──いらないのですか?
●
いらない。少なくとも今、光は彼女にとって必要ないもの。
闇。上を見ようと、下を見ようと、明後日の方向を見ようとも闇。
安寧を誘う闇の掌が彼女の体を包み込んでいた。
意識は外部と断絶され、通常であればとろけるように甘美な夢を見る。
怠惰の恒温は母の胎内を想起させ、破獄をさせまいと彼女をより強く抱きしめる。
──紫様。
混濁した意識の満ちた世界で、呼び声が波紋を作る。波紋は数度広がり、やがては意識を形作った。
曖昧とした意識はまるで霞の様に不安定。すぐに霧散してしまいそうなその形をどうにか整えながら、彼女の己を取り戻す。
彼女が感じるのは浮遊感。いや落下感だろうか。どちらともわからないくらいに彼女は惚けていた。
意識が戻る感覚。一瞬だけ体が浮いて、元の器に収められたような感覚。未だ全身が重いが、彼女は体の操作を取り戻す。
──紫様。
数度目になる呼び声に彼女は、鉛のように重い瞼をほんの僅かに開き見る。視野を埋め尽くすのはいつもと変わらぬ天井の木目。
彼女は目だけを動かして声の来た方向を見る。いつものように己の式神が定位置で正座を組んで待っていた。
……いつもの顔ね。
その直後に再度眠気が魔手を伸ばし、眠りに誘おうと彼女の意識に絡みつく。抵抗をする術も無く、彼女は再度眠りに落ちる。
「紫様、いいかげんに起きて下さい」
ふんわりとした目覚めが紫のまぶたを持ち上げた。ねっとりとした倦怠感が体にまとわりついているが、多少頑張れば振り払える程度。
外から雀の鳴く声。その声に聞き入っているうちに三度寝をしようとしている自分に気が付き、彼女は体を起こした。
あくびを一つ。少女の姿には相応しくないほどに大口を開けて、賢者の名を疑うほどに気の抜けた声とともに伸びをする。
……少し親爺臭いかしら。
はふう、と大きく息を吐きながら彼女はそう考えるが、この至高の一時は何事にも代え難いかと思いなおす。
上の寝巻きがはだけていて、艶めかしい白の肌が眩しい。上半身が露になっていることに気づいた彼女は、荒れた布団を引き寄せて胸元を隠すと、
「着替えるからちょっと出てなさい」
はい、と式神は部屋を出る。ぴしゃりと襖が閉められて、少女は立ち上がる。部屋にのこった少女が指先を振るうと、魔物が口を開くかの如く紫色に空間が割れた。
魔獣の口から無数の目が覗き、彼女の衣服が吐き出される。ぱらり、と落ちた衣装を少女は拾い、寝巻きを脱いでから袖を通す。
衣が擦れる音。
寝巻きを空間の裂け目に放り込んで、着替えが終わる。要する時間は五分も無い。普段からなれた動作は効率化を経て、既に洗練された動作となっていた。
紫色の衣装を身に纏った少女は襖を開けて部屋を出る。廊下では式神が主人を待ち立っていて、主人の姿を認めると恭しく頭を下げる。
「おはようございます、紫様」
おはよう、と返そうとして紫は違和を感じる。一瞬きの間にその頭脳を使い、未だ想定の範囲内であることを確認した。
彼女にとって、朝一番に顔を合わせるのは己の式神であるのが常だ。しかし今日はそうではなく、式神のそのまた式神が起こしてくれたようすだった。
彼女は式の式を脅かすまいとの目的で微笑を作ると、
「おはよう、橙」
式神に挨拶を返した。その茶色がかった頭を白の手套越しに軽く撫でると、橙は心地よさそうに目を細める。その様はまるで猫のようで。
……すると、先に見た藍は夢心地に見た幻影か。
ふむう、と彼女が思考をめぐらせているうちに、顔を紅潮させた橙が手から逃げるように飛び退いた。
「あら、お気に召さなかったかしら」
紫が悪戯っぽく笑んで聞くと、橙は二本の尻尾を跳ね上げる。申し訳ないといった態度であたふたと否定の言葉を重ね、
「い、いえ、そういうわけではないのですが。私もそういうのはそろそろ恥ずかしいというか──」
「そう、あなたもそういうお年頃なのね」
みなまで言わずとも理解した、と彼女はそこで会話を切り上げる。普段からこの調子であるので、実際に理解しているのかは謎だと巷では囁かれている。
実際のところ彼女は理解している。彼女を賢者と言わしめる頭脳の成せる業だ。彼女の頭脳は人間のそれとは比べ物にもならないほどに化け物じみている。
