茜の空に白い雲。そして、高く聳える山々。
尾根が纏う雲は木々の緑と太陽の赤に染められて独創的なグラデーションを描いている。
小説の一節にでも書かれていそうな雄大な風景。
文字にすれば陳腐なそれも、実際に目にすれば心を打つものだ。
そんな景色を見上げながら、私は浮かぶ雲と空の境目を指でなぞる。
日に照らされた指は肌色から赤に塗り替えられ、まるで空と一体になったようだ。
私の指先は茜の絵の具の付いた筆で、雲の縁を一周すれば白を赤く上塗りできそうな気になる。
まあ、そんな一人遊びをしながら息を吸う。
そして、私は斜め前に座る彼女に問う。
「素敵だと思わないかしら?」
後ろから風が吹いてきて、私の声を運んで行く。
追い風に乗ったその響きは茜に染まって、空に吸い込まれて一つになった。
彼女は少し遅れて反応して、興味なさげに空を一瞥する。
雲の影のせいで彼女の姿は周りよりも明度を下げていた。
その表情は背面しか見えない私には推測するしかないが、その身から溢れる腐敗した倦怠感をみれば想像は容易だった。
「素敵ね」
そう呟きが聞こえる時には、彼女の頭は既に垂れていた。
そっと気配を薄めて斜め上から覗き込めば、彼女の目が僅かに伺えた。
「素敵ね」
そう彼女は繰り返す。
足元の名も知らぬ野草の花を見つめながら。
――長年過ごしてきた場所にはやはり愛着が生まれるものだ。
その少しずつその様を変え形を変えるこの世界は、ますで自らの子供のようにすら思える。
だから、できるならそこに住む人々がこの世界を好きであれと願う。
それはささやかな祈りにも似た願い。けれど、決して無茶ではない望み。
そして、私はそれを叶えたい。何としてでも、という強い思いはないが私にできることならやってみようと思う。
だから彼女にも機会を、この世界を愛するための切欠を。
私があげよう。
――不思議な夢を見た。
それはとても可笑しな夢で、ともすれば現実とそれとを倒錯してしまいそうだった。
机に突っ伏していた身体を起こす。
不自然な体勢で眠っていたせいか、肩甲骨辺りが痛んだ。
肩を一回転させると筋肉が嫌な軋みを発てるのを感じた。
目をつぶる。そして開く。
無意味な仕草の果てに映るのは、淡白な部屋の壁。
けれども、今にもそこに夢の世界の風景が現れそうな気がしたのだ。
それほどまでにあの世界は色づき、確かに呼吸をしていたのだ。
立ち上がる。うん、と背伸びをすれば背筋が伸びて心地良い。
背伸びをしたままベッドに近づく。
そして、力を一気に抜いてベッドに座る。
瞼を下ろして、夢の光景をそこに描く。
真っ黒なキャンバスに描き付けた風景画はとても美しいものだ。
だが、私は酷く憂鬱だった。
溜息を吐いてしまいそうなくらいに陰鬱な気分だ。
理由は夢のせいだ。
何故なら、それは私の頭が壊れていることの他ならぬ証明だからだ。
外の世界を知らない私があんな綺麗な景色を思い描ける訳がないのだ。
例えば、今まで珈琲を飲んだことがない人がいるとする。
では、その人が珈琲を飲み干す夢をみたと言った。
苦味が強かったがどこか癖になる味だったと。
実に滑稽極まりないではないか。
どうして一度も飲んだことがないのにそれを珈琲だと言えるのか。
所詮、夢など記憶の断片の寄せ集めに過ぎないのだから、そこに未知の事物が登場してはいけないのだ。
仮にもし知り得ないものが在ったとしても、その本当の姿は既知のものに過ぎない。
そこで、私の夢の場合だ。
そう、あれは確かに実在する生命の形だった。
一度も見たことのない花の手触りは、今まで感じたことのない柔らかさだった。
何よりも空気が違っていた。
肺を通じて全身を澄ませる清らかさ。
あれは、この淀みきった地下室で暮らす私では、絶対に感じることのないものだった。
だから、やはり私は可笑しいのだろう。
