Coolier - 新生・東方創想話

母の日にボーダーの贈り物を 下

2010/06/27 15:10:27
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 ──必要なの。

 ●

「いりません」

 きっぱりと。
 藍の拒絶が音速で駆け抜けた。その表情に感情は無く、声もいつにもまして無機質で、平坦。紫にとってはいつも通りだといえばそのとおりだけれども、藍の声がどこか怒気をはらんでいるように紫にはかんじられた。
 場を満たすのは沈黙。気まずそうに箸を進める二人のうち、会話を再会したのは主の方。
 紫は藍と目線をあわせずに、箸の先を見つめながら言う。あくまで平静を装って。

「あら、でも時には休暇も必要でしょ? 藍もこのごろ根を詰めすぎているみたいだし、ぱーっと遊んでみるのも悪くないんじゃない?」
「いえ、私は大丈夫です。紫様の為に働くことが、私の楽しみですから」
「他の楽しみも探しなさいな。いろいろあるでしょ、何か趣味でも見つけたらいいじゃない。数学でもいいし、花を育ててみるというのはどうかしら。気の合う友人を探してもいいんじゃない──」
「いえ、現状に十分満足しておりますので」

 いくら言ってみてもさらりと受け流す藍に対して、紫はのれんに腕おし、と言う言葉を実感していた。この調子で続けていても、同じようなやりとりが交わされるだけで、結局のところは流されてしまうだろう。
 ……どうにかこの流れを打破できないかしら?
 少なくとも現状では無理か。自然な流れで行くのには少々きつい物がある。紫はそう考え、ひとまずは夕餉を終わらせることに決めた。夕食が終わった後に、自分から切り出せば主導権を得られるかもしれないと踏んだから。
 ひとまずの沈黙。紫は黙々と箸を進め、汁物を啜る。音を立てて汁を啜るのは少々レディーとしての意識にかけるかしら、なんて思いつつ、着々と夕餉の量を減らしていく。
 紫はこれからどう切り出すかを考えている。そのことに気を取られているせいか、夕食を味わうことは無い。もう賛辞の一つすら贈らない。いつも以上に手が込んでいる夕食にも関わらず、彼女はそれに気づいているのに、するべきことをしてはくれない。
 藍の表情が一瞬かげるが、紫はそれに気づくこともない。いつもの彼女であったなら、目ざとくそれに気づいただろうに。
 いや、余りに長い年月を藍と連れ添ったせいで、すっかり曇ってしまっていたのだ、紫の目は。故に気づくこともない。むしろそれが当然。

「ごちそうさま」
「おそまつさまでした」

 夕餉が終わり、定型文が交わされてから、藍が立ち上がり食器を運ぶ。
 数度に分けてテーブルのすべての食器が片づけられ、藍が四つ折りの白い雑巾でテーブルの面をふいてから奥に引っ込んだ。奥から水の流れる音が響いて、食器を洗っていることを紫につたえる。
 ほう、と満腹感による吐息を漏らしてから、けぷ、とかるく呼気をもらす。口元を押さえ、ちょっとレディーらしくないわね、と誰ともなしにつぶやいた。
 頬杖をついて、眠くもないのにのどまで登って来たあくびをかみ殺した紫は、机に突っ伏した。さきほどふいたばかりの机には微少の水滴が付着して、それは紫の頬を湿らせる。軽い不快感。
 紫が頭を上げて、顔の不快感を袖で拭うと、洗い物を終えた藍が盆を持って戻ってくるところであった。紫が彼女の姿をみたとき、ふと橙の姿とかぶって見えて、二人はまるで姉妹か親子みたい、と。なんとなくそう思った。実際似たようなものではある。
 自然と彼女の唇から笑いのが漏れる。藍には聞こえない程度の音。そして笑みの表情は紫が必死にかみ殺す。

「紫さま、お茶でございます」

 ことり、と音を立てて湯呑みが二つおかれる。紫と藍の席に一つずつ。無色の香気をあげる緑茶が並べられ、湯面は薄く緑色の渦を巻く。茶柱は無いが、か細い湯気が立ち上っている。数センチ天に昇り、すぐに消える。しかし目に見えなくなろうとも、その香りと少量の熱は確かに存在するのだ。
 ……目に見えなくとも、それは在る、か。
 茶の放つ、目には見えない熱を肌で感じながら紫は思う。しかし目に見えなくとも、肌で観測している。観測できるのだから、在るというだけの話、と。
 ……ならば、観測できない物が存在するとしたら、それは在る?
 自問し、しかし自答はしない。出来ない。答えを持ち合わせていないから、だ。だからこそ聞く。カロリックは観測できなくとも存在できるのだろうかと。

「想いは──目に見えません」

 どきり、と。紫の心臓が飛び上がった。心を呼んだかのような、藍の一言。ぼそりと吐き出されたそれは、誰に向けたものでないような風で、しかし実際紫に対する言葉して、紫の耳には聞こえていた。
 事実、己を含む誰かに聞いてほしいから。だからつぶやきは生まれるのだろうと紫は思う。自分の心を他者に観測させるために。
 ならば、
 ……これは私にむけられた言葉。
 茶をひとくち啜り、ほう、と大きく息を吐いてから、

「つまり? 何がいいたいのかしら?」
「いえ──すみません。そういうつもりでは」
「そういうつもりって、どういうつもりよ」

 勝手に己が藍の発言の意図を知っていることにされて、紫は苦笑する。苦笑とともに横目で一瞬だけ外を見る。すっかり暗く、宵闇がふっていた。
 紫の切りかえしに藍はくちごもってしまう。そのまま沈黙へと移行して、頭を軽く下げて、机の一点──その先を見るような、つまるところなにも見ていないような目で茫洋とし始める。
 いつまでたっても、紫の問いには答えが返らなかった。
 だから自分で話を進める。そうね、と、

「たしかに、想いは目に見えないわ」
「いえ──よく思い返してみれば覚にはみえるのでした」

 藍の顔があがる。即座に否定のきりかえしが来る。確かにその通りだ、と紫は内心思う。そして、己を含む特殊な力を持つ者にもそれは可能だ、と。理屈の上では、だが。
 故に藍は先の紫の言葉を否定したのだ。
 しかし、

「それは果たして心かしら? 違うわ。あれは言語に変換された思考であって、心そのものではないもの」
「では、心というものは誰にも見えないのですか──自分自身にも」

 藍が神妙な顔つきで紫に尋ねる。紫は頷いて茶をもう一口音を立てて飲む。けぷ、と呼気を吐き出し、

「そう。本来心は誰にも見えないもの。しかし言葉を解し、介することで間接的には見えるようになった。疑似的にではあるけれど、観測する術ができた」
「────」

 藍は無表情で紫の話に聞き入っている。
 その沈黙に急かされるようにして、紫は話を続けた。

「すると、心を共有──幻想を共有するすべが出来る。これによって人々はより強固な幻想を生み出していくの。そしてそれは、やがて科学として発展を遂げるのだけど」
「……知っています」

 そうね──といいながら紫は笑う。机に肘を付き、腕をたてて手を組み、その上に顎を乗せる。
 話が転換する。そんなことはいいか、と。

「それよりも、藍」
「はい、なんでしょうか」

 ちらり、と紫は藍を上目遣いで一瞬見て、すぐに目をそらす。
 対する式神は背筋を伸ばして座るのみ。紫はその様をきにかけつつ、茶を二口ほど飲む。言うべきだろうか、と逡巡が生まれ、すぐに迷いを断ち切り決断が下される。
 ことり、と湯呑みが白の手套から放され置かれる。閻魔が裁きを下すようにも見える。音は決断を告げる音。意志を告げる音、だ。
 そして、

「今日は外出していたみたいだけど──なにをしていたの?」

 藍が一瞬体をふるわせた。心の揺れは体の揺れとなり、そして藍の心身を動揺が包み込んでいく。それが紫には見て取れた。
 一瞬だけ。息をのむ音。藍が息をのんだ音だ。藍は時間を稼ぐように湯呑みに手を伸ばし、茶を啜る。ことり、と湯呑みを置く音もどこか揺らいでいる、と紫は思う。疑念による錯覚でしかない。
 そして、

「……仕事、です」
「嘘」

 間を入れずに紫が否定する。藍は気まずそうに目を伏せて、紫は視線を藍へと向けた。咎めるような視線ではなく、ただただ藍を見据えるような眼差し。
 沈黙。沈黙が場を満たす。
 不意に、紫が大きくため息を吐いて、

「言えないのならこちらから言うわ」

 紫の言葉に藍が顔をあげ、おびえたような安心したような、なんともつかぬ顔をする。
 それを気にかける様子もなく紫は言葉を続ける。

「幽香から聞いたんだけど、あなた太陽の畑にいたそうじゃない」

 会話の空白。数十秒間、たっぷりと間があいて、

「──はい」

 観念したように藍が肯定の一言を絞り出す。

「そう。でも、結界の管理の為にはあそこに行く必要もないし、あなたが行く理由もないはず」
「────」
「別に咎めている訳じゃないのよ。あなたの交友関係という物もあるでしょうし、どこでなにをしようと自由だわ」

