捉えるにはいいでしょ。もっと具体的な配置法がある? 十字架型? 論外、大したことなさそうね。
――逆位置禁止。当たらなかったし面倒じゃない。パチェの技量を信頼する。その札の適切な位置で読んで。
――面白いことを選りすぐって伝えなさい。私を退屈させるな。
――切る前に、
「切る前に貴方の象徴符を一枚抜き出すわ。それを除いて占う」
「私のシンボル」
大アルカナ、もしくは小アルカナの人物カード十六枚から選べと指示されていた。象徴は不変だった。
私は小悪魔を、棒の小姓で表現した。
「意味は?」
「個性的な取り次ぎ役。若い。未熟者」
「チェンジで」
地味で嫌だそうだ。私っぽいのでこれにしましょうと、悪魔の絵を突き出された。ひよっこ占い師の彼女も、悪魔を己としていたか。私が修正した。
小悪魔が駄々をこねるので、愚者に換えてやった。名称は教えずに。
「何ですこの家出したような人。道化師?」
「夢見る旅人」
愚者。旺盛な好奇心で突き進む幼子。何でもできるかもしれない。何もできないかもしれない。不安定な、万能の可能性の持ち主。やっぱり個性的で、危ない未熟者。
彼女に頼まれたときは、二枚象徴カードを置いていた。彼女と、彼女に人生を塗り替えられた者と。
私が彼女の役を任せたのは、玉座の皇帝だった。女帝の受動的な繁栄のイメージは、どうも彼女にそぐわなかった。館を統べる地位、何かを得るために動く力、カリスマとわがまま、彼女は私の親友で、私達の王だと感じた。
その王様の特別な「あいつ」には、吊るされた男。逆さに吊られても苦しみを見せない。彼女は頑なさを緩めて、与えられた場と主君に従った。結果、能力と心を正しく活かせるようになった。不可避のものの受容、内的成長、抜群の奉仕。彼女は主のためならば、自ら吊られるだろう。そして彼女の危機とあらば、自身の得物で縄を切り落とす。臨機応変。寓意画に沿っていた。
いなくなった二札。
「貴方も混ぜたわね。裏にすると必ずあのセットになるから、表のまま。好きに、ぴんと来たものを三枚選択しなさい」
「シャッフルの必要あったんですか」
「作法よ」
読書机の半分にカードを並べて、小悪魔は悩んでいた。アイスクリームのフレーバーに迷う、富豪の少女のようだった。グラスの紅茶を空にして、注ぎ足した。飲みながら、愚者と共に見守った。
「これとこれ、これにします」
選り分けて、残りを山にした。
彼女の好みと直感の組み合わせは、一見明るくて、輝かしくて、私の胸を抉った。
太陽、星、二つの杯。辛い絵と、当てのない絵と、一度引いてやりたかった絵だった。
「紅い月の統治する館で、どうして太陽?」
「あ、お日様で当たりでしたか。見るからに幸せそうでしょう。子供笑ってますし、季節の向日葵が咲いてますし。日はパチュリー様の属性のひとつですし」
彼女の推測するように、太陽は広く幸運の一枚とされている。しかし私には、殊彼女達の将来に関しては、不運のシンボルとしか思えなかった。出会うと胸騒ぎがした。私はこちら側の人間です。月の名を授かれど、星の時間を過ごせど、日からは離れられないのです。吊るされた彼女が、行儀よく訴えているようで。引き裂くものを見通した。
「貴方なりに健全に勤めているようね。先月の小夜会は楽しかったかしら。また平等にパーティーがあるかもしれないわ。怠けなければ。貴方の興味に正直になるのは吉。おかげでタロット箱を見つけられた」
「結構無難ですね」
「言葉も魔術、病は気から。強い予言は他者の行動に影響を与えるわ。貴方もカードや易や星読みを学ぶかもしれない。覚えておきなさい。軽率に破滅を唱えないこと」
終焉を、悟ってしまうことはあるけれど。
皇帝に占い業を解かれる前、最後に引いたのが太陽だった。後の二枚からは、あまりいいメッセージを受けられなかった。休息、疲労、短い蝋燭。吊るされた男は、既に長くなかった。そこに、黄色い陽光の札。天にも昇る心地。天にも。来るべきときが来たのだなと、勘で察した。依頼人の王様には告げなかった。
