いつものように雲の中を漂っていた。
空にはもう月が昇っているころであろうか。僅かな雲の切れ間から月光が見て取れた。
ふと思い立って雲の下に出てみた。
その時。後ろから声を掛けられたのだった。
「綺麗な赤ね、私好きよその色」
振り向けば子供が見えた。それは私と同じように緋の衣を着ている。
金の髪が青白い月の明かりに照らされてよりその深みを強調している。
その瞳はやや縦に伸びた瞳孔。
赤、と言うよりも深いそれは紅とでも表現すれば妥当であろうか。
私が少女を観察していると、再び少女が口を開いた。
「はじめまして」
スカートの端を摘んで挨拶をしてくる。
私も慌てて挨拶を返すと、何がおかしいのか彼女は口に手を当てて一人くすくすと笑うのだった。
「お散歩かしら」
ひとしきり笑った後、少女が私の方へ身を乗り出して聞いてくる。
「散歩という訳ではありませんが……まあ、散歩みたいなものですかね」
私としては散歩という気は全くなかったのだが、端から見ればそう判断されてもおかしくはないだろう。
まあ、実際に行く当てなど特に決まってはいないのだし。
「それで、私に何か御用ですか」
肝心なところを聞くのを忘れていた。今まで随分と生きてきたがこうして呼び止められた覚えなどなかった。
「特に用はなかったのだけど……そうね、折角だし一緒に散歩してもいい?」
首を傾げて私を見つめる少女。
私について来られて困るようなことはないので、断る理由は何一つなし。
「まあ、構いませんけど、何も面白いことはありませんよ」
いいから、いいから と言って私は背中を押される。
急かされたって行き先なんか決まっていないのだし、すごく困る。
「え、あー、それじゃあ、どこでもいいから綺麗な景色のところに連れてって」
――空を行く。
風に吹かれて私の羽衣が斜め後ろへと靡く。
私の左隣には先程の少女が軽快なリズムの鼻歌を響かせながら並んでいる。
何がそんなに楽しいのかはさっぱりだが、上機嫌に越したことはないだろう。
手遊びをしている彼女を眺めていたら、向こうも私の視線に気付いたのか、見つめ返してきた。
「どうかしたの?」
「いえ、別に……」
そう返して前を向く。
それなのに彼女は相変わらず、私に視線を投げ掛けている。
頬の辺りに感じるむず痒い感覚。どうにも落ち着かない。
耐え切れず頬を一掻き。
「ねえ、あなた、赤色は好き?」
「……好きか、嫌いかと聞かれれば好きですね」
私の返答を聞くと少女は、それは良かった、と一人頷くのだった。
「そういうあなたは赤が好きなのですか?」
気になっていたことを尋ねた。先程から少女の言葉に赤に対するこだわりのようなものを感じる。
「うーん。好き……だと思ったけど、改めて考えてみると、そこまででもないね」
そう言って、腕を組み首を捻る。
どうにもよく分からない人物だ。さっきまで歌を奏でていた鼻。今は唸り声を出していた。
目を瞑って眉を寄せる少女の顔を見ていると、なんだかおかしくなってきて、私はばれないように小さく笑うのだった。
しばらくすると、彼女は目を閉じているせいか右へ左へふらふらと覚束ない動きをしだす。
壁もなければ石に躓く心配もないが、どうにも見ていて心許無い……
少女の腕を取って私の前に引き寄せる。
彼女の身体は軽く殆ど力を入れずとも、動かすことができた。
少女の背中が目の前に来る。両手でその二の腕の辺りを二、三度軽く叩く。
それから、首の根元らへんを手のひらで、ぐっ、と押してやる。
「ちゃんと前を見ていないと駄目ですよ」
そう声を掛けてやると、少女は間延びした声で、分かった。と返してきたのだった。
――緑の芝に覆われた小高い丘へと降り立つ。周りを平地に囲まれている中で、他よりも少しばかり盛り上がった場所だ。
