これで、お終い。
私は最後の荷物を仕舞い込むと、柳行李の蓋をぱたんと閉じた。
夜も明けきらぬ暗がりの中。ずっと続けていた作業から解放されて、大きく伸びをした。同じ姿勢で動き続けていたため凝り固まっていた体が、急な刺激を受けてぽきぽき鳴った。大きくため息を吐く。
大きめの行李を用意しておいて良かった。そこら中からかき集めてきたお宝たちが、収まりきれずに行李の蓋を押し上げているのを見ながら、心からそう思う。
これで、旅立ちの準備は整った。
問題は、私のような小柄な鼠妖怪にとって、これだけ大きい荷物は持ち運びが不便な点だが――まあ、そこは我が子鼠たちに頑張ってもらうとしよう。
腰に手を当てて、感慨深く部屋を見渡す。
私が今まで暮らしてきた、命蓮寺の一室。昨日まで集めたお宝たちがそこら中に散乱し、雑然としていたその部屋も、今や閑散としてうら寂しい。
いや、実際は、もともと割り当てられていた箪笥などの家具はそのまま置いていくつもりだから、そこまで様変わりするほど物が減った訳ではない。しかし、何故だか私物が減っただけで、がらんとして空虚な空間に感じてしまう。
私という生活する者の気配が、無くなってしまったからだろうか。
ぼんやりと、畳を見つめた。命蓮寺で暮らしたのは半年にも満たない期間だったはずなのに、なぜだかそこにはたくさんの思い出が染み着いている気がした。
思えば、ずいぶんと長居をしてしまったものだ。
本当なら、もっと早く去るはずだった。もっとずっと昔に、あの主人――寅丸星の元から。
もともと、そこまで主人たちの一団に深入りするつもりはなかった。ちょっとした監視の筈だったのだ。毘沙門天様も、そのつもりで私を遣わせた筈である。
毘沙門天様は、あれでいて結構適当なところがある。いや、大らかと言ったほうが正しいか。会ってもいない虎妖怪を、経歴を聞いただけで自分の代わりに立てることを殆ど黙認していた。私を始めとする側近が慌てて止めなければ、本当にそのまま彼女に毘沙門天代理を一任していたことだろう。
妥協案に近い形で、私がその虎妖怪の監視役を買って出たわけである。
正直気が進まなかった。
それはそうだ。鼠という自然界の中でも圧倒的弱者の地位に置かれている私が、わざわざ食物連鎖のヒエラルキーの頂点に立つ虎の懐に飛び込んでいこうとするのだから。虎穴に入らずんば虎子を得ず、とは言うけれど。
とにかく、彼女の素性をざっと調べ上げ、その素行に問題がなければすぐにでも監視役を切り上げて帰還するつもりだったのだ。
しかし、そのうちにその計画の雲行きも怪しくなってきた。聖の封印騒動の所為だった。
聖が人間たちの手によって封印され、他の仲間たちも地下深くへと閉じこめられてしまった、あの騒動。
あのときのご主人の落ち込みようといったら無かった。優しすぎるほど優しい彼女のことだ、力及ばずに仲間を失ってしまったとあれば、あの塞ぎようも仕方ないのかもしれない。
あの状態の彼女を放っておける訳はなかった。本業は毘沙門天の遣いの監視役だとしても、体面はあくまでも彼女の部下なのだから、そんな不忠を犯せるはずがない。それに、私はそこまで冷血ではない。
結局、そのままずっと彼女に付き添ってきたことになる。
それから、何年が経っただろう。本当に、長い監視生活だった。
だけど、それも今日でお終いだ。彼女も私も、自由になる。もう、見せかけの主従ごっこなんて、終わりだ。
まあ、不安が残らないと言えば嘘になる。
ご主人は、未だに頼りないところもあるし、物をすぐに無くしてしまう癖も抜け切っていない。いや、抜け切っていないどころか、むしろ悪化してきているんじゃないかと思うことすらある。宝塔を無くしたと言われたときは、怒りを通り越して呆れたものだ。
――でも、あるとき、私は確信してしまったんだよ。
大きな行李に腰かけた。重みを受けて、ぎしっと小さく鳴いた。私は、静かに目を閉じる。頭の中で、思い出を反芻した。
聖を復活させようと、率先してみんなを引っ張って幻想郷を駆けまわっていた、ご主人の姿。妖怪であることを隠すのをやめ、ただ一つの目標を目指して、ひたすらに邁進する姿。そして、聖を復活させたときの、嬉しそうで満足そうな笑顔。それを見て。
私は、自分の仕事が終わったことを確信したんだ。
ご主人は望むものを手に入れた。もう、二度と手放したりはしないだろう。それに、彼女は強くなった。私が監視を始めたときに比べて、数段たくましくなった。十分だ。彼女ならやっていける。毘沙門天の代理として。
彼女の部下という役目も、監視という仕事も、終わったのだ。
私は、ゆっくりと目を開けた。
夏の気の早い太陽が顔を出す準備を始めたらしく、じわじわと部屋の中が明るくなり始めていた。物が無くなって閑散とした部屋が、暗闇から浮かび上がっている。
少し、準備に時間をかけすぎただろうか。
折角早起きしたのに、これでは意味がない。他の連中に見つかったら面倒だからと、こんな夜も明け切らぬ内から起き出しているのに。
――やれやれ、のんびりし過ぎた。さっさとお暇しないとね。
幸い、逃げるのは得意だ。立つ鳥よりもずっと上手く、跡を濁さずにずらかれる自信がある。
さあ、最後の仕上げだ。行李を麻縄で縛り上げて――。
「ナズーリン!」
すぱああぁぁん!
