順番が大事である。
まずは右手から。次に左足である。
ここでもう片方の手を抜きたいところだが、そこはぐっと我慢。ブラウスのボタンを半分だけ外し、先に首を抜く。
ここで、くれぐれも注意せねばならない。
先に抜いた左足を、必ず半歩ずらし、一度右側に繋がる輪の中へ通すこと。これを忘れてはならない。それは、これから数手先にて、スカートを円滑に脱ぐための大事なステップなのである。
もし、そのステップを飛ばしてしまったらどうなるか。
三手先で詰まる。右肩が抜けなくなるのである。
だが、慌てるなかれ。まだ大丈夫。
人間、うっかりすることだってある。一度の間違いならば、十分取り戻せる。冷静に対処すれば大したことはない。
この場合、左足を曲げて後ろの輪を通し、背中をくぐって右肩を出せばいいのだ。多少無理矢理だが、できないことではない。
しかし、ここに罠が潜んでいる。
後ろの輪は二つあるのだ。これを間違うと、大変なことになる。
つまり、
「だ、だれかー」
身動きが取れなくなるのである。
「た、たすけてー」
古明地さとりは、中途半端に服を脱いだ状態で、なすすべもなく床に転がっていた。
妖怪覚りの覚りたるを示す第三の眼は、何本かのコードによって覚り自身の身体と繋がっている。
遥か遥か昔、妖怪が妖怪らしい姿を持っていた頃は特に問題にもならなかったが、さとりのように人の姿を得てしまうと、これがいささか困ったことになる。
まあ、要するに邪魔なのだ。
服を脱ぐにも着るのにも。
このコード、表に見える部分はそれほどでもないようでいて、実際はかなり複雑な経路を通っている。
ただ袖を通すだけでも、きちんと手順を踏まなければならないのだ。
無論、さとりは物心付く前からこの手順をきっちりと教え込まれている。お箸を持つ手を覚える頃には、服の着方、脱ぎ方を親から躾けられたのだ。大きくなった今では、特に意識することなくその複雑な作業をこなせる。もっとも、そうでなければ、パジャマも着替えられないしお風呂にだって入れないのだ。どれほど面倒なことであっても、さとりにとってはただの日常である。
だが、ふとした弾みで、その手順が狂うことがある。
お風呂に入ろう。それが今回の切っ掛けである。
地霊殿のお風呂は、源泉から引いた天然温泉である。灼熱地獄のおかげで、二十四時間、いつでも好きなだけお湯が使えるのだ。
さとりはお風呂好きで、それもやや熱めの湯船にさっと浸かるのが好みだ。地霊殿に住み始めてからというもの、このお風呂の時間がさとりにとっては掛け替えのない至福である。
ただ、今日は、いつもとは違った。
脱衣場の洗濯篭に、妹の服が入っていた。
ああ、あの子はまた私が知らない間に帰ってきたのね。
さとりは、ふう、とため息を吐く。
その服は既に温もりを失っている。妹は、誰にも知られず帰ってきて、誰にも知られずお風呂に入り、誰にも知られず着替えて出ていったのだろう。
いつものように。
妹の放浪癖に、さとりはいつも心を痛めている。
心を閉ざしてしまったこいしのことは、姉であるさとりにもわからない。家にもたまにしか帰らないのだ。どこで何をしているのやら。
幸い、といって良いのか、無意識を操るこいしはそれゆえに安全だ。彼女を害することができるものなど、そうそういるものではない。
とはいえ、やはり可愛い妹なのである。いまや唯一の肉親である彼女の身を案じないわけがない。もう少し落ち着いてくれたら、とため息も深くなる。
そういえば、あの子と最後に一緒にお風呂に入ったのはいつだったかしら。
そんなことをぼんやりと考えていたのである。
それが失敗の元であった。
「ああ、まさかこんなことになるなんて」
さとりは雁字搦めのまま、脱衣場の床をごろんと転がる。
数手のミスは、たちまち解への道を十数手も遠ざける。焦って強引に引き戻そうとしても、余計にこんがらがるだけだ。人型のさとりでは関節の可動範囲が決まっている。コードだって長さに余裕がある訳じゃない。物理的制約はいかんともしがたく、かくしてさとりはこの有様である。
助けを呼んでも、この地霊殿を訪れる者などほとんどいない。妖怪覚りの悪名ゆえである。それでも近付く酔狂な輩がいないわけでもなかったが、さとりが真っ昼間から風呂に入ろうと考える程度には客が来ないのである。
ならば自力で頑張ってみるかと、思い切って力を込めてみたものの、余計にコードが食い込んで痛いだけだった。
なにしろ、古明地さとり、非力である。今朝もジャムの瓶の蓋が開けられず、やむなくバタートーストになってしまったくらいである。
そんなわけで、自力解決は早々に諦めた。
なに、心配無用。
