「クビよ」
指定されていた時刻ギリギリに執務室へ転がり込んだ私に、閻魔様は全力疾走で火照った身体が一気に凍りつくほど冷たい声で言った。
「おはようござい――は?」
噛み合わない挨拶は途中で止まり、代わりに飛び出たのは我ながら何とも間抜けた声だった。
上司の細い肩越しに見える窓の向こうには昼も夜もない彼岸の空が今日も憎たらしいほど爽やかに澄み渡っていて、ああいい天気だなぁ畜生とかそんな益体もない言葉が漏れそうになったりして、そんなんどうだっていいからちょっと一ッ飛びしに行きましょうよとか考えちゃったりして、いやいやそうじゃないだろ小野塚小町。
クビ。馘首。職を失う事。
待て、待て待て待て――私は片手で額を押さえて、ここ最近の素行を玩具箱を引っくり返すように脳裏にばら撒いた。何かしたのか私、何をしたんだ私。
善人とは言い難い者ばかり選んで運んでいるとはいえ、近頃は何とかノルマを達成している。比較的真面目にやっているし、息抜きの数も度を越すほどではなかったはずだ。勿論不正なんぞはやっちゃいないし、お偉いがたのご機嫌を損ねたような覚えもない。結論、理解不能。
「な、何で――」
唐突過ぎる事の怒りや絶望よりも先に、納得出来ない感情が口をつく。敬愛すべき四季映姫・ヤマザナドゥは「落ち着きなさい」と言いながら椅子から腰を上げ、自分の胸に手を当てた。
「クビになったのは――私よ」
「はああぁっ!?」
当社比二・五倍の大声に出した自分が驚いた。いやいやそんな事よりも、一体何がどうなって。
「クビって、四季様がですか? 本当に? あたいじゃなくて?」
言いながら私は暦を確認する。嘘吐きの日にはまだ二百五十日以上。
「今日付けで懲戒免職よ。まあ、それで済むのだから温情をかけて貰えたのでしょうね。私情に偏った裁定を下した罪に対する罰としては」
「……何ですか、それ」
入り口で足を止めたまま、私は呟くように言った。
「――強盗に一家を惨殺された男性でね。二十年かけて仇を討って、そして自らも命を絶った。どうしても地獄には落とせなくてね」
「嘘でしょう」
「本当だと言ったら?」
四季様は儚げに笑った。
「はっ」
つられて私も盛大に笑う。「はっはっは……」
ガン、と入った扉をブン殴る。その向こうで誰かの引き攣れたような悲鳴が聞こえた。
「見損ないましたよ」
精一杯の怒りを込めて四季様を睨み付ける。
「そんな与太話を、あたいが信じると思ってたんですか」
「……小町」
「有り得る訳がない。老いも若きも男も女も指先一つで容赦なく奈落へ叩き込み厳粛に冥界へ送致する、鬼神も避けるヤマザナドゥでしょう。白は白で黒は黒。たとえ他の誰がやったとしても、貴女だけはそこを揺らがせたりはしないはずだ」
そうでしょうがと私は睨む。
四季様は溜息と共に苦笑した。.
「貴女と仕事をして長いけれど、久々に貴女が部下で良かったと思ったわ」
「……四季様」
「その通り、正解よ。そんな事は有り得ない。けれど、『そういう事になっている』。そして裁定はもう下ってしまった。だから」
これでさよならよと言って、楽園の閻魔はその冠を脱いだ。
* * * * *
そんなのってあるか――中有の道をとぼとぼと歩きながら、私は誰にともなく呟いた。
辺りは今日も死者達の出店で賑わい返っている。馴染みの店から次々に声が掛かるが、景気良く笑い返す気にはとてもなれずに、私は「やぁ」と気の抜けた声を投げてひらひらと手を振るに留めた。賑やかであればあるほど、私の心は反対にずぶずぶと沈んでゆくようだ。
何とかならないんですか、と私は殆ど怒鳴るように訊いた。明らかな冤罪だ。いや、それどころか誰かが彼女を陥れる為に仕組んだと考えなければ説明がつかない。しかし四季様はただ黙って首を振るだけで、怒りの声一つ上げはしなかった。訴えたのは誰ですと訊いても答えられないの一点張りだ。殺気立ち過ぎたのが不味かったかと今になって思うが、終わった事を悔いても仕様がない。
私達の裁きには上訴も再審もない、知っているでしょう――諦め切った顔で言う彼女の姿が脳裏をちらつく。閻魔の座を追われて尚、四季様に彼岸の法に背く意志はなかった。
顔を上げると既に中有の道は遥か後方だった。すぐ右手にはもう妖怪の山が聳えている。
「ああ、くそっ」
行く手を阻むように突っ立つ大木に、私は怒りのままに鎌を振るった。軌跡の延長線上に紫電が走り、太い幹に炸裂して枝を大きく揺らした。
「きゃああっ!?」
「え?」
予想だにしない悲鳴に大木を見ると、ばきばきと枝葉を散らしながら一人の少女が地面に落ちた。
やべ、やっちった――自分の衝動的な行動に今更恥じ入りながら、私は慌てて少女の下へと駆け寄った。
「ごめんよ、人が居るとは思わなくって――……って、何だ天狗か」
「何だって何よ!」
天狗ががばっと上体を起こして私を睨む。「人を叩き落としといて随分な言い草じゃない」
「ああ、いや――すまん、悪かったよ」
見覚えのない天狗だ。許してくれと頭を下げたが、彼女は怒りが収まらない様子で私をびしりと指差した。
「もうサイテー! 折角いい記事が浮かびかけてたのに飛んじゃったじゃない! オトシマエつけてもらうわよ!」
そのままぶんぶんと腕を振る。何と言うか、随分と若い。
「ああ、解った解った」
面倒臭い事になったと思いながら私は言った。「解ったから立ちなよ。スカート捲れてるからさ」
「ふぁっ!?」
天狗は慌てて跳ね起きると、市松模様のスカートについた埃を誤魔化し臭く払いながら片手を突き出し、真っ赤な顔で「さ、三百円!」と言った。高いのやら安いのやら。
「貴女、小野塚小町ね」
こちらは知らなくても、彼女は私の事を知っているらしかった。
「有名だもの、文の新聞にもよく出てるじゃん」
「……非常に不本意ながらね」
姫海棠はたてと名乗った天狗は、知っていると言う割に周りをぐるぐると歩き回りながらしつこく私を眺め倒した。花果子念報という新聞を発行しているらしいが、生憎耳にかすった覚えもない。
「死神がそんなに珍しいかい」
「って言うか、貴女がねー。生で見るとやっぱり違うなぁ。写真より美人ね、お姉さん」
「……そりゃどーも、お嬢さん」
どうでもいいから早く何処かへ行ってくれ。
適当にあしらいながら徐々に歩調を速めるが、私に纏わりついたままはたては一向に離れようとしない。
「……いつまでついて来るんだい」
とうとう根負けして私は足を止めた。
「ふふん」
はたては踊るようなステップで私の前に出ると、何故か得意げな様子で言った。
「言ったじゃん、オトシマエつけてもらうって。折角浮かびかけてた記事を台無しにしてくれたんだから、新しいネタが手に入るまで取材させて貰うわよ」
やれやれと私は溜息を吐いた。
「悪いけど、今はそういうのに付き合ってる場合じゃないんでね」
お詫びはまた今度なと言い置いて距離を操る。次の瞬間には、私の姿は妖怪の山を半周も回った木陰にあった。
はたての眼には忽然と消えたように映っただろう。私の事を知っているなら私の能力も理解しているかも知れないが、していたところで私を追跡する事は出来まい。やれやれと呟いて、私は更にその場を離れるべく歩き出した。
「ふぅ」
手近な岩に腰掛けて、私はこの先どうしたものかと思案した。
どうにかして判決を撤回させたいが、上手い智恵が思い浮かばない。そもそも、そんな事は可能なのだろうか。金剛不壊極まる彼岸の裁定である。たかが船頭死神一人に何が出来ると言われればさてどうでしょうと答える他はない。
だが、可能だろうが不能だろうがこのまま黙って沙汰を呑むような真似だけは真ッ平ごめんだ。こんな無法があってたまるかという義侠心もある。一獄卒としての倫理感もあれば、人間じみた青臭い正義感もある。しかしそれより何より、私の上司は矢張り四季様でなければ駄目なのだ。
何故かと問われれば言葉に詰まる。四季様が馘首されるに至った事情も知らぬ私が掲げられるのは精々判で押したような大義名分だけで、もっと深い事情を知る者から見れば私は身勝手な我儘を並べるだけの子供も同然なのかも知れないけれど。
「知った事かい、そんなもん」
投げやりに言って空を見上げた。こちらの空も雲一つない晴天だ。この腹立たしいほど爽やかな空にいっそ全て押し付けてやれたらどれほど良いだろうかと思いながら、私は無意味に「よっ」と声を出して岩から腰を上げた。
「見つけたわよ、小町!」
「うげ」
まるで計ったようなタイミング。
過剰なまでのフレッシュさに溢れた声に嫌々背後を振り返ると、そこには案の定先ほどの天狗が仁王立ちしていた。
「お前さん、何でここが――」
「ふっふーん」
はたては得意げに笑って、たまに香霖堂で見掛けるような珍妙な機械を突き出した。
「私の能力は念写。貴女がどんな速さで逃げようが、私には居場所が筒抜けなのよ」
観念しなさいと言いながら、はたてはぱしゃりと一枚写真を撮った。
* * * * *
葛餅を口の中でもごもごさせながら、はたては全くもって興味がないとばかりに「ふぅん」と一言、実に忌憚のない言葉を返して寄越した。
「あの閻魔様がねー」
「知ってるのかい」
「あーっ、私の葛餅!」
人里の甘味処である。何だか腹が立ったので、はたての皿から一個奪って口に放り込んだ。私の皿は既に空だ。
「ぐぬぬ……お姉さーん、これもう一皿!」
「ああっ、こら!」
「ふん、ひほうひほふよ」
最後の一個を急いで口に詰め込んで、はたては何やら判らない事を言った。人の金だと思ってこの天狗。
「人間の作るものは美味しいなぁ。やっぱ家にばっか篭ってたのは失敗だったなー」
「天狗の癖に引き篭もりかい。天狗社会も病んでるねぇ」
「いやいや記者だってば。で、何だっけ」
「何って、だからうちのボスだよ」
「ああ、うん。知ってる知ってる。私もそれなりに生きてるからさー」
一度とっ捕まって説教喰らっちゃったと言ってはたては一口茶を啜った。永く生きた妖怪は一度は彼女の世話になる、とは確かによく聞く話である。そういえば数年前もそんな風に幻想郷を説教行脚していた事があったっけ。あの時は巻き添えを喰らって酷い目に遭った。
「説教の内容はさっぱり覚えてないけどねー。て、これ言っちゃ不味かった?」
「ま、そんなもんだろうさ」
例え無意識の内にでも、ほんの僅かでも心に響くものがあったならそれで良いだろう。あの方の説法にはそうした力があると私は思う。
「で、何でクビになっちゃった訳?」
「それが解りゃ苦労しないよ。いや――どの道同じ事か。あたいにゃ理由も原因もどうだって良いんだ。あの方に曲がった所はない、それだけは事実なんだから」
「わーお、美しき主従愛」
「やかましい。とにかく、こんだけ聞いたんだから約束通り協力はして貰うよ」