 藍はうなずくことも、首を振ることも、声を上げることもしない。
 彼女の視線はなにも無い位置を貫く以外の意味を持たない。茫洋と、なにもない一点を見つめるのみ。
 ほんのすこしだけ話題をを変える。紫が、ふと気になったことを尋ねたかったから。それは朝から気になっていたこと。正確には、もっともっと前から思っていたこと。
 それは、

「……私のこと、嫌い?」

 ぽつり。と紫が言った。その顔にはいかなる感情によるものか、笑みが浮かんでいて。寂しげな笑みが、だ。
 あっけにとられたような表情を浮かべた藍は、思わず頭を垂れて表情を隠し、すぐにその表情を悲壮なそれへと変容させる。が、紫にはそれを見ることが出来ない。藍自身が表情を隠してしまったから。

「そんなことは──そんなことはありません」

 藍が否定する。否定の言葉に力強さはない。

「でも、このところ私のことを避けているみたいでしょう?」
「それは──」

 言い出すことが出来ない。言葉を続けることが出来ない。なぜならば、その理由こそが紫に隠しておきたいことだったから。
 適当な理由をでっち上げさえすればよかったものの、不器用な九尾の狐にはそれができなかった。その意味ではやはり人間味にかける、と言えなくはないのかもしれない。
 言葉に詰まった藍を見て、紫がふふ、と笑う。

「否定はしないのね」
「────」

 まあいいわ──と紫が立ち上がる。

「とにかく、私のことを避けているみたいよね。仕事に疲れているのか、それとも毎日毎日顔をあわせて疲れたのか。はたまた別の理由か、そんなことはわからないけれど」

 だから、

「しばらく暇をあげるわ。あなたも仕事で疲れたでしょう。友達でも作って羽を伸ばしなさい」

 しかし──藍が口を開く。今度は誰が聞いてもふるえているように聞こえる声で。

「しかし、仕事はどうされるのですか。わざわざ紫様の手を煩わせるようなことは──」
「橙と私でどうにかするわ。私だって働けるし、橙だってそれくらいの仕事はもう出来るんじゃない? いつまでも子供じゃあないのだから」
「でも──」
「デモもストもないってば」

 紫が諭すように言うと、藍は言葉を止める。それを納得と受け取った紫は、話を進めて行く。明日からもう休んでていい、とか。休みの期限はいつまでにしましょうか、とか。
 その言葉の最中で藍がつぶやいた。

「────ですか?」

 突然の言葉に紫が言葉を止め、おそるおそる聞き返す。

「何?」

 もう一度言え、と紫は言外にいい、藍がそれに答える。

「──いらないのですか?」

 何が──と紫が尋ねる前に、藍が続ける。

「──私は」

 はあ、と紫が一瞬その言葉に含まれた意図の理解がおくれ、しかしすぐにその意味を理解する。腐っても賢者、理解と思考は早い。
 そしてすぐに、困ったような表情をして、

「そんなわけないじゃない」

 その言葉に藍は顔を上げて、何かにとりつかれたかのように一気にまくし立てる。

「本当ですか!? 本当に!? しかし私がいなくとも紫様は大丈夫なのでは無いですか!? なぜ私は居るのでしょうか? 紫様は私がいなくとも大丈夫なのに!」
「なぜ私はいるのか、って。私が必要だと思ったから、式としてのあなたが居るのでしょう?」
「では──ではなぜ私を作ったのですか!?」

 それは──今度は紫が口ごもる。その理由などもはや覚えてはいない。
 その様を見て藍が、まあいいでしょう──と話題を変える一言を置いて、

「あなたはまだ──まだ忘れられないのですか!」

 紫の動きが止まる。表情が消える。
 言ってしまってから、藍はしまった、と言うかのような顔をして、泣き出しそうな表情を落とす。もはや後には退けぬ、と言うかのように顔を引き締め、後戻り出来ぬところまで踏み込む。

「もはや生き返らぬ者を、永遠に戻らぬ者を!」
「──やめて」

 しかし藍は止まらない。その激情を抑えきれない。

「もう、帰ってこないというのに!」
「やめてと言っているでしょう!」

 紫が激高する。泣き声に似た叫びとともに机が、湯呑みが、妖気に圧されて吹き飛ぶ。藍も妖気を用い、それが己に向かわぬように守る。
 そして、藍が、

「──博麗霊夢はもう帰らない!」

 紫の瞳から雫が落ちた。そんなことはわかっている。わかってはいても、藍の一言は紫の心を深く抉った。
 その痛みはすぐに怒りへ転化し、

「そんなことはわかっているわよ! だから!? だからなんだというの!? 忘れろ、とでも言うの!? あの子を!? そんなこと出来るわがない! 忘れられるはずがないわ! あなたにはわからないでしょうけどね! あなたのように──」

 ああ、これから私はひどいことを言うな、と紫はどこかでそうおもった。冷静に自分を俯瞰する自分がいた。
 だからと言って抑えきれるものでもなく。
 賢者は怒りのままに凶器を投げつける。言葉という名の、想いの凶器を。

「あなたみたいに、人間味のかけらも無い妖怪には、絶対にわからない! 愛も、慕いも、特別な何かを失う悲しみも、何もかもわかるはずがないんだわ! この──私の苦しみもわからないあなたにはね!」

 藍はいつでもおなじだった、と紫は回想する。それが紫が悲しみの淵に包まれているときでも、いつでも同じ。感情のかけらも無い。紫にはそう感じとれていた。
 藍が、肩を落とし、悲しげな表情を作って、しかしすぐに表情を改める。
 でも紫にそれはみえない。自分を落ち着かせることで精一杯だったから。落ち着けるはずがない。すぐに崩れ落ちて、長い年月をたえてきた外面がはがれ落ち、そこから大妖怪が消えて一人の少女が嗚咽を漏らす。
 そして藍が何か声をかけるよりも前に、

「──消えなさい」
「紫様──」
「もう顔も見たくないの。お願いだから、私の前から消えて」
「──わかりました」

 一人の少女だけが残されて、藍はいずこへと飛び立つ。あれた屋敷をそのままに、嗚咽だけが響きわたる。
 無言のまま藍は空を行く。空には球体がうかんでいる。月という球体が。
 そして、藍の寂しげな表情を、月が照らしあげる。
 夜風を受けて、九尾が空を往く。どこともしれぬ場所を求めて。

 ○

 欠伸が宵の空に落ちた。
 落としたのは空を飛ぶ影。黒の衣を纏う魔女。霧雨魔理沙が風を切っ進む。家を目指すというわけでもなく。まっすぐ飛び続ける。
 彼女は神社の帰りだ。しかしまっすぐ帰るのもつまらないだろう、と思い宵の空を気ままに飛ぶ。妖怪の一匹でもいやしないだろうか、なんて物騒なことを考えつつ。
 濃紺の空を行く魔女は、見下ろす地上に見知った影を見た。影がある場所は、

「ここはたしか──マヨヒガとか言ったか」

 かつての異変。終わらぬ冬の異変のことを思い出す。ここを通り、そして妖怪の式の式と戦ったことを。そのときに出た名がマヨヒガ。迷い家、だ。
 一見廃村に見えるその場に、九つの尾が立っていた。魔理沙はその姿を認めるや否や、即座に急降下する。視界が急速に上へと流れ、速度が訪れ、知り合いへと急速に近づく。
 風を全身で感じながら、彼女は知り合いの目の前に急停止。巻き込まれた空気が風となり、魔理沙と、その相対するものの髪と衣を揺らした。
 月の光が澄んでいる。満月ではないにしろ、明るい月だと魔理沙は思う。
 よう、と軽く手を挙げてから、

「いい月夜だな、藍」
「急に降りてきてなんだ。土が舞うじゃない」

 ぱたぱた、と服に付着したつちぼこりを払いつつ、藍は当然の不平をもらす。まあいいじゃないか、と。魔理沙がいつものように受け流した。
 よくない、と受け流しに対する追撃が魔理沙をねらうも、あえなくそれは回避される。魔理沙が話題を変えることによって。
 ごまかしの意図を含んで、少々大きめの声をもって告ぐ内容は、

「あー、あれはどうなったよ?」
「あれというと──」

 もう忘れたのかよ──と魔理沙は苦笑する。つい数時間前のことだと言うのに、もう忘れてしまったのか、と。
 続く言葉は藍へと過去の想起を促すためのもの。

「ほれ、さっきの話だよ」

 さっきと言うほどじゃあないか、と付け加える。
 そこでようやく思い至った藍は、ああ、と嘆息とも詠嘆ともつかぬ珍妙な息をもらす。少しだけ黙ってから、

「まあ、なんと言うべきか」

 藍の玉虫色の答えに魔理沙は苦笑して、

「おいおい、はっきりとしないな」
「う──ん」

 力ない様子に魔理沙はなんとなく感づいて、それ以上の追求をすることはない。ま、いいけどさ──と彼女が気をきかせてさらに話題を転換しようとした瞬間に、

「だめ、だった」

 ぽつり、と。つぶやきが地面に激突した。重力加速を越え、音速を持って地面に当たり、跳ね返る。
 魔理沙は困ったような顔をして、頬を軽くかいて、どこか寂しげな笑みを浮かべてみてから、

