また明日。
千年交わしてきた挨拶。
そして、これから先も交わしていくであろう挨拶。
そう、思っていた。
・
六月某日。
切欠は、夕餉の席での聖の一言だった。
「七夕の日に、皆で七夕物語の劇をしましょう」
「「「「「はい?」」」」」
その場に居た私は元より、ムラサ船長やぬえ、一輪やご主人までもが、素っ頓狂な声を上げた。
唯一沈黙を守ったのは、一輪に付き従う雲山のみ。と言っても、言葉を発する術を持っていない彼は声の上げようが無い、というだけなのだが。
「七夕物語って、織姫と彦星が出てくるあのお話ですか?」
「ええ、そのお話よ。『牛郎織女』とも呼ばれるけれど」
問い返したご主人に向かって、聖はこくりと頷く。
――『牛郎織女』。
牛飼いの彦星と機織りの織姫は目出度く結ばれるも、夫婦生活の中で自らの務めを忘れてしまう。
怒った天帝は二人を天の川の対岸に引き離すが、務めに勤しむ事を条件に、一年に一日だけ出会う事を許す。
それが七月七日、七夕の日――
幻想郷、いや、外の世界まで含めたとしても、最も有名な物語の一つだろう。
しかしまた、劇と言うのは……
「へーっ、面白そうじゃない。劇ってあれでしょ? 皆が揃って、見ている奴等を化かすんでしょ?」
一番に乗り気を見せたのはぬえだった。
背中の不思議な形の羽根が、ぱたぱたと揺れている。
「あながち間違いじゃないけど、ぬえが言うと何か引っかかるなぁ……」
「そもそも何でそんな話が出てきたんだい、聖」
額に大粒の汗を貼り付かせたムラサの言葉に続けて、私が疑問を発する。
すると聖はたおやかな笑顔を保ったまま、事の顛末を話し出した。
「今日、人里に布教に出向いた時に、寺子屋を営む半妖と話す機会があってね。彼女、七夕の日に子供達に七夕の物語を伝えてあげたい、と言っていたの」
「それで姐さんは、だったら私達で劇をして、物語を子供達に見せてあげましょう、と……?」
「正解です。察しが良いわね、一輪」
……そういう事か。基本的にはお人好しな聖らしいと言えば聖らしい。
こうなると反対の意見等は出てこないだろう。実際、皆、前向きな表情になってきているし。
となれば気がかりな点は、今のうちに自分で潰しておいた方が良さそうだ。
「劇をすると一口に言うけれど、色々当てはあるのかな? 例えば衣装とか、舞台とか。まぁ、何処まで本格的にやるかにもよるけどね」
「衣装は、魔法使い仲間にとっても可愛らしいお人形の服を作っている子が居るから、彼女にお願いしてみようと思っているわ」
「魔法使いって……まさかあの、白黒いのじゃないよね?」
頭を過ぎった不安に、しかし聖は首を横に振った。
全員が全員、安堵の溜息をついたのが分かる。彼女に下手に出た日には、見返りに何を要求されるか分かったものじゃない。
「知り合いではあるみたいだけれど。舞台の方は、鬼や河童にお願いできたら一番ね……でもまぁ、いざとなれば私が作りますよ」
そう言ってむん、と握り拳を作る聖。
何も知らない輩が見たら可愛らしくも映りそうな仕草だったが、彼女の力を知っている身としては何とも反応しづらい。ご主人も隣で、乾いた笑いを浮かべていた。
私はふぅっ、と一つ息をつく。
「成る程、聖がそこまで考えているんなら大丈夫だろう。私だって、別に反対したい訳じゃないさ」
「ありがとう、ナズーリン。……では、お願いできるかしら? 皆」
首を横に振るのはもう、誰も居なかった。
「さて。今日はもう遅いから、配役なんかは明日以降に決めましょうか」
「さんせ~い」
聖の提案に、ぬえが手を挙げる。声も表情も随分と眠たそうだ。
かく言う私の頭も、少しばかり眠気を訴え始めている。
基本的に夜行性と言われる妖怪ばかりが住まう命蓮寺だが、規則正しい生活を一つの戒律としている事もあって、皆が太陽と共に寝起きする生活を送っていた。
「……ああ、でも、主役の一人は決定してるんじゃない?」