地霊殿には、客は来ずとも、
「あ、さとり様、なんて格好に!」
ペットはいるのだ。
「ああ、ちょうどいいとこに来ました。おりん、ちょっと助けてください」
「そ、そりゃ助けますけれども、どうしたんですか、これ。強盗にでも入られたんですか?」
「えーっと、ノーコメント」
「言えないようなことをされたんですか!?」
「ストップ、ストップ。誰かに縛られたんじゃなくて、その、自分で」
「自分で!? さとり様、ドSなのはジト目だけにしてくださいよ! いくらいぢめる相手がいないからって、まさかご自分を……!」
真っ赤になった両頬を手で押さえて身をくねらせる猫娘。
この地霊殿では比較的頭が回って気が利くペットなのだが、いささか短慮に過ぎるのは困ったものである。
というか、あなたとは、いっぺん、私をどう見ているのかについてとことん話す必要がありそうですね。
昏い目つきでさとりはそう決心する。主たるもの、ペットは厳しく躾けなければならぬ。
ともあれ、まずは我が身のことである。
さとりは、手短に現状を説明した。かくかくしかじか。
「ははあ、なるほど、わかりました。そりゃまた難儀なことになりましたねえ」
燐は賢い猫である。一度の説明で、状況を理解した。
「で、どうすればいいんで?」
「そうですね、あの、背中の方のですね。左手の近くのコード」
「えーと、これですか?」
「そう、それ。それ、引っ張って」
「えい」
「あ、痛い痛い! もっと優しく、優しく」
三十分ほど格闘する。
せめて、どこか一つでも緩めば、そこから強引にでも手なり足なりが出せるのではないか。
そう考えたわけだが、コードは予想以上にきつく絡まり合っていた。
あちらを引けばこちらが食い込む。こちらを手繰ればそちらで捻れる。そんな具合で、むしろ状況は悪くなっていく一方だった。
「んー、こりゃあ、ちょっと手が出せないですねえ」
やがて、お手上げだ、という風に燐はさとりの傍に座り込んだ。ほつれた前髪をかきあげながら、額の汗を拭く。
「そ、そんな、なんとかならないの、おりん」
さとりは懇願するが、燐はゆるゆると首を横に振った。
「だって、さとり様、もうそれ以上、手も足も首も動かせないでしょう」
「う……」
燐の言葉に、さとりは言葉を失う。
実際、無理なのである。
右腿は膝が左頬に付くほど高く持ち上げられ、左腕は右のひかがみをくぐり、折り曲げられた左足の先に届く。右腕は反対に上へと伸びたが、もちろん、極端な前屈姿勢であるから、そのまま伸びきらずに頭を上から抱えるようにして固まった。
全体として、ボール状。
さとりボール。
己の身体はここまで曲がるのか、とさとり自身が感心したくらいである。
ただ、ここから先がどうにもならない。
もはや関節は限界まで達している。もともとさとりはインドア派で、身体はそこまで柔らかい方じゃないのだ。ぶっちゃけ、今でもかなり痛い。
そして、コードもまた、さとりをぎゅうぎゅうと締め付けている。どこかを緩めようとしても、身体がこれ以上曲がらない。
詰みであった。
「うー、困りましたね……」
どうにもならないことは、さとり自身がよくわかっていた。
妖怪としてそれなりに長く生きてきた彼女であったが、かつて直面したことのない危機である。
だが、何か、まだ何かできることがあるはずだ。
関節の痛みに耐えながら、さとりは懸命に知恵を絞る。
つい。
例えば、油を使うのはどうだろうか。
もう少し滑りがあれば、コードがどこか抜けてくれるかもしれない。
つい。
あるいは、この状態を一つのパズルとみなせば、そういうのが得意な誰かに頼るのもいいかもしれない。
この間、地上から来た人間の知り合いに、式が得意な者がいたはずだ。閻魔を通して、なんとかできないか頼むという手もある。
つい。
または、医者に頼るか。
医者ならば、身体の限界をなんとかしてくれるかもしれない。
問題は、妖怪を診てくれる医者などいるかどうかだが。
つい。
「ああもう、考え事をしているのになんですか、おりん!」
声を荒げて猫を睨んだ。
先ほどから、燐がコードを引っ張るのだ。気が散ってしょうがない。
だが、燐は応えない。
その猫の眼は、まばたきもせず、じっとさとりのコードを向いていた。
ぴん、と伸びたコードに。
にょき、と伸びた猫の爪が、つい、とコードを弾く。
「お、おりん?」
呼びかけても、燐は応えない。
愛猫は、無表情に、ただ同じ行為を繰り返す。
つい。
じっとりとさとりの背中を厭な汗が伝う。
火焔猫燐は、猫である。
そして、猫というのは、好きなのだ。
爪を引っかけるような、
紐とか、そういうのが。
にゃーん!