「そっか」

 ぱたり、と。箒を土に落とす。
 腕を後ろで組んで、藍に背を向けて数歩歩く。軽く顎をあげる。青白い月を見上げて、誰にも聞こえないように吐息を漏らす。そしてもう一度くりかえした。そう、か。
 風がふき、木々がざわめきを生む。
 廃墟は何も言わない。そして二人は立ち尽くすまま、何も言わない。二人分の廃墟が立っていた。その屋根はともに金の色。夜風に魔理沙の金糸が波を作る。

「ダメなんだ」

 ぽつり、と。
 風のさなかで、藍がいった。きいてほしいけれど、きいてほしくない。まるでそんな風に、風の音に隠すように魔理沙には聞こえた。
 いや、やっぱり聞いてほしいのだろう、と魔理沙は思い直す。なぜならば、その声はしっかりと彼女の耳まで届いたから。伝える意志が、たしかにそこにあったから。
 言葉は続く。それは先と同じ内容。

「ダメなんだよ」
「何が?」

 魔理沙が聞き返すと話が進む。

「紫様の前に立つと、彼女に見られていると思うと、態度が硬くなってしまうんだ。どうしようもなく、平坦な声で、無機質な声で受け答えしてしまうんだ。それどころか表情や仕草までそうなって」

 藍の視線はどこも見ていない。
 魔理沙もまた、頭を垂れながら藍の吐露を聴く。

「こんなんじゃダメだ、って思うこともある。あるけれど、どうにもならないんだよ。どうしようもない。原因だって、わかっているけれど、だけどもどうにも出来ないんだ。大馬鹿だよ、私は」
「その、原因ってのは?」

 振り向かないまま魔理沙が尋ねた。胸に手を当てて、目線を地面に送り続け、そして聞いた。
 はは、と軽い笑いが廃墟に響く。単純なことだ──藍が自嘲するような響きで言った。

「私には、誰かに愛される資格なんてない」
「それは──」

 魔理沙が顔を下に向けたまま振り向いて、疑問をたたえた瞳で、

「どういう意味だ?」
「言葉通りだ。私には愛される資格なんてない。それを理解しているからこそ、人間味無く振る舞ってしまうのだろうさ」

 魔理沙が面をあげる。口を開き、強い否定を送ろうとした矢先、言葉が遮られる。藍の声が、魔理沙の言葉を遮ったのだ。

「私は、九尾の狐で、紫様の式神だ。それ以上でも、それ以下でもないんだよ」
「そうだな。といっても、それが愛される資格がないことにはならないと思うがな」

 ふふ、と藍が笑う。なんだよ、と魔理沙が尋ねる。
 風。宵風。木がさざめく。鳥が歌う。静寂が場を疾走した。

「私は──九尾の狐だよ?」

 妙な含みをもった一言。泣き出しそうな笑みを伴って告げられた一言に、魔理沙が顔をゆがめた。どういう意味だ、と。疑問は胸中で膨らみ、心を満たして表情を作る。
 魔理沙がその意味を問うよりも早く答えが来た。

「九尾の狐は、人を破滅に追いやる。その美貌を持って、人を惑わすという」
「…………」

 魔理沙が得たのは閉口。そして藍が与えるものは言葉。

「多くの伝説がある。三国に渡り、妖異をなした。そして、何度も何度も。国王を、指導者を惑わした。彼らは私を愛し、私もそれに応えていたつもりだった」

 だが、

「国は滅んだ。歴史の濁流に飲み込まれた訳でもなく、ただ、私と言う存在に指導者が、王が執心したからだ。誰もがそういい、私に石を投げたよ。それが何度あったことだろう。私を愛したものはみんな滅んでしまう」

 そして、

「もう、失うのはつかれたんだ」

 だからこそ、

「私には愛される資格なんてない。愛される資格も。誰かを愛せば、誰かに愛されれば、必ず誰かは破滅する。この手は、存在は、もう汚れてしまったから」

 藍が己へと嘲笑して、顔をあげた。青白い月光は彼女の顔をその色に染めあげる。自嘲は空へと立ち上って、空気に溶解して消えた。しかし、それを生んだ感情が藍の胸から消えることはない。
 藍が月を見上げる。目を細める。過去を反芻するように。

「何度目だったか、私が人間に追いやられて、深手を負ったことがあった。致命傷だったと思う。でも、私自身もどうでもいいか、と思うようになっていて、生きる気力さえ失っていた。そんなとき──」

 ──あら、あなた。どうしたの?

「そんな時、紫様が言ったんだ。命を捨てるつもりならば、私の為に生きなさい、と。体に意味がないのなら、私が意味を与えましょう、と。魂が孤独であるのなら、私がともに歩みましょう、と。そして、あなたみたいな存在が居てもいい世界を作りましょうって、そう言った」

 魔理沙は未だにおし黙ったままだ。肯定も否定もなく、藍の言を聞いて立っているのみ。

「私は──紫様についていこうと決めた。この人の力となり、理想郷を見てみたいと思った。彼女ならいつか作れるんじゃないかと思ったんだ。そして、長年連れ添っているうちに、楽園への焦がれは、紫様へのそれを含んでいった」

 魔理沙が拳を握り込む。腕が震える。

「今や私は紫様の家族だって、そう思ってる。血の繋がりこそ無いけれど、だからこそ名前の繋がりを失いたくないんだ」

 低い声で魔理沙が言う。

「だから、だからその関係が壊れないように、今までみたいにならないように、紫に近づくことが出来ないって言うのか」

 そうだ──藍が肯定して、

「ふざけるな!」

 魔理沙の怒りが弾ける。怒号は意志の高ぶり、怒りを推進力として二人の間を一瞬で駆ける。
 歩みが、魔理沙の足をもって生み出される。つかつかと風を切り、しかしゆっくりと藍に歩み寄りながら、

「何が、愛される資格がない、だ。何が、もう汚れてしまった、だ。そんなものは単なるごまかしだ。自分が行動できなかったことに対する、後付けの理由だ。結局お前は、自分の心から目を背けただけじゃないか。少なくとも私はそう思う」
「だけど──」

 藍が顔を空に向けたまま、魔理沙の言葉を否定するよりも早く魔女は続ける。

「過去を忘れないのは、過去を覚えてるのは悪いことじゃない。だがな、過去に縛られることはダメだ。それだけは絶対に、しちゃいけないことなんだ!」
「何故!? 過去があってこそ今の私があるのに!?」

 魔理沙の叫びに藍が呼応し睨みを向けて、、叫びは尋ねの意図を含む。
 尋ねに応えようと叫びが来る。

「過去を忘れないことは大切だ。過去から学ぶことだってそうさ! そんなのは当たり前だがな、でも私たちは過去に生きてる訳じゃないんだ! 今、このときを生きているのであって、過去に生きている訳では決してない!」
「そんなことはわかっている! だから!? だからどうだというの!?」

 魔理沙と藍との距離が消失して行く。後五歩。
 歩みながらも魔理沙は応える。

「なら言ってやるさ」

 一歩を踏む。後四歩。

「大事なのは、過去に何をしたかではなく」

 地面を蹴る音。後三歩。

「これから何をするかでもなく」

 土を打つ音。後二歩。

「今なんだよ」

 あと一歩で立ち止まった。そして、

「今、何をしたいのか、が大事なんだ!」

 そして、藍の目の前に魔理沙が立つ。その眼光に揺るぎは無く、しかし藍の面差しに力はない。藍が目を背けようとして、しかし魔理沙がそれをさせてはくれない。
 魔女は、九尾に問いを投げ掛ける。

「あえて聞くが」
「何?」

 泣き出しそうな声が妖怪の喉から絞り出されて、

「お前は、紫が好きか?」

 一瞬。静寂が満ちて、しかしすぐに、

「決まっているじゃないか──」

 藍が崩れ落ちて、

「そんなの、決まってるのに──」
「ああ、わかってるさ」

 廃墟に妖怪の嗚咽が響く。それを聴くのは人間。普通の魔法使い、お節介焼きの魔法使い、だ。
 廃墟は閑散としている。どことなく、魔理沙の胸に寂寥の感を生む景色だ。
 魔理沙は空を見上げる。青白い月が二人をてらしていた。薄い雲がかかってぼんやりとした月が、柔らかい光が空から優しく降りてくる。なんともいい月夜だな、と魔理沙は再度思う。こんな日には、空を見上げて星を探すのがいいのだが、とも。
 不意に、赤い目をした藍がかすれた声で誰ともなしに聞く。