目を開けて天井を仰ぐ。
今の私はそこに雲を浮かべることができるのだ。
唐突に笑いたくなった。
何も面白いことなどないのに。
あるとすれば、突然笑い出す自分が面白いくらいだろう。
私の身体は笑っているのに、心はつまらないと呟いていた。
外の夢など、ここから出れない、出るつもりもない私に取って、忌むべき呪詛でしかないのだから。
目を覚ましても、現実に夢幻の世界を作り出してしまう。
私の夢と現の境は酷く不安定だった。
――ベッドの縁に読んでいた本を投げ出す。
小説で風景描写を読んでも、それを思い描くことができないので面白くない。
何の事件も起こらない主人公の一日など特にそうだ。
方々を走り、時間に追われる物語の人物たちと違って、私にとって一日はとても曖昧だ。
私の世界は下らないこの一室でしかないのだから。
ここには明かりが差し込む窓など存在しておらず、今が朝なのか昼なのか、はたまた夜なのかすら定かではない。
そういう風通しの悪い造りが、空気が淀む一番の理由なのだ。だが、地平線よりも下に存在するここに窓など作りようもないのだが。
両手を後ろに回して首の力を抜く。
ぐるり、と景色が一転して逆さまになる。
そして、反転した文字盤が目に映りこんだ。
時計だ。
そう一応、この部屋の壁に時計が掛けられてはいる。
まあ、もっともその針が指差すのが午前か午後か分かりはしないのだし、上下逆さまであろうと関係はない。
むしろ、時間自体が意味を成していないと言ったほうが正しいか。
だがらそれは、些細な問題に過ぎない。
私のすることなど寝て起きて、気が向けば本を読む程度だ。
起きたいように起きて、寝たいように寝る。
そんな適当さが、私には丁度良い。
両手を上へと投げ出し、身体を重力に任せて後ろに倒す。
柔軟な布地から伝わる反発が僅かばかり、私の心を弾ませる。
それも一瞬のことですぐに心は平坦に戻る。
ふっ、と息を短く吐いて腰を捻って半回転。更に身体を捻じりながら足までベッドの上に乗せる。
目を瞑って、適当に身体を回転させてみる。
仕様がない怠惰な私の一人遊び、眠る体勢を決めるささやかなルーレット。
右へ左へ転がる。
そして、腹に先程置いた本が当たったところで私は止まる。
瞼を上げれば天井が見えた。どうやら仰向けになったらしい。
再び目を閉じて自らの呼吸を意識する。
横隔膜が、肺が、そして心臓が動くのを感じた。
やがて、身体がベッドへと沈み込む感覚がする。
綺麗な体勢ではないが、誰に見咎められる訳でもない。
身体から力を抜く。
こうなれば、最早私の一日は終わりだ。
再び起きようという意志は湧いてこない。
手探りで枕を探し当てると、抱き枕代わりに抱きしめる。
少し肌寒いくらいの室温は寝汗をかく心配もないし快適な環境だ。
別段眠くもなかったのだが、じっとして目を閉じてベッドの上に寝転んでいれば自然と倦怠感と共に眠気がやってくるものだ。
徐々に鈍っていく思考は長い時間をかけて、やがて止まった。
――左の頬に何かが触れる。その感触で私の意識は目覚めた。
だが、鈍った思考は覚醒を面倒だと切り捨てて、再び眠りにつこうとする。
それを邪魔するように再び何かが触れる。
ちくり、とした微弱な痛み。
そわり、とした薄弱としたくすぐったさ。
その二つを併せ持った感覚。
言い表すなら、不快ではないが煩わしい感触だ。
手で払ってみる。
すると、手の甲が何かを弾いた。
それと同時に、頬の煩わしさも失せる。
しかし、数瞬後には再びその感触は戻り蘇ったのだった。
無意味な攻防をしばらく繰り返す。
そして、ついに私が耐えきれなくなって目を開く。
緑が目に映る。
ああ、と溜息を零す。
身体を起こして、またか、と内心で愚痴る。
――私は夢を見ていた。
前と全く同じ眺望が眼前に広がる。
