あれはいつの事だったろうか。季節とは違い、時の流れという物はただ山より下る流水のようにとめどなく流れていくものだ。
紫様に式を打たれ、この方に全てを捧げると誓った日からどのくらい経ったか。
たわいも無い計算をすれば、求める事は容易いが、それを行うのは、無粋な気がする。
そして、……それを無粋と思えるようになったのは、今からすぐ数えることが出来る程度の昔。
その時の季節は、今もはっきりと覚えている。
ちょうど今のような、空模様の変化が忙しい、季節の変わり目。
式の私が式を持つ。そんな、滑稽な話だ。
冬眠から目覚めた虫達が騒ぎ起きてから、暖かさというものを感じ始めた頃にはもう、夏の季節へと替わる為に若葉を濡らす雨が降り始める。
何故そうなるのか、などという話は妖精でも解る事なので、考えることすら馬鹿らしい。人間達は、この季節を梅雨と呼ぶ。他にも、五月雨など、様々な呼称はあるそうだ。
紫様に仰せつかった仕事を終え、報告の為帰路を急いでいた。空を見ると、雲が多くなっている。一雨来そうだ。
式は、水を被ってしまうと剥がれてしまい、力が格段に低くなってしまう。私の場合、元々の力が高いからそこまで悲惨な事にはならないだろうが、紫様に何を言われるか分からない。
全く面倒だ、と私は心の内で毒を吐きながら、飛ぶ速度を速めた。
私は、紫様の考えておられる事のほとんど……いやほぼ全てが理解出来ない。私が今こうして飛んでいる理由も、紫様の命によるものだ。
「わざわざ移動の際にスキマを使うのは面倒だから」
結界の維持、修復、妖怪、人間の領分の監視。
中には緊急性のある報告もあるというのに、あの方は飛んで行って帰って来いという。
紫様は何故わざわざ手間のかかるようなことをするのか。危険性も増すし、効率的ではないというのに。
この世界を覆う結界を作った時もそうだった。
何故かは知らないが、傍目の私にでもすぐに分かるような「無駄」な部分が、その結界の方程式には含まれていた。
変な所で合理的ではないのだ。
しかし、それを指摘した所、紫様はとても嫌な顔をされた。
「あなたは、『無駄』というものが何かを全然理解していない」
訳が分からなかった。
私が間違っているのだろうか。『省く』事の何が悪いのだろうか。
効率性を求める事が悪いことなのか、と思ったが、その場は言葉を飲み込み、真意を探ろうと答えを紫様に求めた。しかし、紫様は冷めた目を向けながら、
「あなたには失望したわ」とだけ呟いた。
どういうことかと問いかけたが無視され、まるでその辺の虫けらを見るような目で私を一瞬見、そしてその日から、紫様とは必要な事意外は話さなくなった。
その時の私は、まだ何が不要な事で、何が要る事なのかの判断がつかなかった。
ただ、効率性を、「利」のみを求める。それが優秀な式だと思っていた。
それを否定されたのだから、その時の私はショックの方が大きかったのだろう。
少し荒れた。
わざと妖気を薄く放ち、寄ってきた妖怪どもを、嬲り、引き裂いた。
今その時の自分を思い返すと、恥ずかしいどころか、可愛いとさえおもってしまう。「利」だけを求めると考えながらも、実際の行動は無駄が伴った行動ばかりだったと、その時は気づいていなかった。
頬に冷たい物を感じた。
気の早い雨粒が一足先に落ちてきたようだ。
まずい事になった。すぐに後続の雨粒達が塞きを切った様に落ちて来るだろう。私は目を凝らし、辺りを探った。雨宿り出来そうな場所はあるか。
あった。私は目に映った古寺へと向かった。
雨が酷くなる前に屋根のある所へと入る事が出来た。僅かだが身体にかかった水滴を手で払って落とした。尻尾の先は毛を震わせて。
どうやらこの古寺に人はいないようだ。それも少なくとも十数年は。
寺の中からは人の気を全く感じない。
「邪魔をする。申し訳ないが、この雨が止むまで雨宿りさせてもらう」
だが化生の類は居る様だ。
相手の姿は見えなかったが、そう呟き、所々朽ちかけた縁側に座る事にした。
私の声が聞こえたのか、化生の気配はほんの少しだけ強くなった。
威嚇のつもりだろうか。
私は少し苦笑した。そして、胸中で呟いた。
(身の程知らずが)
私は少しだけ身体に力を込め、妖気を放った。
力の程度にすれば、「小突くぞ」くらいの物だが、並の妖怪なら、このくらいで力の差を悟る。そして、逃げ失せるか、気配を消してやり過ごそうとする。
そういうのを捕まえて微塵になるまで引き裂いてやるのが、私は好きだ。
一度私に敵意を向けておいて、ただで済むとでも思ったのか、と言いながら、執拗に嬲り、滅ぼすまで爪で引き裂く。
また、そうなるのであろうかなと私はひそかに笑みを漏らした。
しかし、思い通りにはいかなかった。
どうやら姿を見せないこの化生は、私との力の差を知っても退いたり隠れたりという事はしないらしい。
思ったよりも、力のある化生なのかもしれない。もしくは、動いて場所を顕わにすれば、一瞬で間を詰められて引き裂かれることを理解できるような頭の良い妖怪か。
そう考えた私は妖気を少し強めた。
それならそれで、引き裂く時の楽しみが増える。口の端を歪めて笑った。
息を一つ吸い、気を少し強めて張る。恐らく、これでこの寺にはほとんどの妖怪が危険を感じ、寄り付かないだろう。
言葉を理解する程の知能が無くとも、生物本来の本能で感じる事が出来るはずだ。
奇妙なことが起こっていた。
私は力のある九尾の妖狐だ。人の滅ぶ様を幾度となくこの目で見てきた大妖怪と呼ばれるに相応しい存在だ。
この私を怖れぬ程の力を持つ者がそうそう居ないはずだ。居るとするのならばそれは私の主人か……もしくはそれに匹敵するような者か……いや、ありえない。
だが、こいつは退かない。私は困惑した。向こうから感じる妖気は脆弱なものだ。私は張る気の強さを強めていった。古寺の周りに茂る草木が震える。
自分でも、空気が震えているのが分かる。
次第に、私は自分自身の変化に気付いていった。
