六月。春と夏の合間の、梅雨の季節である今、朝から気持ち良く晴れる日は、とても貴重だ。
そんな日は、洗濯物が外に干せる、と朝からひたすら洗濯に打ち込む。太陽の熱で断然乾きが早くて助かる。
けれども、その晴れ間に清々しさや爽やかさは一切ない。
昨日の雨の名残がある湿度の高い嫌な空気が、霧のように肌に纏わりつく。
地面に溜まる水溜りが蒸発して、ますます湿度を高めているような気がする。
多分に水を含んだ大地に太陽がじりじりと照りつけ、窓を閉め切った浴室のような環境を作り出している。
息を吸い込めば、喉の奥までむっとする。全身を舐めるように漂う空気が重くて不快だ。
せめて、湿度が高くて涼しいか、湿度が低くて暑いかの、どちらかだったら良いのに。
これじゃ、蒸し風呂に一日籠っているようなものね……、と思うと、気が滅入ってくる。
幾度目かの洗濯を終えて、一日中、日が当たる時計台に黙々と干していると、ひょっこり美鈴が顔を出した。
後で、紫陽花でも見に来ませんか? と誘われる。昨日、雨が降ったから艶やかで綺麗ですよ、と。
とても魅力的な誘いではあるけれど、この暑い中、必要以上に外に出るのはな……とも思った。
纏わりつく髪が蒸すのか、美鈴は珍しく髪を一つに結わえている。
普段は、髪をほどいたときに結んだ跡が残ると真っ直ぐに流れないから、結わえないはずなのに。
一日外で働く美鈴でさえ、暑さに耐えかねているのだから、少し歩いただけでしんどくなるに違いない。
洗濯物の皺を伸ばしながらしばし無言で考えていると、美鈴はきょとんとした顔で首を傾げた。
行くか、行かないか、珍しく即断しない私を不思議に思っているに違いない。
例えば、仕事が忙しいから無理とか、当たり障りのない嘘をつくのはとても簡単だったけれど、せっかく誘いに来てくれた美鈴に悪い気がして、素直に、暑いからしんどいわね、と伝えた。
首を傾げていた美鈴は、あぁ、と笑うと、じゃあ、夜にでも行きましょう、と提案してきた。
夜? はい。夜は夜で、綺麗に咲く花がありますから。
そう、まぁ、夜なら。何か我儘言って悪いわね。いえ、私が誘ったんですから、気にしないでください。
こういう、すんなり自分の要求が通る時、上司という立場を利用してしまっているな、と思う。
でも、悪いなと思いつつ、それを改めようとしない自分がいる。何と言っても楽だから。
じゃあ、夜に。と、約束を取りつけた美鈴が嬉しそうに去っていった後、皺を伸ばした洗濯物を干した。
例えば、大量の洗濯物を干すのに時を止めてみても、この暑さは変わらない。
それならば時を止めずに洗濯物を干していたほうが、幾らか気分が楽だ。
その分、早く夜が来る。そうすれば少しは涼しくなる。
とにかく暑くて仕方なくて、滲み出る汗に眉を顰めながら、てきぱきと洗濯物を干した。
室内はお嬢様の気が働いているのか、どこかひんやりとした地下道のような夜の気配に満ちている。
それを目当てに、この時期、この館を訪れる人の数が増える。
霊夢、魔理沙を筆頭に、涼を求めて館の奥の図書館で本を読みながら、皆だらだら過ごしている。
今日は昨日の雨のせいで蒸し暑いことこの上ないから、昼過ぎには暑さに耐えかねて顔を出すだろう。
忙しい中、冷たい飲み物を淹れろ、と言われるのも腹立たしいことこの上ないから――まぁ、そんなこと言われたら、確実にナイフを投げる自信があるけれど――今日も小悪魔に、パチュリー様がお飲みになるアイスティーと一緒に来客者の分も出してもらえないか頼んでみよう。彼女は物分かりが良くて非常に助かる。
全く、客というものは気楽で良いわね、と独り言ちて、太陽を睨んだ。
