あの子はとても、私を悲しませるやら困らせるやらが得意なのです。私は彼女の為に幾らでも頭を悩ませて参りました。
だのに、どうでしょう。それよりもずっと、あの子は私を喜ばせるのが上手なのです。
帽子
私には、とても変わった妹がいます。とてもではないが私の妹には見えないくらい、私とは違っていて、そして変わっているのです。私が正常で彼女が異常だとか、そういう事を言いたいのではありません。ただ、客観的に見ても主観的に見ても、やはり妹は変わっているんだろうなぁ、と何気なく感じる事が多いのです。覚りでありながらにして第三の眼を閉じたというだけでも充分に一般から逸脱しているのですが、あの子の底の知れなさはそれだけではないように思います。螺子が飛んでいるのやもしれません。もしそうだとしたら、きっとあの子は初めから螺子の要らない作りをしているのでしょう。
あの子は自分の親を知りません。あの子が物心つく前に、私たちの両親はこの世の者ではありませんでした。私とあの子は随分歳の離れた姉妹でしたから、私は今でも母の穏やかな声のトーンだとか、父の優しい掌の温度を思い出す事が出来ます。それに縋って生きていた頃もある程ですから。ですが、妹はそうはいきません。あの子が世界を知る頃には、その世界を形作る中軸は私しかいなかったのです。
あの子は幼い頃、時折私を「おかあさん」と呼んでは困らせてくれたものでした。あの子は故意にそれをやりました。理由は一つに親を知る私への八つ当たり、二つにそんな私を困らせる為、三つに親がいないのを再確認する故でした。あの子は私を「おかあさん」と罵りながら、同時に自らをも虐げていたのです。幼い彼女がそれを故意に行ったというのですから、当時の私はそんな彼女の心を読んではうすら寒い心地が致しました。
あの子が何を考えて生きているのかは、何百年と彼女の隣にいる筈の現在の私でも判然とはしません。私でこうなのですから、きっと誰もあの子を理解する事など出来ないでしょう。これはある程度確信を持って言えるのです。理解する事など出来ないと理解した私ですから、判るのです。
飄々としてあの子はそこにいます。いるように見えるけどいないのです。そしていないように見えて、いるのです。そんな風にして私をからかって、おろおろする私を楽しんでいるのでしょう。あの子は少し意地の悪い節があります。それも茶目っけだと言ってしまえば可愛らしく思えてくるのでいけません。意地が悪いのです。
――いつまでも私がお姉ちゃんの傍にいるなんて、思っちゃいけないよ。
あの子は事ある毎に私の瞳を覗き込んで、こんな事を言います。「お姉ちゃんがうかうかしてると、私はぱっと消えてくちゃっといなくなっちゃうのよ。お母さんとお父さんみたいにね。私がいなくなっても生きられるように今から練習しなよ」、などと、何を考えているのだか判らない笑顔で、明日の天気を言うかのような気軽さでこんな残酷な事を言うのです。「何を偉そうに、誰のお金で貴方が遊んで暮らしていると思っているんです」、そう言い返せたら良いのに、言われる度、私は潰れそうに苦しい気持ちで言葉を失いました。その時の私はどんなにか惨めでしょう。どんなにか阿呆でしょう。けれど、私が未だ一度もその言葉に言い返せた試しが無い事は、抗い様の無い事実です。
――誰だって死ぬんだよ、お姉ちゃん。どうしてそんなに臆病になっているの?
臆病、にもなります。私はもうふたりを喪ったのですから。これ以上、身を切られる思いは御免に決まっている。当たり前です。私がどんなに妹を愛しているでしょう?
私の何が悪くて、世界に独りぼっちにされねばならないのでしょう。こんなにも心底大切にしている妹を、どうして薄情にも取り上げられねばならないと言うのでしょう。
――私なんかすぐ死んじゃうよ。ほんとに突然、それも凄く下らないことで、訳もなくのたれ死んでしまうんだろうね。私らしいでしょ?
冗談じゃない。冗談じゃない!
