Coolier - 新生・東方創想話

恋の交差点

2010/07/12 20:21:28
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 …………どうやら、何か起こるときというものは立て続けに訪れるらしい。



「色々と我慢できなくて抱きついてみた。反省はしてない」

 なんて言葉のとおり、蓮子は反省の気持ちも離れてくれるつもりも無いようだ。どういうことなのか誰か教えて……。

 こんな時季に突然実家から帰宅命令がきたこともそうだけれど。やっと帰ってきてみれば、相棒だったはずの人間は何時の間にかダッコちゃんにジョブチェンジしてるし。


 いつもの空回りするほどの元気はどこへやら。大学の構内で一週間ぶりに会った蓮子は、私を見つけるやスルスルと近づいて来て、そのままがっちりと全身でホールドしてくれたのだった。
 普段から周囲の目など忘れがちな彼女なわけで。今度も、いわゆる衆人監視という状況でやらかしてくれた。のだけど、周りの視線が痛いっていうよりも暖かいってどういうことなのかしらね……?

「ね、蓮子。いいかげん離れてくれないかしら……? こんな道の真ん中で二人突っ立ってたら通行のじゃまだし、ね?」
「驚きの粘着力と吸引力で捕えたメリーさんを離さない。宇佐見蓮子だけのウサミクロンテクノロジーで――」

 …………訂正。どうやらゴキブリホイホイか何かに転職したようです、私の相棒は。

「もう……ホイホイでもサイクロン掃除機でもなんでもいいわよ。と、り、あ、え、ず、は、な、れ、な、さ、いい……!」
「やーだー! 大事な大事な相棒を一週間も放っといた報いを受けろおー。今すぐ、ただちに、すみやかに!」
「『私は気にしないでいいから。久しぶりの里帰りなんでしょう? 親孝行してきなさいよー』って言ってくださったのは、いったいどこの誰だったかしらねっ…………!?」

 なんとかして蓮子のホールドから抜け出そうとする私。それこそ本当にホイホイのような粘りで、意地でも私を逃すまいとする蓮子。お互いの力の差がそんなにあるわけでもないので、私たちの言い争いもそのまま周りに公開放送だ。


 …………うん、だからね、なんでそこでなまあたたかい眼差しが向けられるのかしら? なんで『またやってるねあの二人』っていう会話が聞こえてくるのかしら? そこ、聞こえてるわよ? 『痴話喧嘩』ってどういうことよっ。


 どうもこの大学ではそういう関係にあることがなんの抵抗もなく受けいれられている気がして困るわ……。実際に何組かいるし(どっちの組かは言わないけど)。
 男性一人、女性一人というのは、ヒトにとって太古からのきまりなのに。……まあ、今の時代にそんなことを言っている私は、もしかしたら蓮子よりもよっぽど古い人間なのかもしれないけど。


 そんなことよりも、今は私の腰にしがみついたまま少しぐずりだした相棒をどうにかしなきゃいけない。

 本当に、何にそんなダメージを受けてるのよ、あなたは…………。



◇◇◇◇◇◇◇◇



 やっぱりあんな人通りの多いところに突っ立っているわけにもいかず、蓮子をなんとかひきずって、大きな通りから少し外れたベンチのあるところまでやってきた。

 そして蓮子はといえば、私が腰かけた途端に膝を枕に陣取り、そのまま寝入ってしまった。
 ここのところ、かなり疲れが溜まっていたみたい。顔をよく見ると、普段の蓮子ならありえないくまが、目の下にうっすらとうきあがっていた。


 この様子じゃ、どうやら今日一日は離してもらえそうにないわね……。
 私は今日を含めて休学届を出してあるから問題ないけれど、蓮子の方は休みでも休講日でもなんでもないはず。なんでサボってるのかを探れば、あっというまにこの場所と私に辿り着いてしまうだろう。
 困ったことに、そういうことに耳敏い人が多いのだ、この学校は。

 例えば…………

「やあやあやあ、お二人さんみーつけた。ようやくのご帰還ね、マエリベリー・ハーンさん」

 そう、例えば、この人とかよね…………。

「あらら、ひとの顔みていきなり溜め息はひどいです。ていうか失礼よ?」
「え? 今、私溜め息なんかついてました?」
「無意識なあたりがさらにショックですねえ……」

 どうやら、本当に自分でも気付かずにやっていたみたい。この人のことが嫌いなわけではないのだけど……今この状況で一番来てほしくない人であることはたしかね。

「『取材』はおことわりですよ、紗耶さん」
「いいのよ。『取材』じゃなくて『お話を聞かせてもらう』だけですからね?」

 変わってないですよ、それ。とツッコむのも野暮なのでやめておこう。いつものことだから。

 敬語とタメ口が交互に出る喋り方からしてそうだけど、この人も相当な変わり者。
 大学院一年、統一物理専攻。直接ではないけど、私たちの先輩、ということになるわね。しかして所属サークルは学内一の発行数を誇る東園新聞。陸上部が惚れ込むほどの脚力で学内の三面記事ネタを隅までさらい、『ゴシップライターさやや』の二つ名で知られてい――

「っくしゅん! ……何処かにネタか悪口の気配がする、主に私絡みで。…………紅葉かしら……紅葉だな……」

 ――とまあこんなふうに、強力な直感を駆使して記事をつくっている方なのよ。コワい呟きが聞こえた気がするけどそこはスルーしてね。

「で、『お話』ってなんですか、紗耶さん?」

 蓮子が私の膝を確保している以上、『とりあえず逃げる』という選択肢は取れないので、もうさっさと話すことを話して満足してもらうことにした。

「あ、そうでしたね。じゃあさっそく…………今回の別居に至った夫婦ゲンカの原因はなんだったんです?」
「ぶふ!?」

 さっと懐からメモ帳とペンを取りだしたそのままの勢いで、何かとんでもない言葉を吐いた。私をむせさせる程度の威力。

「っはあ…………なんですか、それ。私はただ一週間里帰りしてただけです」
「俗に言う『実家に帰らせていただきます!』っていうやつですね?」
「ふぶっ!?」

 なにこのチェーンヒット。そうきたか。

「家のほうから呼出しが掛かったんです!」
「なんと! それほどまでにお二人の仲が険悪になっていたと!?」
「もう紗耶さんは物理なんかやめて文学部辺りに行ったらいいと思います!」
「ごめんねー、院まで来てそれも出来ないわよー」
「そこは真に受けるんですね!?」

 蓮子が膝の上で寝ていることも忘れて噛みついてしまいそうな私に、冗談、冗談ですよ、と手のひらを振る紗耶さん。

「私の寿命を縮めて楽しいですか……?」
「でも先程、泣いて謝っている蓮子ちゃんをあなたが振りほどこうとしているように――」
「冗談ですよね? それも冗談ですよね……?」
「――見えた、という匿名での通報が」
「だれだあああっ!?」

 敵? この学校全てが私の敵なの? こんな学校もういやよう……。



「まあ、あれね。楽しい前戯もこのくらいにして」
「そうですね、私が学校やめる前に止めてもらえると助かります……」

 そこで急に紗耶さんの目の色が変わった。変な意味じゃなく。まるで何か別のスイッチが入ったように。そして、真剣な顔で目を覗き込まれた。

「まあ、実は今日は『新聞記者の紗耶』としての話は無いんですよ。あなたが居なかったこの一週間、学内のあちこちから蓮子ちゃんに関わるネタが入ってきてねえ」
「はあ…………」

 なんだろう。嫌な予感はするけど、なにをやらかしたのかしら、この蓮子は。

「あなた(ストッパー)がいなくなるわけですからね。高校以前の彼女を知っている人達はもちろんのこと、教授たちもヒヤヒヤしてたそうよ。絶対になにかやらかすだろうって」
「ああ――」
「でもね」