そんな頭脳を持っているのか疑いたくなるような大あくびを、彼女はもう一度。ぷう、と今度は似合わないかなと己でも思うような可愛らしい声で。
あくびを終えると、
「朝食は?」
「は、藍さまが用意していかれました」
「ってことは藍はさっきまでいたのよね」
「そうなりますね」
そうよねえ、と軽く語尾のあがった声とともに紫は歩きだす。板張りの廊下がひんやりとした木材の冷たさを主張している。
ぎしぎし、と紫の歩に呼応して床が悲鳴をあげる。別にうぐいす張りと云うわけではないのだが何故だろうか、紫が歩くと床は鳴る。
……この家も大分老朽化してきたのかしら。
決して自分が太ったからではない、と紫は断言した。しかし橙が歩いても床は軋まない。これは何かの間違いなのよ、と考え直した。
居間には、木造のテーブルに朝餉が並んでいた。味噌汁と米飯とその他諸々から湯気が立ち上っているのを見るに、出来立てであろう。暖めなおした、という可能性もあるが。紫はそう考える。
食事は二人分用意してあった。紫と橙の分。紫が定位置の畳に安座すると橙がその向かい側、いつもならば藍が座る場所に着座する。
戴きます、と彼女等の糧となった者達に感謝を述べてから箸を取る。まずはご飯茶碗を左手に、右手に持った箸で菜を摘む。
橙が焼き魚に目の色を変え、一瞬で魚を小さな口内に納めたのに驚嘆した紫は、味噌汁を音を立てて啜りつつ聞いた。
「ところで、橙」
「ひゃい!? なんでひょう!?」
「そんなに緊張しなくとも」
「も、申し訳有りません!」
……もう。話が進まないわね。
紫は橙の態度にもどかしさを感じながらも、しかし彼女の緊張を解さねば上手く話がすすまないか、とも考えた。
彼女の式の式だとは言え、大妖怪である八雲紫を目の前にして緊張するなというのは多少の無理がある。
紫と同じくらいの力が有れば別だが、仮定をした所でしょうがない。それを橙に期待するには百年単位での時間の経過が必要だろう。
……とはいえこの初々しい態度を肴とする朝餉も悪くは無いか。
よよよ、と目元に手を当てた紫は泣き真似をして、
「私ってそんなに嫌われているかしら?」
「い、いえっ! そんなことはありません!」
「でも、橙は私が話しかけると嫌そうですもの」
「それは……。わ、私は紫様に話しかけられて、恐悦至極でございます!」
「そ、そう? そこまで言われるとちょっと照れちゃうわね」
むんと胸を張った橙を見た紫は、藍にはもったいないくらい良い子だなおい、とか思いながら焼き魚に手を伸ばした。
焼き魚を二口ほど咀嚼した所で、橙が自分の手元を穴が開くほどに注視していることに気がつく。正確には、自分の食べている焼き魚を。
橙にとって、紫の焼き魚は垂涎の的なのだ。文字通り、八雲紫の式の式としても、少女としてもどうなのかと言いたいくらいに涎を垂らすほどに。
……欲しいのならそういえばいいのに。
八雲紫はそう思うが、やはり目上の人にそういったことを言い出せるほどに橙の神経は図太くないという事なのだろう。
それを悟った紫は、ちょっとしたご褒美をあげるのもいいかなと思う。藍相手にはそういうこともないので、ちょっぴり新鮮だった。
「橙」
「はい?」
「魚、あげるわ。欲しいんでしょう?」
「いえ、しかし」
「朝、ちゃんと起こしてくれたからね。お駄賃よ、お駄賃」
「ですが──」
「つべこべ言わず食べなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」
皿を受け取る際に橙が瞳を輝かせて破顔一笑したのを見て、紫は満足げに目を細める。
……母親気取りも悪くないわ。
なんて柄にもなくそんなことを考えてしまった自分に、似合わねえなと毒づいた。泣く子も黙る大妖怪が、母親の真似事とは。
そのあまりのギャップに紫は己の事ながら笑いをこぼしてしまう。少少滑稽が過ぎる気もするが、子を持つ妖怪も居るからそれほどでもないのだろうか。
例えば、鬼子母神は鬼でありながら数多くの子をなしている。とはいえ、これは仏としての面が強すぎるためなんとも言い難い。
他にはうぶめも子を持つ妖怪として挙げられる。しかしこれも、『母親の無念』が先にたつため『妖怪が子をなした』とは言い難い。
