「いい天気ですねぇ、ぬえさんや」
「そうだねぇ、白蓮さんや」
ぽかぽかと暖かい日差しが降り注ぐ。今日はお天気日和。
命蓮寺の縁側に座ってお茶をすすり、深く溜め息を吐く。
「平和ですねぇ」
「平和過ぎるのも何だか物足りないけどねぇ」
しかしこの幻想郷では平和な毎日はそうそう長くは続かない。
口は災いの元、のんびりと羽を伸ばしていた二人のもとへ、さっそく喧噪が舞い込んできた。
「大変!大変!」
ムラサの叫び声が段々と近づいてくる。それがこの平和な時間を破り捨て去る事を悟った二人は、苦笑した。
やがてそれが耳元にまで近づいて来ると、突然、廊下を仕切っていた障子が勢いよく開いた。
「あぁ、やっと見つけた!二人とも、一大事だよ!」
「はいはい、どうしたのですか?」
平穏のひとときが崩れ去るのを承知しながら、白蓮は敢えてムラサに問いを投げかけた。
「侵入者よ!それも、危険度A級のとびっきり危ない奴!」
答えを聞き、綺麗に磨かれた床の感触を惜しむようにゆっくりと腰を上げた白蓮を横目に見て、ぬえは苦笑いしながら一緒に立ち上がった。
「てゆうか、なに妖怪の侵入を許してんのよ。見張りの一輪はどうしたの?」
寺の長い廊下を三人でずんずん進んで行く。元々この建物は船だったので、その中身はえらく複雑に組み入っており、外側の縁側から内の部屋に向かうのに大回りしなくてはならなかった。
「いや、一輪は侵入者に全く気づかなかったんだって」
「はぁ!?何やってんのよ!!」
「ぬえ、落ち着きなさい」
何だかんだ言っておきながら白蓮との長閑な時間を潰されて少し苛ついていたぬえは、ムラサの返答を聞いていきり立った。
そんなぬえを白蓮は制止した。
「事情が見えないわ。ムラサ、詳しく事情を聞かせて頂戴」
「えぇと、とりあえず一輪は何も悪くないの。突然あいつが内の大広間に現れて、暴れ出したのよ!今、星とナズーリンが何とか持ちこたえてるけど、多分そう長く保たないだろうから、一刻も早くあいつを二人に止めて欲しいのよ!」
とりあえずムラサに話をさせてみたものの、彼女の言っている事が二人にはいまいち理解出来なかった。
当初は白蓮だけが駆り出されるのかと思っていたが、どうやらムラサはぬえにも助けを求めているらしい。ぬえは依然として気が進まなかったが、仕方ない、地底暮らし以来の友人であるムラサの頼みとあったので、渋々話に乗る事にした。
「……ったく、分かったわよ。で、その妖怪は何者なの?」
「……ぬえもよく知ってる奴だよ」
「あら、ぬえのお友達?」
ムラサと白蓮の台詞を聞いて、ぬえはきょとんとした。
はて、自分の知り合いに、魔法を極めた不老不死の超人や毘沙門天の弟子が御座すこの命蓮寺に、単身で乗り込んでくるような命知らずなんていただろうか。
「見ればわかるよ。ほら、もうすぐそこだよ!」
曲がりくねった廊下を進んで行くと、なにやら柱が削れる音や花瓶の割れる音が聞こえてきた。
その騒音は段々と近づいていき、ついに三人はその源となっている一つの大きな部屋の前に辿り着いた。
「頼んだよ、二人とも!」
ムラサはそう言ってびりびりに破れた障子の扉を開き、その裏側に身を隠した。
何が起こっているのか未だ分かっていなかったが、とりあえず先方の不意打ちに備えるために白蓮とぬえは身を構えた。
その二人の目に飛び込んできたのは、壁に穴が空き、畳は捲れ、ガラスの破片やその他諸々が散乱した見るも無惨な室内の有り様であった。
そしてその悲惨な景色に溶け込むように、星とナズーリンがまさしくボロ雑巾のように床に平伏していた。
「……星!ナズーリン!」
ふらつきながら肩を笑わせている二人を見て、思わずぬえはその名を叫びながら彼女たちの下へ駆け寄った。
「ちょ、大丈夫なの!?星、しっかりしなさいよ!!」
「ぬ、ぬえか……それに聖も……。すまない、私たちでは力不足だった……」
「星!」
ぬえに抱かれたその腕の中で星は気を失った。側のナズーリンも同じく気を失っていたらしく、白蓮は彼女を優しく抱きかかえた。
「っ、一体誰がこんな事を!」
友人たちが受けた酷い仕打ちを見て、先ほどまで乗り気でなかったぬえはすっかり憤っていた。
白蓮との平和な一時をぶち壊した挙げ句、大切な友人たちにこのような横暴を働かれては、流石のぬえも黙ってなどいられなかった。
「誰よこんなことする奴は!?出てきなさい!!」
ぬえは込み上げてくる激情のままに、誰もいない破壊された部屋の中で何者かに怒りをぶつけた。
聖の愛した数式
突然、背中に気配を感じた。
「……っ!?」
周囲にしっかりと気を配って警戒していたはずなのに、いつのまにか「彼女」に背後に回られていた事にぬえは驚愕した。
「うふふ、新しいオモチャ、はっけ~ん!」
我に返ったぬえは身構えながら急いで振り返った。
その瞳に映った「彼女」を見て、ぬえの体に再び戦慄が走った。
「あ、あんたは……!!」
つばの長い大きな帽子、そこに巻かれたリボンは「幼い」彼女なりのアクセント。
自身の体より一回り大きい黄色の服は、袖の部分がだぼだぼで少しだらしない。ぬえと白蓮という新しい玩具を見つけて嬉しそうに彼女がくるりと回れば、大きな緑色のスカートがひらひらと棚引いた。
その様は、己の侵入を引き留めんとした星とナズーリンを破壊した事を露にも悪事と思っていなく、それでいて怒りの表情を浮かべていたぬえには新しい自分の玩具として表れた好意や敬意すら感じられた。その場の空気などまるで認識していないようで、周りの者達には目もくれず、ただ目の前の快楽だけをひたすら純粋に追い求めていた。
今一度彼女のひたむきな笑顔とその胸に在る閉じた第三の目を見て、ぬえは改めて己の目前に恐怖が差し迫っていることを悟った。
「古明地こいし!!」
「あら、ぬえのお友達?」
こいしの顔を見るやいなや顔を引きつらせ叫んだぬえを見て、ナズーリンの体を抱きかかえていた白蓮がにこやかな笑みを浮かべていた。
その緊張とは裏腹な白蓮の危機意識の足りないふぬけた態度を見て、ぬえは憤りを覚えると共に彼女に対して警告を発した。
「白蓮!こいつは駄目だ!相手にしちゃいけない!あんたは地下にいなかった知らんだろうが、こいつは地下の妖怪たちに最も嫌われていた最低最悪のさとり妖怪だ!」
間欠泉騒動が発端となった星輦船事変の前まで、ぬえはムラサと同じく地底に封じ込められていた。だから彼女は、目前にる者がその地底の妖怪たちの中で最も忌み嫌われていた事を知っていたし、その危険性も熟知していた。
「しかもこいつは、相手の心を読む姉のさとりよりも更にタチが悪い!こいつは読心の力を持つ第三の目を閉じ、さとり妖怪のアイデンティティを失って頭を狂わしたんだ!おまけに無意識を操る程度の能力とかいう凶悪じみた力も持ってるし!」
「あら、随分私について詳しいね。どこかで会ったことあったっけ?」
自身の身上をぬえに話されて、こいしは驚きながら彼女の顔をのぞき込んだ。
こいしの目と鼻の先まで顔を近づけられ、ぬえは体を硬直させた。
「……あぁ、その奇妙な羽、どこかで見たことあると思ったら、封獣ぬえかぁ」
「……!?」
ぬえは驚愕した。自身が地底に居た時、試しにこいしの顔を伺おうと彼女の住処に赴いた際は自身の能力を用いて己の体を変容させて行ったはずなので、こいしが自分の本当の姿は知らないものだと思っていた。
だが、どうやらこいしは自分を知っていたようだった。いつ?どこで私を見た?こいしの危険性を知って彼女を避けていたはずなのに、何で私を知っている?