 やっぱり、と続けようとして、紗耶さんの言葉にさえぎられた。

「三日目までは普段通り。でもね、四日目になっても何も起きなかった。そして、逆に妙な話が聞こえだしたんです。『宇佐見が来てないんじゃないか』って」
「は…………?」
「そんなはずはないの。認証カードの履歴も調べたけど、大学にも来てるしちゃんと講義にも出てる。それなのに彼女がいることに気付かなかったりする人がいたのよ。つまりは彼女の存在感が消え失せてたってことです。ねえ、マエリベリー、彼女の一番の特徴は? 彼女の存在感は何をもってなりたつのかしら」

 蓮子の一番の特徴? 服装も地味なカラーリングのわりには目立つけど…………

「やっぱり、元気が一番、でしょうか。騒がしいほどですけど」
「あなたもやっぱりそう思うでしょ? と、いうことは。それほどに彼女、意気消沈してたのよ」

 あなたがいない間ね、と紗耶さんはそう結論付けた。でも……

「でも、本当に私が原因ですか? ちょうど時期は重なりましたけど、何か他に理由が……」

 何故かは分からない。けど、ただ私がいなくなったことがそれほどまでに蓮子を追いつめたと、そう認めたくなくて、私は反論していた。すると紗耶さんが、普段は滅多に見せないちょっと怒ったような呆れ顔をこちらに向けた。

「何を分かりきったことを言うのよ、マエリベリー・ハーン。あなたが今日見た蓮子は意気消沈しているように見えました? 生きる気力さえなくしているように見えた?」
「生きる気力って……そんな大げさな」
「大げさじゃないから、私がわざわざ物申しに来たのよ?」
「…………」
「正直言って、私もなんで彼女がああまで追いつめられてるのか分からなかった。本当は、あなたが言うように何か他にも理由があったのかもしれない。でも、根本の原因は確実にあなたにあると思ってるわ。まあ、勘ですけど」


 紗耶さんの言葉を聞いて、思い出したことがあった。他ならぬ私が、かつて蓮子に言った言葉。


 ―――お願い、貴方に夢の事を話してカウンセリングして貰わないと、どれが現の私なのか判らなくなってしまいそうなのよ―――


 蓮子はまだ、あの言葉を覚えていたのだろうか。毎日、私と別れるたびにその事を思い出していたのだろうか。一週間、私が自分のもとを離れているうちに境界の向こうへ消えてしまうのではないかと、蓮子はそう考えていたというのだろうか。この一週間メールすら来なかったのも、もし返事が無かったらと、それを恐れていたというのだろうか…………


「…………ばか……」

 蓮子は未だ、私の膝で眠りについている。まるで安心を得たように。

「……この、ばか蓮子…………」





ぱしゃ

「へ?」

 突然、照りつける陽射しよりも強烈な光が機械音とともに辺りを照らした。そして音のした方向を見ると……すごくイイ笑顔の紗耶さんの手に少し旧式のコンパクトカメラが……カメラ!?

「いやあその表情いただき! 『変わり果てた相棒の姿に哀しみを隠せないマエリベリー・ハーン(年齢自主規制)』でいけるわね。うん、金曜版の記事に使えます」
「え、ちょっと、ええ!? 今日は新聞の話じゃないって!」
「ああ、忘れてました。さっきの話にはまだまだ続きがあってですね」

 そういうと、紗耶さんはスカートのポケットから原稿用紙二枚分位の大きさの紙を取りだして広げた。タイ、ト、る……は…………

「さやさんさやさん。わたしには『メリーさんが休講したら逝ってみよう! 宇佐見蓮子の七不思議&霊障マップ』というもじがみえるのですが」
「いやー、この一週間で起きた怪奇現象を学内マップにまとめたらこうなっちゃった」
「いやいや、こうなっちゃった、って紗耶さん。これざっと二十ヶ所はある……」

 1、講義室:講義にも出ているはずなのに誰にも目撃されていない。
 2、天文学部のホロプラネタリウム:毎日のように見に来ては『ここは何処? 今、何時?』と呟きながら去っていく。
 13、中講堂:統計心理学の講義が終わると必ず講堂の前にいる。同時刻に原子物理のある講義室から講堂まで走っても五分弱。一体どうやって来ているのか?
 9、中講堂:夕方、いつもマエリベリー・ハーンが座っている辺りに蒼白い人影のようなものが見えた。宇佐見蓮子だった。
 5、学生会館のカフェテリア:窓際の二人席に一人で座って、頼んだコーヒーが冷たくなるまでぼーっとしてから、一気に飲み干して帰る。
 8、駅前のカフェ:5と同じことをして、マスターに心配されていた。顔なじみらしい。
 17、知ってしまうと、背後にメリーさんが現れるらしい。知った者は皆、姿を消した。

…………が七不思議レベルですかね」

 このひとは…………。蓮子も一体全体何をやってるのよ。

「……で?」
「『で?』、とは?」
「まさかとは思いますけど、これ、記事になんかしませんよね?」

 無理だろうなあ、と思いながら、かすかな希望をかけて聞いてみる。

「今さらなにをおっしゃる!」

 うわスゴイ笑顔。うん、むりだ。絶対に載せる気だ、この人。きっと今週末から、私たちは学内一番の有名人になっているだろう。グッバイ、マイ平穏。



 ……そのとき、私たちは気付かなかった。うふふ笑いを繰りかえす紗耶さんの後ろから忍び寄る影があることに…………。



「せいっ!」
「ふべっ!?」

 いきなり、紗耶さんが変な声を出してその場に倒れ伏した。その後ろからにゅっと顔を出したのは……竹刀?

「まーた人騒がせな記事をつくって誰かに迷惑を掛けていたんでしょう。そういうのを『マスゴミ』って呼ぶんですよ、三流記者。いいかげんにしないと、そろそろこの竹刀のサビにしますよ?」

 2メートル弱ほどもあろうかという竹刀を片手に構えてそう言い放ったのは、予想外に小さな影だった。もしかしたら竹刀の方が大きいんじゃないかしらね?

「…………言ってくれるわね。そう言うあんたはまた『おてつだい』の帰りかしら。ゴマをするのも一苦労、ねえ? あと、竹刀に『サビ』なんてつかないわよバカ犬」
「私は犬じゃないと、何度言えば……。この鳥頭記者。そんな頭でよく新聞記事なんて書けますね」
「ああ、そうだったそうだった。戊年生まれのただのバカだったわね。犬”パシり”紅葉ちゃん?」
「この……ッ!」

 なんとまあ、ここまでシンプルな悪意のぶつけあいも珍しいけれど、紗耶さんから敬語が消えてるなんて。噂には聞いていたけど、本当に仲が悪いのね、この二人。

 竹刀を手に現れたのは学園高等部三年女子の犬走紅葉(もみじ)。
 この子も学業より部活動で有名よね。こっちの構内にいるのは、大学生の練習に混ざりに来たのかしら。もう高校生相手の練習じゃ衰えるだけだから、らしいけど。公式試合で相手の竹刀を叩き折って『竹刀に鉄芯でも入れてるんじゃないか』って疑われたなんて話もあるしね。


「……ここでこれ以上やりあうのも近所迷惑だから、続きをお望みなら場所を移しましょうか」

 しばらく睨み合いを続けたあと、紗耶さんがこっちをちらっと見て言った。

「これ以上、言うことなんてありません。ましてあなたと二人きりだなんて…………まっぴらですよ」
「…………そう。じゃ、マエリベリー、これで失礼するわ。蓮子にもよろしく言っておいてくださいね」

 そう言うなり紗耶さんは行ってしまった…………って!

