きっかけはとても小さな、些細なことだった。
そう、それは数日前の食事の時である。
「……んむ?」
ぐみ、ぐみ。
私、古明地さとりは奇妙な食感に違和感を覚えていた。
それはまるで、グミを噛むような妙な弾力を持っていた。そのせいか中々歯で噛み切ることが出来ない。
本日のおゆはんはごはん、マッシュポテトと少し大きめな鶏肉の付け合わせ、それにキャベツを少々の予定だったはず。
少々栄養バランスが悪かったかもしれないが、余り物の食材をフルに使った結果だ。
……しかし、このメニューの中からこんな食感の食べ物はあったかしら……?
「どうかしましたか、さとり様?」
きっと私はそれはもう微妙な表情をしていたのだろう。眉を寄せてるのが自分でも分かった。
隣の席に座っていた燐が不思議そうに声をかけてくる。
そういえば、今日の料理当番は燐と空の二人だったはず。もしかしたら燐はこの食感の正体が何か知っているのかもしれない。
私は、とりあえず今口の中に入っている物の咀嚼を急ぐことにした。
「ん、んぐ。……うむ、ん……」
ぐみ、ぐみ、ぐにぐに。……ごくんっ。
「……ふう」
「何すっきりした顔をしているの、燐。あなたに聞きたいことがあるんだけど」
「飲み込もうと口を必死にもごもごさせるさとり様かわいいです」
「燐」
「あ、飲み込む際にきゅっと目を閉じるところも良かったなぁ……はあ。ああ、本当にさとり様はもう、罪なお方なんですからっ」
「……主人の話はちゃんと聞くように」
「にゃん!?」
ぺちこ、と軽く燐の頭をはたく。
どうもこの燐、普段は底抜けに明るく真面目に仕事をこなす私の自慢のペットなのだが、たまにこうしてトリップしてしまうことがあるらしい。
しかも、その度の過ぎたトリップの対象は主に私だ。試しに一度心の中を読んだら洪水のように燐の考えが雪崩れ込んできたので、心に防波堤を敷きどうにか防いだのだった。……いや、ただ単に燐を別の考えに誘導させるだけなんだけど。
はたかれた燐は少し涙目になりながら、じぃと私を見つめ返していた。
「うう、ひどいですよさとり様。あたいがもう少しでさとり様妄想ダイヤリーに新たな一ページを増やそうとしていたのに……」
「何危険なことを暴露していますか。大体私はここにいるじゃない」
「今ここにある普段より、一瞬一瞬に出るかわいらしい表情とかの方があたいはそそると思うのです!」
「……燐。あなたに屋上前歯のトラウマを見せてあげましょうか?」
にこりと微笑みながら私は言うのだが、心境はにこりと笑えるほどそんなに穏やかではなかった。
むう、私が教育方法を間違えたのかしら……。地底のムツゴロウさんというあだ名を持つこの私が。
燐がこんな風に育ったのは恐らく私の放任主義による賜物なのだが、まさかこんな成長をするとは思っていなかった。
馬鹿と変態は紙一重、である。
……あれ?何か少し違うような。
「にゃはは、冗談ですよ。それで一体どうしたんです?」
「……もう」
聞き慣れた燐の声で、私は現実に引き戻される。
考え込んでいた私を見ながら、燐はいつものように猫っぽく笑っていた。
ころころ表情や行動を変えるそのきまぐれ様は、まさに猫そのものだった。……はて、何か違和感。
まあ、それはそうとして。
本題に入る前に落ち着こうと一息ついた後で、私はゆっくりと話し始めた。
「燐。今日の食事で、何か変なものを混ぜましたか?」
「変なもの? といっても、何か変なのとかありましたっけ?」
「なんというか、ゴムみたいな食感の食べ物があって。まあそれなりに美味しかったのだけど」
夕食の皿を指さしながら、私たちはそれぞれの料理を見つめてみる。
ごはん。……まさか米粒に時限爆弾がしかけてるとか。さすがにそれはないだろう。
マッシュポテト。さっくりほわほわのこれは、地霊殿の皆に人気がある一品。これも美味しかったから違う。
キャベツ。千切りして皿にのせただけの簡単なもの。……まあ、これにあんなぐにぐにした食感はないだろう。むしろあったら食べてみたいくらいだ。
となれば、残るはこれくらいしかないだろう。
「鶏肉、ですか?」
「ええ、鶏肉よ」
これだ。あのぐにぐにした謎の食感を生み出していたのは。
確かに表面はところどころ黒く焦げていて、見る分には普通に見えるのだが、何かが違うのだ。
外見からでは判断できないと見た私は、机の傍に置いてあったペーパーナイフに手をつけ、ぎゅっと柄を握りしめる。
燐は私を見ながら、一体何をするつもりなのだろうと次の行動を待っていた。
「……まあ、見てなさい燐。すぐに原因が分かると思うわ」
私は燐にそう言うとペーパーナイフを鶏肉に通し、ステーキを切るかのように断面を作り始めた。
肉を切る感触は妙にかたい。切っていくうちに、私の疑いが確信へと変わっていく。
やがて、少しもしないうちにすとんと小気味の良い音が部屋に響く。鶏肉がようやく切れたのだ。
切った後の断面を私はじっと見つめた後、燐に鶏肉を見せてみた。
「……うーわ、これはやっちゃってるなぁ……」
すると燐もすぐに察したようで、ぽんと自分の手を頭に当てている。
まさに「やっちゃった」を表しているポーズだった。某ポップスの帝王のポーズではないことを追記しておく。
鶏肉の断面は―――ピンク。
つまるところ、まだ中まで火が通っていない、いわば生焼けの状態だったのだ。
それを見た私は、もう我慢の限界だった。
がたんっ!