燐が吼えた。
野生の雄叫びであった。
さとりは情けない悲鳴を上げた。
「どうもすみませんでした!」
小半刻も経った後のことである。
火焔猫燐、土下座であった。
額をこすりつけて、ただひたすら許しを請うのみである。
「そ、そんなんれゆるしてもらえうとかおもってるんれしゅか! ゆ、ゆるさないれしゅよ! おりん、わかってゆんれしゅか! は、はんしぇいしてりゅんれしゅか!」
鼻声涙声でずるずるのぐしゅぐしゅの舌っ足らずで、全く威厳も締まりもなかったが、さとりは激昂していた。
なにしろ、身動きが取れないまま、屋敷中を引きずり回され、転がされ回ったのである。
脱げかけたブラウスやスカートというあられもない格好で、である。
全身埃にまみれて、なすすべもなく泣き叫んだのである。
それはもう、怒らない道理がない。
さらに悪いことに、それを見かけた霊烏路空が「あー、なになにおりん、さとり様と自分だけ遊んでずるいー、まぜてまぜてー」などと参戦したものだから、むべなるかな。
ようやく燐が自分を取り戻したときには、何もかも遅かった。
なので、燐としては、今はただ縮こまって、主の怒りを受け止めるしかないのである。
ちなみに、空は遊び疲れて燐の横でいびきをかいている。燐が渾身の力でほっぺたをつねっても起きやしない。なので、共犯者の分も燐が怒られねばならないのだった。
さとりは、今日の晩ご飯抜きと、一週間のおやつ抜きを申しつけた。
厳しい沙汰であった。
さて。
ぐしょぐしょだった顔を燐に拭いてもらって、ようやく落ち着いたさとりである。
しかし、激しい感情を吐きだした後に残ったのは、粘るような重い疲労だった。
しかも、長時間、無理な姿勢を続けたおかげで、身体は痛みから痺れに変わってきている。さとりとて、これでも妖怪の身。見た目に似合わない頑丈さは持っているのだが、さすがにきつい。
とはいうものの。
「なんか、もうどうでもよくなってきましたねえ」
「そ、そんなこと言わないでくださいよう」
先ほどの罪滅ぼしのつもりか、燐が再びコードをぐいぐいと引っ張ってくれていた。それでも、既にさとりの気力は底を尽きつつある。
なんとかしたいが、なんともならない。
考えもまとまらず、さとりは諦めに呑まれていく。
「ああ、しっかりしてください、さとり様!」
燐が懸命に主を励ます。だが、今のさとりにとっては、その声すらも心地よく泥の中へと誘った。
このまま眠ったら、この格好で身体が固まっちゃうんじゃないかしら。
そんなことを思いながら目蓋を閉じた。
「あれ、お姉ちゃん、何やってるの」
その声で、ぱっちりと目が覚めた。
「こいし!」
軋む身体を無理矢理曲げて、声の方へ向く。
はたしてそこには、間違えようのない、彼女の妹が立っていた。
「あはははは、お姉ちゃん、どうしたの、その格好」
姉を指さして屈託無く笑った。悪気無く人の心をえぐるのは、さすがのこいしである。
「こいし様、笑ってる場合じゃないんですよう。助けてください。さとり様、大変なんです」
「え、大変? なにが?」
燐の言葉に、こいしはまじまじとさとりを見た。
「ああ、もしかしてコードが絡まっちゃったの?」
こいしはさとりに近付いて、無造作に第三の眼の裏に手を伸ばした。
「えい」
すぽん。
一本のコードが、抜けた。
「こ、こいし!?」
さとりの声が裏返る。
「な、な、な、なに、え、ぬ、ぬけて、ぬけちゃった!?」
妹の手に握られたコードを見て、さとりは青くなった。これまで己を繋いでいた身体の一部が、いとも簡単に外れてしまったのである。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
おろおろと狼狽する姉へ、こいしは笑顔で言った。
「USBケーブルなんだから、また繋げばちゃんと認識するよ」
「ゆ、ゆーえすびー? お、お姉ちゃんはこいしの言ってることがよくわからないわ!?」
混乱する姉をよそに、こいしは次々にコードを抜いた。
すぽん。
すぽん。
すぽん。
「あ、ひゃ、やめ、やめて、こいし、やめて!」