「紗耶さーん!? その地図、本当に載せるんですか!?」
「あははー、金曜版の新聞をお楽しみにねー!」

 行ってしまった……。ベンチの横で、紅葉ちゃんが竹刀をケースに仕舞っている。もしかして、このためだけにわざわざ出したのかしら……。

「ん……」

 膝の上で蓮子がうごめいた。さすがにそろそろ目を覚ますわよね。それよりも、周りでこれだけ騒いでいてよく今まで起きなかったわね……。

「ぐっもーにん。蓮子、お目覚めかしら」
「ぐっもーにん。うん。メリー、『おはよう』」

 そうよ、私たちのいる『現』は此処だから。

「ええ、『おはよう』、蓮子」

 それだけの言葉遊びに、二人そろってくすりと笑ってしまう。うん、いつもの蓮子が、いつもの私たちが戻ってきた――

「あの……」

 思わず、それこそ二人同時、声のした方向にすごい勢いで振り返ってしまった。

「すみません……私たちが騒がしかったせいで起こしてしまったかと……」

 そこには、さっき紗耶さんに噛みついていた時とはうって変わって、申しわけなさそうに耳を垂れている(ようにみえる)紅葉ちゃんの姿があった。
 逆、ね。まさかこんな大人しそうな子があんな風に人に噛みつくとは思わない。
 ……ごめんね、すっかり忘れてたわ。

「いいのよ、気にしないで。もともと私と紗耶さんで騒いでたから」
「はあ、そうですか」

 一瞬、紗耶さんの名前はNGワードだったかな、と思ったけれど。それらしい反応はなかった。やっぱり、だれかれ構わず噛みつくような子ではないらしい。
 きっと、生真面目な性格なんだろう。その点、奔放な紗耶さんとは何か合わない部分があるのかもしれない。

「あれ……もみちゃん?」

 蓮子の寝ぼけ眼が彼女を捉えたらしい。しかし、どうにも親しげな呼び名が飛び出したのはどういうワケかしらね。

「あ、はい。その節は……、どうもお世話になりました」

 こちらもこちらでぺこり、とまっすぐに頭を下げた。お世話になったらしい。……蓮子に? お世話した、の間違いじゃないのかしら……。

「ん。そんなお世話ってほどのことでもないじゃない。それより、もみちゃんが騒いでたってことは、やっぱしお相手はさやや?」

 あの先輩をあだ名で呼ぶのも蓮子くらいのものね(さすがに本人に対しては使わないけれど)。それにしても、二人を知っているんだったらあの険悪具合も知っているでしょうに。わざわざ掘り返すなんて……。

 でも、その言葉を聞いた紅葉ちゃんの反応は本当に驚くべきものだった。

「え、ええ。はい、まあ……そう、です」

 そう言葉を濁した彼女は、わずかに顔を赤らめて俯いてしまったのだ。怒りで赤くなっているのとは明らかに違う紅さ。え、何? どうなってるの、これ?

 そして、もうすでに状況が把握出来ていない私を取り残して、蓮子が一言。

「もう。ツンもいい加減にしてさ、そろそろデレないと本格的にさややと仲違いすることになっちゃうわよ?」

 ぼふうっ。

 もし音にしたならそんな感じで。紅葉ちゃんの首から上が一気に紅く染まっていったのである。紅葉が顔に紅葉を散らす…………我ながら阿呆みたいね……。

「こっ、これから集まりがあるのでっ、し、失礼しますっ!」

 紅葉ちゃんは、紅い顔をそのままに走り去ってしまった。あら、足もなかなかに速いじゃない、彼女。

「それにしても……蓮子、私いまいち事情がよくわからないのだけど」
「ん、そうね……」

 むくり、と体を起こした蓮子は少しのあいだうーとか、むーとかうなっていたけど、やがて、ぽつりと一言呟いた。


「……おなかすいた」

 ふと左手の腕時計を見ると、ちょうど十二時半を過ぎるところだった。蓮子、あなた何時の間に腹時計まで使えるようになったのよ……。



◇◇◇◇◇◇◇◇



 ちょうど昼どきになったので、食堂で昼食もかねて蓮子から聞き出すことにした。それに私の方も今回のことを報告しなきゃいけないし、ね。


 珍しいことに、こんな時間でも食堂は割と空いていた。まあ、たまにはこんなこともあるわよね。これなら落ち着いて話しながら食べられるし。

「それで?」
「んー?」

 蓮子が食べているのはナポリタン。対して私は和風定食。ご飯、お味噌汁、焼き魚という、とてもオーソドックスなものだ。
 好みと外見の組み合わせが逆じゃないか、ってよく言われるけれど、あなどるなかれ。これでも私は生まれ、育ち、国籍と三拍子そろった立派な日本人である。外見と名前の文句は我が家の歴史に言ってね。
 あら、色々と話が逸れちゃったわね。

「それで、って何が?」

 思いっきりとぼけてくれる蓮子。おなかいっぱいで満足したからって、すっとぼけるのはやめてほしい。

「紗耶さんと紅葉ちゃんの件。あれって、紅葉ちゃんが紗耶さんのことを好きだっていう解釈でいいのかしら?」
「うん、大体おっけー」

 おっけー、らしい。それにしてもまた、同性同士かあ…………。

「メリー。『また女の子同士か』とか思ってるでしょう。相変わらず古典的よねえ」

 ……ああ、やっぱり言われた。

「あら、言ってくれるわね、悟りの蓮子さん」
「いつもあなたが私のことを『古い』って言うんだから、これでおあいこよ」
「はいはい、私が古うございましたわ。……それで? それがなんであんな状況になっているのよ?」

 すると、そこで突然、蓮子は思案顔になって、言葉を濁らせた。

「んー、さややがもみちゃんのことを馬鹿にして、それに対してもみちゃんがキレた、と言えばそこまで、なんだけどね…………」
「なんだか、案外と複雑そうな話ね……?」

 それからしばらくのあいだ、蓮子は首を傾げたりしながらナポリタンを食べていた。すぐに返事は聞けそうにないので、私も先に昼食を済ませてしまうことにした。



「…………うん」

 ずっと言葉を発しなかった蓮子がようやくそれだけ呟いたのは、たっぷり五分以上経った後のことだった。

「考えはまとまった?」
「うん。いや、まとめるというほどのことでもないんだけどね」

 どうやら、やっと答えが聞けるらしい。それまで、蓮子はテーブルに片肘をついて唸っていたのだけど、襟を正して、イスにも座りなおして……なんだか妙に気合いを入れ直してから話し始めた。

「件のことで、もみちゃんが私のところに相談にきたのがふた月位前なのよ」
「相談? なんでわざわざあなたのところに?」
「しっ、知らないわよ、そんなの。おおかた誰かが『面白そうだから』ってことで私のところまで回したんじゃないかな、うんっ?」

 面白いくらいに動揺する蓮子。すっごく気になるけど、ここで突っついてやぶへびになるのも嫌だから触れないでおこう。

「そのときはさ、もう二人の仲の悪さはそこそこに有名だったわけ。なのに恋の相談、って言った口からさややの名前が出て来たんだから。そりゃもう私も驚いたわよ」
「それは……」

 そうでしょうね。あの険悪さは、ちょっと普通じゃなかったし。

「でもね、話をよく聞いたらさ、ちょっくらフクザツな事情があったってわけ」

 どうやらここから、本題に入るらしい。私が聴き入る体勢に入ったことを確認して、蓮子は再び語り始めた。

「もみちゃんは仲悪くなる前からさややのことを好きだったらしいわ。東園新聞はさ、大学だけじゃなくて学内全体の話を扱うでしょう? 当然、剣道の試合があったりするとそこにも取材に来るわけ」

 なるほど、馴れ初めの理由はそこにあったということね。

「そ。そういうことよ。いわゆる『ひとめぼれ』ってやつだったみたいね。いやあ、あの子があんなにアツイ子だとは思わなかったわよ。十分くらい語り詰めでさー」
「それで……?」
「…………そう、ここからが問題でね」

 そう言うと、蓮子の口からひとつ、溜め息がこぼれた。そこまで深刻な話なのかしら……?