刺すような暑さだ、と思いながら、去って行く間際に見つめた美鈴の、露わになった首筋が日に焼けてしまわないだろうかと気になった。あの長い髪に隠された白い首筋が日に焼けるのは勿体無い……と真顔で思ってしまうあたり、私は今相当暑さにやられているに違いない。
汗で張りついたこめかみの毛を払った後、洗濯物を干す作業に没頭することにした。
茹だるような暑さは、やましい思考を生む。水分が奪われて皺になる前に、すべて干し切らなければ。
夜。今日は洗濯のために朝早くから立ち働いたので、二十一時過ぎには自室に引き上げることが出来た。
夜に活動するお嬢様の朝までのお世話は、信頼のおける妖精たちに頼んである。
そういえば、夜とは言いつつも、具体的な約束の時間は決めてなかったな、と思いながらも悠長に冷たいミントティーを飲んでいると、コンコンと礼儀正しいノック音がして、美鈴の来訪を告げる声が聞こえた。
「今、お時間は大丈夫ですか?」
「えぇ、ちょうど引き上げたところだから。外に行く前に、冷たい飲み物でも飲む?」
「わ、ありがとうございます。頂きます」
部屋に招き入れて、ミントティーの残りを飲み干すと、腰かけていた一人用のテーブルセットに美鈴を座らせた。
飴色のミントティーの色が綺麗に見えるガラス製のポットから、マーガレットが描かれたグラスに注いだ。
カシン、とポットの中の氷が僅かに音を立てる。どうぞ、と勧めると、自分はベッドの端に腰をかけた。
暑さで喉が渇いていたのか、美鈴は良い香りですね、と深く息を吸い込むと、すぐに飲み干してしまった。
ベッドに腰かけて軽く身体を揺すりながら、私はその一部始終を眺めた。細い首が動く。さらさらと髪が流れる。
昼間結んでいた髪はほどいてあり、意識して見れば薄っすらと結んだ跡があるように思える。
一日、日に照らされていたであろう項は痛まないだろうか、と気になった。
何だか今日は、無防備にさらけ出された目の前の白い首筋が気になってしょうがない。
「髪、長くて夏場は暑くないの」
何気ない雰囲気を装って尋ねると、美鈴はそうですね、と笑って、
「長いのが気に入ってて。うっとうしい時もあるんですけどね」
「そういえば今日は珍しく結わえてたわね」
「はい。さすがに暑くて。後新しいヘアゴムを買ったので、良い機会だしつけようと思ったんです」
「貴女、髪に跡がつくの嫌って言ってなかった?」
「よく覚えてますね。なので、どうせ跡がつくなら、気に入ったヘアゴムをつけようと思って、買ったんですよ」
「そう」
美鈴のつけていたヘアゴムはどんなだったかな、と思い出そうとするも上手く思い出せない。
その時はもっと別のものに気を取られていたから。
「どんなヘアゴムつけてたの?」
「ひまわりです」
向日葵か。夏の代表花。美鈴には似合いの花だ。
「人里の店に行ったら可愛いのがいっぱいあったので、季節の変わり目にまた買おうと思ってます。桔梗とか、紅葉とか」
「コスモスとか?」
「あぁ、コスモスも良いですね。――あ!そうだ、無花果が実をつけたら、ジャムを作ってくれますか?」
「……別に良いけど、話が飛躍したわね」
呆れ顔を作ってみせると、美鈴は、はっとした表情になって、すみません、と困ったふうに笑った。
「話がどこかに飛んでくとか、ころころ転がってくとか、よく言われます」
「知ってる」
誰に言われた感想なのか気にならないわけではないけど、まあ良い。
立ち上がると、空いたグラスはそのままで構わないから、と告げて、二人で部屋を出ることにした。
美鈴とまったり話し続けるのもやぶさかではないけれど、本来の目的を果たせずに終わりそうだ。