ふと、ムラサがそんな事を言う。
全員が一瞬きょとんとするが、すぐに、得心したとばかりに頷いたり手を打ったりする。
私も彼女の言わんとしている事が分かって、ふむ、と視線を走らせる。
「そうね、何てったって」
「彦『星』様だもんねぇ」
皆の視線も、其方へと集まる。
「…………え?」
ご主人、南無三。
・
「……はぁ」
ご主人と二人、夕餉の後片付けをしていると、唐突にご主人が溜息をついた。
「どうしたんだいご主人、難しい顔をして」
「……分かってて言っているでしょう、ナズーリン」
「おっと、ばれてしまってはしょうがない。良いじゃないか。主役だよ? 彦星様」
「……うぅぅ」
私がその名前を強調して呼んでやると、ご主人は瞬く間に縮こまってしまった。少々苛めが過ぎただろうか。
「大体、選ばれた理由が安直過ぎます。名前に星が入っているだとか、命蓮寺の中では一番背丈があるだとか」
ぶつぶつ言いながら、ご主人は鍋の汚れを擦っていく。
私はそんなご主人に、皿を布巾で拭きつつ、あっさりと応じてやる。
「気に病む必要は無いと思うけどね」
「そんな、他人事みたいに」
「君は何百年という間、立派に毘沙門天様を『演じて』きたんだ。劇の主役の一つや二つ、今更何を臆する事があると言うんだい?」
ご主人がごねるのを遮って、ご主人の方も見ずに、私は言った。
皿を一枚拭き終わって、ぐるりと見回す。うん、綺麗になった。
「…………」
「水、出しっぱなしだと勿体無いよ、ご主人」
「わっ。す、すみません」
慌てて栓を閉じるご主人。どうやら水が溢れたりはしなかったようだ。
暫し、かちゃかちゃと言う食器の音だけが辺りを支配する。
「ねぇ、ナズーリン」
「何だい、今度は」
「考えたんですけど」
「うん」
「……劇、貴女が織姫になってくれませんか?」
ずるっ、と手から皿が零れ落ちる。
ご主人は今、何と言った?
私が織姫だって?
彦星の伴侶である、あの?
「な、ナズーリン、お皿っ!?」
「うわ!?」
ご主人の叫びに我に返り、私は慌てて――
「「……ふぅ~」」
――尻尾の先でどうにか、皿を掴む事に成功したのだった。
「……それで。藪から棒に何を言い出すのかな、ご主人は」
全ての皿を片付け終えてから、改めて私はご主人に問うた。
するとご主人は、こちらも洗い終わったらしい鍋を戸棚にしまいながら、
「はい。私が毘沙門天様で居られたのは、貴女が傍らでずっと助けてくれていたからです。だから今回も、貴女が織姫として隣に居てくれれば、大丈夫だと思ったんです」
なんて、さらりと恥ずかしい事を言ってきた。その顔は憎らしい程ににこやかだ。
思わず、尻尾の先で頭をぽりぽりと掻いてしまう。
「そんな風に思ってくれていたと言うのは光栄だけどね……。でも、柄じゃないよ。私なんて木その一で十分さ」
「え、そんな役ありましたっけ」
「そういう十把一絡げにされる役で構わない、って事だよ。何と言っても楽だからね。役に就かなくて済むのなら、その方が尚良い」
「むぅ……」
ご主人の声色に、微妙に情けないものが混じる。
……あ、拙い。
「どうしても、駄目、ですか?」
一目見ただけでしょんぼりしていると分かる、その表情。
私のようにその頭に虎の耳が生えていたら、きっと、へにょりと垂れ下がっていたに違いない。
参った。
こうなってしまったご主人には、私はどうも強く出る事が出来ない。先日の、宝塔が無くなった時もそうだった。
結局私は、やれやれ、と大げさに肩をすくめて、
「……分かったよ」
「!」
ご主人の申し出を、受けてしまった。
「主にそうまで頼まれては、従者としては受けない訳にもいかないからね」
そう。これはあくまで、主に頼まれたからであって。
「その代わり、ご主人ももう泣き言は無しにしてくれたまえよ?」
「はい!」
決して、そういう立ち位置でご主人の隣に立ってみたいと思ってしまったとかでは無いのだよ?