眉にかかった髪を人差し指で弾いて、私はじろりとはたてを見た。
あんまりしつこく纏わりつくものだから、事情を聞くなら協力する事を約束させて、こうして餅まで奢っている訳である。
「解ってるって、そんなに睨まないでよ。照れちゃうから」
「……ま、そんな次第でね」
溜息を吐いて私は言った。「言わんでも解ると思うけど、何とかクビを撤回させたい訳さ。ところがさっぱり良い案が浮かばんと来た。お前さん、何か思い付かないかね」
「んー……」
再び運ばれて来た葛餅に楊枝を刺しながら、はたては一応真面目に考えているらしく唸ってみせた。
「ま、あたいがこんだけ考えて浮かばないんだし、そう簡単に思い付きゃあしないだろうけど――」
「あ」
「え?」
閃いたかも、と呟いて、身を乗り出す私をよそにはたては美味そうに葛餅を頬張った。
* * * * *
屋敷には見知った先客が居た。
「おや、小町さんじゃないですか」
どうしましたか珍しいと言いながら稗田阿求は座布団から腰を上げた。
「やあ、阿求も居たかい。こいつは渡りに船だ」
怪訝な顔をする阿求をおいて、屋敷の主に邪魔するよと声を掛ける。
「ああ、適当に座ってくれ。私は茶でも淹れて来よう」
「すまんね、いきなりで」
「いや何」
私達をここまで案内したその足で、上白沢慧音は厨へと取って返した。
「ところで、そちらの方は?」
はたてを見ながら問う阿求の両手には、ぬかりなく筆と手帳が握られている。
「天狗。それで阿求、早速なんだけどさ」
「ちょっとちょっと! 雑すぎるでしょ紹介が!」
はたてが慌てて口を挟む。面倒なのでそのまま流そうかと思ったのだが、流石にそこは譲れないらしい。
「引き篭もりを紹介したってなぁ」
「引き篭もりじゃなくて元引き篭もりよ! ……いや違う! 記者! 姫海棠はたてよ、『花果子念報』のはたて」
「はぁ」
花果子念報ですかと阿求は聞いた覚えがないと言わんばかりの顔をした。「初めまして、はたてさん――とお呼びしても良いですよね。私は――」
「稗田阿求でしょ、知ってる知ってる。写真で見るより小さいなー」
「ち、小さ……」
何やら気にしている事でもあるものか、その言葉に少なからぬダメージを受けたらしく阿求は小さい身体を更に小さくして俯いた。
「お前さんだって人の事ぁ言えないだろうに」
「私は普通! 小町が無駄に大きいだけじゃん」
「そうですよ、小町さんはずるいです。少しぐらい分けて下さいよ」
「何であたいが責められてるの……」
阿求をフォローしたはずなのに。
そうこうしている内に慧音が来たので、私達は座卓を囲んで座り直した。
私は一口茶を飲んで、慧音と阿求の顔を見た。ここに来たのは無論、はたての発案を実行する為である。
早速本題に入ろうと私は口を開きかけたが、それより数瞬早くはたてが「あ」と声を上げた為場の注目はそちらへ集まってしまった。
「文々。新聞……」
ぽつりと漏らした呟きに、私は彼女の視線の先に眼を遣った。座卓の脇に薄い新聞が一部、きっちりと畳んで置かれている。
「ライバル紙が気になるかい」
「ん……まーね」
「ああ、今朝の号外だな」
慧音が言った。「玄関に投げ入れられていたよ。相変わらず何の得にもならんような話題ばかりだったが」
「でも、命蓮寺の話は助かりましたよ。ちょっと覗いてみようかと思いまして」
「縁日がどうのというやつか? あの日時も本当に合っているやら怪しいものだがなぁ」
文々。新聞はしばしば号外という名目の無差別テロを行っている。稗田家にもきっちりと投棄されていたようで、阿求と慧音はああだこうだと批評に花を咲かせている。
「そうだ、小町さんも一緒に行きませんか? 寺の事ならお詳しいでしょうし」
「詳しいってほどじゃないけどねぇ。ま、縁日なら大歓迎だよ。行こう行こう是非行こう」
「貴女はまたそんな安請け合いを……仕事は良いのか仕事は」
「大丈夫だよ、これでも最近は結構真面目にやってんだから――って、そうだ仕事だ」
目的を思い出して、私はぺしりと額を打った。
「……何と言うか」
「洒落にならない事態ですねぇ」
一通りのいきさつを聞いて、慧音と阿求は揃って渋面を浮かべた。
「無実の者に罪を着せるなど言語道断の所業だ。閻魔様も何故黙ってそんな沙汰を受け入れられたのか」
「そいつがさっぱり。何か訳アリって感じの顔はしてたがねぇ」
「尚更不可解だな……。理由はどうあれ許してはおけん、と言いたい所だが」
彼岸の事では手出しが出来んなあと慧音は嘆いた。
「何とかならないのですか? あの方にはいつもお世話になっていますし、私に手伝える事があれば何でもしますよ」
「ありがとう、助かるよ。そこでなんだが、はたて。……はたて?」
「あ、うん」
ごめんごめんと言いながらはたては足の崩し方を変えてスカートの裾を直した。
「どうかしたかい」
「んー、何でも。で、考えたんだけどー」
卓上に上半身を乗り出して言う。「力づくでどうにかするって訳にはいかないじゃん。まあ、私的には面白いからそっちの方がオススメだけど、クーデターは却下って言うからバイオレンス路線はなし。で、思いついたのが嘆願書」
「嘆願書」
阿求が鸚鵡返しに言った。
「うん。外の新聞とか読んでみるとよくやってるんだよねー。上手く同情を買えれば勝ちってやつ。抗議デモも捨てがたいんだけど、こっちでやった所で意味ないから断念」
どうしてもバイオレンスな方向に持って行きたいらしい。私は後を引き継いで言った。
「とにかく、そういう次第で賛同の署名が欲しいんだよ。だらだらやってるような猶予はないから、今日明日で集められるだけ集めてあたいが直談判――と、こういう計画なんだけどね」
なるほどと頷いて慧音は居住まいを正した。
「解った、そういう事ならば人里は私に任せて欲しい。明日の昼までに出来る限り署名を集めておくよ。貴女達は気にせず他の所を当たってくれ」
「……いいのかい」
私は思わず問うた。たかが人里と言えど、一人で回れば一日二日では済まない。無論慧音であれば何倍も効率の良い方法を採れるだろうし、それを期待しての訪問ではあったのだが、まさか何らの逡巡もなく人里を丸ごと引き受けてくれるとは思わなかった。
「やれる限りの事をしなければ意味がないさ。こういう事はな」
慧音は頼もしく笑って言った。「阿求殿も助けてくれるようだし」
「ええ、勿論。微力ですが、稗田家を中心にお手伝いしますよ」
「……助かるよ、本当に」
私は深く頭を下げた。
礼だけは何度も繰り返して、もうちょっとゆっくりして行こうよと渋るはたての襟首を引き摺りながら私は慌しく上白沢邸を辞した。
「折角だから取材しようと思ったのにー」
「また今度付き合うってば。それより次だ」
とにかく時間がない。明確なリミットこそないが、時間が経てば経つほど嘆願書の説得力もなくなってゆく。他人事だと言わんばかりにきょろきょろと人里を観察するはたての――まあ実際他人事なのだけども――手を引きながら、私はとりあえず里を出た。
「さて、まずは何処へ向かったもんか」
「紅魔館!」
「紅魔館?」
やけに思い切り良くはたては言った。
「一度行ってみたかったんだよねー。写真でしか見たことないからさ」
「……やれやれ」
まあ良いか、と呟いて私ははたての腕を掴んだ。
「お?」
ちょいと距離を縮めるよと言い終えた時には、私達は既に紅い館の門前に立っていた。
* * * * *
考えてみれば、紅魔館というのは存外悪くない選択肢かも知れない。
悪魔や魔女やメイド長などには正直言って署名など期待は出来ないが、今回に限っては彼女らはおまけのようなものだ。
紅魔館に数だけは沢山いる妖精達。私の目当てはそちらである。
「おや、死神さんじゃないですか」
親しみのある声にそちらを見れば、親しみのある妖怪がそこに居た。
「やあ美鈴。そこに立ってるとまるで門番みたいだねぇ」
「……それ、冗談ですよね? わざと言ってるんですよね? ね!?」
「じょ、冗談に決まってるだろ」
予想以上にショックを受けた顔でこちらを見る紅美鈴にいたたまれなくなり、私は眼を逸らして言った。そんな空気を察知したか、美鈴は一つ咳払いをして切り出した。
「そ、それで、今日もまたお得意の自主休憩ですか?」
「お前さんに言われたかないが……今日は別件だよ」
「別件? ……と、そちらの方は」
「天狗。ま、そんな事よりさ」
「またそれか! はたて! 姫海棠はたて!」
はたては私を押しのけて美鈴の前に出る。その勢いに若干引き気味に笑いながら、美鈴は律儀に挨拶を返した。
「はたてさんですか。何だか美味しそうな名前ですね」
「よく言われるわよチクショウ」
何の悪意もない所が恐ろしい。
「天狗という事は、はたてさんも記者ですか? 何という新聞を?」
「うん――『花果子念報』だけど」
はたては何故か少しためらい気味に答えた。
かかしねんぽう、と口にして、美鈴はううんと唸り、「すみません、聞いた事ないです」と言った。良くも悪くも正直な妖怪である。
「ま、まあメインの購買層は妖怪の山の住人だしね」
知らなくて当然という風にはたては答えたが、その後姿は何となく気落ちしているように見えた。
「……あーっと、まあ、それで用件なんだけど」
「あ、そうでした」
思い出したように言って、美鈴は肩にかかった紅髪をさっと右手で払った。
「用件によっては、ここでお引取り頂きますよ!」
「面白い妖怪だねぇ」
今更構えられても、こちらは脱力するばかりである。苦笑交じりの感想を述べて、私ははたての隣に立った。
「はあ……なるほど」
それは大変ですねぇと美鈴はしみじみ呟き、続けて私で良ければ署名しますよと言った。
「本当かい?」
「ええ。大丈夫、文字はちゃんと書けますよ」
「いや、そうじゃなくて――その。いいのかい、体面とかさ」
色々あるだろうと私は言ったが、美鈴は意味が解らないと言わんばかりに小首を傾げた。
「その閻魔様に会った事はありませんが、小町さんがこうまでして助けたいと思う人なんでしょう? だったら、断る理由なんてありませんよ」
私にも手伝わせて下さい、と言って美鈴はにこりと笑った。
「美鈴……」
私は不覚にも少しじーんと来てしまった。正直な所、この幻想郷において四季様の名が好意的に受け入れられる事は殆どない。直々に説教を受けた人間や妖怪達は言うに及ばず、冥界の管理者として四季様と浅からぬ付き合いのある西行寺のお嬢様ですら、あの方と会う事は極力避けているように思える。悪魔の館の住人であればそれは尚更だろう。上手く行けばいいとは思いつつも、私は門前で冷たく追い返される事を覚悟していた。それだけに、何ら屈託のない美鈴の言葉は私の胸に強く響いた。