雲の位置だとかそんな細かな違いを除けば、太陽だけがただ一つの相違点だ。
まあ、その違いというのも、そこまで大きい違いではない。
前回は空を橙色に塗りたくっていた日が、今は地に呑まれていた。
昼から夕方へと、そして夜へと移り行く丁度その時なのだろう。
地平線と平行に光の筋が走っている。
そこの中央、その一点に宝石が置いてあった。
それは、太陽の最後の煌めき。
そこから放たれる白い光の筋は放射状に広がっている。
きっとそれは、美しさに見惚れた者を闇に道連れにする網なのだろう。
薄ぼんやりとした無数の光が方々へと広がり、僅かに残った昼夕の残り香を絡め取って沈んで行く。
この光景を目撃して目を逸らせるものなど、居やしないに決まっている。
だから、それは蜘蛛の巣と呼ぶべきかも知れない。
「おはようございます」
景色を眺めつつ、頬にまだむずがゆさを感じて、薬指で掻いていると声を掛けられた。
戯けたような声色のそれはわざとらしく畏まったように振舞う。
それがなんだか鼻についたので、鼻を鳴らして返事をしてやった。
やっぱりだ。
前回と同じ夢ならこの声の主も、やはりいるだろうと思ってはいたが……
その声は私の右後ろ、一人分程の間を開けた位置から聞こえる。
そこは前回と同じ場所。
声は不遜な私の態度を気にも留めずに言葉を続ける。
今度は随分と馴れ馴れしい感じが漂っていた。
「なあに、頬なんて掻いちゃって……もしかして、寝顔見られて照れてるの?」
茶化すような色を含むその声に私は辟易する。
右手を挙げて無造作に振る。私なりの返答だ。
「あらあら、無視するつもり?」
けれども、それでは気が済まなかったようで、後ろから礼儀がどうだのと語りかけてくる。
煽るような口振りに私は振り返りたくなる。
けれど、その気持ちをぐっ、と堪える。
何故だか分からないが、振り返ってはいけない気がしたのだ。
そう、それは怯えと表すのが最も近いだろう。
一応断っておくが、声の主が恐い訳ではない。
そう、私が恐ろしいのはそこに誰かの姿があるかもしれないということ。
現実の世界で私と交流があるのは、本当に極めて僅かの者だけ。
片手で数えることができるほどに限られている。
しかし、今私の斜め後ろにいるのはそれらとは全くの別人。
私の記憶にある誰の声とも違った声色に口調。
夢は現実からの引用であるはずなのに、初めての存在がそこにいる。
つまりそれは、私が生み出した存在だということ。
その事実は私を酷く動揺させる。
やはり私の頭は壊れているのではないかと。
そして、それを目にした時、そいつが夢でなく現にまで付いて来るように思えてならないのだ。
そうやって夢と現実が曖昧になっていくのがとても恐ろしい。
それは私の精神の崩壊を意味するのだから……
私は振り返らずに返答する。
「どうも、一々話し掛けて来なくていいのに」
「あら、連れないのね」
そう言うと、わざとらしく大きく溜息をついて来る。
その仕草がどうにも気に障ったので、私も溜息をつき返してやった。
――風が吹き、葉が揺れる。
ただ、その風力は微弱過ぎて、草同士が触れ合う音は聞こえない。
風は私の前髪を左右に流して過ぎ行った。
「前の太陽は気に入らないみたいだったけど、今回のは如何かしら」
「吸血鬼が太陽を気に入る訳がないでしょ……でもまあ、これはまあまあかな」
別に隠す必要もないので、純粋に思ったことをを言ってやる。
すると、それは良かった、と安堵の色の浮かんだ声が聞こえた。
そうして、沈黙が訪れる。
声は、掛ける言葉がないのか、はたまた掛ける気がないのか……
ただ、私の右後ろに在り続けるだけだ。
私は目を擦る。
そうすれば、夢が覚めるかと思ったがそんなことはなかった。
結局、視界は白く濁るだけだった。
再び視界が安定した時、端に一羽の鳥が飛んでいるのが映った。