「私が臆病なだけだったんだ。それをごまかしていただけだったんだ」
「そう、だな」

 ねえ、

「こんな私でも、出来るの?」
「ああ、出来るさ。きっと──いや、絶対に。今すぐには無理でも、少しずつ時間をかけていこう。いつかは紫だってわかってくれるはずだ」

 何を、とは言わない。
 言う必要がない。

「なあ、藍。約束しよう」
「何を?」
「お前の思いが、いつか。紫に気づいてもらえる日が来ることを。いつか、お前が紫に思いを打ち明けられることを。何年、何百年後になるかもしれないけれど」

 数拍、間が空いて、

「──うん」

 返される言葉は了承。うなずきをともなった言葉。
 先に進むための言葉が小さく飛んだ。

 ●

 空に朝が染み渡っていく。朝が訪れ、太陽の光が面として地上へ押し寄せる。それは八雲邸であっても例外ではない。
 すっかり荒れてしまった居間で、机につっぷしていた八雲紫が目をさました。昨日は一晩中泣いていて、そのうち疲れて寝てしまったのだ。
 赤く泣きはらした目をこすりながら体を起こし、口を開きかけて、思わず式神の名を呼ぼうとした自分を見つける。嫌悪の色を顔に浮かべてから、大きくため息を吐いて、心に沈殿した思いを吐き出す。
 立ち上がる。皺くちゃになってしまった衣服を見てから、彼女は再度吐息した。やれやれ──と口からつぶやきが落ちた。つぶやきの色はよどんだ色。
 彼女が視線を巡らせて、あたりを見渡す。
 ……惨状ね。
 居間はすでに凄惨たる状態だった。吹き飛んだ机は壁に穴をうがち、ひっくりかえった湯呑みからぶちまけられたお茶が、畳にシミを描いていて、湯呑みの破片が飛び散っている。
 足の踏み場が無いというほどではない。むしろ、ものが吹き飛んだおかげで踏み場に余るくらいだ。だが、この状況は紫を嘆息させるに十分だった。
 はあ、と再度吐息が漏れる。
 そのとき、紫の耳はものの落ちる音──着地音をとらえる。音がきたのは縁側から。弾かれるようにしてそちらへと振り返ると、そこにいたのは、

「霧雨、魔理沙」

 黒衣を身に纏った魔女が立っていた。箒を傍らに携えた魔女は、睨みを含んだ眼差しで紫を見る。視線に含まれた意志を感じ取った紫は、そのただならぬ様子を受けて、一瞬だけ面差しをゆらがせるが、すぐにいつもの余裕を演じる。
 あら──と、押し黙ったままの魔理沙へと声を送る。

「珍しいことね。あなたがここに来るなんて」

 しかし声に返されるのは沈黙。無視。
 なに無視してるのよ、と紫が若干怒ったような調子で言おうとして、その半ばほどで、

「藍に何があった?」

 藍、という名に紫の表情がかげる。
 一瞬、理解の為の時を要して、

「何が、ってどういうこと? 話が見えないんだけど──」
「あいつは今現在意識不明だよ。意識を取り戻す見込みは、今のところない」
 
 え──言葉を次げず、紫は声とも息ともとれない音を落とした。
 ……藍が、意識不明?
 どういうことなのか。なにがあったのか。わけがわからない。紫の思考にはそれらの疑問が顔をのぞかせるばかりだった。同じような疑問が、ぐるぐると螺旋を描いて、しかし答えへと到達することもない。
 そういった思いが生まれる一方で、藍への怒りが未だに心に残っていて。どうでもいい、と半ば意地をはっているような感情も生まれる。
 言動に発露したのは後者の感情。

「ああ、そう。なにがあったのかはわからないけれど、私には関係のない事ね」
「関係ない? ふざけるのも大概にしろよ」
「ふざけてなんかいないわ。だって、藍がどこで誰となにをして気を失ったかなんて、私には関係の無いことですもの。あの子が勝手に意識をなくした。それだけの話じゃない」

 ……そんな訳がない。
 心のどこかで、自分の言っている事がおかしいことを紫は理解していた。理解してはいても解っている訳ではなくて、だから己の矛盾を感じたままに進む。
 自分が関係ないはずがないことは、紫にはなんとなくわかっているのだ。なぜならば、昨夜の事は藍が紫の心に揺さぶりをかけただけではなく、藍にも多少なりとも影響があったはずだから。
 その影響が、藍が気を失ったことにも繋がっているのかもしれない、と紫は思う。だけれども、

「あんな人間味の無い式神の事なんて、私の知ったことではありませんわ」

 言った瞬間、魔理沙の呟きが生まれた。それは紫の耳までは届かないほど小さくて、言ったのかどうかも怪しいほどに。
 だから、紫は聞いた。

「なにか言った?」

 そして、魔理沙が紫へと詰め寄って、

「ふざけるな! なにが、なにが人間味の無い式神だ!? お前はなにもわかっていないんだよ、藍の事を! 何一つ理解していないんだ! なにが賢者だ、お前はただの大馬鹿野郎だ!」

 手を伸ばせばすぐ届く距離。殴ろうと思えばすぐに殴れる距離で、しかし紫は表情を揺らがせることもなく、ただ淡々と、

「なに熱くなってるのよ。そんなことが、藍が昏睡している事に関係あるのかしら?」

 ああ──魔理沙が怒りに息を荒げながら、

「藍には外傷は無い。何一つ、傷も、気を失うような原因は見あたらない。だがな、一つだけ、一つだけあったんだよ。予想でしかないが、単なる推量だが、原因は一つある」
「それは?」

 聞きたくない、と紫が思いながら、しかし口は勝手に先を促していく。
 魔理沙が唇を開き、

「藍は、生きる意味を失ったんだよ」
「──どういう、こと?」
「解ってるだろ、どこかの誰かさんに生きる意味を否定され、そして死ぬことも出来ず、生きていく意味も見失い、結局は意識を閉ざしてしまったんだ。……解るだろ、妖怪は精神が主体なんだから、こういった事もありうるって」

 ……それって、

「つまり、私のせいと言いたいわけね?」
「そうさ、お前のせいだよ」

 魔理沙が睨みの色を強くする。
 和風邸宅の荒れた一部屋で、人と妖怪が対峙する。だけれども、気圧されているのは妖怪の方で、まっすぐに相手を見据えているのはているのは人間のほう。
 魔理沙の視線の強さに、思わず紫は目を逸らした。それは逃げでしかない。

「お前がいつまでも藍の想いに気づかないから、こうなったんだ」
「藍の想い? 何よ、それ。藍は私の事を嫌っているんじゃないの? このところ、ずっと避けられてたし、それに──」
「──もういい!」

 魔理沙が叫ぶ。もういいんだ、と。そんなことはいい、と。
 彼女は、懐から一枚の紙片を取り出して、

「──つき合えよ」

 そういって庭へと歩き出す。
 その意図を理解して、紫が数瞬迷ってから後に続き、二人の少女が庭へ出て、空へと舞い上がる。青い、幻想の空へと。
 青い春空は、その湿り気を含む風で二人の少女をなでて、日差しは陽気を運び、遙か遠方には背の高い山がそびえている。幻想の空に、ふたりの少女が相対する。片方は箒にまたがり、片方はただ宙に浮かぶ。そんな違いはあっても、その髪の色はともに金。
 数分の間、言葉もなく二人はにらみ合うだけ。沈黙が空に漂う。
 そして、最初に口を開くのは黒の魔女。

「負けた方が、勝った方の言う事を聞く」

 応えるのは、紫の賢者。

「いいわ」

 そして、

「私は一枚でいいぜ」
「そう、──なら私も」
「いいのか? ずいぶん余裕だな」
「弾幕ごっこは、フェアじゃないと」

 紫のプライドが、その言葉を吐き出させた。
 二人の間に堅い空気が流れる。どちらが先に動くにしても、戦いは始まり急展開し終わるだろう。
 二人がにらみ合って、

 ●

 先に動いたのは魔女だった。魔術により生み出された弾丸が生まれ増え走り妖怪へと集う。相対する紫の視界を埋め尽くすほどの、普通の魔法使いであれば到底生成できないはずの量。それを叶えるのは、

