夢を見ているのだな、と唐突に理解した。ただ、なぜ夢の中にいるのかは分からなかった。
どうすることも敵わなかった。夢という映像を、ただ傍観するしかなかった。
光景は、神社の一室だった。
祈祷、祓いをするときに使う大きな部屋だ。どことなく、張り詰めたような雰囲気が満ちていた。
その中央、東西南北の壁から等距離のところに少女がいて、凛と正座し、巫女の装束を着て、瞳を閉じていた。化粧をしているのか、頬には清水を梳いたような艶があった。
その、しんと静まった部屋に、声が響いてきた。
傍観者である私には、それが文の声であるように思われた。
なぜ文なのか――考えようとすると、嘔吐感に襲われて――やめた。
「霊夢さん」
「なに?」
響いた文の声に、夢の中の少女はそう応えた。冷ややかでさえある声色だった。
口以外は全く動かさず、彼女は座っている。凛とした横顔には、何の色も窺えない。
異様な光景を、私は不思議なほど静かに冷え切った気持ちで眺めていた。どうすることも出来ず、必要がない、と知っていたからかもしれない。
自分とは似ても似つかない、綺麗に化粧をして佇む夢の中の私が、他人のように見えたからかもしれない。
再び文の声がした。
「どうして、そんなところに座っているんですか」
少女が応える。
「私は、巫女だから」
巫女は、結界の守護者にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、どこからも等距離でなくてはならない。
再び、尋ねる声。
「どうして、そんなに気を張っているんですか」
少女が答える。
「私は、巫女だから」
巫女は、世界の繋ぎ目にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、誰からも等距離でなくてはならない。
三度、文の声。
「どうして、顔を隠すんですか」
少女が言う。
「私は、巫女だから」
巫女は、調和の紡ぎ手にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、人間的な人間ではいけない。
もう一度、声が響いた。
「どうして、この扉は開かないんですか」
少女が呟く。
「私は、巫女だから」
巫女は、幻想の重心にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、誰に甘くてもいけない。
まるで言葉遊びのような、今まで見たこともないような、静かな会話だった。
いや、夢の中なのだからこれは私の――独白か。
先ほどから、夢の中の少女が応える度に、私は心に、心の深奥に、胎動する何かを感じていた。
それは心臓の鼓動のようで、あるいは殻を突き破らんと暴れる獣の咆哮のようでもあった。
その獣が吼え猛る度に――気分の悪さ、嘔吐感と寒気を感じた。夢を傍観する私に口も背もあるはずもないのに、臓腑が痙攣したような吐き気と背に氷柱を押し当てられるような寒気だった。
心の奥底からの奔流。それが蠢き、私は思わず口を押さえようとする、が口も、それを押さえる手も、ましてや吐き出すような何かも、私にはなかった。
吐き出す何かなど、ないはずだ。
気付くと、少女はまだ瞳を閉じたまま、そこにいた。まるで人形のように座っていた。
ただ、綺麗で、凛としているが、人としても美術品としても、何か欠けていた。
こんな感情を、何と言うのだろう。
知っている。
知っているが、思い出せない。
気分の悪さで思い出せないのか――と思うと、一際強い苦痛が、獣の狂乱が、私の奥を蹂躙した。視界が暗転するほどの痛みと嘔吐感とが、私を襲った。しかし、今度は、それを表現する言葉を思い出せていないことに気付いた。
痛い、ではなく、
苦しい、ではなく――
とうとう、思考もおぼつかなくなってきた。お構いなしに精神に住み着いた魔獣が狂い回る。
痛い、苦しい、辛い、悲しい、怖い――
そのどれでもない、似ているけれど、違う。
視界がぼやけて、思考が揺れて、揺れる思考と視界の隙間に、哄笑する獣の顔が見えた、気がした。
私は倒れ伏した。倒れるべき地面のない暗黒に、重力の魔に、引きずり込まれる――
「霊夢さん」
聴こえた。
ふと視界が戻り、先ほどまで目にしていた神社の一室が見えた。
ただ、決定的に先ほどと違うことがあった。