しかしぬえは理解する。おそらく彼女は、何時の日か自分の無意識の中に潜り込んで、知らぬ間に自分と遭遇していたのだろう。先ほど突然背後に現れた時のように、こいしは相手に察知されずにその目標に近づけるのだ。
考えただけでも恐ろしい。もしその時、こいしの気まぐれで彼女の「玩具」とされていたとしたら。
「へぇ、こいしちゃんって言うの?可愛らしい子ねぇ」
ぬえが恐怖のあまり体をわなわなと震わせていたのとは対照的に、白蓮はにこにこと微笑みながらこいしの頭を撫でた。
「……ちょ、白蓮!?」
「あなたは私たちと遊びたいの?」
「うん、なんか最近物足りなくて暇なの!お姉ちゃん、私と遊んでくれる?」
「ふふ、お姉ちゃんだって。ねぇ、ぬえ?」
白蓮に話を振られたぬえは依然として体を震わせていた。
しかしその感情は、こいしに対する恐怖から彼女に対する怒りへと変容していた。
「白蓮!あんた私の話聞いて無かったの!?そいつは駄目だって言ったでしょう!それに何よ、星やナズーリンをあんな風にやられておいて、何でそんな風にへらへら笑っていられるのよ!?」
ぬえの怒声を耳にして、こいしを見つめていた白蓮は目を細めた。
もちろん、ぬえの話は聞いていた。しかし、彼女には譲れない信念があった。
「ぬえ、私は人も妖怪も平等に暮らせる世界を目指しています。だから、この命蓮寺に駆け込んできた者は人妖問わず受け入れます。それがどんな者であろうとも」
「だったらこの寺の者達が傷つけられてもいいってわけ!?そんなの、あんたのエゴじゃない!!」
「?」
突然白蓮に喰って掛かったぬえを見て、こいしは不思議そうな顔をした。
そんなこいしの表情を眺めながら、白蓮は彼女に優しく微笑みかける。
「彼女の言うことは気にしないで、こいしちゃん。丁度私も手持ち無沙汰にしていた所よ。さぁ、一緒に遊びましょう」
「白蓮!!」
「ムラサ、この子をお願い」
「え、あぁ、うん」
白蓮の耳にはもうぬえの叫びは届いていなかった。白蓮は後ろに振り返って、柱の影からこちらの様子を伺っていたムラサに声を掛けた。
白蓮は腕に抱えていたナズーリンを彼女に預けると、こいしの帽子を取って、その薄く緑がかった銀髪を優しく指でといた。
「あなたは何をしてくれるの?」
「こいしちゃんは何がしたい?」
「うーん、お姉ちゃん強そうだから、さっきの寅さんと鼠さんみたいに、殺し合いがしたいなぁ!」
「そう」
他意を微塵も感じさせないその純粋な笑顔を見て、思わず白蓮も頬を綻ばせた。
「……ねえ、こいしちゃん。それよりもっと楽しい遊びがあるんだけど、お姉さんとそれで遊ばない?」
「え?殺し合いより面白い遊びなんてあるの?」
「そう。今のあなたにぴったりな遊びがね」
こいしの問いかけに答えながら、白蓮はその側で唇を噛んでいたぬえに向かって言い放った。
「ぬえ、ちょっと倉庫に行って来て頂戴。取ってきて欲しい物があるの」
「わぁ、なんか面白い部屋!」
白蓮の部屋を見たこいしの第一声がそれであった。
余計な物は一切無く、部屋にあるのは小さな机とその上に置かれた硯と和紙、壁には格言が書かれた掛け軸と水墨画のみという小綺麗にまとめられていたその光景は、ごちゃごちゃと物で溢れかえる洋館住まいのこいしにとってなかなか新鮮なものであった。
「さぁ、どうぞそこに座って下さいな。粗茶でよければ用意しますけど?」
「あぁ、ええと、どうぞお構いなく」
姉から以前教わった礼儀作法を思い出し、こいしは白蓮の申し出をやんわりと断ってから、机の前の座布団の上に正座した。
「ねぇ、お姉ちゃん。その遊びって本当に殺し合いより面白いの?」
「言っておくけど、白蓮は不老不死だから殺し合いなんかできないよ」
こいしの台詞と同時に、荷物を抱えながらぬえが遅れて部屋に入ってきた。
「お姉ちゃん死なないの!?凄い!それって壊れない玩具って事でしょ!?素敵!!」
「あんた、他人の事を玩具としか見れないわけ?もう少し言葉遣いってものを……」
「ぬえ」
白蓮に睨まれて、ぬえは言葉をそこで切った。
こいしの事を良く思ってないぬえを見かねて、部屋に入る前、白蓮は自分がこいしと遊び終えるまでのその間、ぬえに一切の物言いを禁じた。
さすがに白蓮に凄まれては、ぬえもそれに従うしかなかった。癪ではあったが、白蓮はただの呆けた馬鹿では無いことをぬえは知っていたし、彼女を信頼もしていた。
しかし、自分に倉庫からこんな物を持ち出させて、果たして彼女がいったい何をしたいのか、その意図を理解するのにぬえは苦しんだ。
「あれ、それってもしかして、輪投げ?」
ぬえが抱える荷物を見たこいしが声を挙げた。
「そうよ、こいしちゃん。縁日とかでよく見る、輪投げよ」
「ふーん。なんか随分一杯輪っかがあるけど、これで時間つぶしでもするの?」
「そうね、その輪っかは全部で六十四本あるんだけど、そんなにいらないわね」
こいしに言われた白蓮は、ぬえから荷物を受け取ると、大量にある輪っかから三つだけ取ると、残りを彼女に返した。
「三つだけでいいの?それってどこからどう見てもただの輪投げだけど、本当に殺し合いより楽しい事なの?」
彼女のから質問を受けると、白蓮はにこやかに微笑みながら、自信たっぷりに言った。
「ええ、もちろん。あなたにぴったりな、とても楽しいお遊びよ」
「……そう、ならいいけど。で、この輪っかをどうすればいいの?普通にあそこに投げればいいの?」
白蓮の回答を聞いたこいしは特に言及するでもなく、渡された三本の輪を陽気に指先でくるくると回した。
こいしはもう片方の手で目標を指差した。輪を放る先には三本の棒が立った板を見て、白蓮に渡された三本の輪をそれぞれの棒に掛けるという、何の捻りもない普通の輪投げをやるのか、そう問いかけた。
白蓮は少し押し黙ってから、変わらぬ微笑をこいしに向けて、優しい声で彼女に答えた。
「そうね、折角だから、こいしちゃんの腕前を見せて貰おうかしら」
「あら、このくらいお茶の子さいさいだよ?弾幕ごっこも得意だし、輪っかを投げるくらいならどうってことないんだから!」
「ふふ。なら、その大きい輪っかから一番左の棒に順に放って貰える?」
「え?一番左の棒に全部入れればいいの?」
「そうよ」
白蓮の言葉の意味はよく分からなかったが、とりあえずこいしは言われた通りに左の棒に目標を定めた。
そして、大きい輪を手に取り、目標目掛けてそれを投じた。
「わぁ、うまいうまい!」
こいしが投じた輪は円を描いて宙を舞い、見事目標の中に収まった。
白蓮にはやされてこいしは機嫌を良くすると、続けざまに中くらいの輪、小さい輪を投じ、その二投も華麗に決めてのけた。
「えへへ、どうかな、私の腕前は?」
「いやぁ、御見逸れしたわ、こいしちゃん」
白蓮に褒められて、こいしは満面の笑みを浮かべる。
そんな二人が一緒にはしゃいでいるのとは対照的に、その光景を眺めるぬえの表情は曇っていた。
自分の忠告を聞こうとせずに、こいしと無邪気に戯れている白蓮が何を考えているのか全く分からなかった。
その理解しがたい行動の上に、おまけに閉口令ときたものだ。もう、好きにしたらいい。せっかく私が警告したのに私にこんな仕打ちをするなら、もう知らない。お望み通りもう何も言わないし、何かあったって助けてやったりしない。そう開き直って、自分に言い聞かせていた。
だが、そんな気持ちとは裏腹に、ぬえは白蓮の事がやはり心配で、どうしてもその場から退こうという踏ん切りが着けずにいた。
「で、この遊びはもう終わりなの?まだまだ物足りないんだけど」
おもむろに切り出したこいしの台詞を聞いて、白蓮はふふん、と鼻を鳴らした。
「いやいや、こらからが本場よ。さぁこいしちゃん、今度はこの輪を違う場所に移して頂戴」
「輪っかを移す?」
不思議そうな顔をするこいしに、依然変わらぬ笑顔で白蓮は答えた。
「そう。今、三つある棒の内の一つに輪っかが下から大・中・小の順に掛かっているわね。これを他の二本の棒を使って、そのどちらかに同じように大中小の順番に移動してみて欲しいの」
「そんなの簡単じゃん。この三つごと他の棒に移しちゃえば……」
「駄目よ、こいしちゃん」
棒に掛かった三本の輪をまるごと掴みにいったこいしを白蓮が止めた。
「この遊びにはルールがあってね、まず一つは一手に一本の輪しか移動できない。そしてもう一つ、小さい輪の上に大きな輪は置けないわ」
「……ふーん、なんかパズルみたいだね」
「そうね」
白蓮の述べた決まり事を理解したらしいこいしは、早速言われた通りに輪を一本ずつ移動させて遊戯に興じ始めた。
しかしそれはなかなか難しいらしく、こいしは輪を手にとってそれを色々弄っては頭を捻るを繰り返し、しばらく四苦八苦してからようやく言われた通り投げ輪の塔を他の棒の処に完成させた。
「よし、やっと出来た!」
「うん、よく出来ました」
提示された問題を解いて喜ぶこいしの頭を白蓮は優しく撫でた。
「でも、ちょっと時間が掛かり過ぎね。もっと早く出来ないものかしら?」
「えぇ、もっと早く!?」
こいしが渋るのを見て白蓮は苦笑した。
「そうね、この問題は一番早くて七手で出来るのよ。こいしちゃんには難しいかしら?」
白蓮の台詞を耳にしたこいしは一転変わって、がぜんやる気になった。
「……七手かぁ。よし、やってみる!」
それが普段と変わらぬ死合いであろうとしても白蓮に提案された問題であろうとしても、こいしは負けず嫌いだったのでどんな遊びにしても勝ちたかった。白蓮の台詞をこいしは挑発と受け取り、再び輪っかの塔と睨み合いを始め、どうしたら効率良く輪を移動できるのかあれこれと思案を始めた。
だが、こいしにはやはり難問であった。先ほどはあれこれやっている内にいつの間にか完成したものの、頭を働かせても働かせても、その最短の解を得る事は出来なかった。
何故なら、こいしは考える事が苦手であったからだ。
「この小さい輪っか、邪魔だなぁ」
その瞬間を、ぬえはしっかりと見届けていた。
問題を解きあぐねていたこいしが、小さい輪をそこから抜き取り、背中の裏に隠した。
「やった!解けたよ!」
「あら、凄いわ、こいしちゃん!」
どうやら白蓮はこいしのイカサマに気づいてないらしい。
おそらく、こいしが「無意識を操る程度の能力」を発動したのだろう。白蓮はこいしが輪の中から小さい一つを抜いた事に気づかず、今彼女の目にはこいしが輪っかの塔を最短で完成させたようにしか映ってないのだろう。
白蓮がそれでいてぬえが気づけたのは、こいしが白蓮の無意識にのみ干渉したからであろう。この事を白蓮に報告するか、ぬえは一瞬迷った。
しかし、自分が箝口令を下されていた事と、白蓮が自分の忠告を聞かない事を思いだし、それに加えて目の前の事柄に大した関心も無かったので、ぬえはそれを思い留まった。
「ねぇねぇ、私出来たよ!何かご褒美頂戴!」
はしゃぐこいしを見て、白蓮は微笑んだ。
「そうねぇ、それじゃあ、ここらで種明かしでもしましょうか」
「種明かし?」
白蓮の台詞を聞いたこいしが不思議そうな顔をした。それを見ながら、白蓮は流暢に話し始めた。
「こいしちゃん、今あなたがやった遊びは、『ハノイの塔』と言うのよ」
「ハノイの塔?」
鸚鵡返しするこいしに向かって白蓮は頷いた。
「ハノイの塔はね、外の世界のとある場所に位置する、世界の中心と呼ばれるとても大きな寺院で毎日行われている遊びなのよ。今こいしちゃんには三本でやって貰ったけど、さっきぬえが一杯輪っかを持っていたでしょう?本場の僧侶さんたちは、なんと六十四本の輪を使ってこの問題を日夜解いているのよ」
「六十四本!?」
白蓮の話を聞いていたこいしが思わず声を上げた。
「それって、三つの棒の間を、さっき言ってたルールを守りながら移動させているって事!?それって、凄い時間が掛かるんじゃない!?」
「そう。実はね、この問題は『2^n-1』という公式のnの部分に移動する本数を当てはめれば、何てでそれが解けるかが分かるのよ。例えばこいしちゃんがやった三本なら、『2^3-1=2×2×2-1=7』、こんな具合にね」
「へぇ……てことは、二の六十四乗だから……2,4,8,16,32,64,128,300……えぇと」
「ふふ、2^64は、18446744073709551616よ。つまり六十四個の輪を移動するにはそこから一引いて、千八百四十四京六千七百四十四兆七百三十七億九百五十五万千六百十五回」
「うへぇ。そんなに手が掛かるの?それって全部解き終えるまでにかなり時間が掛かるんじゃあ……」
「一秒に一手進めるとすれば、完成させるには五千八百四十五億年掛かるわね」
「うわぁ……」
白蓮の口から出てきたその途方もない数字に呆気に取られ、こいしは口をあんぐりと開けた。
「この途方も無い作業を日々繰り返している外の偉大な高僧たちには感心させられますね。ところでこいしちゃん、その六十四のハノイの塔が完成された時にある事が起きるのだけど、それが何だか分かるかしら?」
「さぁ……」
こいしの返答を聞いた白蓮はにやりと笑った。
だが、そう思った次の瞬間、今までこいしに対して笑顔をずっと貫いていた白蓮の顔が一転して険しくなった。
「世界が崩壊するのよ」
突如その雰囲気を豹変させた白蓮を見て、こいしはびっくりして体を硬直させた。
戸惑うこいしを見てから、白蓮は表情を元に戻した。
「……ハノイの塔は、天地創造の時に神が人に与えた物、というお話なの。それは即ち、人類及び世界が破滅する時を知らせる時計のような物。六十四つの輪の意味は、人間の煩悩百八から四十四の自然の摂理および害悪を引いた数、つまり世界の崩壊は人間の意志や理性、社会が引き金となる……なんて言われているわ」
「……」
気むずかしく険しい顔をしながら首を傾げるこいしを見て、少し難しかったかしらね、と呟きながら白蓮は苦笑した。
「要するに、世界の崩壊は人の心から始まるという事よ。でもね、こいしちゃん。私はこの話はただの作り話だと思うの」
「何で?」
こいしの返事を聞いた白蓮は一瞬押し黙った。その間、彼女はじっとこいしの顔を見つめ続けていた。
白蓮の意図がよく分からなく、彼女の視線が煩わしくて、こいしは思わず目を逸らした。
しばらくの沈黙の後、やがて白蓮は意を決したように凛々しい顔つきになって、こいしに話し掛け始めた。
「それはね、人が破滅を恐れているからよ」
白蓮のその台詞を聞いて、今まで目の前の会話を聞き流していたぬえがその内容に初めて興味を抱いた。
それと同時に、こいしの表情が不機嫌そうに変わった。
「普通に考えれば、人間がこの先、何兆もの長い時間を生き永らえるはずがない。これは、破滅を恐れる人間の恐怖心が生み出したまやかしなのよ。まだ全然大丈夫、自分らの世界は安穏だと安心させる為にね」
ぬえはようやく白蓮がやろうとしている事に気づき始めていた。
それはこいしも同じのようで、彼女の言葉から見え隠れする意図を感じ取って、その場から脱したいのか、そわそわしながら辺りの景色を見渡し始めた。
「だけどね、こいしちゃん。これは悪いことでは無いのよ。人間はとってもか弱いの。その体も、心も。破滅を恐れる事は悪事ではないのよ」
周りの者達の様子には目もくれず、白蓮は依然として凛々しい顔つきのまま話し続けた。
「このハノイの塔を作った者が六十四もの膨大な輪を用いたのも、破滅の時が遠い未来である事を願ったからでしょう。それを解く僧侶たちも同じで、もしかしたらその解答作業を『故意で』間違えるかもしれない。例えば、目を盗んで輪っかを一つ加えたり、『輪っかを一つ取り除いたり』」
こいしとぬえの表情が一変した。
もしや、白蓮はこいしの所行に気づいていたのか!?