となると、意外な事に子をなした妖怪、と言うものは少ないのではないだろうか。妖怪の子供ならば世の大悪人がそういった逸話を持つが、子を産んだ妖怪は少ない。
大して考えた事のない事実を考えている内に、八雲紫は食事を終えてしまっていたことに気付く。
ごちそうさまでした、と再度感謝を述べると橙がてきぱきと食器を片付ける。
大分慣れている様子を見て、紫は橙が思っていたより子供でないことを知るとともに、自分が歳を食った気分になってしまって顔をしかめた。
私はまだまだ少女よ、と誰ともなしに呟くが聞いているのは畳と天井と襖だけだった。
手持ち無沙汰になり、退屈を嫌う紫は頬杖をついて橙の観察を始める。橙は湯気を昇らせる二つの湯飲みをお盆に載せて、危うい足取りで歩いてきた。
紫の危惧は杞憂に終わり、特に何事も無く橙は机に盆を置いた。ことり、とかすかな音が少し印象深かった。藍の置く音とはちょっと違った。
「紫様、お茶になります」
「ん、ありがと」
頬杖をついたまま答えると、目の前に香気を立ち上らせるゆのみが置かれた。しばらくそのまま緑茶の香りを楽しんでから、ゆのみを手にとった。
橙は先程よりもリラックスした様子で茶を飲んでいた。紫としてもその方がやりやすいし、曲がりなりにも『家族』だ、と彼女は思っている。
茶を一口飲んで、紫の体が芯から温められていく。程よい茶の熱が体を包み込んでいく。思わずほう、と吐息を漏らした。
ぴょこぴょこ、と動く二本の尾。橙の尾だ。猫又である橙には尾が生えているのだ。藍の場合は九本の尾が。
……どうしても藍が気になるのね、私は。
己の意外な一面に気づいた紫は、ほんのちょっぴり動揺した。動揺をごまかすように湯飲みを置いて、橙に声をかける。
「ところで橙」
「はい、なんでしょう」
「藍はどうしたの?」
びくり、と橙の二本の尻尾が跳ね上がり、耳がぴんと立つ。
「は、はあ、なんでも用事があるとか──」
……ふむ、橙は藍がどうして出かけているか知っているわね。しかもそれを隠そうとしている。
その慧眼で即座に看破する紫であったが、それを聞くのも無粋であろうなと思い、これ以上の追求を止める。
「そう、ならば良いのだけど」
「はあ」
「私は藍に嫌われてるんじゃないかってね、ちょっぴり心配だったのよ」
自分にしてはめずらしいなあなんて思いながら、紫はその心中を吐露した。
「ほら、藍にはいっつも仕事を押し付けてるじゃない」
「……そうなんですか?」
……しまったぁ──!? 自分から暴露したぁ──!?
心の中は自分評議会による、己に対する満場一致の有罪判決フィーバー状態だが、しかし外面だけは余裕を気取る。
ええい、ままよ! なんて心の中で開き直りつつ、言葉を続ける。
「そうなのよ。橙は知らなかったんでしょうけどね。だから、嫌われてるんじゃあないかって」
おどおどしていた橙が、勢いよく顔を上げる。
力強い否定が来た。
「そんなことはありません!」
唐突な橙の大声に、紫は目をしばたたかせるほか無かった。
橙は初めはちょっとばかり怒ったような紅い顔をして、次第に自分が何をしたのかに気がついたのか、その顔を青くした。
紫は別段腹を立てているわけではないが、彼女はそうは思わなかったらしい。ということは、だ。紫は顎に手を当てて考える。
……怒られるのを覚悟して、か。
そこまでせずとも、話の流れにそってやんわりと否定すればいいのに、彼女はそれをしなかった。
彼女を駆り立てた理由。八雲紫にはそれが気になった。彼女の頭脳を持ってしても解けない数式、それは心の在り様だ。
どれだけ時を積み重ねようと、どれだけ法則を考え出してみても。完全に理解するには至らぬ問い。
「そう、橙。あなたは何故そう思うの?」
「それは──藍様が紫様を嫌っているようには見えないからです」
観測と、それによる推量。
「藍の言動から、その答えに至るまでのプロセスは?」
「そんな高尚なものは私にはわかりませんが──それでも、藍さまは紫様のことが好きなんだと思います」
「論拠がないわ」
「根拠など無くとも、信じる事は出来ます」
「……そうね。確かにその答えは是。でも、信じたからといって不可能は覆せないの」
「紫様……私達には、その程度の幻想を抱く事も許されないのですか」