「細かいことは端折るわ。少し後になってから、直接会う機会があったらしいのよ。もみちゃんも『折角だから少しでもお近づきになろう』って意気込んでいたそうよ。でもね、もみちゃんの顔を見るなりさややが……」



『犬走? ああなるほど、「使いっ走りの犬」、ね。あなたにぴったりの名前じゃない。趣味の『奴隷』も名前が原因なんでしょう?』



「は……?」
「……って言いたくなるでしょ? 私もさ、まさかあのさややがそんな真っ向から相手を侮辱するようなこと言わないだろう、って思わずもみちゃんを問いつめちゃって…………」


 蓮子曰く、ちょっと手の付けようが無いくらいに大泣きされたらしい。それでもなんとか話を聞いたところ……

「くやしいやら、かなしいやら、自分のでもなんだか分からないうちに殴りかかってた、って言ってた……」

 それは……自分が好意を持っているひとに自分を否定するようなこと言われたら、ねえ……。

「じゃあそれが発端であんな関係になっちゃったけど、紅葉ちゃんの方はそんなことを言われてもまだ紗耶さんが好きでいると」
「そういうことらしいわねえ…………」

 なんなんだろう、それって。未練が残るというのか、それとも一途だというべきなのか。いまいち、私には実感出来ない感情ね。それもそうかしら、失恋したこともなしに、ね。

「しかして、そこで終わらないのよ、この話は」
「まだなにかあったの?」
「いやいや……もみちゃんの方は話すだけ話して、少しはスッキリしたんでしょうね、それで帰っちゃったんだけど。いちおう相談された身としては『はいそうですか』で終わるわけにはいかないじゃない。むしろこの場合問題なのは、さややの方でしょう?」

 私だったら、あまり深入りはしたくない、と思うところなんだけど。蓮子はそれじゃ気が済まなかったらしい。

「まさか、紗耶さんのところに行ったの?」
「まさかもなにも、それしかないじゃない。……心配しなくても相談受けたことをそのまま話したわけじゃないわよ。『噂』を聞いたってことにして、もみちゃんと仲悪い理由を聞きに行ったの」

 私もさすがにそこまで蓮子が無神経だとは思ってないけれど、なにかやらかすような気がしたのよ、蓮子だもの。

「そーんな心配しなくても、ちゃんと穏便に済ませてきたって。さややの方は、ちょいと穏やかじゃない雰囲気だったけどね……」

 それは穏便に済ませた、って言うのかしら? 口にするまでもなく、視線でそう言ってやると、蓮子はまるで『ぶー』とでも言いたげに頬を膨らませた。

「聞きにいったこと自体を含まなきゃ、何も落ち度は無いってば…………たぶん」
「はいはい。わかったわよ、続きをどうぞ」
「むう……。でね、もみちゃんの名前を出した途端に、まるで答えを用意してあったみたいな反応で『ああ。私、あの子が気にくわないんです』って」

 どうやら、紗耶さんの方では紅葉ちゃんの名前はNGワードだったらしい。

 以下、蓮子の回想になるわね。



――――――――



 蓮子が部屋を訪れたとき小型のノートパソコンに向かっていた紗耶は、蓮子に気付き、一度作業の手を止めていた。

 しかし、蓮子の口から紅葉の名前が出た途端、再びキーを叩き始めた。溢れそうな苛立ちをそこから逃がしているかのように、先程よりもいささか強いタッチ音が響く。


「……ばっさりと斬りましたね、紗耶さん」

 紅葉への嫌悪をひと息で表現した彼女に、一瞬言葉を無くした蓮子は、ややあってそれだけ返した。

「理由、聞きたい? ……そりゃ聞きたいからわざわざ来たんですよね」

 作業する手を止めはしない紗耶だったが、意識はしっかりと蓮子の方に向けているようだ。体勢はそのままで、ゆるやかに話し始める。

「私が彼女を初めて見たのは……そうね、二年位前かしら。高体連の時期でね、取材で運動系の部を回ってたときだったわ。ただ、私は剣道部の担当じゃなかったから、直接取材したりとか、顔を合わせることはなかったけど。
 彼女、すごくかがやいて見えた。細かな動きの一つ一つ、視線の運びさえもが。そう思ったの私だけじゃなかったはずよ。ただ通りかかっただけの人だって、彼女の動きが目の端に入れば足をとめて振り返った。体型とか技術とか、まだまだ欠けているところがあるのかもしれない。でも、心だけは『一級品』だと思った。
 その時はただ、自分がそれ程までに感じる人がいたことが嬉しかった。彼女を知ったことが誇らしかった。彼女がそこにいるだけで、なぜか心が浮き立つ。それくらいにね…………」



――――――――



「なによそれ、ベタ褒めじゃない」

 蓮子の口から語られる紗耶さんの、恐ろしいまでの褒め様に、ついぼそりとこぼしてしまった。
 これではますますわけが分からない。そういった意味を込めて首を傾げた私の表情を見て、蓮子が軽く苦笑する。

「まあまあ、話はまだ途中なのよ。……それより、さややの話を聞いてなにか思わなかった?」
「……? やたら好感触だったようには思うけれど、これといって特には……」
「……そう? まあいいか。続けていい?」
「ええ」



――――――――



「でね」

 急に部屋が静まりかえる。言葉とともに紗耶がキータッチする手をとめたからだ。

「それからだいぶ経って……もう次の年になってたかしら。今度は部活絡みじゃなく、ただの取材で高等部に行く機会があったのよ。そこでまた、彼女を見かけたわけ。
 さすがに剣道のときほどの気迫は無いけれど、前に見たときの印象もあってすぐ見つけられた。というか、私はその一日高等部の校舎中を走りまわってたんだけど、彼女、いろんな所にいるんだもの。休み時間のたびにちょくちょくすれ違ったわね。
 私はそのたびに勝手にテンション高くなったりしてたんだけど、何回目かにすれ違ったとき、ふと思ったの。私、紅葉が誰かの手伝いをしているところしか見てないなあ、って」

 紗耶は、そこでふと気が付いたように再びキーを打ち始めた。

「イベント前でもなんでもない、言わば『普通の日』なのよ? いくら先生でも一人の生徒をこき使い過ぎじゃないか、そう思って彼女のクラスを取材するときにそれとなく聞いてみた。
 ……そうしたら、違った。
 彼女ね、何人もの頼みごとを次から次に引き受けていたのよ。先生からの頼みも、先輩からの頼みも、同級生からのも、一つも断わることなく。私事はぜーんぶ後まわしで。
 それだけだったら、『おもいやりのある子』なんだなあ、で私の疑問も終わったかもしれない。でも、気付いちゃった。それだけ忙しそうにしてる彼女を手伝おう、っていう子がクラスには居なかったのよ。なんでだと思う?」

 そこまで、一気に話してから、紗耶は蓮子に疑問を投げ掛けた。

「はあ……え、まさかとは思いますけど、イジメ、とかじゃないですよね……?」

 紗耶自身、返事をもらえると思っていなかったのか、蓮子のその答えに少し驚いたように振り返った。だが、その顔にはわずかに苦笑が浮かんでいる。

「違う、違うわよ。私もちょっと心配したけど、大体そんな子じゃないし、そんなクラスでもなかった。実は答え、もう言っちゃったのよ。彼女には手伝ってくれるような人がいない……つまり、彼女には友人と呼べるような存在がいなかったの、そのクラスにはね。
 クラスでの彼女の評判は決して悪くない。けど、特別仲のいい存在もない。そりゃあずっと誰か彼かの手伝いをしてたら、友だちと楽しくおしゃべりしてる暇もないかもしれないわ。でもね、きっとこれはそういうことじゃない。
 彼女はきっと『みんな』が一様に大事なのよ。誰とでも公平に接するし、誰の頼みごとでも聞く。だから、自分を利用してサボろうなんて輩がいても、怒りはするけど断わることはないし、自分のことは捨ておいて助けにいってしまう。そんな子なのに、これといった友人はいない。
 つまりね……」

 そこで一度、紗耶は言葉を切った。いや、それはまるで言葉に詰まってしまったようで……。


「……あの子はね、きっと誰かを自分の特別な存在として見ようとはしないのよ。これからも、ずっと」

 そうして紗耶は、最後にそう結論づけた。

「それは意識してやっていることなのか、それとも意識しないうちにそういう状況になっていたのかは分からないわ。どちらにしても私は、とにかくそれが許せなかった。
 ……でも、身勝手なものですよね。それは彼女の信条であって、私がとやかく言うべきことじゃないのに。なんで初対面で、あそこまで言っちゃったんでしょうね。ほんとに…………」