突然、後ろから大きな声と、襖を勢いよく開ける音。
思わず体をびくりと震わせて、後ろを向く。
そこにいたのは、一番居て欲しくない人だった。
「ご、ご主人……」
ご主人は私の目を、真剣な眼差しで見つめてきた。彼女のその剣幕に、私も瞬きもせず、見つめ返す。辺りに漂う剣呑な空気。
まさか、私がこっそり逃げ出そうとしていることがばれていたのだろうか。
いや、まだ大丈夫。の、筈だ。
とにかく、何か、言い出さないと。そう思っても口が開かなかった。それどころか、指先一つ動かせないことに気付く。雁字搦めにされたように、私の四肢はピクリとも動かなかった。
そのまま、じっと見つめ合う。お互い、無言のまま。
ただ、彼女の射抜くような眼差しに見つめられる。
ああ、だから嫌なんだ。
彼女のその瞳。眼光。
虎の目。
その目に見つめられて、私は否が応でも、鼠としての本能を引きずり出されてしまう。弱者としての自分の宿命を思い出してしまう。私は、虎の目に射抜かれ、見えない虎の爪に押さえつけられて、呼吸すら忘れて身を竦めてしまうのだ。
だから、虎の監視役なんて嫌だったんだ。今さらすぎるほど今さらに、そんなことを思う。
どれくらいそうしていただろう。やがてご主人が、ゆっくりと口を開いた。
唐突に響いた彼女の声が、部屋を震わせた。
「大変です、ナズーリン! ぱんつを無くしてしまいました! 探して来て下さい!」
「なんでやねん!」
思わず飛び出たツッコミは、何故か関西弁だった。
◇ ◇ ◇
とりあえず、居間に移動した。
テーブルに向かい合って、腰を落ち着ける。いつも賑やかな居間も、誰も起き出していないこの時分は、とても静かだ。壁際に置かれた大きな柱時計だけが、規則正しく、振り子の音を奏でている。
私は、ちらりと時計の文字盤を見やった。――まだ、他の連中が起きてくる時間までは半刻くらいある。ご主人の話を聞いてからでも、出ていくことは十分可能そうだった。
「で、どういうことなんだい」
頬杖をついて、向かいに座る主人を見る。対する彼女は、きちんと正座をし、膝の上にきちんと手を置いている。この光景だけみると、どちらが主人でどちらが部下かわからなくなりそうだ。
「朝、起きたら……箪笥の中から、ぱ、ぱんつが全部無くなっていたんです」
恥ずかしそうに上目づかいで、こちらを見あげた。目じりには涙が溜まっていた。もじもじと足をすり合わせて、居心地の悪そうにしている。
って、もしかして。
「今、はいてないの?」
「……」
私が聞くと、真っ赤にして下を向いてしまった。おいおい、マジか。
ご主人は、寝巻から着替えて、すでに普段の服を着こんでいた。いつもの格式ばった羽衣や頭の花飾りなどは身につけていないが、それ以外はいつも通りのご主人だ。なるほど、無くなったのが下着だけというのは嘘ではないらしい。
いつもズボンだから、はいてなくても傍目から解らないが。
私はため息をついた。
「ああもう、今日くらい昨日の下着で我慢したまえ。仕方ないだろう」
「あ、でも昨日の下着は洗濯に出してしまいましたし……」
「でも、寝るときつけてた分があるだろう」
この命蓮寺で、洗濯物を集めるのはその日の夜と相場は決まっている。寝る分の下着は確保してある筈だ。
ご主人は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「だって、私……寝るとき、はいてませんし」
聞かなかったことにしよう、うん。
「それにしても、また器用な無くし方するね、ご主人」
依然として頬杖は崩さず、流し目で彼女を見やる。
さすがに彼女も黙っていられずに反論した。
「わ、私のドジみたいな言い方しないでください! これは事件です! 明らかに人為的なものですよ! 悪意による犯行です! 捨て置けない狼藉です! 一刻も早く、法の光の元に裁かれなければなりません!」
「とはいっても……外に干してある下着が盗まれたのならともかく、箪笥の中に入れておいた筈のものが無くなるっていうのは、ちょっと考えられないな」
「そ、それなら内部犯です! 犯人はこの中にいます!」
意味を解って言ってるのか、この虎。変な暴走状態に入ったご主人の頬を、ダウジングロッドの先でぐりぐりしてやった。
「落ちつけご主人。冷静になるんだ」
ぐりぐり。頬がぐにぐに柔らかく形を変えるのが面白い。
ちなみに、『S』の方なので、それほど痛くない筈だ。せめてもの慈悲である。