「……この料理を作ったシェフは誰だあっ!」
「さ、さささとり様っ、どうか落ち着いてくださいー!」
「これが落ち着いていられるもんですか! お肉は弱火とかでちゃんと中まで焼いて、火をしっかり通すようにと家庭科の授業で習わなかったの!?」
「あ、あたいはキャットフード派でしたから……」
でもさすがに家庭科はないだろうなーと頭の隅で考えながら、私はぷーっと頬を膨らませた。
お肉というものは確かに美味しいのだが、それはちゃんと調理をしたものである。つまり、適切な調理をしないと大変なことになる時もあるのだ。
その中でも一番やってはいけないのが生焼けである。
生のお肉の中にはたくさんの細菌がいて、それらを熱でしっかり殺さないといけない。
中には人間に感染し、病気の原因となる細菌もいるからだ。
表裏が焦げたからさあ食べよう、ではなくちゃんと中まで焼いてようやくお肉が食べられるのである。
「……ともかく。燐がそんなに慌てているということは、恐らく空がこれを作ったのね」
「た、たたた確かにおくうがこれを作ってましたけど、普通に時間かけてましたよ!?」
「燐。話すときはせめてこっち向いて話してくれると嬉しいわ」
私はそう言ったけれども、燐は視線を逸らし、吹けない口笛をひゅーひゅー吹いている。
これは……怪しい。実に怪しい。見え見えすぎるところがさらに怪しさに輪をかけていて。
燐は何かを隠している。そう思った私は、燐の心を読んでみることにした。
まあきっと、料理の時間に何かやらかしたのだろうな……と、大体分かっていたのだが。
~~~~~はじまり~~~~~
あたいがいつものようにソファでごろごろしていると、親友のおくうが声をかけてきた。
「おくう、そろそろ夕飯作る時間じゃない?」
「……んー? あ、そうだね。もうそんな時間かぁ」
言われてみれば時計は既に六時と半刻。
そういえば今日の食事当番はあたいとおくう。これを忘れちゃ皆が食事出来ない。
献立なんだったかなぁと思い出しながら、あたいはソファから跳ねるように起き、そのままキッチンに入る。おくうもそれに続いてきた。
「それにしても、おなかってどうして鳴るんだろうね?」
「あはは、あたいに聞かれても分かんないよ。ただ単におくうのおなかの虫が騒いでるだけかもしれないし」
「へー、なるほどー……ぉ?」
分かったのか分からなかったのか、おくうは微妙な返事を返してくる。文字だけではよく分からないかもしれないが。この微妙なイントネーションで分かってほしい。
あたいはそんなおくうを尻目に、がさがさごそごそと食材を矢継ぎ早に取り出していく。
今日の献立は確か、鶏肉にマッシュポテトとキャベツ。後は白いご飯だったはず。多少献立を間違えても問題はない。むしろ稀にそれで美味しいメニューを作り出せたりするのだ。
と、あたいが食材を並べていると、不意におくうが首を伸ばしてきた。どうやらシンキングタイムは終了したようだ。
「おー。お燐、今日は何を作るんだっけ?」
「ん? 今日はこんな感じ。ポテト以外は割と簡単に出来るかな」
「なるほど! じゃあ今日は私が鶏肉焼いていい?」
「ん、いいよー」
いつもはあまり手伝わないおくうだったけれど、今回は珍しくやる気を出したらしい。
そんな様子を横目で見ながら、あたいはおくうに鶏肉を任せることにする。おくうはよし来た、と大分張り切っているようだ。
……それにしても、鴉であるおくうが同族である鶏の肉を焼くというのも不思議な話である。ゆで卵と同様単に気が付いてないだけなのだろうか……。
でも、あたいが心配するのはそこじゃなかったんだ。
本当の問題は、大抵後から噴出するものである。
おくうに鶏肉を任せて十分後。あたいはご飯を炊こうと窯を用意していた時、事件は起こったのだ。
じゅばばばばばば! ばりばりばりばりぃ!
「わひゃんっ!?」
突如、物凄い音が向こうの部屋から聞こえてきたのだ。
耳をつんざく様なその音に、あたいは一瞬体を硬直させてしまった。
確か、向こうの部屋にはおくうがいたはず……。
そう思うより早く、あたいはいうことを効かない体を無理やり動かすようにして、その部屋の方へと走っていく。
一体全体おくうは向こうの部屋で何をしようとしているのか。そもそもどうすればそんな音が出るのか。
疑問は尽きなかった。
「……おくう!? 一体何をしたのさ!」
疑問を吹き飛ばすために、あたいは大声をあげながら部屋の中へと入る。
が、目の前に広がるその光景に、思わず目がまんまるになってしまった。
燃えてる。
すっごい燃えてる。
フライパンから天井まで届きそうなくらいの勢いで火が出てる。
それはまるで地上で見た中華料理みたいだった。……いや、中華料理でもここまでダイナミックな調理法はないだろう。
そして、そのバーニングフライパンの取っ手を握っていたのは、他ならぬおくうだったのだ。
なんなんだあんたは。あんたは昔一時期流行っていた料理の鉄人ことアイアンシェフなのか。
おくうの表情は、満面の笑顔。それはもう憎らしいぐらい、明るい笑顔をしていた。
そして、おくうは高らかと自分のすべきことを復唱したのだった。
「鶏肉は私に任せろー!」
「やっ、や、やめてええぇぇぇ―――――っ!?」
………………。
「……これ、どうするのさ」
「うにゅー……。鶏肉ちょっと黒こげ……」
「とにかく、これくらい焼いたなら十分すぎるでしょ。よく炭化しなかったよ、ホント……」
「お燐ー。これ、食べられるのかな……?」
「分かんない。とりあえず、これはお皿に乗せとくよ?」
~~~~~おわり~~~~~
「……あれだけ焼いたのだからきっと中まで焼けているだろう……ですか」
「は、はい。あれだけ焼いたならいくらなんでも中身も焼けてるんじゃないかと思いまして……」
「どうして切って確認しませんでしたか」
「そ、それはー……あまりのことで気が動転しちゃって、そのー……」
「どうして私を呼びませんでしたか」
「うう。今日の料理当番はあたい達でしたから、さとり様の手を煩わせるわけにはいかないって……」
「地霊殿が全焼する可能性があったのにですか」
「……ごめんなさい(敬語のさとり様、凄く怖いぃ……)」
燐に一方的な押し問答をしながら、私は軽く頭を抱える。
大体の事態は理解できた。
つまり、油をたっぷり入れた上で空が核融合の力を使い、鶏肉を焼こうとしていたのだ。
まだ準備中だったのでフライパンから火が上がるだけで済んだようだが、一歩間違えれば大参事だっただろう。
いや、恐らく片足は危険ゾーンに踏み込んでいたに違いない……。
「はあ。……とにかく、今度からちゃんと気をつけるのよ。今回は未遂で済んだから良かったけれど……」
「はい。おくうにもよく言いつけておきます……」
しゅーんと耳を下にして、項垂れている燐。
そこまで背負い込む必要はないと思うが、燐は昔からこういう子なのだ。何でもかんでも一人でどうにかしようとする。
だが、あんまり燐だけを責めるのもお門違いだろう。そう思った私は、ふっと今気がついたことを質問することにした。
「……そういえば、空はどこにいるの? 私がここに来たときからずっと見かけなかったけど」
「ああ、はい。おくうのやつ、ちょっとおなかが痛いとか言ってまして……。あんまり急いで夕食を食べたからじゃないかと思うんですけど」
「……!」
燐の言葉に私は顔を上げる。私の聞き間違いでなければ、燐は私にとって聞きたくないことを言ったはずだ。
おなかが痛い、生焼けの鶏肉。
そう、この二つのキーワードが意味する符号は一つ……!
