夜の迷いの竹林は、じわりと汗ばむ暑さがある。
頬を撫でる生温い風が、否応なしに不快感を煽り、あたりに満ちる、息苦しくなるような、むしむしとした空気に、肌に衣服が張り付き、長い髪はひたすらに鬱陶しい。
正直、あまり長居をする気にはなれない気候だ。というか、本能に従うなら、有無を言わさず帰っているだろう。あくまで本能に従うなら、だが。私は一度、髪を掻きあげる。心身ともに、溜まりに溜まった疲れを隠す気にもなれず、大きくため息を吐く。それでもまだ、私はその場に佇んだままだった。
これは仕様のないこと。今、私はこの場を離れるわけにはいかないのだ。
何の約束があるわけでもない。何を得られるわけでもない。
それでも、止められないのだ。絶対に、こればかりは誰かに請われても止める気にはなれない。習慣と言うにはいささか執着心の強すぎる、それでも『習慣』程度の意味しか見出せないものが、私にはある。
私は、彼女を見つめる。
目の前の、死した藤原妹紅を、見つめる。
やがて、驚いたな、と私から気の抜けた声が漏れる。
珍しく、今日の彼女の遺体は、傷が少ない。衣服はところどころ破れていたり、汚れていたりしたが、彼女自身に怪我があるのは一か所だけだった。
左胸から伸びた、一本の矢。正確無比に心臓を射抜いたのであろう、そこだけだった。
妹紅は眠るような表情だ。意外なほど、穏やかなものであった。でも、そうか。実際、彼女にとっての死とは、一時の休息のようなものなのだから、その表情に悲嘆や驚愕、後悔を捉えられないのも、当たり前のことなのかもしれない。
一時の、静かな安息に眠る彼女の表情を見る。打ち倒された際だろう、広がって土に汚れる銀髪を見る。長い睫毛、閉じた瞼はぴくりとも動く気配がなく、薄桃色の唇に、薄く開いた口からは、わずかに白い歯が覗いていた。ちょっと太めの眉が視界に入って、以前、彼女がそのことを気にしていたのを、私は思い出す。
彼女の肌は、まさしく死人然とした白さがある。しかし、それは彼女が活動している時も同じことであった。生きようとも死んでいようとも、彼女の肉体は生きていて、でも、死んでいるのだ。
私が堪え切れず、おずおずとしながらも手を伸ばすと、彼女の頬に近づく自分の手は、細かに震えていて、なんともみっともない。何度となく見てきた目の前の『死』に、無様に怯えているのだ。
しかし構わず、彼女の頬に、触れる。
冷たいな、と私は思った。そして、硬い。およそ生き物らしさを感じない、作り物めいた感触だった。私はそのまま、妹紅の口を覆うようにして、手をかざす。
当然、息はなかった。なにせ彼女は死んでいるのだ。当たり前である。
ただ、それでも私は、しばらく手をかざしたままだった。
汗が額を伝って、顎をなぞり、地面に落ちるまで、止めなかった。
次に私は、彼女の首に触れた。指先で、ちょんとつついた。そして、ゆっくりと、包み込むように、それを両手で掴んだ。ゆっくりと、じわりじわりと力を込めた。
きっと、妹紅が生きていたなら、苦しくて抵抗しだすぐらいのところで、止める。そのまま掴む位置だけをずらして、ちょうど腕が彼女の鎖骨に触れた辺りで、手を離した。
もう一度、妹紅を殺した矢を見つめた。
ぴんと立ったそれを握ると、私は一息に引っこ抜いた。矢尻を間近で見つめると、それは真っ赤な血で染まっていた。私は空いた手で、彼女の傷を、隠すようにして手で触れた。
私は徐々に空気に晒され、変色していく矢尻を眺める。
やがて傷口から離した手に視線を移すと、それは指先だけが赤黒く塗られていた。
私はその手で拳を作って、しかしそれを振り上げたまま、勢いよく振り下ろすことはなかった。だらりと垂れ下げて、それまでだった。
しばらくの時を、私は何もせず、無為に過ごした。
溢れる汗を気にかけず、周りを飛ぶ羽虫を払って、なにも考えずに過ごした。
妹紅。
永い時を経て、私は彼女の名を口にした。
本来ならば、永遠でなければならない眠りにつく彼女は、反応しない。
妹紅、私はろくな奴じゃないよ。
私は、彼女が死んでいるのを良いことに、告白した。
それなのに声が震えて、身体中がぞわぞわとして、地面についた膝に、必死で爪を立てなければ、逃げだしてしまいそうになる自分が、本当に恥ずかしい。
私はね。お前が苦しむ様を見て楽しんでるんだ。
ぽつりと私が言葉を零しても、妹紅は、眉ひとつ動かさない。
死んでいるのだから、当然だ。
私は。私は、どうしようもない、屑だ。
私は、ささやく程度の、小さな弱々しい声で、ようやっと言った。
とめどなく溢れかけては、結局、すんでのところで飲みこんでしまう激情。
その一欠片だけれど、私はようやく言うことができた。
息が、詰まった。
私は握ったままだった妹紅の手を、思わず取り落とした。
まだ手に残るほのかなぬくもりに、心が震えた。
私がじっと見つめていると、妹紅の手はやがて、ぴくん、と動いた。ゆっくりと開いたかと思うと、またきゅっと何かを掴むような形を取った。
慌てて視線を、彼女の表情に移すと、かくんと首が動いて、艶やかな銀髪がさらさらと風に流れた。口を動かして、舌を動かして、何事かを言おうとしているのが見えた。
私は、少しだけ迷ってから、いまだ目を閉じた妹紅の表情を、より近くで見下ろした。
睫毛が微細ながら、ふるふると揺れるのがわかった。ばらばらに散って、沈んでいった彼女の意識が、集約されて、再び浮かび上がってくる様を、私は感じた。
あ、と私は思った。妹紅が起きる。妹紅が生き返る。
妹紅の目が、開く。くすんで濁っていた瞳に、光が差して、きらきらと輝きだす。
妹紅は、私を見て、わずかに驚いた顔をした。そして、すぐに心の底からの辛苦が滲んだような、見るも痛ましい表情になったかと思うと、最後は、微笑んだ。
諦観が透けて見えるような、それでいて、希望を失ってはいない、儚げな、ただの少女の微笑みだった。
すまん、妹紅。
やはり私は、ろくでもない奴だ。
だって、そうだろう。
こんなにも、不老不死の呪いに苦しみもがくお前を見て、私は思ってしまうのだ。
生きてて、よかったって。何篇でも思ってしまうのだ。
生き返る瞬間、変わらぬ運命を自覚する瞬間を、私は喜んでしまうのだ。
どうしても、この言葉を放ってしまいたくなるのだ。
お前にとっては絶望でしかない、残酷な一言を。
「おかえり」
妹紅は、その言葉を予期していたように、微笑んだまま、返した。
「ただいま、慧音」
良い緊張感が漲っていますね、物語に。
慧音をある意味縛りつけている妹紅の微笑み。
どのような気持ちで浮かべているのか凄く気になります。
そして妹紅の致命傷が矢傷ということは、今回の刺客は永琳?
なんにせよ確かにダークけーね先生は珍しい。そして面白い。