しかし、話し続ける白蓮の表情は全くもって変わっていなかった。もしかしたら、偶然話しが被っただけかもしれない。そう思い留まって、二人は彼女の話を聞き続ける事にした。
「これは私の身の上話になるけど、私もかつて人間だった時に過ちを犯したわ。破滅を恐れ、不老不死に手を出した。結果、紆余曲折経て法界に封印させられるという報いを受けた。私は死ぬのが怖かった。だから、禁断の魔法を習得して破滅の到来を回避しようとしたの。今の例なら、ハノイの塔に新たな輪を加えるという前者のやり方ね」
白蓮の話はこいしを不愉快にさせた。
こいしは白蓮の身上やその罪についてなど聞いているつもりは無かったし、その意図を感じとった今、今までただの遊びだと思っていた物が全て白蓮による巧妙かつ緻密綿密に組まれた自分を追いつめる罠だと彼女に感じさせていた。
「そして後者は、こいしちゃん、あなたよ」
それは一瞬であった。
白蓮の台詞を聞くや否や、突然こいしは立ち上がった。
そして、有無言わずに、その腕を白蓮の懐に突き刺したのだ。
「!?」
鮮血をまき散らしながら、こいしの腕が白蓮の鳩尾の奥深くにへと侵入していく。
「へぇ、死なないってのは本当だったんだ」
「白蓮!!」
口止めされていた事など忘れ、ぬえは思わず白蓮の名を叫んだ。
そして、こいしの発作的なその行動に怒り、彼女に憤りを隠そうともしないその形相で睨み付けた。
「こいし……あんた何やってるの?あんた自分が何をしているか分かってんの!?」
「……ぬえ、あなたは黙っていなさいと言ったでしょう」
こいしが腹の中で腕を動かす度に苦悶の表情を浮かべながら、顔を青ざめた白蓮が制止した。
「だって!!」
「いいから黙ってなさい……」
「……っ」
必死になって自分をなだめてくる白蓮のその表情を見て、ぬえは唇を強く噛んだ。
ぬえが黙ったのを見て、粗く呼吸をしていた白蓮がこいしに話し掛けた。
「こいしちゃん、あなたは心の破滅を恐れ、自分の輪っかを捨てたのよ」
「あのねぇ、『白蓮さん』、私はあなたのお説教を聴きにきたわけじゃないんだよ。私はここに遊びに来たの。そんなつまらない事しか言えないんなら、いい加減『私なりの遊び方』で付き合ってくれない?」
白蓮の言葉を遮るように、こいしは彼女の温もりを一杯に感じていた片腕を目一杯ひねった。それをする度に白蓮の腹からぼとぼとと紅い血液が流れ落ち、彼女は苦痛のあまり顔を引きつらせた。
そしてその表情を見て、こいしは心底嬉しそうに顔を歪めた。
頭の螺子が外れたこいしのその所業を見て、ぬえの顔はこみ上げる怒りのあまり真っ赤に紅潮していった。だが、その間も白蓮は横目でぬえを制し続けていた。
「……あなたの過去に何があったか知らないけれども、少なくともあなたはその過ちの報いを今こうして受けているわ。自我を失い、自分の本能のまま、見境もなく衝動的に動く、狂人になってしまった」
「あらまぁ、こんなになってもまだ減らず口叩けるんだ、凄いねぇ。あと、お姉ちゃんが言っている事は違うよ?私は人間でなくて妖怪だもの。お姉ちゃんが言ってる事は人間のことだから私には関係ない」
「果たしてそうかしら」
「……!」
白蓮は冷や汗を噴出しているその顔に怪しい笑みを浮かべながらこいしをじっと睨み付けた。
それを見て、その言いようのない気持ち悪さを彼女から感じ取ったこいしは思わず息を飲んだ。
「そもそも妖怪は人間の負の感情から出たもの。人間が母親であるその妖怪は、果たして人間と全く違うのかしら?今の私は『魔法使い』と呼ばれる妖怪の一種だけど、昔人間だった頃から何か物事の考え方が変わったかと言われれば、そうでないと自信を持って言えるわ」
白蓮は肩を大きく上下させながらも、依然として変わらぬ引き締まった表情でこいしを見つめ続けた。
「破滅を恐れるのは妖怪だって同じよね」
こいしは返事をせず、ただ白蓮を睨み続けていた。
そんな彼女を見て、白蓮は強張っていた表情を解き、微笑みかけた。
「……ふふ、さっきこいしちゃんがハノイの塔の問題を解いて見せた時、私には何故か『三手』で終わったように見えたの。三手で終わるということは、先程の公式から逆算すれば輪は二本でないといけない。私の勘違い、気のせいだと思っていたのだけど……」
白蓮はそう言うと、今までこいしに無抵抗に預けていた体を動かし、両手を大きく広げた。
そして、自分の内臓を握り閉めていたこいしの腕を、がっちりと掴んだ。
「やっと見つけたわ。『三つ目の輪』、そして、『こいしちゃん』」
「ちょ、は、離して!!」
白蓮に腕を掴まれ、驚いたこいしはその拘束を必死に振りほどこうとした。
しかし、がっしりと掴んでいた白蓮の腕は鋼鉄のように頑なで、こいしがその手で掴んでいた彼女の内臓を握りつぶしてみせても、白蓮は口から血を噴出すだけで、腕の力が全く弱まらなかった。
「ふふ、やっぱりあったわね、『一番小さな輪っか』」
動揺して思わず能力を解いてしまったこいしを尻目に、白蓮は彼女が背後に隠していた輪を見つけると、片腕でそれをひょいと持ち上げ、二本だけだった塔の上にそれを掛けた。
白蓮の拘束が片腕だけになったのを見て、これ見よがしにこいしは暴れて抵抗しようとしたが、しかし全く効果は無かった。
こいしは白蓮に恐怖を抱き始めていた。
「やめてよ!離して!離してったら!!」
「あなたが移した三つの輪の意味は分かるかしら?」
「知らない!そんなの知らない!!いいから離して!!!」
パニックに陥ったこいしを白蓮は変わらない微笑を浮かべながら、その腕を目一杯力を込めて握り続けた。
「大きい輪は社会。中くらいの輪は本能。小さい輪は自我、もといエゴを表していたのよ。さて、こいしちゃんはこの遊びのルールを覚えているかしら?」
「知らない!!知らない!!そんなの知らない!!」
「『小さい輪の上に大きいそれを乗せてはいけない』。それは何故か?そうすると、小さい物が大きい物に押し潰されてしまうからよ」
「~~~!!!!」
錯乱するこいしを見て、白蓮はそれを言ってから彼女の腕を離した。
こいしは飛び退いて、そしてすぐさま身を翻し、雄たけびを挙げながら白蓮に襲い掛かった。
しかし、白蓮は彼女が振り下ろした腕を、再び捕まえた。
「こいしちゃん、あなたはまだ幼い。まだ未熟なの。だから、そのルールを知らなくても仕方なかったのよ」
白蓮は彼女の攻撃に対して身構えたていたが、予測していた衝撃はやって来なかった。
こいしは泣いていた。
その目から溢れ返ってくる涙の海を、自制出来なかった。
目の前にいる僧侶の恐ろしい強さ、自分の力では歯が立たない事に恐怖した。
だが、彼女の言葉が自分の無意識の内に深く突き刺さっている事を悟っていた。
その自分の傷ついている場所がどこにあるのか、こいしには分からなかった。
それは白蓮が言った報いの意味だと無意識の内に知っていたが、もう自分にはどうする事が出来ない事も、知っていた。
かつて、さとり妖怪としてのアイデンティティを捨てた。それは、自己の破滅から逃れるため。自分の弱さから逃げるため。
だが、一時凌ぎで捨てた小さな輪も遂に見つけられて、ハノイの塔の完成の時が訪れた。
そしてこいしは、絶望したのだった。
「泣かないで、こいしちゃん」
狂い泣くこいしに、白蓮は優しく手を差し伸べた。
こいしは泣き喚きながらそれを拒否した。
「こいしちゃん……」
拒まれた手が赤く腫れるのを労りながら、白蓮は尚も暖かい眼差しで彼女を見つめ続けた。
「そう、今までそうやって独りで戦ってきたのね」
「……はん、独りの世界に逃げ込んでるだけじゃん」
白蓮たちの居場所から離れ、部屋の隅に逃げ込んで泣き咽ぶこいしの姿を見て、ぬえが呆れた表情を浮かべながら言い放った。
そんなぬえの台詞を白蓮はたしなめた。
「いいえ、それは悪い事ではないわ。例えそれが一時の発作的な感情から起こった過ちだとしても、それを悔い改めることができればいいの」
そういうと白蓮は再びこいしの下へ歩み寄って行った。
どのみち拒否される事を解っていながら、尚も彼女に近づこうとする己の姿をぬえが小馬鹿にしているのを肌に感じたが、それでも白蓮はめげなかった。
「こいしちゃんは優しい子なのね。だから独りで悩みを抱えて塞ぎ込んでしまった」
「……やめて!私にさわらないで!!」
白蓮が再び手を差し伸べようとすると、先程と同じようにこいしはが暴れながらむしゃらに腕を振り回して、その手を全身で拒絶した。
だが、白蓮は同じ轍を踏まなかった。
今のこいしには救いの手を取る事を促しても意味は無い。ならば、彼女に無理矢理それを獲得させる。
「こいしちゃん。あなたは勘違いしているわ、その己の罪状を」
「……!?」
白蓮は蠅を箸で捕らえるような俊敏な動きで、振り回されていたこいしの腕を捕まえた。
「や…だ……!離して!お願い!離して!!」
白蓮に目前まで迫られて、こいしの拒絶反応が更にエスカレートしていく。
その力は凄まじい物であった。しかし白蓮は微動だにしなかった。元は人間の身でありながら人妖共存の世界を目指していた彼女は、荒れ狂う妖怪のどんな剛力の前でも、その信念を貫かなければならなかった。
こいしの体を掴む腕に魔力を最大限に注入し続けながら、白蓮は一転して強張った表情になって彼女に言い放った。
「あなたの犯した罪は破滅を恐れる己の心に負けたからではない。その本当の罪は、周りの者たちにその悩みを打ち明けず、その者たちの事を一切考えずに自滅した事よ」
「!!」
白蓮の顔とその台詞で、必死に抵抗していたこいしの力が一気に抜けた。
やがてこいしに底知れぬ恐怖と絶望が込み上げてきた。
それは先程までニコニコしていたはずの白蓮が恐ろしい形相になったからで、そのプレッシャーから来る物なのか。しかしこいしはその感情が白蓮の方からでなく、己の心の奥底から湧いてきている事も知っていた。
「先程のぬえたちの話を聞くには、あなたにはお姉さんがいるのでしょう?」
「……お姉ちゃんなんて知らない!!」
こいしは体を震わせる恐怖に打ち勝とうと、最後の抵抗を見せた。
「なんで家族に相談しなかったの?同じ種族の妖怪同士なら、その悩みも分かちあえたでしょうに」
「お姉ちゃんは他人の事なんて何も考えてない!さとりの能力を使って他人に嫌がらせする性悪になんか私の気持ちは解らない!」
「それは違うよ」