それに気が付いた私は、おずおずと燐に聞いてみる。この質問の返答次第によって、私はこれからどう動くかを決めねばならない。
「……おくうはその鶏肉を食べたのよね?」
「え? あ、はい。それはもうぺろりと平らげてましたが」
「……あなたは?」
「……にゃ?」
「燐は、その鶏肉を食べた?」
私はじーっと燐を上目づかいで見つめた。燐も私の緊迫した様子に気づいたのか、少し真剣な表情になっている。
そして、少し悩むそぶりを見せた後、燐はほそぼそと呟くように言った。
「えっとー……食べちゃい、ましたよ?」
……ああ。
これは少し、まずいことになったかもしれないわね……。
そんな私の如何にもやっちゃったわねあなたという視線を感じたのか、燐は不安そうに声をかけてくる。
「あ、あの。さとり様っ? 一体それがどうしたっていうんですかっ?」
「どうもこうもしないわ。ただ……」
「……ただ?」
この何も知らない一匹の無垢な猫に教えてやらなくてはならない。
そう、肉を生焼けで食べたらどうなってしまうのか。そういうことを。
……あの、辛く苦しい経験を。
「……燐。私から言えることは一つ。あなた明日からしばらく、トイレとベッドがお友達になるわよ」
「は、はいっ? さとり様、それってー……」
口ではそういうものの、さすがに燐も気が付いたらしい。顔がみるみる青くなっていくのが分かる。
私はそんな燐に無情にも追い打ちをかけるように、冷たく言い放ったのだった。
「……あなた、食中毒になるわ」
……ということが、この前あった。
そして現在、私は空の部屋の前にいる。
手持ちのアイテムは、氷嚢、タオル、缶詰、後は水。
そう、この装備は明らかに病気の人専用の装備。……後は言わなくても分かるでしょう。
「空、起きてる? お見舞いに来たわよ」
かたん、と一声かけながら部屋の扉を開ける。と同時に、むっとした熱気が出てきた気がした。
まず目に止まるのはベッド。ただし布団がこんもり膨らんでいて、ところどころからぼさぼさになっている黒い髪がちょろりと出ている。
「……うにゅ~……」
ちょっと待っていると、すぽんと布団から顔を出してきてくれた。
勿論中にいるのは空である。しかし、おなかが痛いと燐が言っていた割にはどうも暇そうにしているようだ。
まあそれはそうだろう。普段が普段動きっぱなしの空にとって、動けないのは色々と苦痛だろう。
現に、彼女の心の中は退屈の一言である。寝たらそういった思考の類はないのだが、今はちょうどお昼時。寝ようと思っても寝れないのである。
「随分と暇そうにしているわね?」
「うゅ。あ、さとりさま! あれ、いつの間に来てたんですか?」
「……あら、気が付いてなかったのね。たった今来たの」
だが、やはり病人らしい。ぼんやりしていて話を聞いて無かったようだ。
食中毒の際は単に腹痛だけではなく、風邪や下痢などといった症状も同時に出てくる。
因みに彼女の場合は発熱のみが強いらしく、腹痛も軽い様子だった。多分体の作りが違うのだろう。
とにかく、病気持ちにしてはよく動く空からそう判断した私は、空にゆっくり語りかけるようにして聞いてみた。
「体の調子はどうかしら? 何か食べれそう?」
「そうですねー……熱はこれっぽっちもない気がするんですが。多分食べれますよ」
「みたいね。かといってあんまり重たいものを食べさせるわけにはいかないから……はい、これ」
ことんと机の上に缶詰を置くと、空は興味津々にそれを眺めてきた。
届かないのにも関わらず手をひょいひょいと伸ばしてるのは、おなかが空いている表れだろうか。
くすっと小さく笑いながら、空の頭を撫でる。布団の中に入ってたからか少し熱っぽかった。
「……あなたはいじらしいわね、空」
「あう。……それでさとりさま、それ何が入ってるんですか? ラベルとかはっ付けてないみたいですけど」
「ふふ……じゃあクイズにしてみましょうか。何だと思う?」
私の問いかけに少しは時間をかけるかと思ったが、空は開口一番、元気よく答えてくれた。
「ゆでたまご!」
「……。……私が察するにそれは多分うずらの卵よ。答えは……はい、正解はこれ」
空らしいと言えばらしい答えに苦笑しながら、私はきこきこと缶を開けて見せてやる。
勿論中のシロップをこぼさないようにしながら、見えるように小さく傾けて。
すると、中を覗き込んだ空の顔が何だかぱあっと明るくなった気がした。……いや、心の中曰く嬉しさでいっぱいになっている様子。
全く、本当に素直だ。これだけ喜んでくれたなら持ってきた甲斐があったと、私はそう感じていたのでした。
まあ私の考えてることなんてどうでもいいはずなので、閑話休題。
「あー……みかんの缶詰だったんですか。これ、貰っちゃっていいんですか?」
「勿論いいわよ。食欲はあるみたいだし、この際栄養は摂っておかないとね」
「わー♪」
ぱたぱたと翼を動かす空を尻目に、私は早速みかんを食べさせようとする。
が、いざ食べさせようとしてあることに気がついた。スプーンを棚から忘れてきてしまっていたのだ。
しかも引き返そうにも空のきらきらした視線を感じ、退くに退けない状態である。何せ彼女の心は既にまだかな、さとりさまはやくはやくっと物凄い期待をしているのが分かっていたからだ。
……まあスプーンはなくても食べられるし、仕方ないか。
そう思いながら、私は手でみかんを一つつまんだ後、空の顔の前へと持っていく。
勿論お決まりの言葉も忘れずに、だ。
「はい、空。あーん」
「あーんっ♪ ……むぐ、んむんむ……」
もぐもぐと感触を確かめるようにしてみかんを味わう空。シロップも相成って美味しいことだろう。
実はかくいう私も実はみかんが食べたかったのだが、さすがにこういう状況では食べることが出来なかった。
今はあくまでも空の容態を優先すべきだし、自分の食欲などどうでも良いのだ。
……でも、後で自分用の缶詰を買っておこうと思ったのは私とあなたの秘密よ? 古明地さとりとの約束です。
それはともかく、どうやら病気の体にみかんは絶大に来るものがあったらしい。空は両手を頬にあててぷるぷるしていた。
「……ん~っ♪ 甘酸っぱくてとっても美味しいですっ!」
「そう、それは良かったわね。まだおなか空いてるでしょう?まだまだあるからいっぱい食べるといいわ」