「お人好しだねぇ、お前さん。……ありがとな」
用紙と筆を受け取って、美鈴はいえいえと言った。
* * * * *
窓の殆どない廊下を歩く。
まだ陽も高いというのに――否、だからこそ薄暗いその廊下には窓の代わりに等間隔に燭台が取り付けられていて、ちろちろと頼りなく燃える灯りはまるで鬼火のようだ。そこだけを切り取って見ればそれは正に悪魔の居城に相応しい陰鬱さを醸し出しており、人間がうっかり足を踏み入れようものなら泡を吹いて逃げ出す事請け合いである。尤も、実際の所はその廊下のそこかしこを妖精達が所狭しと走り回っており、悪魔の城と呼ぶよりは託児所と言った方がしっくりくる有様だ。
「どこ行ったんだあいつ……」
左手を上げて頭を掻くと、肘の下を妖精が箒を片手に駆け抜けて行った。
待っているのに飽きたのか、気付くとはたては姿を消していた。勝手に帰る訳もなかろうとこうして館内を探しているのだが、中々姿が見当たらない。
「好奇心の旺盛な奴だねぇ」
その辺りは私の知るもう一人の記者と似ているかも知れない。或いは天狗という奴は皆そうなのかも知れないけれど。
「おーい、はたてー」
適当に呼びかけつつ歩くも返事はない。勝手に私室に潜り込んじゃいないだろうなと私は頭を振った。騒ぎを起こされでもすれば署名どころではなくなる。
「……お?」
前方を右へ折れる通路の辺りから、耳慣れた声が聞こえた気がした。
「……ここに居たかい」
「あ、小町」
そこに居たのは天狗だけではなかった。
こちらを振り返るはたてには悪びれた様子もないが、それより私はその後ろで仁王立ちする人間に眼を向けた。
「天狗の次は死神?」
十六夜咲夜は不機嫌そうに柳眉を歪めた。「全く、本当にざるね」
「こいつはともかくあたいは客だよ。ちゃんと許可を得てる」
美鈴の名誉の為に、とりあえずそれだけは言っておく。
咲夜は案の定訝しげな顔をした。
「客?」
「だからー、さっきから言ってるじゃん。ちゃんと用事があって来たんだってば。文なんかと一緒にしないでよね」
「いやいや、お前さんは不法侵入だろ」
「余計な事言わなくていいの!」
「解った解った」
「何でもいいけど、所構わず写真を撮るのは止めて貰いたいわね」
私とはたてのやり取りに咲夜は首を振って、懐から取り出した懐中時計を眺めた。
「まあいいわ。それで?」
「いやね、実は――……あ?」
事情を説明しようとして、私は咲夜の背後に思わず視線を奪われた。
紙の束である。
それがよたよたと歩いていた。
「……何だありゃ」
縦に積まれた紙の束は、危なっかしく左右に揺れながらこちらへ近付いてくる。「メイド長ー」と声を発した所で、私はようやくそれが付喪神でない事に気付いた。
抱えた灰色の紙束の後ろからひょいと顔を覗かせて、メイド妖精はもう一度「メイド長」と言った。
「どうしたの」
「あの、これ、パチュリー様が要らないって」
「そう、それじゃ捨てておいて。場所は解るわね?」
はいと威勢良く答えて、妖精はまたふらふらと歩き出した。この様子では近い内に妖精同士ぶつかるか、そうでなくても何かに躓いて紙をぶちまけそうだが、咲夜はもう諦めているのか何も言わずにその背を見送った。
「……文々。新聞?」
紙の束が何なのか、はたてはしっかりチェックしていたらしい。妖精がよたよたと姿を消した曲がり角をじっと見つめている。
「最近パチュリー様が読むのよ。外の情報を知る事が出来るって。あの天狗が随分しつこく勧誘してたみたいでね」
「……そうなんだ」
「あれを情報源にするのはどうかと思うけどねぇ」
同感だわと言って、咲夜は私を真似て肩をすくめた。
事情を説明すると、咲夜は困ったような顔をした。
矢張りそう簡単には行かなそうだという私の予感に答えるように口を開く。
「悪いけど、お断りするわ」
「……」
「悪魔の館の住人が気安く署名なんてしたらイメージの低下に繋がるわ。特に――ブン屋が噛んでるような場合はね」
「ケチ」
「ケチじゃない」
はたての文句を眉一つ変えずあしらう咲夜。
おおよその点で、私の予測は当たっていた。既に一人署名している事は黙っておくが、言いたい事は解る。悪魔の館はどこまで行っても畏怖の対象でなければならないという事だろう。しかし、だからと言ってはいそうですかと退く訳にはいかない。
「そこを何とかさ……頼むよ」
「他を当たって頂戴。幻想郷は広いわ。うちに固執する必要はないでしょう」
「票はいくらあっても多すぎるって事はないさ。解るだろ? 何なら妖精達だけでも良いんだ。新聞には書かせないからさ」
「えー!」
はたてが空気の読めない声を上げた。咲夜は腕組みしたままはたてをねめつけて、一言「駄目よ」と言った。
「咲夜……頼むよ」
そりゃあ私はお前さんみたいに勤勉で実直な部下じゃあない。だけどそれでも――私の気持ちは、少しは解るはずだろう。
私はじっと咲夜を見る。咲夜は私を避けて宙を見る。はたては困ったようにきょろきょろと彼我を見比べる。
やがて、咲夜は根負けしたように溜息を吐いて言った。
「……どうしてもと言うなら、お嬢様に訊いてみる事ね」
今ならまだ起きていらっしゃるはずだわ――言いながら咲夜は城主の私室と思しき方角に顔を向けて、無駄だと思うけどねと付け足してから歩き出した。
「いいよ」
「アレッ!?」
豪勢なベッドに腰掛けたまま、レミリア・スカーレットはあっけらかんと答えた。
「お、お嬢様――」
いいのですかと咲夜が問う。レミリアは子供っぽくぶらぶらさせていた脚を組んで、「咲夜は心が狭いねぇ」と言った。
「小町は結構退屈しのぎの役に立つからねぇ。飴の一つぐらい与えてやってもいいさ」
「そ、それは小町の暇潰しでもあるのでは……」
何やら下僕扱いされている気がするが、まあ置いておこう。確かに天人の異変からこちら、紅魔館で暇を潰す回数はそれなりに増えている。しかしそれがよもやこんな所で役に立つとは。
「ほら、貸しなさい。サインぐらいいくらでもしてあげるわよ」
「ああ……助かるよ、レミリア」
「ふん、善意でやる訳じゃないわ。勘違いしない事ね。それとそこの天狗」
「私?」
「この事を記事にするのは勝手だけど――お前の運命が少しばかり悲惨な事になっても保障はしないよ」
はたてにす、と指を突き付けて、レミリアは悪魔然とした笑みを浮かべた。そんな脅迫じみた言葉もピンク色の可愛らしいネグリジェのお陰で悉く台無しになっているが、恫喝された張本人はそれでも矢張り鬼気迫るものを感じたらしく、ぞくりと肩を震わせて「わ、解ったわよ」と言った。ただし、その後に「ケチ!」と付け足す事を忘れない辺りがはたてらしい。
対してレミリアはもうはたてには興味が失せたと言わんばかりに言葉も返さずこちらを向いた。
「小町、今度は土産を持って来なさいよ。この前の――何だったかっていうお酒」
「大江山悉皆ごろしかい」
「名前なんて忘れたわ。まあ、あれはそれなりに悪くなかったわよ」
つまり気に入ったからまた持って来いと。
「……了解したよ、お嬢様」
アレは結構高いんだがなぁ、という呟きは心の内に秘めておく事にした。
* * * * *
その後はとんとん拍子に進んだ。
レミリアの鶴の一声で、紅魔館に住む連中の殆ど全てから署名を貰う事が出来た。頑なに反対していた咲夜も最後には折れて、絶対記事にしないようにとレミリア以上に厳重に念を押した上で署名に応じてくれた。
そんな次第で、一気に増えた署名を携えて私とはたては意気揚々と次なる目的地へやって来た訳である。
殆どの人妖が飛び越えてゆく博麗神社の鳥居をくぐり、私とはたてはその奥へと進む。
巫女の口利きで署名を集めよう――などと馬鹿げた事を考えている訳ではない。彼女にそんな事を頼むくらいなら、あのいつ覗いてもまるで賽銭の見当たらない賽銭箱に小銭を投げ入れて署名が集まりますようにと願う方が余程有意義である。
私がここへ足を運んだのは、ひとえに博麗霊夢自身の署名が欲しいからに他ならない。署名に優劣をつけるわけではないけれど、矢張りこの名があるとないとでは説得力に差が出るように思う。
巫女はいつものように、縁側でのんびりと茶を啜っていた。
「あら、サボさん。今日も昼行灯は絶好調?」
茶を両手に持ったまま、霊夢はこちらを見もせずに失礼極まりない事をのたまった。
「……おかげさまでね。そういうお前さんも、随分と暇そうに見えるがねぇ」
「私はちょっとした休憩よ。……そっちのは、この前しつこく新聞を勧誘してきた天狗ね」
ようやく顔を上げて霊夢ははたてを見る。
「はたてよ、は、た、て。名前ぐらい覚えてよね」
「あーはいはい。全く、ただでさえうるさい天狗が二匹なんて今日は厄日ね」
「二匹?」
私が上げた疑問の声に被さって、「霊夢さーん」とどこかで耳に覚えのある声が聴こえた。
「げっ」
はたてが妙な声を漏らす。それに応じるように、声の主は社務所の影からすたすたとこちらへ姿を見せた。
「もう休憩は十分でしょう。そろそろ再開――うげ」
射命丸文。
手帖を片手に現れたのは、今最も会いたくなかった妖怪だった。
「は、はたて――何であんたがここに」
「それはこっちの台詞よ! どうせまた捏造記事のネタづくりでもしてるんだろうけどー」
「な、なな何の話かしらっ!?」
新聞、新聞の束と来て今度は本人付きか。
しかし二人の関係を見るにいつもの売り言葉に買い言葉なのだろうが、文の方は何やら常になく動揺しているように見えた。いつもの文なら、嬉々として私とはたての関係を記事にしようとしそうなものだが。
「痴話喧嘩なら他所でやってよ。さて、それじゃ再開しようかしら――」
「れ、霊夢さんっ! まだまだ陽は高いです、もうちょっとのんびりしてからにしましょうよ。ね、私お茶淹れて来ますから!」
「何よ? あんたがそろそろ再開って言ったんでしょうが」
「いやその、それはですねぇ、何と言いますか……」
ちらちらとこちらを見ながら、文はしどろもどろに言葉を重ねる。
本当に珍しい光景だ。訳が解らず私ははたてと顔を見合わせた。
「……霊夢。再開ってのは何の事なんだい?」
「ん? ああ、それがねぇ」
「あ、ちょっと!」
文が制止にかかる前に、霊夢はすぱんと障子を開けた。そこには――。
「……新聞?」
文々。新聞だろうか。それが畳の上に、座卓の上に、所狭しと散乱していた。
「倉庫に積んであったこいつの新聞が妖怪になっちゃったのよ。紙舞だか何だかって。ちゃんと全部読んで供養しないと大変な事になるって言うからさぁ」
一日二日じゃ終わりゃしないわと嘆いて、霊夢は畳から新聞を引き寄せた。
「何それ、紙舞? 馬鹿じゃないの、それって単なるポルター……もがっ」