「おふう……。ありがとう、ナズーリン。落ち着きました」
落ち着いたらしい。
ご主人は、もう一度居住まいを正した。しかし、やはり落ち着かないのか、すぐに足をすり合わせて、もじもじし始める。
「そうですね。私たちの中に、そんな卑劣なことをする人なんていませんでした。軽率に仲間を疑ってしまったことを反省しなければ」
反省を態度で示すように、手を合わせて目を閉じた。冷静になってくれたらしい。
一応、私もざっと連中の顔を順々に思い浮かべてみる。
どいつもこいつも、犯行に及ぶような奴とは思えなかった。強いて挙げるなら、命蓮寺に暮らす唯一の男性である雲山か――いや、一番あり得ないな。頑固親父を絵に書いたような彼が、まさかそんな愚行に及ぶなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。
そうなると一番ありそうなのは、あの新入りの悪戯っ子、ぬえだが……。彼女はこないだ悪戯を聖に見つかってこっぴどく『南無三!』されたばかりだ。昨日の今日でまた悪戯を起こすとは考えにくい。と思う。
しかし、だとすると――。
「あっ」
突然、ご主人が声を上げた。思い当たる節でもあったんだろうか。
「やっぱり内部犯なのかい?」
知らず、身を乗り出した。
命蓮寺には、私の知らない性癖を持つ人がいるのだろうか。ご主人は私の問いかけに答えずに、何故か目を伏せて、こちらを気まずそうにちらちらと見始めた。頬を少し赤く染めている。
「ナズーリン……その、そんなに欲しかったのなら、一言言ってくれれば……」
今度は『N』の方で頬を思いきり突き刺した。さすがにご主人も、これには悶絶だ。
ご主人のもんどり打つ様さまを視界の隅にとらえながら、私は考えを巡らす。
しかし――。
ふむ、考えるだけ無駄か。
どうせ、私のやるべきことは一つだ。いくら思考を巡らせてみたところで、私に出来ることなんて、最初から決まっていた。ご主人だって、それを期待して私の部屋に来たんだろう。
私は、おもむろに立ち上がった。
「考えたって仕方ない。その仕事、快く引き受けよう。探すよ、君の望むものを。期限は、他の連中が起きてくるまで。それでいいだろう?」
二本のダウジングロッドを構える。時計を見る。まだまだ時間はある。大丈夫だ。
何とか悶絶から抜け出したご主人は、一瞬キョトンとしたが、
「はい。ありがとうございます、ナズーリン」
そう言って笑った。
「二手に分かれようか。私はダウジングの能力を使って探す。もちろんそれだけで十分見つけられるとは思うが、効率が良いに越したことはない。ご主人も、心当たりの場所があったらそこを当たってくれ」
「わかりました。ではお願いしますね、ナズーリン」
嬉しそうに、ご主人が笑う。
心から信頼してくれていると解る、その笑み。これから、その信頼を裏切ろうとしてるという事実に、胸が少し痛む。
いや、信頼を裏切るわけではない。仕事をきちんと終わらせてから出ていくのだから、裏切ることにはならない。しかし、後ろめたいものを感じているのも確かだった。私は、彼女の元から、逃げていくのだ、これから。
私は、彼女の笑顔の眩しさに耐えられなくなって、そっと目をそらしてしまう。
「それでは、何か成果があがったらここでまた落ちあいましょう」
彼女は私の心の闇には気付かない。その笑顔のまま、襖をあけると、居間を出ていく。
(ああ、その期待には応えるよ)
せめて今、この瞬間だけは。
彼女の笑顔に報いたいと、心から思った。これから、その笑顔を曇らせてしまうかもしれないけれど。
いや、それも傲慢か。
確かに彼女は、私がいなくなれば悲しむだろう。でもそれは一瞬のことでしかない。彼女の周りには仲間がいる。私が居なくてもきちんと廻っていく組織がある。その中に生きている彼女は、きっと私の事も、私が居なくなった悲しみも、すぐに忘れてしまえるのだ。
――ああ、もう。
知らずネガティブな発想になってしまった自分の頬を、両手で叩く。
今は何も考えるな。私は、彼女から与えられた仕事を、忠実にこなせばいいだけなのだから。
だって、私は――今の私は、まだ、紛うことなく、寅丸星の部下なのだ。
私は、指笛を鳴らした。寝ている連中を起こさないよう、出来るだけ小さく。
すると、その音を合図に、灰色の波が、ざざざ、と畳を駆け抜け、私の足元に押し寄せる。私の子鼠たちだ。ざっと十数匹の彼らは、私の周りに集まると、指示を仰ぐように見上げて静止した。