白蓮とこいしの話をぬえが遮った。しかし、その口調から彼女なりの口出しの覚悟を感じ取れたので、白蓮はそれを咎めなかった。
「なに?あんたが何を知ってんの!?」
こいしが鬼のような形相で睨んできたが、話題に挙がった彼女の名誉の為にも、ぬえは決して怯む素振りを見せなかった。
「あんたは知らないだろうけど、私は地下で暮らしていた時に何度か姉のさとりと会ってるんだよ。確かにあいつは人の心を読んでからかってくる嫌な奴だったけど、私がそこに訪れる度に何度も妹の話をしていたよ」
「!?な、なんで……」
こいしが狼狽するのを見てから、ぬえは白蓮に視線で話の手綱を渡した。
「さぁ、なんでかしらね。あなたのさとりの能力で、お姉さんの心を覗いてみたら?」
「……」
もう少し引き延ばそうとしていた白蓮だが、しかしそれをやめた。
こいしの目から再び溢れかえってきた涙は先程と異質な物であり、何より素直らしい彼女が自分の説法をよく聞いてくれていた証だった。
ここまで来れば一安心、そう溜め息をついてから白蓮は申し訳なさ気にこいしに話し掛けた。
「あらあら、ごめんねぇ、少し意地悪し過ぎちゃたかしら」
泣きじゃくるこいしを見て苦笑いしながら、白蓮は優しく寄り添って彼女の頭を撫でた。
「でも、こいしちゃんも私の話を聞いてくれて嬉しいわ。あなたに帰る場所があるのなら、そこをこれからもっと大切にしてね」
白蓮の言葉に返事をするでもなく、こいしはひたすら泣き続けた。
こいしの感情が収まるまで、白蓮は嫌そうな顔をしたぬえを余所に微笑みながら彼女の側に寄り添い続けた。
「……こいしちゃん。私はあなたと、とてもよく似ているわ」
「……?」
しばらくして、おもむろに白蓮が呟いたのを見て、こいしは涙を拭いながら不思議そうな顔をした。
「私も過去に、破滅を恐れるあまり抗えぬ運命の輪に手を出した。あなたと同じような性格なの。だから、もし私がさとりの能力を持っていたら、きっとあなたと同じように重圧に耐えきれなかったでしょうね」
「……」
白蓮の柔らかい手に頭を委ねて、こいしは腫れ上がった真っ赤な目を細めながらじっと黙りこくった。
「そして、自分の勝手な自滅により、周りの者達に迷惑を掛けたのも同じ。本当にこいしちゃんと私はよく似ているわ」
そう言うと白蓮はこいしの顎を手にとって、自分の方へ寄せた。
「……?」
「他の者には解らなくても、私には解る事があるかもしれない。だからこいしちゃん、いつでもまたこの命蓮寺に遊びに来て頂戴ね。そうしたら、また私と楽しいお遊戯をしましょう」
白蓮はこいしの頬に優しく口づけをした。
突然の出来事に驚いたこいしは、顔を真っ赤にしながら白蓮から飛び退いた。
そして、自分を眺めながらにっこりと微笑む白蓮の姿を見て、こいしはもじもじとしながらその姿を無意識の中にくらませて、その場から走り去って行った。
「あん、痛いわ、ぬえ」
「知るか!あんたが勝手に無茶したんでしょうが!」
背中におぶさった白蓮が悲鳴を挙げるのをぬえは無視した。
こいしに貫かれた彼女の腹部から、背中越しに血が滲み出てきているのをぬえは感じ取っていた。
白蓮は一応不死身の体なので、少し弱ってはいるものの、このくらいの致命傷を負っていても正気を保っていられる事は知っていた。
だが、それにしても自分の足で歩けなくなるほど無理をしていた白蓮が、ぬえには癪であった。
「あら、なんか機嫌悪いわね。……あぁ、さっきこいしちゃんにキスした事に妬いているのね」
「……んなわけあるか!」
顔を真っ赤にして言い返してきたぬえを見て白蓮はクスクスと笑った。
二人は命蓮寺の縁側に着くと、昼間居たときと同じようにその場に座り込んだ。
「やれやれ、嵐のような一日だったわねぇ」
「……ふん、まぁいい退屈凌ぎにはなったけどね。星たちも幸い軽症で済んだみたいだし」
白蓮は腹を抱えながら座ると、ぬえに向かって頭を下げた。
「……ぬえ、ありがとう。私がこいしちゃんを諭している時に、彼女のお姉さんのことで助け船を出してくれて」
「……別にいいよ、そんな事。本当はあのさとりの姉、こいしの言う通り嫌ってたから」
ぬえはやりづらそうにしながらそっぽを向いた。
「ふふ、お姉ちゃんかぁ」
ぬえの不器用な返答を聞いて微笑んだ白蓮は遠い目をした。
「……そういえば、あんたも姉だったっけ」
「……そうね」
どこか上の空でいる白蓮を見て、ぬえは彼女の視線の先を側から見遣った。
妖怪の山に日が沈みつつあった。空は茜色に染まり、今日という一日が終わりを告げようとしていた。
その空に浮かんでいる、天狗が通った跡に残る一筋の飛行機雲を、白蓮はぼんやりと眺めていた。
「私の弟の命蓮が死んだ時、私は最愛の者を失う事とともに、死に対して恐怖した。星やムラサたちの事など考えもせず、不老不死という生きる者の禁忌に私は手を出してしまった」
「……」
白蓮が話し始めたのを見て、ぬえは黙ってそれに耳を傾けた。
「その大罪を私は償おうとしなかった。その結果、私は法界に封じ込められ、私を支持してくれていたみんなに多大な迷惑を掛けた。それでいて今この時をのうのうと過ごしているこんな私を命蓮が見たら、きっと叱ってくるでしょうね」
そよそよと吹いていた風が不意に止まった。
初夏に入った幻想郷の凪は、夕暮れの時間でもまだ蒸し暑く感じさせた。
「だけど、最近やっと分かったの。不老不死に手を出した私は、周りの者達がだんだんと姿を消していって、やがてこの世で一人きりになった時に、世界の破滅をこの目で見届ける。これが私の償いなのよ」
「……その破滅の時まで、あと六千億年弱か」
不意に白蓮がこいしにしていた話を思い出し、ぬえが呟いた。
「ビックバンで宇宙が誕生したのが百三十七億年前。まだまだこの先長いようで」
「あら、随分と物知りねぇ」
「……私が昔、京で暴れてたときに友達だった賢狐の入れ知恵だよ」
感心したように白蓮が唸ったのを見て、ぬえは苦笑した。
「……そう、その気の遠くなるような時間の間、私は周りのみんなが死んでいくのに耐えなければならない。不甲斐ない事に、私はちょっと自信がないの」
「私が……」
また風が吹き始めた。
その心地よいそよ風は、言いかけたぬえの綺麗な黒髪を優しく撫でていった。
一瞬びっくりした白蓮は、顔を赤らめて言い淀む彼女の姿を見てすぐにその意図を察し、嬉しそうに微笑んだ。
「なぁに?」
さとりでもないのに自分の心情を見透かしたような白蓮を見て、ぬえは顔を真っ赤にした。
「……なんでもないよ!せいぜい長生きして、私が老いて死ぬのをしかと見届けるがいいわ!!」
「あらあら」
怒ってそっぽを向いてしまったぬえを見て白蓮は嬉しそうにしながら、苦笑した。
「やぁねえ、こうやってあなたをからかって生きていけない未来なんかつまらなくてしかたないわ」
「あんたねぇ……」
疲れたように大きく溜め息を吐くぬえを見て、白蓮は悪戯な笑みを浮かべた。
「そうねぇ、頑張って勉強して、不老不死を解く魔法を開発しようかしら。そしたらぬえに最期を看取ってもらうの」
「そんなこと出来るわけ……」
ふふん、と鼻を鳴らしながら白蓮はぬえの顔を覗き込んだ。
「ねぇ、ぬえ。もしそうなったら、あなたはどうする?」
白蓮に促されて、ぬえはふと考えた。
もし、自分の目前で白蓮に死なれたら。
そんなことあるわけないと思いながらも、ぬえはそれを拒絶した。
なんだかんだ言いながらも、自分は白蓮を慕っている。彼女がいなくなった世界など、今や考えられずにいた。
もし彼女が死のうとしたら、全力で阻止することだろう。
そこまで考えて、ぬえは気づいた。
自分は白蓮と共に生きるこの世界の破滅を恐れていた。
そして、その破滅が訪れようものなら、彼女やこいしのように、自分が禁忌に手を出そうとしている事を。
もし自分がハノイの塔に手をつけるならどうするか。
白蓮のように永遠という壮大な輪を加えるか。
こいしのように小さな小さなエゴの輪を捨て去るか。
いいや、自分なら輪の中に正体不明の種を仕込んで、その輪を操る者を惑わすだろう。
そう、ぬえは思った。
「そうだねぇ、白蓮さんや」
ぽかぽかと暖かい日差しが降り注ぐ。今日はお天気日和。
命蓮寺の縁側に座ってお茶をすすり、深く溜め息を吐く。
「平和ですねぇ」
「平和過ぎるのも何だか物足りないけどねぇ」
しかしこの幻想郷では平和な毎日はそうそう長くは続かない。
口は災いの元、のんびりと羽を伸ばしていた二人のもとへ、さっそく喧噪が舞い込んできた。
「大変!大変!」
ムラサの叫び声が段々と近づいてくる。それがこの平和な時間を破り捨て去る事を悟った二人は、苦笑した。
やがてそれが耳元にまで近づいて来ると、突然、廊下を仕切っていた障子が勢いよく開いた。
「あぁ、やっと見つけた!二人とも、一大事だよ!」
「はいはい、どうしたのですか?」
平穏のひとときが崩れ去るのを承知しながら、白蓮は敢えてムラサに問いを投げかけた。
「侵入者よ!それも、危険度A級のとびっきり危ない奴!」
答えを聞き、綺麗に磨かれた床の感触を惜しむようにゆっくりと腰を上げた白蓮を横目に見て、ぬえは苦笑いしながら一緒に立ち上がった。
「てゆうか、なに妖怪の侵入を許してんのよ。見張りの一輪はどうしたの?」
寺の長い廊下を三人でずんずん進んで行く。元々この建物は船だったので、その中身はえらく複雑に組み入っており、外側の縁側から内の部屋に向かうのに大回りしなくてはならなかった。
「いや、一輪は侵入者に全く気づかなかったんだって」
「はぁ!?何やってんのよ!!」
「ぬえ、落ち着きなさい」
何だかんだ言っておきながら白蓮との長閑な時間を潰されて少し苛ついていたぬえは、ムラサの返答を聞いていきり立った。
そんなぬえを白蓮は制止した。
「事情が見えないわ。ムラサ、詳しく事情を聞かせて頂戴」
「えぇと、とりあえず一輪は何も悪くないの。突然あいつが内の大広間に現れて、暴れ出したのよ!今、星とナズーリンが何とか持ちこたえてるけど、多分そう長く保たないだろうから、一刻も早くあいつを二人に止めて欲しいのよ!」
とりあえずムラサに話をさせてみたものの、彼女の言っている事が二人にはいまいち理解出来なかった。
当初は白蓮だけが駆り出されるのかと思っていたが、どうやらムラサはぬえにも助けを求めているらしい。ぬえは依然として気が進まなかったが、仕方ない、地底暮らし以来の友人であるムラサの頼みとあったので、渋々話に乗る事にした。