その、人に踏まれることのない地面は柔らかく、足に伝わる感触が癖になりそうだ。
茂る草は手入れされてはいないが、もともとそういう種類なのか、踝程度の背丈しかない。
そう、ここは私だけの特等席。いつも空にいる私が偶然見つけた取って置きの場所だ。
「綺麗なところね」
両手を広げ、彼女が呟く。吹き抜ける風が彼女の服の裾を僅かに揺らしている。
「特別ですよ。誰にも教えたことない場所なんですから」
正確には、誰にも教えてたことがないと言うより、誰にも聞かれたことがない、だろう。
口では特別とは言ったが、別に秘密にしていた訳ではないので聞かれれば案内することもやぶさかではなかったりする。
まあ、そんなことは置いておくとしよう。
「ここからは月がよく見えるんですよ。今は雲が掛かって見えないですが、しばらくすれば流れるでしょう」
「それは楽しみ。期待していいの?」
弾む少女の声に苦笑いで返しておく。正直、あまり自信はなかったりする。
なんせ、私はいつも間近で月を見ているのだ。
地上から見ればどうしたって見劣りするように感じるだろう。
それでもここが気に入っているのは、身体を休めることもできるからだ。
緑色の絨毯に座る。私の体重で草の茎が何本か折れるのを感じた。
少女も私に倣って横に座る。
ふう、と吐いた息が冷えた空気に混ざり消えた。
――雲の端から月が覗く。千切れた雲の端は薄っすらと月光を透過して白く輝いていた。
なかなか風情があるなあ。そう思った。
でも、私にそんな風流なのは似合わないかと苦笑い。
そんな私の一人笑いを見て、少女も、たはは、と笑う。
「お月さんが恥ずかしがってるね」
「そうですね。折角、会いに来たというのに困ったものです」
だが、こうやって自然に身を任せてみるのも悪くない。在るがままの姿を静かに見守るのだ。
そうすれば、行き急ぐ者には見えないものがたくさん見つけられる。
そう、それはとても素晴らしいことだ。
「でも、やっぱり暇ですね」
腕を後ろに投げ出す。清涼とした草の感触が手のひらに伝わる。
「じゃあ、私の質問に本当のことを教えてくれたらいいものあげるよ」
がさり、と音がする。
横目に少女の方を窺えば、どこから取り出したやら、拳数個分程の白い袋を手に持っていた。
「何ですかそれ?」
私が尋ねると、少女は勿体振って教えてはくれない。ただ美味しいものとだけ答えてくれた。
まあ、暇つぶしには丁度いいかと、私が頷くと彼女は嬉しそうに微笑んで左の人差し指を立てた。
「じゃあ質問。パンはパンでも食べられないパンって知ってる?」
少女の問いはたったそれだけの簡潔なものだった。
だが、そこに秘められた意味は非常に多い。まさかこんな哲学的な問題が出されるとは予想もしなかった。
「これは……またなんとも……」
「どう? 分かるかしら?」
首を傾げながら私の顔を下から覗き込んでくる。
「分かるも何も、フライパン、じゃないんですか?」
そう、深く考えることもない。他愛もないなぞなぞだ。
「正解。という訳で、賞品の蒸しパンです」
私の腹の上に無造作に投げ出される。すっかり冷めているが、芳ばしい甘い香りは悪くない。
「ありがとうございます」
左手に身体を預けて右手で蒸しパンを掴んで口へ持って行く。
一口、齧ってみればふかふかとした食感が舌を楽しませた。
あまりこういうお菓子は食べたことがないのだが、なかなかに美味しいのだなと感心する。
「あ、言い忘れてたけど、お茶はないからね」
「……そうですか」
やれやれと私は食べる手を止めて空を見上げた。
――雲が流れる。
黄色い月が姿を現し辺りを明るく照らす。
私は蒸しパンを噛みながらそれを眺めていた。
「へー、いい見晴らしだね」
横で少女は立ち上がり左手を眉に当て、背伸びをしながら景色を見ている。