「ちょっとこっちに来なさいはたてっ!」
はたての口を塞ぐや否や、文は天狗の俊足をもってはたてをどこかへ連れ去ってしまった。
「ははぁ……上手い事やったもんだねぇ」
二人の天狗が去って行った方角を眺めながら、私は一人ごちた。
正攻法で読んで貰えないなら読まざるを得ないように仕立て上げるという訳か。記者としては激しく間違った行為だが、悪知恵の回る天狗らしいやり方だ。やってて虚しくならないのかという事は別にして。
「何の話よ?」
「いやいや、こっちの事。それより霊夢、ちょいと頼みがあるんだけどね」
歩く情報歪曲拡散機がはたてと消えた今がチャンスだ。これ幸いと私は話を切り出した。
「まあ、署名ぐらいなら別にいいけど」
それ以上の協力はしないわよと言って霊夢は筆と用紙を受け取った。
「十分さ」
「そ。はい、これでいい?」
「適当な字だねぇ」
「ほっとけ。ところでさ、変な意味じゃないんだけど」
「うん?」
「何でそこまでするの?」
路傍の石でも蹴飛ばすような気安さで霊夢は言った。
「何で――……ねえ」
返事に窮して私は頭を掻いた。
色んな言葉が脳裏をよぎるが、どれもこれも声に出した瞬間に陳腐になってしまいそうで、私は結局喉まで出かけたそれらを飲み込んだ。
「何でだろうねぇ。……あたいにも良く解らん」
はぐらかす訳でなく、私は素直にそう答えた。
馘首の理由には許せざるものがあるとはいえ、それだけでこんな行動に出るほど私は短絡的でも感情的でもないつもりだ。だがそれでいて、今この瞬間にも次の目的地を探して回転を続ける脳の燃料が果たして何であるものか、我が事ながらそれもはっきりと掴めずにいる。
「ふぅん」
巫女はぼんやり遠くを見つめて呟いた。「ま、そういうものなのかもね」
そういうもの――なのだろう。
誰しも己の行動の一つ一つに明確な意志指標がある訳ではない。模糊とした直感のままに何かを為し、そこに何らの疑問も抱かず先へと進む。人生とは殆どそうした事の繰り返しではないかとすら思う。
けれど。
そんな事で良いのかと、私は心の何処かでそう自問している己を無視し切れずにいた。
* * * * *
霊夢に半ば無理矢理淹れさせた茶を飲み干した辺りでようやく戻って来たはたてを引っ掴み、私はいそいそと神社を後にした。
「急ぐよ、はたて。時間がない」
太陽はもう随分と傾いている。暗くなる前に一箇所でも多くの場所を回っておきたかった。
神社の階段を一段飛ばしで駆け下りる。かんかんと私の下駄が小気味の良い音を立てるが、後ろからついてくる音にはどうにも元気がない。
振り返ると何やら気落ちしたような顔のはたてと眼が合った。
「……やだ」
「はたて?」
「やだ。もう疲れた。そんなに急がなくたっていいじゃん。ちょっと休憩していこうよ」
言うが早いか、はたては石段にぺたりと座り込んだ。
「おいおい、どうしたのさ。文に何ぞ言われでもしたかい」
今日知り合ったばかりの相手の何を知っている訳でもないが、らしくないと思った。
「……あのさ」
はたては私の問いには答えずに、鼻から下を膝に埋めて上目遣いにこちらを見た。
「ん?」
「――いや、やっぱいいや」
「何だい、気になるじゃないか」
「いいの! あー、お腹減ったなぁ」
私の隣に飛び降りて、はたてはわざとらしくお腹を押さえてみせた。
「ねー、何か食べてからにしようよ」
「駄目駄目。言ったろ? 時間がないんだってば」
「ちぇー」
スカートの埃を払いながら子供っぽく口を尖らせ、はたてはそのまま三歩歩いて振り返った。
「……小町はさぁ。何でそんなに頑張る訳?」
「何でって――」
先刻の霊夢と全く同じ問いに、私は再び言葉に窮した。知ってか知らずか、はたては霊夢よりも更に深い所に突っ込んで来る。
「小町がクビになる訳じゃないんでしょ? だったら良いじゃん。閻魔様は残念だけど、別に死んじゃう訳じゃないんだしー」
「ドライだねぇお前さんは」
苦笑いで誤魔化そうとしてみるが、はたては許してはくれないようだ。軽い口調と裏腹にじっとこちらを見つめるその瞳は私に何かを期待しているようにも見えて、私は尚更言葉に詰まる。
「ねえ、何で?」
「――……例えば、さ」
殆ど苦し紛れに私は言った。「お前さんのとこの天魔さんが見に覚えのない濡れ衣で突然地位を追われたとしたら、お前さんはどうする?」
「んー……私、別に天魔様って好きでも嫌いでもないんだよねー。まあ、とりあえず取材かなぁ。ネタとしては凄く美味しいし」
「……そーかい」
ひょっとして人望がないんだろうか、天魔の旦那。内心小さく同情する私にはたては言う。
「何か、人間みたい」
「……毒されちゃったかねぇ」
結局答えが出ないまま、私は空虚な気持ちで雲を眺めた。
* * * * *
「ふぁー……」
気の抜けるような声を上げて、はたては下界を見下ろした。
「こんな所まで飛んだのって久々だわー」
天狗の癖にだらしのない事を言う。
その眼には何かが視えているのだろうか。私も倣って下を見るが、雲だか霧だかに阻まれて何一つ見えはしなかった。
「空を飛ぶのが好きなもんじゃないのかい、天狗ってな」
「天狗って言っても色々だけどね。勿論嫌いじゃないけどさ、何ていうか、人間が地べたを歩くようなものなんだよねー」
「なるほどねぇ」
「でも久々すぎてちょっと疲れたかも。小町、帰りはおぶってよ」
「お断りだよ。墜落したらどうするんだい」
「失礼な、そこまで重くないわよ」
「あのー」
「うぉっ!?」
突如背中に投げ掛けられた声に私達は肩を跳ねさせて振り返った。
「人の庭先で何してるんですか、さっきから」
箒を抱えて、魂魄妖夢が呆れたような顔で佇んでいた。
「やぁ妖夢。一体いつの間に来たんだい」
「いつって……最初から居ましたよ。気付かなかったんですか」
「あっはっは、そりゃ失敬。気付いてて無視するなんて、そんな酷い事する訳ないじゃないか」
「全く気付きもされなかったのと、この場合どちらがより酷いんでしょうね……」
「まあまあ。そんなヒネた事を言うなんて、おねーさんは悲しいぞ」
「だ、誰がお姉さんですか。もう」
溜息を吐いて妖夢は言った。
「所で、そちらの方は?」
「天――」
「姫海棠はたてっ! いい加減にしないと泣くわよこらぁ!」
「ええっ!? す、すいません!」
「こらこらはたて、初対面の人に怒鳴っちゃいかんよ」
「あんたよあんた!」
まあまあと肩を叩きながら私ははたてを紹介した。はたてといい妖夢といい、こうして反応が返ってくるとついつい遊びたくなってしまう。
とりあえず中へどうぞという妖夢の言葉に従って、私とはたては白玉楼の門をくぐった。
途端に現れる二百由旬の絶景に、はたては案の定歓声を上げた。
見果てぬ彼方まで続く広大な庭に整然と佇む桜並木。花びらは既に散っているが、それがなくともここはいつ見ても文字通りこの世ならざる絶奇さをもって見る者を圧倒する。それにもまして美しいのは本殿の広間から眺める中庭の枯山水だが、ここではたての感動に水を差すのも野暮だろう。
自分が手入れしたものを褒められるのは矢張り嬉しいのだろう、まだまだですと言いながらも頬を綻ばせる妖夢に景色だけならと撮影の許可を貰うや否や、はたては喜び勇んで庭中を飛び回った。
いつでも念写出来るんじゃないのかと私は問うたが、返って来たのは生で撮るのは別格だという答えだった。
まあ、これくらいならいいだろう。私は極力はたてに合わせて歩幅を縮めながら、正面に横たわる長大な屋敷へゆっくりと歩を進めた。
* * * * *
通された座敷で白玉楼の主と面会し、形式ばった挨拶もそこそこに私は本題に入った。
「実はかくかくしかじかでねぇ」
「かくかくしかじかって、本当にそのまんま言わないで下さいよ」
何が何だかさっぱりですよと妖夢は言った。
「いい加減こうやって説明するのにも飽きてきたんじゃないかと思ってさ」
「いやいや誰がですか。ちゃんと説明して下さいよ」
「あらあら」
妖夢の隣で、西行寺のお嬢様は口元を袖で隠して笑う。「妖夢は未熟ねぇ」
「幽々子様まで乗っからないで下さい……話が進まないじゃないですか」
「で、どんな御用なのかしら?」
「……相変わらず面白いお方だ」
周りの事など我関せずで亡霊嬢は茶を啜る。
庭から静かに吹き込んだ風が座敷の空気をひっそりと攪拌し、私の髪を揺らして去った。
最早慣れに慣れた事情説明を繰り返すと、妖夢はきっちりと正座したまま身を乗り出して、是非協力させて下さいと言った。
「私の署名でよければですが……」
「勿論だよ。ありがとう、お前さんは優しいねぇ」
「い、いえ、そんな。……正直な所、閻魔様は少し苦手ですけど――それでも、無実の罪でクビなんてやっぱりおかしいと思います」
妖夢の素直さが心に沁みた。融通の利かなさゆえに暴走してしまう事もままあるが、正しいと思った事を真っ直ぐに貫く彼女の在り方は、私にはとても好ましく思える。
しかし用紙と筆を妖夢に手渡そうとした時、その隣から思いも寄らぬ声が掛かった。
「駄目よー妖夢」
「……幽々子様?」
今まで口を閉ざしていた幽々子嬢が、読めない笑みでゆるゆると首を振る。
私達は三者揃って彼女を見た。妖夢はいつも彼女に難題を押し付けられる時のように困惑した顔で、一方はたてはきょとんとした顔で。
「婚姻届と連帯保証人確約書にはうっかりサインをしちゃ駄目っていつも言ってるじゃない。そんなだから悪質なセールスのカモにされるのよ」
「いや、そんなの言われた事もカモにされた事もないですが……」
「いやいや妖夢。よーく考えなきゃ駄目よ? 自分が何をしようとしているのかね」
「……それは書くなという事ですか? 解りません、この件の何処に躊躇しなければいけない理由があるのですか」
「だってー」
「筆が勿体無いとでも言うおつもりですか」
「紙が勿体無いじゃない」
「……」
妖夢は困惑し切った顔で私を見た。頼りにされるのは嬉しいが、助けを求めたいのは私も同様である。
私は頭を掻いて、
「……幽々子さん。真面目な話だ、今回ばかりは協力して貰えないかねぇ」
「あらあら、協力しないなんて一言も言ってないわよ?」
「その次に来るのは『協力するとも言ってないけど』でしょう」
「あらあら」
幽々子嬢は口元を隠して笑う。この捉え難い胡散臭さは流石八雲紫の友人と言うべきか。
「と言うかねぇ。幽々子さん、貴女――知ってたんじゃないかい。あたいらが来る前からさ」
そうなのですか、と妖夢が驚いた声を上げた。
西行寺幽々子を冥界の管理者として任じたのは言わずもがな是非曲直庁だ。そこの閻魔である四季様は立場上彼女の上司でもあり、頻繁に会う訳ではないとはいえ知らぬ仲ではない。その四季様の突然の解雇である。いくら自分の気質を操作出来るようなド変人――もとい少々変わったお方でも、それを耳にして表情一つ変えないものだろうか。