「ほら、これで動けるようになったでしょ」
その通りだった。
拘束が緩んで、さとりは恐る恐る起き上がる。ようやく伸ばした身体は節々で悲鳴を上げていたが、その痛みこそがむしろ心地よい。
床に落ちていたコードを拾う。
初めて見る形状だった。
これが、覚りの覚りたる眼と繋がっていたのか。
これが、今まで己を縛っていたものなのか。
これほど簡単に、外れるものなのか。
そんなことを思うと、今までの自分の苦労は何だったのかとため息が出た。
己の胸を見ると、第三の眼にはあと一本だけ、コードが繋がっていた。
「よかったね、お姉ちゃん」
妹の方を向くと、こいしはいつものように、にこにこと笑っていた。
「あ、うん、ええ、ありがとう、助かったわ」
妹の胸には、自分と同じようなコードがやはり繋がっていて、その瞳は今でも閉じたままだ。
さとりは、己の胸元のコードを指でつまんだ。
もし、このコードも外れてしまえば、妹と同じ世界が見られるのだろうか。
ふるふると首を横に振る。
そんなことは、世迷い言だ。
「さとり様、大丈夫ですか」
燐が心配そうに声をかけた。脱ぎかけだった服を直してくれる。よく気が付く子である。
そこで、ふとさとりは自分が何をするつもりだったのか思い出した。
「ああ、おりん、いいわ、大丈夫。どうせ脱ぐから直さなくても」
さとりは、ブラウスの前を手で押さえながら、妹へ笑いかけた。
「こいし、一緒にお風呂、入りましょうか」
こいしは、きょとんとしていた。
「んー、お風呂?」
「ええ、お風呂」
「今から?」
「そう、今から」
「お姉ちゃんと?」
「ええ、そうよ、こいし、あなたと」
人差し指を唇にあてて、こいしは上を向いた。んー、と可愛らしく唸った後、やがて、ぱっと花が開いたような笑顔をさとりへ見せる。
「うん、入ろう、お姉ちゃん!」
その笑顔だけは、昔と変わらない。
「そうだ、おりんも一緒にどうですか」
「はえ!? え、いや、いいです、遠慮します。私、ほら、家族水入らずのところを邪魔するわけにはいかないんで」
「ふふふ、お風呂入るのに水入らずなんてヘンなの。じゃあおりんも一緒に入ろう!」
「え、だから、いいですってば。結構ですってば。やめて、お風呂ダメ! ぎにゃー!」
こいしが燐の首根っこを掴んでずるずるとお風呂場へ引きずっていく。ついでに、未だにぐうすかと寝たままの空も一緒に連行していった。
助けを求めるように燐がさとりを見た。だが、さとりはただ黙って微笑むだけだ。それを見て、燐の顔が絶望に覆われていった。その心を読むと、彼女が猫時代のトラウマを掘り起こしているのが手に取るようにわかった。
そういえば、みんなでお風呂に入るのは、いつ以来だろう。
そう思って、年月を数えようとして、止めた。
そんなことを考えても無意味だからだ。
さとりは、くすりと笑って、コードを第三の眼に繋いだ。
デバイス認識エラーが発生した。
まずは右手から。次に左足である。
ここでもう片方の手を抜きたいところだが、そこはぐっと我慢。ブラウスのボタンを半分だけ外し、先に首を抜く。
ここで、くれぐれも注意せねばならない。
先に抜いた左足を、必ず半歩ずらし、一度右側に繋がる輪の中へ通すこと。これを忘れてはならない。それは、これから数手先にて、スカートを円滑に脱ぐための大事なステップなのである。
もし、そのステップを飛ばしてしまったらどうなるか。
三手先で詰まる。右肩が抜けなくなるのである。
だが、慌てるなかれ。まだ大丈夫。
人間、うっかりすることだってある。一度の間違いならば、十分取り戻せる。冷静に対処すれば大したことはない。
この場合、左足を曲げて後ろの輪を通し、背中をくぐって右肩を出せばいいのだ。多少無理矢理だが、できないことではない。
しかし、ここに罠が潜んでいる。
後ろの輪は二つあるのだ。これを間違うと、大変なことになる。
つまり、
「だ、だれかー」
身動きが取れなくなるのである。
「た、たすけてー」
古明地さとりは、中途半端に服を脱いだ状態で、なすすべもなく床に転がっていた。