瞳を閉じた少女の背中側にある、障子戸。
そこに、文の輪郭が映っていた。
「どうして、そんなに寂しそうなんですか」
その言葉が、音の連なりが、私の感じていた全ての苦痛を抱擁し、蕩かされるように、痛みがすっと消えた。猛る獣は、温もりの抱擁ですっかり動きを止めた。
寂しい――そう言うんだった。
すると、中央の少女は応えた。
「寂しくないわ」
「嘘はやめて下さい」
零度の少女の声は、文の声に遮られた。
姿の見えない文の言葉は続く。
「寂しくないはずがないです。こんなところに独りで。それもずっと……ずっと」
少女は何も応えなかった。言わなかった。
「あなたは……博麗の巫女、じゃない」
文の言葉は、ひたすらに力強かった。東に昇る太陽のように、私を救う光のように。
「博麗霊夢。一人の人間で、そして――」
夢の終わりが近い。そう感じた。
きっと、彼女の、文の言葉によって、この夢は終わりを迎える。
狭い部屋の真ん中に縛られていた、寂しそうな彼女は、口の端に微笑を湛えていた。そして、一筋、涙が伝った。
巫女。
それを十字架と勘違いしていた少女は、すでにそこにはいなかった。
誰からも離れ、何からも離れ、超然として――そうであってこその博麗霊夢。
その幻想は、消えた。
文の言葉によって。
私の、好きな人の言葉によって。
「――この射命丸文の好きな人、博麗霊夢です」
その言葉が、優しい光の旋律が、部屋に染みこんで、私に染みこんだ。
そして、
部屋が、少女が、微笑が、涙が、シルエットが、何もかもが光に融けて、
――夢が終わる。
目を覚ますと、まず布団のやわらかさ、寝汗で身体にすっかり張り付いた巫女服の不快さ、次に違和感を感じた。
目が慣れるのを待って、天井を見、それから寝たまま周りを見ると、ここがどこであるか、何となく分かった。
「(永遠亭……)」
自分が寝ている他にベッドがいくつかある。それに、遠くから「ちょっとてゐ、返して!ほんとに返して!ちょっとぉ!お風呂から出れないでしょ!?てゐぃ!」と、悲痛な叫びが聞こえている。
「……何やってんだかね」
思わず声が出た。兎たちのやり取りについての言葉でもあったし、こんなところで自分が寝ている理由が皆目分からないからでもあった。
ただ、左の太腿辺りに感じる若干の重さと熱についての言葉でもあった。
そこに寄りかかるようにして、文が寝息を立てていた。
上半身を起こし、文の頭を撫でながら言う。
「ねえ、お嬢さん?どうしたの、ってかなにしてるの?」
「んぅ……」
うっすらと文の瞳が開いた。
彼女は一瞬だけ眠そうな目をしたかと思うと、はっとしたように目を見開いた。
口をわなわなと震わせると、見る見る瞳に涙が溜まっていく。
「れっ、霊夢さぁぁぁん!」
「ちょ、ちょっと?」
叫びながら、文が抱きついてきた。
私の胸に顔を埋めて「よかったぁ……ほんとによかった」とか、言っている。
わけも分からず泣かせてしまって、ちくりと心が痛んだ。
「……ごめんね。心配させた?」
「当たり前じゃないですか……あ、でも……」
言うと、彼女はばつが悪そうに、私から離れ、そばに立った。
逡巡するような色が顔に見えた。
「どうしたの?文」
訊くと、彼女は俯きながら答えた。
「だ……だって、私が……あんなことしたから」
「……あんなこと?」
文は一瞬ぽかんとして、まさか、と言った。
「……覚えてないん、ですか?」
そう言われても、夢の内容があまりに強烈で、それ以外のことをいまいち思い出せない。気絶するようなことに心当たりもない。
文は不安そうな顔でこちらを見つめていた。手を伸ばしても触れられない程度の微妙な距離を取って、彼女は立っていた。
「うん……実は、夢を見てて……その印象が強すぎて、よく頭が働かなくて」
「そうですか……」
開いている窓から、風が吹き込んできて、文の髪を揺らした。
彼女は、ぐっ、と唇を噛んだように見えた。今にも泣き出しそうな表情だった。
なぜ文がそんな顔をするのか分からない。
すると、意を決したように、文がこちらを見つめた。
「実は……私が……」
「……文が?」
言葉が途切れ、私が続きを促した。
「霊夢さんに……き、き」
「……き?」
不思議な途切れを拾って、もう一度先を促す。
「キス、しようとしたら……霊夢さんが、倒れて」
は?