尾が見えるところを見ると、沈む日に向かい飛んでいるのだろう。
雄大に羽ばたくその姿は、羽が夕日を弾いて赤く輝いていた。
それが眩しくて私は目を少し横にずらす。
そして、日が沈み、消える。
その、最後の煌めきは私にはあまりに強烈過ぎて思わず、目を閉じてしまうのだった。
黒に染まる視界の中でも白い点が浮かんでくる。
瞳に纏わりつくそれが鬱陶しく思えて仕方がない。
瞼の上から眼球を手のひらで軽く押さえてみたり目擦ってみたりといろいろ努力はしてみるが、全て徒労に終わるのだった。
――やがて、夕日の残滓も消え去った頃。
私は、目を開く。
最後に太陽の投げた網に掛かったのか、鳥の姿は見えなかった。
薄暗さが広がり始めた空は、赤と黒のグラデーションに雲が映える。
「さて、そろそろ頃合いね」
手を叩く音と一緒に声を掛けられる。
ついつい景色に気を取られて、すっかり存在を忘れてしまっていた。
「楽しんでくれたかしら?」
私は目を瞑って左手を挙げて返答してやる。
「やれやれ、可愛くないわね」
その声を最後に私の意識は途切れたのだった。
――欠伸を噛み殺して伸びをする。
膝の上に置いた本に栞を挟んで閉じる。
力を抜いて机に身を預ける。
頬が机に触れると肉が自らの頭の重みによって押し潰されるのを感じた。
臀部から伝わる椅子の感触がどうにも気に入らない。
目の机を指で叩くと、爪と木が接触して軽快な音がなる。
けれど、指先に痺れのようなむずがゆさが走り、不快だったので結局直ぐに止めた。
顔を傾ければ、部屋の一角が目に映る。
部屋の隅など普段、目を遣ることもないはずなのに、いつの間にか見慣れてしまっていることに今更ながら気付くのだった。
つまらないなと思う。
退屈潰しに本を読むのも、流石にそればかりだと飽きてくる。
だが仕方がないのだ。
ここに何かを求めるのがそもそもの間違いなのだから。
それを思えば不思議と倦怠感も、退屈感も消え失せる。
変わりに浮上する感情は何もない。
諦めの想いすらも湧き上がることはない。
そう、どこまでも無の感情だった。
何の変化が訪れることがない場所。
それがここ。
そして、だ。
それに対して何の感慨を抱くこともなく、無感情な私は限りなく死んでいるのだろう。
誰と関わることもせず、怠惰な生活を続ける。
それのどこが生きていると言えるのか?
言えやしない。
むしろ、私よりもそこらの故人の方が多くの人の心の中で生きていると言えるだろう。
私のやっていることなど、誰に何の影響を与える訳でもない時間の浪費でしかないのだから。
良い方に考えれば、誰の迷惑にもなっていないと言えるかもしれないが。
そんな下らない生き方をしてきて分かったことがある。
これだけ生きてきて、その程度しか分からなかったとも思うが……
生と死の境目など酷く曖昧なものだ。
大切なのは心臓の拍動ではなく、魂の鼓動。
そう考えると、やはり私は生きていないのだろう。
私の心は現実世界で何一つ躍動することはなく、むしろあの夢を見ている時の方が踊っていたくらいだ。
本を肘で押しやる。
しかし、どうやら押し過ぎてしまったようで一瞬で視界から消える。
慌てて身体を起こせば、丁度床へと叩きつけられるのが見えた。
鼓膜を深く押すような音がする。
その鈍重な音は部屋に反響して、更に停滞するのだった。
私はその本を一瞥して、頬杖をつく。
今ので、ページに変な折り目ができたら嫌だなあ、と思ったがわざわざ拾う気にはならなかった。
椅子を大きめに引いて、再び机に突っ伏す。
硬い机でも腕を枕にすれば案外、快適なものだ。
目を閉じる。
瞼の裏に無数の明かりが飛んでいて、気が落ち着かず悩ましい。
しばらくそれらを見つめていると、徐々に輝きは減っていくのだった。
――真っ暗だ。如何程の時間が過ぎたのだろうか?