「よし、集まってくれたな。朝早くからご苦労。全員居るか?」
手早く、子鼠たちを目で数え上げる。トム、ジョン、ヘンリー、マクレーン、エリザベス……ん、ローレンスが居ないな。
「おい、エリザベス。ローレンスはどうした?」
ぷるぷる。首を小刻みに左右に振る。知らないらしい。
周りの連中も、一様に首を傾げたり、首を振ったりしている。
全く、あいつは。本当に悪戯好きで奔放で、手に負えないやつだ。まあ、いい。あいつが居なくても何とかなるだろう。それに、今は急ぎの用なのだ。あいつ一匹に足並みを揃えてもいられない。
「すまないが、急ぎの仕事を頼みたいんだ。私のご主人、寅丸星の無くなった下着を見つけてきて欲しい。頼めるかい?」
――ちゅーちゅー、ちち、ちぃー。
十匹十色の鳴き声で承諾の意を表明する、子鼠たち。そして、波が引くように、ざざざ、と散開していく。
それを見届けてから、私もダウジングロッドの柄をしっかり握り直す。
そして深呼吸すると、気合を入れ直した。
今は、まだ、私は彼女の部下なのだ。
だから、彼女の信頼は裏切らない。
さあ、始めよう。
これが、ご主人の為の最後のダウジングだ。
私は力強く、足を踏み出した。
◇ ◇ ◇
「あったし」
最後のダウジング終了のお知らせ。
お目当てものは、押し入れの中にあった。寅丸星、その人の部屋の。
引っ張り出してみると、一抱えはあろうかという、下着の塊がどっさりと出てきた。おそらく、これで全部なのだろう。
「おいおい、こんな簡単でいいのかい?」
最後の試練だった筈のダウジングが、あまりにもあっけなくて拍子抜けしてしまった。私は、下着を抱えたまま、呆然とする。
急いでいたのだから、早く見つかるのは僥倖だ。僥倖なのだが――肩透かしを食らったようで、複雑な気分だ。
それに、こんなところから失せ物が見つかるのは、何とも妙だ。いくら、うっかりもののご主人と言えど、まさか箪笥と間違えて押し入れに下着を仕舞い込んだりはしまい。多分。
ただ、じゃあこの事件が人為的なものかと訊かれても、それはそれで肯定しにくい。犯人は、何だってこんな、すぐに見つかるようなところに隠しておいたのだろう。ちょっと困らせるだけの、単なる悪戯のつもりなのだろうか。ううむ。
――ちちぃー、ちゅー。
「ああ、ごめんごめん。お前ら良くやったな。あとで褒美をやろう」
足元で待機していた子鼠たちを褒めてやると、また一斉に散開して、どこかに行ってしまった。
そうだな。考えていても仕方がない。
私に与えられた使命は、彼女の無くなった下着を見つけること。ただそれだけだ。そして私は、それを達成した。これ以上このことに関して詮索する必要はない。さっさと、彼女に報告しに行こう。どうせ、また居心地が悪そうに、もじもじと足をすり合わせているんだろうから。
彼女のその姿を想像すると、可笑しくて思わず噴き出してしまった。
とにかく、ご主人の元へ。
私は、下着を両手で抱え、部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
そう言えば、ご主人はどこを探しているのだろう。そんなことを、ふと思った。
心当たりのある場所を、と私は言った。しかし、一番怪しそうな彼女の自室には居なかった。となると、脱衣所あたりだろうか。
少しずつ明るさが増し始めた、夏の朝の廊下を、私は浴場の方に向けて歩き出した。
が、ある部屋の前で足を止めた。
「ん? 物音がするな」
中から、何やらがちゃがちゃ音がする。
台所だ。誰かが、そこにいるのだ。まさか、誰か起きて朝餉の支度でも始めているのだろうか。だとしたら、厄介なことになってきた。
中に居る誰かに気付かれぬよう、音を立てずに僅かに扉を開いて、中を覗きこむ。
そこに居たのは。
(ご主人……)
何故かご主人だった。どうしてこんなところに。
自分が今日の朝餉の担当だったことを思い出して、探し物を中断し、料理を始めたのだろうか。いや、待て。それにしては様子がおかしい。私は扉の影に隠れたまま、彼女の動きを観察した。
まず、ゴミ箱の蓋を開ける。ごそごそと探る。がっくりと肩を落とし、ため息を吐く。
次に、今度は戸棚を開けてがさがさと探る。また肩を落とす。
めげずに、違う戸棚を開けて――。
って、まさか。
(――下着を探しているのか!)