「ミニ八卦炉、ってやつね」

 軽く体を左へと傾けて、己をねらう弾幕を最小の動きでかわす。弾幕は一瞬前まで紫がいた空をむなしく通過するのみ。
 だが、と魔女が叫ぶ。

「まだ終わりじゃないぜ!」

 叫びに紫が背後を見た。
 ……追尾!?
 紫の背後へと抜けた弾幕は、大きく弧を描き速度を減少させ、運動を逆方向へと戻す。妖怪を穿つ軌道で、高速度を持って彼女の方へと飛来する。
 しかし結局は単純な軌道だ、紫が再度体を傾ければ弾幕は途端に意味を失う。単純至極、単なる小手調べでしかない。そう紫が考え、その次の瞬間に紫の表情が変わり、後ろへ──魔女の方向へと振り向いた。
 そこには誰もいない。すでに青空が向こうへと続くだけで、魔女の黒衣はどこにも認めることが出来なかった。
 では魔理沙はどこに消えたのかというと、そこまで紫が考えて、すぐに思い当たり、高速で身を翻して、追尾の弾をかわしつつその空間を離れる。先ほどの弾をよけるには、あまりにも大きすぎる動きで。
 次の瞬間、天から光芒が降る。何本もの光線が束ねられた光芒は、太陽のそれとは明らかに異質な、青白い光。無属性の魔力によって生み出された光芒。
 その直径は数十本の光を束ねることにより、かなりのものとなっている。
 ……先の弾幕に気をとられていたら、避けきれなかったわね。
 覚えのある戦術だ、と紫は思う。誰の戦術だっただろうか、とも。
 そして、思考が進む。瞬間、小さな痛みに似た感情が紫の中に生まれて、それを押さえ込むように、彼女は右の手で左の胸を押さえる。

「まさか避けるとはな」

 平坦な口調が、空から紫に降ってきた。紫が空を見上げれば、そこには魔理沙が浮かんでいた。
 紫は動作無く空間を裂き開く。魔理沙が身構えるが、攻撃の為ではない。紫は紫色の亜空間から日傘を取り出し、スキマをそのまま閉じる。
 日傘を開いて、

「あら、仮にも大妖怪ですもの。これくらいは当然ですわ」
「だがお前も随分と力が落ちたように感じるぜ。単に私が強くなったのかもしれんがな」

 まあいいさ、と、

「風の噂だが、お前が人間を食わなくなったという話がある。事実か?」

 紫は答えない。声を持って問いに返事をすることはないが、その態度は言葉を用いるよりもよほど雄弁なもの。
 うつむき、肩を心持ち下げ、下唇をかんで、体を少しだけこわばらせる。その態度こそが、すでに返答。
 なるほどな、と魔理沙が、

「本当か。──やれやれ、まだ忘れられないのか」

 その言葉に、弾かれたように紫が顔を上げる。火がついたかのような勢いで、

「まだ忘れられないのか? 貴女がよく言うわ! 貴女だって忘れられていないでしょうに。そもそも忘れられる訳がないでしょうに! 霊夢の事が忘れられないのか、と言うけれど、貴女はどうなのかしら? 先ほどの戦術は、どう考えてもあの子の模倣でしょう!?」

 感情を爆発させてまくし立てる紫とは対照的に、魔理沙はあくまで冷静に言葉を返していく。

「別に、私だって過去を忘れることがいいことだとは思わないし、事実霊夢のことは片時も忘れた事はないぜ」

 だがな──金髪が揺れる。

「でもな、過去を忘れられないあまり、その過去に囚われるのは少なくとも悪いことだ。先に進めず、近くにあるものに気がつけず、過ちを重ねていく。ぐるぐると、いつまでたっても前へと踏み出せない」
「どういう意味よ!?」

 叫ぶ。理由が解らぬ故ではなく、理由がこの上ないほどに解るから叫ぶ。先の言葉をかき消そうと、続く言葉を聞くまいと、理由を認めてしまっている自分を認めまいと、その意志を叫ぶ。
 しかし叫びのもたらす掻き消しは一過性のそれ。空に響いて、すぐに叫びは消え去った。
 だから事実はまた紡がれる。魔女の口から。彼女は黒の三角帽を深く被りなおして、

「言葉通りの意味だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「だからそれがどういう意味だと聞いている!」

 一拍。

「解ってるだろ? 自分の胸にでも聞くといい」

 魔女の言葉は妖怪を突き放し、妖怪の意志は魔女への怒りを得る。
 勝手に言っておいて、だの。私の事など解らぬくせに、だの。様々な憤怒の言が紫の脳裏を駆け去るが、それらが口にされる事は無い。
 だからその代替として、紫の腕が目に見えぬ指揮棒をもっているかのように振るわれ、腕が上げられ、応じて空間から弾が生ずる。
 弾の存在に気づいた魔理沙は、瞬時に周囲を見渡して、弾がどこに配置されているかを確認した。そして、その数が先に自分が放ったそれの比ではないと言うことも。
 弾は円状──正確には不完全な球状に配置され、魔理沙を取り囲む。
 ち、と小さな音。魔理沙が囲まれたことを悟り舌打ちを一つ。
 紫の腕が降りおろされる。同時に、弾が魔理沙をねらい定めて飛びゆく。殺到する弾の速度は目にとらえることも難しく、数はもはや数え切れぬほど。天に張り付く星たちがすべて落ちてきたかのような光景だ。
 ただし、星は上からのみではなく全方位から飛来するが。
 常人であれば被弾する。常人でなくとも、避けきることは難しい。そんな速度と密度をもった、内へと収縮する球の中で、しかし魔女は避け続ける。スペルカードと呼ぶべきでありながら、しかしそうではない弾の群を。
 上、下、左、右。時に止まり、時に駆けて、しかし動きは最小限で、避ける。避け続ける。視界をせわしなく巡らせ、箒にしがみつく様に身を小さくし、服は幾度にも及ぶ弾の掠りに何カ所も破れている。それでも避け続ける。反撃をする余裕もない。
 決して格好良いとはいえない、むしろ不格好という形容こそが似合っているだろう。しかしそれでも避けることを止めない。
 何がそこまで彼女をつき動かすのだろうか、と紫は自問する。自答は出来ない。人の心など解るはずがない。そう思い直して、諦める。
 弾の洪水に飲まれる魔理沙。その状況を作り上げた紫。どちらが優位かなど一目に瞭然。論じるまでもないほどに自明。
 一瞬、魔理沙の視線と紫の視線が交差する。片方は揺るぎ無いほどに強く、しかし片方はその強さに気圧される程に弱く。
 紫が目を逸らし頭を下げた。その瞬間、

「目を逸らすな!」

 魔女が叫ぶ。すでにぼろ切れとなりつつある黒衣をまとい、心身共に疲弊しながらも、大きな声を持って叫ぶ。弾の海を泳ぎながら叫ぶ。
 叫びに紫が顔を上げる。一度ほどけた視線はほどけたままで、しかし声は続き、紫に呼びかける。
 回る。止まる。駆ける。誰が見ようと明らかに無茶をしていると解る軌道をとりながらも、しかし魔理沙は叫びをやめない。

「お前へと手を伸ばそうと、お前の隣を目指している奴がいるんだ! それから目を逸らすな! 絶対に、目を逸らすな──!」

 声は弾幕の渦に飲まれゆく。
 疲弊がついに魔理沙の体をとらえたのか、彼女を追う弾に魔理沙が追いつかれつつある。身を髪を掠る弾が次第に増えていき、一つの魔物と化した弾の群れが魔理沙を飲み込まんと魔手をのばす。
 一瞬、魔理沙が体勢を崩し、動きを止める。しまった、というような顔をして、次の瞬間。
 弾幕に魔女が飲み込まれた。

 ●

 魔理沙の眼前に弾が迫り来る。急激に音が、風が停滞していく。時が速度を失っていく。
 遅くなる時の中、霧雨魔理沙は考える。命名決闘法──スペルカードルールとはなんなのだろうか、と。その本質はどこにあるのだろうか、と。今更な問いだ。魔理沙は己で己を笑う。
 しかし、
 ……すぐに答えの出ない問いだな。
 魔理沙は思う。意外と簡単そうに見えて、すぐに答えを出すことはできないな、と。
 いや、と否定して、答えはもうあるか、と思い直す。
 霧雨魔理沙はもう一度自己に問う。スペルカードルールの本質とは何か、と。そこに求められていたものはなんなのだろうか、と。
 そして、己が持ち得る答えを提示する。
 ……今までの私だったら、パワーとでも答えていたのかもしれないな。
 そうに違いない、と一人心の中で笑う。
 だが今は違う。
 ……弾幕ごっこの本質は、
 博麗霊夢が定めた決闘法に乗せられた思いは、
 ……スペルカードルールが生み出された訳は、
 八雲紫がその決闘法を承認するに至った理由は、
 ……パワーじゃない。
 ブレインでもない。
 ならば何か。その問いに対する答えは、
 ……弾幕ごっこは、思いのぶつかり合いだ。
 だからこそ、負けられないと魔理沙は思う。なぜなら、自分は藍の想いに気づかない鈍感妖怪に、それを気づかせる為にここにいるからだ、と。そんな自分が負けるのは、藍の想いが負けたようなものじゃないか、と。
 ……だから、負けられないからこそ。
 目の前に弾が迫り、しかし体はバランスを崩していて急には動けない。衣服の破れなど数えきれず、帽子もすでに布切れと化し、傷も一つ二つでは済まぬ程だ。
 這々の体だな、とは思う。みっともないとは思うが、しかし格好をつける必要もない。故にとる選択は、かつての友を思い出しつつ選ばれた。
 ……私は、少しでも霊夢に近づけたのかな。
 時間が少しずつ戻ってくる。風が動きを取り戻し、弾が加速度を得て、魔理沙の動作が始まる。
 ふと思う。
 ……間に合うだろうか。
 何に、と限定しては言わない。弾幕の回避もだし、藍を助ける事もだし、そのほかいろんな事もある。それらすべてに対する問いだ。
 己の問いに答える。
 ……間に合うだろうな。
 いや、と先の言葉を否定して、意志を成す。
 ……間に合わせる!
 時が元の速さを取り戻した。
 そして、