妖怪覚りの覚りたるを示す第三の眼は、何本かのコードによって覚り自身の身体と繋がっている。
遥か遥か昔、妖怪が妖怪らしい姿を持っていた頃は特に問題にもならなかったが、さとりのように人の姿を得てしまうと、これがいささか困ったことになる。
まあ、要するに邪魔なのだ。
服を脱ぐにも着るのにも。
このコード、表に見える部分はそれほどでもないようでいて、実際はかなり複雑な経路を通っている。
ただ袖を通すだけでも、きちんと手順を踏まなければならないのだ。
無論、さとりは物心付く前からこの手順をきっちりと教え込まれている。お箸を持つ手を覚える頃には、服の着方、脱ぎ方を親から躾けられたのだ。大きくなった今では、特に意識することなくその複雑な作業をこなせる。もっとも、そうでなければ、パジャマも着替えられないしお風呂にだって入れないのだ。どれほど面倒なことであっても、さとりにとってはただの日常である。
だが、ふとした弾みで、その手順が狂うことがある。
お風呂に入ろう。それが今回の切っ掛けである。
地霊殿のお風呂は、源泉から引いた天然温泉である。灼熱地獄のおかげで、二十四時間、いつでも好きなだけお湯が使えるのだ。
さとりはお風呂好きで、それもやや熱めの湯船にさっと浸かるのが好みだ。地霊殿に住み始めてからというもの、このお風呂の時間がさとりにとっては掛け替えのない至福である。
ただ、今日は、いつもとは違った。
脱衣場の洗濯篭に、妹の服が入っていた。
ああ、あの子はまた私が知らない間に帰ってきたのね。
さとりは、ふう、とため息を吐く。
その服は既に温もりを失っている。妹は、誰にも知られず帰ってきて、誰にも知られずお風呂に入り、誰にも知られず着替えて出ていったのだろう。
いつものように。
妹の放浪癖に、さとりはいつも心を痛めている。
心を閉ざしてしまったこいしのことは、姉であるさとりにもわからない。家にもたまにしか帰らないのだ。どこで何をしているのやら。
幸い、といって良いのか、無意識を操るこいしはそれゆえに安全だ。彼女を害することができるものなど、そうそういるものではない。
とはいえ、やはり可愛い妹なのである。いまや唯一の肉親である彼女の身を案じないわけがない。もう少し落ち着いてくれたら、とため息も深くなる。
そういえば、あの子と最後に一緒にお風呂に入ったのはいつだったかしら。
そんなことをぼんやりと考えていたのである。
それが失敗の元であった。
「ああ、まさかこんなことになるなんて」
さとりは雁字搦めのまま、脱衣場の床をごろんと転がる。
数手のミスは、たちまち解への道を十数手も遠ざける。焦って強引に引き戻そうとしても、余計にこんがらがるだけだ。人型のさとりでは関節の可動範囲が決まっている。コードだって長さに余裕がある訳じゃない。物理的制約はいかんともしがたく、かくしてさとりはこの有様である。
助けを呼んでも、この地霊殿を訪れる者などほとんどいない。妖怪覚りの悪名ゆえである。それでも近付く酔狂な輩がいないわけでもなかったが、さとりが真っ昼間から風呂に入ろうと考える程度には客が来ないのである。
ならば自力で頑張ってみるかと、思い切って力を込めてみたものの、余計にコードが食い込んで痛いだけだった。
なにしろ、古明地さとり、非力である。今朝もジャムの瓶の蓋が開けられず、やむなくバタートーストになってしまったくらいである。
そんなわけで、自力解決は早々に諦めた。
なに、心配無用。
地霊殿には、客は来ずとも、
「あ、さとり様、なんて格好に!」
ペットはいるのだ。
「ああ、ちょうどいいとこに来ました。おりん、ちょっと助けてください」
「そ、そりゃ助けますけれども、どうしたんですか、これ。強盗にでも入られたんですか?」
「えーっと、ノーコメント」
「言えないようなことをされたんですか!?」
「ストップ、ストップ。誰かに縛られたんじゃなくて、その、自分で」
「自分で!? さとり様、ドSなのはジト目だけにしてくださいよ! いくらいぢめる相手がいないからって、まさかご自分を……!」