「……ったく、分かったわよ。で、その妖怪は何者なの?」
「……ぬえもよく知ってる奴だよ」
「あら、ぬえのお友達?」
ムラサと白蓮の台詞を聞いて、ぬえはきょとんとした。
はて、自分の知り合いに、魔法を極めた不老不死の超人や毘沙門天の弟子が御座すこの命蓮寺に、単身で乗り込んでくるような命知らずなんていただろうか。
「見ればわかるよ。ほら、もうすぐそこだよ!」
曲がりくねった廊下を進んで行くと、なにやら柱が削れる音や花瓶の割れる音が聞こえてきた。
その騒音は段々と近づいていき、ついに三人はその源となっている一つの大きな部屋の前に辿り着いた。
「頼んだよ、二人とも!」
ムラサはそう言ってびりびりに破れた障子の扉を開き、その裏側に身を隠した。
何が起こっているのか未だ分かっていなかったが、とりあえず先方の不意打ちに備えるために白蓮とぬえは身を構えた。
その二人の目に飛び込んできたのは、壁に穴が空き、畳は捲れ、ガラスの破片やその他諸々が散乱した見るも無惨な室内の有り様であった。
そしてその悲惨な景色に溶け込むように、星とナズーリンがまさしくボロ雑巾のように床に平伏していた。
「……星!ナズーリン!」
ふらつきながら肩を笑わせている二人を見て、思わずぬえはその名を叫びながら彼女たちの下へ駆け寄った。
「ちょ、大丈夫なの!?星、しっかりしなさいよ!!」
「ぬ、ぬえか……それに聖も……。すまない、私たちでは力不足だった……」
「星!」
ぬえに抱かれたその腕の中で星は気を失った。側のナズーリンも同じく気を失っていたらしく、白蓮は彼女を優しく抱きかかえた。
「っ、一体誰がこんな事を!」
友人たちが受けた酷い仕打ちを見て、先ほどまで乗り気でなかったぬえはすっかり憤っていた。
白蓮との平和な一時をぶち壊した挙げ句、大切な友人たちにこのような横暴を働かれては、流石のぬえも黙ってなどいられなかった。
「誰よこんなことする奴は!?出てきなさい!!」
ぬえは込み上げてくる激情のままに、誰もいない破壊された部屋の中で何者かに怒りをぶつけた。
聖の愛した数式
突然、背中に気配を感じた。
「……っ!?」
周囲にしっかりと気を配って警戒していたはずなのに、いつのまにか「彼女」に背後に回られていた事にぬえは驚愕した。
「うふふ、新しいオモチャ、はっけ~ん!」
我に返ったぬえは身構えながら急いで振り返った。
その瞳に映った「彼女」を見て、ぬえの体に再び戦慄が走った。
「あ、あんたは……!!」
つばの長い大きな帽子、そこに巻かれたリボンは「幼い」彼女なりのアクセント。
自身の体より一回り大きい黄色の服は、袖の部分がだぼだぼで少しだらしない。ぬえと白蓮という新しい玩具を見つけて嬉しそうに彼女がくるりと回れば、大きな緑色のスカートがひらひらと棚引いた。
その様は、己の侵入を引き留めんとした星とナズーリンを破壊した事を露にも悪事と思っていなく、それでいて怒りの表情を浮かべていたぬえには新しい自分の玩具として表れた好意や敬意すら感じられた。その場の空気などまるで認識していないようで、周りの者達には目もくれず、ただ目の前の快楽だけをひたすら純粋に追い求めていた。
今一度彼女のひたむきな笑顔とその胸に在る閉じた第三の目を見て、ぬえは改めて己の目前に恐怖が差し迫っていることを悟った。
「古明地こいし!!」
「あら、ぬえのお友達?」
こいしの顔を見るやいなや顔を引きつらせ叫んだぬえを見て、ナズーリンの体を抱きかかえていた白蓮がにこやかな笑みを浮かべていた。
その緊張とは裏腹な白蓮の危機意識の足りないふぬけた態度を見て、ぬえは憤りを覚えると共に彼女に対して警告を発した。
「白蓮!こいつは駄目だ!相手にしちゃいけない!あんたは地下にいなかった知らんだろうが、こいつは地下の妖怪たちに最も嫌われていた最低最悪のさとり妖怪だ!」
間欠泉騒動が発端となった星輦船事変の前まで、ぬえはムラサと同じく地底に封じ込められていた。だから彼女は、目前にる者がその地底の妖怪たちの中で最も忌み嫌われていた事を知っていたし、その危険性も熟知していた。
「しかもこいつは、相手の心を読む姉のさとりよりも更にタチが悪い!こいつは読心の力を持つ第三の目を閉じ、さとり妖怪のアイデンティティを失って頭を狂わしたんだ!おまけに無意識を操る程度の能力とかいう凶悪じみた力も持ってるし!」
「あら、随分私について詳しいね。どこかで会ったことあったっけ?」
自身の身上をぬえに話されて、こいしは驚きながら彼女の顔をのぞき込んだ。
こいしの目と鼻の先まで顔を近づけられ、ぬえは体を硬直させた。
「……あぁ、その奇妙な羽、どこかで見たことあると思ったら、封獣ぬえかぁ」
「……!?」
ぬえは驚愕した。自身が地底に居た時、試しにこいしの顔を伺おうと彼女の住処に赴いた際は自身の能力を用いて己の体を変容させて行ったはずなので、こいしが自分の本当の姿は知らないものだと思っていた。
だが、どうやらこいしは自分を知っていたようだった。いつ?どこで私を見た?こいしの危険性を知って彼女を避けていたはずなのに、何で私を知っている?
しかしぬえは理解する。おそらく彼女は、何時の日か自分の無意識の中に潜り込んで、知らぬ間に自分と遭遇していたのだろう。先ほど突然背後に現れた時のように、こいしは相手に察知されずにその目標に近づけるのだ。
考えただけでも恐ろしい。もしその時、こいしの気まぐれで彼女の「玩具」とされていたとしたら。
「へぇ、こいしちゃんって言うの?可愛らしい子ねぇ」
ぬえが恐怖のあまり体をわなわなと震わせていたのとは対照的に、白蓮はにこにこと微笑みながらこいしの頭を撫でた。
「……ちょ、白蓮!?」
「あなたは私たちと遊びたいの?」
「うん、なんか最近物足りなくて暇なの!お姉ちゃん、私と遊んでくれる?」
「ふふ、お姉ちゃんだって。ねぇ、ぬえ?」
白蓮に話を振られたぬえは依然として体を震わせていた。
しかしその感情は、こいしに対する恐怖から彼女に対する怒りへと変容していた。
「白蓮!あんた私の話聞いて無かったの!?そいつは駄目だって言ったでしょう!それに何よ、星やナズーリンをあんな風にやられておいて、何でそんな風にへらへら笑っていられるのよ!?」
ぬえの怒声を耳にして、こいしを見つめていた白蓮は目を細めた。
もちろん、ぬえの話は聞いていた。しかし、彼女には譲れない信念があった。
「ぬえ、私は人も妖怪も平等に暮らせる世界を目指しています。だから、この命蓮寺に駆け込んできた者は人妖問わず受け入れます。それがどんな者であろうとも」
「だったらこの寺の者達が傷つけられてもいいってわけ!?そんなの、あんたのエゴじゃない!!」
「?」
突然白蓮に喰って掛かったぬえを見て、こいしは不思議そうな顔をした。
そんなこいしの表情を眺めながら、白蓮は彼女に優しく微笑みかける。
「彼女の言うことは気にしないで、こいしちゃん。丁度私も手持ち無沙汰にしていた所よ。さぁ、一緒に遊びましょう」
「白蓮!!」
「ムラサ、この子をお願い」
「え、あぁ、うん」
白蓮の耳にはもうぬえの叫びは届いていなかった。白蓮は後ろに振り返って、柱の影からこちらの様子を伺っていたムラサに声を掛けた。
白蓮は腕に抱えていたナズーリンを彼女に預けると、こいしの帽子を取って、その薄く緑がかった銀髪を優しく指でといた。
「あなたは何をしてくれるの?」
「こいしちゃんは何がしたい?」
「うーん、お姉ちゃん強そうだから、さっきの寅さんと鼠さんみたいに、殺し合いがしたいなぁ!」
「そう」
他意を微塵も感じさせないその純粋な笑顔を見て、思わず白蓮も頬を綻ばせた。
「……ねえ、こいしちゃん。それよりもっと楽しい遊びがあるんだけど、お姉さんとそれで遊ばない?」
「え?殺し合いより面白い遊びなんてあるの?」
「そう。今のあなたにぴったりな遊びがね」
こいしの問いかけに答えながら、白蓮はその側で唇を噛んでいたぬえに向かって言い放った。
「ぬえ、ちょっと倉庫に行って来て頂戴。取ってきて欲しい物があるの」
「わぁ、なんか面白い部屋!」
白蓮の部屋を見たこいしの第一声がそれであった。
余計な物は一切無く、部屋にあるのは小さな机とその上に置かれた硯と和紙、壁には格言が書かれた掛け軸と水墨画のみという小綺麗にまとめられていたその光景は、ごちゃごちゃと物で溢れかえる洋館住まいのこいしにとってなかなか新鮮なものであった。
「さぁ、どうぞそこに座って下さいな。粗茶でよければ用意しますけど?」
「あぁ、ええと、どうぞお構いなく」
姉から以前教わった礼儀作法を思い出し、こいしは白蓮の申し出をやんわりと断ってから、机の前の座布団の上に正座した。
「ねぇ、お姉ちゃん。その遊びって本当に殺し合いより面白いの?」
「言っておくけど、白蓮は不老不死だから殺し合いなんかできないよ」
こいしの台詞と同時に、荷物を抱えながらぬえが遅れて部屋に入ってきた。
「お姉ちゃん死なないの!?凄い!それって壊れない玩具って事でしょ!?素敵!!」
「あんた、他人の事を玩具としか見れないわけ?もう少し言葉遣いってものを……」
「ぬえ」
白蓮に睨まれて、ぬえは言葉をそこで切った。
こいしの事を良く思ってないぬえを見かねて、部屋に入る前、白蓮は自分がこいしと遊び終えるまでのその間、ぬえに一切の物言いを禁じた。
さすがに白蓮に凄まれては、ぬえもそれに従うしかなかった。癪ではあったが、白蓮はただの呆けた馬鹿では無いことをぬえは知っていたし、彼女を信頼もしていた。
しかし、自分に倉庫からこんな物を持ち出させて、果たして彼女がいったい何をしたいのか、その意図を理解するのにぬえは苦しんだ。
「あれ、それってもしかして、輪投げ?」
ぬえが抱える荷物を見たこいしが声を挙げた。
「そうよ、こいしちゃん。縁日とかでよく見る、輪投げよ」
「ふーん。なんか随分一杯輪っかがあるけど、これで時間つぶしでもするの?」
「そうね、その輪っかは全部で六十四本あるんだけど、そんなにいらないわね」
こいしに言われた白蓮は、ぬえから荷物を受け取ると、大量にある輪っかから三つだけ取ると、残りを彼女に返した。
「三つだけでいいの?それってどこからどう見てもただの輪投げだけど、本当に殺し合いより楽しい事なの?」
彼女のから質問を受けると、白蓮はにこやかに微笑みながら、自信たっぷりに言った。
「ええ、もちろん。あなたにぴったりな、とても楽しいお遊びよ」