んな探し方で見つかるかーい。
何というか――ドジとか物をすぐ無くすとか、そういう次元の話ではなかった。誰が下着を台所で無くすというのだろう。そんなところから見つかったら、見つけた方が逆に焦る。
ご主人は、そんな私のツッコミが籠った視線に気付かずに、今度は大ぶりの鍋の蓋を開けて、中を凝視している。
――ご主人、それの中身は昨夜の『ムラサ船長特製・夏野菜カレー』の残りだよ。栄養バランス満点の、野菜たっぷりの美味しいカレーだよ。君も昨日食べただろう。
全く、どこの世界に、ぱんつを鍋でぐつぐつ煮込む変態が居るというのだろう。居るわけがない、そんな奴。
私は呆れながら、隠れてしばらく彼女の姿を眺めていた。
まるで見当違いの場所を見つけては、やっぱり見つからなくて落胆する。そしてまた、見当違いの場所を探し始める。
滑稽だった。本人は必死なのだろうが、傍から見ていると、思わず笑い出してしまいそうになるほど可笑しな光景だった。
そして、その滑稽さに拍車をかけるのが、彼女の歩き方だ。
未だに、はいてない感触に慣れていないのか、もじもじしながら動きにくそうに歩くのだ。ときに内股になり、ときに蟹股になり。止まっているときも、落ち着きなく足をすり合わせている。生まれたての小鹿だって、もっと様になった歩き方をしてみせるというのに、この虎は。
「ご主人」
いつまでも見ているわけにもいかない。
そろそろいいか、と思って、私は声をかけた。
「ふえっ!?」
しかし、声をかけられたご主人は、いささか唐突に感じたらしい。驚いて飛び上がり、歩きにくそうにふらふらしながら後ろへとよろめくと、テーブルの脚に、踵を引っかけて、そのまま後ろに倒れ込みそうになる。
――危ない!
頭で考える前に、私は駆け出していた。抱えていた下着を放り投げる。後ろに倒れていく彼女の体が、スローモーションに見えた。間に合え、と心に念じながら、私はがむしゃらに突進する。手を伸ばす。彼女の背中を支えようとする。懸命に腕を伸ばして、背中と地面の間に滑り込ませようとする。
――間に合った!
私は、スローな時間の中で、確信する。間に合った、と。背中に手を滑り込ますことに成功した。よし、後は、彼女の体重を支えながら、抱きとめ――抱きとめ? ちょっとまてよ。私の細腕で、彼女の勢いよく落下していく体の衝撃を支え切れるのか? 何より私の体勢。前のめりになって腕を前に伸ばしているけれども、こんな踏ん張りがきかない体勢で、落下していく勢いを殺し切れることなんて出来るのか。彼女を抱きとめられるのか。はは、まさか。そんな芸当、出来る筈がな――。
スローモーションは、そこまでだった。
――ずしゃああ!
もつれ合うようにして、私たちは転んだ。
二人の倒れる音が、台所に大きく響き、続いて私の放り投げた無数のぱんつが、ライスシャワーのように、二人の頭上に遅れて降り注いだ。
ご主人は結局、尻餅をつく形で盛大にすっ転んだらしい。後ろ手を床についている。幸い、私の手がクッションになったおかげで、そこまで衝撃はなかった思う。私はというと、彼女に覆いかぶさるような格好で、前のめりに転んでいた。
「痛たた……ナズーリン?」
尻餅をついて座り込んだ状態で、ご主人が問いかける。慌てて、私はご主人に謝った。
「すまない、ご主人。上手く支え切れなかっ――」
た、と言おうとして。しかし、その途中で、言葉は切れてしまった。
いや、言葉だけじゃない。私の呼吸ごと止まってしまった。息が出来なくなっていた。
もしかしたら、このとき、この世のすべてのものが、呼吸を止めていたんじゃないだろうか。
見つめ合ってしまったのだ。
真正面から、それも至近距離で、彼女の瞳を、覗きこんでしまった。
あの、虎の目を。
今朝と同じように、ただそれだけで私は、金縛りにあったかのように指一本すら動かせなくなってしまう。
そのまま、無言で見つめ合った。視線をそらすことは不可能だった。長い沈黙。凝固した世界。ただ、悠久の時間が、二人の為だけに流れていた。
それはまさしく、二人の世界だった。
誰も起き出して来ない、穏やかで静謐な世界。その中で、二人きり。静寂を邪魔する柱時計の音も、ここまでは聞こえて来やしない。
今この瞬間。この世界には、二人しかいないのだ。そう、思った。
「ナズーリン」
ご主人が、その静寂を震わせた。
その瞬間、シャボン玉のように、膨らんだ世界が弾けた。はっ、と私は正気を取り戻す。そして、私たちの体勢を冷静になって考える。
尻餅をついて、後ろ手をついているご主人。それに覆いかぶさるように、四つん這いになった私。
――これじゃ、私がご主人を押し倒しているみたいじゃないか!