「はい、いただきますー!」
わーっと両手を小さくあげて喜ぶ空。このまま行けば病気もすぐに治ってしまいそうだと、私は少し安心した。
空は回復力の早さに定評があるし、何より見てるこっちが元気になるくらいの魅力を持っている。
例えばみかんを口元に運ぶと、すぐさまぱくんと口を開けて食べてしまう。別にみかんは逃げも隠れもしないのに、である。
全く、一々かわいらしいものだ。私もついつい彼女の行動を微笑ましく見てしまっていた。
「……くすっ」
「ほぇ、さとりさま? 何か私おかしいことしました?」
「いや、ふふ。だって私がみかんを口元に運ぶと、あなたすぐさま食べちゃうんですもの。それが何だか雛のエサやりみたいだったから」
「あー。だっておなか空いてますもの、早く食べたいじゃないですか」
「だからって、そんなにがっつかなくてもみかんは逃げないわよ? もっとゆっくり食べなさいな」
「はーい」
そんなことを話しながら、みかんでつんつん空の口をつつく。
勿論期待通りにぱくんと食べてくれた。しかし今度は少しだけ慎重になっているようで、もむもむと何回か噛んでいる。
まあ見たところ元気そうだし、明後日くらいには元に戻っているだろう。そう思ったのだった。
「はい、あーん」
「あーん、あむ。……ぴーぴー♪」
「あら、本当にヒナになっちゃったみたいね? もっと食べさせてみましょうか。はい、あーん」
「んむむ。……ぴよぴよー」
「……ひよこ?」
そんな小芝居のようなことをしていたら、いつのまにかみかんが半分くらいになってしまっていた。
まあこれだけ食べさせたら十分だろうし、そろそろいいだろう。
ということでこのみかんを最後ということにして、空の口元へと持っていく。
でも、最後のみかんはちょっとだけ違っていた。
「はい。これが最後だからしっかり味わってね」
「分かりました! んー……あむっ」
「……まあ」
ぱくんと、私の指まで口に含んでしまったのだ。
ちょっと予想だにしない出来事だったが、とりあえず空に聞いてみる。
「……美味しい?」
「ぺろぺろ……ぷあ、はい! さとりさまの指も美味しかったですっ」
「もう、だからって指ごと舐めることはないでしょう。それに指にシロップがついてただけだから」
「でもさとりさまの指甘かったですよ? シロップだけの味じゃなかった気がしますし」
「……もう、変なこと言わないの」
つつーっと指が糸を引きながら、空の口から離れていく。口の中はほんのりあたたかくて、ちょっと舌で舐められてしまったようだ。
微妙な気恥ずかしさを覚えながら、濡れてない方の手で頭で撫でてあげる。
空は空できゅうっと目を閉じた後、すぐにほにゃっとした表情に変わった。どうやら私の手が心地良いらしい。
「にゅふー……さとりさまぁ」
「ふふ、これだけ元気なら心配いらないわね。私は燐のところに行ってくるわ」
「分かりましたー。あの、お燐大丈夫なんですか?」
「うーん……まだ分からないわ。症状もあなたのものより重いし、これからが正念場ね」
「そうなんですか……分かりました。私はもう大丈夫だから、お燐のところに行ってやってください」
「ありがと、空。それじゃあ安静にしておくのよ?」
最後に髪を少しくしゃくしゃに撫でた後、そっとベッドから離れていく。
空は私の手が恋しかったのかちょっと寂しそうな表情をするが、大丈夫ですよと言うように笑顔で見送ってくれた。
むしろ「私のことはいいから早くお燐のところへ」という心の声が、かえって私を安心させたのだった。
例えどんな姿になろうとも、やっぱりあなたはあなたのままなのよね、と。
空の部屋から出た後、私は燐の部屋へと向かう。
先ほどの会話の通り燐の容態は重い。熱が少し高く予断を許さない状況だ。
彼女は空ほど体が頑丈ではないので、抵抗力がそんなにないのだ。といっても人間とは比べ物にならないくらい丈夫なのだが。
「……大丈夫かしら。これ以上症状が重くならなきゃいいけど……」
そう心配しているうちに、部屋の前についた。
私は来たということを告げるためにこんこんと何回か扉をノックする。しばらくすると、中から弱々しい返事が返ってきた。
「ん……さとり様?」
「ええ、私よ。今大丈夫かしら?」
「はい、大丈夫ですー……」
燐の了承を得たので、私は扉を開けて中へと入っていく。まあダメだと言われても入るんだけども。
部屋の中はいつも通りに見えるが、やはり空の部屋と同様どこか暑い。
そして一番違うのは燐の様子。いつも元気で明るい彼女は、今現在ベッドの上で苦しそうにしている。
発熱だけではなく、腹痛も誘発してしまったらしい。物事を考える余裕すらないようだ。
「はぁ、はぁ……」
「……どう? 少しは体調良くなった?」
「はい、少しは……さっきに比べれば良くなったような気がします……」
燐はこう言うが、実際は違う。
体調は良くなるどころか、悪くもなっていない。平行線を辿っているのだ。
だが、実際こういった状況が一番きつい。
いつになったら良くなるのか。いやもしかしたら悪くなってしまうかもしれない。そんな宙ぶらりんの状態。
そういった状態の中病魔と闘うのは、色々と負担が大きすぎるのだ。燐の回復力と精神力との勝負となる。
予断を許さない状況の中、私はベッドに腰掛け手で熱を計ってみた。……灼熱地獄のように、かぁっとした熱が返ってくる。
現在の燐も怪しい状態である。自慢の耳もぴくぴくとしか動かず、尻尾も彷徨うように宙をふらふらしていた。
「……燐」
ずきり、と心が痛む。
どんなに彼女が辛くても、私にはこうやって見守ることしか出来ない。
そして、私は覚りだ。今こうしてる間も燐の辛い、苦しいという声が聞こえてくる。
何もしてやれないのか。こうして心は読めるくせに、目の前にいるこの衰弱しているペットの回復力に全てを託すしかないのか。
こんなんじゃ、私は……。
「……ダメ、ですよ」
「えっ?」
「さとり様は悪くないんです。ですからどうかご自分を責めないでください……」
「……燐、どうして」
私は呆然と彼女を見る。燐は相変わらず息を荒げていて苦しそうだが、どこか私の身を案じているようだった。
燐は火焔猫でなおかつ火車という妖怪である。当然私のような読心は持ち合わせていない。
だからこそ不思議なのだ。なぜ、燐は私の心を読むことが出来たのか?
