私は命蓮寺の廊下を歩く。
足音も立てずに静かに、静かに歩く。
時刻は夜、それも深夜。もはや近くの人里の明かりも見えない時間帯。
もちろん命蓮寺の皆も寝ている時間………私とある1人を残して。
私は歩く、ある部屋に向かうため。御主人様に会うため。
月明かりが廊下に入り、さも幻想的ではあったが今の私にそんなものを感じている暇は無い。
歩き続けてまだ数分も経ってはいないが、目的の部屋の前に着いた私は足を止めた。
私の目の前には、異様な雰囲気を感じる大きな襖があった。
息をひとつ吐く。そして襖の前に正座をした私は口を開く。
「御主人様、本日の仕事のご報告に伺わせて頂きました。」
中からの返事を待つ。
「どうぞ、入室してください。」
優しい声が聞こえる、その声に私は背中を震わせながら、
「失礼、します。」
部屋の襖を開け、入室する。
その部屋には簡易な長机と、そこに座り、こちらに背を向けて書き物をしている『御主人様』の姿があった。
部屋は和室で、床はもちろん畳であり、部屋には薄暗い明かりが着いているだけだった。
私が入ってきたのかわかったのか、御主人様はその身を私のほうに向ける。その顔は笑顔だった。
私は御主人様の近くに正座し、頭を地面に付け、土下座の格好をとる。
「本日の仕事内容についてのご報告が…」
「お待ちなさい、ナズーリン。」
冷たい声が響く。その瞬間、髪をぐっ!と掴まれ無理やり顔を上げさせられた。
「あぐっ!」
私はその痛みで情けない悲鳴を上げてしまう。
「何ですか、その悲鳴は?仕事の報告に雑音は無用ですよ。」
「も、申し訳ございません。」
再び頭を深く下げるも、先と同じように髪を掴まれ顔を上げさせられた。今度の痛みは何とか我慢した。
目の前には御主人様の顔があった。顔は笑ってはいるものの、その冷たい瞳にはそんな雰囲気は全くといっていいほど無かった。
「どうして、こうされているかわかりますか?ナズーリン。」
「……申し訳ございません。私ほどの頭では到底理解できないように思われます。」
御主人様はにやりと笑う。
「そうでしょう、そうでしょう。ですからこの私が親切に教えて上げます。」
「は、ありがたきお幸せにございます…それでその内容とは…?あうっ!」
次はそれなりの勢いで地面に頭を押さえつけられる。突然のことに再び声をあげてしまうが、今度は戒めはなかった。
私の頭を地面に押さえつけながら、御主人様は冷たい声で私に話す。
「入室の際は『失礼します。』では無く『失礼いたします。』と教えたはずですよね。ナズーリン?」
「は、い。仰るとおりでございます。」
まだ頭を地面に押さえられながら私は口を開く。
「謝罪をいたしなさい。」
「は、い?」
押さえる力が少し強まる。
「今、この場で貴女のした愚行に対する謝罪をいたしなさい。自分の部下の不始末は正しい『躾』を持って正さねばなりませんので。」
「…………」
「さぁ、早くいたしなさい!」
びくっと体が震えた。まだ顔は押さえつけられたままだった。
私は怯えながらも何とか口を開いた。
「…私ナズーリンは、本日御主人様の部屋への入室の際、失言をいたしてしまいました。今後その様な愚行を二度と行わないように日々気をつけるのでどうか、お許しください…」
「どのような『躾』を受けても、どのようなことを命令されても文句はありませんね?」
「はい、ございません…」
「そうですか、なら………」
私の頭を押さえていた手がすっとどけられたと思えば、突然体全体を『ぎゅっ』と抱き締められていた。痛いほどに。ふかふかしていてそんなに痛いわけでもないが。
「もうやめましょう、ナズーリン。貴女の痛がる声と苦痛に染まる顔は見たくありません…!」
はぁ、とため息を1つ吐いた私はご主人の腕を軽く解き、ご主人の顔を目の前にしながら口を開く。
「言ったじゃないか、ご主人。私は大丈夫だって。」
「それでも、威厳を出すとかのために貴女を傷つけることなんて出来ませんよ…」
さっきとは打って変わって泣きそうなご主人の顔。全く、これだから困っているのだ。
「前にも言ったけどね、ご主人…」
私のご主人である『寅丸星』は優秀な毘沙門天様の代理、部下である。
その仕事ぶりは、凄まじいもので多面にわたりその成果を出していた。
日々の命蓮寺のスケジュールから、説法、炊事、洗濯、掃除までありとあらゆる分野に通ずるというハイスペックなご主人ではあったが、その一方で問題もあった。
その優秀さからか、裏を返すと途端に失敗をしてしまう駄目なご主人になってしまう。
あの時の異変も宝塔を無くしたり、その後もいろいろなものを落としたり無くしたり。若干泣きそうになりながら私に探してきて欲しい。と頼む姿は些か毘沙門天様のそれとは程遠いものがあった。
探すのはいつも私であり、見つけてご主人に渡した時のご主人の嬉しそうな表情は大好きだ。こちらも探してきた甲斐があるというもの。
しかし、それではいけない。毘沙門天様の代理を勤めるご主人がそれではいけないのだ。
「だから、こうやって少しでも迫力を出せば、自ずと威厳も出てくるというものじゃないかい?ご主人。」
「確かに、そうかもしれませんが…」
私はぶっちゃけるとそんなに頭が良い訳じゃない。人(?)一倍機転が働くだけだ。
その小さな頭で必死に考えたあげくに出た結果が、まずは迫力を出そう、ということだった。
そうするにはどうしたらいいのか?