「ゆ――幽々子様。知っているなら何故早くっ」
「ド変人とは失礼ねぇ」
「そこはいいですから!」
「幽々子さん」
見るからに高級な湯呑みの胴をなぞっていた手を止めて、私は幽々子嬢を見た。
「あたいは貴女と四季様の関係はよく知らない。ひょっとしたら眼の上の瘤程度に思ってたのかも知れないけどさ。それでも、妖夢の言う通りだ。こんな理不尽な解雇があっていいはずがない」
視線が幽々子嬢と真っ向からかち合う。柔らかく笑みを浮かべているはずなのに、どこか奈落のような底知れなさがある。
「あたいはね、別に殊更騒ぎを大きくするつもりはないんですよ。そりゃあ四季様に罪をおっ被せた野郎を簀巻きにして三途の底に沈めてやりたいぐらいの気持ちはありますがね、あたいがしたいのは犯人探しなんかじゃない。あたいはただ四季様の解雇を撤回させたいだけなんだ。だから」
「未熟」
「は?」
予想外の言葉に、彼女にぶつけようと振りかぶっていた台詞は私の頭からすっぽ抜けて明後日の方向へ飛んで行った。
貴女も未熟ねぇ、と。
西行寺幽々子は眼を細めて繰り返した。
「未熟――てのは」
どういう意味ですかい、と私は訊いた。
未熟という意味ですわと答えて、幽々子嬢は焦らすように夕闇迫る庭を眺めた。長く伸びた木々の影が、濡れ縁へと静かに忍び寄っていた。
「……幽々子さん。残念ながら、貴女の言葉を理解するにはあたいにゃちょいと徳が足りないみたいでねぇ。申し訳ないんだけど、もう少し解り易く言って貰えないかね」
「あらあら」
彼女の言葉は何も考えていないように見えて、その実深遠な意味を孕んでいる――事がある。そうかと思えば本当に何も考えていなかったりして、妖夢などはその辺りの聞き分けにいつも四苦八苦しているようだが、少なくとも今回の発言は後者ではないように私には思えた。
「聞く限り、結構票を集めているみたいね」
亡霊嬢は世間話のような口調で言った。「悪魔の家の妖精達に、明日になれば人里の票も集まるのかしら?」
「ええ――まあ」
意図が解らず私は答えた。
幽々子嬢は「そう」と呟いて続ける。
「けれどその内、純粋な善意でされた署名はどれくらいあるのかしら」
「そ――いや、それは」
「署名をしておけば閻魔様の心象が良くなるかも、とか。そう考える者が居ないとは言い切れないわよねぇ」
「……それで彼岸の裁定に色が付く事は有り得ないよ」
「ええそうね。けれど、署名する人達はそう思うかしら?」
「ぬ……」
痛い所を突かれて私は呻いた。
その通りだ。そういった打算の下に筆を受け取る者は相当数いるだろうし、大多数の妖精達は恐らく何を考えてすらいないだろう。
理解はしていた。した上で、それを最大の戦力と恃んでいる事は否定出来ない事実だ。
「勿論、数は多いに越した事はないわ。その意味で、貴女がして来た事は無駄ではない。けれどそうした無軌道な寄せ集めの力というものは、せめてその行き先が定まっていなければ大した力になどなりはしないわ」
「行き先――」
そこで、と幽々子嬢は眼を細めた。
「あなたは一体、どうして閻魔様を助けたいのかしら? 何をもってあなたはあなたのエゴを押し通すの? 肝心のあなたの心が曖昧なままでは――そんなものに署名する価値など感じないわね」
すぱりと、まるで刀で紙を裂くように彼女は断じた。
今度こそ、それは逃れ得ぬ問いだった。
どうしてあの方を助けたいのか。どうして助けなければならないのか。ならばそもそも、彼女は助けられる事を望んでいるのか。
四季様でなければ駄目だと思ったから。何もかもが曖昧な中で、その直感だけを指標に、何を疑う事もなく私はここまで来た。
どうしてというただそれだけの問いに、だから、だのに、私は答えを出せない。
亡霊が、半人が、そして天狗が私を見ている。
静寂が四方に満ちる。
何故。どうして。
壊れたオルゴールのように頭の中を跳ね回り続けるその問いは、二百由旬の静謐の中でゆっくりと、少しずつ形を成していった。
辞めたいと思った事はないのか――と、彼女に問うた事がある。
彼岸の法は、人間のそれとは違う。いかに同情すべき理由があろうとも罪は罪で黒は黒。罪が有るならば、即ち有罪である。
しかし閻魔にも感情はある。高潔な魂を持つ者であればこそ、泣きたくなる事もあれば、全て投げ出したくなる事もあるのではないのか。
『ええ、あるわ』
そう答えて苦笑する四季様の顔には、恐らく閻魔以外の誰にも理解出来ない悲哀が滲んでいた。
『だから、小町。いつか、もしも疲れてしまった時は――少しだけ貴女に頼らせて頂戴』
その言葉は、彼女が私に見せた殆ど唯一の弱音だった。
叩かれて、どやされて、説教されて。庇われて、助けられて、見守られて。私はいつも、何かを与えられる側で。
この人の下にいようと、私がそう決めたのは――きっと、その時だったのだろう。
あの日心に決めた事がある。繰り返す日々の内に、いつしか見失っていたけれど。
「……そうだ。そうだった」
かぶりを振って私は口を開いた。
「ありがとう。お陰で忘れかけてた事を思い出せたよ。あの人はやっぱりこんな裁定に納得しちゃいない。諦めてるはずがない。あの人は――まだ一度も泣き言なんか吐いちゃいないんだから。だからあたいはあの人を助ける。例え四季様が閻魔でなくなったとしても、少なくともあたいはまだ、あの人の部下を辞めたつもりはないんだ」
静かな決意をもって私は前を見た。
「……そう」
亡霊嬢はそれだけ答えて、静かに一口茶を啜った。
* * * * *
外はとうに暗くなっていた。
結界の外まで着いて来た妖夢に見送られ、私とはたては地上へ戻って来た。
陽はとっぷりと暮れ、スプーンでくりぬいたような三日月が遠慮がちに大地を照らしている。遠くに燃える人里の明かりを眺めながら、私は隣に立つ大木に片手をついた。
「今日はこの辺にしとくかねぇ」
「うん……」
「……どうかしたのかい、本当に」
答える声が随分とか細く、私ははたてを振り返って尋ねた。宵闇の中で眼を凝らせば、はたては寂しげとも悲しげともとれる表情で人里の方に顔を向けている。夜の黒がその華奢な身体を一層頼りなく見せていた。
小町には、とはたては言った。
「小町には、ちゃんと理由があるんだね」
「ん? ああ……さっきの事かい」
私は答えて頬を掻く。
「……私、記者やめようかなぁ」
ぽつりと、はたては言った。
涙声のようにも聞こえたその言葉に、私はぎくりとしてはたてに近寄った。
「お――おいおい。唐突に何言ってるんだい」
「今日一日でよく解ったの。新聞を読んでもらう為に、文がどれだけ努力してるかって事が。……私、何やってるんだろうって思った。今までずっと、山に篭って他人の後追い記事を書くばっかりで、山を出たって私は結局あいつに負けたくないって事しか頭になくて……当然よね、そんな奴の書く新聞なんて誰の眼にも留まる訳がない」
「はたて……」
「もうよく解んないよ」
洟を啜ってはたては続けた。「文への対抗心以外に、私の中には何にもないの。目的なんてどこにもない、理由なんてどこにも見つからない。もう――どうしていいのか解んないよ」
その言葉を最後に、はたては私に背を向けて黙り込んでしまった。
その背に言葉を投げ掛けずに居られなかったのは何故だろうか。いつかの私と、或いはその姿が重なって見えたからかも知れない。
「それでいいんじゃないか」
敢えて場違いな軽さでそう言って、私ははたての右肩に軽く手を置いた。
「誰もがそんなご大層な目標を持ってると思ったら大間違いさ。何、闇雲にでも走ってりゃあその内道は開けるさ。だってそうだろ? 夜道もいつかは朝日が照らす、迷路もいつかは出口が見える。たとえそいつが陽も射さない樹海だろうと、ひたすら真ッ直ぐ突き進みゃいつかは何かにブチ当たる。そいつが出口かそれとも川か、大きな岩かは解らんが、気に入らないなら進路を変えりゃあいいだけだ。行く手に迷う事ぁない、お前さんにゃとりあえず、文を追い抜くってぇコンパスがあるんだからさ。そうして作った新聞が人にウケるかどうか、そいつはあたいも判らんけどさ。それでも、一番大事なのはお前さん自身が納得出来るかどうかだろ」
違うかい、と私は言った。
そうだ。いつかの四季様も、そう言って私を励ましてくれた。尤も、あの方が使ったのはもっと高尚な言葉だったと思うけれど。
「……それでいいの?」
手を置いた肩越しに私を見上げ、はたては呟くように言った。
それでいいさと私は精一杯頼もしく笑って見せた。
「文の奴だって、案外そんなもんかも知れんよ」
「うん……ありがとう。少し――やる気が湧いたかも」
はたての顔にようやく笑顔が戻る。
肩に乗せていた手でその頭をぽんと叩いて私は言った。
「そりゃあ何よりだ。……さ、そんじゃ人里で飯でも食べて解散しようかね。あたいは彼岸に戻ってそっちで署名を集めるよ」
「あ、じゃあ私天麩羅がいい、天麩羅!」
「現金な奴だねぇ」
はいはいと手を挙げるはたてに苦笑してから、私達は点々と灯る明かりへ向けて歩き始めた。
* * * * *
翌日。
正午に差し掛かる少し前、約束した時間通りに上白沢邸へ足を運ぶと、玄関には既に慧音と阿求が待っていた。
「や、おはよう」
言いながら片手を挙げると、二人はめいめい挨拶を返して寄越した。
「全員という訳にはいかなかったが、出来る限り集めたよ。こっちが私の分で」
「はい、これが私の担当分です」
「うぉ、これ全部かい?」
予想以上の量に、私は思わず眼を見開いた。
受け取った紙の束はずしりとした重量すら感じさせる。用紙には所狭しと署名が書き込まれており、それでも渡したものだけでは足りなかったらしく最後の方は別の紙が使われていた。
「……本当にありがとうな、二人共。ここまでして貰えるなんて、四季様もさぞ喜ぶだろうねぇ」
「いえいえ、私は慧音さんのお手伝いをしただけですから」
「そんな事はないさ。私だけではここまではとても集められなかった」
彼女ららしい謙遜に苦笑しつつ、私は手元の名前を一つ一つ眺めた。
「しかし本当に凄い量だ。お前さん達の人徳の賜物だねぇ」
「あら、それを言うなら小町さんだって。ねえ、慧音さん」
「あたい?」
「うん。貴女が困っているのならと署名してくれた人もかなりいたよ」
何だかんだで人気者だという事だと慧音は笑う。
「死神としては褒められる事じゃないでしょうけれどね」
そう言って阿求もくすくすと笑った。
「……参ったね、そりゃ」
何やら気恥ずかしくなって、私は照れ隠しに肩をすくめた。