「……は?」
思わず、声が出た。出さずにいられようか。
「いっいえ……だから……まさかそんなに嫌だと思わなくて……ごめんなさい……ほんとに」
ぐすっ、と文が鼻を啜る音が聞こえ、しかも泣き出してしまった。
慌てて言う。
「ちょ……ちょっと待って、それほんと?」
「はい……ごめんなさい……」
「ちょっと……待って待って、私が文と、その……嫌がるわけないじゃない、そりゃ、初めてだから緊張はするだろうけど」
ベッドの上で、そんなことがあるはずがない――ともう一度言おうとして、気付いた。
きっと、文にキスされそうになった時、私は幸せで、けれど、あまりに文と近しくなってしまえば、巫女として――世界の境界として、上手く任を果たせなくなるかもしれない、とその恐怖に駆られたのだ。
巫女、博麗霊夢であることが出来なくなるかもしれない、と。
そして、あんな夢を見た。
「……ごめんね、文」
文は俯いていたが、その言葉にびくっと身体を震わせた。そしてこちらに向くと、涙を袖で拭って、言った。
「なんで……霊夢さんは悪くないんですよ。私が……勘違い、して……」
また、言葉尻は涙声になって、聞き取れなくなってしまった。
夢の中で、私は恐怖と訣別した。
自らが取っていた他人との距離、その境界を踏み越える決意をした。
誰かの愛を信じて、誰かを愛する勇気を手に入れた。
夢の中で、巫女という名前に拘っていた私は、もういない。彼女は、まばゆい光の中に、微笑みながら消えていった。
だからもう、大丈夫だ。
「ねえ、文」
文はまた鼻を啜って、俯いたままで答える。
「何です……か?」
「キスして」
「え」
「キス」
「え」
「したくないの?」
「い、いやっ!」
「……嫌なの?」
「そ、そうではなくてっ……」
文は、きっと今の状況が飲み込めないんだろう。当然だ。
伝わることはないだろうが、謝罪しておかねばならないだろう。
「さっき私が気を失ったのはね、文のせいじゃないわ、ただ……臆病だった、から」
「……臆病……ですか」
「うん……だからごめんね。でも、大丈夫。文のおかげで……」
気恥ずかしくなって、それ以上言葉が続けられなかった。頬が燃えているように熱い。
文は次の言葉を待つように私を見つめ、顔を赤くしている。
これ以上の言葉は野暮だな、と思った。
「文が私のこと、これからも……好きでいてくれるなら」
「……はい。絶対に」
「……キス、して?」
死ぬほど恥ずかしい。でも、言えた。
すると、文はおずおずと両手を伸ばして、私の肩に手を置いた。耳まで真っ赤になっている。
それは、きっと私もなのだろうけど。
文が言う。声も、肩に置かれた両手も、震えていた。可愛い。
「……いいんです、よね?」
「うん……あ」
「え、また私何か」
「いやえっと、私座ったままだから……しづらい?」
「し、身長的には、丁度いいです」
「そ、そう」
答えて、お互いを見つめると、二人とも笑ってしまった。なんとも、ぎこちない。
だけど、こういう締まらない雰囲気が、幻想郷のいいところなんだろう。
私が思い込んでいたような、制約だの、縛鎖(ばくさ)だの、小難しいことなどありはしない。
ただひたすら幸福で、幸福で、幸福な世界。
それが、この世界なのだろう。
「じゃ、じゃあっ、いきます」
「う、うん」
私は、少しだけ上を向いて、目を閉じる。
「……ぷはっ」
数秒ぐらいのものだろうが、とても、とても長く感じた。
それほど、甘美な時間だった。
文はとろんとした瞳で、さっきまでの顔にさらに朱を塗ったように赤くなっていた。私もそうに違いない。
「え、えっと……霊夢さん、ありが――」
「ちょっと待って!」
「え」
言葉を遮る。
最後に、これだけは確かめなければならないだろう。
私は、ほほをつねった。
そうして、
真っ赤な顔のまま、二人で笑った。
どうすることも敵わなかった。夢という映像を、ただ傍観するしかなかった。
光景は、神社の一室だった。
祈祷、祓いをするときに使う大きな部屋だ。どことなく、張り詰めたような雰囲気が満ちていた。