 ●

 魔女の体を隠していた弾が、すでに過ぎ去っていた。その事を肌で知った紫は、伏せていた瞼を緩慢とした動きで開く。
 彼女の視線は魔女を捜す。探し、視線の先の空にあったものは、黒と金。長髪は乱れ、服は破れていて、袖は腕にひっかけているだけの様なもの。肩は外気にさらされている。先の魔理沙の姿とは大きく変わっていた。
 しかし、それらよりも大きな相違点は、

「箒を捨てたの?」
「今は、少しくらいなら自力で飛べるからな」

 遙か遠方、地面の上。弾幕に穿たれたのか、見るも無惨な箒が転がっていた。あの様子では再利用はできそうにもない。紫はそう思う。
 紫は再度魔理沙を見る。
 まるで博麗霊夢の様な姿だ、とそう思う。見た目だけの話ではない。その空を飛ぶ様子、気配、そして先の戦術。それらが紫に、まるで霊夢と相対しているかのような錯覚を抱かせた。
 ただ一つ、魔理沙と霊夢の違いがあるとするならば。それは余裕だ。霊夢は何があろうとも余裕を崩すことはなく、しかし魔理沙はこの上なく必死だ。
 その必死さはどこから来るのだろうか、紫はふと思う。
 思い、どうでも良いかとおもいなおした。少なくとも今考えるべき事ではない。
 想いなど理解できる訳がない、と。

「気づかせてやるよ、想いに」

 紫の内心を見透かしたような一言。
 一瞬だけ、その言葉に紫は面食らって、すぐに表情を引き締めた。
 鼻で軽く笑い、口元をゆがめて、

「出来るものなら、ね」

 不意に紫が空間を裂き、そこから一枚の紙片を取り出して、手に持った。魔理沙に見えるようにだ。それに応えるように魔理沙も紙を懐から取り出し持ち見せる。
 それらはスペルカード。戦いを展開させるものであり、またその終わりを呼ぶものでもある。紙片自体に力はないが、それを相手に見せながらの宣言、そこに宿る意志が事態の進展を促すのだ。
 二人はにらみ合ったまま宙にとどまる。緊迫した空気が、弛緩した春の空に流れ、浸食していく。
 不意に少女が口を開いた。魔女が言う。開かれた口が放つのは宣言ではなく、相対するものへと飛ぶ問いかけ。

「お前のスペルカード、『弾幕結界』だろ? 変えてもいいぜ」

 紫が息をのむ。その通りだったから、見透かされていたから。しかしそれを悟らせまいとすぐに言葉を重ねた。すぐにさらけ出す事なのに、なぜか彼女はそうした。
 実に理にかなわぬ思考、賢者らしからぬ行動。それはすなわち彼女の心が相当に揺さぶられていると言うことで。

「あら、どうしてそう思うのかしら」

 などととぼけてみるも、魔理沙は紫の些細な動揺を見て取っていて、

「なるほど、図星か」
「……それがなに? なんだって言うのよ」

 絞り出すような声で聞き返す。

「お前のスタンスが、生き方が、そのままスペルカードに出てるぜ。そして、そうしてきたそのツケもあるだろう」
「別に、ツケなんてもらうような生き方をしてきたつもりはないし、それ以前に貴女に私の生き方をどうこう言う権利もない」
「言論は自由だ。ここは幻想郷だぜ、言うだけなら自由だろ」
「言うだけなら、ね。それを納得させるには──」
「力、つまり決闘ってか」

 はん、と魔理沙が笑った。
 そして、決闘の停滞が終わる。どちらが先に動いたのかと言うと、

「──弾幕結界」

 つぶやきの様な宣言が落ちた。
 圧倒的なまでの気が、空間に満ちて魔理沙を震わせる。生理的恐怖。大妖怪と相対する人間には──大部分の妖怪でも──逃げられぬ感覚。もっていて当然の感覚だ。
 スペルカードの準備はすでに整った。紫が挑発じみた笑みを浮かべて、魔女に言う。

「弾幕ごっこ、そうね。ごっこ遊びでしかない。だけど、これは決闘ですものね」
「ああそうだ、決闘だ。しかしそんなことを今更言う必要もないと思うぜ」
「──まあね。でも、決闘であることは事実ですわ。だからね、あなた──」

 一呼吸をおいて、

「死んじゃっても、文句言えないのよね?」

 妖怪の脅しに、しかし魔法使いは笑う。笑みで軽くねじ伏せる。

「ははっ、そりゃお前、死んでりゃ口きけないだろうが。妖怪の賢者ともあろうものが、そんなことにも気づかないとはね。やっぱりお前はバカだよ。大バカだ」
「……減らず口を! いいわ、そんなに痛い目がみたいなら見せてあげましょう!」

 紫が腕を天へと突き出す。

「降参するなら今の内よ?」

 最後通告が出されて、

「誰がするか」

 はあ、とため息が落ちて、

「そう。なら弾幕の海に呑まれなさい。呑まれて、溺れ死ぬがいいわ。そして──」

 そして、

「──さようなら」

 ●

 空一面が覆い尽くされる。それは魔理沙が今まで見たどの弾幕よりも多く、そして本気の弾幕だった。
 黒衣を取り囲むものは星の数に届こうかという数の力。そして彼女が持つものはなにもない。箒がなければ速度も出せる訳がなく、すなわち避けられる道理はない。絶対的なまでに不利な状況。
 しかし魔女は退かない。勝とうと思っているから。勝てると思っているから。勝たねばならない、と思っているから。

「ま、これしかないわけだよなあ」

 スペルカードをひらひらと振りながら、懐に手を入れながら魔理沙はつぶやいた。
 懐から取り出すものはミニ八卦路。勝利を呼ぶ鍵であり、彼女がもっとも信頼しているものであり、そして同時にもっとも危険なものでもある。魔女はそう思う。
 結界が内側へと収縮し始める。何重もの結界はそれぞれが多様な性質を持っていて、故に獲物を逃がさない。
 避けられない。だから魔理沙は使う。己のスペルカードを展開する。
 でもその前に、

「おい紫」
「何かしら?」
「スペルカードも、何だってそうなんだがな──」

 スペルカードを持った腕を天へと引き上げ、

「──カウンターは警戒すべきだぜ!」

 魔女の手から紙片が飛び風に乗る。指を鳴らし、

「マスタースパークだ!」

 構える。
 両手を添えられたミニ八卦路から光が投げ放たれる。出力は最大、故に反動も最大。山を打ち砕く程のエネルギー量が、魔女から妖怪へと向かって飛ぶ。光の槌が紫をねらう。魔理沙に迫る弾などその余波でかき消されてしまった。
 ならば魔理沙の回避動作は必然的に緩慢としたものになる。それしか出来ないから。しかしそれで十分、と魔理沙は断じた。
 紫が展開していた弾を用いて、光芒を相殺しようとする。しかし一つ一つの弾は為すすべもなく打ち破られてしまう。
 しかし、その弾の量がもはや異常。数千、数万を越える程の弾が光線の動きを止める。弾幕の結界が妖怪を守る。スキマは使わない。それは紫のプライドが許さないのだろう、と魔理沙は判断した。
 スペルカードルール的には紫の行動は問題ない。結局、『弾幕の結界』であることに変わりはないのだから。詭弁ではあるが、結局のところルールには綻びがあり、故に隙間が生じる。

 二人の力が拮抗する。だが、少しずつ魔理沙が押し始める。その理由はエネルギーを解放したこと。八卦路の限界を超えた力の放出によるものだ。当然反動も増し、魔理沙の両腕が悲鳴をあげる。
 それでも止めない。
 魔理沙は願う。
 ……行け。
 願わくば、友人の思いが成就せんことを、と。
 ……抜けろ。
 光が少しずつ、弾幕結界を切り裂いて進んでいく。
 ……突き抜けろ。
 弾幕結界は、紫の心の反映。拒絶の反映。それが少しずつ破られていく。
 ……拒絶の壁を打ち破れ。
 光芒は魔理沙の想い。藍の想いをのせた、魔理沙の想いだ。それが紫に到達せんとして、歩みを進める。
 ……弾幕結界の、
 ミニ八卦路にヒビが入る。
 ……決壊を呼べ──!
 そして、