「ところで、今日ははたてさんの姿が見えませんね」
「ああ――まあ、妖怪だしねぇ」
まだ寝てるのかも知れんねと私は答えた。はたての影でも見えないかと空を振り仰いでみたが、幸先が良いとは言い難い曇り模様のどこにも鴉の影は認められない。まあ、居ないのであれば仕方ない。どの道ここから先は私一人の戦いだ。
と、つられて顔を上げた阿求が一点を見つめて「あ」と呟いた。
「え?」
直後、空気を千切り飛ばしながら巨大な風の塊を纏った何かがまるで大地を抉るような勢いで私達の前に着地した。
「ふぅ……いやー、こんなにスピード出したのは久しぶりだわー」
「おはようはたて。随分派手な登場だねぇ」
展開させていた黒い翼をばさりと一打ちして仕舞い、はたてはこちらに向き直って「おはよう」と言った。
「髪がハネてるけど、寝坊でもしたかい」
「失礼な、ちょっと急いでただけよ。はい、これ」
「ん?」
少し怒ったように頬を膨らますはたてから手渡されたのは、慧音や阿求から受け取ったものと同じような紙の束だった。
「……あたい、こんなのお前さんに預けてたっけ?」
「違うわよっ! 妖怪の山で署名を貰って来たの! 記者連中に要らない事を喋らないような人選するの、結構苦労したんだからね」
見れば確かに、そこには河童や天狗から山の神々まで、妖怪の山に住まう連中の名前が整然と記されている。その最後には、はたて自身の名前が彼女らしい丸文字で書き入れられていた。
「はたて……」
「大した数じゃないけど、物の足しにはなるでしょ」
点々と浮島のように続く庭の敷石を踏み歩きながらはたては何でもないように言うが、彼女が山を上から下まで駆け回ってくれたのであろう事はつぶさに署名を見るまでもなく明らかだった。
「ありがとうな……本当に」
慧音にも阿求にも、ありきたりな礼しか言えない自分が情けない。そんな私を見透かしたか、慧音は両の掌を大きく打ち合わせて言った。
「さ、そろそろ行くんだろう。後は貴女次第だ、頑張ってくれ」
「……ああ、そうだね」
一つに纏めた三人からの署名の束を強く抱え、私は顔を上げて彼方にあるはずの彼岸を見据えた。
* * * * *
「……これが三途の川なんだ」
はたてが感慨深そうに呟いた。
水霧に霞む川辺のそちこちで蛍のように淡い明滅を繰り返す霊魂達が、一見してここがこの世とあの世の境目である事を教えてくれる。
どこから流れてどこへ去るのか。誰も知らないその流れは今も水音一つ立てずに雄大に横たわっている。
「もう一度言うけど、向こうへは連れて行けないからね」
私が念を押すと、はたては「解ってるって」と頷いた。「まだまだ死ぬ気はないってば。折角ここまで来たんだから、行けるとこまで付き合わせてよ」
「ああ。お前さんにゃ感謝してるよ」
「ふふん。もっと褒めていいわよ」
無言で後頭部に手刀を落とすと、はたてはふぎゃっと悲鳴を上げた。
「……ん?」
三途のタイタニックと名高い私の愛舟を繋留してあるはずの辺りに、微かに人影が見えた気がした。私は眼を眇めたが、霧に阻まれて上手く判別出来ない。しかしそれも天狗の眼には問題にならないようだった。
「小町、誰か居るよ」
言ってはたてがこちらを見上げた。返事の代わりに首を傾げ、私達は少し歩調を速めて愛舟へと向かう。
そこに居たのは――。
「……これはこれは。あたいの舟に何ぞ用かね」
闇のように黒い着流し。
私のものとは違う、明らかに飾りではない鋭く光る大鎌。
行く手を阻むように立っている二人の男は――同業者であり同業者でない者達だった。
「『お迎え』のエリートさんが二人も揃ってさ」
「……小野塚小町だな」
男達はまるで禽獣のような眼で私を射た。どう見ても友好的な目的とは思い難い高圧的な殺気が辺りを包んでいる。
「……何、こいつら」
はたてが不快感を隠しもせずに言う。
可愛らしい見た目とは裏腹なその胆力に思わず苦笑して私は答えた。
「寿命を迎えた人妖のお迎えに上がるのを専門にしてる死神さ。あたいみたいなヒラ船頭とは格の違うエリート集団だ」
愛用のなまくらでとんとんと肩を叩いて私は男達を見た。
「ふぅん、道理でいけ好かないと思ったわ」
まるで挑発するようにはたてが言う。
「初対面で随分と嫌われたもんだな」
左側に立つ随分とガタイのいい方の男が口の端を引き上げた。
たとえ釈尊でもこの状況で友好的な態度を取ろうとは思わないだろう。こいつらの目的はもう透けて見えている。
案の定、今度は右側の男が病的なまでに痩せて骨ばった手をこちらへ突き出した。
「そのいけ好かないエリート様の命令だ」
落ち窪んだ眼で私を睨んで言う。「貴様の小脇に抱えているものを寄越せ」
「おやおや、命令と来たかい」
私は肩をすくめておどけて見せた。
「申し訳ないけど、管轄外への命令は四季様を通してからにしてくれないかねぇ」
「あの女は今や閻魔ではない。落ちこぼれの益体無しとはいえ貴様も庁の一員ならば我らの命に従うのが筋だろう」
「あたいとあんたらに上下関係はない。言ってみりゃただの同僚さ。そうだろ?」
「とぼけるなよ、解ってんだろうが。この命令はお前の好きな元閻魔様より更に上から出てるんだよ」
左の男が大熊でも絞め殺せそうな肩をごきごきと鳴らす。
「へぇー、そいつぁ初耳だ。で、どなただい。そのお偉いお方はさ」
「言うと思うか?」
「そんじゃ話は終わりだ。とっととそこをどいとくれ、あたいは仕事の途中なもんでね」
「……全く、聞いていた通り」
「あん?」
「口の減らない女だ、なッ」
右側の男が語気を強めたと思った瞬間、その下方から死神の鎌が閃光の如く舞い上がり、私の片腕を斬り落とす寸前で動きを止めた。
「……船頭如きがこれを止めるか」
「船頭ナメんじゃないよ、うらなりの青瓢箪が」
「ちッ――」
間に差し込んだ私のなまくらを思いっきり振り抜く。弾き飛ばされた大鎌の動きに逆らわず、男はくるりと宙を舞って距離を取った。
「もう一度だけ言う。そいつを渡せ」
腰を低く落とし、鎌を横薙ぎに構えて痩身の死神は最後通牒を突き付けた。
「あっはっは、殺されたって御免だねぇ」
「……後悔するぞ、小野塚小町ッ!」
「こちとら生憎後悔はしてから考える主義でねッ!!」
叫ぶや否や、私は紐で繋げた古銭を懐から引き摺り出してブン投げた。弾丸のように飛んでゆくそれらを叩き落す男達に眼もくれず、私は一直線に舟へと突っ込む。痩躯の男が片手で光弾を放つが、私は前へと走りながら踊るように身体ごと鎌を一回転させて薙ぎ払い、後は振り向きもせずに河原を駆けた。
舟にさえ乗ってしまえばもうこちらのものだ。男達の罵倒を背に、砂利を蹴散らし霊魂を跨ぎ、霧を掻き分けて跳ぶ。
ハデな水音を立てながら私は愛舟のド真ん中に飛び乗った。
もたもたしている暇はない。鎌を振り回して繋留索を切断し、櫂に持ち替えて水面に突き立てる。私はそこでようやく後ろを振り返った。
「じゃあな――」
「甘いわ!」
私と大男の声は殆ど同時だった。
何か不味いと感じた時には既に遅い。次の瞬間男が突き出した片手の袂から無数の鎖が飛び出し、私はあっと声を上げる間もなく舟ごと雁字搦めに縛り付けられてしまった。
「しまった……!」
「よくやった!」
痩躯の男が叫ぶや否や地面を蹴り、大鎌を振りかざして私に躍りかかる。私はどうにか逃げ出そうともがく――正確にはもがこうとするが、如何な魔法の成せる技か、鎖の巻き付いた箇所から力が吸われて指一本動かせない。見る間に突っ立つだけの力すら尽き、私は舟上にがくりと膝を落とした。
こうなっては逃れる術もない。悔しさに奥歯を噛み締める力すら沸かない。
無力の二文字が私の脳裏を嘲るように跳ね回る。跳ねる事すら出来ないならば、最早俎上の魚も同然だ。
男が私に肉薄する、黒い大鎌が振り下ろされる――その刹那。
刃のような烈風が、私と男達の間をするりと抜けた。
その後は、まるで静止した世界が動き出すのを見るかのようだった。
男がかざした鎌が弾き飛ばされて川辺に突き立つ。私と舟を縛る鎖が一瞬にして断ち切られる。急激に力が戻ってゆく。大男がこちらへ駆け出す。
河原には私と男達を相分かつラインがすっぱりと口を開けていた。
「はたて……!」
落とした櫂を拾い上げ、私は風の発生源を振り返って叫ぶ。
掻き消えた霧の向こうで姫海棠はたてが葉団扇を構えていた。
「とっとと行って! 礼は戻ってからたっぷり貰うからね!」
「させるか――」
「しつこいッ!」
葉団扇が十字に空を裂き、発生した鎌鼬が体勢の崩れた男達を更に追撃した。それ以上喋らず、はたては眼だけで私に訴えた。
一瞬の逡巡。
「――すまん、後は任せた!」
決意を決めてそう叫ぶと、私は川向こうの彼岸を脳裏に描いて一気に距離を縮めた。
「待て、小野塚――ぐあッ!」
三度風の吼える音が響く。
私はもう背後を気にする事をやめ、前方に意識を集中させた。するすると圧縮されてゆく景色の只中へと全力で櫂を繰り、濃霧の中へと漕ぎ出す。
来なさい木偶の坊と挑発する声が小さく耳に届いた。
「あんたらの伸びた顔を明日の一面に飾ってやるわ!」
大見得を切るはたてに感謝の言葉を呟いて、次の瞬間私は彼岸の河原に飛び降りた。
* * * * *
かんかんと下駄を大理石に打ち付けて是非曲直庁本庁の廊下を大股に歩く。
すれ違う獄卒達のまたお前かとでも言いたげな視線には完全無視を決め込んで、私は一秒でも早く目的地へと辿り着くべく足を動かした。
はたてはまだ奴らを足止めしてくれているのだろうか。真面目に勤務中の船頭仲間には悪いが、川幅を思いっきり引き伸ばしておいたのでたとえはたてを振り切っていたとしても容易にこちらへは戻って来れないはずだ。
ともあれ、身体を張って助けてくれたはたてに報いる為にも急がなければならない。金の蓮が彫り込まれた無駄に豪奢な装飾の扉を開き、私は目指す最上階へと昇降機を起動させた。
各地を担当する閻魔達の上には、十王と呼ばれる存在がいる。
彼らは文字通り十尊の閻魔の王で、昔はこの十尊で死者一人一人の裁判を行っていたのだが、今は死者の数が増えた為に各地に配下の閻魔を置き、彼ら自身は管理者として庁を統率している。
その中の一尊――秦広王の執務室の前。
意を決して強く扉を叩くと、「入りたまえ」と低い声が響いた。
「……失礼します」
黒塗りの分厚い扉を開き、押し込められるようにして中に入る。
広い執務室の奥、大きな窓とデスクの間に立って、秦広王は一人外を眺めていた。
左右の壁には図書室と見紛うばかりに本棚が並んでいる。私と秦広王の他に、今は誰も居ないようだった。
腰から下げた自身の象徴である倶梨伽羅剣をがちゃりと鳴らし、秦広王はこちらを振り返って黒々とした髭を撫でた。