まず、心臓の鼓動が速くなった。頬から汗が流れた。呼吸が乱れた。
これは、『焦り』か。
何者だ。
私は意を決めると身を翻し、寺の中へと駆け出していた。
僅かな気配を探り、寺の一室へと向かった。
明かりも無く、雨雲が遮り日も射していない部屋の中に、ひっそりと、微小な気配を放つ者がいた。
気配の主は動きを見せなかった。ただ、ほんの少しだけ、威嚇を強めた。
寺の中は灯りが無く、外は日も出ていないため、一瞬そこに何が居るのかが見えなかった。
目が慣れた。まず薄い茶色の光る目が見えた。黒い毛。二つの尻尾。
私の目に映ったのは、小さな獣だった。
いや、一応妖怪ではある。
だが、黒い毛は汚れ、その獣が妖怪だという証の二つに分かれた尻尾からは、ほとんど力を感じなかった。
私が近寄ると、間をとるように一歩下がった。足音の代わりに首についた鈴がシャンと鳴る。
私は気を張りっぱなしだったのを思い出し、肩の力を抜いた。向こうの威嚇は弱まらなかったが、所詮、猫又風情の妖気だ。
「お前は……何だ?本当に只の、猫又か」
私は尋ねた。
答えは返って来なかった。だが僅かだが言葉に反応し、私を見上げた。
どうやらこの猫又は言葉を理解する事は出来るようだが話す事は出来ないらしい。
まだ、猫又になって、日が浅いのだろう。と、解ってから、私は無性に可笑しくなった。そして、とうとう堪えきれずに、笑った。それも恥ずかしい事に、外に聞こえる程の大声で。外には誰もいなかったろうが。
私は、こんな矮小な妖怪に対して、あのような感覚をもたらされたのか。
そう考えると、馬鹿らしく、恥ずかしく、そして笑うしかなかった。
傷付いた猫又は私の笑い声の中、丸い目を更に丸くし、そして、力尽きたように、畳の上に、横になって倒れた。
まだ目は開いていた。
私が近づき、手をかざすと反応し、びく、と震えた。
「怯えるな。本当に引き裂いてしまうぞ」
私はそれを用心深く抱きかかえると、頭を少し撫ぜてやった。
「お前が何者かは、後で問うとしよう」
雨はまだ降り続いていたが、私は早く戻りたくてたまらなかった。
こんな古寺ではろくな傷の手当も出来ない。
こいつに死なれては困る。
私は意を決し、本降りの雨の中、紫様の元へと飛んで帰った。
案の定、式は剥がれてしまった。
小言があると思った。だが、思いの外何も言われなかった。
紫様は何もおっしゃらずに式を貼り直してくれた。
改めて、この方が何を考えているのか私には理解できなかった。
幸か不幸か、考える時間ならば幾らでもあった。
普段の紫様は、結界の維持のための活動などしておらず、何かがあっても大抵は式の私に任せきっている。
なぜそのようなことが出来るのか。
もちろん自慢や誇張ではなく私の高い能力を見て、ということでもあるし、もう一つは紫様が自分で自分の結界の精度に自身を持っているからだ。
だから私は仕事を任されているとは言ってもほとんどやることは無い。それこそ、世の理を数式に表したり、家事をしたりするくらいのものだ。
(さて、こいつをどうするか)
傷ついた猫又を床に寝かせ、治療に取り掛かる。固まりきっていない血、爪痕、それらが他の妖怪によるものだということは明白だった。
包帯を巻くために、首にかけられていた鈴を取ろうとする。
その瞬間、意識を失っていたはずの猫又に腕を掻かれた。
「っ!?」
狸寝入りか……猫の癖に。
満身創痍の身体でよく動くものだと、まず感心した。
黒毛の猫又は全身を震わせ、威嚇し出した。
血が拭き取られていない脚は震え、今にも倒れそうなのを堪えながら。
「貴様……」
妖気を出さずにいれば、これか。
かといって、これ以上こいつの身体に負担をかければそれこそ治療などする前に息をしなくなってしまうかもしれない。
しかし、何故突然反抗を?
と考えて、一つの可能性に気が付いた。
「この鈴か……?」
どうやら、そのようだ。
飼われていたのだろうか。
あの寺に昔居たらしい誰かにでも。
「分かったよ。その鈴には触れない。だが、治療だけはさせてくれ。その血で屋敷の中を汚されては困る」
一応伝わったのか、猫又は威嚇するのをやめた。
傷が完全に治りきるのには、数日かかった。私のような妖怪なら、身体を二つに分けられでもしない限り日が変わる頃には傷は全て塞がってしまうものだが、こいつはやはり、ただの猫又だ。
だからこそ、不明だった。
何故こいつが私の妖気に耐えられたのかが。
既に猫又に抵抗の意志はなかったが、それでも首にかけられた鈴に僅かでも触れると少し唸った。
私はこの言葉を話す事の出来ない猫又に、問いかけた。
「首を振るだけでいい。私の質問にいくつか答えてくれないか」
一瞬の硬直の後、首は縦に振られた。肯定の意だ。
私は尋ねた。
お前が本当にただの猫又で、あの寺で昔飼われていて、その鈴はただの鈴で何も効力など無いのか、と。
答えは全て縦に振られた。
私の考えはことごとく外れた。もしどれかの答えが横に振られたのであれば、私の疑問に対する答えはすぐに判明したのに。
何故か無性に腹が立つ。こんな矮小な力しか持たない奴に、悩まされるということがあることに。
猫又は、傷の癒えきっていない内から、ずっと屋敷の外ばかりを見つめていた。
あの寺に帰りたいのか、という事は聞かなくとも明白だ。
だが、私はまだこの猫又を帰すつもりは無い。
まだ私の疑問の答えを聞き出していない。言葉を持たないというのは思ったより不便なものだ。
この猫又は、言葉を理解出来るのに、話す事は出来ない。
言葉を話す為には、まずある程度知能を持ち、そして言語を話す者が周りに居る事が必要だ。知能があっても、実際に話す方法を見なければ、使う事は出来ない。
この猫又の周りには、言語を話す者が居なかったのだろう。猫又になるのにかかる年月は人間の寿命を越えている。およそ100年くらいだ。
あの寺には少なくともそれくらいの間、人が居た気配はなかった。
飼い主のいない寺で、こいつは何を?