「……そう、ならいいけど。で、この輪っかをどうすればいいの?普通にあそこに投げればいいの?」
白蓮の回答を聞いたこいしは特に言及するでもなく、渡された三本の輪を陽気に指先でくるくると回した。
こいしはもう片方の手で目標を指差した。輪を放る先には三本の棒が立った板を見て、白蓮に渡された三本の輪をそれぞれの棒に掛けるという、何の捻りもない普通の輪投げをやるのか、そう問いかけた。
白蓮は少し押し黙ってから、変わらぬ微笑をこいしに向けて、優しい声で彼女に答えた。
「そうね、折角だから、こいしちゃんの腕前を見せて貰おうかしら」
「あら、このくらいお茶の子さいさいだよ?弾幕ごっこも得意だし、輪っかを投げるくらいならどうってことないんだから!」
「ふふ。なら、その大きい輪っかから一番左の棒に順に放って貰える?」
「え?一番左の棒に全部入れればいいの?」
「そうよ」
白蓮の言葉の意味はよく分からなかったが、とりあえずこいしは言われた通りに左の棒に目標を定めた。
そして、大きい輪を手に取り、目標目掛けてそれを投じた。
「わぁ、うまいうまい!」
こいしが投じた輪は円を描いて宙を舞い、見事目標の中に収まった。
白蓮にはやされてこいしは機嫌を良くすると、続けざまに中くらいの輪、小さい輪を投じ、その二投も華麗に決めてのけた。
「えへへ、どうかな、私の腕前は?」
「いやぁ、御見逸れしたわ、こいしちゃん」
白蓮に褒められて、こいしは満面の笑みを浮かべる。
そんな二人が一緒にはしゃいでいるのとは対照的に、その光景を眺めるぬえの表情は曇っていた。
自分の忠告を聞こうとせずに、こいしと無邪気に戯れている白蓮が何を考えているのか全く分からなかった。
その理解しがたい行動の上に、おまけに閉口令ときたものだ。もう、好きにしたらいい。せっかく私が警告したのに私にこんな仕打ちをするなら、もう知らない。お望み通りもう何も言わないし、何かあったって助けてやったりしない。そう開き直って、自分に言い聞かせていた。
だが、そんな気持ちとは裏腹に、ぬえは白蓮の事がやはり心配で、どうしてもその場から退こうという踏ん切りが着けずにいた。
「で、この遊びはもう終わりなの?まだまだ物足りないんだけど」
おもむろに切り出したこいしの台詞を聞いて、白蓮はふふん、と鼻を鳴らした。
「いやいや、こらからが本場よ。さぁこいしちゃん、今度はこの輪を違う場所に移して頂戴」
「輪っかを移す?」
不思議そうな顔をするこいしに、依然変わらぬ笑顔で白蓮は答えた。
「そう。今、三つある棒の内の一つに輪っかが下から大・中・小の順に掛かっているわね。これを他の二本の棒を使って、そのどちらかに同じように大中小の順番に移動してみて欲しいの」
「そんなの簡単じゃん。この三つごと他の棒に移しちゃえば……」
「駄目よ、こいしちゃん」
棒に掛かった三本の輪をまるごと掴みにいったこいしを白蓮が止めた。
「この遊びにはルールがあってね、まず一つは一手に一本の輪しか移動できない。そしてもう一つ、小さい輪の上に大きな輪は置けないわ」
「……ふーん、なんかパズルみたいだね」
「そうね」
白蓮の述べた決まり事を理解したらしいこいしは、早速言われた通りに輪を一本ずつ移動させて遊戯に興じ始めた。
しかしそれはなかなか難しいらしく、こいしは輪を手にとってそれを色々弄っては頭を捻るを繰り返し、しばらく四苦八苦してからようやく言われた通り投げ輪の塔を他の棒の処に完成させた。
「よし、やっと出来た!」
「うん、よく出来ました」
提示された問題を解いて喜ぶこいしの頭を白蓮は優しく撫でた。
「でも、ちょっと時間が掛かり過ぎね。もっと早く出来ないものかしら?」
「えぇ、もっと早く!?」
こいしが渋るのを見て白蓮は苦笑した。
「そうね、この問題は一番早くて七手で出来るのよ。こいしちゃんには難しいかしら?」
白蓮の台詞を耳にしたこいしは一転変わって、がぜんやる気になった。
「……七手かぁ。よし、やってみる!」
それが普段と変わらぬ死合いであろうとしても白蓮に提案された問題であろうとしても、こいしは負けず嫌いだったのでどんな遊びにしても勝ちたかった。白蓮の台詞をこいしは挑発と受け取り、再び輪っかの塔と睨み合いを始め、どうしたら効率良く輪を移動できるのかあれこれと思案を始めた。
だが、こいしにはやはり難問であった。先ほどはあれこれやっている内にいつの間にか完成したものの、頭を働かせても働かせても、その最短の解を得る事は出来なかった。
何故なら、こいしは考える事が苦手であったからだ。
「この小さい輪っか、邪魔だなぁ」
その瞬間を、ぬえはしっかりと見届けていた。
問題を解きあぐねていたこいしが、小さい輪をそこから抜き取り、背中の裏に隠した。
「やった!解けたよ!」
「あら、凄いわ、こいしちゃん!」
どうやら白蓮はこいしのイカサマに気づいてないらしい。
おそらく、こいしが「無意識を操る程度の能力」を発動したのだろう。白蓮はこいしが輪の中から小さい一つを抜いた事に気づかず、今彼女の目にはこいしが輪っかの塔を最短で完成させたようにしか映ってないのだろう。
白蓮がそれでいてぬえが気づけたのは、こいしが白蓮の無意識にのみ干渉したからであろう。この事を白蓮に報告するか、ぬえは一瞬迷った。
しかし、自分が箝口令を下されていた事と、白蓮が自分の忠告を聞かない事を思いだし、それに加えて目の前の事柄に大した関心も無かったので、ぬえはそれを思い留まった。
「ねぇねぇ、私出来たよ!何かご褒美頂戴!」
はしゃぐこいしを見て、白蓮は微笑んだ。
「そうねぇ、それじゃあ、ここらで種明かしでもしましょうか」
「種明かし?」
白蓮の台詞を聞いたこいしが不思議そうな顔をした。それを見ながら、白蓮は流暢に話し始めた。
「こいしちゃん、今あなたがやった遊びは、『ハノイの塔』と言うのよ」
「ハノイの塔?」
鸚鵡返しするこいしに向かって白蓮は頷いた。
「ハノイの塔はね、外の世界のとある場所に位置する、世界の中心と呼ばれるとても大きな寺院で毎日行われている遊びなのよ。今こいしちゃんには三本でやって貰ったけど、さっきぬえが一杯輪っかを持っていたでしょう?本場の僧侶さんたちは、なんと六十四本の輪を使ってこの問題を日夜解いているのよ」
「六十四本!?」
白蓮の話を聞いていたこいしが思わず声を上げた。
「それって、三つの棒の間を、さっき言ってたルールを守りながら移動させているって事!?それって、凄い時間が掛かるんじゃない!?」
「そう。実はね、この問題は『2^n-1』という公式のnの部分に移動する本数を当てはめれば、何てでそれが解けるかが分かるのよ。例えばこいしちゃんがやった三本なら、『2^3-1=2×2×2-1=7』、こんな具合にね」
「へぇ……てことは、二の六十四乗だから……2,4,8,16,32,64,128,300……えぇと」
「ふふ、2^64は、18446744073709551616よ。つまり六十四個の輪を移動するにはそこから一引いて、千八百四十四京六千七百四十四兆七百三十七億九百五十五万千六百十五回」
「うへぇ。そんなに手が掛かるの?それって全部解き終えるまでにかなり時間が掛かるんじゃあ……」
「一秒に一手進めるとすれば、完成させるには五千八百四十五億年掛かるわね」
「うわぁ……」
白蓮の口から出てきたその途方もない数字に呆気に取られ、こいしは口をあんぐりと開けた。
「この途方も無い作業を日々繰り返している外の偉大な高僧たちには感心させられますね。ところでこいしちゃん、その六十四のハノイの塔が完成された時にある事が起きるのだけど、それが何だか分かるかしら?」
「さぁ……」
こいしの返答を聞いた白蓮はにやりと笑った。
だが、そう思った次の瞬間、今までこいしに対して笑顔をずっと貫いていた白蓮の顔が一転して険しくなった。
「世界が崩壊するのよ」
突如その雰囲気を豹変させた白蓮を見て、こいしはびっくりして体を硬直させた。
戸惑うこいしを見てから、白蓮は表情を元に戻した。
「……ハノイの塔は、天地創造の時に神が人に与えた物、というお話なの。それは即ち、人類及び世界が破滅する時を知らせる時計のような物。六十四つの輪の意味は、人間の煩悩百八から四十四の自然の摂理および害悪を引いた数、つまり世界の崩壊は人間の意志や理性、社会が引き金となる……なんて言われているわ」
「……」
気むずかしく険しい顔をしながら首を傾げるこいしを見て、少し難しかったかしらね、と呟きながら白蓮は苦笑した。
「要するに、世界の崩壊は人の心から始まるという事よ。でもね、こいしちゃん。私はこの話はただの作り話だと思うの」
「何で?」
こいしの返事を聞いた白蓮は一瞬押し黙った。その間、彼女はじっとこいしの顔を見つめ続けていた。
白蓮の意図がよく分からなく、彼女の視線が煩わしくて、こいしは思わず目を逸らした。
しばらくの沈黙の後、やがて白蓮は意を決したように凛々しい顔つきになって、こいしに話し掛け始めた。
「それはね、人が破滅を恐れているからよ」
白蓮のその台詞を聞いて、今まで目の前の会話を聞き流していたぬえがその内容に初めて興味を抱いた。
それと同時に、こいしの表情が不機嫌そうに変わった。
「普通に考えれば、人間がこの先、何兆もの長い時間を生き永らえるはずがない。これは、破滅を恐れる人間の恐怖心が生み出したまやかしなのよ。まだ全然大丈夫、自分らの世界は安穏だと安心させる為にね」
ぬえはようやく白蓮がやろうとしている事に気づき始めていた。
それはこいしも同じのようで、彼女の言葉から見え隠れする意図を感じ取って、その場から脱したいのか、そわそわしながら辺りの景色を見渡し始めた。
「だけどね、こいしちゃん。これは悪いことでは無いのよ。人間はとってもか弱いの。その体も、心も。破滅を恐れる事は悪事ではないのよ」
周りの者達の様子には目もくれず、白蓮は依然として凛々しい顔つきのまま話し続けた。
「このハノイの塔を作った者が六十四もの膨大な輪を用いたのも、破滅の時が遠い未来である事を願ったからでしょう。それを解く僧侶たちも同じで、もしかしたらその解答作業を『故意で』間違えるかもしれない。例えば、目を盗んで輪っかを一つ加えたり、『輪っかを一つ取り除いたり』」
こいしとぬえの表情が一変した。
もしや、白蓮はこいしの所行に気づいていたのか!?