一時間にも感じられたし、本当にそうか、と考えれば一分にも思えた。
視界には一点の光さえ映らない。
そこで、目を開くのを忘れていたことに気付いて、我ながら苦笑するのだった。
目を開く。
世界が広がる。
色鮮やかな景色が現れる。
そこに在ったのは見慣れた部屋の壁などではなく、小さな泉だった。
私の目はほんの少しの間も置かずに辺りを余すところなく捉える。
鬱蒼とした木々。どれも一様に背が高く、胴回りもかなりの太さがある。
長い年月を経たであろうそれらの大樹は輪を成し、中央にある泉を隠しているようだ。
その様を見ていると、わらべ歌のかごめかごめをふと思い出した。
まあ、水に正面も何もあったものではないが、あるとすれば、後ろの正面は私なのだろうか?
我ながら馬鹿な妄想だなと一笑に付して、顔を上げた。
仰げば、空は葉の雲で覆われて、僅かに零れる日光すらも青緑に描き変えている。
今更ながら、それを見ている私は地上よりも一段高い所にいることに気付いた。
何だろうと思って下を見れば、倒木に腰掛けているのだった。
そんなことすら分からない自分に少々呆れてしまう。
朽ち逝くその表皮の凹凸は座るには少々不快だったが、同時にそれが自然なのだという主張にも思えなくもない。
右の手のひらで撫でてみる。
ざらついた表面が引っ掛かる。
盛り上がった節の部分を掴んでみれば、いとも簡単に剥がれてしまう。
きっと腐敗が進んでいるのだろう。食痕も所々に見受けられる。
剥がれた箇所から、名前も知らない小さな昆虫が姿を見せた。
なんとも不思議だと思う。
木の死骸の中で昆虫が躍動する。
死の中に生が内包されているのを見ると、なんだか生き死にがよく分からなくなってくるのだった。
私ではない人はこれをどう思うのだろう?
湧いて出た虫に嫌悪や侮蔑などの不快な感情を抱くのだろうか?
それとも、命を循環させる存在として見るのか?
少なくとも、生きていて死んでいる私には、この虫を見下すことも敬うこともできはしないのだろう。
死と生との分け目はこんなにも曖昧なものか。
そんなことを感じただけだった。
本当になんとも不思議なことだと思った。
――手に残った木片を放り出す。
そして、私自身も地面へと飛び降りる。
流石に有り得ないとは思うが、木が崩れるのではないかという考えが思い浮かんで、離れなかったのだ。
そして、私が着地すると同時に声が聞こえた。
「あーあ、せっかくの特等席なのに」
その声の発生源は先程まで私が座っていた場所からだった。
やはり来るだろうとは思っていたが、実際に現れてみると特に何の想いも抱かなかった。
「何か気に入らないところあったかしら?」
「……別にないよ。ただ、降りたかっただけ」
口を開くのを面倒くさいなと思いながらも、誤解のないように弁明はしておく。
「そう、なら良かったわ」
そして、声は押し殺したように笑うのだった。
――笑い声に合わせ水音がするのに気付いた。
意識をしなければ見落としてしまう程にしなやかな音。
その方向へ目を向ければ、岩と岩の間から水が一筋の流れを成して泉に注ぎ込んでいるのが見える。
さらさらという音が実に耳に心地良い。
その音はとても自然で、この場所に溶け込み過ぎている。
だから、さっきまで気が付かなかったのだろう。
反対側を見れば細い水の筋が木々の間へと消えている。
私はその源へと歩み寄る。
苔むした岩石から透明な水の湧き出る様は、別に面白いものではないのに……
私はどうしてか似合わないなと感じて笑ってしまうのだった。
岩の横に立つ。水に濡れた足場は滑り易くて少し緊張した。
一度息を大きく吸う。
しっとりとした空気が肺を撫でた。
