なんだもしかしたら、迷うてここに来たのかい。あんたは里の西側の人間じゃなさそうだな。この辺の地理は疎かったのかい? ……ああ、そうだよ。その分かれ道を右に行きゃあよかったんだ。そしたら里へ着けたのに。間違ったまま後戻りもせず進んじまって、結局山で遭難か。俺の小屋に辿り着いたのは運が良かったな。
そうさ、ひとりさ。もう彼是四十年にはなるな。人里を出てここに移り住んでから、考えてみりゃ随分な時間が経ったもんだ。……妖怪かい? もちろん出るよ。死にそうな目に遭ったことなんざ、幾らでもある。
まあ、ずっとひとりという訳ではなかったな。一度だけ、同居者が居た事もある。聞きたいだって? 大した事でもない、なんせ猫の話だ。
そう、猫だよ。いつだったか、山で拾ったんだよ。ぼろぼろの傷だらけで、今にも死に掛けのやつを。黒い猫だったな。腹だけ赤いんで、イモリの様だった。
もうすでに老体の猫だった。貧相で、小さくて、ボロ布のような体で茂みに転がってた。そんなもの誰だって見向きもしないだろう。俺だってそうだった。一瞥だけして通り過ぎようとしたんだ。なのに、そいつが顔をあげて俺を見たんだ。
じっと注がれる猫の眼を見て、俺は驚いた。眼の色がちぐはぐだった。右眼が青で、左眼が金。金目銀目という名称はあとから知ったな。黒猫にゃ普通は現れないということも。
物珍しいから拾ったんだろうってあんたは言うがな、そいつは違う。……いや、ある意味ではその通りかもしれないが。どういうことかって?
じゃあ俺の事情を話そうか。実を言うと、俺が人里を離れたのには理由があってな、俺の眼の色がその理由なんだ。夕陽のように真っ赤な眼。凶相だって言われて、産まれた時からずっと虐げられてきた。親も庇いはしなかったし、疫病神呼ばわりだった。右眼に傷があるだろう? 石をぶつけられた時に潰れたんだよ。ずっと片目暮らしだった。学業に就いてしばらくすると、自然とここへ住み着くようになったな。どこの誰が残した小屋か判らなかったが、朽ち果てたこの小屋が、俺をどれほど救ってくれたか知れない。ここに居る時だけが安らぎだった。
そんな経緯があったから、奇妙な眼の色をした生物が野垂れ死ぬのを、俺は辛抱できなかったんだ。そいつを拾って小屋に連れ帰り、二日ほど着ききりで看病した。そいつは快復したよ。不思議と俺に懐いた。命の恩人だから当然だと思うかもしれないが、そういう雰囲気でもなかった。まるで親を前にした子のように、全幅の信頼を俺に寄せていた。悪い気はしなかったな。本音を言うと、涙が出るほど嬉しかったよ。好意を寄せられる経験なんぞ、初めてだったから。
その日から、俺とそいつのふたり暮らしが始まった。何をするにもあいつは俺の傍に居たがった。俺にちょこちょこ着いてきた。可愛いだろう? 乏しい食料は分け合って、冬は寄り添いあって暖をとったよ。あいつは猫で温かかったから、随分重宝したもんだ。よく俺の赤眼を覗き込んではごろごろと喉を鳴らしていたよ。俺も覗き返しては笑ってた。あいつが一匹いるだけで、世界はまるで違って見えた。十年ほど共に過ごしたろうな。予想よりもずっと長かった。幸せな十年だった。
最期の時は、今でも覚えている。拾った時から老体だったあいつだから、最期は枯れ木のようだった。あいつはしぼんだ身体を酷使して、顔をあげて俺を見ていた。初めて会った日と変わらない、あの金目銀目で。それから幸福そうに目を細めて、両目から涙を流しながら、視線をいっぺんも反らさないまま一言鳴いた。『さとりさま』って。猫の口が器用に動いて、確かにそう言ったんだ。俺を見ながら、誰かの名前を呼んでいた。
あいつは妖怪だった。俺は薄々気がついていたよ。あの状態で十年も持ったんだ。ただの猫である訳がない。
あいつは俺を見ていなかった。俺はちっとも気がつかなかった。あいつは俺の、おそらくはこの赤眼を通して、他の誰かを想起していたんだ。親のように慕っていた誰かを。
……ああ、そうだ。一番最初にあんたから貰った質問に答えようか。どうして目を瞑っているのかって、言ったよな。答えは簡単だ。
もう誰にも、俺の眼を見せたくないんだ。
里のやつらは凶相だと言ったけど、間違っちゃいないんだろう。俺はこいつで、色んなものを無くしちまった。この眼は俺から里を奪い、あいつを与えたあと、最後の最後で剥ぎ取っていった。もうたくさんだ。そうだろう?
