― これはどこか ―
ピンと背を伸ばして生い茂る野草、月明かりをこちらに散らす夜露、それらが私の眼に映りゆく中、私は野を自分の為に走っている。
辺りはとても静かで風が吹けば草のざわめき、風が止めば私の荒い呼吸が耳で籠っており、
その呼吸が夜の冷たく張りつめた空気を肺に収めると、走り過ぎて悲鳴を上げている肺を更に刺激した。
また上着は汗で肌に張り付き、夜の寒さも手伝って悪寒を体に走らせ、野を蹴っては土を跳ね自身の赤い裾を汚した。
構わないさ。
視線を上げると夜空には雲ひとつなく、闇に収まっている無数の星が光を放ち、
月は白く、地表の模様を浮かべながらこちらを照らし、照らされていた。
思ったよりここは澄んでいるじゃないか。
そして手の甲に眼を向ければ生い茂る野草で付いたであろう赤い傷が一本、ハッキリとあった。
血は滲みだし、夜露同様に月明かりを散らしていた。
私はしばらくそれを眺めながら走っていたが、また前を向いた。
前を向いたところで何かがあるわけではない、
ただひたすら、ひたすら
闇に飲まれ、走っている。
― 本能的に引き当てたこと ―
何の気まぐれが働いたのだろうか?そんなことは別に構わないが。
深夜、私は本能的に自分の小屋を燃やした。
その小屋は木造で人ひとりが住めるくらいの大きさ、雨や風から身を防ぐためだけの継ぎはぎだらけの住まいだった。
そのためオレンジ色をした火にすぐに飲み込まれ、その火は常に新鮮な空気を求めては揺らめき、形を自由に歪ませていた、
たまに一段と大きく爆ぜる音が夜に広がると深夜の静けさが際立たせ、それから軽く火の粉を吹いた。
私は自分のしたことに、また起きていることに関心はなく、頬に熱を感じながら黙って火を眺めていた。
明け方、小屋は燃え尽き、ほとんどのもの、といっても大したもの何一つ無かったが、小屋は火と共に形を失いどこかへ消えた。
焼け跡にはポツリと浮かぶ黒い柱の骨組み、くすぶっている煙、焼けた地面とそこに広がる白い灰
白い灰はまだ暖かく手をかざせば熱が感じられたが、私はその白い灰と焼け地面が混ざるまだらな部分に転がり、突き上げるように空を眺めた。
その空はいつも以上に高く見え、朝の鋭い日差しを斜めに受けている白い雲は、明るい個所、ぼんやりした個所、両方を抱えていた。
何やったんだろうな。
そんなどうしようもない感じで空を眺め続けていると突然、強い不自然な風が吹いて、周りの白い灰を舞上げると私の顔に酷くかかった。
灰を払いのけ、風の吹いた方に顔を向けるとそこには天狗の娘が一人、視線が交わると表情が少し硬くなったが
「妹紅さんですよね?」
そう私に尋ねた。
― 気まぐれ以前、その日常とその他 ―
私の住まいは森でも竹林でもない、里とここらで一番高い山の中間に位置する傾斜の緩い野原があり、そこにある桃の木々に囲まれた小屋、
簡素な小屋、くたびれた小屋、ボロ小屋、燃えた小屋、それが私の住居、
そこはとても穏やかな場所だ。
背後にそびえる山からは、その山自身が呼吸するように常時、柔らかい風が吹き、風は吹く度に私の髪はふわりと心地よく流し、丈の高い野草には軽いおじぎをさせながら野を下ると、その少し先にある里を目指した。
また日辺りは良好、周りを囲むようにして生えているどの桃 ― 何故、生えているのかは知らない、もしくは忘れた ― も手入れをしなくとも、太い健康的な幹で枝を支え、その枝からスッと伸びている葉は器用に並び、日差しを浴びていた。
そして毎年、夏になると小屋の中にいても熟れた桃の甘い香りが漂うほど実をつけ、その熟れた桃は子供の白い頬が寒さで赤みがさした様な淡い色をしており、その色は緑の葉に柔らかいアクセントを与える、
手で触れてやるとそこには糖度故の重さがあり、果実には細かい、産毛の様な毛が全体を包んでいて、それは誰にとってもおいしそうだろう。
だが私はその桃を決してもいで食べたりすることはしない、
食欲なんてのはすでに消滅した。
それに食事という行為をしたのはいつだろうか?