しかし、私が原因究明に頭を働かせようとするより先に、燐の方が種明かしをしてくれた。
「にゃはは。あたいはもうずーっとさとり様の傍にいたんですよ? ご主人様が何を考えてるかはうっすら分かりますって」
「……私、そんなに顔に出てた?」
「いえいえ、ほんのちょっとです。でも今回のは分かりやすかったですよ? そんなに俯き加減で悲しそうな目をしてたら、おくうにだって分かっちゃいますから」
つまり、一言で言うと顔に出ていたのである。燐はよく私達を観察しているからこそ、こうして気づけたというわけだ。
……それにしても、そこまで顔に出てたのか。これでは私は古明地さとりではなく古明地さとられになってしまうではないか。
でも、こうやって誰かに自分の心境を言い当てられるって、なんか新鮮……。
と、私が軽いトリップ状態になりそうなところで、燐は言葉を続ける。この猫中々出来ているようだ。
……まあ、これも私が育てた賜物なんだけど。
「今回の出来事はあたいの不得手ですし……さとり様が傍にいてくれるだけで、あたい嬉しいですよ」
こうして無理してでも笑いかけてくれる、そんな燐が私は好きだった。
ぽんと燐の頭に手を置き、労るように髪をかき分けていく。若干汗で濡れており、彼女がこうしている間も病魔と闘っているのだと分かった。
何か。私に出来ることは、あるだろうか。
「燐。とりあえず氷枕を持ってきたから、少し頭をあげさせて貰うわね」
「ん、ありがとうございます……」
私は燐の後頭部に手を入れると、出来るだけ負担にならないようにゆっくりと持ち上げる。
そして空いてるもう一つの手で枕を除け、新しく持ってきた氷枕をそこに差し込む。
「はい、もういいわよ」
その言葉と一緒に、燐の後頭部をそっと枕の上に置く。
じゃりっという氷の擦れる音が、何だか大きく響いた気がした。
これで準備は完了だ。
「はふぅ……ひんやり気持ちいいですー……」
「それは良かったわ。……今、何か食べられる?」
「うーん。さとり様があーんって食べさせてくれるなら、食べれそうかもです」
「もう、燐ったら」
言いながらも、私はそのままみかんの用意をする。
まああーんって食べさせるのはもう確定だけども、先に燐の方から言ってくるのは少し予想外だった。
折角燐が恥ずかしがる姿が見れたかもしれないのにな、と私はちょっと残念に思いながら、みかんを一つ摘まむ。
さあ、手掴みということで燐はどんな反応をするのだろうか。最も病気持ちにそんなことを期待するのはいささかあれかもしれないが。
「はい、燐。あーん」
「あーん……って、て、手掴みですかっ? あたいてっきりスプーンか何かで食べさせてくれるかと思ったんですけどっ?」
「ああ、棚から忘れてきてしまったのよ。折角だからこうして手で食べさせようと思ったのも一つあるけど」
「にゃ、にゃんて殺生にゃー!?」
ただでさえ赤い燐の顔がさらに赤くなり、あわわと視線が右往左往している。しかも相当焦っていたのか言葉が舌っ足らず。
……いい。やっぱり燐を辱めるのはどこか良い。
何故なら普段とのギャップが地霊殿の中でも一番ある気がする。因みにこいしは滅多に恥ずかしがらないし、空は恥という概念がそもそもない。
それ故、彼女がこうして慌てふためいているのを見るとどこか安心するのだ。……ああ、これが普通なのだ、と。
……私、何か変ですかね?
まあ、それはともかく。そろそろみかんを食べさせてあげましょう。
もう十分満足しましたしね。
「いいから恥ずかしがらずにみかんを食べなさいな。はい、あーん」
「は、はい。あーん、あむ……」
「どうかしら? 喉を通りそう?」
「ん……こくん。ぷあ、どうにかこうにか……けほっ」
「ああ、無理しなくていいのよ。今のあなたは安静第一なんだから」
「こほ、けふっ!うう……」
私はぽんぽんと背中を撫でながら、咳き込む燐を落ち着かせようとする。
やはり、現状ではこれ以上食べさせるのは難しそうだ。おかゆか何かあれば良かったのだが、生憎そんなものは無かった。
無理をさせてしまったか、と少し後悔の感情が出てくる。燐は病人なのだ。決して無理をさせてはいけない。
改めて燐の様子を見る。多少は落ち着いたようだが、目の焦点が合っていない。もしかしたら危険な状態なのではないか。
そう思った私は、ひとまず燐に休息をとらせることにした。話はまた回復した時にすればいいだろう。そう考えていた。
「燐、どうか無理をしないで。寝れるなら寝た方がいいけれど……」
「……ねぇ、さとり様。あたいってつくづく無力だと思いません?」」
「えっ?」
しかし、どうにも様子がおかしい。
燐の心の中が黒くなっていき、何も見えなくなっていく。……いや、違う。
その黒い部分は自分への憤り、無念。そして、悲しみだった。
それが何の意味を示すか気がついた私は、すぐにでも燐を止めようとした。が、その気づく時間が一瞬遅かった。
私が話すより先に、燐が話し始める。
「本当、笑っちゃいますよね。こうしてさとり様に迷惑かけて、こんなんじゃあたい、あたいは」
「……燐?」
「さとり様を不安にさせて、悲しませて……。それなのに、あたいはこうしてベッドで寝てることしか出来なくて……。自分が嫌になっちゃいますよ」
「燐、今のあなたは」
「さとり様。あたいは、さとり様の笑顔がとっても好きなんです。どこか照れてるように見えるけど、ふんわりとした気持ちが伝わってくる感じがして。でも……今のさとり様は、とっても悲しそう」
燐の気持ちがどんどんどんどん、口から出てくる。
今まで溜めこんでいた分もあったのか、……病気のせいなのか、それはどこか悲痛な声だった。
彼女は続ける。布団をきゅうと握りしめながら。
「前に異変起こして、さとり様にいっぱい迷惑をかけちゃって。それ以来、さとり様を悲しませるようなことは二度としないって、自分で決めたはずなのに……っ!」
「燐、落ち着いて。それに、あの異変は空を助けるために起こしたことでしょう」
「……そうです。でも、あたいはさとり様に言うことが出来なかった。怖かったんです、おくうが処分されるんじゃないかって」
「……ええ。知っているわ」
過去の出来事が回想のように脳裏に浮かび上がる。
あの異変……怨霊異変のすぐ後、私は半ば放置していたペット達に会いに行った。
ペットの中にも色々いて、私のことを覚えているペットもいたし、忘れているペットもいたりした。それらはまだ良かった。
その中で、私が一番衝撃を受けたのが……他ならぬ燐だった。
私を見つけた瞬間地べたにぺたんと座り、私に許しを請うようにして足に擦りよってきた、燐。
その時彼女が言った言葉が、今でも強く記憶に残っている。
『さとり様、どうかおくうを殺さないで下さいっ! あいつは、あいつはあたいの大切な友達なんです! ですからどうか、どうかお願いしますっ!』
『……燐。あなた何を言って』