紫は立ち上がり、両手を広げた。ひ、と橙が怯えて身を縮める。
「どんな幻想も、抱くのは自由よ。でも成就するとは限らないわ。しないとも限らないけれど。しかし否定された幻想はただ現実にその座を譲るしかない」
「そんなことって──」
「それが、数千年を経て見つけた私の答えよ」
紫は踏み出す。橙の隣を抜ける軌道で、一歩一歩畳を踏みしめる。
低い声で、橙が聞く。
「諦め、ですか?」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけだったが紫の歩が停滞した。顔をしかめて、左胸を右腕で押さえるように抱く、それも一瞬。
次の瞬間には、いつも通りの彼女が次なる一歩を踏み出していた。平然とした表情を浮かべる境界の妖怪が、超然と進む。
常人には彼女が歩を緩めたことなど感知できないだろう。でも橙はそんな一瞬を感じ取っていて、
「……すみません」
「別に怒っちゃいないわ」
さらりと彼女は流す。その話題を避けたいといわんばかりに、いつものような茶化しを入れることもなく流した。
縁側まで後数歩もない。朝の日が庭先を白く照らしている。太陽は、遥か遠くに座す山のそのまた向こうまで等しく照らす。
外気は生ぬるい。そして湿っている。穏やかな風がゆったりと外から吹き込んで、八雲紫の金の髪と紫の衣を揺らした。
しかし橙は話題の追求を止めてはくれない。
「……まだ、忘れられないのですか」
陽の光と、家の影が作る黒。その境界。
縁側まで後一歩のところで、紫の足が止まる。
……そんなの決まっているわ。
答えは決まっている。彼女の中では決まりきっている。
目を伏せる。息を吸い、吐く。逡巡は数秒もかからず、決断はひと瞬きも要さない。
目を開いた。
「忘れられるわけないじゃないの。たとえ、私が妖怪で彼女が──」
言葉を切り一歩。
紫は縁側まで出ると、背中を向ける橙に振り向いた。
「なんて、ね。大妖怪がそんなこというわけないでしょ」
舌を出して笑う。しかし橙は振り向かない。どうしたの、と聞くが彼女は何も言わなかった。この距離で聞こえていないはずがないのに、だ。
紫はちょっぴりだけ、橙に感心の意を抱いた。大妖怪たる彼女に、消極的な方法であろうとも反抗した事に対して。
……やっぱり、彼女も八雲の系譜を受け継ぐ者ね。
その内に八雲の姓を与えてやってもいいかも知れないなと思う。近いうちに新たな家族が誕生するのを感じて、紫の心はなんとも言えない気分に包まれる。
いや、別に名前のつながりだとか血のつながりだけが家族ではないか。そう思いなおした。
「ねえ、橙」
「……はい」
「ごめんなさいね、頭の固い母親みたいな事言っちゃって」
「母親、ですか」
「そう、母親よ」
ばさばさ、とやかましい羽ばたきとともに雲雀が外を飛んでいった。
突然の音に、紫は慌てて振り返り、音の正体が雲雀であることを確認して胸をなでおろした。
……雲雀か。また春が来た、か。
それに気を取られていたせいもあるのだろう、紫が橙の言葉を聞き取れなかったのは。
「なら──」
続く言葉は紫の耳を持ってしても到底判読できなかった。もしかしたら、はじめから口にしていなかったのかもしれない。
……橙にも嫌われちゃったかしら。
誰にも、自身にも聞こえないように小さく嘆息した。
○
ねっとりと肌にまとわりつくような。そんな春の空気が神社を包んでいた。湿り気を帯びた風は紫の金髪をかすかに揺らす。
石畳をかかとで打ち、こつこつと小気味いい音を立てて歩く。その目的は向かう先、賽銭箱の後ろに座る巫女に己の存在を誇示する事。
あとちょっぴりプレッシャー与えられればもうけもんだな、とか画策している。八雲紫は打算的でしかも狡猾。こういった何気ない動作にも意味を持たせる。
単に欲張りなおばちゃんと一緒だ、とだれかは評するものの、彼女自身に聞けば即断言するだろう。私は少女よ、と。
大妖怪が賽銭箱の前に立つ。何かいいたげな視線を霊夢に対して穴が開くほどに送り続けて、外面だけは威厳たっぷりに立っている。
彼女の刺すような視線に耐えかねたのか、巫女が目線を空に向けたまま話しかけた。
「いつまで立ってんのよ」
「霊夢が気付くまで」