慌てて体を起こそうとした。
「す、すまないご主人、今すぐに退くからっ――」
しかし、その言葉も最後まで言い切ることが出来なかった。
私は、彼女から離れ、立ち上がろうとしていたのに、急に体勢を崩して尻餅をついたのだ。
何が起こったのか解らずに、私は目を白黒させる。
しかし、次の瞬間、背中に感じた暖かい感触で、すべてを理解する。
背後から、優しく私を抱きしめる感触。私は、ご主人に背中を預けた状態で、抱きしめられていた。
ああ、私は、ご主人に引きとめられたのだ。強引に。
さっきまでの、相向かいあった状態とは違う。私は、彼女の顔が見えないまま、肩に両腕を回され、後ろから抱きとめられている。
「……」
「……」
また、無言。
静寂が、また世界を象り始めた。
さっきはじけ飛んだ筈の二人きりの世界は、その弾け飛んだ飛沫のまま、霧になって私たちを包んでいるのだった。きっとそうだった。
ああ、もうすぐ夜が明けてしまうというのに。夜が明ける前に、出ていかなければならないのに。私は何をしているんだろう。
そんな冷静な思考すら、溶けて無くなりそうだった。
「ご主人」
それでも、私は声を絞り出した。
私は、もう、行かないと。
返事はなかった。ただ、少しだけ彼女の腕に力が籠ったのを感じた。
「ご主人、私は――」
「ねえ、ナズーリン」
私の言葉を遮って、ご主人が切り出した。その声が、耳元近くで発せられて、少しくすぐったい。
「さっきは、助けていただいて、ありがとうございます」
さっき? さっき――ああ、転びそうになったのを、助けようとしたときのことか。
「いや、私こそすまなかった。急に声をかけたりして。それに、結局支えきれかった。――だけどね、ご主人。君も気をつけてくれ。私が急に話しかけたのが悪かったとはいえ、あんなふらふらしていたら、私が話しかけてなくても、いつか転んでいたよ」
私はいつものように、彼女に小言を言う。目はまっすぐ前を見たままだから、後ろの彼女の顔は見えない。
「あれ。やっぱり、まだ歩き方可笑しかったですか」
「可笑しかった。というか、あれでちゃんと歩けているつもりだったのかい」
「つもりだったのです。言われないと、なかなか解らないものですね」
あんなに、もじもじふらふらしていたのに、気付かなかったのか。
「あ、それと。ええと、――ぱんつ、見つけてくれたのですね。ありがとうございます」
矢継ぎ早に、ご主人は次の話題を出した。
まるで、沈黙を怖がっているように。私が話し始める隙を与えないように。
「と言っても、すぐに見つかったけれどね。全く、どうして押し入れから見つかるんだ」
「押し入れ!?」
背後で、驚く気配。驚きたいのはむしろこっちの方なのだが、そういう反応をするということは、彼女も押し入れに心当たりがないということだろう。
「どうして押し入れになんか……」
「大方、寝ぼけてでもいたんじゃないのかい」
「失礼な! 私そんなドジじゃありません!」
「どうだか」
軽口をたたいて、少し笑い合った。それでも、また静寂は訪れた。
急ごしらえの話題も底をついたらしく、今度は彼女もおとなしく黙ってしまった。
ご主人が、もう一度、私の肩に回した腕に力を入れ直した。彼女の温もりが、また一段と強く、背中に押し付けられた。
そして、また無言。
二人は依然として動かないでいた。動いたら、私たちを包み込んでいるものが、今度こそ霧散して消えていってしまいそうな気がした。
「ナズーリン」
また、彼女が静寂を震わせた。くすぐったくて、私の耳がぴくぴくと動いた。
「ここを、出ていくつもりなのですか」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。息を飲んで、それから気付いた。
ああ、ばれていたのか。
きっと、私物が無くなって閑散とした私の部屋を見られた時点で、もうご主人には気付かれていたのだ。
あの部屋を見られた時点で、もっと焦るべきだったのだ、私は。
「ナズーリン」
答えを急かすように、私を呼ぶ。
「ああ」
それだけしか答えられなかった。また、私は黙ってしまう。
ご主人が、おもむろに腕を解いた。私の体が自由になる。動ける。私はそのまま立ち上がろうとした。
しかし、彼女は今度は私の頭を抱えた。結局、また動けなくなってしまった。
私の頭に腕を回して、自分の胸に押し当てて抱きしめた。愛おしそうに。
「ねえ、ナズーリン」
「……」
そのままの状態で、彼女はゆっくりと、おとぎ話を語るように、優しく、話し始めた。
「私は、貴方が居ないと、寂しい」
「……大丈夫だよ。この命蓮寺にはたくさんの仲間がいる。寂しくても、そのうち忘れるさ」
「今日みたいに、無くし物をしたら、誰に頼めばいいんですか」