『あたいのせいなんですっ! ぐしゅ、あたひが、あたひが怨霊を地上に送り込んだからこんなことになっちゃったんですっ! 何だってします! どんなお仕置きだって甘んじて受けますっ! ごめんなさい、許してください……!』
恐らく霊夢か魔理沙に何度も弾幕ごっこを挑んだのであろう。ワンピースは既にぼろぼろになっていて、燐は泣きじゃくりながら何度も謝っていた。
それほどまでに、恐れられていたのか。燐のその姿に私は激しいショックを受けていた。かつての姿からは全く想像出来なかったからだ。
長い間会わずに放置していたことが、こんな形で返ってくることになろうとは。
あれから私はペットとの交流を深めようと思い、出来るだけ多くのペットといようとした。
その甲斐あってか今ではその誤解も解け、こうして一緒に暮らすようになった。だが、燐はそのことを未だに心のどこかで後悔し続けている。
そう。あの出来事が燐の中で立派な「トラウマ」となっているのだ。
ふっと現実に戻る。
そうだ、燐は責任感の強い子だ。
だからこうして、どんどん一人で溜めこんでしまうのだ。
「滑稽でしょう? 勝手にさとり様のイメージを決めちゃって、勝手にそう思いこんじゃって。でも、さとり様はそんなんじゃなかった」
「……」
「あたい、バカなんです。おくうに何回もバカバカ言ってきたけど、あたいの方がもーっとバカだ」
「……そうね。そうかもしれないわね」
「そうでしょう? 人に相談せずに自分の判断で勝手に決めて、何も考えてなくて。その結果たくさんの人を巻き込んで、迷惑かけちゃって……」
「ええ、そうよ。あなたは自分で物事を勝手に判断してしまう癖があるわ」
「……っ、今回だってそうなんです。火加減だけで判断してさとり様に何も言わないで。結果この様ですよ」
「この様、ね」
「にゃはは……ぐすん。本当、無様な自分がやになっちゃいますよ、ひくっ……ううぅ、ふええぇ……っ!」
布団に顔を埋めながら、ぽろぽろと泣き出す燐。一気に溢れだした気持ちは止まらず、ぐちゃぐちゃに、どろどろにかき混ぜられていく。
私は、そんな彼女を。
「燐。布団から手を離しなさい」
―――助けなけねばならないだろう。
「でも、でもぉ」
「離しなさい。私からもあなたに言いたいことがあるわ」
「ずずっ……はひ」
燐が布団からゆっくり手を離すと、私はその布団を除ける。
勿論、中からは涙を目にいっぱい溜めている燐がいた。見られるのが嫌だったのかふるるっと小さく震えている。
……全く、本当に世話の焼ける子ね。
「いい? まずあなたには一言言っておくわ」
「すんっ……何ですか……?」
「あなたは本当にバカね」
「ふえっ……!?すみません、すみませぇん……!」
「話は最後まで聞きなさい。私が、こんなことで迷惑かかってるなんて思ってるの?」
ベッドにしっかりと座り、燐の返事を待つ。
病気の時は、何も出来ないから色々と物事を暗く考えがちになってしまう。独りの時は尚更だ。
だから、気持ちも総じてネガティブになっていく。まるで坂を転げ落ちるように。
燐がこうなるのもある意味仕方なかったのかもしれない。トラウマを抉られ続けているようなものだからだ。
「だって、今も迷惑をかけて……」
「私はこの程度迷惑だと思ってないわ。むしろこれくらい当然です」
「さとり様の貴重な時間をとってしまって……」
「生憎私は暇な時間が多くてね。全然生活に支障はないわよ」
「ですけど、ですけど……」
「燐っ! ……今のあなたはただの駄々をこねる子供と同じだってことに気づけないのかしら?」
「……っ!」
燐は体をびくっとはねさせた後、しゅんと大人しくなる。
少々声をあげてしまったが、これでしっかりと話すことが出来る。
そう思いながら、私は燐の目をしっかりと見る。……大丈夫、これは小さな誤解なのだから。
「いい? 私があなたをバカだと言ったのにはちゃんとした理由があるのよ」
「……はい」
「理由は三つあるわ。まずは一つ目。自分をバカだというのはいただけないわ」
「だって、あたいはダメで、意地ばっかり張って……」
「そんなことはないわ、あなたは賢い子よ。そこらへんの怨霊よりかは、ずっと頭が良いわ。私の自慢のペットよ」
「……」
「それとも、飼い主の言葉が信じられない?」
「い、いえ。そんなことは」
これは、私が確信を持って言えることだ。
燐はこれまで努力で地道に生きていた。今の妖怪変化も火車になれた理由も、全て彼女の努力の甲斐なのだ。
それに、日常生活でも細かいところに気を配っているのを私は知っている。この子がいなければ、一体私はどうなっていたことか。
……いや、燐だけではない。こいしや空、他のペット達も誰として大切な存在なのである。誰一人、或いは一匹として、欠けてはならないのだ。
「二つ目。異変の時あなたが起こした行動。あれが最善の方法だったのよ」
「……でも、他にもっと良い方法があったかもしれないのに、あたいが先走っちゃって……」
「確かにそうかもしれないわね。でもね、良くも悪くも燐のお陰で地上と交流出来るようになったのよ」
結果論だが、私はそう考えている。
もしあの異変を地底内の問題として片付けようとしていたのならば、当然地上という選択肢はない。鬼や地底の妖怪達が黙っていないからだ。
しかし、良くも悪くも燐が地上へ助けを求めたことが結果として地上との交流再開ということに繋がったのだ。
それに、まだまだ良いことはあった。
「空が地上の色々な話をしてくれる。こいしも地底にいた頃よりずっと良い顔をするようになった。私だって……良かったと思っているわよ」
「あたいが……やったことなんですか?」
「ええ。燐だって……色んなところで話をしたり、死体を集めたりしてるでしょう?」
「そうですね……地上は楽しいですし、いっぱい死体ありますし……」
「あ、後あんまり死体を盗り過ぎたらダメよ? 程々にして頂戴ね?」
「にゃう。……はーい」
ぽむと頭を撫でてあげると、燐は小さく笑ってくれた。
これなら後一押しだろう。元々彼女は明るいので、やはりこうして笑っている姿の方がよく似合う。
しばらく耳や頭を撫でた後、一拍置いて私は話し始める。……もう、暗い雰囲気は無くなりかけていた。
「最後に三つ目。……一回しか言わないわよ?」
「は、はい。なんでしょうか」
少し間を置き、時間を少し作る。
この三つ目が一番大事だということが伝わればいいな、と思いながら。
何も言わない間、次の言葉が大事だと思った燐は真剣な眼差しでじっと見続けてくれていた。
数秒してふぅと一息つくと、私は一言一言を噛みしめるようにして言った。
これが一番、言いたかったことだから。
「燐、あなたは家族でしょう。家族を看病しておいて、迷惑だなんて言われる道理はないわ」
「……!は、はい!そう、そうですよねっ……!」
「きゃっ? ち、ちょっと燐っ? 体は大丈夫なの?」
家族、という言葉を聞いた瞬間、燐が私に思いっきり抱きついてきて。
慌ててぎゅうっと抱き返すも、突然のことなので少し胸がどきどきしてしまった。
……心臓の音聞かれたかもしれないな。そう考えながら、胸に顔をすりすりする燐をそのまま抱きとめる。