そのため収穫する者のいない熟れた桃は多くの野生動物の食糧となる。
初めの頃、動物達は私に隠れる様に桃を食べていたが、人にとっては果てしない時の中で、何世代にも渡って私が何もしないと理解すると無視……
いや、無視とは認識されて起きることであり、動物達は私を無視すらしていない、私の存在を自然の一部、例えば岩の様に捉え、のんびりと食事をしている。
もし無視をしてくれるならここは大胆という表現にしなければならない。
動物達は贅沢な食べ方をしては食べ残しを地面にぽとりと落とし、新しい桃に手を出す。
地面に落ちた食べ残しには歯型が残っており、そこから覗く黄色くささくれだった果肉が強烈な甘すぎる香りをまき散らす。
その強く甘い香りは私に何の感慨深さも与えることは出来ないが、虫を呼びこむのは得意で、黄色くみずみずしい果肉には黒い粒が張り付き、それがもぞもぞと蠢いている。
そして虫達にすら手を出されなかった果肉
それは自然に晒され、日を受け、風を受け、雨を受け、土を被り、朽ちてどこかへ消える。
残ったのはシワだらけの種だけ、
夏の間、私はその光景を眺めているだけだ。
他には何もしない、本当に何もしない、特に何も感じることなく、ただ中身のない時間を延々と流すだけ。
そんな夏以外は小屋から飛んで10分程、緑の野原にポツリと浮かぶ私と同じくらいの背丈の白い岩、それに背中を預け座り込み、目の前に広がっている景色 ― 空はどこまでも遠くにあるが、地平線が山々に遮られている景色 ― を眺めている。
夏とたいして変わらないと言えば変わらない。
そこは不思議とよく晴れ、遥か上空では真っ白な雲が風に流され、強い日の光を受けては濃い黒い影を地上に落としている。
その影を目で追うと影は影、それ故に、地上にある障害物、物理的には山々、水車であったり、精神的には田畑であったり、それらを何の迷いも弊害もなく器用に通り過ぎ、
私の目でとらえることができる限界のサイズをこえると色彩豊かな景色に飲まれる。
だが、もちろん目線を空に移せば白い雲は浮かんでいる。
影はあるがないのだ。
私は影を見失い、白い雲を見るとよく途方もない昔を……
蓬莱の薬を飲んだ私が“昔”という言葉を扱うのは不自然ではあるが、それは人間、故か?
ある知人が示した妙な数式を思い出す。
その数式が具体的にはどの様なものだったか正確には思い出せない、
だがその数式が意味することはnという文字が無限に向かうことを示し、その数式自体は正と負を繰り返してnが大きくなればなるほど0に向かうということだ。
だが決して0にはならない。
それは0に寄り添うとするあまり飛び越えてしまう、哀れな奴だ。
こんな乾いた生活を送っているが、里の近くで住んでいた頃は人付き合いというものがあり“生きる”ことに素晴らしさを感じていた時代があった。
積極的でない私に知り合いは少なかったが、誰かと時間を共有するということは私に人と触れ合うということの素晴らしさを伝え、
笑顔を向けられれば心地よいくすぐったさが心を包み、
笑顔を返せばお互いを心地よいくすぐったさが包む、
そして、本当にあなたがいてくれて良かった、そう思える相手とそばにいるとき、
自身の心は表現しきれない充実感で満ちており、人間として幸福だった。
だがほぼ同時に、そう不老不死から見れば、ほぼ同時に孤独も存在した。
少ない知り合いながら不老不死、それ故に果てしない時の中で数多くの知り合いの死に直面しては孤独を感じ、それは人間として不幸だった。
この果てしない時にて、私の人間の心は果てしない人間の幸福と不幸に出会い、その度に心は素直に反応し正の感情、負の感情を往復した。
だがいつからだろう?