妹はこんな事を口走っては家を出てゆきます。そうして何日も帰りません。酷い時には私の知らない間に帰っていて、部屋に着替えた後やらお土産が残されていたりして、私を一層不安にさせるのです。あの子は私を困らせる才能があるに違いありません。そんな事を考えても寂しいものは寂しいし、可愛いものは可愛い。ままならないものです。
そうして私は今日もあの子を待って、だだっ広く伸びる時間を埋める為に本を読むのでした。あの子を待っている内に読み終わった本の数は、数える気にもなりません。悲しくなるだけですから。
◆
「世の中全部嘘だったら良いのにねぇ」
「え、えぇぇ? それは、どうなんですか」
「そしたら、言葉なんか丸ごと信じなければ良いじゃん。全部嘘だって判ってたら傷付いたり悲しんだりする事ないじゃん。悲しかったり傷付いたりするのは、本当の中に嘘が混じってたり、嘘の中に本当が混じってるからだよ。そうして私たちは、それが判ってしまうから、辛いんだ。違う?」
「それは、……」
「全部嘘だったら良いのに。私が見えてる景色も聞こえる音も、全部全部まやかしだったら良いのに。本物なんか要らないよ」
「もしそんな世界だったら、貴方は何も信じないのでしょう?」
「何もかも嘘だって事だけは信じるよ」
「それは、きっと、……とても虚しい事です」
「むなしい、ねぇ」
「信じられるものがなければ、ひとは誰も愛せません。愛せなければ、生きられません」
「ふぅん」
「私は貴方を信じています」
「へぇ、そう」
「貴方に嘘は言わないと誓います」
「それは殊勝な心掛けだね」
「信じて、もらえませんか?」
「考えとく」
保留にされた答えは、未だ彼女の手の内にある。
◆
あの子がどうして第三の眼を閉じたのか、私は色々と理由を考えてみたのですが、どれもしっくりきません。あの子は例の空っぽの笑顔で「だって、嫌われるのって辛いじゃない?」だなんて嘯きましたが、どうもそれでは納得出来ません。例えそれが真実としても、本当の理由の一割にも過ぎないような気がするのです。
だってあの子は、自分から嫌われたがっていたのですから。
妹は幼い頃より、私を好いてはいませんでした。両親のいない寂しさを、私に八つ当たりする事で、どうにか紛らわせていたのでしょう。私はそれでも良いと思いました。私は彼女を愛しておりましたから、それが返ってくるかこないかなど瑣末な問題でした。いてくれさえすれば良かった。妹が、家族がこの世に生きて私の傍にいる事が何よりの重要事項でした。死んで傍にいないくらいなら、罵詈雑言を浴びせられたって生きて傍にいてくれる方がずっとましなのです。いなくて良い家族などいません。孤独は何にも勝る毒なのです。大きな孤独を知る私にとって、妹は私をこの世に結び付ける鎖でした。それがどんなにきつく首を絞めても、それで窒息したとしても、誰もいない真っ白な場所へ放り出される恐ろしさに比べたら可愛いものです。少なくとも私はそう考えました。
とにかくも幼い妹は私を嫌う事で私の傍にいてくれました。そうして少しずつ大きくなって、彼女は私を嫌うのをやめるようになりました。家族のありがたみが判ったとか、孤独の辛さを知っただとか、もっともらしい理由を考える材料は幾らでもありますが、そのどれもあの子には相応しくないでしょう。妹をそんな小さな定規で測ろうという時点で間違っています。ですから、理由はやはり判然としません。ですがその頃の彼女の言葉から、ある程度の推測は出来ます。彼女は私にこう言い放ちました。
――お姉ちゃんが嫌ってくれないなら、もういいや。
そんな言葉と共に、あの子は私を嫌うのをやめました。ぴたりと、急ブレーキをかけたようにやめました。私があの子を嫌わないから、嫌うのをやめる。どうしたって理解は出来ませんが、理由としてはこれが有力でしょう。
そうして彼女は、第三の眼を閉じました。
あまりに突拍子なので、私はついていけませんでした。やっぱり理由は判りません。私如きが判ろうとする所から間違っているのかもしれません。まぁとりあえず、私の所為なのだろうなぁ、とそれだけはつらまえておりますが。
――世界を嫌うより、自分を嫌った方が早いよね。
私が彼女にそれについて聞く度、そんな風に過去を回想して言うのでした。つまり妹は、私(イコール世界)を嫌うのをやめて、自らを嫌うと言うのです。その真意はもはや読めません。「お姉ちゃんが嘘つかないからさ」、なんて嘯く彼女の言葉を、私は幾らも拾えきれずに取りこぼしました。
第三の眼を閉じた彼女は、ある時私に一つのお願いをしました。「それ、頂戴よ」、指差した先にあったのは、一つの黒い帽子でした。
それは母の形見でした。しかし形見と言う程母がそれを頻繁に使っていた訳ではなく、母がそれを被っているのを精々二、三度しか見た事がありません。それでも母のにおいが少しでも残っているなら、と私が唯一持っていたものでした。今やとっくににおいは消え失せて、かすれる記憶が僅かに染みついているだけですが。