そうですね、と気のない相槌を打ってやる。私にしてみれば既に何度と見た光景だ。
何か特別な感慨は湧かないが、やはり綺麗だなあと、思う。
月は勿論のこと、その明かりに照らされた景色もだ。
少女は蒼白な風景を見渡すようにゆっくりと踊るように一回転をしながら、私の前に立った。
それから一言ぽつりと漏らした。
「私ね、夢があるんだ」
言いたくてうずうずしているような素振りの少女を見れば、聞かなくてはいけないだろう。
「どんな夢なんですか?」
尋ねてみる。
すると、笑わないか、と執拗に念を押してきた。
そんなことは確認されるまでもない。
人の夢を一笑に付すような真似をするつもりは毛頭ない。
ただ、真剣に身を入れて聞くつもりもないが……
僅かの逡巡の後、少女が私を指差す。
いや、正しくは私の後ろを指した。
彼女の指に導かれるように後ろへ振り向く。
――数多の星が目に飛び入ってきた。
青色に黄色、そして赤色。
数え切れない程の煌めきが群れている。
「天の川ですか」
妖怪にとって、月は力の増減に関わる要因となり得るものだ。
それに比べ、星は重要とは言い難いものがある。
その上、星は月のように満ち欠けする訳でもなく、目新しさに欠ける。
そして、何よりも見慣れているのだ。
夜中でも照明のあるところよりも、明かりのない場所の方が圧倒的に多い。
真っ暗と言っても過言でもないようなところも少なからず存在する。
そんな時に頼りになるのが、意外と星明りだったりするのだ。
だから、気にも留めなかった。
「そう、あれをね。泳ぎたいの」
少女は空へ手を伸ばす。
「可笑しいかな?」
「いえ、そんなことはないですよ」
私の言葉を受けて少女は、よかった、と安堵の息を零した。
「それで、あそこにある赤いのを全部、私のにするんだ」
そう言って、伸ばした手を軽く握り締めた。
「ええ、素敵な夢だと思います」
私が更に言葉を重ねると彼女は嬉しそうに、けれど、どこか寂しそうに笑った。
私はそれに対して何か言葉を掛けたかったのだが、それを遮るように彼女は口を開いた。
「私が大きくなったらの話だけどね」
嬉々とした声ではあったが、それだけではない含みも感じられた。
けれど、それが何だか確かめる術を私は知らなかった。
だから私にできそうなことを言葉にしたのだった。
「では、その時は是非ともご一緒させて下さいな」
少女は、あはは、と短く笑う。
私も声こそ出さなかったが、笑い返した。
「でもね、実は私、泳げないんだ」
本当は内緒なんだけどね、と彼女は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
「なら私が教えてあげますよ」
下らない口約束。
本当にそんな機会があるとは思えないが、そんな私の言葉に彼女は顔を綻ばせる。
「えっ、いいの?」
「ええ、任せて下さい。泳ぐのは得意なんですよ」
空を見上げる。
輝く星の川を泳ぐのはどんな気分だろうか。
温かいのだろうか。冷たいのだろうか。
流れは強いのだろうか。それとも緩やかなのか。
そんなことを想像していると、楽しみになってくるから不思議だ。
「うん、そうだね。その時はお願いするよ」
そして少女は頬を吊り上げた。
それがあまりにも嬉しそうだったので、私の頬まで緩くなってしまったようだ。
弛んだ口元を空を見上げて隠す。
ああ、そうだなあ。
偶には見守るだけでなく、触れ合ってみるのも良いなあ、と思った。
もう少しだけ、この少女と星を眺めてもいいかも知れない。
おもしろかったです。
そしてフランちゃんが持っていた蒸しパンが妙に琴線に触れる……
彼女ならクッキーやマドレーヌなんかの方が持ち歩いてそうだと思うのですが、
凄く納得しちゃうんだよなぁ、うーむ、蒸しパン……