私の人間の心が正と負、両方の感情を表現することが、感情というものが自然に発生することが難しくなってしまったのは、
そのことに気付かぬ振りをして、無理に自分を納得させ続けていたのは。
生まれたばかりの赤ん坊が私に笑顔を向けている、なんだか暖かい気持ちになっているな、
ある宿敵に敗れてしまった、拳を握りしめるくらい悔しさが募っているな、
朝早く起きると雨が降っていた、里の祭りの準備を面倒に感じているな、
祭りの準備が忙しい、忙しいながらも着々と準備が進んでいるのを楽しんでいるな、
祭りの花火が成功した、ホッとしていると同時に終わりを惜しんでいるな、
私の小屋に誰も来ないな、それは孤独な気持になっているな……
そんなことを“考えている内”に正と負の感情の振れ幅が小さくなり、ほぼ心が機能しなくなった。
誰かといても、いなくとも、そこから共有と孤独が消え去ってしまった。
正と負どちらの感情を抱いているのか分からなくなってしまった。
そこには温度を持たぬ、黒でもない、白でもない、ましてや赤などの色彩を持つものではない、限りなく透明になりつつある、割れそうな、だが割れない塊があるのだ。
一体それはいつからだろうか?
だいぶ昔、まだ感情が機能していた頃、ある大切な友人の掛けてくれた言葉を私は未だに覚えている。
「なぁ、妹紅よお前は孤独を感じることがあるか?」
その問いに私はあると答えた、それはなんて贅沢な答えであったのだろうか。
友人はよく見る夢 ―それは現在の私そのものの夢であった― について話だし、話し終えると、
「もう一度聞く、お前は孤独を感じてくれているか?」そう尋ねてくれた。
友人は敏感に感じ取ってくれていたのかもしれない、
人間の及ぶ範囲を超え、永遠に寄り添うことは人間の心をどんな道を辿ろうとも0に向かわせ、そしてそれは向かうだけで決して0にはならないという残酷なことを。
私の命と蓬莱の薬によって結ばれた私の心
ピカピカの命と限りなく0の心
明確なものとほぼ透明なもの
お互い確かに繋がっている。
― 天狗との会話 ―
「久しぶりじゃないですか」
「そうかな」
「久しぶりの再会なんですよ、もっと喜んでくれてもいいじゃないですか」
「少し疲れているのよ」
「私は嬉しいですよ……それにしても急にいなくなったから心配したんですよ」
「すまないわね」
「どうして急にいなくなったんですか?」
「色々あってね」
「色々……ですか」
「それよりどうしてここへ?」
「そりゃ野原で煙が上がっていれば」と言ってカメラを私に見せた。
「なるほどね」
「あの実はですね、今更という言葉では片づけられないくらい前の話で恐縮ですが、妹紅さんへの手紙を預かっているんです」
「私の?」
「はい、妹紅さんに何かあれば渡してくれ、と言われていまして」
「そうなの、でも私の“何か”をあなたが感じ取る前に私が急にいなくなったと」
「はい、いなくなったあと必死に探したのですが……あの、どちらにいかれていたんですか?」
「さぁどうだったんだろうね」
天狗は少し唇をすぼめ、それからすぐに緩めると
「とりあえずその手紙を取ってきますね」
そう言うと彼女は私の目では追えない早さで手紙を取りにいった、去る同時に灰が少し舞い上がりモンペの裾に少し灰が被った。
会話なんてどれくらい久しぶりだったのだろうか。
それに自分の声も久しぶりに聞いた。
そんなこと考えていると彼女は青い小包を胸に抱きしめながらすぐに戻ってきた。
「はい、これです」
「その青いのが手紙?」
「それは老朽化を防ぐための結界のようなものでして、妹紅さんが触れるとその青いのが外れて、手紙が出てきます」
「そうなの、よく出来ているわね」
「えぇ、よく出来ています」
青い包みを受けとると確かに青いのが外れ、手紙が一枚、煙草が一本、現れた。
手紙は装飾の無いシンプルな白い紙、書かれている文字はひとつひとつが丁寧に書かれていて、差出人の名前は“上白沢 慧音”と書かれていた。
「では私はこれで帰りますね」
「すまないけど少し聞きたいことがあるのよ、いいかしら?」
「かまいませんよ」