――未来は見えるのでしょう。何故タロットを始めたの。
――目が悪い日もあるの。理解しろ。は? 責任感や愛情の行為じゃないわ、陳腐ね。私はあいつとの愉快な事件を掴みたい。
私の予知は、愉快ではなかったから。あくまでも主観だが、王は優しい。情の使い道を、百八十度傲慢に取り違えているだけで。慈悲と無慈悲は紙一重。仮の明日であっても、傷付けてはならない。
体調管理も万全な彼女は、わかっていたのだろう。糊の利いた忠臣の格好で、私に見事な紅茶を運んできた。非の打ち所がなかった。彼女は私の特命の占術を知っていた。能力での清掃中に、私の所作を見たそうだ。私に、主を示すカードが欲しいと乞うた。プレゼントしたい人がいると。誰とは訊かなかった。館の長は許すだろう。喜ぶ。私は茶代に支払った。七十八枚のセットは、一枚欠けた。不細工な皇帝だと、彼女は嬉しそうに笑っていた。あくまでも主観だが、吊るし人も優しかった。情の対象を、精密に選別しているだけで。
不吉な太陽は現実となり、残された夜の帝王は彼女を送った。私に、占えていたのかと訊ねなかった。彼女の象徴を求められた。タロットは七十六枚になった。逆さ吊りの男を指で弾いていた。満足させてやれたようねと。右腕の意志を尊重して、人らしく生かした。彼女は一人の王様になった。椅子と日傘の周囲には、誰も要らない。
以降、カードはあの三枚組に囚われるようになった。
「星。ご褒美は手に入るかもしれないわ。ただし高望みは厳禁。怠慢も駄目。動かない夢は叶わない。太陽が先なのよね。宝は努力に見合ったもの。周りにも祝福されるでしょうね。全員が、貴方が貰うべきだと認める」
「賞状みたいですね」
「表彰には贅沢な副賞がつきもの」
彼女達を見る際、星札はいい出方をしなかった。他に足を引っ張られていた。光ある未来や、進展とは読み解けなかった。双方の、届かない願望を表していた。星は二人の理想形ではなかったのかもしれない。人間関係に直すと、友情の側面が大きい。友の括りで王は妥協しなかった。出したかったのは、
「二つの杯。対人関係の均衡がツキを生むわ。特に一対一の状況。貴方の報酬は、風変わりな交流や協力で獲得するものかもしれないわね。星々に後押しはされている。それから、私のお茶のお代わりを淹れるといいわ」
「最後パチュリー様の個人的な注文でしょう」
「杯じゃない。カップもグラスも用途は同じ」
「いいお告げだったのか、からかわれたのか」
男女が聖杯を手に向かい合う、対等な絵のカード。結婚の宣誓とする説もある。友愛や恋愛、更にはそれ以上の繋がりの一幕だ。正式の占いでは、一回も現れなかった。おめでとうと暢気に一声かける気は、十分あったのに。代理で固定の三枚が、深い結びつきを語っていた。
小悪魔は山札に太陽達を戻して、眺め返していた。
「ついてそうなのを引いたはずなんですけどね。最高に強運なのって、どれですか」
大規模なばば抜きのように、扇状に広げて向けられた。
「おみくじじゃあるまいし。常時運のいい札なんてないわ。逆もまた然り」
私の七曜魔法のようなものだ。塔の落雷で立ち上がった者もいる。日光で倒れた者もいる。世界や十の杯、十の硬貨は限界や最大値かもしれない。以後は右肩下がり。最強はない。
それでも彼女達に限って言うならば、
「統計上、これが二、三枚目に来たときは痛快な大騒ぎになった」
「行商人ですか。テーブルに品物。辺りに百合と薔薇」
「魔術師。よくも悪くも目的があって何かを創る者。物事をしたい、変えたいという魔法の心の表れ。実際にやるかは不明だけれど、やることが多かったわ」
冥界を模して、箱庭の霊園を作った月。節分やミステリーサークルの企画時。三段三神ロケットでの、月面侵略計画中。進行を支持するかのように、魔術師がサインをくれた。このカードは活動までは約束していない。けれども皇帝や吊るされた男が、支えて進ませた。
