「もう、どうにもならないそうです」
彼女は私の目の前に置かれたカップに紅茶を注ぐ。
私はそれを片手に取りながら言葉を返す。
「あれとも長い付き合いだし、何者にも寿命には逆らえないものね」
私は、仕方ないさ、とぼやいて紅茶を喉へ流し込んだ。
まあ、これまで絶えることなく働き続けたことを賞賛するべきだろう。
喉を落ちて行く液体の温かさに合わせるように、空気は少し蒸し暑いな、と感じる気温だ。
「でも、直すことはできないけれど、動かすことはできるそうです」
どこか寂しそうな声だった。
そうか、と短く答えて窓へと歩み寄る。
「人で言えば心臓部に当たる部品だそうです」
そういえば、こいつは、あれに豪くご執心だったなあ。
カップの中身を飲み干しながらそんなことを思い出した。
再び、そうか、と返す。
私は空になったカップを彼女の方へ突き出す。
すると、彼女はそれを受け取って、机まで運んで行く。
私は窓の外へと視線を移す。
後ろの方で紅茶を注ぎ足す音が聞こえた。
そして、その音が消えると、耳に再び彼女の声が入ってきた。
「どうします?」
「あなたは、どうして欲しい?」
窓の外に浮かぶ月の周りには幾つかの星が隠れるように煌いていた。
「私、ですか?」
「ええ、正直に言えばね、私はどっちでもいいのよ」
身体を半身にして、首を捻って振り返り、彼女の目を見詰める。
すると、彼女は困ったように視線を泳がせた後、顔を俯かせながら答えた。
「やはり、館のシンボルみたなものですし……」
「そんな大層なものなのかね」
間髪入れずに問えば、答えは頷きで返された。
肺に溜まった空気を吐き出しながら、私は窓を開けて少し身を乗り出す。
あまり品のある行動とは言えないが、こうしないといけないのだ。
首を傾ける。
そうすれば、例のそれの横っ面が窺えた。
ここら一帯で最も目立つそれ。
それは、この館の時間の象徴。
――時計台の針達は揃って綺麗に真上を指していた。
私はそれを無心で眺める。
長針が僅かに震えて右側へと動き出す。
しかし、いつまで経っても、短針と長針が別れることはなく。
やがて、長針の震えも止まるのだった。
随分と昔からそこにあったはずなのに、気に掛けるようなことはなかった。
誰が手入れをする訳でもないのに……それなのに、今まで一度も止まることなく私達を見守り続けてきた存在。
今にして思えば、なんだか母親のような存在だったのかな、とそんなことを思った。
だがまあ、所詮は無機物。
そこまで深い感慨を抱くようなことはない。
もし、あれが言葉を紡ぐ口を持っていたなら何を言うだろう。
壊れるまで放置されてきたことに対する怨恨だろうか?
幾年を耐え抜いた自分への賛辞だろうか?
それとも、何も口にせずに胸に秘めて置くのだろうか?
それが如何なる言の葉であろうとも、きっと私は受け入れるだろう。
いや、受け入れるべきなのだろう。
私は身を引いて、振り返る。
そして、再び問う。
「どうしたい?」
彼女は悲しそうな表情をする。
どうやら、彼女の答えに変わりはないようだ。
私は腕を後ろに組む。
もし、あれに人の言葉を理解する知能があったなら……
私はどんな言葉を掛けてあげればよいのだろう。
共に過ごしてきたことに対する喜びだろうか?
幾年を見守ってくれた感謝を述べるべきなのだろうか?
それとも、働き続けたことに対する賞賛だろうか?