この質問をすべきか迷ったがすることにした、後に聞く機会なんてのはありそうになかった。
「この手紙の差出人の名前はなんて読むのかしら?」
やはり私は生きすぎた。
果てしない時は私を心配して手紙を書いてくれるような人すら忘れるほどに、それどころか
ある知人
ある宿敵
ある大切な友人
“ある者達”よ、君達もまた忘れてしまっているのだ、ある大切な友人の言葉だけを例外に、肩書だけを残して、
あなた方がどういった性格、容貌をしているのか、それは綺麗に消えてしまっているのだ。
これは普通の人間の感覚だとすると、楽しかった記憶はあるがそれがどう楽しかったのか分からない、そんなところかもしれない。
具体的には2、3歳の頃、近所の子と遊んだという事実の記憶、それが楽しかったという事実の記憶、ワンシーンもしくはワンフレーズの記憶は存在する。
だがその近所の子はどんな奴だったか?どんな遊びをしたか?そしてその子の名前は?それが思い出せないのと似ているのかもしれない。
だからこそ肩書だけが残ったのかもしれない、そしてワンフレーズの記憶が大切な友人の言葉だったのかもしれない。
また私はこの野原でひとり、暮し過ぎた、関係というものが欠落した場所にあまりに暮らし過ぎたのだ。
それは記憶の欠如を早めたであろうが、同時に仕方がないことだとも考えてしまう。
何も湧いてこない心を抱え、誰かと生きてどうする?
それに私自身の記憶すら曖昧になりつつある。
一体何が原因で私は蓬莱の薬を飲んでしまったのか、それすら思い出せないくらいの時が経ってしまっている。
記憶と人格、感情と人間性、それらを含めたより多くの様々な複雑なもの、
それらがお互いにどのような影響を与えているか私には分からない、だが確実に藤原妹紅は0に近づきつつあるのだ、心も記憶も。
あなたはどうあろうとあなた。
そんな類の言葉は乾いている。
よって私は失われつつある自分をどう消すか、0にどうするか、自分自身が完全に分からなくなる前にどうやってけりをつけるか、それを考えているが、
その答えは単純に死であり、心が、記憶が、妹紅が限りなく0に近づくだけの世界での命など惜しくない、
だが私の頭がゴロリと地面を転がろうが、胸に風穴が空き、向こう側が見えようが生命は存在する。
一体どうすればいい?
「“かみしらさわ けいね”ですよ」
天狗の娘は私の質問に静かに答えてくれた。
「そう、ありがとうね」
「ということは私のことも忘れてしまっているんですね」
「そうね」
「このカメラ何に使うと思います?」
「変わった風景をとる」
「記事になる写真をとるんですよ」
「ねぇ、またちょっと質問していい?」
「かまいませんよ」
「妖怪ってなんで果てしない時を生きられるのかしら?」
「みんながみんなそういうわけではありませんよ」
「そうなの?」
「心に大きな空白が生まれると、ふっと消えてしまうことがあるんですよ、行方不明じゃないですよ、実際に消えてしまうんです」
「酷い言葉だと思うけど、あなたはどうしてまだ生きていられるの?」
「器用なのかもしれませんね」
「自分で口にしちゃうんだ」
「なんて答えればいいのか、正直分かんないですよ、そんなの」
「そうかもね」
「それにしてもよく私のこと覚えていたわね」
「偶然、というか自分で言うのも何ですが、割と真面目な性格をしているので頼まれた仕事を果たせなかったのが凄く気になってのかもしれませんね」
「そう」
「あの、帰りますね」
「手紙を届けてくれてありがとうね」
「いやこちらこそ本当、こんなに遅くになってすいません」
「別に構わないわよ」
「それではあの……失礼します」
そう言って視線を空に投げて飛ぼうとしたが、こちらを見直し、
「また会いに来てもいいですか?」
「別にそれも構わないわよ」
天狗の娘は少し笑みを浮かべ
「それでは妹紅さん」
先程とは違い、私の目で追えるくらいの速さで飛び去ったが、すぐに黒い粒にとなって背後の山へ消えていった。
そういえば、あの天狗の娘の名前を聞き忘れてしまったな、
別に構わないか。
― 手紙 ―
妹紅よお前は死にたいか?