妹はそれが欲しいとねだりました。私はそれが母の形見であるとは言った覚えがありません。しかしいつぞやかに心を読んだか何かで知っているのかもしれません。しかし知らないかもしれません。何故そんなにねだるのか判りませんでしたが、「どうせ私が使わないなら、この子に使わせた方が良いかもしれない」、そう考え、それを与えてやりました。ねだった割には妹はなんの感慨もなさそうに、ぽふと被りました。何も言いませんでした。まったく嬉しそうにも見えません。いよいよ首を傾げたのですが、そんな私を無視して、妹はその帽子を被ったままどこぞへと出掛けていきました。そうして、今に至ります。
形見の帽子を与えて一体どれだけの月日が流れたでしょう。妹は少しくたびれた帽子を、しかし文句一つ言わずに今日も被って出掛けていきます。帽子に対して何か強い思い入れがあるようにはとても見えないのに、どういう訳かずっと被ったままでいるのです。妹の行動一つで私が理解出来た試しが無かったではないか。そう自分を納得させます。
思えば妹があの帽子を被ってから随分と月日が流れたように思います。「いつまでも傍にいると思っちゃいけないよ」、そんな事を言った妹はしかし今日も私の傍にいてくれます。そうして帽子を被って出て行くのです。何を忘れても、うちに帽子を忘れていった事はただの一度も無いのです。
私は妹が母の形見であるあの帽子を被っているのを見る度、郷愁とも安心とも取れない、奇妙な嬉しさを感じます。私の家族が確かにそこにいる。それは何にも換えられない喜びの実感でした。
嬉しいのです。孤独でない事が、こんなにも嬉しい事なのだと、私は深く知っているのです。
◆
「ただいま」
「おかえりなさ、……なんです、その恰好は」
「ちょっと汚しちゃいました」
「あぁもう……待って、そこで靴下も脱いで。今タオル持ってきますから。もうここで服脱いじゃいなさい」
「お姉ちゃんたらえっち」
「貴方の発育不足な身体の何を見て喜べと言うんですか」
「世の中にはそういう嗜好のひともいるんだよ」
「私でない事は確かでしょうね。ほら、帽子も貸して」
「あい」
「あら。汚れてませんね、これ」
「あぁ、うん。だって、大事なんでしょ」
「え、……」
「知らないと思ってたの? なんか知らないけど、大事なんでしょ、それ。大事そうに扱ってんじゃん」
「知ってるかもしれないとは、思ってましたけど。それを気にする性分とは思いませんでした」
「なにそれひどいなぁ。お姉ちゃんの大事なもんはさ、私の大事なもんだよ」
「……」
「なにその私が天地のひっくり返るようなすげートンデモ発言したみたいな顔」
「あ、ああ貴方いつからそんな姉思いの良い子に」
「なんかことごとく言ってる事が酷い気がするんですけど」
「あのこいしが私を想うような言葉をかけてくれるなんて、……とうとうお迎えが」
「お姉ちゃんの中の私像どうなってんですか」
「いやぁ、はぁ、へぇぇ。取り乱しました。そうですよね、貴方が少しくらい私に対して積極的な気紛れを起こす事もあり得ますよね」
「なんっつーかさ、お姉ちゃんて絶対私の事勘違いしてるよね。良いけどさぁ。ふぅ。まぁ、適当な事ばっかり言って適当に生きてる私が悪いのかもね」
「そうですね」
「即答すんな。まぁいいや。とりあえず、結構私お姉ちゃんの事大切にしてるから。その帽子見りゃ判んでしょ。つか判れ」
「……」
「だぁかぁらぁー、なにその私が天地のひっくり返るようなすげートンデモ発言したみたいな顔ッ」
「やばい、これ夢かなぁ……ちょっと私に都合良過ぎて夢通り越してこれ妄想なんじゃないかなぁ……妄想でもいいかも、お姉ちゃん幸せ過ぎて泣きたくなってきた……もう死んでもいいや」
「なんだよもう! なんだよもう! もういいよ、お姉ちゃんの馬鹿! 勝手に泣いてろ! ひとを冷酷魔人みたいに言いやがって!」
なんだかよく判らないけど、どうやら私は愛されているらしいのです。
◆
私は今日もあの子を待って、だだっ広く伸びる時間を埋める為に本を読むのでした。あの子を待っている内に読み終わった本の数は、気が向いたら時々数える事にしています。大体二十冊読み終わる頃に、あの子がドアノブを握る音が聞こえてくるのです。それを知ると私は心の奥がむずがゆくなって、いてもたってもいられなくなりました。
十九冊目を閉じました。二十冊目を手に取ります。実を言えば、文字を眼で追っても内容が頭に入って来ないのです。
あの黒い帽子が、おずおずとドアの隙間からひょっこり現れてくるのを想像して。
嬉しいのです。孤独でない事が、そして愛される事が、こんなにも嬉しい事なのだと、私は深く知ってしまったのですから。
おわり
愛したかったこいしちゃんと愛されたかったさとりんが入り混じって最強にみえる
幸せそうでなによりです
本当によかった
かわいかっ です
あまい
うま
信じてる、とは言いながらもやっぱり不安で不安でしょうがなかったんでしょうねぇ。
美しい
信用ない云々からもうぶわっと。幸せすぎても死んじゃらめえ! きっと二人で幸せを過ごしていってくれぇいッ!!
普段ははなれて、たまにくっついて、一対でないとよろしくない。
いい姉妹だなあ。
ストリキニーネさんのこのフォントってどうやったら出来るんだ?
正反対側を向いた愛故に、非常に心揺さぶられる作品でした。
世の中捨てたもんじゃない
これはほんと幸せだなー
こいしちゃんは愛したかった。さとりさまは愛されたかった。この2人が今まですれ違っていたのが結びつけたって事か