何かこいつに「利」があるか?
妖怪ならば、猫又ならば仲間も多いだろうし、住む場所にも困る事はないはずだ。
「なあ、お前」
猫又は言葉に耳をびくつかせて反応した。
敵意を向けても無駄だと悟ったからであろうか。……いや単純に驚いただけか。素直な奴らしい。
「帰りたいか?あの寺に」
猫又は首を回して後ろを見た。
猫の表情は乏しそうに見えて、実は豊かだ。
驚いた表情をしながら、首を縦に振った。
「なら、行くか」
私は腰を上げ、玄関へと歩き、靴を履いた。
これも紫様に強制された行動の一巻だ。自分としては、足が窮屈で、特に意味もないものだと思っているのだが、紫様が「履け」とおっしゃるので、仕方なく履いている。
縁側まで行き、戸惑う猫又を無理矢理に近い形で抱き抱え、印を唱えた。
結界で覆われたこの屋敷から出入りする為には、その為の印を唱えなければならない。
……入るだけならば、紫様の気まぐれで出来る事もあるのだが。
猫又は、戸惑いながらも、どこへ向かうのかを理解すると大人しくなった。理解が早くて助かる。
屋敷を出て、飛んで、それほど時間は要しなかった。猫又の身体に気を使わなくても良いということが大きかった。
私が地に着くのと同時に、猫又は腕から飛び出した。
「あ」
声をかける間も無く、猫又は駆けていった。
だが、私はここにこいつを帰しに来た訳ではない。すぐにその後を追う。
(何かが、あるはず)
塗装の剥げた門をくぐり、朽ちかけた戸を開け、最短距離で向かったのは、この寺の裏側だった。
日も当たらず、暗い雰囲気を纏ったこの空間に猫又は一匹、うなだれるように座っていた。どうやらここが、目的地のようだ。
石が積まれている。いや、違う。
墓だ。
そして私は理解した。
ああ、そうか。そうだったのか。
どうしてこいつが私の前で立ち続ける事が出来たのか。
何故住処を変えたりせずに、この寺に居続けていたのか。
「守っていたのか」
墓と呼ぶには粗末なものだが、供えられた……枯れてしまっている花がこの地に眠る者が居る事を表していた。
猫又は、ゆっくりとこちらに振り返った。その目には、どこか覚悟のようなものを感じられた。
私は腕を上げた。
そして、その手を猫又の平たい頭に載せてやった。
猫又は一瞬自分が何をされたのか分からないというような表情をして、私の指に合わせて耳を伏せた。
「もう十分だろう。ここに眠る者は満足しているさ」
猫又はただじっと、私の手に身を委ね、言葉を聴いている。
「不服なら、私が証人になろう。この地に、大妖にも怯まず、果敢に立ち向かった者が居たことを」
猫又は少しだけ、首を振った。
私は立ち上がり、手を離した。
答えは貰った。もうここには用は無い。そしてこの名も無き猫又にも。
「……あり……がとう」
酷く、不器用な声が聞こえた。
声の主は見ずとも明らかな事は分かっている。だが、振り向かずにはいられなかった。
私は、膝をついて尋ねた。
「私の元に来ないか?」
これはこの時から大分経った後に聞いた話だが、この猫又は、昔野良猫だったらしい。
子猫の時には、既に親はいなかったという。獲物を狩ることも小さな身体では難しく、死ぬか何かに狩られるかは時間の問題であったという所をあの寺の老僧に拾われた。
それからその老僧に飼われ、餌に困る事もなく、育っていった。
しかし、山中にある寺になかなか人も訪れず、寺は日に日に寂れていった。子猫はもうその頃には一人で狩りが出来たので、自分の分だけでなく老僧の分も獲物をとっていたが、その老僧は戒律を頑として守り続けていた為、とってきた獲物には全く手をつけなかった。
礼を言いながら衰弱していく命の恩人に、何か恩返しが出来ないかと猫は考え続けた。
そこで、この猫は思い立ち、猫又になるべく猫の里へと出ていった。
普通ならば、猫又になる為には長い年月が必要であったが、それでは間に合わないと思い、がむしゃらに、死に物狂いで、ただ恩を返す事だけを考えて猫又になるべく修行をし、異例の早さで猫又になる事が出来た。
喜びながら再び寺に戻り、戸を叩いたが、返事はなかった。
もうそこに飼い主である老僧は居なかった。
異例の速さだったとは言え、老僧には余りにも時間が少なすぎた。
猫又になる事だけを考え、言葉を覚える前に里を出てきたこの猫は、ただ呆然と立ち尽くした。
飼い主を埋葬してやると、それからは飼い主の寺を守る為に戦い続けた。
勿論、猫又の力などたかが知れている。私と初めて出会った時に怪我をしていたのはそれらの戦いによるものだろう。
つまり、こいつは死んだ飼い主の為に本能が伝える恐怖に抗ったのだ。
恩を感じて、寺に居続ける必要など無かったのに。死ぬ思いをしてまで、守る必要など無かったのに。
それに私は恐怖した。敬意さえ持った。
だから、私はこいつを式にする事に決めたのだ。
暑さの中、嬉しい風とともに吊された風鈴が鳴る。
夏の風情だ。けたたましい蝉の声より、こちらのほうがずっと良い。
「紫様、お話ししたい事がございます。」
紫は、暑さではだけた衣服を直そうともせずに、寝そべって扇子を扇ぎながら藍
の方を見た。
「何?恰好についてだったら聞く耳は持たないわよ。寒さと違って暑さはどうにもならないのだから」
「確かにそれも伺いたい事ですが、それとは別の話です」
寒さはなんとかなるけれど暑さはどうにもならない。人間の書物の中に確かそんな言葉があった気がした。
「今度、私も式を打つ事にしました」