手紙はその書き出しで始まり、
この書きだしが気に入らないのであれば、すぐにこの手紙を破り捨ててほしい、私はそれを切に願う
だが私は読み進めることになる。
もし死を思うのであれば、同封されていた煙草に火を付けてくれ、
その煙がお前を導き、行き着く先にこれと同じような青い小包を見つけてくれればよい、
また煙草が燃え尽きるには一日かかるのでゆっくり歩いて辿ってほしい、
それと見た目は煙草であるが煙を吸うことは決して薦めない。
手紙は短く内容が少々ぶっきらぼうに書かれていたが、なぜこんな遠まわりなことをするのか、そして歩いて欲しいのか、それは容易に予想がつく、
だが差出人である慧音という者の意志に反し、私は煙草を指ではさみ火を点けた。
煙は最初から突風が吹いた様に不自然に横へ流れ、ある方向を明確に指して漂い始めた。
と同時に数えきれないくらい嗅いだことのある、だが滅多に嗅ぐことのなかった匂いがした。
この匂いは何だったのだろうか?
かまわず私は煙草を口につけて吸い、吐いた。
肺に収まった煙の正体は依然と不明であったが、吐いた煙もまた同様にある明確な方向を示していた。
それから私は煙草を吸いながらゆっくり歩き、煙を追ったが、歩いたのは慧音の意志を汲んだわけではない、歩いたのはなんとなく、意志はもう固い。
上白沢 慧音
彼女は一体どんな人物であったのだろうか?
頑固者?我儘?苦労性?天才?臆病者?おしとやか?おてんば?世話好き?狡猾?
どうだったんだろうな。
煙が指し示す方向に従い、久しぶりに野原を出て道なき道を進むと、忘れた?知らない?風景が続いた、風はほんのり吹き、煙がほんのり流され、方向を示そうと煙はほんのり形を整えていた。
そんな煙の芝居を眺めながら、自身の歩みは確実に地面を噛みしめ、どこにあるのか分からない目的地に着実に近づきつつあった。
そしてふと何やら、とある曲が体の内側からぷつと溢れて、鼻からこぼれた。
それは順調に歩みを進める私の姿には似合わない、けどしっくりくる、スローテンポで引きずられるような曲で歩みを進めるにつれメロディーが崩壊していった、
なんだろうなこの曲、誰かの助けがほしいけど誰でもいいわけじゃないのは……
その曲は鼻からこぼれ続け、目的地に近付く程に、メロディーは壊れ続けた。
太陽が西に沈み始めた頃、神社を通り過ぎ、妖気が漂う森を抜けると目的地らしき場所、墓地に着いた。
墓地には人ひとり見当たらず、夕陽を浴びている墓はオレンジ色に染まり、暖かそうな色合いをしているが、それを跳ねのける様な無機質さ、と同時に私をじっと睨む、相異なる両方がポツンとしている私を包んでいた。
一方、口に咥えている煙草の煙は墓石の中でも極めて大きい墓石を目指して漂い、その前まで来ると ― 骨壷が眠っているであろう ― 部分を目指して漂っていた。
墓石には上白沢 慧音と彫られており、私は躊躇することなく触れると煙草を吸いながら墓石をずらし始めた。
そしてあの煙の匂い、あの嗅いだことのある、だが滅多に嗅ぐことのなかった匂い、
その匂いは不思議なことに墓場に馴染んでいた。
墓石は見た目の大きさのまま非常に重かったが、なんとかして指が入る隙間が出来る頃には辺りはいつのまにか暗闇に包まれていた。
その闇には咥えたままの煙草の火がポツっと、空には月がポツっと浮かんでおり、私の墓石をずらす鈍い音が鈍いながらも静かな墓地にはよく響いた。
休み無しで墓石をどけ続けていた私は少し休もうと堂々と墓の囲いに腰かけた。
そして腰を下ろし、全身から力を軽く抜いた途端、腕から、足から、腰から疲れが滲み出し、目をつむると、荒い呼吸、首筋を流れる汗、首にまとわりつく生暖かい空気、肌に張り付いく上着、そんな環境が急にリアルに浮かんできた。
そのときなんとなく自分のやっていることが無駄なように感じられ、久しぶりに不安という感覚が呼びさまされた。
このタイミングで?