・
七月二日。
ひらりひらりとした着物。
しなやかな帯。
あちらこちらにあしらわれた装飾。
姿見の中に、自分とは思えない自分が居た。
「……やっぱり、安請け合いするべきじゃなかったかもしれない」
「ん、何か言った?」
「いや、独り言だよ」
この日私は、命蓮寺の一室で、ムラサに手伝ってもらいつつ衣装合わせをしていた。
部屋の反対側では、ご主人が同じように、一輪のサポートを受けながら衣装を羽織っている。
「はい、これで一通り完了。後はかつらを被ってお仕舞いみたい」
「ありがとう、助かったよムラサ」
腰を落ち着けて、改めて姿見を覗く。
件の魔法使いから届けられた衣装は、確かに素人目にも良い出来だった。
しかし、だからこそ、違和感が拭えない。スカートこそ普段から身に着けているものの、こういう煌びやかな服はどうにも慣れないし、そもそも似合わない。
分かってはいた事だけれど……
「何々、耳をお団子の所に収めるように……へえ、面白いね、これ」
思考が沈んでしまいそうになった所に、ムラサがかつらに付いていたらしい注意書きを読み上げて、私に渡してきた。
いけない。ここまで来てしまった以上、最早退路は断たれていると言っても良いのだ。
私は気持ちを切り替えて、その注意書きをざっと流し読む。
……成る程、鼠耳をお団子髪に見せかけるのか。これなら鼠耳も問題にならないし、普通にお団子髪のかつらを作るよりずっと軽い。
上手く考えるものだと感心しつつ、早速被ってみようとかつらを手に取る。
「あ、待って。先に紐か何かで括っておいた方が良いと思う――あったあった。はい」
そうして手渡されたのは、一本の髪紐。
私はしかし、それを手に乗せたまま硬直してしまう。
「ナズーリンの髪って癖が強くて広がりやすいみたいだから、そのままじゃ被りづらいだろうしね。……どうしたの?」
「あ、いや。恥ずかしい話なんだが」
俯き加減のまま、ぽそぽそと告げる。
「私、これまで、自分の髪を結わえるという事をした事が無いんだ」
ぱちくり、と目を見開いて私を見つめるムラサ。
私はその視線に何となく居た堪れなくなって、ますます俯いてしまう。
すると間もなく、頭上から、ふふー、という含み笑いが聞こえてきた。
「……何がおかしいんだい、ムラサ」
「ごめんごめん。ナズーリンにも可愛い所があるんだなあって」
「なっ」
「水蜜、こっち終わったわよ。そっちはどう?」
「あ、お疲れ様一輪、星。こっちももうすぐ終わりそうー」
一輪の声が響いてきたのは、丁度そんな時だった。
振り向くと、彦星の衣装に身を包んだご主人と一輪が此方に歩いてくる。
それは織姫のものと比べると装飾こそ単調だったが、すらりとした意匠がご主人にしっくりと馴染んでいて、
……と言うか。ご主人、男性の衣装が似合い過ぎていやしないだろうか……?