私は日陰の涼しい庭の縁側に座り、少し俯き加減に言った。紫様を直視して言う
度量は残念ながらない。
「へえ」
紫様は、まるで私の言葉を以前から知っていたかのような素振りで上体を起こした。
「藍」
来た……。何を言われるのだろうかと私は覚悟を決めて返事をした。
「はい、何でしょうか」
目の前には畳んだ扇子が突き付けられていた……いや、突き付けられているのは持ち手の方だ。
「……受け取れ、と?」
「ん、扇いで。疲れたわ」
いきなり出鼻をへし折られた気がしてしまう。
渋々頷く私を、紫様は少し首を傾げて不思議そうな目で見る。この方は無意識でやっているのか、それとも……。
「それで、式にするのは何?あなたが式にすると言うのだから、さぞかし高名な妖怪なのでしょうね」
「いえ、私が式に打つのはあの猫又です」
私は渡された扇子を扇ぎながら答えた。紫様は、扇子の風を受けながら滅多に出
される事のない、虚をつかれたような声を出した。
「は?」
冗談だと……そして冗談にしては寒すぎると思ったらしい。というか、多分私でもそう思う。
九尾の妖狐が猫又風情を式になど、語り草にもなりそうにないからだ。なるとすれば、滑稽話か。
「……本気で言っているのね」
両手で顔を覆い、信じられない、といったような表情を見せる紫様に私ははっきりと答えた。
「はい」
紫様は、少し考える素振りを見せてから「育て方を間違えたのかしらねえ」と一言呟いた。
「藍。少し質問をしてもいいわね」
疑問形ではなく、断定形で聞いてきた。勿論、断る意思も、権利も無いのだけれど。紫様が、口を開いた。
「あなたがあの猫又を式にするとして、貴方にとってどんな『利』があるの?」
やはり、そう聞かれたか。予想はしていた、そして答えも。
「分かりません」
「それはあなたにとって『無駄』な事であるかもしれないというのは分かっている?」
式に選ぶのなら能力の高い者を選ぶべきだ。暗にそうおっしゃっている。それは、自分でも分かっている。まるで強い酒を呑んだ時のようなくらりとした感覚、一瞬の気の迷いで、式を打つのではないのか、と。
「紫様がおっしゃった事ではありませんか」
私は、顔を上げ、居直して言った。
「もし『無駄』というのなら、それを楽しめるようになるだけですよ」
迷いなど無い。
自分でも驚く程はっきりと言い切れた。
紫様の肩が僅かに震えていた。口元を手で覆っている。
「紫様…?」
「ふふ、ごめんなさい。あまりにもあなたが生真面目でつい、ね」
笑われた。だが、嫌な感じはしなかった。
「ねえ藍、あなたはもしこの世界に『無駄』がなかったら、なんて事を考えた事はある?」
「『無駄』がですか?」
考えたこともなかった。無駄を無くすことはいつも考えていたが、無くなった先のことは……。
「合理的な世の中になるのではないでしょうか」
「0点。 もっとよく考えなさい。」
叱られてしまった。確かに少し考えが浅すぎたかもしれない。腕を組み、頭の中でいくつも事象を試行錯誤する。もし、『無駄』がこの世になければどうなるか。
思いついたことを口に出してみる。
「まず、紫様がとても退屈するのでしょうね」
「正解。他には?」
次々と答えを催促する。私はそれに思いつくままに答えていく。驚いた。これほどまでに多くの障害があろうとは!
「正解、他には」
「……もう、勘弁して下さい。もう結構です。分かりました。私が浅はかでした」
必死に許しを請うた。
「あら、残念。もう少し楽しみたかったのに」
やはりこの方は意地悪だ。結局いつも、紫様は私に答えを教えてはくれない。
いつかこの方を本当に理解できる日など来るのだろうか。
「そんな暗い顔はしないの」
いつの間にか、紫様は私の肩に腕を乗せていた。
暑いと自分で言っていたのに。全く行動原理がよく分からない。
「暑いですよ」
二通りの主語が取れるように言った。
だが紫様はそれを聞くと尚更身体を寄せてきた。多分、紫様の顔は性悪な笑みを浮かべているに違いない。
「ふふ、だって、嬉しいもの」
何が、と振り向く前に背に紫様の体温を感じた。
そこで、私はもう一つの答えに気が付いた。
「紫様、もしかして」
私はその答えを口にした。
紫様は、正解だとは口にしなかったが微笑まれた。
たとえこの答えが正解でなくとも構わない。
ただ、私がそう思う、それだけでいいのだ。
私が紫様と出会ったことも、私が橙に出会ったことも、全ては『無駄』の産物だった。『無駄』は無駄であって無駄ではない。
いつか、この問いを橙にもしてやろう。その日が来ることを私は楽しみにすることにした。
主である紫様の心地よい温もりを背中に感じながら。
紫様に式を打たれ、この方に全てを捧げると誓った日からどのくらい経ったか。
たわいも無い計算をすれば、求める事は容易いが、それを行うのは、無粋な気がする。
そして、……それを無粋と思えるようになったのは、今からすぐ数えることが出来る程度の昔。
その時の季節は、今もはっきりと覚えている。
ちょうど今のような、空模様の変化が忙しい、季節の変わり目。
式の私が式を持つ。そんな、滑稽な話だ。
冬眠から目覚めた虫達が騒ぎ起きてから、暖かさというものを感じ始めた頃にはもう、夏の季節へと替わる為に若葉を濡らす雨が降り始める。
何故そうなるのか、などという話は妖精でも解る事なので、考えることすら馬鹿らしい。人間達は、この季節を梅雨と呼ぶ。他にも、五月雨など、様々な呼称はあるそうだ。