そして疲れている体に埋め込まれている私の不安は不自然にハッキリしており、荒々しいノイズ的な異物だった。
異物、その言葉が浮かぶと次は困惑という感覚も呼びさまされた。
一体これは?
だがある程度、体が疲れに慣れた頃、そんな感覚は乾き始め、元に戻った私はまた腰を上げ作業を再開したのだ。
墓石をどけきるとそこには確かに青い小包があり、周りを煙が包んでいた。
私は骨壷に触れぬよう小包に手を伸ばし、中身を確かめると白いシンプルな、だが右下にやけに赤く黒ずんだ、朱肉とは思えない指印がある手紙が一つのみ、
煙はその赤黒いワンポイントを目指していた。
その赤黒い色を見たらあの匂いの正体が掴めた。
この赤黒さは血である、そして煙は血で押された指印を目指していた。
恐らく煙草にも血が混ぜられていて、お互いを結びつける様な術でもかかっていたのだろう。
何故、匂いの正体が分かったのか?
血を見たら思い出したのだ、あの匂いは私が火葬したときに嗅いだ匂いであると。
匂いの正体が掴めた所、私は月を背にまた墓の囲いに腰を下ろし、そっと手紙を広げ読み始めた。
体は確かに疲弊していたが月明かりに照らされた文字は私の目にしっかり映っている。
― 手紙 ―
これは夢の話。
何度も見た夢、いつも同じことしか、いや何も出来ない夢、
そしてお前にも軽く話したことがある夢だ。
その夢の始まりはいつも眩しい光で目が焼かる。
視界は強烈な白しか映せず、目から入った強い刺激が脳をも刺激し麻痺させ、そこから考える余裕を奪い、私を動かなくさせる。
だが数分すると痛みは引き始め、同時に白い世界に輪郭がぼんやりと浮かび、穏やかに脳も本来の機能を取り戻す。
完全に機能が戻るとそこには野草が生い茂る何も無い野原で風が穏やかに吹いており、遠くに一人、誰かいつもいる。
それは妹紅、お前なのだ。
遠くの野原にいるお前は世界から切り取られたように不自然に存在が浮いており、表情は遠くからでも確認できる程に失われ、頬の筋肉が非常に硬く映る。
服装は私が知っているそのままであるが両腕で何やら透明なものを抱きしめている。
私は目を凝らし、お前が抱えているものを見るのだが目を凝らす程、それはより透明になった。
そしてお前の視線、それは遠くを見ているのだが、私が視線を追っても目標物らしきものはない、だが何かをハッキリ捉えようとお前の視線は表情に反して熱を帯びているのだ。
その熱を帯びた視線は全く見当がつかない未知、私には知る、経験する機会のない代物、別世界を眺めているようにしか私の目に映らない程、世界とズレていた。
その姿は私の知るお前には似合わなかった、だがそのときのお前にはその姿以外が想像できないほど、強力な印象を備えた姿であった。
私はそのことに言い知れぬ不安と焦りを抱くが体は思うように動かず、何も出来ずに無力を痛感するのみであった。
そこで終わりだ。
それは所詮夢、だがあまりにリアルであった。
そんな夢の後、有限を生きる私はお前の遠すぎる未来を想像し正体を掴もうとする。
だがすぐに私の思考は無限という漠然とした暗闇に放り込まれ、経験、共感、理解という感覚の域に達することは到底叶わないのであった。
そして夢は私に強力な暗示となり、夢でのお前を、一人で野原にいたお前を思い出すと言葉を掛けずにはいられなかった、不安を伝えずにはいられなかった。
覚えているだろうか。
妹紅よお前は孤独を感じることがあるか。