「へえー、随分と格好良くなってるじゃない、星」
「でしょう。やっぱり星にはこういう衣装、似合うわ」
「うぅ、男物の衣装で似合うって言われても複雑ですよぉ」
かく、と項垂れるご主人。
無理もないか。私も同じような感想を抱いていた訳だが、口に出さないでおく事にする。
一輪は続けて、こちらにも視線を向けてくる。
「ふふ、ナズーリンも可愛くなってるわね」
「……褒めても何も出ないよ、一輪?」
「正直な感想よ。ね、星?」
「ええ、とっても可愛らしいと思います、私も」
え。
「ご、ご主人まで何を言い出すんだい。私が可愛いとか、無いよ、あり得ない」
私は私の反応に吃驚して、思わず胸を押さえた。
ぎゅうっ、と締め付けられるような感覚があった。何だこれは。
「え? 可愛らしいですよ、本当に」
「っ――良いから。それは、もう良い」
「はぁ……?」
視線をふい、と逸らす。
このまま見られ続けていたら、正直、どうにかなってしまいそうだった。
「うわ、耳ぴこぴこしてる」
「……成る程ねぇ」
すぐ傍でムラサがぼそぼそ呟いていたり、一輪がしたり顔をしていたりしたけれど、この時の私には、そちらに向けるだけの意識が全く残っていなかった。
「ところで水蜜、後は何が残っているの?」
「ああ、かつらだけ。このままじゃ被れないから括ってもらおうとしたんだけど、ナズーリンが髪の括り方が分からないって言うから」
「ってムラサ、そんな事態々言わなくたって」
「ふむ。……ねぇ、星」
「何でしょう?」
一輪に呼ばれたご主人が、彼女の方を向く。
ご主人の視線が外れて、私は漸く一息つけたと思ったのだけれど。
「ナズーリンの髪を括ってあげてくれない? 星、こういうの得意だったでしょう」
「あ、そうだね。その方が全然早いし。ついでに教えてもらったら良いよ」
「へっ」
間髪入れず、間抜けな声を上げる羽目になってしまった。
「ええ、良いですよ。得意って言う程では無いと思いますが……」
「い、いいよ。口で教えてもらえさえすれば、後は自分でやるから」
「まあまあ、そう言わずに~」
両手をぱたぱたと振ってご主人の言葉を遮るも、ムラサが有無を言わさずという勢いで私の体をくるりと反転させ、鏡の前の椅子にどっかりと座らせる。普段から錨を振り回しているだけあって物凄い力だ。
結局私はそのまま、鏡の前でご主人に背中を向ける格好とされてしまい。
これ以上の抵抗は無理そうだと悟った私は、大きく溜息をつく。
「……じゃあ、お手柔らかに頼むよ、ご主人?」
「はい。ではちょっとの間、じっとしていてくださいね?」
すっ、と、私の後ろ髪に触れるご主人の指の感触が伝わってきた。
ご主人はそのまま、梳くようにして私の髪をまとめていく。
時折地肌に触れられるのが矢鱈とくすぐったくて、むず痒い気持ちになる。
「まずは此処を、こう通して。次はここを掴んで、こう――」
そして、ひょいひょいと結わえ始める。確かに手馴れている感じだ。
鏡越しに見えるご主人の顔からは、今にも鼻唄が聞こえてきそうだった。
「随分と楽しそうだね、ご主人」
「ふふ、ナズーリンの髪の毛を弄るなんて久し振りですからね。少し楽しくなってしまっているかもしれません」
「……そうかい」
抑揚の無い声が、私の口から漏れる。
さっきまでとは一転して、私の心中は静かなものだった。
いや、もしかしたら頭の何処かが麻痺してしまったのかもしれない。
横をちらりと覗くと、一輪とムラサの二人が一歩引いて、満面の笑みで私達を見守っていた。
……全く、どういうつもりなんだか。
「後はここを引っ張って終わり、です。分かりました?」
「ああ、良く分かったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
ご主人の手が、私の髪から離れる。