しかし、そんな思考を遮るように声が掛けられた。
「紅茶、冷めてしまいますよ」
喉に流した紅茶は生温かった。
――私は妹に言う。
「交換することにしたよ」
妹はベッドに座って枕を弄りながら、ふーん、と気のない返事をした。
真剣に聞けとまでは言わないが、せめてこっちに顔を向けるくらいのことはして欲しいものだ。
「まあ、いいんじゃない」
その挙句、吐き出された、妹の投げやりな返事。
私は思わず溜息を吐いてしまった。
妹は最近になるまで、あれの存在すら知らなかったし、適当な返事も仕方ないのかも知れない。
けれどだ、妹もここの住人なのだから、少しくらい、驚くだとか、悲しむだとか、そういった反応をしてもらいたい。
そう思うのは、私の我が侭なのだろうか。
不満気な表情で妹を眺めてみる。
妹はそんな視線に気付いたのか、ゆっくりと顔を私の方へと向けた。
そして、口を開いた。
「私、結構あれ好きだよ」
折角、相手が乗ってきたのだし、相槌の一つでも打ってやろうかと思った。
そして、口を開こうとする私を遮るように手を翳した。
「ほら、初めてみたやつだしね」
辺りを見回して確認してみる。
なるほど、言われてみると確かにこの部屋に時計はなかった。
妹は私が再び視線を戻すのを待って言葉を続ける。
「どうせ壊れるんだったら、私が綺麗に壊してあげるのに」
「いやいや、あんたが壊したら直せないでしょ」
穏やかではない発言に、妹の額を指先で弾いてやる。
パシッ、と予想以上に大きな音が出て自分自身、驚いてしまった。
「でも、また壊れるんでしょ」
「ええ、そうね」
「どうせ壊れるのなら、初めてから直さなければいいのに。悲しいのを何回も味わうなんて馬鹿みたいじゃない」
妹は額を撫でながらそんなことを言う。
「そうかもね。でも、動いてなかったら、寂しいでしょ」
私の言葉に妹は額に手を当てて言葉を考える。
痛がってるだけかも知れないが……
しばらく待ってみても、妹の中で結論は出なかったようだ。
何かを呟きながら、再び枕を弄りだした。
僅かな沈黙が生まれる。
そこで私は一つ質問をした。
「ねえ、あなたは何年待てる?」
妹は面倒くさそうな顔をしながらも答えてくれた。
それは先程までとは違って、しっかりとした芯のある声だった。
「大体、五百年くらいなら軽く我慢できるね。だから、もっと長くてもいけると思うよ」
その答えに、そう、とだけ返して私は扉へと向かう。
「ねえ……」
「それじゃあ、そういうことだから」
妹は何かを言おうとする。
しかし、私は会話を断ち切るようにそれだけ言うと、そそくさと退散するのだった。
――机の向こうに座る友人に話し掛ける。小悪魔は横で黙って聞いているだけだ。
「替えることにしたよ」
友人は私の方を一瞥すると、手元の本へ視線を戻した。
それが彼女なりの、話を聞いている、という主張なのだろうけど、流石にその態度はどうかと思う。
「別に報告してくれなくてもいいわよ」
今日はいつにも増して無愛想だと思った。
何か機嫌が悪くなるようなことがあったのだろうか。
態度や話しの内容こそ普段通りだが、僅かに言葉尻が強くなっているのに気付いた。
「私は、別にあのままでも構わないと思うんだけどね」
半ば愚痴るように本音を漏らす。
いつもの友人なら聞き流すような些細な言葉だ。
「……それは頂けないわね」
しかし、今の私の言葉に何か思うところがあったのか、友人は再び顔を上げた。
私は頬杖をつきながら先を促す。
友人は顎の辺りを言葉を探るように撫でる。
少し間があって、言葉を見つけたのか、口を開いた。
「本分って何にでもあるのよ」
私は、前のめりになっていた身体を起こして、腕組みをする。
「あれは時を刻むためにある」
「まあ、そうだろうね」
そして、友人は私の目を真っ直ぐに見ながら、言葉を続けていく。
「今のあれは、死骸みたいなものね」
「……死んでてもいいじゃない。そこまで困るようなこともないのだし」
友人は私から目を逸らさない。
ただただ、私の奥を覗こうとするように、見詰めるだけだ。
「変化のないものはやがて失われてしまう」
違うかしら、と続ける彼女に私は何も返さなかった。
ただ、そう、とだけ言葉を返して目を閉じるのだった。
「……できるだけ早く、直してあげなさいよ」
友人は独り言のようにそう呟いて、手元の本に視線を戻した。
どうやら、これ以上は言いたいことはないようだった。
「善処するわ」
その言葉を残して、私は席を立つ。
そして、扉に手を掛けながら友人に尋ねる。
「どれくらい待てるかしら」
「本があれば幾らでも」
即答だった。本から目を離すこともせずに返事をしたのは、流石と言うべきか?