この手紙を読んでいるお前が孤独を、いや孤独以外も同様に感じてくれているだろうか、そうであるのなら私はお前に生きていてほしい、貪欲に幸福を求めて欲しい。
だがな、そういう未来が訪れる気が全くしないのだ。
お前は興味本位で死を求め、その為に墓を暴いてしまったのか、
お前がそういう奴なら良かったのだが、そういう未来も同様に訪れる気がしないのだ。
死を求めてここへ来た。
恐らくそうなのであろうな、そこに理屈はない、そう思えてしまうのだ。
これを直感と呼ぶのであろうか、運命と呼ぶのであろうか、それとも深い友情、それ故なのであろうか。
私の御託はここまでだ。
あとは死ぬ方法を書くのみだがお前のやること単純なことだ。
博麗神社に行き、そこの巫女に外の世界に出すよう頼みこむ、それだけだ。
外の世界に満ちている幻想を否定する力、常識、それは蓬莱の薬の力さえも否定してくれる。
それ故にお前の記憶を弄らせてもらった、幻想郷が常識と非常識が成り立っていること、またその手の知識が記憶に残らない様に。
そのことについて私は深く謝らなければならない。
またもし人間が滅亡していたとしても、そこは常識、非常識のない世界、次第に蓬莱の薬の力は失われよう。
すまないな、こんな遠回しな方法をしてしまい、
私は無限を生きるお前に生きる幸福を常に求めてもらいたい、
そういうことを願ってしまう愚か者なのだ。
死を望む君が外の世界に出たとき、君の体はやっと他人には理解できない制限の自由を得る。
そのことは素晴らしいことであろうな。
上白沢 慧音
読み終え手紙を畳むと、私は今の自分を取り巻く環境を見渡した。
太陽は顔を出していないが、東の方から光が伸び始め、地平線では黄が広がり、黄から青へ、青から紺へ、穏やかに変化して西の黒い空に繋がっていた。
墓地にも光が漂い始め、ぼんやりした光が全体を包み、その中で全ての墓石の形状がぼんやりと、だが夕陽のとき以上に無機質で冷たく並んでいた、彼女の墓を例外に
そう、まず私がすべきことは墓石を元に戻すことであった。
その後、彼女の言う通り博麗神社を目指そうとしたが場所が分からなかった、いや忘れた。
だが来た道を辿った所に神社があったのを思い出し、訪ねてみるとそれが博麗神社であり縁側では巫女が茶を飲んでいた。
私は会ってすぐに外の世界に出してもらうよう巫女に頼んだが、それは出来ないと言われた。
「何故できないの?」
「どうして行く必要があるの?」
「理由は言えない、でも行く必要はある」言えば断られるのは目に見えている。
「あるなら言いなさいよ、どうしても行きたいのならね」
それからずっと同じ様な押し問答が続いた。
神社には誰も訪れなかったので巫女がお茶を淹れなおすとき以外、私達はずっと顔を見合わせ、淡々と同じことを繰り返した。
そうして日が沈んで辺りが暗くなると、今日は終わりといった感じで黙って巫女は縁側の雨戸を閉め始めた。
そして私が巫女の動かした反対側の雨戸を掴むと巫女は私を睨んだ ― そのとき初めてその巫女の人間っぽい個所を見た ―
だが、雨戸を閉めるのを手伝うだけだ、そう言うと大きくため息をついて「分かったわよ」と了解の言葉を口にした。
「ありがとうね」
「でも条件が」
「何かしら?」
「理由をちゃんと言って、聞いたからって別にやめたりしないから」
「死ぬ、それだけよ」
「そう」
すぐに言葉が帰って来たのはこの巫女らしかった。
と同時に素直に言えばすぐに動いてくれてかもしれないと考えたが、それは無いか。
「驚かないのね」