後には、丁寧に結わえられた私の後ろ髪が残った。と言っても私の髪は長くはないから、小さな尻尾が首の後ろにぴょこん、と跳ねるような感じだ。
私は何となくご主人の姿を直視できずに、後ろを向かないまま、かつらをぼすっとかぶる。かつらは問題なく、きっちりと私の頭に収まった。
「お疲れ様、これで着付けは完了ね。あとは練習あるのみ、か」
「もうそんなに余裕無いしねー」
そうだ、あと五日。残された時間は多くない。
……仕方無い。与えられた任だ、最大限の努力はしよう。
衣装がどうとかで沈んでいた気持ちなんてものはもう、何だか有耶無耶になってしまったし。
「頑張りましょうね、ナズーリン」
私に任を与えた張本人も、こう言ってくれている事だし、ね。
「ところで、姐さんとぬえは今何を?」
「あの二人なら、着付けが終わったから先に練習始めるって、勇んで出ていったよ?」
「ぬえが天帝役で、聖がカササギ役でしたっけ。織姫と彦星との橋渡しをする」
「行け、カササギ! お前の羽根で天の川を埋め尽くしてやるのだー!!」
「ぱたぱた~」
「「「「…………」」」」
「今、部屋の外を通り過ぎたのって」
「深く考えない方が良いと思う……」
・
七月三日。
少女練習中。
七月四日。
少女練習中。
七月五日。
少女練習中。
七月六日。
少女練習中。
・
七月七日。
舞台の幕が、開く。
「では、行きましょうか、織姫」
「ああ、彦星様」
・
七月七日。
祭りのあと。
私は寺の警らを終えて、ご主人の元に報告にやってきていた。
報告結果は『問題無し』。多少散らかっている所も残っていたが、その処理は明日以降に回しても良いだろう。
「今日は一日お疲れ様でした、ナズーリン」
「ご主人の方こそ、お疲れ様」
ありがとうございます、と目を細めるご主人。
その視線がふと、私の後ろを覗き込むように動く。
「……髪、劇の時から括ったままにしているんですね?」
「ん? ああ、片付けとかするのに都合が良かったからね。まぁ、明日には元に戻すつもりだよ」
私は持っていたロッドの先で、首の後ろの尻尾をちょん、と突付いてみせる。
この時にはもう、自分一人で括れるようになっていた。
「ふふっ、ちょっと思い出してしまいました。ナズーリンの織姫様、とても素敵でしたよ?」
「ご主人の彦星様だって、堂に入っていたじゃないか」
牛郎織女の劇は、どうにか好評を得ることが出来たらしい。
子供達からは大きな拍手を浴び、子供を連れてきていた半妖からは何度もお礼を言われた。
……そう言えば、彼女とご主人とは矢鱈とうまが合っていたように思う。あちらも変な生真面目さを漂わせていたから、通じるものを感じたんだろうか。
その後も暫く、今日の事について言葉を交わす。
子供が迷子になったと騒いでいたら、実は雲山に埋もれて遊んでいただけだったとか。
短冊に使う紙が足りなくなったと言って、ぬえが経典を短冊に見せかけようとしていただとか。
唐傘お化けが笹飾りに紛れ込んで笹に釣り下がっていたけれど、誰も驚いてなかっただとか。
何時の間にか博麗の巫女と山の巫女が見に来ていて、随分と仲良さげにしていたとか。
劇をやっていた時の騒がしさは何処へやら、今は静かな雰囲気が命蓮寺を包んでいる。だからその間、耳に入ってくる音は、私とご主人の声だけだった。
けれど、またすぐに何時も通りの一日がやってくるから、そんな時間を何時までも続けている訳にもいかなくて。
私は、んっ、と伸びをして、ご主人に告げる。
「さて、私はそろそろ休むことにするよ。また明日だ、ご主人」
「あ、はい。また明日です、ナズーリン」
そうして踵を返し、自室に向けて、一歩――
「ねぇ、ナズーリン」
――踏み出したところで、呼び止められた。
私はくるりともう半回転して、ご主人に向き直る。
「何だい、ご主人?」
「……また明日、って言えるのは、素敵な事だったんですね」
首をひねりかけたが、一瞬の後、ご主人の言いたがっている事が何となく分かった。