その中央、東西南北の壁から等距離のところに少女がいて、凛と正座し、巫女の装束を着て、瞳を閉じていた。化粧をしているのか、頬には清水を梳いたような艶があった。
その、しんと静まった部屋に、声が響いてきた。
傍観者である私には、それが文の声であるように思われた。
なぜ文なのか――考えようとすると、嘔吐感に襲われて――やめた。
「霊夢さん」
「なに?」
響いた文の声に、夢の中の少女はそう応えた。冷ややかでさえある声色だった。
口以外は全く動かさず、彼女は座っている。凛とした横顔には、何の色も窺えない。
異様な光景を、私は不思議なほど静かに冷え切った気持ちで眺めていた。どうすることも出来ず、必要がない、と知っていたからかもしれない。
自分とは似ても似つかない、綺麗に化粧をして佇む夢の中の私が、他人のように見えたからかもしれない。
再び文の声がした。
「どうして、そんなところに座っているんですか」
少女が応える。
「私は、巫女だから」
巫女は、結界の守護者にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、どこからも等距離でなくてはならない。
再び、尋ねる声。
「どうして、そんなに気を張っているんですか」
少女が答える。
「私は、巫女だから」
巫女は、世界の繋ぎ目にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、誰からも等距離でなくてはならない。
三度、文の声。
「どうして、顔を隠すんですか」
少女が言う。
「私は、巫女だから」
巫女は、調和の紡ぎ手にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、人間的な人間ではいけない。
もう一度、声が響いた。
「どうして、この扉は開かないんですか」
少女が呟く。
「私は、巫女だから」
巫女は、幻想の重心にして、幻想郷が在るための、境界。
世界の境界は、誰に甘くてもいけない。
まるで言葉遊びのような、今まで見たこともないような、静かな会話だった。
いや、夢の中なのだからこれは私の――独白か。
先ほどから、夢の中の少女が応える度に、私は心に、心の深奥に、胎動する何かを感じていた。
それは心臓の鼓動のようで、あるいは殻を突き破らんと暴れる獣の咆哮のようでもあった。
その獣が吼え猛る度に――気分の悪さ、嘔吐感と寒気を感じた。夢を傍観する私に口も背もあるはずもないのに、臓腑が痙攣したような吐き気と背に氷柱を押し当てられるような寒気だった。
心の奥底からの奔流。それが蠢き、私は思わず口を押さえようとする、が口も、それを押さえる手も、ましてや吐き出すような何かも、私にはなかった。
吐き出す何かなど、ないはずだ。
気付くと、少女はまだ瞳を閉じたまま、そこにいた。まるで人形のように座っていた。
ただ、綺麗で、凛としているが、人としても美術品としても、何か欠けていた。
こんな感情を、何と言うのだろう。
知っている。
知っているが、思い出せない。
気分の悪さで思い出せないのか――と思うと、一際強い苦痛が、獣の狂乱が、私の奥を蹂躙した。視界が暗転するほどの痛みと嘔吐感とが、私を襲った。しかし、今度は、それを表現する言葉を思い出せていないことに気付いた。
痛い、ではなく、
苦しい、ではなく――
とうとう、思考もおぼつかなくなってきた。お構いなしに精神に住み着いた魔獣が狂い回る。
痛い、苦しい、辛い、悲しい、怖い――
そのどれでもない、似ているけれど、違う。
視界がぼやけて、思考が揺れて、揺れる思考と視界の隙間に、哄笑する獣の顔が見えた、気がした。
私は倒れ伏した。倒れるべき地面のない暗黒に、重力の魔に、引きずり込まれる――
「霊夢さん」
聴こえた。
ふと視界が戻り、先ほどまで目にしていた神社の一室が見えた。
ただ、決定的に先ほどと違うことがあった。
瞳を閉じた少女の背中側にある、障子戸。
そこに、文の輪郭が映っていた。
「どうして、そんなに寂しそうなんですか」
