「霖之助」
別段甘い声でもなかった。
震えているわけでも、怒っているわけでもない。
りんのすけ、と彼女は言った。
普段そんな事は言わないくせに、時折思い出したように、僕の真名を呼ぶのだった。
店の窓から見える鬱蒼とした森を七月の雨が塗りつぶしていく。
久々のひどい雨だ。空気はじっとりとしてなんだか暑いようなのに、冷たい水が世界を埋めていく。
僕は古くなった木の机に片肘をついて外を眺めるばかりで、読みかけの本は左手に持つままになっていた。
最近は外の世界から流れ着いた本ばかり読んでいたものだが、今日は違う。
日に晒され黄ばんだ紙を糸で束ねただけの古文書だ。
こういう閉じこもった書物の方が、今日の雨にはよく似合うだろう。
昨日と変わらず客が入口の戸を開けることはないまま、雨音しか聞こえない時間が過ぎていく。
「香霖、いるか」
小さな声が耳を打った。
魔理沙だ。僕をその名で呼ぶ奴は生憎ひとりしか知らない。
だが、いつもならガラガラと勝手に戸を開けて入ってくるはずの少女の声は部屋の奥、店と障子を境にした母屋の方から聞こえてきた。
「いるよ。なんだい」
「喉渇いた。水」
ともすればザー、と音を立てる雨にかき消されそうな声だった。
言い方は粗雑であまり水を汲んでやる気にもなれないが、仕方ないだろう。重い腰をあげた。
魔理沙は昨日から僕の家に泊めていた。顔色が悪かったからだ。
別になんでもないぜ、と帰ろうとする彼女をひきとめれば案の定夜になって熱を出した。
そんなに高くもなかったが、この暑さだ。
このじめじめとした季節に風邪。さぞかし不快に違いない。
現にだるそうな表情で氷枕を抱きしめる魔理沙を看病してやることにした。だからそれは頭に敷く物だと言っただろうに。
コップに半分ほど注いだ水を布団の横に置き、氷枕をどかしつつ彼女の容態を確かめる。
「ほら水だ。そろそろ氷枕も取り替えるか。君が抱きしめていた所為で温い」
「この方が涼しいんだって。…あ、こらっ。だめ」
何がこらだ。
微妙な冷たさに縋りつく魔理沙を引き剥がして氷枕を取り上げた。
恨めしそうにこちらを睨んでいる。が、諦めてコップの水をごくごくと飲んだ。
「で、どうだ?熱の方は」
魔理沙はぷはっ、とコップから口を離して答える。
「ああ、大分ましだぜ。頭痛もおさまったしな」
「それなら良かった。今日も下がらないようだったら永遠亭に薬でもと思っていたんだが、必要ないかい?」
「いらん、寝てれば治るよ」
そうか、と呟いてほっと息をついた。
そんな自分に少し驚く。安心したということは、僕は不安だったのだろうか。
そういえば彼女は小さい頃――まだ霧雨の家に居た頃、わりと熱を出しやすい子供だった。
子供なんて皆そんなものだが、彼女は具合が悪いと感じても多少無理をするらしくてこじらせることも多かったのだ。
小さな子供が高熱を出すことは大変で、またそれが大事な一人娘となれば、家中が大騒ぎだった。
そんな昔の話を無意識に思い出して、どうやら少しばかり緊張していたらしい。
「あと何かほしいものは?果物なら後で持ってくるが」
「んー…、本。あるいはここの倉庫の鍵でもいいぜ」
「却下だ。おとなしく寝ていなさい」
ちえっ、とふてくされて布団に包まる魔理沙を横目で見て、もう一度息をついた。
日が傾いてくると、雨は小降りになってしとしとと音を立てていた。
あれからずっと古文書に目を通していたのだが、知らぬ間に随分時間が経っていたらしい。
本を閉じて思い切りのびをすると、肩の関節がバキバキと鳴る。
「…そうだ、果物を忘れてた」
後で持って行く、といったが予定していた時間を二時間は過ぎている気がする。
熱中すると周りが見えなくなるのは僕の悪い癖だ。反省しよう。
霊夢あたりには「無駄よ、霖之助さんだもの」と一蹴にされそうだが。
「魔理沙、果物を切ってきたんだが――寝てるか」
以前紅魔館のメイドが訪れた時に置いていってくれた林檎やオレンジ。
品物に代価を払ってくれるだけでなく、さらに物までくれるとは天使なのではないだろうか。
皿を持って襖を開けると、魔理沙は豪快に布団を蹴飛ばして寝ていた。
暑いのはわかるが、また抱きかかえていた氷枕を頭の下に戻し、布団をかけてやる。
うっすらと汗が滲む額に手をやると、微熱と言っていい程度だった。
この調子なら明日には空を飛びまわれるだろう。
額に張り付いた金の髪をかき上げてやると、ううん、とくすぐったそうに動いた。
「大きくなったな」
指で長い髪を梳きながら呟く。
こんなに穏やかな気持ちで彼女と対面するのはとても久し振りだ。