私は苦笑いを浮かべながら、扉を押し開いた。
――黒色の空を眺めながら、私は門番へと言葉を向ける。
「直すことにしたわ」
私に後頭部を晒した門番は短く答える。
「そうですか」
時計台を見詰めるその表情を伺うことはできない。
主人に対しての態度としてはいただけないが、今は目を瞑るとしよう。
「そういえば、お前が一番に気付いたんだっけ」
「ええ、ここには時計なんてありませんから」
門番は時計台に向けて右手を翳す。人差し指だけを立てて。
そして、それを長針に見立てて少しずつ捻っていった。
「結構頼りにしてたんですよね」
「確かに頼り甲斐はあるみたいね」
私も時計に目を向ける。
門番があれを見ていたように、あれもまた、門番のことを見詰めていたのだろうか。
私にその答えを知る術はないが、もし目があったなら、きっと優しい視線を送っていただろう。
そんな考えに返事をするかのように長針が震えた。
「まー、その、何ですかね。意外と愛着あるんですよね」
左手で頬を掻きながら、そんなことを門番は呟くのだった。
私は言葉を探したが、どうにもいいのが見つからなかったので、そうかい、とだけ返しておいた。
「ええ、あれを見て、皆が起きる時間だな、とか。そろそろお昼かな、とか。」
時計の針の揺れが止まる。
「どうにも調子が狂ってしまいますよ」
困ったなあ、とぼやきながら門番は帽子を退けて頭を掻く。
髪が乱れてしまったが、気にする素振りは見られなかった。
「……どんなに頑張っても、どうにもならないものってあるんですね」
少し足が疲れてきたので、門に凭れ掛かりながら私は腕を組む。
「例えば?」
「時間ですね」
まあ、話の流れからしてその答えは予想がついていたので、特になんの感心もしない。
「時間の流れに勝てるものってあるんですかね?」
つまらない質問だと、一笑に付しながら時計台を見る。
黒色の針のは白の文字盤の上で存在を主張している。
だが逆に、文字盤は夜の暗さによってその輪郭を曖昧にしていた。
「あら、私は勝ってるわよ」
「ああ……そうですね」
えらく沈んだ呻くような声に門番を見れば、目頭とこめかみを押さえていた。
そして、私達の間に無言の間が訪れる。
何故かは分からないが、私の方から声を掛ける気にはならなかった。
やや時間が経って、門番が大きく息を吸う。
それから、私の方へ向き直るのだった。
「早く直してもらえると、ありがたいです」
「言われなくてもそのつもりよ」
そう言ってやると、嬉しそうに顔を綻ばせて、ありがとうございます、と頭を下げてきた。
頭が上げられるのを見届けて、私は踵を返して館の方へ歩く。
そして、振り返らずに尋ねる。
「あなたはどれぐらい待てる?」
「私は……待つのは得意ですから、安心してください」
私は、門番のその言葉を頭の中で反芻しながら足を進めたのだった。
――私はテラスから時計台を眺める。
ここは位置があまり良くないため、文字盤に刻まれた数字は殆ど見えない。
眺めつつ私の一番古い記憶を辿ってみる。
その記憶の中でも、これは既に動いていたような気がする。
そう考えると、随分と年季の入った代物なのかも知れない。
館と共に歩んで、私達と共に暮らしてきた存在。
「ご苦労様」
気付けば、そんな言葉が口から零れていた。
労う言葉は届くのだろうか?