紫様に仰せつかった仕事を終え、報告の為帰路を急いでいた。空を見ると、雲が多くなっている。一雨来そうだ。
式は、水を被ってしまうと剥がれてしまい、力が格段に低くなってしまう。私の場合、元々の力が高いからそこまで悲惨な事にはならないだろうが、紫様に何を言われるか分からない。
全く面倒だ、と私は心の内で毒を吐きながら、飛ぶ速度を速めた。
私は、紫様の考えておられる事のほとんど……いやほぼ全てが理解出来ない。私が今こうして飛んでいる理由も、紫様の命によるものだ。
「わざわざ移動の際にスキマを使うのは面倒だから」
結界の維持、修復、妖怪、人間の領分の監視。
中には緊急性のある報告もあるというのに、あの方は飛んで行って帰って来いという。
紫様は何故わざわざ手間のかかるようなことをするのか。危険性も増すし、効率的ではないというのに。
この世界を覆う結界を作った時もそうだった。
何故かは知らないが、傍目の私にでもすぐに分かるような「無駄」な部分が、その結界の方程式には含まれていた。
変な所で合理的ではないのだ。
しかし、それを指摘した所、紫様はとても嫌な顔をされた。
「あなたは、『無駄』というものが何かを全然理解していない」
訳が分からなかった。
私が間違っているのだろうか。『省く』事の何が悪いのだろうか。
効率性を求める事が悪いことなのか、と思ったが、その場は言葉を飲み込み、真意を探ろうと答えを紫様に求めた。しかし、紫様は冷めた目を向けながら、
「あなたには失望したわ」とだけ呟いた。
どういうことかと問いかけたが無視され、まるでその辺の虫けらを見るような目で私を一瞬見、そしてその日から、紫様とは必要な事意外は話さなくなった。
その時の私は、まだ何が不要な事で、何が要る事なのかの判断がつかなかった。
ただ、効率性を、「利」のみを求める。それが優秀な式だと思っていた。
それを否定されたのだから、その時の私はショックの方が大きかったのだろう。
少し荒れた。
わざと妖気を薄く放ち、寄ってきた妖怪どもを、嬲り、引き裂いた。
今その時の自分を思い返すと、恥ずかしいどころか、可愛いとさえおもってしまう。「利」だけを求めると考えながらも、実際の行動は無駄が伴った行動ばかりだったと、その時は気づいていなかった。
頬に冷たい物を感じた。
気の早い雨粒が一足先に落ちてきたようだ。
まずい事になった。すぐに後続の雨粒達が塞きを切った様に落ちて来るだろう。私は目を凝らし、辺りを探った。雨宿り出来そうな場所はあるか。
あった。私は目に映った古寺へと向かった。
雨が酷くなる前に屋根のある所へと入る事が出来た。僅かだが身体にかかった水滴を手で払って落とした。尻尾の先は毛を震わせて。
どうやらこの古寺に人はいないようだ。それも少なくとも十数年は。
寺の中からは人の気を全く感じない。
「邪魔をする。申し訳ないが、この雨が止むまで雨宿りさせてもらう」
だが化生の類は居る様だ。
相手の姿は見えなかったが、そう呟き、所々朽ちかけた縁側に座る事にした。
私の声が聞こえたのか、化生の気配はほんの少しだけ強くなった。
威嚇のつもりだろうか。
私は少し苦笑した。そして、胸中で呟いた。
(身の程知らずが)
私は少しだけ身体に力を込め、妖気を放った。
力の程度にすれば、「小突くぞ」くらいの物だが、並の妖怪なら、このくらいで力の差を悟る。そして、逃げ失せるか、気配を消してやり過ごそうとする。
そういうのを捕まえて微塵になるまで引き裂いてやるのが、私は好きだ。
一度私に敵意を向けておいて、ただで済むとでも思ったのか、と言いながら、執拗に嬲り、滅ぼすまで爪で引き裂く。
また、そうなるのであろうかなと私はひそかに笑みを漏らした。
しかし、思い通りにはいかなかった。
どうやら姿を見せないこの化生は、私との力の差を知っても退いたり隠れたりという事はしないらしい。
思ったよりも、力のある化生なのかもしれない。もしくは、動いて場所を顕わにすれば、一瞬で間を詰められて引き裂かれることを理解できるような頭の良い妖怪か。
そう考えた私は妖気を少し強めた。
それならそれで、引き裂く時の楽しみが増える。口の端を歪めて笑った。
息を一つ吸い、気を少し強めて張る。恐らく、これでこの寺にはほとんどの妖怪が危険を感じ、寄り付かないだろう。
言葉を理解する程の知能が無くとも、生物本来の本能で感じる事が出来るはずだ。
奇妙なことが起こっていた。
私は力のある九尾の妖狐だ。人の滅ぶ様を幾度となくこの目で見てきた大妖怪と呼ばれるに相応しい存在だ。
この私を怖れぬ程の力を持つ者がそうそう居ないはずだ。居るとするのならばそれは私の主人か……もしくはそれに匹敵するような者か……いや、ありえない。
だが、こいつは退かない。私は困惑した。向こうから感じる妖気は脆弱なものだ。私は張る気の強さを強めていった。古寺の周りに茂る草木が震える。
自分でも、空気が震えているのが分かる。
次第に、私は自分自身の変化に気付いていった。
まず、心臓の鼓動が速くなった。頬から汗が流れた。呼吸が乱れた。
これは、『焦り』か。
何者だ。
私は意を決めると身を翻し、寺の中へと駆け出していた。
僅かな気配を探り、寺の一室へと向かった。
明かりも無く、雨雲が遮り日も射していない部屋の中に、ひっそりと、微小な気配を放つ者がいた。
気配の主は動きを見せなかった。ただ、ほんの少しだけ、威嚇を強めた。
寺の中は灯りが無く、外は日も出ていないため、一瞬そこに何が居るのかが見えなかった。