 ●

 八雲紫が目覚めと同時にみたものは、見慣れた天井の木目だった。
 彼方からは昼の日差しが降り注いでいて、春のちょっと湿った風が部屋を駆け抜けていく。
 彼女は布団から体を起こすと、あたりを見渡して、

「よう、起きたか」

 部屋の片隅に座り込んでいた霧雨魔理沙が声を上げる。服はボロボロではあるが、何とか実用に耐えているようだ。彼女は紫に対して背を向けていて、何かを見ているらしい。

「……私が負けたってわけか」
「まあな。私もギリギリではあったが。これ見て見ろよ」

 魔女が振り返り、紫に拳大のものを投げ渡した。ミニ八卦路だ。形状こそ未だ健在ではあるが、全体に蜘蛛の巣の様なヒビが入っていて、もはや機能しないであろうことは誰の目にも明らかだった。

「随分と乱暴な使い方をしたのね」
「そうでもしなきゃ私が負けてたからな。──やれやれ、また修理を頼まないとな」
「でも、力押しで私に勝てるなんて、貴女も成長したものね」
「違うね」

 ぴしゃりと否定する。

「私が強くなったこともあるだろうが、何より、お前さんが弱くなったんだよ」
「大妖怪としての力は未だに健在ですけれど?」
「確かにそうだが、かつての大妖怪『八雲紫』の力じゃないぜ」
「なら何だというの?」

 紫に背を向けたまま、魔理沙が、

「藍の力だよ」
「藍? さっぱり話が読めないんだけれど」
「式神の力が、主に還元されてるだけ、ってことだ」

 紫が一瞬だけ沈黙して、

「でも、でも藍はそんなこと一言も──」
「お前に気を遣ったんだろ」
「…………」

 押し黙る。
 数分ほどの沈黙をおいて、

「おい紫」
「……何かしら?」
「こっちに来い」

 背を向けたまま、魔理沙が後ろ手に手招きをする。紫が大儀そうに立ち上がり、彼女の元まで向かうとそこには、

「花瓶?」
「そんなの見りゃわかるだろ」

 花瓶があり、二本の花が生けられていた。色は紫と蒼。どちらもみずみずしさを保っている。丁寧に手入れされているのか、摘んできたばかりなのか、あるいはその両方か。

「なんの花か、わかるよな?」

 魔理沙が尋ねる。しかし紫は答えられない。それは知らないからではない。
 答えを待たずに魔理沙が続ける。

「カーネイションだよ。品種はボーダー。境界とかけたつもりなんだろうさ。そして、青い方は名をムーンダストという。本来存在しないはずの色。幻想の色だ」

 ……ああ、そうか。
 紫の中で今まで得た事実がつながっていく。なぜ、藍が朝から外出していたのか。なぜ、このところ藍が自分を避けるような素振りを見せていたのか。なぜ、太陽の畑を訪れていたのか。なぜ、昨夜の夕食はあんなにも手が込んでいたのか。すべては、

「花言葉はな、紫色の方は『誇り』。ムーンダストが──」

 ……ああそうか。
 紫色に寄り添う蒼を見て思う。

「『永遠の幸せ』」

 ……そうだったんだ。長年、太陰暦を使っているから忘れてしまっていたけれど、

「──ごめんなさい」

 ……昨日は母の日だったんだ。

「……ごめんなさい……藍」
「今更謝ったって遅いさ。過ぎたことだ、しょうがない。過去に固執するな」

 魔理沙が冷徹に切り捨てる。
 なら、と紫が問う。

「なら、どうすればいいの?」

 なに、単純だ。と魔理沙は立ち上がり答える。

「今あるものを失わないようにするだけだ」

 さあ、と少女が少女に呼びかけて、

「行こうぜ。藍が生と死の境界を迷ってるんなら、お前が引っ張り戻すしかないだろ」

 ●

 魔理沙の自宅、その中の魔理沙の私室に二人が降り立った。魔法道具や魔術書で踏み場もない部屋は、しかし一カ所だけが片づけられていた。その一カ所とは、寝台の上だ。そこには一人の少女が横たわっていて、そして傍らにもう一人の少女が控えている。

「よう、帰ったぜ」

 スキマから出た魔理沙の第一声に反応したのは、傍らに控えている少女の方。ん、とだけ返して、それ以外の反応はない。
 次いで紫が顔を出し、その少女の姿を見つけて驚愕の声を上げる。

「橙!? なぜここに──」
「自分の主が危機に陥ってるのを分からん式神って、いないと思うが」

 橙は紫に駆け寄り一礼すると、頭を下げたまま、懇願する。

「紫様──どうか藍様を──」

 あーやめろやめろ、と言葉の半ばで魔理沙が割って入り、橙の頭を上げさせる。

「解ってるって、その為に紫を呼んできたんだから。お前ももうちょっとこいつのこと信頼してやれよ。なあ、紫?」

 唐突に話を振られた紫は少々困惑気味に、

「え、ええ。そうね」
「まあ、そういうわけだ。これからは私たち二人でどうにかするさ。おまえさんは外で大船に乗った気持ちで待っていてくれ」

 そういわれた橙は、少しだけ困ったような顔をして、

「藍様が心配なんだけど、外に出なきゃだめ?」
「だめ、だ。少しでも藍が助かる確率を上げるためなんだ、解ってくれ」
「──わかった」

 渋々と、橙が立ち上がって部屋の外へでる。紫へと一礼してから。こういう状況でも、いや、こういう状況だからこそ礼を欠かさない。
 紫は扉が閉じられ、橙が歩き去るのを確認してから、

「随分うまく言いくるめたものね」
「昔から口は達者なんでな。だいたいは詭弁だが」
「あっそ」

 さて、

「それじゃ、やるか」
「まってよ。まだ具体的に何をすればいいのか聞いてないわ」
「それくらいは自分で考えろ。自分でやったことだろ」

 そう言われて、反論を持ち合わせていない紫は口を閉じるほかなかった。軽く魔理沙に対する怒りが湧くが、
 ……いや、今はそんなことを考えている場合じゃないか。
 魔理沙が椅子に座り込む。しかし足は小刻みに動いていて、焦りを感じていることが見て取れる。
 考える。藍を救うにはどうすればいいかを。八雲紫が何をするべきなのかを。そして、何が出来るのかを。
 見つけた答えは、

「解った」
「そうかい」

 交わされる言葉はそれだけ。
 紫が空間を裂いた。それは、藍の精神へと通じる道。それを魔理沙も薄々と感じ取っていたからこそ、

「いいのか? 妖怪は精神が主。他人の心に潜り込むなんざ、下手すりゃお前も死ぬぜ?」
「心に潜り込む訳じゃない。夢と現の境界を弄くって、藍の夢におじゃまするだけ。どうってことはないわ」

 ふ、と魔理沙は軽く笑って、

「解ったよ。そんじゃ、いってこい」

 ええ。と返事をして、紫はスキマへと飛び込んだ。一瞬のかげりを感じる。紫色の海を通過して、一直線に進んでいく。
 紫はふと思った。今のいってこいは果たしてどちらの意味だろうか、と。
 ……どちらも、よね。
 他人の心など解るはずがない。それは未だに紫の持論として心にある。
 しかしこうも思う。解らないなりに、理解しようとすることが大切なのではないか、と。はじめから諦めることをせずに、歩み寄ることこそが大切なのではないか、と。
 ……気づくのが遅すぎた訳だけども。
 苦笑する。だが、これからは変えられる。変えて行けるのだ。

 八雲紫は、紫色の空間を抜けた。

 広がっていたものは、真っ白な闇。どこまでも続く白。何も見えない。それが藍の見ている夢だった。
 彼女は藍を探す。これが藍の夢ならば、どこかに藍がいるはずだから。
 果たしてその思考は正解だった。
 白の闇のなか、膝を抱えてうずくまる影があった。九つの金の尾を持つ姿は、紛れもなく藍のもの。その瞼は閉じられていて、声が届きそうな気配もない。心を閉ざしてしまっている。だから紫は近づいて、藍の心に呼びかける。
 