その言葉が、音の連なりが、私の感じていた全ての苦痛を抱擁し、蕩かされるように、痛みがすっと消えた。猛る獣は、温もりの抱擁ですっかり動きを止めた。
寂しい――そう言うんだった。
すると、中央の少女は応えた。
「寂しくないわ」
「嘘はやめて下さい」
零度の少女の声は、文の声に遮られた。
姿の見えない文の言葉は続く。
「寂しくないはずがないです。こんなところに独りで。それもずっと……ずっと」
少女は何も応えなかった。言わなかった。
「あなたは……博麗の巫女、じゃない」
文の言葉は、ひたすらに力強かった。東に昇る太陽のように、私を救う光のように。
「博麗霊夢。一人の人間で、そして――」
夢の終わりが近い。そう感じた。
きっと、彼女の、文の言葉によって、この夢は終わりを迎える。
狭い部屋の真ん中に縛られていた、寂しそうな彼女は、口の端に微笑を湛えていた。そして、一筋、涙が伝った。
巫女。
それを十字架と勘違いしていた少女は、すでにそこにはいなかった。
誰からも離れ、何からも離れ、超然として――そうであってこその博麗霊夢。
その幻想は、消えた。
文の言葉によって。
私の、好きな人の言葉によって。
「――この射命丸文の好きな人、博麗霊夢です」
その言葉が、優しい光の旋律が、部屋に染みこんで、私に染みこんだ。
そして、
部屋が、少女が、微笑が、涙が、シルエットが、何もかもが光に融けて、
――夢が終わる。
目を覚ますと、まず布団のやわらかさ、寝汗で身体にすっかり張り付いた巫女服の不快さ、次に違和感を感じた。
目が慣れるのを待って、天井を見、それから寝たまま周りを見ると、ここがどこであるか、何となく分かった。
「(永遠亭……)」
自分が寝ている他にベッドがいくつかある。それに、遠くから「ちょっとてゐ、返して!ほんとに返して!ちょっとぉ!お風呂から出れないでしょ!?てゐぃ!」と、悲痛な叫びが聞こえている。
「……何やってんだかね」
思わず声が出た。兎たちのやり取りについての言葉でもあったし、こんなところで自分が寝ている理由が皆目分からないからでもあった。
ただ、左の太腿辺りに感じる若干の重さと熱についての言葉でもあった。
そこに寄りかかるようにして、文が寝息を立てていた。
上半身を起こし、文の頭を撫でながら言う。
「ねえ、お嬢さん?どうしたの、ってかなにしてるの?」
「んぅ……」
うっすらと文の瞳が開いた。
彼女は一瞬だけ眠そうな目をしたかと思うと、はっとしたように目を見開いた。
口をわなわなと震わせると、見る見る瞳に涙が溜まっていく。
「れっ、霊夢さぁぁぁん!」
「ちょ、ちょっと?」
叫びながら、文が抱きついてきた。
私の胸に顔を埋めて「よかったぁ……ほんとによかった」とか、言っている。
わけも分からず泣かせてしまって、ちくりと心が痛んだ。
「……ごめんね。心配させた?」
「当たり前じゃないですか……あ、でも……」
言うと、彼女はばつが悪そうに、私から離れ、そばに立った。
逡巡するような色が顔に見えた。
「どうしたの?文」
訊くと、彼女は俯きながら答えた。
「だ……だって、私が……あんなことしたから」
「……あんなこと?」
文は一瞬ぽかんとして、まさか、と言った。
「……覚えてないん、ですか?」
そう言われても、夢の内容があまりに強烈で、それ以外のことをいまいち思い出せない。気絶するようなことに心当たりもない。
文は不安そうな顔でこちらを見つめていた。手を伸ばしても触れられない程度の微妙な距離を取って、彼女は立っていた。
「うん……実は、夢を見てて……その印象が強すぎて、よく頭が働かなくて」
「そうですか……」
開いている窓から、風が吹き込んできて、文の髪を揺らした。
彼女は、ぐっ、と唇を噛んだように見えた。今にも泣き出しそうな表情だった。
なぜ文がそんな顔をするのか分からない。
すると、意を決したように、文がこちらを見つめた。
「実は……私が……」
「……文が?」
言葉が途切れ、私が続きを促した。
「霊夢さんに……き、き」
「……き?」
不思議な途切れを拾って、もう一度先を促す。
「キス、しようとしたら……霊夢さんが、倒れて」
は?