そう考えるとご主人が誰かを思いっきり叱ればいのじゃないか。と閃いた。
その役は誰が?私しかいないだろう。
その案をご主人に申したのが数日前、初めはおどおどしていたご主人も今では私を震え上がらせる程までにはなった。大した進歩だとは思う。
だが、いつも最後まで続かない。ご主人の心が折れるのだ。芯まで相手を追い込めていない。
「私は威厳なんか必要ないんじゃないかと思うんですよ。ナズーリン。」
「どうしてだい?」
こうやって深夜にそれをやるのは皆に見られたくないため、だそうだ。
どこまで優しいのか、どこまで温いのか。どこまで臆病なのか。
「私は、今こうやって命蓮寺で皆と過ごせて毎日が楽しいです。ナズーリンもそうでしょう?」
「…まぁ、そうだろうね。」
「そうでしょう?だったらこのままでいいじゃないですか。皆と楽しく過ごせて笑って食卓を囲んで…」
「…っそれじゃ駄目なんだよご主人!!」
つい、叫んでしまう。別に今までなかったわけじゃない。ただ気がついたら叫んでいるのだ。
ハッとなる。ご主人は悲しそうな表情をしている。
気まずい雰囲気で、私はどうしようもなく愚か者で。馬鹿で。どうしようもない奴で。
「少し、頭を冷やしてくるよ…」
「あっ、ナズーリン!?待って、待ってください!」
気がついたら逃げる。何と卑怯なことか。何と臆病なことか。
ご主人の体をすり抜け、伸ばされた手をかわし、外に出る。
廊下から空に向けて飛び出す。あっという間に命蓮寺は小さくなっていった。
まだ深夜なのか、真っ暗な夜空を飛びながら激しく後悔をしていた。もちろんこれが初めてではない。
だが、
「ご主人…」
僅かな呟きは誰の耳にも届かなかった。
***********
「あっ、ナズーリン!?待って、待ってください!」
伸ばした手をあっさりかわされ、ナズーリンは夜の空へと飛び立ってしまった。
1人和室に取り残された私は、苦しい痛みに悶える。
「また、やってしまいましたか…」
ナズーリンはあれほど私の為に体を張ってくれているのに、それに対し私と来たら…本当に情けないと思う。
毘沙門天様の弟子として、ナズーリンのご主人として。
どうして、自分はこんなにも臆病で、こんなにも弱いのだろうか。
「私は、どうしたら…」
1人、悲しみにくれる。涙は流さない。ナズーリンと昔した約束を思い出す。
『ご主人、いいかい?まず威厳あるものは涙を流さないことだと私は思う。』
『は、はぁ…』
『わかってないね……そうだね、それじゃご主人。』
『はい?』
『毘沙門天様の泣いている姿を見たことがあるかい?』
『…え?あるわけないじゃないですか。毘沙門天様に限って…』
『そうだろう?だけどね…』
ナズーリンは毘沙門天様もお泣きになることを教えてくれた。
いくら武神で四天王の1人とはいえ、万能ではない。
悲しみにくれることもある。どうしようもなく涙が溢れることもある。
ナズーリンは続ける。
『毘沙門天様は誰かには絶対に泣いているところをみせないんだ。だから皆からは恐れられもするし、尊敬もされるんだろうね。』
だからさ、とナズーリンは続ける。
『ご主人も無理にとは言わないが、やってみてはどうだろうか。泣かない者は強く見えるっていうのは昔からの言葉さ。』
『……わかりました。出来る限りやってみようと思います。』
『………ん。』
『はい?何ですか?』
『いや、何でもないんだ。気にしないでくれ。』
『はぁ…』
それから私は人前で涙を流さないように努力をした。
それに加えて、1人のときも泣かない様にした。この幻想郷どこで誰が見ているかわからない、それに目標を超えるにはそれ以上のことをしなければならないのだ。
毘沙門天様が1人でお泣きになられるのであれば、私はどこで、何をしようが涙は流さない。そう決意した。
あの時、ナズーリンが何を言ったのか、今でもわかってはいない。
外はまだ明るみを微塵も感じさせないように黒く染まっている。
追いかけようとするが、体がそれを許さない。
『行くな、追わなくていい、また帰ってくるだろう、今までそうだったじゃないですか。』
甘い囁き、悪魔の囁き。
違う、悪魔なんかじゃない。これは私自身の叫び、どうしようもなく弱い自分の囁き。
必死に振り払おうとする。すぐにでも外に飛び出してナズーリンを探したい。
しかし、動かない。
あまりの自分の無能さに怒りが湧き出る。歯がぎりぎりと鳴る。
何て弱いのだろうか、何て臆病なのだろうか。
どうして、私は毘沙門天様の弟子なのだろうか?
どうして、
どうして、ナズーリンのご主人なのか。
「ナズーリン…」
その呟きもまた、薄暗い部屋に吸収され誰の耳にも入ることは無かった。
寅丸星は、何かと立場に縛られて悲しい思いをしている作品が多いと思います。
星ちゃんは神主に見捨てられた子なんだな…って
ぜひ、続いてほしい作品ですね。