目の前にはわがままで世間知らずの小さな子供ではなく、いや、あの頃と変わったようで変わっていない、普通の魔法使いがいるだけだった。
「…まだまだ、僕にとっては子供だけどね。特に手のかかる」
自分の言葉に苦笑いをして、梳いていた彼女の髪を離した。
果物の皿を持って立ち上がる。後で魔理沙が起きたときに一緒に食べることにしよう。
襖の取っ手に手を掛けた時、ん、と声を漏らして寝返りを打つ気配がした。
「りんのすけ、」
うっかり皿を落としそうになった。
僕が後ろを振り返ると、布団の中の魔理沙はまだすやすやと眠っている。
「―――っ、寝言か」
まだ心臓がばくばくと鳴っていた。
なんというか彼女は時折、風のようななめらかさで、僕の名前を呼ぶのだ。
真剣な話をする時だとか、なんでもない会話の隅っこだとかに突然。
彼女以外には普通に名前で呼ばれているくせに、彼女に呼ばれるとなんだか驚いてしまう。
言い表しにくいが、むずがゆいような。
僕がいちいち反応していることなど、彼女は知らないのだろう。
そんなことを考えているうちに、魔理沙がうん、と唸って薄く目を開いた。
僕は思わずげっ、と言った。
少女に対してそれは無いと思ったが、出てしまったものはしょうがない。
なぜ彼女が起きることが嫌だったのかといえば、今の僕の動揺した姿を見られたくなかったのだ。
彼女の前で変な姿など見せてみろ。鴉天狗のように写真など撮れはしないだろうが、しばらくネタにされるに決まってる。
僕は出来る限り平静を装って声をかけた。
「起きたか、魔理沙」
聞こえているのかいないのか、魔理沙はぼう、とした瞳で虚空を見ていた。
低血圧と熱で覚めない頭のまま目をうろうろと彷徨わせて、少しして僕に焦点を結ぶ。
目が合った、と思った瞬間彼女は蕩けた瞳のままで、そこにいるのを確かめるかのように。
しかし、魔女のように艶やかに微笑んでその言葉を口にした。
「…霖之助」
僕がその声を聞き遂げて数秒後顔が熱くなるのを感じて、手のひらから滑り落ちた皿ががしゃん、と嫌な音を立てた。
別段甘い声でもなかった。
震えているわけでも、怒っているわけでもない。
りんのすけ、と彼女は言った。
普段そんな事は言わないくせに、時折思い出したように、僕の真名を呼ぶのだった。
店の窓から見える鬱蒼とした森を七月の雨が塗りつぶしていく。
久々のひどい雨だ。空気はじっとりとしてなんだか暑いようなのに、冷たい水が世界を埋めていく。
僕は古くなった木の机に片肘をついて外を眺めるばかりで、読みかけの本は左手に持つままになっていた。
最近は外の世界から流れ着いた本ばかり読んでいたものだが、今日は違う。
日に晒され黄ばんだ紙を糸で束ねただけの古文書だ。
こういう閉じこもった書物の方が、今日の雨にはよく似合うだろう。
昨日と変わらず客が入口の戸を開けることはないまま、雨音しか聞こえない時間が過ぎていく。
「香霖、いるか」
小さな声が耳を打った。
魔理沙だ。僕をその名で呼ぶ奴は生憎ひとりしか知らない。
だが、いつもならガラガラと勝手に戸を開けて入ってくるはずの少女の声は部屋の奥、店と障子を境にした母屋の方から聞こえてきた。
「いるよ。なんだい」
「喉渇いた。水」
ともすればザー、と音を立てる雨にかき消されそうな声だった。
言い方は粗雑であまり水を汲んでやる気にもなれないが、仕方ないだろう。重い腰をあげた。
魔理沙は昨日から僕の家に泊めていた。顔色が悪かったからだ。
別になんでもないぜ、と帰ろうとする彼女をひきとめれば案の定夜になって熱を出した。
そんなに高くもなかったが、この暑さだ。
このじめじめとした季節に風邪。さぞかし不快に違いない。
現にだるそうな表情で氷枕を抱きしめる魔理沙を看病してやることにした。だからそれは頭に敷く物だと言っただろうに。
コップに半分ほど注いだ水を布団の横に置き、氷枕をどかしつつ彼女の容態を確かめる。
「ほら水だ。そろそろ氷枕も取り替えるか。君が抱きしめていた所為で温い」
「この方が涼しいんだって。…あ、こらっ。だめ」
何がこらだ。
微妙な冷たさに縋りつく魔理沙を引き剥がして氷枕を取り上げた。
恨めしそうにこちらを睨んでいる。が、諦めてコップの水をごくごくと飲んだ。
「で、どうだ?熱の方は」
魔理沙はぷはっ、とコップから口を離して答える。
「ああ、大分ましだぜ。頭痛もおさまったしな」
「それなら良かった。今日も下がらないようだったら永遠亭に薬でもと思っていたんだが、必要ないかい?」
「いらん、寝てれば治るよ」
そうか、と呟いてほっと息をついた。