 ●

 ──藍。
 純白の闇の中で、呼び声が波紋を作る。波紋は数度生じて、やがて意識となった。
 ──紫様。
 己を呼ぶものの名を呼んで、
 ──放っておいてください。
 ──なぜそんなことを言うの?
 ──いいんです、私は紫様に不快な思いをさせてしまいましたから。
 ──そんなこと気にする必要ないわ。
 ──…………。
 ──…………。
 ──紫様。
 ──なに?
 ──橙には、もうすぐ八雲の姓を与えるのですよね?
 ──ええ、そのつもり。
 ──そうですか、では私はもういなくともいいでしょう。
 ──そんなことはないわ。
 ──そんなことあります。
 ──…………。
 ──…………。
 ──ひとつだけ、いいですか。
 ──ええ。
 ──いらないのですか?
 ひと呼吸空いて、
 ──私は。
 ──そんなことはないって言ってるでしょ、この分からず屋!
 ──しかし──。
 ──うるさい! ならはっきりと言ってあげるわよ!
 紫が勢いを止めて、
 ──必要なの。
 反応がなかったからもう一度繰り返す。
 ──必要なの、貴女が! 私には藍が必要なの!
 ──…………。
 ──主として命令するわ。藍、私と生きなさい!
 ──…………。
 ──……今まで、ごめんなさい。自分勝手だけど、私にはやっぱり藍が必要なの。
 ──…………。
 ──だから、これからも一緒に歩んではくれないかしら?
 ──…………。
 ──……ダメよね。今更、そんな虫のいい話はないか。
 ──……ええ。
 ──……そっか。ダメ、よね。
 ──……ええ、ダメです。これからも、ではダメです。
 ──…………。
 ──これからずっと。それ以外私はいやです。
 ──…………。
 ──紫様。少しだけ、貴女の能力を使わせてください。私に命じてください。
 ──……いいわ、藍、私の力を──大妖怪八雲紫の力を使いなさい。
 ──ありがとうございます。そして──ごめんなさい、お母様。
 次の瞬間、紫を取り囲む世界が反転した。

 ●

「な!?」

 紫が驚きの声を上げる。それも当然、藍の夢から強制的に放り出されたから、だ。着地に失敗し、紫は盛大に魔法道具をひっくり返す。魔理沙は目を見開いて、現状の理解につとめている。
 一瞬呆然とした紫は、しかしすぐに自我を取り戻して藍へとかけよった。落ちているものを踏みつけて、一瞬でも早く。戸が開かれて、物音に気づいた橙が駆け込んでくる。
 紫は未だに目を開かない藍の肩を揺さぶって、呼びかける。もはや自分が何を叫んでいるのかさえ解らない。
 不意に、薄く目を開いて、笑んで、唇を小さく動かした。言葉は聞き取れない。
 次の瞬間、
 藍の体が光の飛沫と化した。紫の手が空をつかみ、光が紫の胸へと吸い込まれていく。同時に、紫は自分の中に力が満ちていくのを感じた。そして、藍が何をしたのかを理解する。
 他の二人は未だに動き出せないままだ。

「そんな──こんなことって──」

 つぶやきが落ちる。

「私は──私はまだ、あの子に何も返してあげてないのに──」

 床が濡れる。

「う──あ──ぁぁぁ」

 慟哭。嗚咽。どちらともつかぬような声が、とめどなくあふれるばかりだった。
 だれも、紫を慰めることはできなかった。




 ●



 春の陽気が満ちる中、八雲邸ではあくびが飛んだ。くぁ、と大口を開けて盛大なあくびを漏らすのは、居間に寝転がる八雲紫だ。
 金の長髪を床に乱れるがままにして、衣服がしわくちゃになるのもかまわないままに寝転がる。もう一つあくびをして、すやすやと寝息をたてる。

「紫様ー! 寝ないでくださいよー!」

 朝食を運びつつ叫ぶのは橙。叫び声に対し、うるさいなあと思いつつも紫の意志は睡眠へと誘われていく。とうとう二度寝。
 朝食を乗せた盆を机においた橙は、紫の元へと駆け寄ると、その肩を揺さぶって、

「起きてくださいってば、紫様ー」
「──ぅん、あと五分、や、十分──」

 寝ぼけているためか、甘えるような声で紫がお願いした。これは意外と貴重な光景ではなかろうか、と橙は思うものの、すぐに己が役割を思い出し、

「ダメですって。ほら、早く起きてくださいよ」
「──やぁぁ」

 目をつむって首をふるふる振り、拒絶の意志を示そうとする。まるで赤ん坊のようだな、と橙が笑みを浮かべるのと同時、

「おいおい──妖怪の賢者ともあろうものが、とんだ醜態だな」

 魔理沙だ。音もなく縁側から上がり込んでいた彼女は、勝手に机について、朝食を催促する。
 うるさぁい、と先の魔理沙の言に対し、ろれつの回らない声で紫が怒る。勝手に上がり込んだ魔女に対し、橙が咎めるような視線を向けると、

「なんだよ、せっかく選別を持ってきたってのに」

 といいながら、魔理沙が何かを取り出した。なにかしら、と紫が片側のめの瞼をほんの少しだけ開けて、体をほんのちょっぴりだけ起こす。
 魔理沙が持ってきたものは、

「おお、日本酒で紫が釣れるとは」
「いやいや、別につられてないわよ」

 魔女が手に持っていたのは、酒の入った一升瓶。ラベルは無いものの、瓶についた小さな傷跡や細かな汚れから、なかなかの年代を重ねたものであろう。そう判断した紫は苦笑しつつ、

「それ、ダメになってないわよね?」
「当然だろ。検分はちゃんとしてきたぜ」

 親指を立て、口元を拭いながら魔理沙が言う。つまみ食い──もといつまみ飲みをしてきたことを誇らしげに言う。
 紫はそれにして、あくびをしてから、

「──ふぁ。しかし朝から酒とはね」
「イヤならやめてもいいんだが」
「そんなこと無いですわ。むしろ大歓迎よ」

 話に参加できていない橙に、紫が気づいて、

「橙も飲みたいでしょ?」

 唐突に話をふられた橙は驚いたのか口ごもり、

「あ、いえ、その」
「おいおい、遠慮するなって。別にお前をのけ者にしようとは思ってない」

 そうよ、と紫が首肯して、

「──春の湊に、酒を交わす」
「湊?」

 魔理沙が訪ねると、

「人が集まる場所、ですね」

 橙が補足して、紫が満足そうにうなずくと、

「酒の肴は──」

 なにがいいだろうか。紫がそう考え、言葉に詰まると、

「──焼き魚、なんていかがでしょうか」

 四人目の声。
 紫がそちらへ振り返ると、

「あら、それもいいわね。藍」

 すでに九尾を持たない狐が、盆を持って歩いてくる。
 焼き魚を乗せた皿を机に並べていく。朝食の準備は整った。
 皆が思い思いの席に着き、思い思いの形で座り込むと、

「いただきます」

 客人の魔理沙が最初に声を上げた。それに三人は苦笑しつつ続いて、声をつづけた。
 団欒とした雰囲気で朝食が進みゆく。酒をともにした朝食。
 一番最初に食べ終わったのも、やはり魔理沙で、彼女はけぷ、と音を立てつつ、

「──しっかし、藍の料理もうまくなったもんだ。空狐になったからか?」
「いや、日々の研鑽の結果」

 そういって藍が箸を置いて、自分と魔理沙の分の食器を持っておくに消えた。
 その姿を見た紫は残念そうな声を上げ、

「あら、すぐに引っ込んじゃうのね」

 橙が否定する。

「違いますよ」

 魔理沙続け、

「あいつはあることを成し遂げるため、奥に戻ったのだ」

 そこまで言われて紫は気づく。
 ……ああ、もう一年が経っていたのね。
 だからわかりながらも、笑いながらも訊いた。

「何を成し遂げるって?」
「贈り物だよ」

 三角帽を被らぬ魔女が言った。
 ふ、と魔理沙と橙が笑い合い、同時に声を上げようとした瞬間、

「春の湊に、贈り物──ですよ」

 いや、と空狐は言い直す。
 よりふさわしい言葉があるのだろう。
 それは、



 ──母の日に、ボーダーの贈り物を。
 
ー了ー
 目に見えなくとも、そこに在る。
 紫がそれを信じられたからこそ、空狐となった藍は今もここにいることが出来たのでしょう。
 空狐は目に見えないそうですし。紫が可視不可視の境界をいじくればどうってことはないのですが。
 ラストで藍が何気なく混じっているのはそういうことです。
 まあ、紫の妄想と、それに付き合う二人と解釈することもできますが、それはちと悲しすぎる。
 のちには橙が藍に母の日の贈り物をして、紫が魔理沙に敬老の日も祝ってもらうようにいわれることもあることでしょう。

──

 ども、コストルです。今回は数ヶ月遅れの母の日SSに挑戦してみました。
 ラストに向かうにつれて、文章が陳腐になっている感に悩まされ、どうにかこうにか推敲を経て納得できる程度には仕上げました。
 取り合えず気になったのは魔理沙がイケメンすぎること。ちょっと大活躍過ぎたかもなぁ……違和感を覚える人も少なくない気が。
 まあそんなこんなであとがきとなります。それでは次回がありましたら、またお会いしましょう。
 お読みいただきありがとうございました~。
コストル
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コメント



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とても素敵なお話でした。
少女な紫様も、不器用な藍も、真っ直ぐな魔理沙も、勿論ちょっとだけ成長した橙も素敵。

本当はもう十分のはずなんですが、あえて言わせて下さい。
『生殺しである!!』と。

意図的にボカされているのかもしれないですが、やっぱりどこかで一つ
霊夢(初代、でいいのかな?)を絡めた回想が欲しかった。欲しかったなぁ……