――――――――



「……、という話だったのよ。それからはや、ふた月がたちました。もみちゃんのあの様子じゃあ進展ナシ、よねえ」

 なんとまあ……ややこしい話ね。お互いのこと自体が嫌いなわけじゃないのに。ちょっとした食い違いが絡まっちゃってる感じかしら。と、いうよりも……

「ねえ蓮子。さっき、紗耶さんの話を聞いてなにか思わないか、って言ってたわよね? それってもしかして……」

 私の言葉にひとつうなづきを返した蓮子だったけれど、特には答えずに、私の言葉をさらにうながしてきた。

「メリーは、どう思った?」
「紗耶さんは、つまり紅葉ちゃんの性格が許せない、ってことなのよね? でも、それ以外については『かがやいて見えた』って。まるで……」

 相手の姿を見ただけで心が浮き立つ。道ですれ違うだけで心が高揚する。それってまるで…………

「まるで……恋、してる、みたい……?」

 もうひとつ、深くうなづく蓮子。

「さややの最後の結論。私にはまるで、『彼女が私を特別に見てくれることは絶対にないんだ』って言ってるように聞こえたわ。それが気に入らないって。
 聞いた瞬間に思ったわよ。こりゃ史上最悪の両思いカップルだぞ、ってね」
「でもちょっと、それって……こじつけが過ぎないかしら。紗耶さんが直接言ったわけじゃないんでしょう? 紅葉ちゃんが好きだ、って」
「でもさあ、何かよっぽどの理由が無いかぎり、あのさややが初対面の後輩を罵倒なんてしないでしょう?」
「そうだけど…………」


「ま、確かに結論は出せないわよ、これだけの判断材料じゃ、ね。でもこれ以上は周りのやつが踏み入っていける領分でもないわ。後はどちらかが突破口を開くことを祈って、私たちは見守るしかないってこと」


 ごちそうさまでした、と蓮子は両手をあわせて、皿を返しに行ってしまった。



◇◇◇◇◇◇◇◇
――――――――



 蓮子が去った部屋で、紗耶は未だ、ノートパソコンの前に座っていた。しかし、キーを叩く手はとまり、視線は画面に向いているものの、その目は画面を映してはいないようだった。

「なんで……あんなこと、私は……なんで……」

 意味を為さない呟きがループして、次々にこぼれだす。
 しばらくして、はっと気が付いたように目の前の画面を見つめた。

「あ、はは……こりゃ、書き直しね……」

 紗耶が記事を作成していた画面には今、文章とはとてもいえない、日本語ですらない文字の羅列が並んでいた。蓮子に対して話しながらも動かしていた目と手は、どうやら正常なはたらきをしていなかったらしい。

 ダメになった箇所を全て削除して両手を構えなおし、今まさにキーを打ちだそうというところで、紗耶の動きがとまった。そして両手ではなく片手で、のろのろと一行だけ、打ち込んだ。



 ごめんなさい、もみじ



 自分自身で打ち込んだその文字を、わずかな驚きをもって、紗耶は見つめていた。



 ごめんなさい、もみじ
 ごめんなさい、もみじ
 ごめんなさい、もみじ、ごめんなさい……



 目的もなにもなく、ただ同じ言葉が並んでいく。

「あはは……」

 紗耶の口から、乾いた苦笑が漏れだす。その間にも、画面に表示される文字列は増えていく。

「なんで……なんで、こんなに簡単なのよ……! ただの一度だって口に出せやしないのに……なんで文字にするのはこんなにも簡単なのよ!?
 …………そっか、物書きってみんなヘタレなんだ。口に出来ないから、文字にするんだ。あは……。こりゃ、大発見……面白すぎるわよ、これ、大爆笑ものじゃない。ねえ? 誰でもいいから笑って! 可笑しすぎてもう、泣けてくるじゃない……! あは、あははははっ…………!」



――――――――
◇◇◇◇◇◇◇◇



「ああ、忘れるところだったじゃない」


 昼食を終えた私たちは駅前のいつもの喫茶店に来ていた。食堂を出た蓮子は、私を連れてまっすぐここに向かったのだ。どうやら、午後の講義にも出る気はないようね。
 店に入った途端にマスターから『これでひと安心』というような視線を向けられたり、マスターからも軽く物申されたりと、まあちょっとあってから、私たちはいつもの窓際の二人席に座った。
 ちなみに今テーブルにあるコーヒー二杯はマスターからのおごり、ね。蓮子の快気祝いらしい。……快気祝い?


 そんなときに唐突に、蓮子がそう言って手をうった。

「なにが?」
「あのね……」

 思いっきり呆れたような顔をされた(今日はよく呆れられる日ね)。そのままの表情でコーヒーカップを口に運ぶ様子はちょっとした絵のようだけれど、「にが……」と小さくつぶやいた声がちゃあんと聞こえたので減点。

「あなたの里帰りの件よ。本来ならこっちが本題だったはずなのに、もう」

 ……ああ、そうね。さっき食堂にいるときに話そうと思っていたのに。私もすっかり忘れちゃってたわね。

「そうねえ。話すべきことは決まっているんだけど……、どういうふうに言ったものかしらね……」
「なになに? そっちもなにか深刻なハナシなわけ?」

 別に深刻、ではないわよね。重大ではあるんだけれど。
 ……そうねえ、こう言ったらいいのかな?



「蓮子。私……名前が、変わるかもしれないわ」

「へえ~。そりゃまたなん、で…………え、『名前が、変わる』……?」



 一週間前、私は実家からの連絡で急な里帰りをすることになった。里帰りと言っても、結局は京都の中を移動するだけだから実質的な距離はそこまでないのよね。それでも『里帰り』という行為に微かな懐かしさを感じるのは、心の中を占める面積が小さくなってきているからかしら? うん、たまには心理学っぽいこと考えないと。

 しばらくのあいだ電車に揺られてなつかしの(言うほどじゃないんだけど)我が家に帰り着くと、そこで私を待っていたのは実家に住んでいた頃ですら正月の時くらいにしか会ったことのない、本家と親戚筋の方々だった。



「……急にお偉いさんみたいなのが出てきたわね……」

 さっきの私の言葉を聞いてから、何故か蓮子は思いつめたような表情のままだ。なにか言い方がまずかったのかしら……?

「んで、その本家さんとやらはなんなの?」
「ええと、蓮子は『ラフカディオ・ハーン』って知ってるわよね」
「もちろん。……って、ちょっと。話をそらさないでよ、メリー」
「大丈夫、そらしてないわよ。『ラフカディオ・ハーン』は日本に帰化して、というよりも日本の小泉家に婿入りして『小泉八雲』という名前になったんだけど。本家さんっていうのは、その小泉さんのことよ」
「ふーん……」

 ……あら? 食いついてこないわね……? 蓮子なら飛びつく話だと思ったのに。

「でね、小泉八雲とか、その周りの人達に師事していたお弟子さんが小泉八雲が亡くなった後にその名前をもらって、八雲家っていう家ができたのよ。親戚さんっていうのがその八雲さん」
「ふーん…………。…………ねえ、メリー。落ち着いて、冷静に、答えてほしいんだけど……」

 テーブル越しに、蓮子の顔が急接近してきた。目もちょっと充血してて、はっきり言うと怖い。何よりもイスに膝立ちは行儀が悪いわよ、蓮子。

「わかったわよ。ちゃんと答えてあげるから。……とりあえずイスに座って、深呼吸して、落ち着いて質問してちょうだい」
「うん……」

 ちゃんとイスに座りなおして大きく深呼吸をする蓮子。うん、あなたのそういう素直なところ、私は好きよ?
 ……ただ残念なのは、いまひとつ落ち着いたようには見えないことかしら。

「ねえ。ねえ、ねえ、メリー」

 やっぱり落ち着けてなかったみたいね……。

「ねえ、その……さっき言った、『名前が変わる』ってのはその、もしかして、まさかとは思うけど、もしかしなくても、その……け、けっ、け、こん、けこ、けっこ……」
「こけこっこー?」
「ちっがうわよ!?」
「ベタ過ぎるのよ!」
「それ、こっちが言いたい!?」

 ひととおりツッコミを入れてくれてから、蓮子は一気に気が抜けたようにイスにへたりこんだ。

「……とりあえず、少しは冷静になったかしら、れんこはん?」
「まいこはん、みたいな言い方はやめてぷりーず」

 ……ん、よろしい。いつもの余裕は戻ってきたみたい。

「それで、何が聞きたかったのかしら? 結局のところは」
「……正直に、答えて欲しいの」
「今ってそんな深刻な話してた……?」


「お願い、ごまかさないで言って欲しいのよ。…………メリー、あなた、もしかして――















――結婚……しちゃうの……?」














「…………はい?」

 ちょっとまって。今までの話のいったいどこからそんなオメデタそうな話題に横っ飛びするのよ?