閻魔王の職に就いてはいるが、その実降魔調伏が秦広王の本領である。静かな凄気に満ちた双眸に面と向かうだけで、まるで心臓を鷲掴みにされたような心持ちになる。
「小野塚小町君か。船頭死神が私に一体何の用件かな」
暴悪忿怒尊の異名を持つとは到底思えぬ穏やかな口調で秦広王は問うた。
「……私の事をご存じでしたら、私がここへ来た理由もお解かりでしょう」
「ふむ。……それは君の元上司の話かね」
答えて秦広王はデスクに片手を突いた。
矢張り知っている。いや――知らない訳がない。
是非曲直庁を仕切る十尊の閻魔王の中で、今回の件のような庁内での内紛や揉め事を管轄しているのが秦広王だ。
撤回を訴えるにせよ、問い詰めるにせよ、彼以外に相応しい相手は居ない。
「まあ掛けたまえ」と秦広王は言う。「ゆっくり話そうではないか」
「いえ、このままで結構です」
「そうかね」
「……単刀直入に言わせて頂きます。四季映姫・ヤマザナドゥの罷免を撤回して頂きたい」
「駄目だ」
些かも柔らかな表情を崩さぬまま、秦広王はきっぱりと断じた。
「……何故ですか」
「何故だと思うね」
秦広王は私を見つめる。夜の海のような暗く深い瞳に飲み込まれそうになる。
「それが彼岸のルールだからだ。我らが審判を担当していた頃の事ならばいざ知らず、今の彼岸では再審など断じて認められんよ。どうしてなどとは言うまいね? 例外を作る訳にはいかんという事だ。蟻の一穴から堤も崩れると言うだろう。人間の増えすぎたこの時代、このような事で再審がまかり通るようになってしまえば業務など見る間に回らなくなる。是非曲直庁は容易く崩壊するよ」
それとも何か、と秦広王は続けた。
「我らの審理が誤りだったとでも言うつもりかね」
漆黒の海は――前触れもなく猛禽の眼へと変じた。
柔らかな表情を顔に貼り付けたまま、その奥から獣じみた眼光だけが覗いている。
デスクの陰で私は片手を強く握り締め、その双眸を見返した。
「……そのつもりです」
「……ほう!」
ほうほうと言いながら、秦広王は私より頭一つ高い身体を折ってこちらをぐいと覗き込んだ。
その威圧感に思わず後ろへ下がりそうになる。
「面白い事を言う! ほうほう、なるほどなるほど。聞きしに勝る女傑だな、君は」
秦広王はにやにやとまるで愉しむような笑みを浮かべる。「それで? そこまで言うからには、何か私の心を動かすものがあるのだろうね」
「――これを」
はたてや慧音達――力を貸してくれた人々の顔を脳裏に浮かべながら、後生大事に抱えて来た署名の束を差し出す。
「ふむ」
髭を扱きながらそれを受け取り、秦広王は「なるほど」と呟いた。
その視線が署名を追うように動く。
一定のペースで紙をめくり続けるのを、私はまるで診断結果を待つように恐々として眺める。
はたては無事に逃げただろうか。
お迎えの奴らはカンカンだろうな。
三途の川幅の変化にも、そろそろ気付く奴らが現れる頃合か。
色んな事が思い浮かぶ。過ぎっては去り、去っては過ぎり、棒立ちの内に時間の感覚が麻痺した私の頭をでたらめに埋めてゆく。
まだか。
いや、よく見てくれ。
隅から隅まで眼を通して欲しいという思いと、早く結果を出してくれという思い。
ままならない二律背反に首を振る私をよそに、たっぷりと紙面を吟味して秦広王はようやく面を上げた。
「……よくもここまで集めたものだ。大したものだね」
感心するよと閻魔の王は言った。
「では――」
「しかしそれだけだ」
「は……」
「こんな紙切れの百枚や二百枚で、岩より堅き裁定が覆るとでも思っているのかね?」
心底呆れたようにそう言って――秦広王は署名の束をデスクの上に無造作に投げた。
かつかつと靴音を立ててデスクを回り、絶句している私の隣へ立って肩を叩く。
「矢張りあれの部下だな。ものの頼み方というものをよく理解していないと見える」
そのまま、私の耳元に口を寄せて囁いた。「もう少し頭を使いたまえ。君、これだけ署名を集めて来れるのならば、同じ方法でいくらでも出来る事があるのではないかね?」
例えば、と閻魔王は口の端を歪めた。
「布施を募る、とかね」
「なッ……」
そうか。
そういう――事か。
「あ――貴方は」
腐っている。
そう吐き出しかけて私は歯を食い縛った。
駄目だ。怒るな。
今はいい。あの人の事だけを考えろ――。
倶利伽羅剣の柄に巻き付いた金の龍の頭を人差し指でこつこつと叩きながら、秦広王は「まあ良い」と言った。
「そんな事よりもだ、小野塚君。君は中々見所がある。どうだ、私の直属で働いてみる気はないかね? 何ならお迎えの職を与えてやっても良い。聞いたよ、お迎えへの転向を考えているんだろう?」
「……何を」
こつこつと硬い音が続く。
「『地蔵上がり』の事など忘れたまえ。私について来ればいずれは閻魔王の地位も夢ではないぞ? あのような石頭の下ではいつまで経っても船頭から脱する事など出来まいよ」
「……」
こつこつ、こつこつ。
「全く、罷免に持ち込むには苦労したよ。地蔵というものは矢張りどこまでいっても頭が固い。白を白、黒を黒と言う事しか能のない女だったが、その分扱いには手を焼いていてな。正直に言いたまえよ。君も内心はそう思っていたのだろう、なあ小野塚君――」
こつ。
次の瞬間。
私の拳は閻魔王の顔面にめり込んでその髭面をデスクの向こうへと吹き飛ばしていた。
窓硝子の硬質的な破砕音が執務室中に跳ね返る。
「見下げ果てた屑野郎だ、あんたッ……!!」
硝子の破片の中に倒れる秦広王をデスク越しに見下ろして吐き捨てた。
この瞬間、私は目的も立場も全て忘れ去った。いや――覚えてはいた。いたけれど。どうしても、耐え切れなかった。
拳がわななくのを止められない。デスクを乗り越え、私は硝子片が皮膚を裂くのも構わず秦広王の胸倉を捻り上げた。
「立て、もう一度そのニヤケ面に叩ッ込んでやるッ」
「……まさか閻魔王を殴り飛ばすとはな……」
「だからどうした。あたいの首も飛ばすかい? あんたの言う通りだよ、あたいはあの四季映姫の部下だ。脅しや懐柔なんぞが通用すると思うなよ! 辞めろってんならお望み通りに辞めてやらぁ! 立ちな、こいつが辞表代わりだ――」
「小町!!」
居るはずのない第三者の声が聴こえたのはその時だった。
久しく聴いていないように思える、ひどく懐かしい声。
「小町、やめなさい! もう十分よ!」
秦広王に今にも叩き込もうと引き絞った左腕に縋り付いて彼女が叫ぶ。それが誰であるかなど、私には振り向いて確かめるまでもなかった。
「――四季様」
ゆっくりとそちらを振り返り、私はどうしてここにという言葉を飲み込んだ。
四季様は私の左腕を掴んだまま、見た事もない顔をして私を見上げていた。
困ったような、途方にくれたような表情。その意味するものが他ならぬ私に対する「心配」であると気付くまでに、私は多大な時間を要した。
どうしていいか解らぬまま、私は左手から力を抜いた。四季様はそこでようやく掴んでいた手を離すと、秦広王に駆け寄って彼を助け起こした。
「申し訳ありません、お怪我は――」
「良いさ、自業自得というものだ」
秦広王は道服からばらばらと硝子片を落としながら立ち上がり、思考が追いつかず固まっている私を見て自嘲気味に笑った。
「あまりにも良い反応をするものだから、ついつい調子に乗ってしまった。それより」
「はい。……小町、右手を出しなさい。血塗になっているわ」
「え? あ、ああ――痛ッ」
硝子の破片で右手はあちこちから出血している。意識した途端、思い出したように痛みが襲って来た。片腕に結んだトレードマークのリボンを解いて、四季様は壊れ物に触れるように私の手にそれを巻いた。
「……ごめんなさい」
「何で謝るんです」
「――それぐらいは、させて頂戴。……後で医務室へ行きましょう」
気味が悪いほど優しい――というよりしおらしい四季様に毒気を抜かれて、私は無傷な左手で頬を掻いた。
「それより説明して下さいよ。一体――」
「どうする、四季君。私からしても良いが」
「いえ、秦広王」
私にさせて下さいと言って四季様は一つ咳払いをれした。私に説教を始める時の四季様の癖だ。そんな仕草に安堵を覚える自分が情けなくもあり、敵地の只中で味方と出会えたように頼もしくもあった。
「――是非曲直庁の財政状況が芳しくないのは知っているわよね」
「ええまあ、それは」
期待していたそれとは全く違う言葉で始まった説明に、私は肩透かしを喰らった思いで曖昧に頷いた。
庁の懐具合が逼迫している事は、それこそ末端の構成員でも知っている事だ。その背景にはここ数百年の、わけても直近百年の爆発的な人口増加がある。それに伴い地獄の各施設は拡張を余儀なくされているのだが、いくら拡張しても世界人口は増加の一途である為、庁の支出は天井知らずに増え続けているという訳である。人口が増えればその分収入も増えはするのだが、それでは到底追いつかない所まで来ているという事だろう。
おかげで職員達はどこでも例外なく節約倹約で、我々船頭もおんぼろ舟一つ新調出来ない有様だ。いつか全ての舟をモーターボートにするという計画が上がった事があったが、当然の如く廃案となった。まあ、私は手漕ぎが気に入っているのでそこは別に良いのだけれど。
「けど、そいつがどうしたって言うんです」
「……庁の運営が、いよいよ限界まで来ているのよ」
「はあ……って、そうすると」
「そう、余剰人員を削減する事になった。全庁規模でね。書記官やお迎えの死神なんかは厳格な審査のある狭き門だけれど、職種によっては殆ど来る者拒まずだったからね。悲しい事だけれど、当然ろくに仕事をしない者も出て来る」
「待って下さい、そいつは解りますが」
何故四季様が、と私は彼女を見つめた。
四季様は――何故かばつが悪そうな顔で私を見上げた。
「……決められなかったのよ」
「は?」
「私の抱えている部下の中で、クビを切れるような者を決める事は出来なかった。けれど、本部からは最低でも一人は削減せよという旨の通達があったのよ。それで――」
「それで、まさか自分が辞める事にしたってんじゃあないでしょうね」
先回りしてそう問うと、四季様は首を横に振った。
「違うわ。……結局、見かねて本部から監査がやって来たのよ。いつまで経っても答えを出さない私に代わって、不要な人員を見定めにね」
「……そういや、最近やけに視線を感じる事があったような」
また天狗かと思って気に留めていなかったが、まさかあれがそうだったのだろうか。
「かも知れないわね」
「で、結果はどうだったんです」
「……結果は、一名。けれど、私はどうしても納得出来なかった。だから――秦広王に相談したの」
「相談……?」
「うむ」