抱き止めていると、少しずつ嗚咽の声が混じってきた。
「ぐすんっ。……えへへ、さとり様が近くにいてくれるなら大丈夫ですよ」
「! ……もう。甘えんぼさんね」
「それと、えぅっ……ごめん、なさい。あたい、何にもさとり様のこと分かってなくてっ……」
「いいのよ、これから。これから、ゆっくりとお互いのことを知ればいいわ。まだ分かってないところもあるかもしれないから」
「ひぐ、ぐしゅっ……!はい、はい……!」
「あら、今度の燐は泣き虫さんね。でも、今日くらいは許してあげる。私の胸で良かったらここでいっぱい泣きなさいな。ね?」
「あう、うえぇ……! ひっく、えくっ……しゃと、しゃとりしゃまあっ……! あたひ、あた……うああああぁぁあんっ!! ひぐっ、うぅ、えうううぅ~っ……!」
今までの分を全て解放するように、燐は私の胸で泣く。じんわりと服が涙に濡れ、そしてそれが止まることはない。みるみるうちに染みが広がっていく。
私はというと、燐の体をしっかり抱くことくらいしか出来なかった。後よしよしと軽くあやすことくらい。
でも、今の彼女にはこれだけでも十分なのだ。より近くなった心の声が、それを物語っていた。
『さとり様が近い。あたいを許してくれた。嬉しい、嬉しい……! ずっと、ずっとこのままがいい。あたいにはこれだけでも幸せすぎるから』
気がつくと私は無意識に燐の肩に顎を乗せ、囁くようにして言っていたのだった。
「全く、一人で背負い込み過ぎよ。今度からは、私達にもっと頼りなさいな。
……大丈夫、私達はあなたが思っているよりもずっと強いからね?」
「……さとり様」
「何かしら?」
「その、胸を貸してくださって……ありがとうございます」
「いいのよ、私がしたかっただけだから。……ところで燐」
「やーです! もうさとり様から離れたくないですっ」
燐が泣きやんだ後、私は動けなくなっていた。
……否、動けなくさせられていた。
「あの、燐? 確かに頼りなさいと言ったけど、いきなりこのステップは進み過ぎじゃない?」
「だって、あたい病気ですもの♪ さとり様がいなくなったらあたい死んじゃいますって」
「だからって、こんなにぎゅーっとしなくてもいいんじゃない……?」
燐が私の裾を離そうとしないのだ。
あの後、とりあえず大分溶け始めた氷枕を変えようと私が立ち上がったのは良いのだが、彼女におもいっきり引っ張られた。
ベッドにダイブインである。ただし後ろ向きで。
それから少しどったんばったんした後、どうにかして燐を説得しようとしたのだが。
「あたいは、さとり様と一緒にいたいんです」
という言葉と、燐のおめめうるうる攻撃にあっさり承諾してしまった。
ちくしょう、やっぱり猫は残酷だ。私を色々と堕とす方法を知り尽くしている。
……いや、私がペットを好きすぎるのがいけないのかもしれないけど。だってペットかわいいんだもの。決して親バカとかそういうのではない、うん。
「……ところで、おくうはどうだったんですか? まああいつのことだし、元気にしているんでしょうけど」
「まあ、燐の思った通りよ。文字通りぴんぴんしてるって言うのかしらね」
「そうですか……にゃふぅ」
ふあ、と口を開け、燐が大きなあくびをしている。
さすがに疲れてきたのだろう。というか燐が病気持ちだったのを少し忘れてしまっていた。
「もう眠くなったみたいだし、もう寝なさい。お話の続きはまた病気が治ったらしましょう?」
「ううん…はい。さとり様、あたいはー……」
「いいのよ、燐。あなたの言いたいことは全部分かっているから」
心の目を通してね。
燐を寝かせようと、私はぽふとベッドの上に彼女を押し倒す。とはいっても、負担がかからないようゆっくりとだが。
そしてそのまま布団へ潜り込むと、すぽんと燐の隣に顔を出す。
同時に、燐の顔がかーっと真っ赤になっていた。恐らく熱のせいではなく、私が目と鼻の先にいるからだろう。
「さっささささとり様っ!?」
「こら。落ち着きなさい、今日は私が一緒に寝てあげるから」
「え、は、はい。はい? はいっ!?」
ぱたぱたと手足を動かす燐を諫め、同時にそっと体を抱きしめる。
とはいえ体の大きさが違うため、こっちが抱きついてる形になるのだが。
「もう疲れたでしょう? 今日は色々あったわけだし、お休みの時間だって必要でしょう」
「は、はい」
「……ところで燐の胸、かなりどきどきしてるみたいだけど。これじゃ寝れないんじゃない?」
「そ、それは誰のせいだと思ってるんですかぁ」
「ふふ、大丈夫よ。今日はずっとここにいるからね?」
そのまま目を閉じ、そのまますりすりと燐の胸に埋まる私。
空程ではないけど、燐も大分良いものを持っている。……比較対象は勿論私なんだが。
ともかく、実はこうしているのには理由がある。ちょっとだけ催眠術の類を使っているのだ。
常人には見えないかもしれないが、私の体からもやのようなものが出ている。魔法みたいなものと考えれば良いのだろうか。
そしてその効果は、数秒もしない内に表れ始めた。
「あふ、ん……さとり様……」
「目がとろんとして来てるわよ。その様子ならすぐに寝られそうね」
「んにゃふ、にゃー……」
くにくにと耳をつまんでたたむと、安心しきった表情で目を細める燐。
泣き疲れてた部分もあったでしょうし、今日はぐっすり寝れるでしょうね。
「さ、燐。寝ましょうか」
「はい、おやすみなさい……」
「ええ、おやすみ」
そう言ったきり、すぐにすやすやと寝始めてしまった。
若干寝るのに時間のかかる私としては、その眠りにつく早さが微妙に羨ましい。
……それにしても、今日は色々なことがあった。心身共に結構疲れてるし、本当は早く寝たい。
いや、私としては部屋を出て引き続き二人の看病をしたいのだが、どうもそういうわけにはいかないらしい。
何故なら。
「むにゃ、さとり様…離れちゃ、いやですからね……」
寝ている燐が、全然離してくれないのだ。
本当は起きてるんじゃないかと疑いたくもなるけれど、心の中を見るに本当に寝ているようだ。
何故か夢の中では私と燐がお花畑でぐーるぐる回っているが、それはこの際気にしないでおこう。
「ん…ふう。仕方ないから、私も寝ちゃおうかしら」
そうこうしてる内に、私にも眠気がやってきた。
目の前にいる燐がそれはもう幸せな顔をして寝ているので、見ているこっちまで眠くなってしまったのだ。
まあ、食器洗いとか残してあるものが色々あるけど、それらは明日やればいいだろう。
そして数日後には空も燐も治って、またいつもの日々に戻るだけだ。それでいい。平和な日常があればそれでいいのだ。
そう考えてる内にも、睡魔が段々と襲ってきていて。
「……ん……」
気が付いたら、私も眠ってしまっていた。
数日後。
あれから二人の体調は良くなり、すっかり元気になった。
だが、案の定というか、残念ながら当然というか……。今現在、私は。
「お姉ちゃーん。お見舞いにきたよー」
「ええ、すまないわねこいし……こほっ」