創造者の符を上端から下端まで見詰め、小悪魔は私に押し出した。
「パチュリー様のシンボルカードです」
「そうかしら」
私の象徴は設定していなかった。仮定するとしたら、隠者か硬貨の小姓だと考えていた。
「魔術師は裏返せば舌先三寸の詐欺師よ。会話が成り立たないこともある」
「今やられたばかりです」
魔術師を表に、残部を裏の集まりにして、彼女は黒ベストの胸を張った。
「パチュリー様の魔法や知識で、遊べたこともありました。皆びっくりしたり、笑ったり、パチュリー様はそういうものを創る方です」
「それはどうも。褒め言葉より紅茶がいいわ」
茶器の盆の重さに耐え、彼女は飛んでいった。
愚者も千慮に必ず一得あり。彼女の閃きを肯定するのも、ありかもしれない。皇帝付きだから、差し詰め宮廷魔術師か。
彼女達が、私の助力で記憶に残るひとときを作れたのならいい。箱を覗く度に、時が巻き戻って笑顔になるような。
私、魔術師を円卓に据えて、念入りに七十五枚の緋札を切った。三枚に変更はなかった。
運命の輪、八本の剣、六つの杯。
専属の占い師を辞めてからも、これらのカードとは真剣に対話をしてきた。確信し、秘蔵の本棚に休ませて消えるまで。
二人の訊き手を失った、欠落セットの三枚組。彼らは、とこしえの絆を表現している。
回転する運命の輪は、ひとの力ではどうにもできない転機。大アルカナ全体が、抗い難い神がかった要素を有している。止まらない物語。輪はその中でも、流れに勢いがある。瞬間最大風速のようなものだが、続けば砦も瓦礫に変える嵐。かの皇帝の、己にも制御不可能な能力を想像させた。
八本の剣の絵では、後ろ手に縛られた女性が立っている。目隠しつき。足元は不自由な沼。突き立った剣に囲まれている。下手に走れば怪我をするだろう。背景は城。剣は王の従者の武器に、城は私達の暮らす館に見えた。小アルカナは、小説の一章。彼女は窮屈に制限されている。肉体を離れ、思考する他ない。だが頭も拘束され、緊張で自ら囚人になっている。
六つの杯は、泥沼の絵画よりも温かみがある。懐かしさを覚える、レモンの配色。お伽噺のような西洋風の町で、少年が少女に白い花の杯を贈る。ここではカップは、水や魚ではなく生花の容器になっている。二人は花を渡す側にも、貰う側にもなったのだろう。家庭や過去を意味するカードだ。
三枚を総括して、私は互いが互いに為したことの強さを思い知らされた。皇帝調に述べれば、
『私はお前の生を狂わせたけれど、何ら後悔はしていないわ。永久の満月にも等しい時間を過ごせた。しかし私は、お前をいかに遇するべきかわからなかった。がんじがらめにされて、身動きが取れなかった。種族や情念は通り過ぎている、もっと紅いものなの。でもお前が去る今、やっと確実な命令を下せる。怖くない。私のために死になさい。私のために死んで、私の中で生き続けなさい。私の心を、未来永劫束縛させてやる』
吊るされた死者も、恭しく同調するのだろう。苦難などありませんでした。歯がゆい感情も今日で終わりです。案外心の広いお嬢様は、私の願いに応えてくださるでしょう。貴方のために逝かせてください。貴方のために逝って、貴方の中で生きさせてください。貴方の時は私のものです。死の床で、ナイフの二、三本は飛び出したかもしれない。
飛躍した読解かもしれないが、私には自信がある。七十六枚のカードが証明だ。少なくとも、彼女達は相手への言い表し難い心を抱いていた。
過去は現在でも、未来でも呼吸する。
ひとつ気になるのは、三枚引きの続き。一人になった二人の今後。禁を破って小悪魔を占ったのだ、もうひとつルール違反を犯してもいいか。私は山札をめくってみた。
「欠番とバグの次は、落丁と」
外枠のみの白紙符だった。先刻小悪魔が机に展開したときは、抜けがなかったのに。