真っ赤になった両頬を手で押さえて身をくねらせる猫娘。
この地霊殿では比較的頭が回って気が利くペットなのだが、いささか短慮に過ぎるのは困ったものである。
というか、あなたとは、いっぺん、私をどう見ているのかについてとことん話す必要がありそうですね。
昏い目つきでさとりはそう決心する。主たるもの、ペットは厳しく躾けなければならぬ。
ともあれ、まずは我が身のことである。
さとりは、手短に現状を説明した。かくかくしかじか。
「ははあ、なるほど、わかりました。そりゃまた難儀なことになりましたねえ」
燐は賢い猫である。一度の説明で、状況を理解した。
「で、どうすればいいんで?」
「そうですね、あの、背中の方のですね。左手の近くのコード」
「えーと、これですか?」
「そう、それ。それ、引っ張って」
「えい」
「あ、痛い痛い! もっと優しく、優しく」
三十分ほど格闘する。
せめて、どこか一つでも緩めば、そこから強引にでも手なり足なりが出せるのではないか。
そう考えたわけだが、コードは予想以上にきつく絡まり合っていた。
あちらを引けばこちらが食い込む。こちらを手繰ればそちらで捻れる。そんな具合で、むしろ状況は悪くなっていく一方だった。
「んー、こりゃあ、ちょっと手が出せないですねえ」
やがて、お手上げだ、という風に燐はさとりの傍に座り込んだ。ほつれた前髪をかきあげながら、額の汗を拭く。
「そ、そんな、なんとかならないの、おりん」
さとりは懇願するが、燐はゆるゆると首を横に振った。
「だって、さとり様、もうそれ以上、手も足も首も動かせないでしょう」
「う……」
燐の言葉に、さとりは言葉を失う。
実際、無理なのである。
右腿は膝が左頬に付くほど高く持ち上げられ、左腕は右のひかがみをくぐり、折り曲げられた左足の先に届く。右腕は反対に上へと伸びたが、もちろん、極端な前屈姿勢であるから、そのまま伸びきらずに頭を上から抱えるようにして固まった。
全体として、ボール状。
さとりボール。
己の身体はここまで曲がるのか、とさとり自身が感心したくらいである。
ただ、ここから先がどうにもならない。
もはや関節は限界まで達している。もともとさとりはインドア派で、身体はそこまで柔らかい方じゃないのだ。ぶっちゃけ、今でもかなり痛い。
そして、コードもまた、さとりをぎゅうぎゅうと締め付けている。どこかを緩めようとしても、身体がこれ以上曲がらない。
詰みであった。
「うー、困りましたね……」
どうにもならないことは、さとり自身がよくわかっていた。
妖怪としてそれなりに長く生きてきた彼女であったが、かつて直面したことのない危機である。
だが、何か、まだ何かできることがあるはずだ。
関節の痛みに耐えながら、さとりは懸命に知恵を絞る。
つい。
例えば、油を使うのはどうだろうか。
もう少し滑りがあれば、コードがどこか抜けてくれるかもしれない。
つい。
あるいは、この状態を一つのパズルとみなせば、そういうのが得意な誰かに頼るのもいいかもしれない。
この間、地上から来た人間の知り合いに、式が得意な者がいたはずだ。閻魔を通して、なんとかできないか頼むという手もある。
つい。
または、医者に頼るか。
医者ならば、身体の限界をなんとかしてくれるかもしれない。
問題は、妖怪を診てくれる医者などいるかどうかだが。
つい。
「ああもう、考え事をしているのになんですか、おりん!」
声を荒げて猫を睨んだ。
先ほどから、燐がコードを引っ張るのだ。気が散ってしょうがない。
だが、燐は応えない。
その猫の眼は、まばたきもせず、じっとさとりのコードを向いていた。
ぴん、と伸びたコードに。
にょき、と伸びた猫の爪が、つい、とコードを弾く。
「お、おりん?」
呼びかけても、燐は応えない。
愛猫は、無表情に、ただ同じ行為を繰り返す。
つい。
じっとりとさとりの背中を厭な汗が伝う。
火焔猫燐は、猫である。
そして、猫というのは、好きなのだ。
爪を引っかけるような、
紐とか、そういうのが。
にゃーん!