ベッドの上で病魔と格闘中だった。
改めて考えれば、私も普通に生焼けの鶏肉を食べていたわけである。なんという失態か。
というかピンク色の時点で気づくべきだったと思う私だったが、全て遅すぎたわけで。
今はこうしてはあはあ言いながら頑張っているのだった。因みに看病はふらりとここに立ち寄ったこいしがしてくれている。
普段から大分気まぐれなこいしだが、看病してくれる分には素直にありがたいと思った。
「もう、お姉ちゃんもそんなに体は強くないんだから無茶しちゃダメだよー」
「すみません……さすがの私だって頑張りたい時があるのよ」
「はいはい。今はちゃんと休憩する時間だからね?」
こいしはそう言いながら、氷の袋を私の額に乗っけてくる。
きんとした冷たさが火照った体には良くて、実に何とも言えない心地である。
溜まっていた熱がどこかに消えてしまいそうな、そんな感じ。……熱があるから、ちょっとよく分からないことを言ってるかもしれないわね。
「はー。つめた……」
「わざわざパルスィの橋のとこまで行って汲んできた水だからね。よく冷えてると思うよ?」
「ええ、本当にありがとうこいし」
「いいってことよー。こいしちゃんは優しいから、こうやってお姉ちゃんにつきっきりしてあげるのです」
にこにこといつもの笑顔で、こいしはことんと一つの缶詰を置いた。
ラベルは貼っていないようだが、私の予想だと大方果物系といったところだろうか。
「ううん……それ、何かしらこいし?」
「これ? これはモモの缶詰だよー。何でも天界産の桃を使ってるんだってさ」
「へぇ、それは楽しみね。こいしが買ってきてくれたの?」
「そうだよ。というか人里に売ってたから興味本位で買って来ただけなんだけどね」
きこきこと缶を開けながら、私の質問に答えるこいし。
そもそも桃という時点で珍しいのだ。地底では絶対に見かけないし、天界にしかないと聞く。
そんな貴重なものを缶詰にしてしまっていいのだろうかという微妙な疑問を抱きながら、そろりとこいしが開いた缶詰の中身を見てみた。
中身は……うん、とっても美味しそうだ。シロップにつけられた瑞々しい桃の透き通った果肉が、私にわずかな食欲をもらたしていく。
「それじゃあこいし、それをこっちまで持ってきてくれる?」
「あらお姉ちゃん。それは必要ないと思うよ?」
「え?」
「だって、私スプーン忘れちゃったもの」
……。
…………え?
「桃なのに、スプーンがないの?」
「うん、だから私が手で食べさせてあげる。お姉ちゃんはそのまま楽な体制でいいからねー」
「え、いや。そんな大きな桃、一口じゃ食べきれない……きゃうっ」
とふんっとベッドに軽く押し倒されながら、私はこいしが何をしようとしているかを悟る。
だが、奈何せん病気の身。そんな然したる抵抗も出来ずに、あっさりと上に乗っかられてしまった。
要するに逃げられない状態である。
「ふふ、捕まえた。じゃあお姉ちゃん、あーんってして?」
「あーんってあなた、そんなに大きな桃私が一口で食べられるはずないでしょう!? 私の口は小さいものしか入らないのよ!?」
「ほらほら、抵抗しても無駄だよー。普通に美味しいから食べてみなって」
「お、お願いだからふ、普通に食べさせてねっ…?」
「うんうん分かってるよー。じゃあお姉ちゃん、あーん」
「あ、あーん……」
ここはこいしを信じ、頑張って限界まで口を開けてみる私。
だが、こいしがこんな面白い状況を普通に見逃すはずはなく。
ずぼっ。
「むぐ、んむ!? んーんーっ!?」
こいしは、桃まるごとをそのまま口に入れてくれた。
……普通に無理だって言ってたのに……。
「ほらお姉ちゃん、美味しいでしょ?」
「んむ、もぐもぐ……ぷあっ! ……こいしー……?」
「わ、お姉ちゃんが未だかつてないじと目で私を見てる。やだ、そんなに見つめられたらこいしちゃん困っちゃう♪」
「はあ……もう、こいしが病気になったら同じことし返してやろうかしら」
「あはは。ごめんね? お姉ちゃんのかわいい反応が見たかったからさ」
「あら、私だってたまにはこいしのかわいい反応を見てみたいわ」
「あー。それって私はいつもはかわいくないってことー?」
「そうね、今のような行動をされたらそう思いたくなくなっちゃうかしら」
「あはは、ごめんなさーい」
けらけらと悪びれず笑うこいし。……本当、この子はよく分からない。
でも、こいしとこうして近くで話すのは……久しぶりに楽しい気分になれる。
そういう意味では、私は病気になったのをほんの少しだけ良かったと思えた。
良かったというのはちょっとおかしいかもしれないけれど。何となくそういう風に言いたかったのだった。
仕事とかもあるけれど、今日はまあ……。……せめて今日くらいは、こうして休んでもいいよね?
そう、ベッドの上で割り切る私であった。
END
良い地霊殿の話でした。
ちゅっちゅちゅっちゅ
猫に柑橘類はだめー
素晴らしい
>>……私、何か変ですかね?
いいえ、いたってKENZENです。
ナチュラルにお母さんなさとり様も、自分の体調が悪くてもお燐を心配する空も、ちょっと甘えん坊なお燐も、ちょっと悪戯好きなこいしちゃんも皆最高に可愛かったです。
良い作品をありがとうございました。
何度も経験するものじゃないですよね、あれ。本当にトイレが親友になりますからね…。
なんか子供時代を思い出すなぁ
妹も自分も風邪だったときの母の存在はいつもより心強く感じたものです
>>2さん
さとりにぎゅっとされたらどれだけ気持ちいいのでしょうか。そう思うこの頃です。
いつもどたばたの地霊殿ですが、やる時はやるのです。
>>3さん
気が付いたら無意識にベッドに入ってました。
猫に柑橘系……人型ならきっと問題はないのです、ええ。
>>7さん
ありがとうございます。
これからもそういう話が書けるように精進していきます。
>>8さん
そして一週間後……。
そこでは地上で屋台合戦しているお燐とミスティアの姿が!
>>14さん
さとりの場合全部受け止めてしまいそうですね。
その結果倒れて皆に看病してもらうのでした。
>>15の山の賢者さん
ペットをたくさん飼っている分、きっと様々な経験をしていることでしょう。
KENZENなら何をしても……きっといいのです。
>>17さん
戦いは苦手でも。他の部分が非常に強い。
さとりはそういう人物だと思います。
>>22のrenifiruさん
ありがとうございます。
地霊殿ものは少し暗い話が多いのですが、こうして温かいとこもあるということを書きたかったのです。
これからも様々な作品を書いていきたいと思います。勿論地霊殿以外も。
>>24さん
一日中トイレとベッドを行ったり来たり、あれは中々きついです……。
あれ以降肉は相当気をつけております。
>>26さんと>>34さん
ありがとうございます!
>>35さん
そして病気が治った後はいつもの母になりますよね。
今思えばとてもたくましく、また心の支えだったと思います。