けれど、湿気の多い空気を吸い慣れていなくて、吸い込み過ぎて咽そうになったのはなかったことにしよう。
それから、私は源へと手を伸ばした。
大地の鮮血は如何な味だろう。
水は今まで無味無臭だと思っていた。
だがそれは、生命をこの世に繋ぎ留める清水なのだと気付けば、この上なく甘美で蠱惑的な芳香を放つのだった。
両の手を合わせて椀を作る。
それから、ゆっくりと肘を伸ばした。
いや、伸ばそうとした。
私の腕は中途半端な位置で静止していた。
他でもない私の意志でだ。
――私の目に映るのは二つ。
無限を思わせる湧き水。それは清水にして聖水。
僅かに射す日に照らされて小さな星が散っている。
そして、私自らの手のひら。
先程触った木の屑が湿気を帯びていたせいか、細かい砂のようになって肌理の間に入り込んでいた。
黒ずんだ手のひらは、かさついたような気持ち悪さがした。
そんな私の手。
そう、それは腐った木の死骸がこびり付いた死者の腕とでも言えばいいだろうか。
きっと、私のように生きていない……活きていないものが触れることは禁忌だと感じたのだ。
両手を静かに分かつ。
行き先を失った手はふらふらと身体の脇を揺れる。
そして、偶然目に付いた足元に落ちていた一枚の落ち葉を摘む。
目の前に持ってきてくるくると回す。
色も鮮やかな緑で虫食いの跡もない綺麗な葉だった。
落ち葉。
つまり死んだ葉。
それなのに、何故こんなにも生きているかのように綺麗なのだろう?
人差し指と親指に弄ばれていた葉は回転するたびに上へと上がっていき、飛び出すのだった。
葉は揺れながら、眼前の苔むした岩の隅に舞い落ちていった。
私はそれを見届ける。
それから、葉を薬指と親指で弾いて、清流に乗せた。
溢れ出る水に押されてゆったりと流れて行く。
私もそれに合わせて一歩ずつ足を運んだ。
流れる。
真っ直ぐに水の流れに乗って。
流れる。
突然、誰かに引っ張られるように曲線を描く。
流れる。
緩やかな弧をなぞって。
そして、直線と曲線の蛇行を終え、停滞し揺れる。
丁度、水の入口と出口の真ん中。
小さな舟が小さな湖に浮かぶ。
先程の倒木に近い位置だ。
そこは、流れの勢いが失われるところ。
水流が、動から静へ、それから動へと変わる内の、静に当たる箇所。
静動の均衡に囚われた葉は、やがて自らの重みに耐えかねて沈むのだった。
――私は一歩、泉へと歩み寄る。
その時、足の裏から何か出っ張ったものを踏む感触がした。
見れば、さっき私が放り出した木片だった。
指先で摘まみ取る。
そして、木片を泉へ放り込む。
私の視界に入らないようになればいいと思ったのだ。
腐った木片は水面へと落ちる。
すると、ぴちゃり、と軽い音を立てて波が起きて、飛沫が生まれる。
大きくて水面すれすれに浮かぶもの、小さく高く飛ぶもの、斜めに遠くへ跳ねるもの。
様々なものが生まれる。
けれども、次の瞬間には、全ての水の粒は波と交わり一つとなった。
初めからそこに何もなかったかのように水と空気の境界線は穏やかになった。
――ほんの一瞬だけ沈んだ木片が、水面へと浮上してくる。
ゆっくりと、時計回りに回っている。
私はそれをしゃがみながら見詰める。
自分でも何故かは分からないが、目を離せなかったのだ。
後ろで、がさり、と草を踏む音が聞こえた。
「何?」
私は首を左に傾けながら声を発する。
「別に何もないわよ。気にしなくて良いわよ」
斜め後ろから返事が返ってくる。
まあ、元から左程気にもしていなかったので、言葉通り気にしないことにするとしよう。
しばらくすると、木片から黒い滓のようなものが染み出してきた。
恐らく、腐って砂のように小さくなった木片なのだろう。