しかし、話し続ける白蓮の表情は全くもって変わっていなかった。もしかしたら、偶然話しが被っただけかもしれない。そう思い留まって、二人は彼女の話を聞き続ける事にした。
「これは私の身の上話になるけど、私もかつて人間だった時に過ちを犯したわ。破滅を恐れ、不老不死に手を出した。結果、紆余曲折経て法界に封印させられるという報いを受けた。私は死ぬのが怖かった。だから、禁断の魔法を習得して破滅の到来を回避しようとしたの。今の例なら、ハノイの塔に新たな輪を加えるという前者のやり方ね」
白蓮の話はこいしを不愉快にさせた。
こいしは白蓮の身上やその罪についてなど聞いているつもりは無かったし、その意図を感じとった今、今までただの遊びだと思っていた物が全て白蓮による巧妙かつ緻密綿密に組まれた自分を追いつめる罠だと彼女に感じさせていた。
「そして後者は、こいしちゃん、あなたよ」
それは一瞬であった。
白蓮の台詞を聞くや否や、突然こいしは立ち上がった。
そして、有無言わずに、その腕を白蓮の懐に突き刺したのだ。
「!?」
鮮血をまき散らしながら、こいしの腕が白蓮の鳩尾の奥深くにへと侵入していく。
「へぇ、死なないってのは本当だったんだ」
「白蓮!!」
口止めされていた事など忘れ、ぬえは思わず白蓮の名を叫んだ。
そして、こいしの発作的なその行動に怒り、彼女に憤りを隠そうともしないその形相で睨み付けた。
「こいし……あんた何やってるの?あんた自分が何をしているか分かってんの!?」
「……ぬえ、あなたは黙っていなさいと言ったでしょう」
こいしが腹の中で腕を動かす度に苦悶の表情を浮かべながら、顔を青ざめた白蓮が制止した。
「だって!!」
「いいから黙ってなさい……」
「……っ」
必死になって自分をなだめてくる白蓮のその表情を見て、ぬえは唇を強く噛んだ。
ぬえが黙ったのを見て、粗く呼吸をしていた白蓮がこいしに話し掛けた。
「こいしちゃん、あなたは心の破滅を恐れ、自分の輪っかを捨てたのよ」
「あのねぇ、『白蓮さん』、私はあなたのお説教を聴きにきたわけじゃないんだよ。私はここに遊びに来たの。そんなつまらない事しか言えないんなら、いい加減『私なりの遊び方』で付き合ってくれない?」
白蓮の言葉を遮るように、こいしは彼女の温もりを一杯に感じていた片腕を目一杯ひねった。それをする度に白蓮の腹からぼとぼとと紅い血液が流れ落ち、彼女は苦痛のあまり顔を引きつらせた。
そしてその表情を見て、こいしは心底嬉しそうに顔を歪めた。
頭の螺子が外れたこいしのその所業を見て、ぬえの顔はこみ上げる怒りのあまり真っ赤に紅潮していった。だが、その間も白蓮は横目でぬえを制し続けていた。
「……あなたの過去に何があったか知らないけれども、少なくともあなたはその過ちの報いを今こうして受けているわ。自我を失い、自分の本能のまま、見境もなく衝動的に動く、狂人になってしまった」
「あらまぁ、こんなになってもまだ減らず口叩けるんだ、凄いねぇ。あと、お姉ちゃんが言っている事は違うよ?私は人間でなくて妖怪だもの。お姉ちゃんが言ってる事は人間のことだから私には関係ない」
「果たしてそうかしら」
「……!」
白蓮は冷や汗を噴出しているその顔に怪しい笑みを浮かべながらこいしをじっと睨み付けた。
それを見て、その言いようのない気持ち悪さを彼女から感じ取ったこいしは思わず息を飲んだ。
「そもそも妖怪は人間の負の感情から出たもの。人間が母親であるその妖怪は、果たして人間と全く違うのかしら?今の私は『魔法使い』と呼ばれる妖怪の一種だけど、昔人間だった頃から何か物事の考え方が変わったかと言われれば、そうでないと自信を持って言えるわ」
白蓮は肩を大きく上下させながらも、依然として変わらぬ引き締まった表情でこいしを見つめ続けた。
「破滅を恐れるのは妖怪だって同じよね」
こいしは返事をせず、ただ白蓮を睨み続けていた。
そんな彼女を見て、白蓮は強張っていた表情を解き、微笑みかけた。
「……ふふ、さっきこいしちゃんがハノイの塔の問題を解いて見せた時、私には何故か『三手』で終わったように見えたの。三手で終わるということは、先程の公式から逆算すれば輪は二本でないといけない。私の勘違い、気のせいだと思っていたのだけど……」
白蓮はそう言うと、今までこいしに無抵抗に預けていた体を動かし、両手を大きく広げた。
そして、自分の内臓を握り閉めていたこいしの腕を、がっちりと掴んだ。
「やっと見つけたわ。『三つ目の輪』、そして、『こいしちゃん』」
「ちょ、は、離して!!」
白蓮に腕を掴まれ、驚いたこいしはその拘束を必死に振りほどこうとした。
しかし、がっしりと掴んでいた白蓮の腕は鋼鉄のように頑なで、こいしがその手で掴んでいた彼女の内臓を握りつぶしてみせても、白蓮は口から血を噴出すだけで、腕の力が全く弱まらなかった。
「ふふ、やっぱりあったわね、『一番小さな輪っか』」
動揺して思わず能力を解いてしまったこいしを尻目に、白蓮は彼女が背後に隠していた輪を見つけると、片腕でそれをひょいと持ち上げ、二本だけだった塔の上にそれを掛けた。
白蓮の拘束が片腕だけになったのを見て、これ見よがしにこいしは暴れて抵抗しようとしたが、しかし全く効果は無かった。
こいしは白蓮に恐怖を抱き始めていた。
「やめてよ!離して!離してったら!!」
「あなたが移した三つの輪の意味は分かるかしら?」
「知らない!そんなの知らない!!いいから離して!!!」
パニックに陥ったこいしを白蓮は変わらない微笑を浮かべながら、その腕を目一杯力を込めて握り続けた。
「大きい輪は社会。中くらいの輪は本能。小さい輪は自我、もといエゴを表していたのよ。さて、こいしちゃんはこの遊びのルールを覚えているかしら?」
「知らない!!知らない!!そんなの知らない!!」
「『小さい輪の上に大きいそれを乗せてはいけない』。それは何故か?そうすると、小さい物が大きい物に押し潰されてしまうからよ」
「~~~!!!!」
錯乱するこいしを見て、白蓮はそれを言ってから彼女の腕を離した。
こいしは飛び退いて、そしてすぐさま身を翻し、雄たけびを挙げながら白蓮に襲い掛かった。
しかし、白蓮は彼女が振り下ろした腕を、再び捕まえた。
「こいしちゃん、あなたはまだ幼い。まだ未熟なの。だから、そのルールを知らなくても仕方なかったのよ」
白蓮は彼女の攻撃に対して身構えたていたが、予測していた衝撃はやって来なかった。
こいしは泣いていた。
その目から溢れ返ってくる涙の海を、自制出来なかった。
目の前にいる僧侶の恐ろしい強さ、自分の力では歯が立たない事に恐怖した。
だが、彼女の言葉が自分の無意識の内に深く突き刺さっている事を悟っていた。
その自分の傷ついている場所がどこにあるのか、こいしには分からなかった。
それは白蓮が言った報いの意味だと無意識の内に知っていたが、もう自分にはどうする事が出来ない事も、知っていた。
かつて、さとり妖怪としてのアイデンティティを捨てた。それは、自己の破滅から逃れるため。自分の弱さから逃げるため。
だが、一時凌ぎで捨てた小さな輪も遂に見つけられて、ハノイの塔の完成の時が訪れた。
そしてこいしは、絶望したのだった。
「泣かないで、こいしちゃん」
狂い泣くこいしに、白蓮は優しく手を差し伸べた。
こいしは泣き喚きながらそれを拒否した。
「こいしちゃん……」
拒まれた手が赤く腫れるのを労りながら、白蓮は尚も暖かい眼差しで彼女を見つめ続けた。
「そう、今までそうやって独りで戦ってきたのね」
「……はん、独りの世界に逃げ込んでるだけじゃん」
白蓮たちの居場所から離れ、部屋の隅に逃げ込んで泣き咽ぶこいしの姿を見て、ぬえが呆れた表情を浮かべながら言い放った。
そんなぬえの台詞を白蓮はたしなめた。
「いいえ、それは悪い事ではないわ。例えそれが一時の発作的な感情から起こった過ちだとしても、それを悔い改めることができればいいの」
そういうと白蓮は再びこいしの下へ歩み寄って行った。
どのみち拒否される事を解っていながら、尚も彼女に近づこうとする己の姿をぬえが小馬鹿にしているのを肌に感じたが、それでも白蓮はめげなかった。
「こいしちゃんは優しい子なのね。だから独りで悩みを抱えて塞ぎ込んでしまった」
「……やめて!私にさわらないで!!」
白蓮が再び手を差し伸べようとすると、先程と同じようにこいしはが暴れながらむしゃらに腕を振り回して、その手を全身で拒絶した。
だが、白蓮は同じ轍を踏まなかった。
今のこいしには救いの手を取る事を促しても意味は無い。ならば、彼女に無理矢理それを獲得させる。
「こいしちゃん。あなたは勘違いしているわ、その己の罪状を」
「……!?」
白蓮は蠅を箸で捕らえるような俊敏な動きで、振り回されていたこいしの腕を捕まえた。
「や…だ……!離して!お願い!離して!!」
白蓮に目前まで迫られて、こいしの拒絶反応が更にエスカレートしていく。
その力は凄まじい物であった。しかし白蓮は微動だにしなかった。元は人間の身でありながら人妖共存の世界を目指していた彼女は、荒れ狂う妖怪のどんな剛力の前でも、その信念を貫かなければならなかった。
こいしの体を掴む腕に魔力を最大限に注入し続けながら、白蓮は一転して強張った表情になって彼女に言い放った。
「あなたの犯した罪は破滅を恐れる己の心に負けたからではない。その本当の罪は、周りの者たちにその悩みを打ち明けず、その者たちの事を一切考えずに自滅した事よ」
「!!」
白蓮の顔とその台詞で、必死に抵抗していたこいしの力が一気に抜けた。