届いていればいいな、と思った。
すると、それに反応するように、長針が揺れた。
「……まあ、またすぐに働いてもらうけどね」
そう続けて言うと、針の震えは治まるのだった。
なかなか愛嬌のある奴だな、と少し笑ってしまうのだった。
――時計台の針は動かずとも時は廻る。
時計台の中へ足を踏み入れれば、今までに見たこともない光景が広がっていた。
無数の歯車が絡み合う。
大小様々に形状も万別。
しかし、それら全てが針を動かすという目的のために一丸となる。
そんなことを思えば、実に面白いものに思えてくるから不思議だ。
私は、その中の一つへと歩み寄った。
私の顔の大きさ程しかないそれは、他のものに比べて随分と薄かった。
そして、その中心から蜘蛛の巣のように無数の罅が走っていて、歯が幾つか欠けていた。
一体、何をどうしたらこんな有り様になるのやら不思議で仕方なかった。
こんな部品一つが壊れただけで、こんなにも周りのものを狂わせてしまうのだろうか……
分からないものだなあ、そんな言葉が口から漏れていた。
歯車の表面を親指で撫でる。
他の部品はまるで新品のように美しい光沢があるのに、こいつだけは銀鍍金も所々剥がる程に劣化していた。
私は後ろを振り切る。
従者が替えの歯車を抱えるように持って立っていた。
「いいよ、私が持つわ。重いでしょ」
彼女は、ありがとうございます、と言うと歯車を私に預けて後ろへ二歩下がった。
向き直って、壊れた歯車へ手を伸ばす。
冷たいような温かいような、そんななんとも不思議な感触だった。
そして、手を掛けたところで後ろへ声を掛ける。
「紅茶、淹れておいてくれるかしら?」
「ええ、いいですよ。少し待ってて下さい」
私は頷いて、それから歯車を外す。
それを見届けて、後ろの気配が消える。
ぼろぼろだったそれは、外すときの衝撃で幾つかに分かれてしまった。
零れ落ちた破片は床に落ちると、甲高い音を辺りに響かせて散った。
それは何かを伝えようとする言葉だったのだろう。
私にはそれを聞き取ることは私にはできなかった。
でもそれはきっと、初めから無意識の内に分かっていたのかも知れない。
何も言葉なんて必要ないことを。
破片を一箇所に集めて、新しい歯車をはめ込む。
奥まで押し込むと、がちん、という音がした。
それは新たな命の鼓動のように思えて、私は思わず腕を掻くのだった。
――窓の縁に腰掛けながら時計台を眺める。
月明かりを受けて白く光る文字盤はやはり綺麗だった。
「みんな待ってくれるってさ」
長針が揺れて、時が進む。
「でも、私は我が儘だから、あんまり我慢できそうにないよ」
部屋に顔を向ければ、机の上に壊れた歯車が照明を反射していて、眩しかった。
両手は何を持つ訳でもなく宙を漂っている。
紅茶でもあれば少しは外の風情を楽しむ気にもなるのだろうが……
生憎とテーブルのカップは空になっている。
他でもない私が自分で入れて飲んだのだ。
カップを手に取った拍子に跳んだ水滴はテーブルの上に赤い染みを作っている。
「だからさ、早く持ってきてくれると嬉しいよ」
窓を開けると風が私の髪を揺らした。
涼しいなあ。
そんな当たり前のことが今はやけに心に染みた。
ああ、それにしても……
九十九年も待たなければいけないのか。
流石にそれはちょっと長いなあ。
そう思った。
なんとも、もどかしい気持ちです。
そんな幻聴が聞こえた気がします。
銀色のなにかが見えかくれするような
この霞がかったように掴めそうで掴めない雰囲気、好きです
素晴らしい作品をありがとうございます
百年とはいいませんが、何日か悩んでから、また戻ってきます
みんなその空白をどう受け止めて、
そしてその空白に再び歯車が嵌まるのを、
どんな想いで待ち続けるんでしょうね。
以上、この素敵なお話にあてられた私が抱いた勝手な感想でした。
レミリアの歩みと会話から徐々に時計のことが見えてきて、読むのが楽しかったです。