「大丈夫。君は探し方を知らないだけだよ。ゴミ箱を漁ったりとか鍋を覗いたりとか、そんな見当違いのところを探してばかりいるから、今まで大事な物が見つからなかっただけさ。ちゃんと探せば、きっとすぐに見つかるさ」
「貴方が注意してくれないと、私は歩き方すら分からなくなってしまうかもしれない」
私は、ご主人の、ふらふらした歩き方を思い出す。
あの頼りない歩き方。果たして、あの歩き方で、彼女は真っ直ぐ歩いていけるのだろうか。辿り着くべき場所に、辿り着けるだろうか。テーブルの脚に躓いて、転びそうになったりしないだろうか。
「大丈夫だよ」
多分、大丈夫なのだろう。
「優しい聖がいる。しっかり者の一輪がいる。ちょっと頑固だけれど、力持ちで頼りになる雲山がいる。幽霊の癖に明るくて元気な船長がいる。それと、見てるだけで楽しいぬえもね」
私が居なくても、誰かがご主人を支えてくれるのだろう。そんな予感、いや確信があった。
「でも、でも……」
額に回された腕が、ぎゅっと締められる。今にも泣き出しそうな気配。全く、本当に頼りないな、この主人は。
私は、言ってやった。
「ご主人、君は強いよ。これからも、十分毘沙門天の代理としてやっていける。保証するよ」
そうだ、彼女は強い。
なんたって、虎だ。あの、自然界のヒエラルキーの頂点、虎だ。
鼠なんかよりも、よっぽど強い。
すぐに逃げてしまう臆病な鼠なんかよりも、よっぽど。
私は、彼女の腕に手をやる。少し力を込めただけで、その腕は解けていった。私は、優しく、丁寧に、その腕をどかしていく。
私は、彼女から解放されると、また向かい合った。彼女は、目を伏せていた。今なら、虎の目に見つめられずに居られると気付いた。チャンスだった。
「ミッション・コンプリートだ。私の仕事は終わったよ。だから、ご主人。お別れだ」
また、あの目に見つめられないうちに、一気に言い切った。そして、立ち上がってそのまま踵を返す。
一緒に散らばったぱんつを集めてあげられないのが少し心残りだが、仕方ない。このままここに居たら、私は駄目になる。そんな気がした。
「――仕事」
何か、呟いた声が聞こえた。それから、背後で立ち上がる気配。
「ナズーリン!」
突然、大声が上がる。馬鹿ご主人、誰かが起きてきたらどうするんだ。
私は、諌めようと振り返る。
「大変です、ナズーリン! 無くし物をしてしまいました!」
懸命に、彼女は声を張り上げていた。
私は、彼女が何を言おうとしているのかを理解した。
仕事。そう、私にダウザーとしての仕事を依頼すれば、私がここに留まってくれると思っているのだ、彼女は。
馬鹿馬鹿しい。さっきの仕事だって、結局、かかった時間なんて四半刻にも満たなかった。それより難しい仕事だって、私の腕なら大した時間をかけずに完遂してしまうだろう。
そんな一時の思いつきで、時間稼ぎなんて出来ないんだよ、ご主人。
どんな難題を吹っ掛けられたって、私は――。
「『幸せ』です! ナズーリン、私の『幸せ』を見つけてきてください!」
時間が、止まった。
音がまた止んで、世界に静寂が満ちた。
でも、さっきまでのような静寂ではない。ただただ呆然とした、静けさ。
あんまりにもあんまりな彼女の言葉に、呆れ返ってしまったのだ。私も、二人を包んでいた世界も。
呆れて、そのまま固まってしまったのだ。
いつの間にか、窓から朝の日差しが差し込み始めていた。
呆れるほど馬鹿らしい世界に、光が満ち始めていた。
ああ。
二人の世界に、光が満ちる。
「……く、あはははは! 何だい、そのファンタジックなお願いは! 夢見る子供かい?」
「笑わないでください! これでも一生懸命考えたんですから!」
「それにしても、『幸せ』って……うくくく」
「ナズーリン!」
ご主人が、怒りと恥ずかしさで顔を沸騰させている。笑うなって言ったって、それは無理な注文だろう。だって、そうやって怒る、彼女の頭には――。
――ピンク色の可愛らしいぱんつが乗っかっているのだから。
どうして今まで気付かなかったのだろう。そんな滑稽な状況に。
私がまき散らしたときに、偶然彼女の頭に落下したのだ。見れば見るほど、笑わずにはいられない光景だ。ぱんつを頭に乗せながら、「幸せを探してください」だなんて、どんなに厳しい修行を積んで悟りを開いた聖者でも、笑わずに居られるものか。
私が、指を差して笑っていると、ご主人もさすがに気付いたのだろう、頭に手を伸ばした。そして、そこに鎮座しているものを取り上げる。目の前にそれを広げてみた。そして、それが何であるのか気付いて――。
あ、もっと赤くなった。
茹で蛸のような真っ赤な顔をして、涙目でこちらを睨んだ。その様子すら、もう私には笑いの種にしかならなかった。
「もう、笑わないでください! ――大体、ナズーリンだって、同じじゃないですか!」
え?