そんな自分に少し驚く。安心したということは、僕は不安だったのだろうか。
そういえば彼女は小さい頃――まだ霧雨の家に居た頃、わりと熱を出しやすい子供だった。
子供なんて皆そんなものだが、彼女は具合が悪いと感じても多少無理をするらしくてこじらせることも多かったのだ。
小さな子供が高熱を出すことは大変で、またそれが大事な一人娘となれば、家中が大騒ぎだった。
そんな昔の話を無意識に思い出して、どうやら少しばかり緊張していたらしい。
「あと何かほしいものは?果物なら後で持ってくるが」
「んー…、本。あるいはここの倉庫の鍵でもいいぜ」
「却下だ。おとなしく寝ていなさい」
ちえっ、とふてくされて布団に包まる魔理沙を横目で見て、もう一度息をついた。
日が傾いてくると、雨は小降りになってしとしとと音を立てていた。
あれからずっと古文書に目を通していたのだが、知らぬ間に随分時間が経っていたらしい。
本を閉じて思い切りのびをすると、肩の関節がバキバキと鳴る。
「…そうだ、果物を忘れてた」
後で持って行く、といったが予定していた時間を二時間は過ぎている気がする。
熱中すると周りが見えなくなるのは僕の悪い癖だ。反省しよう。
霊夢あたりには「無駄よ、霖之助さんだもの」と一蹴にされそうだが。
「魔理沙、果物を切ってきたんだが――寝てるか」
以前紅魔館のメイドが訪れた時に置いていってくれた林檎やオレンジ。
品物に代価を払ってくれるだけでなく、さらに物までくれるとは天使なのではないだろうか。
皿を持って襖を開けると、魔理沙は豪快に布団を蹴飛ばして寝ていた。
暑いのはわかるが、また抱きかかえていた氷枕を頭の下に戻し、布団をかけてやる。
うっすらと汗が滲む額に手をやると、微熱と言っていい程度だった。
この調子なら明日には空を飛びまわれるだろう。
額に張り付いた金の髪をかき上げてやると、ううん、とくすぐったそうに動いた。
「大きくなったな」
指で長い髪を梳きながら呟く。
こんなに穏やかな気持ちで彼女と対面するのはとても久し振りだ。
目の前にはわがままで世間知らずの小さな子供ではなく、いや、あの頃と変わったようで変わっていない、普通の魔法使いがいるだけだった。
「…まだまだ、僕にとっては子供だけどね。特に手のかかる」
自分の言葉に苦笑いをして、梳いていた彼女の髪を離した。
果物の皿を持って立ち上がる。後で魔理沙が起きたときに一緒に食べることにしよう。
襖の取っ手に手を掛けた時、ん、と声を漏らして寝返りを打つ気配がした。
「りんのすけ、」
うっかり皿を落としそうになった。
僕が後ろを振り返ると、布団の中の魔理沙はまだすやすやと眠っている。
「―――っ、寝言か」
まだ心臓がばくばくと鳴っていた。
なんというか彼女は時折、風のようななめらかさで、僕の名前を呼ぶのだ。
真剣な話をする時だとか、なんでもない会話の隅っこだとかに突然。
彼女以外には普通に名前で呼ばれているくせに、彼女に呼ばれるとなんだか驚いてしまう。
言い表しにくいが、むずがゆいような。
僕がいちいち反応していることなど、彼女は知らないのだろう。
そんなことを考えているうちに、魔理沙がうん、と唸って薄く目を開いた。
僕は思わずげっ、と言った。
少女に対してそれは無いと思ったが、出てしまったものはしょうがない。
なぜ彼女が起きることが嫌だったのかといえば、今の僕の動揺した姿を見られたくなかったのだ。
彼女の前で変な姿など見せてみろ。鴉天狗のように写真など撮れはしないだろうが、しばらくネタにされるに決まってる。
僕は出来る限り平静を装って声をかけた。
「起きたか、魔理沙」
聞こえているのかいないのか、魔理沙はぼう、とした瞳で虚空を見ていた。
低血圧と熱で覚めない頭のまま目をうろうろと彷徨わせて、少しして僕に焦点を結ぶ。
目が合った、と思った瞬間彼女は蕩けた瞳のままで、そこにいるのを確かめるかのように。
しかし、魔女のように艶やかに微笑んでその言葉を口にした。
「…霖之助」
僕がその声を聞き遂げて数秒後顔が熱くなるのを感じて、手のひらから滑り落ちた皿ががしゃん、と嫌な音を立てた。
気にしないでください
霖之助はもっと流行ればいいと思います。
霖之助ファンの私としては、もうちょっと細かい霖之助の心情描写があったら、3割増しでニヤニヤできたかもしれません。
ありがとうございました。
短くても良い作品ですねー。参考にさせて頂きます。
遅れちまった・・・
これは魔理沙が背徳的な色気を出していると見るべきか、
はたまた、香霖が紳士なのだと見るべきか……