だからこうやって、目を瞑っているんだよ。
そうさ、ひとりさ。もう彼是四十年にはなるな。人里を出てここに移り住んでから、考えてみりゃ随分な時間が経ったもんだ。……妖怪かい? もちろん出るよ。死にそうな目に遭ったことなんざ、幾らでもある。
まあ、ずっとひとりという訳ではなかったな。一度だけ、同居者が居た事もある。聞きたいだって? 大した事でもない、なんせ猫の話だ。
そう、猫だよ。いつだったか、山で拾ったんだよ。ぼろぼろの傷だらけで、今にも死に掛けのやつを。黒い猫だったな。腹だけ赤いんで、イモリの様だった。
もうすでに老体の猫だった。貧相で、小さくて、ボロ布のような体で茂みに転がってた。そんなもの誰だって見向きもしないだろう。俺だってそうだった。一瞥だけして通り過ぎようとしたんだ。なのに、そいつが顔をあげて俺を見たんだ。
じっと注がれる猫の眼を見て、俺は驚いた。眼の色がちぐはぐだった。右眼が青で、左眼が金。金目銀目という名称はあとから知ったな。黒猫にゃ普通は現れないということも。
物珍しいから拾ったんだろうってあんたは言うがな、そいつは違う。……いや、ある意味ではその通りかもしれないが。どういうことかって?
じゃあ俺の事情を話そうか。実を言うと、俺が人里を離れたのには理由があってな、俺の眼の色がその理由なんだ。夕陽のように真っ赤な眼。凶相だって言われて、産まれた時からずっと虐げられてきた。親も庇いはしなかったし、疫病神呼ばわりだった。右眼に傷があるだろう? 石をぶつけられた時に潰れたんだよ。ずっと片目暮らしだった。学業に就いてしばらくすると、自然とここへ住み着くようになったな。どこの誰が残した小屋か判らなかったが、朽ち果てたこの小屋が、俺をどれほど救ってくれたか知れない。ここに居る時だけが安らぎだった。
そんな経緯があったから、奇妙な眼の色をした生物が野垂れ死ぬのを、俺は辛抱できなかったんだ。そいつを拾って小屋に連れ帰り、二日ほど着ききりで看病した。そいつは快復したよ。不思議と俺に懐いた。命の恩人だから当然だと思うかもしれないが、そういう雰囲気でもなかった。まるで親を前にした子のように、全幅の信頼を俺に寄せていた。悪い気はしなかったな。本音を言うと、涙が出るほど嬉しかったよ。好意を寄せられる経験なんぞ、初めてだったから。
その日から、俺とそいつのふたり暮らしが始まった。何をするにもあいつは俺の傍に居たがった。俺にちょこちょこ着いてきた。可愛いだろう? 乏しい食料は分け合って、冬は寄り添いあって暖をとったよ。あいつは猫で温かかったから、随分重宝したもんだ。よく俺の赤眼を覗き込んではごろごろと喉を鳴らしていたよ。俺も覗き返しては笑ってた。あいつが一匹いるだけで、世界はまるで違って見えた。十年ほど共に過ごしたろうな。予想よりもずっと長かった。幸せな十年だった。
最期の時は、今でも覚えている。拾った時から老体だったあいつだから、最期は枯れ木のようだった。あいつはしぼんだ身体を酷使して、顔をあげて俺を見ていた。初めて会った日と変わらない、あの金目銀目で。それから幸福そうに目を細めて、両目から涙を流しながら、視線をいっぺんも反らさないまま一言鳴いた。『さとりさま』って。猫の口が器用に動いて、確かにそう言ったんだ。俺を見ながら、誰かの名前を呼んでいた。
あいつは妖怪だった。俺は薄々気がついていたよ。あの状態で十年も持ったんだ。ただの猫である訳がない。
あいつは俺を見ていなかった。俺はちっとも気がつかなかった。あいつは俺の、おそらくはこの赤眼を通して、他の誰かを想起していたんだ。親のように慕っていた誰かを。
……ああ、そうだ。一番最初にあんたから貰った質問に答えようか。どうして目を瞑っているのかって、言ったよな。答えは簡単だ。
もう誰にも、俺の眼を見せたくないんだ。
里のやつらは凶相だと言ったけど、間違っちゃいないんだろう。俺はこいつで、色んなものを無くしちまった。この眼は俺から里を奪い、あいつを与えたあと、最後の最後で剥ぎ取っていった。もうたくさんだ。そうだろう?
だからこうやって、目を瞑っているんだよ。
ただ欲を言えばちょっとラストが弱かったような、もう一つなにかあると更に話が深くなったかもしれません。
ちなみにこういう独白型の話は実際に朗読してみたりしたら味わいが出そうな気がしますね。次作も待ってますね
ひさびさに頭をガツンとやられた気分です
短くシンプルな構成なだけにかえって色々ときますね
東方あんまし絡んでないようにみえてばっちし関係してるとこが非常によかった。
人恋し男がこいしと同じようになるとは何とも皮肉。
こんだけ短いのにこんなにひっくり返してくれるなんて
いやぁ素晴らしい。