清らかな水面に穢らわしい汚物が拡散する。
しまった。そう思った。
恥ずかしながら、私に景観を大切にしようだとか、そういったことを今まで意識したことはなかった。
しかし、綺麗なものはそのままであって欲しいと思うくらいの美意識はある。
そして、現に私のせいで綺麗な水面が汚れてしまった。
なんともやるせない気分だ。
黒い滓は止まることを知らないかのように広がって行く。
それを見ていると、木片が、何故かとても腹立たしいものに思えてならなかった。
勿論、理不尽な感情だとは思うが、それを抑えようとは思わなかった。
更に黒が広がる。
私はそれをどうにかしたくて、何かないかと辺りを見回す。
地面を手で探れでも何の手応えもない。
これだけ木があるのに枯れ枝の一本も見つけられないとは……
まあ、欲しいものが欲しいときにないなんてことはよくあることだと割り切る。
結局、足元にあった小石を拾い上げるしかなかった。
私の手のひらでも容易に包み隠せてしまう程度の大きさ。
この程度でどうにかなるとは思っていない。
けれど、上手く当たれば沈んでくれるかもしれない。
そんな僅かばかりの期待を込めて……
親指の爪程度の石粒を腐った木の死骸に投げつける。
しかし、狙いは逸れてしまって、静かだった表面に波紋を生んだ。
諦めずに、再び石粒を拾う。今度は二つ。
まだ、最初の波も消え去らないうちに投擲する。
二つの波紋が広がる。
小さな水飛沫が散って波に消える。
私はそれに目をくれることはしなかった。
投げる。三つの波紋が広がる。
先程よりも沢山の飛沫が弾ける。
それは再び波へと吸い込まれる。
波もそれそれがぶつかり合って跳ね返り、複雑な文様を描き出していた。
投げる。四つ……五つ……
――数を数えることを面倒になる程に投石したのに……
木片はその全てを、まるで意識を持っているかのように回避してみせたのだった。
「その辺にしておけば?」
声を掛けられる。
すっかり忘れていたが例の声だ。
その声はいつの間にか随分と離れたところに移動していた。
私は黙って泉を見つめる。
水面は無数の波紋に荒れ狂っていた。
それは手を突っ込んで掻き混ぜたようにさえ見える。
なんとなく右の手を顔の前に持ってくる。
それには、無意識の内に手を強く握りすぎたせいか手の腹に爪の食い込んだ跡がついていた。
私は溜息を吐いてしゃがみ込む。
荒れた水面を見ていると水底に沈んでいた葉に石が積もっているのが見えた。
何故だか、酷く胸が痛んだ。
見ていられなくて立ち上がる。
「満足したかしら?」
私は、その言葉に返答もせず、ただ立ち尽くすだけだった。
――風が吹いた。
一瞬、強い風の後に緩い風がゆっくりと流れて行く。
風が水面を撫でる。
すると、先程までの荒れ方が嘘のように波紋は全て消え去り、数瞬の後には、穏やかで小さな横波に変わっていた。
それからその風は、私の頬と頭も撫でて通り過ぎるのだった。
とても、とても、優しい風だと思った。
そして、風が行き過ぎた後、俄かに空間が騒ぎ出す。
湧き出る水音と風に揺らされた葉の音で二重奏。
どこからか聞こえ出した鳥の歌声で三重奏。
そして、私の呼吸で四重奏。
それが今の私に聞こえた全て。
それをもっと聞いていたくて……
私はそっ、と目を閉じたのだった。
――幾らかの時が過ぎる。
いや、きっと実際は左程、時間は経ってはいないのだろうが……
それでも私にはとても長い時間、そうしていたように感じられた。
がさり、と下草を踏む音が聞こえる。
それは徐々に迫って来る。
やがて、私の背中のすぐ近くに気配がするに到った。
「どうかしら?」
「何が?」
まあ、聞くまでもなく質問の意味など分かっているのだが……