夜は長いようで短い。一人で過ごす時間なら幾らでも伸ばせるけれど、誰かと一緒となるとそうもいかない。
例えば、時を止めた世界に誰かを導けるなら……と思考を巡らせたところで止めた。
まるで狂気じみている。私と魔法使いというものを別つ点は、きっとそこにある。
今ある力を、今以上のものにしようとは思わない。ただ、最大限に活かすだけだ。
館から一歩外へ踏み出すと、むっとした空気が全身を撫で、夜になっても暑いのかと思わず眉を顰めた。
その瞬間、幾分涼しい微風が頬を撫ぜ、ほっと表情を戻した。
その隣で美鈴はと言えば、星が綺麗ですよ、と暢気に空を見上げている。
貴女のほうが綺麗よ、とお決まりの台詞を囁いてみたら、えっ! と予想通りの反応が返ってきて思わず笑ってしまった。
からかわれたと思ったのか、美鈴は黙り込む。別に、からかったつもりはないんだけどな、と心の内で呟いた。
庭園に足を踏み入れ、美鈴の後をついていくと、前方に蛍火のようにほの明るい黄緑色の光が見えた。
でも、蛍ではない。蛍より大きい何かが、自ら光を放っている。
「あれ、何?」
「行けば分かりますよ」
光る何かは、今が盛りの紫陽花の下に群生していた。
まじまじと見下ろしてみると、無数の小さな黄色い花が、慎ましやかに花開いている。光の元は花だった。
「……月見草?」
「はい。あ、でも、正式には子待宵草と言います。月見草とは別物ですが、夕暮れ時に咲くのでよくそう呼ばれていますね。俗称、というやつです」
「この花は、発光するの?」
「いえ。これは魔理沙がやったんです」
「魔理沙が?」
どうしてここで魔理沙が出てくるのか、と訝しむと、非難されたと思ったのか美鈴は慌てて弁明を始めた。
「あ、いや、えと、これはですね、前に魔理沙に紫陽花をあげた時に」
「あげたの?」
「少しだけですよ。だって綺麗に咲いてるなって褒めてくれるんですもん。あげたくなっちゃうじゃないですか」
「ふうん」
冷やかな相槌を返すと、美鈴はばつの悪そうな表情になった。
「う……その時ですね、そうだ、礼に良いことしてやろう、って言ってポケットから小さな袋を取り出して、傍にあった子待宵草にきらきら光る粉を振り撒いたんです。それで、日が暮れたら見に来てみろって言われて来てみたら、花がほんわり光るようになってたんです。……素敵だと思いませんか?」
「そうね。確かにね」
一体何を振り撒いたのやら。おおかた魔法の研究の過程で偶然生まれたものだろう。
何にせよ、自分には真似出来ないことだ。魔理沙だから出来ること。
私は、時を止めて花を咲かせ続けることなら出来るけれど、それは他の誰かと共有出来ることではない。
「まあ、綺麗だと思うわよ」
「良かった。私が咲夜さんに見せたかった花はこれなんです。夜ここに来れるなら、蛍みたいで綺麗だし、一緒に見たいなと思って」
「そう」
美鈴がしゃがみ込んだので、それに習った。
指先で花弁に触れながら、何だか星を掴んでいるみたいね、と言ったら、美鈴は、わ! それ素敵ですね、と嬉しそうに笑った。早速、手のひらでそっと花を覆う。淡い光が手指の隙間から零れた。
唐突に、今時を止めてしまいたいな、と思った。
でも、自分だけ動けるのでは意味がなくて、美鈴と一緒にその世界を共有したい。
生まれ持った力を最大限活かせれば満足だと思っていたいのに、こういう時、ふいに決意が歪む。
発展させたいと欲深く思うのは、人の業なのかもしれない。発展させればきっと、狂気と隣り合わせの強い力になってしまうような気がするけれど、でも人ならざる者に仕えていて、何を戸惑う必要があるんだろう。
美鈴の手のひらに手を重ねると、少しだけ跳ね上がった。