ふと思い当たって、私の象徴カードを足した。不動の三枚も山に送る。お手玉のように捏ねて、四枚。横一列に整列させ、引っ繰り返した。
「そんな訳で私もいます。お嬢様の退屈解消は一任しました、といったところかしら」
運命の輪、八本の剣、六つの杯。そして、魔術師。彼女達の幸せとあった札、私そのもの。
大掛かりな遊びを、準備しようか。私は自力で立案実践する、割と活発な魔法使いだ。かすかな風にローブの身体が浮いた。
「パチュリー様、お茶入りましたけど」
「小悪魔、徹夜と力仕事の元気はある? あるわね。花畑に迷路でもこしらえましょう」
「私何も返事してませんよ」
「ほうれん草は嫌いなの。事後報告事後承諾で結構。主役の花は、そうね」
六つの杯を満たしていた、
「白花。白の勿忘草なんてどうかしら」
「宙吊りのトラップは仕掛けます?」
「思い切りやりなさい。ティーセットとシャベル持参」
彼女を疾走させて、私はタロットをまとめた。足りない二枚に、面白おかしく微笑んだ。
真夜中の鐘がときめいた。運命の時計は、今晩も忙しなく回っている。
中盤あたりでキーの3枚の意味が大体分かってしまいました。
ただ、分かる人でないとすんなり読めないかなと思いました。
具体的であるほどいいというパチェに自分が重なりました。
だって本当に漠然だと漠然にしか言えないんだもん。
皇帝、吊るされた男、魔術師、愚者
では地下の彼女と門の彼女はどんな札を選ぶのでしょうね?
読み返すと各々に配されたカードがぴったりで、ああなるほどなと唸らされました。
このレミリア、なんて凄まじい傲慢さでしょう。ちっとも嫌味じゃない。
居なくなってもいまだ在る咲夜もまた、よい性格をしています。
良い作品をありがとうございます。ますますタロットを勉強したくなりました。
一度止まってもまた走り出すここの紅魔組が好きです。
その傲慢さ、嫌いじゃないけど好きでもない。
お返事が下手で、すみません。
>中盤あたりでキーの3枚の意味が大体分かってしまいました
>ただ、分かる人でないとすんなり読めないかなと思いました
>タロットの意味を読み解くように難解な話でした
作中で用いる以上は、カードを見たことのない方でも親しめるようにする。ただし、軽い絵遊びや直感の意味遊びで済ませるようなことはしない。考えて、書いてみました。
お読みになる方に、幾らか理解を強いてしまったようです。すまないことをしました。
他人の心になれればなぁと、夢を見ます。
>地下の彼女
死神(幽閉中の長い滞り、壊し続け、紅魔郷エキストラ後の個人・紅魔館全体の変化、本当の関係の始まり)ではないでしょうか。
>門の彼女
杯の騎士(周囲との協調、柔軟、門番の業務に大体徹する、振り回されやすい)か節制(皆仲良く、守備重視、バランス、隙がある、器用貧乏気味)かと思います。
>レミリア、なんて凄まじい傲慢さでしょう。ちっとも嫌味じゃない
>その傲慢さ、嫌いじゃないけど好きでもない
どちらのご感想も有り難いです。魅力的な人物を描けるようになりたいです。
貴重なお言葉を残してくださり、ありがとうございます。
>ますますタロットを勉強したくなりました
>タロット占い楽しいですよね
勉強するほど発見のある、興味深い事柄です。楽しんで、敬意を持って読めればと願います。
>二人の存在がしっかりと感じられる
最後に名前を出すか否か、悩んでやめました。象徴二枚に託しました。
紛らわしくなったかもしれません。好いてくださると、笑顔になります。
ありがとうございました♪
あなたの文章は、不思議な魅力にあふれていますね。
レミリアと咲夜の関係の深さ想像すると、どうしても言葉に表現しにくい部分があると、常々感じていましたが。
その解法のひとつをしめされた思いです。ありがとうございます。
結局、頼ったことは一度も無かったなぁ。
ともあれ、非常に読み応えのある作品でした。