燐が吼えた。
野生の雄叫びであった。
さとりは情けない悲鳴を上げた。
「どうもすみませんでした!」
小半刻も経った後のことである。
火焔猫燐、土下座であった。
額をこすりつけて、ただひたすら許しを請うのみである。
「そ、そんなんれゆるしてもらえうとかおもってるんれしゅか! ゆ、ゆるさないれしゅよ! おりん、わかってゆんれしゅか! は、はんしぇいしてりゅんれしゅか!」
鼻声涙声でずるずるのぐしゅぐしゅの舌っ足らずで、全く威厳も締まりもなかったが、さとりは激昂していた。
なにしろ、身動きが取れないまま、屋敷中を引きずり回され、転がされ回ったのである。
脱げかけたブラウスやスカートというあられもない格好で、である。
全身埃にまみれて、なすすべもなく泣き叫んだのである。
それはもう、怒らない道理がない。
さらに悪いことに、それを見かけた霊烏路空が「あー、なになにおりん、さとり様と自分だけ遊んでずるいー、まぜてまぜてー」などと参戦したものだから、むべなるかな。
ようやく燐が自分を取り戻したときには、何もかも遅かった。
なので、燐としては、今はただ縮こまって、主の怒りを受け止めるしかないのである。
ちなみに、空は遊び疲れて燐の横でいびきをかいている。燐が渾身の力でほっぺたをつねっても起きやしない。なので、共犯者の分も燐が怒られねばならないのだった。
さとりは、今日の晩ご飯抜きと、一週間のおやつ抜きを申しつけた。
厳しい沙汰であった。
さて。
ぐしょぐしょだった顔を燐に拭いてもらって、ようやく落ち着いたさとりである。
しかし、激しい感情を吐きだした後に残ったのは、粘るような重い疲労だった。
しかも、長時間、無理な姿勢を続けたおかげで、身体は痛みから痺れに変わってきている。さとりとて、これでも妖怪の身。見た目に似合わない頑丈さは持っているのだが、さすがにきつい。
とはいうものの。
「なんか、もうどうでもよくなってきましたねえ」
「そ、そんなこと言わないでくださいよう」
先ほどの罪滅ぼしのつもりか、燐が再びコードをぐいぐいと引っ張ってくれていた。それでも、既にさとりの気力は底を尽きつつある。
なんとかしたいが、なんともならない。
考えもまとまらず、さとりは諦めに呑まれていく。
「ああ、しっかりしてください、さとり様!」
燐が懸命に主を励ます。だが、今のさとりにとっては、その声すらも心地よく泥の中へと誘った。
このまま眠ったら、この格好で身体が固まっちゃうんじゃないかしら。
そんなことを思いながら目蓋を閉じた。
「あれ、お姉ちゃん、何やってるの」
その声で、ぱっちりと目が覚めた。
「こいし!」
軋む身体を無理矢理曲げて、声の方へ向く。
はたしてそこには、間違えようのない、彼女の妹が立っていた。
「あはははは、お姉ちゃん、どうしたの、その格好」
姉を指さして屈託無く笑った。悪気無く人の心をえぐるのは、さすがのこいしである。
「こいし様、笑ってる場合じゃないんですよう。助けてください。さとり様、大変なんです」
「え、大変? なにが?」
燐の言葉に、こいしはまじまじとさとりを見た。
「ああ、もしかしてコードが絡まっちゃったの?」
こいしはさとりに近付いて、無造作に第三の眼の裏に手を伸ばした。
「えい」
すぽん。
一本のコードが、抜けた。
「こ、こいし!?」
さとりの声が裏返る。
「な、な、な、なに、え、ぬ、ぬけて、ぬけちゃった!?」
妹の手に握られたコードを見て、さとりは青くなった。これまで己を繋いでいた身体の一部が、いとも簡単に外れてしまったのである。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
おろおろと狼狽する姉へ、こいしは笑顔で言った。
「USBケーブルなんだから、また繋げばちゃんと認識するよ」
「ゆ、ゆーえすびー? お、お姉ちゃんはこいしの言ってることがよくわからないわ!?」
混乱する姉をよそに、こいしは次々にコードを抜いた。
すぽん。
すぽん。
すぽん。
「あ、ひゃ、やめ、やめて、こいし、やめて!」
「ほら、これで動けるようになったでしょ」
その通りだった。