光はまだうっすらと漏れ続けている。手の内にある光を共有する。
「掴まえた」
「……何をです?」
「そうきたか」
意味深に下から覗き込まれて、表情を緩めた。変な時ばかり鋭い。普段はてんで鈍いくせに。
「何て言ったら、貴女は喜ぶの?」
「それは……」
口ごもる。そこでねだらないと駄目じゃない、と思うけれど、そこが美鈴らしいとも思う。
「私は夜空に瞬く星には興味ないわ」
「え……」
「それに人が掴めるものは限られてる」
息を飲む美鈴を尻目に手を離すと、戸惑うことなく花を一つ摘み取った。
それは美鈴が、あっ、と声を上げた瞬間、花火の終わりのように淡い光が静かに消えて、元の花びらに戻った。
それを美鈴の耳元に挿す。
「流れ落ちた星を髪に挿す気分はどう? 素敵でしょう」
「……意地悪ですね」
そう言いながらも、美鈴は挿された星の成れの果てをそっと撫でる。
もう一度腕を伸ばして、美鈴の髪を撫で、指を差し入れた。項に触れると僅かに汗ばんでいる。
ちょっ、咲夜さん! と慌てて窘められた。
何よ、誘ったのはそっちのくせに、と心外そうな表情を浮かべると、そんなことしてません! と全力で否定された。
全く心外だったので、手をそのままにすると、美鈴は首根っこを掴まれた猫みたいに背を丸めた。
「日焼け、痛まない?」
「少しだけ……。そう思うなら触らないで下さいよ」
「じゃあ、何で逃げないの?」
「……掴まえたって、言ったくせに」
拗ねたような口調になる。少しだけ意地悪が過ぎたかなぁ、と思って、髪の上に手を戻した。
「夏が終わりに近付いたら、新しいヘアゴムを買ってあげる。どんなのが良いか、決めておいて」
囁くと、美鈴は嬉しそうな、それでいて悔しそうな表情を浮かべた。
「ありがとうございます。でも、それなら咲夜さんが選んで下さい」
「そうねぇ……じゃあ、一緒に選びに行きましょうか」
「本当ですか? 約束ですよ」
くっと丸めていた背を戻して、今度こそ美鈴はふんわりと笑った。はっとするような、笑顔。
その瞬間を切り取って、我が物にしたいと思う。永遠に二人で、温かな想いを共有したいとも思う。
でも、せっかくの約束も果たしたい。そうなると季節が流れ続けていかなければならないわけで、人間は――と言うか自分は――本当に我儘だなと思う。
ほんの少しだけ時を止めて、ほんの少しだけ唇を寄せて、もう一度首筋に手を這わせた。
この首筋に自分の贈り物が映えるのは悪くない。
カチ、カチ……と頭の中で呟きながら時を動かすと、はっと目を見開いた美鈴に、あれ? 何だか近くないですか? と驚かれたので、二人の間の空間をゼロにしたのよ、とうそぶいた。
そういえば、そんな力もありましたね、と気恥ずかしそうに目を逸らす美鈴に、やんわりと微笑みかける。
長い髪に手を差し入れられていることに気付くのは、いつだろうか。項を触れられていることに。
そう思った瞬間、はっと弾かれたように顔を向けたので、何か言われる前に抱きしめた。
……だって、掴まえたから、という言葉で動きを封じて、首元に顔を寄せる。
髪に隠された項がすぐ傍にある。噛みつけそうな位置に。
僅かに身体を震わせて息をのむ身体を、ぐっと引き寄せた。
高めの体温を感じながら、あぁ、時が止まれば良いのにな、と、やはり思わずにはいられなかった。
それは、掴めぬ星を手に入れたいという願いより、よほど欲深くて、やっかいな感情だ。
人間だからこそ抱いて、人間だからこそ持て余す、どうしようもない願いなんだろう、きっと。
カチ、カチ……と頭の中で呟きながら、咲夜さん、と困ったように囁く腕の中のぬくもりを、しばし堪能することにした。
暑さがどっか行きましたよ。