「代々そんな感じらしいわよ」
「へぇ、ならあなたは何代目なの?」
「さぁ?分かんない、記録が消えちゃって」
「ところでなんで急に了解してくれたの?」
「あんたが雨戸を閉めるのを手伝い始めた瞬間、“コイツはやっかいだ”と勘が」
「具体的には?」
「閉めた雨戸の向こうで、私が夕飯を食べようが、寝て様が、外で雨が降ろうが、雪が降ろうが、それでどんなに汚れようが、寝ることなく雨戸の前で立ったまま夜通し、私が雨戸を開けるのを待つ、といった感じ」
「恐ろしく具体的になったわね」
それは正解だった。
「なかなか信用の置ける勘なのよ、だから折れた」
「もしかしてその勘も代々?」
「そうよ」
そう言うと巫女は外に降りて私を鳥居の方に導いた。
「それにしてもなんで外に行く必要があるの?」
「それは死ぬ為だって、さっき」
「外じゃないと駄目な理由がそこにあるわけ?」
「色々、複雑でね、しょうがないのよ」
「大変なのね、あなた」
そう言っている内に準備ができたらしい、あまりに早い。
「それでどうすればいいの?」
「鳥居をくぐって、階段を降りて真っすぐ進む、それだけよ」
「単純で助かるわね」
「あなた死ぬんでしょ?」
「そうよ」
「すぐに死ぬわけ?」
「いや、そうはしない」
「まず何をするの?」
「走る」
「またどうして?」
「大事なことは忘れる、けどどうでもいいこと、必要ないこと、それは思い出す、というのが世の常なわけで」
「確かに」
「知っているかしら? 善の為に、己の為に、友の為に必死に走り、走りきった男の物語」
「知らない」
「いつ読んだのか忘れたけど、確か外の本、それを思い出したのよ」
「それで?」
「彼は色んなものを背負い込んでいたけど、私には特に無くてね、というかほぼ0、でも何か背負いこむ苦しみと共にいたのなら、前を歩めたかなって、そんな気が急にしてね」
「それで走るんだ」
「そう、何かを感じるかもしれない、そんな気がするのよ」
「大丈夫よ」
「なんで分かるの?」
「勘」
「それは心強い」
私が鳥居をくぐり、階段を数歩降りたところで振り返ると巫女はまだそこに立っていた。
あの巫女なら見送ることなく帰っていてもおかしくはなかったがどうやら見送ってくれるようだ。
そういえば、あの巫女の名前を聞くのを忘れてしまった。
別に構わないか。
それにそうだ、あの天狗の娘には果たせない約束をしてしまった、
それと彼女の名前も結局分からずじまい、そう大事なことは忘れたままだ。
そのとき少しの色々があった。
だが私の歩みは緩むことなく、確実に外の世界へ近づきつつあったのだ。
改めて悠久の時を生きることの辛さに対して、記憶すらも薄れていくという描写で表現していったのが良かったです。
射命丸との会話で同じく永く生きる妖怪との対比をしていた所が面白く感じました。
ただ口うるさく言えばタバコというアイテムを使う為の理由付けが、読んでいてしっくり来ないと個人的に思いました。タバコを出したい為の設定なんだな、と邪推してしまいました。
焚き火 ― ひとりぼっちのあいつ ― も読ませて頂いたのですが、あの話からこの結末に繋がるとはますます悲劇的で虚しくなりますね。
数式に関しては私が浅学なので分かりませんでした、作品に与える影響があったとしたら自分が残念です。
それでは執筆お疲れ様でした。
慧音の助言に従って妹紅が外に行き、そこで何を見、どう感じるのかも興味があります。
この妹紅の行く末を見届けたい気分です。