問いに私は答えない。
それに対して素直に答えるのはなんだか癪だったのだ。
僅かばかりの沈黙の後、やれやれとばかりに溜息が吐かれた。
その吐息が私の襟足をほんの僅かに揺らした。
「まあまあ、かな」
「あらそう」
私は首を一度、前に傾ける。
「うん、夢の世界も悪くないって思えるくらいには良かった」
ああ、まったく……悪くない。
少なくとも部屋で本を読むのと同じくらいには面白かったのは事実だ。
「夢の世界ねえ……まあ、今はそれで十分よ」
随分と満足そうな声だった。
一体何がいいのか分からないが、そんなのは私の知ったことではない。
「それじゃあ、これは餞別ね」
頭に何かが乗る。
目を開けて、手を頭にやれば、柔らかい何かが触れた。
何だろうと掴んで目の前に持ってくる。
「何? 布切れ?」
薄い赤い色。白と言ってもいいかも知れない。
「……失礼ね、帽子よ。それでも結構、頑張ったんだから」
不満そうに唸る声を、右手を挙げて制止してやる。
そして、手にした布切れ、元い帽子を色々な角度から見てみる。
帽子と呼ぶには底が浅く、形自体もなんとなくひしゃげている。
そのくせ、装飾のリボンの部分だけやたら綺麗にできているのが違和感をより際立たせている。
なんとも不恰好なものだ。
「一応、あなたのお姉さんのを真似てみたんだけど……」
あまり自信のなさそうな声だった。
人の服装など微塵の興味もなかったのでうろ覚えでしかないが、言われてみれば確かに似ているような気がする。
とは言ってみても、結局のところ、前提がまちがっているのだが……
「帽子なんか貰っても、外に出ないから意味ないんだけど」
私のそんな
「……きっと、いつか必要になるわ」
諭すような声はとても穏やかなものだった。
「そうね、随分と歪な帽子だね。……だけど、悪くない。まあまあかな」
両手で帽子を掴んで頭に被せる。
思ったよりもしっくりきたのは意外だった。
ああ、好いかもしれない。
何故か頬が上がり、口元が弛むのを感じた。
頭に乗せた帽子を両手でぐっ、と押さえる。
後ろで静かに笑う声が聞こえる。
なんだか恥ずかしくて帽子をずらして顔を隠す。
更に笑いが酷くなったような感じもするが、気のせいだということにしておくとしよう。
――しばらくの間を置いて、声が治まる。
疲れたように溜息を吐かれる。
私としては何も笑われるようなことはしたつもりはなかったのだが……
「さて、そろそろ私眠たくなっちゃったし、お別れの時間ね」
私は目を瞑って、やはり、右手を軽く挙げるのだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
目を開ける。
身体を起こして首を捻る。筋が伸びて心地良かった。
……それにしても、随分と昔懐かしい頃の夢を見たものだ。
私はあの時から少しは変われただろうか?
欠伸を噛み潰しながらそんなことを思うのだった。
――玄関のドアを押し開けて、空を見上げる。
決して良い天気とは言えない、雲が覆う、まあまあな空だった。
けれど、私が外に出るには日傘を差さなくても大丈夫なところはありがたい。
大きく息を吸って肺を満たす。
それから、元より少し日に焼けた帽子を被る。
長い間、使う機会のなかったこれも、今では愛用品と読んでもいいだろう。
玄関から大きく一歩踏み出せば、風が帽子のリボンを軽く揺らした。
今日はいい気分だ。
きっと、まあまあ悪くない……
いや、素敵な世界が見れるだろう。
そう、今の私の心は生き活きしていた。
雰囲気は凄くいいのに雰囲気しかそこに無い。
雰囲気系上等。
深いところは分からないけれど、しかし漂う空気の楚々とした感じ。
素敵だと思いました。