やがてこいしに底知れぬ恐怖と絶望が込み上げてきた。
それは先程までニコニコしていたはずの白蓮が恐ろしい形相になったからで、そのプレッシャーから来る物なのか。しかしこいしはその感情が白蓮の方からでなく、己の心の奥底から湧いてきている事も知っていた。
「先程のぬえたちの話を聞くには、あなたにはお姉さんがいるのでしょう?」
「……お姉ちゃんなんて知らない!!」
こいしは体を震わせる恐怖に打ち勝とうと、最後の抵抗を見せた。
「なんで家族に相談しなかったの?同じ種族の妖怪同士なら、その悩みも分かちあえたでしょうに」
「お姉ちゃんは他人の事なんて何も考えてない!さとりの能力を使って他人に嫌がらせする性悪になんか私の気持ちは解らない!」
「それは違うよ」
白蓮とこいしの話をぬえが遮った。しかし、その口調から彼女なりの口出しの覚悟を感じ取れたので、白蓮はそれを咎めなかった。
「なに?あんたが何を知ってんの!?」
こいしが鬼のような形相で睨んできたが、話題に挙がった彼女の名誉の為にも、ぬえは決して怯む素振りを見せなかった。
「あんたは知らないだろうけど、私は地下で暮らしていた時に何度か姉のさとりと会ってるんだよ。確かにあいつは人の心を読んでからかってくる嫌な奴だったけど、私がそこに訪れる度に何度も妹の話をしていたよ」
「!?な、なんで……」
こいしが狼狽するのを見てから、ぬえは白蓮に視線で話の手綱を渡した。
「さぁ、なんでかしらね。あなたのさとりの能力で、お姉さんの心を覗いてみたら?」
「……」
もう少し引き延ばそうとしていた白蓮だが、しかしそれをやめた。
こいしの目から再び溢れかえってきた涙は先程と異質な物であり、何より素直らしい彼女が自分の説法をよく聞いてくれていた証だった。
ここまで来れば一安心、そう溜め息をついてから白蓮は申し訳なさ気にこいしに話し掛けた。
「あらあら、ごめんねぇ、少し意地悪し過ぎちゃたかしら」
泣きじゃくるこいしを見て苦笑いしながら、白蓮は優しく寄り添って彼女の頭を撫でた。
「でも、こいしちゃんも私の話を聞いてくれて嬉しいわ。あなたに帰る場所があるのなら、そこをこれからもっと大切にしてね」
白蓮の言葉に返事をするでもなく、こいしはひたすら泣き続けた。
こいしの感情が収まるまで、白蓮は嫌そうな顔をしたぬえを余所に微笑みながら彼女の側に寄り添い続けた。
「……こいしちゃん。私はあなたと、とてもよく似ているわ」
「……?」
しばらくして、おもむろに白蓮が呟いたのを見て、こいしは涙を拭いながら不思議そうな顔をした。
「私も過去に、破滅を恐れるあまり抗えぬ運命の輪に手を出した。あなたと同じような性格なの。だから、もし私がさとりの能力を持っていたら、きっとあなたと同じように重圧に耐えきれなかったでしょうね」
「……」
白蓮の柔らかい手に頭を委ねて、こいしは腫れ上がった真っ赤な目を細めながらじっと黙りこくった。
「そして、自分の勝手な自滅により、周りの者達に迷惑を掛けたのも同じ。本当にこいしちゃんと私はよく似ているわ」
そう言うと白蓮はこいしの顎を手にとって、自分の方へ寄せた。
「……?」
「他の者には解らなくても、私には解る事があるかもしれない。だからこいしちゃん、いつでもまたこの命蓮寺に遊びに来て頂戴ね。そうしたら、また私と楽しいお遊戯をしましょう」
白蓮はこいしの頬に優しく口づけをした。
突然の出来事に驚いたこいしは、顔を真っ赤にしながら白蓮から飛び退いた。
そして、自分を眺めながらにっこりと微笑む白蓮の姿を見て、こいしはもじもじとしながらその姿を無意識の中にくらませて、その場から走り去って行った。
「あん、痛いわ、ぬえ」
「知るか!あんたが勝手に無茶したんでしょうが!」
背中におぶさった白蓮が悲鳴を挙げるのをぬえは無視した。
こいしに貫かれた彼女の腹部から、背中越しに血が滲み出てきているのをぬえは感じ取っていた。
白蓮は一応不死身の体なので、少し弱ってはいるものの、このくらいの致命傷を負っていても正気を保っていられる事は知っていた。
だが、それにしても自分の足で歩けなくなるほど無理をしていた白蓮が、ぬえには癪であった。
「あら、なんか機嫌悪いわね。……あぁ、さっきこいしちゃんにキスした事に妬いているのね」
「……んなわけあるか!」
顔を真っ赤にして言い返してきたぬえを見て白蓮はクスクスと笑った。
二人は命蓮寺の縁側に着くと、昼間居たときと同じようにその場に座り込んだ。
「やれやれ、嵐のような一日だったわねぇ」
「……ふん、まぁいい退屈凌ぎにはなったけどね。星たちも幸い軽症で済んだみたいだし」
白蓮は腹を抱えながら座ると、ぬえに向かって頭を下げた。
「……ぬえ、ありがとう。私がこいしちゃんを諭している時に、彼女のお姉さんのことで助け船を出してくれて」
「……別にいいよ、そんな事。本当はあのさとりの姉、こいしの言う通り嫌ってたから」
ぬえはやりづらそうにしながらそっぽを向いた。
「ふふ、お姉ちゃんかぁ」
ぬえの不器用な返答を聞いて微笑んだ白蓮は遠い目をした。
「……そういえば、あんたも姉だったっけ」
「……そうね」
どこか上の空でいる白蓮を見て、ぬえは彼女の視線の先を側から見遣った。
妖怪の山に日が沈みつつあった。空は茜色に染まり、今日という一日が終わりを告げようとしていた。
その空に浮かんでいる、天狗が通った跡に残る一筋の飛行機雲を、白蓮はぼんやりと眺めていた。
「私の弟の命蓮が死んだ時、私は最愛の者を失う事とともに、死に対して恐怖した。星やムラサたちの事など考えもせず、不老不死という生きる者の禁忌に私は手を出してしまった」
「……」
白蓮が話し始めたのを見て、ぬえは黙ってそれに耳を傾けた。
「その大罪を私は償おうとしなかった。その結果、私は法界に封じ込められ、私を支持してくれていたみんなに多大な迷惑を掛けた。それでいて今この時をのうのうと過ごしているこんな私を命蓮が見たら、きっと叱ってくるでしょうね」
そよそよと吹いていた風が不意に止まった。
初夏に入った幻想郷の凪は、夕暮れの時間でもまだ蒸し暑く感じさせた。
「だけど、最近やっと分かったの。不老不死に手を出した私は、周りの者達がだんだんと姿を消していって、やがてこの世で一人きりになった時に、世界の破滅をこの目で見届ける。これが私の償いなのよ」
「……その破滅の時まで、あと六千億年弱か」
不意に白蓮がこいしにしていた話を思い出し、ぬえが呟いた。
「ビックバンで宇宙が誕生したのが百三十七億年前。まだまだこの先長いようで」
「あら、随分と物知りねぇ」
「……私が昔、京で暴れてたときに友達だった賢狐の入れ知恵だよ」
感心したように白蓮が唸ったのを見て、ぬえは苦笑した。
「……そう、その気の遠くなるような時間の間、私は周りのみんなが死んでいくのに耐えなければならない。不甲斐ない事に、私はちょっと自信がないの」
「私が……」
また風が吹き始めた。
その心地よいそよ風は、言いかけたぬえの綺麗な黒髪を優しく撫でていった。
一瞬びっくりした白蓮は、顔を赤らめて言い淀む彼女の姿を見てすぐにその意図を察し、嬉しそうに微笑んだ。
「なぁに?」
さとりでもないのに自分の心情を見透かしたような白蓮を見て、ぬえは顔を真っ赤にした。
「……なんでもないよ!せいぜい長生きして、私が老いて死ぬのをしかと見届けるがいいわ!!」
「あらあら」
怒ってそっぽを向いてしまったぬえを見て白蓮は嬉しそうにしながら、苦笑した。
「やぁねえ、こうやってあなたをからかって生きていけない未来なんかつまらなくてしかたないわ」
「あんたねぇ……」
疲れたように大きく溜め息を吐くぬえを見て、白蓮は悪戯な笑みを浮かべた。
「そうねぇ、頑張って勉強して、不老不死を解く魔法を開発しようかしら。そしたらぬえに最期を看取ってもらうの」
「そんなこと出来るわけ……」
ふふん、と鼻を鳴らしながら白蓮はぬえの顔を覗き込んだ。
「ねぇ、ぬえ。もしそうなったら、あなたはどうする?」
白蓮に促されて、ぬえはふと考えた。
もし、自分の目前で白蓮に死なれたら。
そんなことあるわけないと思いながらも、ぬえはそれを拒絶した。
なんだかんだ言いながらも、自分は白蓮を慕っている。彼女がいなくなった世界など、今や考えられずにいた。
もし彼女が死のうとしたら、全力で阻止することだろう。
そこまで考えて、ぬえは気づいた。
自分は白蓮と共に生きるこの世界の破滅を恐れていた。
そして、その破滅が訪れようものなら、彼女やこいしのように、自分が禁忌に手を出そうとしている事を。
もし自分がハノイの塔に手をつけるならどうするか。
白蓮のように永遠という壮大な輪を加えるか。
こいしのように小さな小さなエゴの輪を捨て去るか。
いいや、自分なら輪の中に正体不明の種を仕込んで、その輪を操る者を惑わすだろう。
そう、ぬえは思った。
誰にも興味を持たれなくなっただけだったような。
ムラサもぬえから聞いたとか
ネタがコア過ぎてわからなかったから調べてみたら、なかなかよくそれに沿って書いてあって感動しました!
破滅を恐れた二人ともう一人。何故過ちは繰り替えだされるのか、考えさせられます。
よく練られてるというか完成度が高いというか、そんな印象を受けました。
うん、感心させられた。すごいなぁ。
良いSSをありがとうございました。
私は、「原作と少しでも違ってたらそれは駄作」という人は好きじゃないです。オリ設定ですばらしい話もたくさんありますから。
ハノイの塔、っていうんですねあのゲーム。公式も初めて知りました。
そしてツンデレなぬえが良かったw
面白かったですよー。