「…………」
「…………」

 あー、なんだかタイミングを見失っちゃったわ、お互いに。

「えーと、ごめんなさい。蓮子、話がお先真っ暗」
「だっ、だって……その、名前が変わるって……。言ってたじゃない……」

 そう言ったっきり、蓮子は俯いてしまった。どういうこと? 親戚の話が『結婚する』になるまでの途中経過がピンとこないのだけど。……待って、『名前が変わる』? ……あ、なんだ、もしかして…………

「あ……あはははは……!」

 突然笑いだした私に驚いたのか、蓮子がびくり、と顔をあげた。

「え、ちょっと……どうしたのよ……メリー」
「あははは……もう、蓮子のはやとちりおたんこばか」
「酷い言い様じゃない!?」

 ……まあ、すぐに言わなかった私も悪かったかもしれないわね。

「あのねえ、蓮子。名前が変わるって言っても、結婚するだけじゃないでしょう?」
「…………ほほうほ?」
「あなたはいつからサルの子になったのよ……。確かに一般的には結婚か婿入りじゃないと名前は変わらないけど、改名も出来るには出来るし。それに、養子っていう場合もあるわよ?」
「あ……あー、はは……。なんだ、じゃあメリーは……」


「そういうこと。私、八雲さんちの養子になるかもしれないの」



◇◇◇◇◇◇◇◇



 家に着いた途端にそんな話を持ちだされちゃったのよ。もともとその話のために呼ばれたんでしょうけど。
 その提案もほどほどに、今度は三家の歴史の話を聞かされることになった。どうやら、昔から三家の間での養子、嫁入り、婿入りはずっと行なわれてきたらしい。血筋だけで言えば、三家の間に違いはないのだとか。

 そしてなぜ、私が養子に選ばれたのかというと……



「選ばれたのかというと?」
「……それがねえ、よくわからないのよ。『八雲の相が強く出てる』、とかなんとか」
「ほえー、なんじゃそりゃ。そうだ、親御さんはなんて?」
「ああ……。そういう家柄だっていうのは二人とも分かってたらしくて、そこまで抵抗はないみたい。それから、『名前というのはその人の一側面を示すものでしかないわけだからね。例えお前が「マエリベリー」でなくなったとしても、私たちの娘であることに変わりはないと、私はそう思うよ』ってパパが」
「かあーっ……! すらっと、すらっとそんなこと言えちゃう人なんだあ、メリーのお父さま」
「……ちなみにママは『ああ、うちの子が、私たちの娘がいなくなっちゃう。あなた、どうしましょう』って、嘘泣きしてた」



「……いつも思うんだけど、あなたのお母さまって年おいくつ?」
「…………いつも言ってるけど、17才(仮)」
「娘より若いってどういうことよ!? ……っていうのもいつも言ってるわね」
「あの人にツッコんだらそこで終わりよ、っていうのもいつも言ってるわね」

 そこで二人同時に溜め息をつく。ああ、これもいつもやってるわねえ。


「それにしても、『養子』、ねえ。ウチみたいなフッツーの家庭には分からない世界だなあ」

 まあ普通に生活していれば『養子』だなんだっていう話題からはほど遠いのかしら。
 でも、あれね。蓮子の家がフツーっていうのは聞き捨てならないわ。

「フツー? あら、あなたのおばあさまはノーカウントなのかしら?」
「……あのひとはにんげんじゃないもん」

 こらこら、目をそらさないの。

「だってあれよ!? 孫娘を叱るのにまずナイフ(ゴム製)飛ばすばあちゃんが何処にいるのよ!? しかも料理中は一定確率で左手のナイフじゃなくて右手の包丁が飛んでくるのよ!?」
「奇特な経験ができたと思えばいいじゃない」
「ええ。そのかわりいつ危篤になってもおかしくなかったけどね。私がね」


 蓮子はずずっ、といささかコーヒーには似合わない音をたててカップに残っていた分を一気に飲み干した。

「で、その話。メリーは受けるつもりなんでしょ?」
「ええ、そうね。本当はその場で受ける、って答えようと思ったんだけど。それはまた今度にするから焦らずに考えていいって」
「名前、とかも変えちゃうの?」

 あ、それは……。

「……まったく考えてもいなかったわ」
「まあ、無理に変えちゃう必要もないのかしらねえ」
「そうね…………って、それじゃ私、『八雲メリー』ってことになるんだけど」

 なんだか語呂が悪くないかしら……?

「なんか変? じゃあ『八雲刈一』とか」
「そんなのもう女性の名前ですらないわよ……? ……名前、ねえ」

 そうだ。もし、私が日本名を名乗るとしたら……それなら、あの……写真の……

「? どしたのメリーさんや。……なにも今すぐ悩む事ないじゃない? 話を振ったのは私だけどさ」
「え? ……そう、ね……」



 あの、写真。私を八雲家に引き寄せた、一枚の写真。

 あれの話を蓮子にするのは、また今度にしよう。これといって理由も無いけれど、なんとなく、私の中で整理がついていないから。



◇◇◇◇◇◇◇◇



 店を出るとちょうど、聞きなれた鐘の音が大学を囲う林の向こうから聞こえてきた。

「あらら、今日の分の講義が終わっちゃったわね」
「白々しく言ってるけれどね、蓮子。一日分といえどバカには出来ないのよ?」

 そうは言ってみるけれど、馬の耳に念仏っていうのかしら。隣りであらあらマズいわねえにひひ、なんて笑ってる蓮子には効果ないみたいね。

 それにしても、午前中に紗耶さんから聞いた話だと、蓮子はこのところ相当に話題を振りまいてたみたいだったけれど……。だとすると、さっきまで捕まらなかった代わりにこれから囲まれるのかしら…………?



「あ、見つけた。お二人さん、きゃーっち!」

 …………ええ、聞こえましたとも。まるでもう天からのお告げのように。

「あ、はっちだ。こんちわー」

 こらこら、蓮子。あの人も先輩だから。しかも私の。

「やほー。蓮子ちゃん、メリーちゃん」
「あ、さようなら海堂さん」
「おおう!? そこでそのスルー!? 私泣いちゃうわよ!? ……じゃなくて、大事件、大事件なのよ!」

 テンションに任せてその場でジャンプしまくる海堂さん。巻きこまれたツインテールが大変なことになっているけど、そんなことはお構いなしだ。

「ついにやったわよっ! これで紗耶に勝てる! だってあいつにはこの事件の記事、どうやったって書けないもの!」
「……! ……さややにはどうやっても書けない記事、ですか?」

 海堂さんが勢い任せに言った言葉に、蓮子が食いついた。だからね、いくら本人の前じゃないからって『さやや』はやめなさい。
 それにしても、紗耶さんには書けない記事……? 蓮子は何か心当たりがあるのかしら?