黙って眼を閉じていた秦広王が私の視線に応えて口を開いた。「彼女は不要な部下など居ないと主張した。どうしても削減は受け入れられないとね。私も悩んだよ。私に直訴までしてくるような閻魔は他に居なかったからね。しかし、かと言っておいそれと主張を通す訳にもいかん。そこで私は一つのテストを行う事にした」
「テスト……って、そりゃあまさか」
ようやく。
ようやく事の次第に理解が及んで、私はぽかんと口を開けて四季様と秦広王を見比べた。
「そう」
申し訳なさそうな顔をする四季様とは対象的に、秦広王はにやりと笑って顎鬚を撫でた。
「つまりだ。クビがかかっていたのは彼女ではなく――君の方だったという事だ」
「職務への意欲無し、庁への忠誠心無し。監査は貴女をそう判断したのよ」
「仕事は選ぶ、その上サボる。挙句組織に忠心もないとなれば――」
「……人員整理の対象にもなろう、てぇ訳ですか」
私は――がっくりと肩を落とした。
秦広王は実に愉快げに眼を細めた。
「悪人を好んで運びたがる事に関しては、まあ良いだろう。もう一つの君の悪癖――これも今更治りはしまい。ならば判断材料は最後の一つ。直属の上司が不当に罷免に追いやられた時、君は果たしてどうするのか。君には悪いが、そこを試させてもらった」
皆まで言われるまでもない。昨日四季様に呼び出されたあの瞬間から、秦広王の試験は始まっていたのだ。
恐らく浄玻璃の鏡を通しでもして、私の行動は逐一観察されていたのだろう。という事は、あの死神達もテストの内だった訳か。恐らくは全てを知っていた幽々子嬢の質問も。いや――あの人は、或いは私を助けてくれたのかも知れないが。
「……ま、いいですよ」
言葉が自然と口から零れていた。
「二度と御免ですけどね。四季様がクビじゃないなら――それでいいです」
「小町……」
色々と言いたい事はあるが、少なくともそれだけは私の偽らざる本心だった。
「本当にうちに欲しくなるな、君は。……それで、結果だが」
その言葉に私と四季様は揃って秦広王を見る。
二つの視線にさらされて、秦広王は派手に腫れた片頬を触った。
「合格だ。正直、予想以上だったよ」
「あ――」
「ありがとうございます」
私が何か言うより先に、四季様が深々と頭を下げた。
「いやいや。怒ってここへ乗り込んで来るか、縁がなかったとすっぱり捨てるか。君ならばそのどちらかだと思っていたのだがね。よもや正攻法で来るとは思わなかったよ。実に良いものが見れた。ま、少し悪ノリが過ぎて――」
キツい一撃を貰ってしまったがね、と言って秦広王は愉快げな笑みを見せた。
「……謝りませんよ」
「かまわんさ」
両手を広げておどけてみせる。
「さて、二人で話す事もあろうからこの辺で終わっておこうと思うが――小野塚君」
「何でしょう」
「騙まし討ちのような真似をしてしまったお詫びと、予想以上のものを見せてくれた礼だ。私に出来る範囲で、君の望みを一つ聞こうじゃないか」
望み、と私は鸚鵡返しに呟いた。
「そうだ。先程の話ではないが、君が望むのであればお迎えの職への転向に口利きしてやる事も出来るぞ」
――お迎えか。
確かに考えた事はある。天界を占有して肥え太る天人共を怖がらせてやろうかと、そう思った事はある。
けれど、今は。
「……有り難い申し出ですが、遠慮しときます」
「そうかね」
「ええ。……それより、そんなら一つお願いしたい事があるんですが」
* * * * *
「……悪かったわね、本当に」
並んで廊下を歩きながら、四季様は遠慮がちに私を見上げた。
「何ですよ、らしくもない。魔理沙に変な茸でも食わされましたか」
「申し訳ないと思ってるのよ」
冗談めかした言葉は不発に終わった。
私は軽く溜息を吐いて窓の外を眺める。相変わらず昼も夜もない彼岸の空は、矢張り憎々しいほどに晴れ渡っている。
「ま、四季様が本棚の裏から出て来た時は流石に驚きましたがね。……自分で言いたかないですが、今回の事ぁあたいの身から出たサビです。四季様は最後まであたいを守ってくれた訳でしょう? 嬉しかったですよ」
「……小町」
「大体ですね、こんな事でいちいち謝られちゃあ、あたいは一体何百回四季様に頭を下げにゃいかんのですか」
「……それもそうね」
四季様がくすりと笑う。今度は効果があったようだ。
「それじゃあ――」
こほんと一つ咳をして四季様は続ける。「ありがとう、小町。私こそ感謝しているわ。これほどの事をしてくれるなんて思わなかった。――その」
頭一つ低い上司は、窓の方へと顔を背けて小さく「嬉しかったわ」と呟いた。赤く染まった顔が窓に映っている事に気付いたが、私はそ知らぬ振りで頬を掻いた。
「……全く、あなたに礼なんて言い慣れていないからちょっと緊張しちゃったじゃないの」
「なはは、毎日言ってくれればその内慣れますよ」
「馬鹿を言わないの」
相変わらずの口調だが、その足取りは少しだけ軽い。どうやら機嫌は良いらしいというのは、長年の付き合いから来る私の勘である。
その足が、不意に思い出したようにぴたりと止まる。
「ボス?」
「……小町。お迎えの職に就きたいのなら――私に遠慮する事はないのよ」
おざなりでもなく、真剣でもなく、事務的なイントネーションで四季様は言った。
感情を映さないその声が、逆にその心を丸裸にしているように私には思えた。
私は声に出さずににやりと笑って、再びすたすたと歩き始めた四季様の横に並んだ。
「そいつは有り難いお心遣いですが」
あの日決めた事。ようやく思い出せた事。
敢えて彼女の顔を見ずに、私は答えた。
「四季様の泣きッ面を拝むまでは、貴女の下に居るって決めてますからね」
「……それじゃ、一生船頭死神ね」
四季様は呆れたように言った。
互いに視線を合わせないまま、私達は小さく笑った。
「久しぶりに飲みに行きましょうよ」
庁舎の入り口に設えられた階段を二段飛ばしで駆け下りて、私は四季様を見上げた。
「嫌だと言っても連れて行く気でしょう。……どこにするの?」
「人里で。親爺さんも最近四季様が来ないってんで寂しがってましたよ」
四季様はあくまで淑やかに階段を下りながら答える。
「変わった人間ね……ま、いいわ。今日は私が奢ります」
「マジすか! 流石四季様、愛してる!」
「ば、馬鹿! こんな所で何言ってるの!」
四季様が怒鳴るが私はもう聞いていない。白と黒の色違いに敷き詰められた床石をリズム良く踏み渡りながら、今晩は何を飲もうか、そればかりを考える。
しかし何だろう、何か一つ忘れているような気がする。
何かこう、やりかけている事のような、やりっ放しの事のような。
白黒白。
黒白黒。
白、黒。
「――あ」
はたと思い当たる。
ようやく見つけた答えが、風船から抜ける空気のように私の口から漏れ出した。
「三途の川幅戻すの忘れてた……」
* * * * *
林檎飴を舐めながら、姫海棠はたては「人騒がせ」という単語を連発した。
「まあまあ、そう言わないでさ」
なだめる私の手には串焼きが握られている。
「感謝してるんだよ、お前さんには。ほんとにさ」
「ま、別にいいけどー」
言いながらはたてはぶらぶらと足を動かす。腰掛けた枝が上下に揺れ、地面にその葉を舞い落とした。
樹上から行き交う人々を眺めて、私は串に刺さった肉を一つ口中へ放り込んだ。
中有の道である。
地獄に堕ちた罪人達の開く出店でここは常日頃より死者の通り道とは思えぬ賑わいを見せているが、今日はそれとは比較にならない活況を呈している。
「私はこれくらいじゃ納得しないからね」
十枚ほどの「回数券」をひらひらと振りながら言うはたてに解ってるよと答えて、出店を楽しむ人々の歓声に耳を澄ませる。
署名の協力者に礼をしたい。それがあの時、私が秦広王に頼んだ事だった。
大した事でなくても良いが、こんな騒動に巻き込んでしまった事に対して、とにかくお詫びの一つもしなければ気が済まなかった。
とはいえ人数や会場の都合から考えて宴会を開くというのは難しいし、かといって菓子折りなんぞを配って回るのも無粋な話だ。
そこで秦広王が提案したのが出店の回数券だった。
結果、中有の道に今までになく人間や妖精、妖怪達が溢れる事となった。
「お前さん達にゃまた日を改めて礼をさせてもらうよ。あたいが奢るからぱーっと行こう」
「本当っ!? やったー、さっすが小町! 愛してる!」
「……お前さん、何か誰かに似てる気がするねぇ」
ともかく。
これで全てが丸く収まったと言いたい所だが、一つだけしなければいけない事が残っている。
「四季様がクビになったって誤解、どうやって解こうかねぇ……」
今回の件の真相は、まだはたてだけにしか伝えていない。詳しい事は後で説明すると言って、慧音や阿求達には「何とかなった」としか報告していないのだ。尤も、はたてはあの日私を逃がした後、芝居を止めた死神達から大体の事は聞いていたらしいのだけれど。
「あ、それなら大丈夫。もう手は打ってあるよ」
「本当かい? やるじゃないか、少し見直したよ」
「ふふん、海よりも深く感謝するがいいわ。ほら!」
胸をそらして、はたては私の眼の前に何かを突き出した。半ば反射的に受け取って眺めると、それは花果子念報の号外だった。
「……何々、『お騒がせ! 小野塚小町に壮大なドッキリ』……って、ちょ、おま――!」
慌てて顔を上げるとそこには既にはたての姿はなく、代わりに鴉の羽が数本風雅に舞っているのみ。
「は……」
やられたと思うべきなのか、自業自得と諦めるべきなのか。
「はたてェェーーーー!!」
私の絶叫は、彼岸の果てまで届いたという。
了
一気に読んでしまいました。
漢気小町。心躍りましたw
どこまでも真っ直ぐな小町の姿勢に惹かれました。面白かったです。
幻想郷に、根っから腐ってる輩など、いなかったんです。
みんな、みんな、決して朽ちずに輝き続ける宝石を、心の中に持って居るんですね。
格好良いな小町かっこいい
とても面白かったです。
特にはたてが記者としてのあり方を悩むシーンや小町のことを人間みたいと言うシーンが印象に残りました。
次回作も期待しています。
登場キャラがことごとく立ってる
小町もはたても幽々子も文もレミリアも秦広王も好きだ
紅魔館へ行く話もあったなぁ等と。
こちらの小町はアレとはまた違った魅力を感じて素敵です。
霊夢は10代少女に見えない達観ぶり、
幽々子のうさんくさい魅力も存分に出ていて良い。
死神の男たちとの攻防もテンポ良くすいすい読めた。
秦広王も「なんつう悪いやつ!」と思ったけど実はいい人だし
全体的な長さも、長すぎず短すぎず、良いボリュームで。
ハッピーエンドで良かった!
前半がとても良かっただけに、もう一ひねり欲しかったと思います。
はたこまに目覚めそうになりました