目が慣れた。まず薄い茶色の光る目が見えた。黒い毛。二つの尻尾。
私の目に映ったのは、小さな獣だった。
いや、一応妖怪ではある。
だが、黒い毛は汚れ、その獣が妖怪だという証の二つに分かれた尻尾からは、ほとんど力を感じなかった。
私が近寄ると、間をとるように一歩下がった。足音の代わりに首についた鈴がシャンと鳴る。
私は気を張りっぱなしだったのを思い出し、肩の力を抜いた。向こうの威嚇は弱まらなかったが、所詮、猫又風情の妖気だ。
「お前は……何だ?本当に只の、猫又か」
私は尋ねた。
答えは返って来なかった。だが僅かだが言葉に反応し、私を見上げた。
どうやらこの猫又は言葉を理解する事は出来るようだが話す事は出来ないらしい。
まだ、猫又になって、日が浅いのだろう。と、解ってから、私は無性に可笑しくなった。そして、とうとう堪えきれずに、笑った。それも恥ずかしい事に、外に聞こえる程の大声で。外には誰もいなかったろうが。
私は、こんな矮小な妖怪に対して、あのような感覚をもたらされたのか。
そう考えると、馬鹿らしく、恥ずかしく、そして笑うしかなかった。
傷付いた猫又は私の笑い声の中、丸い目を更に丸くし、そして、力尽きたように、畳の上に、横になって倒れた。
まだ目は開いていた。
私が近づき、手をかざすと反応し、びく、と震えた。
「怯えるな。本当に引き裂いてしまうぞ」
私はそれを用心深く抱きかかえると、頭を少し撫ぜてやった。
「お前が何者かは、後で問うとしよう」
雨はまだ降り続いていたが、私は早く戻りたくてたまらなかった。
こんな古寺ではろくな傷の手当も出来ない。
こいつに死なれては困る。
私は意を決し、本降りの雨の中、紫様の元へと飛んで帰った。
案の定、式は剥がれてしまった。
小言があると思った。だが、思いの外何も言われなかった。
紫様は何もおっしゃらずに式を貼り直してくれた。
改めて、この方が何を考えているのか私には理解できなかった。
幸か不幸か、考える時間ならば幾らでもあった。
普段の紫様は、結界の維持のための活動などしておらず、何かがあっても大抵は式の私に任せきっている。
なぜそのようなことが出来るのか。
もちろん自慢や誇張ではなく私の高い能力を見て、ということでもあるし、もう一つは紫様が自分で自分の結界の精度に自身を持っているからだ。
だから私は仕事を任されているとは言ってもほとんどやることは無い。それこそ、世の理を数式に表したり、家事をしたりするくらいのものだ。
(さて、こいつをどうするか)
傷ついた猫又を床に寝かせ、治療に取り掛かる。固まりきっていない血、爪痕、それらが他の妖怪によるものだということは明白だった。
包帯を巻くために、首にかけられていた鈴を取ろうとする。
その瞬間、意識を失っていたはずの猫又に腕を掻かれた。
「っ!?」
狸寝入りか……猫の癖に。
満身創痍の身体でよく動くものだと、まず感心した。
黒毛の猫又は全身を震わせ、威嚇し出した。
血が拭き取られていない脚は震え、今にも倒れそうなのを堪えながら。
「貴様……」
妖気を出さずにいれば、これか。
かといって、これ以上こいつの身体に負担をかければそれこそ治療などする前に息をしなくなってしまうかもしれない。
しかし、何故突然反抗を?
と考えて、一つの可能性に気が付いた。
「この鈴か……?」
どうやら、そのようだ。
飼われていたのだろうか。
あの寺に昔居たらしい誰かにでも。
「分かったよ。その鈴には触れない。だが、治療だけはさせてくれ。その血で屋敷の中を汚されては困る」
一応伝わったのか、猫又は威嚇するのをやめた。
傷が完全に治りきるのには、数日かかった。私のような妖怪なら、身体を二つに分けられでもしない限り日が変わる頃には傷は全て塞がってしまうものだが、こいつはやはり、ただの猫又だ。
だからこそ、不明だった。
何故こいつが私の妖気に耐えられたのかが。
既に猫又に抵抗の意志はなかったが、それでも首にかけられた鈴に僅かでも触れると少し唸った。
私はこの言葉を話す事の出来ない猫又に、問いかけた。
「首を振るだけでいい。私の質問にいくつか答えてくれないか」
一瞬の硬直の後、首は縦に振られた。肯定の意だ。
私は尋ねた。
お前が本当にただの猫又で、あの寺で昔飼われていて、その鈴はただの鈴で何も効力など無いのか、と。
答えは全て縦に振られた。
私の考えはことごとく外れた。もしどれかの答えが横に振られたのであれば、私の疑問に対する答えはすぐに判明したのに。
何故か無性に腹が立つ。こんな矮小な力しか持たない奴に、悩まされるということがあることに。
猫又は、傷の癒えきっていない内から、ずっと屋敷の外ばかりを見つめていた。
あの寺に帰りたいのか、という事は聞かなくとも明白だ。
だが、私はまだこの猫又を帰すつもりは無い。
まだ私の疑問の答えを聞き出していない。言葉を持たないというのは思ったより不便なものだ。
この猫又は、言葉を理解出来るのに、話す事は出来ない。
言葉を話す為には、まずある程度知能を持ち、そして言語を話す者が周りに居る事が必要だ。知能があっても、実際に話す方法を見なければ、使う事は出来ない。
この猫又の周りには、言語を話す者が居なかったのだろう。猫又になるのにかかる年月は人間の寿命を越えている。およそ100年くらいだ。
あの寺には少なくともそれくらいの間、人が居た気配はなかった。
飼い主のいない寺で、こいつは何を?
何かこいつに「利」があるか?