私は、そこでやっと笑いを止めた。入れ替わりに、嫌な予感をひしひしと感じた。
おそるおそる、頭の上に手を伸ばす。柔らかい、布の感触。
取り上げると、目の前でその布を広げてみた。
――わあ、黒の紐ぱんつだあ。
って私もか! 私も、今の今まで頭の上にぱんつを乗っけたまま喋ってたのか!
想像してみた。
向かい合って静止する二人。
背中を抱きしめながら、静止する二人。
カッコ良く去ろうとする私、それを呼びとめるご主人。
その頭の上には、常にぱんつが――。
うわあ、台無しだあ。いろいろと。
「ふふ、ふふふふ」
堪え切れず、ご主人が笑い始めた。
くそう、笑うなよ。笑うなって――。
「あ、あははは」
あ、無理だ。これ、無理だ。
笑うなって、そんなの絶対無理。
「ふふふふ」
「あははははは」
笑い声が、台所に満ちていく。二人の世界はとうに壊れてなくなり、私たちの笑い声が塗りつぶしていった。
どたどたどたどた……。
遠くから、せわしない足音が聞こえてくる。
ああもう、だから騒ぐなって言ったのに。誰かが起きて来ちゃったじゃないか。
もうすぐ、みんなここに辿り着いて、この光景を目の当たりにするのだろう。この異様な光景を。
それを見て、みんな笑うだろうか。呆れて絶句するだろうか。
とりあえずはっきりと言えることは、今日中にここを出ていくのは、無理だろうということ。
まあ、いいか。だってさ、――。
「ナズーリン」
ご主人が、私を真剣な眼差しで見る。いや、真剣じゃない。半分、まだ目が笑っていた。格好つかないなあ、もう。
「まだ、答えを聞いてません」
「ああ、何だっけ?」
ちょっと意地悪をしてやる。とぼけたふりしてはぐらかして、もう一度、あの恥ずかしい台詞を言わせてやるのだ。私は口の端がつり上がっているのを隠さずに、彼女を見つめた。
でも、彼女は、恥ずかしがったりせずに、言い切ってみせた。
さっきの台詞をはっきりと。
私を、あの虎の目で、見据えながら。
「ナズーリン。私の幸せを、一緒に探してください」
何という無理難題だろう。
どこにあるのかも、そもそも彼女の幸せがどんなものなのかも、皆目見当もつかない。
それでも、引き受けるしかないだろう。
何しろ、その虎の目で睨まれたら、鼠は逃げられなくなってしまうのだから。
だから、私も言ってやるのだ。彼女の、虎の目を見つめ返しながら。
「その仕事、快く引き受けよう。探すよ、君の望むものを。私は君の部下だからね」
気付いたら、台所の入口に、命蓮寺のみんなが集まっていた。
面白そうなものを見るように、遠巻きに覗く、いくつもの顔。結局、みんな仲良く起きてきたらしい。口々に何か言い始めて、騒がしいことこの上ない。
私たちは、顔を見合わせて、笑った。
私は力強く、足を踏み出した。みんなの方へ、彼女と一緒に。
――さあ、始めよう。これが、一世一代のダウジングだ。
――了――
とても面白かったです!
しかし戦利品は返しておきなさい。
おまけにナズーリンに対してはちょっぴり我侭な寅丸 星ちゃん。
卑怯だなぁ、君は。
幸せを見つける、というか、幸せでいる為には当然ナズも一生一緒に居なきゃ駄目じゃないか。
ホント、卑怯だよ。
文章も読みやすかったですし、すらすらと抵抗なく読めました。
構成もうまいなあー、とパルパルしています。
面白かったです。
「あなたがわたしの宝物です」とどっちがくさいだろうかw
あとタグに「ローレンス」を追加すべき。
こんなこと言われたらナズじゃなくても惚れるに違いない
同じ展開のバッドエンドを続けて読んだのでハッピーエンドのこの作品に救われました
そして、ローレンス……、良い仕事をする……!