拘束が緩んで、さとりは恐る恐る起き上がる。ようやく伸ばした身体は節々で悲鳴を上げていたが、その痛みこそがむしろ心地よい。
床に落ちていたコードを拾う。
初めて見る形状だった。
これが、覚りの覚りたる眼と繋がっていたのか。
これが、今まで己を縛っていたものなのか。
これほど簡単に、外れるものなのか。
そんなことを思うと、今までの自分の苦労は何だったのかとため息が出た。
己の胸を見ると、第三の眼にはあと一本だけ、コードが繋がっていた。
「よかったね、お姉ちゃん」
妹の方を向くと、こいしはいつものように、にこにこと笑っていた。
「あ、うん、ええ、ありがとう、助かったわ」
妹の胸には、自分と同じようなコードがやはり繋がっていて、その瞳は今でも閉じたままだ。
さとりは、己の胸元のコードを指でつまんだ。
もし、このコードも外れてしまえば、妹と同じ世界が見られるのだろうか。
ふるふると首を横に振る。
そんなことは、世迷い言だ。
「さとり様、大丈夫ですか」
燐が心配そうに声をかけた。脱ぎかけだった服を直してくれる。よく気が付く子である。
そこで、ふとさとりは自分が何をするつもりだったのか思い出した。
「ああ、おりん、いいわ、大丈夫。どうせ脱ぐから直さなくても」
さとりは、ブラウスの前を手で押さえながら、妹へ笑いかけた。
「こいし、一緒にお風呂、入りましょうか」
こいしは、きょとんとしていた。
「んー、お風呂?」
「ええ、お風呂」
「今から?」
「そう、今から」
「お姉ちゃんと?」
「ええ、そうよ、こいし、あなたと」
人差し指を唇にあてて、こいしは上を向いた。んー、と可愛らしく唸った後、やがて、ぱっと花が開いたような笑顔をさとりへ見せる。
「うん、入ろう、お姉ちゃん!」
その笑顔だけは、昔と変わらない。
「そうだ、おりんも一緒にどうですか」
「はえ!? え、いや、いいです、遠慮します。私、ほら、家族水入らずのところを邪魔するわけにはいかないんで」
「ふふふ、お風呂入るのに水入らずなんてヘンなの。じゃあおりんも一緒に入ろう!」
「え、だから、いいですってば。結構ですってば。やめて、お風呂ダメ! ぎにゃー!」
こいしが燐の首根っこを掴んでずるずるとお風呂場へ引きずっていく。ついでに、未だにぐうすかと寝たままの空も一緒に連行していった。
助けを求めるように燐がさとりを見た。だが、さとりはただ黙って微笑むだけだ。それを見て、燐の顔が絶望に覆われていった。その心を読むと、彼女が猫時代のトラウマを掘り起こしているのが手に取るようにわかった。
そういえば、みんなでお風呂に入るのは、いつ以来だろう。
そう思って、年月を数えようとして、止めた。
そんなことを考えても無意味だからだ。
さとりは、くすりと笑って、コードを第三の眼に繋いだ。
デバイス認識エラーが発生した。
デバイスが認識されないトラウマ抉るのやめろおおおお
タイトルで気付くべきだった。悔しい。
結構な勢いで笑ったのでこの点数で!
半裸で涙目のさとり様かわいいよ。
ちょっとUSBケーブル買ってきます
原稿提出間際のあの焦燥感は異常
本当に簡単そうに見えるから困る
さらにインパクトの強いオチを持ってこられちゃ100点付けざるを得ない
ラスト1本つながったままだから、まだ大丈夫だ!!
よく漢字書いてる途中で途切れると続き書けないことあるよねww
いいこと考えた! あの紐にちょっとフリル貼り付けて服ということにすればいいんじゃね?
グサってかもうグリグリってきたじゃねぇかああああああああ!!
……貴様みたなああああぁぁぁあぁああぁぁ!!!!!!!
ちくしょうw100点やるよw
それはそうと最後のオチで盛大にお茶吹いたw
思いまして検索いたしましたところ、
S字結腸突破作戦、と。
ああ、あなた様でございましたか、相変わらず良い作品をありがとうございますw
最後のオチがまたうまくて、もう辛抱たまらんでごわす……!
1TBの外付けHDD潰れたトラウマが想起された
面白かったですよw
はっ、まさかこいしちゃんもエラーのせいで無意識に!?
ラストすげぇ、一瞬でもってかれたっ
オチでトラウマが……ブルースクリーンが……!!
テンポが良くて爽快でした。
あと舌っ足らずジト目なさとりの破壊力はスゴいね。