妖怪ならば、猫又ならば仲間も多いだろうし、住む場所にも困る事はないはずだ。
「なあ、お前」
猫又は言葉に耳をびくつかせて反応した。
敵意を向けても無駄だと悟ったからであろうか。……いや単純に驚いただけか。素直な奴らしい。
「帰りたいか?あの寺に」
猫又は首を回して後ろを見た。
猫の表情は乏しそうに見えて、実は豊かだ。
驚いた表情をしながら、首を縦に振った。
「なら、行くか」
私は腰を上げ、玄関へと歩き、靴を履いた。
これも紫様に強制された行動の一巻だ。自分としては、足が窮屈で、特に意味もないものだと思っているのだが、紫様が「履け」とおっしゃるので、仕方なく履いている。
縁側まで行き、戸惑う猫又を無理矢理に近い形で抱き抱え、印を唱えた。
結界で覆われたこの屋敷から出入りする為には、その為の印を唱えなければならない。
……入るだけならば、紫様の気まぐれで出来る事もあるのだが。
猫又は、戸惑いながらも、どこへ向かうのかを理解すると大人しくなった。理解が早くて助かる。
屋敷を出て、飛んで、それほど時間は要しなかった。猫又の身体に気を使わなくても良いということが大きかった。
私が地に着くのと同時に、猫又は腕から飛び出した。
「あ」
声をかける間も無く、猫又は駆けていった。
だが、私はここにこいつを帰しに来た訳ではない。すぐにその後を追う。
(何かが、あるはず)
塗装の剥げた門をくぐり、朽ちかけた戸を開け、最短距離で向かったのは、この寺の裏側だった。
日も当たらず、暗い雰囲気を纏ったこの空間に猫又は一匹、うなだれるように座っていた。どうやらここが、目的地のようだ。
石が積まれている。いや、違う。
墓だ。
そして私は理解した。
ああ、そうか。そうだったのか。
どうしてこいつが私の前で立ち続ける事が出来たのか。
何故住処を変えたりせずに、この寺に居続けていたのか。
「守っていたのか」
墓と呼ぶには粗末なものだが、供えられた……枯れてしまっている花がこの地に眠る者が居る事を表していた。
猫又は、ゆっくりとこちらに振り返った。その目には、どこか覚悟のようなものを感じられた。
私は腕を上げた。
そして、その手を猫又の平たい頭に載せてやった。
猫又は一瞬自分が何をされたのか分からないというような表情をして、私の指に合わせて耳を伏せた。
「もう十分だろう。ここに眠る者は満足しているさ」
猫又はただじっと、私の手に身を委ね、言葉を聴いている。
「不服なら、私が証人になろう。この地に、大妖にも怯まず、果敢に立ち向かった者が居たことを」
猫又は少しだけ、首を振った。
私は立ち上がり、手を離した。
答えは貰った。もうここには用は無い。そしてこの名も無き猫又にも。
「……あり……がとう」
酷く、不器用な声が聞こえた。
声の主は見ずとも明らかな事は分かっている。だが、振り向かずにはいられなかった。
私は、膝をついて尋ねた。
「私の元に来ないか?」
これはこの時から大分経った後に聞いた話だが、この猫又は、昔野良猫だったらしい。
子猫の時には、既に親はいなかったという。獲物を狩ることも小さな身体では難しく、死ぬか何かに狩られるかは時間の問題であったという所をあの寺の老僧に拾われた。
それからその老僧に飼われ、餌に困る事もなく、育っていった。
しかし、山中にある寺になかなか人も訪れず、寺は日に日に寂れていった。子猫はもうその頃には一人で狩りが出来たので、自分の分だけでなく老僧の分も獲物をとっていたが、その老僧は戒律を頑として守り続けていた為、とってきた獲物には全く手をつけなかった。
礼を言いながら衰弱していく命の恩人に、何か恩返しが出来ないかと猫は考え続けた。
そこで、この猫は思い立ち、猫又になるべく猫の里へと出ていった。
普通ならば、猫又になる為には長い年月が必要であったが、それでは間に合わないと思い、がむしゃらに、死に物狂いで、ただ恩を返す事だけを考えて猫又になるべく修行をし、異例の早さで猫又になる事が出来た。
喜びながら再び寺に戻り、戸を叩いたが、返事はなかった。
もうそこに飼い主である老僧は居なかった。
異例の速さだったとは言え、老僧には余りにも時間が少なすぎた。
猫又になる事だけを考え、言葉を覚える前に里を出てきたこの猫は、ただ呆然と立ち尽くした。
飼い主を埋葬してやると、それからは飼い主の寺を守る為に戦い続けた。
勿論、猫又の力などたかが知れている。私と初めて出会った時に怪我をしていたのはそれらの戦いによるものだろう。
つまり、こいつは死んだ飼い主の為に本能が伝える恐怖に抗ったのだ。
恩を感じて、寺に居続ける必要など無かったのに。死ぬ思いをしてまで、守る必要など無かったのに。
それに私は恐怖した。敬意さえ持った。
だから、私はこいつを式にする事に決めたのだ。
暑さの中、嬉しい風とともに吊された風鈴が鳴る。
夏の風情だ。けたたましい蝉の声より、こちらのほうがずっと良い。
「紫様、お話ししたい事がございます。」
紫は、暑さではだけた衣服を直そうともせずに、寝そべって扇子を扇ぎながら藍
の方を見た。
「何?恰好についてだったら聞く耳は持たないわよ。寒さと違って暑さはどうにもならないのだから」
「確かにそれも伺いたい事ですが、それとは別の話です」
寒さはなんとかなるけれど暑さはどうにもならない。人間の書物の中に確かそんな言葉があった気がした。
「今度、私も式を打つ事にしました」
私は日陰の涼しい庭の縁側に座り、少し俯き加減に言った。紫様を直視して言う
度量は残念ながらない。
「へえ」
紫様は、まるで私の言葉を以前から知っていたかのような素振りで上体を起こした。
「藍」
来た……。何を言われるのだろうかと私は覚悟を決めて返事をした。
「はい、何でしょうか」
目の前には畳んだ扇子が突き付けられていた……いや、突き付けられているのは持ち手の方だ。
「……受け取れ、と?」
「ん、扇いで。疲れたわ」
いきなり出鼻をへし折られた気がしてしまう。
渋々頷く私を、紫様は少し首を傾げて不思議そうな目で見る。この方は無意識でやっているのか、それとも……。
「それで、式にするのは何?あなたが式にすると言うのだから、さぞかし高名な妖怪なのでしょうね」
「いえ、私が式に打つのはあの猫又です」
私は渡された扇子を扇ぎながら答えた。紫様は、扇子の風を受けながら滅多に出
される事のない、虚をつかれたような声を出した。
「は?」
冗談だと……そして冗談にしては寒すぎると思ったらしい。というか、多分私でもそう思う。
九尾の妖狐が猫又風情を式になど、語り草にもなりそうにないからだ。なるとすれば、滑稽話か。
「……本気で言っているのね」
両手で顔を覆い、信じられない、といったような表情を見せる紫様に私ははっきりと答えた。
「はい」
紫様は、少し考える素振りを見せてから「育て方を間違えたのかしらねえ」と一言呟いた。
「藍。少し質問をしてもいいわね」
疑問形ではなく、断定形で聞いてきた。勿論、断る意思も、権利も無いのだけれど。紫様が、口を開いた。
「あなたがあの猫又を式にするとして、貴方にとってどんな『利』があるの?」
やはり、そう聞かれたか。予想はしていた、そして答えも。
「分かりません」
「それはあなたにとって『無駄』な事であるかもしれないというのは分かっている?」
式に選ぶのなら能力の高い者を選ぶべきだ。暗にそうおっしゃっている。それは、自分でも分かっている。まるで強い酒を呑んだ時のようなくらりとした感覚、一瞬の気の迷いで、式を打つのではないのか、と。
「紫様がおっしゃった事ではありませんか」
私は、顔を上げ、居直して言った。
「もし『無駄』というのなら、それを楽しめるようになるだけですよ」
迷いなど無い。
自分でも驚く程はっきりと言い切れた。
紫様の肩が僅かに震えていた。口元を手で覆っている。
「紫様…?」
「ふふ、ごめんなさい。あまりにもあなたが生真面目でつい、ね」
笑われた。だが、嫌な感じはしなかった。
「ねえ藍、あなたはもしこの世界に『無駄』がなかったら、なんて事を考えた事はある?」
「『無駄』がですか?」
考えたこともなかった。無駄を無くすことはいつも考えていたが、無くなった先のことは……。
「合理的な世の中になるのではないでしょうか」
「0点。 もっとよく考えなさい。」
叱られてしまった。確かに少し考えが浅すぎたかもしれない。腕を組み、頭の中でいくつも事象を試行錯誤する。もし、『無駄』がこの世になければどうなるか。
思いついたことを口に出してみる。
「まず、紫様がとても退屈するのでしょうね」
「正解。他には?」
次々と答えを催促する。私はそれに思いつくままに答えていく。驚いた。これほどまでに多くの障害があろうとは!