「……は?」
思わず、声が出た。出さずにいられようか。
「いっいえ……だから……まさかそんなに嫌だと思わなくて……ごめんなさい……ほんとに」
ぐすっ、と文が鼻を啜る音が聞こえ、しかも泣き出してしまった。
慌てて言う。
「ちょ……ちょっと待って、それほんと?」
「はい……ごめんなさい……」
「ちょっと……待って待って、私が文と、その……嫌がるわけないじゃない、そりゃ、初めてだから緊張はするだろうけど」
ベッドの上で、そんなことがあるはずがない――ともう一度言おうとして、気付いた。
きっと、文にキスされそうになった時、私は幸せで、けれど、あまりに文と近しくなってしまえば、巫女として――世界の境界として、上手く任を果たせなくなるかもしれない、とその恐怖に駆られたのだ。
巫女、博麗霊夢であることが出来なくなるかもしれない、と。
そして、あんな夢を見た。
「……ごめんね、文」
文は俯いていたが、その言葉にびくっと身体を震わせた。そしてこちらに向くと、涙を袖で拭って、言った。
「なんで……霊夢さんは悪くないんですよ。私が……勘違い、して……」
また、言葉尻は涙声になって、聞き取れなくなってしまった。
夢の中で、私は恐怖と訣別した。
自らが取っていた他人との距離、その境界を踏み越える決意をした。
誰かの愛を信じて、誰かを愛する勇気を手に入れた。
夢の中で、巫女という名前に拘っていた私は、もういない。彼女は、まばゆい光の中に、微笑みながら消えていった。
だからもう、大丈夫だ。
「ねえ、文」
文はまた鼻を啜って、俯いたままで答える。
「何です……か?」
「キスして」
「え」
「キス」
「え」
「したくないの?」
「い、いやっ!」
「……嫌なの?」
「そ、そうではなくてっ……」
文は、きっと今の状況が飲み込めないんだろう。当然だ。
伝わることはないだろうが、謝罪しておかねばならないだろう。
「さっき私が気を失ったのはね、文のせいじゃないわ、ただ……臆病だった、から」
「……臆病……ですか」
「うん……だからごめんね。でも、大丈夫。文のおかげで……」
気恥ずかしくなって、それ以上言葉が続けられなかった。頬が燃えているように熱い。
文は次の言葉を待つように私を見つめ、顔を赤くしている。
これ以上の言葉は野暮だな、と思った。
「文が私のこと、これからも……好きでいてくれるなら」
「……はい。絶対に」
「……キス、して?」
死ぬほど恥ずかしい。でも、言えた。
すると、文はおずおずと両手を伸ばして、私の肩に手を置いた。耳まで真っ赤になっている。
それは、きっと私もなのだろうけど。
文が言う。声も、肩に置かれた両手も、震えていた。可愛い。
「……いいんです、よね?」
「うん……あ」
「え、また私何か」
「いやえっと、私座ったままだから……しづらい?」
「し、身長的には、丁度いいです」
「そ、そう」
答えて、お互いを見つめると、二人とも笑ってしまった。なんとも、ぎこちない。
だけど、こういう締まらない雰囲気が、幻想郷のいいところなんだろう。
私が思い込んでいたような、制約だの、縛鎖(ばくさ)だの、小難しいことなどありはしない。
ただひたすら幸福で、幸福で、幸福な世界。
それが、この世界なのだろう。
「じゃ、じゃあっ、いきます」
「う、うん」
私は、少しだけ上を向いて、目を閉じる。
「……ぷはっ」
数秒ぐらいのものだろうが、とても、とても長く感じた。
それほど、甘美な時間だった。
文はとろんとした瞳で、さっきまでの顔にさらに朱を塗ったように赤くなっていた。私もそうに違いない。
「え、えっと……霊夢さん、ありが――」
「ちょっと待って!」
「え」
言葉を遮る。
最後に、これだけは確かめなければならないだろう。
私は、ほほをつねった。
そうして、
真っ赤な顔のまま、二人で笑った。
あやれいむ好きすぐる
そして、てゐgood job!!