「そうなのよ! ふふふ……自分が一番事情を知っているのに、それを記事に出来ない。究極のジレンマに苦しむがいいわ……。……あ、でもそんなことに悩んでるヒマもないかもねー。くっそー、幸せそうだったなあ。妬ましい、妬ましいっと」
「紗耶さん、なにかいいことでもあったんですか?」
「いいこともなにも……あ、どっちかっていうとイイコト?」

 はい?

「いやいや、幸せそうといえば相手の子も負けず劣らず……」
「「相手の子!?」」
「うわおっ!? どっ、どしたのよ二人ともいきなり?」

 聞き逃せない言葉が聞こえて、思わず海堂さんに詰め寄ってしまった。と思ったら蓮子も同じことをしていた。あれよね、相手の子がいて、幸せそうってことはつまり……!

「誰です? そのさややの『お相手』って、誰なんですか!?」
「あわわわわわわわかったってええええええ……だからやめてええええ、ストップうううううう!」
「ちょっと蓮子ストップ、揺らすのストップ! 海堂さんが泡吹きそうだから!」

 蓮子の手から解放された海堂さんはそのあともしばらくあわわわわわわ……、って言いながら揺れていたけれど、一分ほどしてようやく落ち着いた。
 ああ、ツインテがさらに酷いことに……じゃなくて。



 …………あれ?


「海堂さん、その相手の子って、その、もしかして女の子ですか? しかも高等部の」
「おおお、アタリ。二人ともなかなかのルックス持ちなもんだから、ガッカリさんションボリくん続出なのよー」
「剣道もやってたりして。そんでもって割と背が低い」
「そうそう……、アレ? もしかして二人ともこの話、もう誰かから聞いた? 今日のちょうどお昼時の話なんだけど」

 いえいえ。私たちは昼、食堂にいましたし、その後はずっと外に出てましたから。

 ……でもね、海堂さん。誰かから聞くよりも、ずっとたしかな証拠が私たちの目に映ってるんです。少し前からずっと。

「はたてさん、はたてさん。ちょっち、後ろ振り向いてみてくれません?」
「んー? なにー?」

 蓮子が海堂さんの背後を指さす。ええ、そうです。あなたの後ろに見える……


「さてさて……討伐目標を発見、ね。紅葉、私がアレ捕まえるから、トドメの一閃よろしく」
「がってん承知です、紗耶さん」
「……うげ、マズい」


 ……あの二人のことです。


「いやー、初めての共同作業、なんて言うけど、ケーキ入刀じゃなくて、人をバラすことになるとは思わなかったわあ」
「いえいえ、人体に入刀、ってことでいいじゃないですか」

 なにか二人からえげつない会話が聞こえてくるけど……。さてどうしようか、と思案している私の肩に、ポンッと蓮子の手が置かれた。


 ―――邪魔しちゃ悪いわよ。せっかくの共同作業なんだもの。
 ―――それもそうね。


「あーっと、これはズラかろうか二人とも。……え、蓮子ちゃんもメリーちゃんも、すごくいい笑顔だけど、え、ちょっと、何処行くのよ? 何? がんばって生きて下さい、ってどういうこと? ねえ、まさかこれ、私だけが狙われてるの!? いやっ、こないでっ!? こっちこないでえええええええええ! いやああああああああああああっ!?」



 背後から断末魔のような声が聞こえたけれど、私たちは一切関知しない。
 ただし、その週の新聞に二人に関する記事、さらにいえば海堂はたての記事が記載されなかったことは言うまでもない。



◇◇◇◇◇◇◇◇



「昨日の今日、どころじゃないわねえ。それにしても、やっと、かあ……」

 蓮子がしみじみと呟く。私も、ついさっきまで話題にしていた二人が結ばれた、って言うのはなんだか奇妙な感覚だけどね。

「本当にいつ何が起こるか、わからないものね。さっきの今、ってくらいだもの。あの状況から、いったい何がきっかけで……」
「あら、メリー。それはちょっと違うんじゃないかしら?」

 問い掛けるでもなく口にした言葉に、蓮子は本当に嬉しそうに、答えをかえしてきた。

「さっきも言ったでしょう? あの二人に必要なのは突破口だ、って。本人たちの心が問題だったの。きっかけなんて、きっと無いに等しいのよ」

「そっか…………ねえ、蓮子。手、つないでもいい?」
「あれま、メリーさんが積極的。どしたの、いきなり?」

 そうね……特には、理由もないんだけどね。

「きっかけは、なくてもいいんでしょう? 気持ちの問題、よ」
「あら、言うじゃない。……じゃあ」
「え?」

 蓮子は一瞬にやっと笑うと、私の手を握ったまま、急に走り出した。

「えっ、ちょっ、ちょっと蓮子!?」
「私を一週間放っておいた分、これからちゃあんと付き合ってもらうんだから! 置いてかれないように、手はしっかり握っててよ?」

 ……しかたないわね。今日一日は、しっかり付き合ってあげることにしましょうか。
 放っておいたことに対する申しわけなさとかも無いわけじゃない。けれど何よりも、蓮子が自分の先を歩くことに、こんなにも心弾んでる私がいるんだから……。



◇◇◇◇◇◇◇◇

 ~おまけ~

◇◇◇◇◇◇◇◇



 今日は結局、最後まで蓮子に連れまわされて、部屋に帰ってくるころにはもう久々にへとへと。そのうえ最後にはなんと、今度里帰りするときには連れていく、という約束までさせられてしまった。……ああもう、どうしようかしら。



「つっかれたあ……」

 ベッドのスプリングがきいていて、倒れこむと気持ちいいのよね、これ。……そういえば、このベッドに転がるのも一週間振りなのね。

 見慣れた白い天井。毎晩、見つめているとその日あったことが自然に浮かんでくる。

「…………」

 ベッドの横に置いてある旅行カバン。もらってきた資料やらお土産やら色々なものが入っている。その中から一冊のアルバムを取りだして、しおりでマークしてあるページを開く。
 一世紀以上の昔。平成の時代に撮られた、八雲家の歴史を記録した写真の数々。その中にあって飛び抜けた違和感を放つ一枚があった。

 透明な保護フィルムをはがして、その一枚の写真を手に取る。

 青空を背景に、二人の人物が写っている。周りに建物が一つも写っていないから場所は分からないけど、一見何の変哲もない、平和な風景を切り取った写真。

 でも、写っている人物が問題だった。
 左にいる男性は八雲家のご先祖。今現在、八雲家の中心的な役割である教育事業を拓いた人、らしい。


 そして、その隣りで『私』がカメラにやわらかな笑顔を向けている。

 ……私そっくりの、薄い紫を基調としたドレスのようなものを着た女性が写っているのだ。


 写真の裏をひっくり返してみると、ネームペンかなにかで『六月・八雲紫と』と記してあった。どうやら、この女性の名前は『八雲紫』というらしいのだ。

 私と血の繋がった先祖だというのなら、生き写しといわれても説明がつく。しかし、『八雲紫』なんて人物は八雲家の歴史の中には居なかったと、その家系図が確かに主張していた。

 ……だとしたら、この『私』は一体何者なのだろうか……?


 そしてもう一つ、もしかしたらもっと重大な謎がある。

 アルバムに収まっている、他の写真に目を向ける。後に精密技術の完成期と言われた平成。そんな時代に撮られた写真といえど、時間の流れには勝てなかったらしい。そのどれもが、淡く、色褪せてしまっている。

 その中で今、私の手にあるこの一枚だけが、澄んだ青空の色をそのままに残しているのだ。誰が、一体どうやってこんな写真を……?


「やくも……ゆかり」

 昼間、蓮子が名前の話を持ちだしたとき、真っ先にこの写真のことが頭に浮かんだ。

「八雲紫……」

 口に出してみるたびに、なぜかしっくりとくる。これは『私』の名であって、私の名前ではないのに。
 それでも……名前の方が私に向かって名乗れ、と言っているように思えるのは本当にただの錯覚なんだろうか……?