「正解、他には」
「……もう、勘弁して下さい。もう結構です。分かりました。私が浅はかでした」
必死に許しを請うた。
「あら、残念。もう少し楽しみたかったのに」
やはりこの方は意地悪だ。結局いつも、紫様は私に答えを教えてはくれない。
いつかこの方を本当に理解できる日など来るのだろうか。
「そんな暗い顔はしないの」
いつの間にか、紫様は私の肩に腕を乗せていた。
暑いと自分で言っていたのに。全く行動原理がよく分からない。
「暑いですよ」
二通りの主語が取れるように言った。
だが紫様はそれを聞くと尚更身体を寄せてきた。多分、紫様の顔は性悪な笑みを浮かべているに違いない。
「ふふ、だって、嬉しいもの」
何が、と振り向く前に背に紫様の体温を感じた。
そこで、私はもう一つの答えに気が付いた。
「紫様、もしかして」
私はその答えを口にした。
紫様は、正解だとは口にしなかったが微笑まれた。
たとえこの答えが正解でなくとも構わない。
ただ、私がそう思う、それだけでいいのだ。
私が紫様と出会ったことも、私が橙に出会ったことも、全ては『無駄』の産物だった。『無駄』は無駄であって無駄ではない。
いつか、この問いを橙にもしてやろう。その日が来ることを私は楽しみにすることにした。
主である紫様の心地よい温もりを背中に感じながら。
橙に妖怪としての強さはないけど、別の部分の強さはあるんですね。
少なくとも、藍の「無駄」を排除しようとする考えを変えてしまうくらいには。
八雲一家の物語、とても良かったです。
粋な紫様、面白みの無かった藍に生まれた変化、そしてなりよりけなげな橙が良いなぁ。
不合理大いに結構、やっぱり人にも妖にも余裕と遊び心がなくっちゃ、ですよね。
とにもかくにも、素敵な八雲一家をごちそうさまでした。
いらないところに敢えて労力を費やしたり。必要も無いのに、遠回りして家に帰ったり。
(まあ、藍様みたく無駄な殺生を行うのはどうかと思いましたが(^^;)
そんな僕にとって、このお話はドストライクでした。ありがとうございます。
あと、タグ見て最高にハイな気分になりました。
掃除をしても洗濯をしても、明日には散らかっている。
死ぬまでにいくら地位と財産を築こうが、無駄。
河原で石を積んでも崩れ落ちてしまう。
善行を積み、次の輪廻をより一層高くする努力も、一週すれば終わり。
全ては無駄であり、無駄こそが全て。
美しいと思う「無駄な」感情により世界は輝いて見えるのですね。
だがな、無駄の中にも捨てちまっちゃならねぇモンもあるってもんよ。
おまえさん、そのイラストを無駄にしちゃあいけねえ。
次の作品は決まりだな。期待してるぜ。
>2さん
いい話と言っていただけることが何より嬉しいです。初めは橙の話はあまり書かない方向でいたのですが、それだとなんだか不完全燃焼な形になってしまったのでがっつり書いてみました。お気に召したのであれば良かったかなと。
>コチドリさん
キャラが立っていたようで良かったです。自分では上手く書いたつもりでも、あまり伝わらないことが多いので……。紫様を書いているのは楽しくもあり、苦しくもありました。あの方は少し目を離すと直ぐ訳のわからんことを話し出してしまうのでw
>5さん
タグを考えたのは投稿3日前、そして試験の最中という……。
成長を書くのはいいですね、過程を考えるのが難しいですがw
>7さん
存分に叫んでいただけるとありがたいですw
というか自分もよくやるのでなんだか嬉しいです。
>8さん
だからギャグじゃないですってばw
私も八雲家に感謝です。本当にあの一家は面白いです。
>ワレモノ中尉さん
自分の中の妖怪というのはこう、気ままに生きて、気に入らない奴はぶん殴るみたいな。藍様の妖怪らしさを出すのに殺生はやはり必要かな、と。。「うしおととら」の影響が強いからでしょうかねw
こう、「やめてよね、本気の私にかなうわけ無いだろう」みたいな。そういう圧倒的な感じが出せたらなあと思い、見知らぬ妖怪には犠牲になってもらいました。妖怪ェ……。
>おるふぇさん
「WRYY」っと叫びたくなる時ってあるじゃないですか。ないですね、すみませんw
>14さん
まあ、頑張ります。多分富樫が仕事を再開する頃には書けるかなとw
オチが上手く着地出来ていないのとありきたりなネタが多いのとでなかなか筆が……。
よい八雲一家をありがとうございました。
あと無駄を尊ぶ八雲の主。この解釈は私と同じだったので嬉しくなりました。