今日の劇で織姫と彦星が最後に交わした、『また来年』という挨拶と、今の挨拶とを重ね合わせているのだ。
一年経たなければ再会できない、織姫と彦星。だけど私達は、一夜が過ぎさえすれば会う事が出来る。それは何て素敵な事なんだろう――そう言いたいのに違いない。
ハハッ、と、私の口から笑みが漏れる。
「あれは務めを疎かにしたからだろう。自業自得だよ」
「ナズーリンは手厳しいですねぇ」
「だって、私は務めを放棄したりはしないからね。ご主人だってそうだろう?」
「あ、当たり前です。毘沙門天代理の任を疎かにするなんてあり得ません」
「だったら、私とご主人を引き離す天帝は現れない。だから私とご主人にとっては、『また明日』は特別持ち上げるような挨拶じゃあない」
いつの間にか、両手を広げて大げさに弁を振るっていた。芝居の感覚がまだ、残っていたのかもしれない。
――ふと、一つの事を思いつく。
しかし私は、それを口に出す事をこまねいてしまう。
それは本当にただの思いつきなのか、それとも私の願いなのか、自分でもはっきりとは分からなかったから。
「……そうかも、しれませんね」
そう応えて、薄く微笑むご主人。
私も笑い返してやる。皮肉っぽい笑みになっているんだろうな、と頭のどこかで思う。やはり私には、ご主人のような笑顔と言うのは真似できそうにない。
……ならばこの思いつきも、今言ってしまえば、皮肉とか冗談とかにしてしまえるだろうか。
私は、次の言葉を紡ぎ出す。
「ああ、でも、また明日とすら言う必要も無い状況になれば、特別な挨拶になるのかな?」
「……?」
暫く間を取ってみたが、ご主人は目をぱちぱちさせてこちらを見つめるまま。
やれやれ。本当、鈍い主だ。
私はご主人の一歩手前まで、すたすたと歩み寄ってやる。
頭一つほどご主人より小さい私は、自然、ご主人を見上げる格好になる。
「簡単な事さ。昼も夜も、ずっとずっと、一緒に過ごすんだ。そうすればまた明日、なんて挨拶は不要になる」
「え」
夜も遅いと言うのに、ご主人の顔が真っ赤になるのが、はっきりと見えたように思えた。
私も胸の方からどくどくと言う音が明瞭に聞こえてきているが、それは気のせいという事にしよう。
「あの、ナズーリン、それは」
「冗談だよ」
横を向いて、くつくつと笑う。
ご主人が呆気に取られているであろう事は、見なくても十分に推測できた。
私はそのまま、窓ごしに外を覗く。
「それより、見てみなよご主人。今年は良い逢引日和のようだ」
「…………はぁ。もう少し言葉を選んだ方が良いのではないですか? ああ、でも、本当に」
私のすぐ後ろで、ご主人も同じように空を見上げる。
織姫星と彦星。その間にまたがる天の川。今日の主役達が、夜空を眩しく照らしていた。
「まぁ、何時かは……」
「うん?」
「何でもないよ」
言って、更に半歩、ご主人に近づく。尻尾と髪の毛の先がほんの僅か、ご主人に触れた。
ご主人はそんな私の両肩に、背後からそっと腕を回してくる。
普段なら鬱陶しいと撥ね付けていたかもしれなかったけれど、今日はそんな気にもなれなくて。
そのままご主人と二人、七夕の星空を見上げ続けた。
・
また明日。
千年交わしてきた挨拶。
そして、これから先も交わしていくであろう挨拶。
そう、思っていたけれど――まぁ、何時かは。
何時かはその、『また明日』が要らなくなる日を、星にお願いしてもいいかもしれないね?
ぬえとひじりんがどんな演技をしたのか気になるなww
最後の一行がいいですね。『ほし』にお願いと『しょう』にお願いの両方で読むことができる。
文章のテンポが合わなくて読むのに時間がかかってしまいました。
誤字報告 >藪から某
どうでもいいことですけど七夕の日に雲が出たら、それは二人がいちゃついてるのを見られたくないからなんじゃないかとか思ってます。