「八雲、紫……ね」


 写真を元の位置に戻して、再び保護フィルムをかける。色褪せた写真たちの中でたった一枚、鮮やかに自己主張している写真。
 ……もしかしたらこの写真は、今の時代に何かを伝えるために、色を残しているのかしら。もしそうなのだとしたら、『私』から写真を受け継いだ私が『八雲紫』を名乗ってみてもいいかもしれない。


 この写真は明日にでも、蓮子に見せてみよう。そのときに、名前の話もしてみよう。
 蓮子なら、きっと…………





『ん……。いいんじゃない? ……本当にいいのかって、そんな。私はメリーの名前が何になっても困らないわよ。だって、そうでしょう? 私がメリーって呼べば、それでいいんだもの』


 ……きっと、そんなふうに言って。私の小さな心配なんて笑い飛ばしてくれるんじゃないかな。
  


 ―――また、やってしまった。こんなんじゃ、新聞記者としても失格だ、私……。







「…………全く。あんたに思い人の一人でもいれば、ネタにもなるっていうのに。ほんっとに役立たず」



 その言葉が聞こえたのか、否か。どさり、と重苦しい音をたててバッグが地面に落ちる。いや、それとも降ろしたのか。落とした本人はそれを気にかける様子もなく、俯いたまま、その場に突っ立っている。その表情は、陰になっていて見えない。

 対して、そう言った本人は、何故か自分の発した言葉にショックを受けた様子だった。だが、それも一瞬だけ。すぐさま、予想される衝撃に身構える。

 ―――さて、今度は顔に来るか。それとも腹に一撃入れてくるかしら。もしかしたら本当に噛みつかれたりして……。

 目をつぶってそのときを待つ。砂を踏む音が弱々しい足音となって、一歩ずつ、一歩ずつ、近づいてくる。よけるつもりは無かった。もしかしたら殺されてもおかしくない言葉を吐いた、という自覚が彼女にはあったから。きっと永遠に口にはできない謝罪の、せめてもの代わりに、と。



 そして、そのときは来た。


 腹から背中にかけて通り抜ける、全体を囲うような衝撃…………





 …………いや、それは衝撃というには弱すぎる、優しすぎるものだった。

 そう、それはまるで―――まるで、彼女を抱きしめるように…………





「…………え……?」

 予想だにしない事態に、目を開けた彼女―――紗耶の目に映ったのは、殴りかかってくるはずの紅葉が、自分に抱きついて震えている姿だった。

「…………いるんです……」

 聞こえるか、聞こえないかというか細い声が漏れてくる。その声も、本人と同じように微かに震えているようだった。

「……いるんですよ…………好きなひとくらい……わたしにだって、いるんです……」
「…………嫌。嘘、よ。そんなの……嘘でしょ」

 ―――今、この状況を考えろ。

 紅葉の言葉と、そして紅葉がとった行動。それだけで、紗耶はほとんど直感的に答えを手にしていた。
 でも、それを認めることができない。認めることなんか、できなかった。なぜなら、それを認めてしまえばもうひとつ、恐ろしい現実に辿り着いてしまうから。

 ―――私は、いままでこの娘に何を言った……? いいや、そもそもの初めに私は…………私はこの娘に何と言って侮辱した!?

「ずっと……ずっと好きだったんです…………! 初めて見たときからずっと―――! 何があっても、忘れられなかったんです……」

 ほとんど叫びに近い、その独白に紗耶は思い出す。自分が初めて、紅葉の姿を目にしたときのことを。

 その輝きに心が躍った。生まれて初めての高揚感が心地好かった。その輝きに憧れて、そして、誰の物にもならないのだと結論付けて。自分勝手に絶望して、それで八つ当たりのように傷付けて。

 ……いま、ここで泣いているのは、普通の女の子じゃないか。普通に笑って、普通に怒って、実は好きなひとがいて……。
 それを手に入らないものだと、高嶺の花のように見てしまったのは一体誰だ。



 ―――そっか、私が、私の方が勝手に諦めていたんだ。……ただのバカじゃない、ほんと……。


 壊れやすいものを扱うように、そっと背中に手を回して抱きしめ返す。それだけで、怯えるようにびくり、と身体を強張らせる。そんな彼女が、いままで目にすれば嫌悪感しか感じなかったはずの彼女が、今はどうしようもなく愛しい。
 もう大丈夫だと。そんなに悲しがらなくても大丈夫だと、早く伝えてやりたいと思った。謝りたいこともあった。でも、意固地な彼女は、それをただ言葉にすることができなくて。そんな自分がどうしようもなくて、悔し紛れに一言だけ耳もとで囁いた。



「……嘘だったら、殺すからね……紅葉…………」


「――――! ……ぐすっ、……なに、言ってるんですか……? 私だって……離すつもりはないんですから……紗耶さんのほうこそ覚悟して下さいね……」



 どうやら、手に入れたのは彼女の方で、自分は手に入れられたらしいことを紗耶は知った。

 ―――だけど、ええ、それでいいじゃない。それでいいのよ。







 いま、彼女の魅力に因われているのは私の方。だけどこれからは、彼女を私の虜にする時間だって、いくらでもあるのだから。

 だから今は、私の腕の中にある幸せの感触を、もっと抱きしめていたい……







 キュイイーン。チキーン。





 思わず、二人そろって顔をあげて、真顔で見合わせてしまう。雰囲気もなにもあったものではないが、二人の世界に突然ケータイの撮影音が響いたらその時点でぶち壊しだろう。

 ケータイに内蔵されているカメラで撮影するときに必ず鳴るアレである。実はちょっとした細工で鳴らないようにできるのだが、この盗撮者はそんなことも忘れるほどに焦っていたのか。

 周囲の隠れられそうな場所を中心に紗耶は辺りを見まわす。

「……紗耶さん! あれ!」

 叫んだ紅葉の指さす方向に目を向けると、見覚えのある長いツインテールが建物の陰に消えていくのがちらりと見えた。



「…………紅葉」
「はい、なんですか?」
「いきなりだけど、潮干狩りに行こうか」
「いいですけど、竹刀しかないですよ? シャベルとか要りませんか?」
「ううん。竹刀があればいいのよ。掘るんじゃなくて、叩っ壊すだけだから」
「…………?」




 ―――今しばらく、この幸せを味わうのはおあずけらしい。仕方ないわね。紅葉が私の隣りを走ってくれること。それで我慢しましょうか。……十分過ぎるわよ、まったく。



◇◇◇◇◇◇◇◇



 剣の道と記者の道。交わるとしたらそれは恋の交差点。大きな交差点ってさ、なかなか待ち合わせがうまくいかないよね。お互いに反対側のコーナーで待ってたりして。


 玖爾です。こんちは。
 まずはお詫びさせてください。この作品は、過去に投稿した『主に、私がマエリベリー・ハーンじゃなくなることについて』の改訂版です。半分以上は同じものです。読んでいても分からないくらいの違いしかありません。
 それでもなぜもう一度投稿したのかというと、ただの自己満足です。以前のこれが、どうしても完成しているとは思えなかったので(そもそも、そんなもの投稿すること自体が悪いのですが)。コメントで反応を多くいただいた疑似あやもみの事の顛末も書き足してみました。

 つきましては改訂前の作品はそのうち削除しようと思います。コメント&評価をして下さった皆様、申しわけありません。そして、ありがとうございました。
玖爾
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コメント



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1.100v削除
再投稿、加筆修正、良いじゃないですか! と言ってみます。
再投稿されなければ、自分のように見落として読めなかったかも知れないんですし。
この2組は目が離せませんな。ハラハラもニヤニヤも止められそうに無いですw
4.100名前が無い程度の能力削除
よーし、これで三ヶ月は戦える!

結婚しちまえよおまいら、と言わせていただこう
5.100名前が無い程度の能力削除
結婚しないの?
10.100名前が無い程度の能力削除
うさみさんはね、メリーがいないと寂しくて怪奇現象起こしちゃうの
12.100名前が無い程度の能力削除
良し
22.100名前が無い程度の能力削除
ベネ