「もう気付いてる」
「そう。じゃあ座っていいわよね、隣」
駄目だ、と霊夢が言う暇も与えないほどの速度で紫は腰掛ける。速度のわりにはふんわりとした着席。
霊夢は目つきを険しくする事で拒絶の意を示そうと試みるが、紫に気付く素振りはない。気付いてはいるが気に掛けない。
紫は霊夢の傍らに盆、さらにその上に急須と空になった湯飲みが湯気を上げているのを見つける。どうやら霊夢は先ほどまで茶を楽しんでいたらしい。
霊夢の湯飲みをちょっとばかり拝借して、紫は茶を注ぐ。それを霊夢に手渡すのかと思いきや、自分で飲み始めた。
もはや何も言うまい、といった様子で霊夢は太息を漏らした。こめかみに手を当てて頭を横に二、三度振る。
ずずず、と音を立てて一口茶を飲んでから盆に湯飲みを戻す。置いた湯飲みを霊夢がかっさらい、一気に茶をあおった。
そのまま霊夢は湯飲みを盆にたたきつけた。快音ひとつ。きっ、と紫の方をにらむがその肝心の妖怪は誰かいるのか、と後ろを振り返ってとぼけている。
気にせず聞いた。
「何用かしら」
「小用」
「つまり野暮用と」
「そうともいうわね」
「帰れ」
「ご遠慮しますわ」
霊夢は頭を抱えた。オーマイゴッドと叫びだしたくなったがすんでのところで思いとどまる。
正直なところ、彼女は毎日のように訪れる紫に辟易していた。毎日、とは言っても二三日に一度程度であるが。
博麗神社には参拝客などほとんど来ない。訪れるのは妖怪ばかり。その多くの妖怪の中でもトップの訪問率を誇るのが八雲紫である。
……いや誇られても困るんだけどね。
大妖怪であるはずの彼女が、こんなにも霊夢を気にかける。正直言って迷惑だ。それをいったところで紫が聞き入れるわけがない。
何を言ったところでのらりくらりと話題を逸らされてしまうのだ。気がつくと別の話題に移ってしまっている。まるで狐につままれたように。
……もういいわ。
もう一度深く息を吐いて頭をリフレッシュした。あきらめた方が精神衛生上いいだろう、と気持ちを切り替える。
「まあいいけどさ」
「そうそう、いいのいいの。人生諦めが肝心なのよ」
……調子のいいことを……!
霊夢は思わず紫を殴りたくなる衝動に駆られるが、よしよし私おさえろどうにかおさえろと己に言い聞かせることでどうにかこらえた。
それでも嫌味のひとつはきっちりと送りつける。そうでもしなければ、霊夢の怒りは爆発してしまうから。
「しっかし、大妖怪の八雲紫様がこんな昼間からご苦労なことね」
「どういう意味かしら?」
紫は首をかしげた。実にさまになった動作であるが、霊夢にはそれがまたこの上なく胡散臭く感じられた。
霊夢は茶を淹れる。こぽこぽと音を立てて、容器が茶で満たされていく。
か細い一本の湯気が立ち上る。茶の香りを運ぶささやかな上昇気流。少しだけ霊夢の怒りが落ち着いた。
でも皮肉は続く。
「いや、あんたはいっつもぐうたら寝てばっかりだから。ここのところはそうでもないみたいだけどさー」
「寝不足は美容の敵ですわ」
「なんかそれ、まと外れな答えじゃない?」
言葉には苦笑が付随する。
湯飲みのなかば程までが茶で占められたとき、急須が茶を吐き出すのをやめた。
あれ、と霊夢がお茶が出ないかと急須を軽く振ったりひっくり返したりしてみるが、中身はすっかり空になってしまっていた。
ざんねんねぇ、と言いつつ残り少ないお茶をちびちび楽しむことに決める。わざわざ家に戻るのも億劫だった。
軽く、春の風が吹いて黒と金の髪を泳がせた。
すっかり春も半ばほどに到達していた。後一ヶ月もすれば夏が眼前に控えていることであろう。
霊夢は今春はじめの魔界大冒険を回想しつつ、茶を飲み、鳥居の朱に区切られた風景を眺めていた。
少々の時間をもってそのひと時は終わりを迎える。霊夢がほう、と息をついて湯飲みを盆に置いたのがその合図。
ことり。紫は静かにその音を聞いていた。
「それでもう一回聞くけど。何用かしら」
唐突に霊夢が聞いた。彼女は紫の様子がいつもと違うことを敏感に感じ取っていた故に。
……いつもならもっと胡散臭い。
でも今日は違う。言葉では言い表せないが、どこか違う。今日の紫はなんだかおかしい、と。巫女の勘がそう訴えているのだ。
一方八雲紫は、霊夢のその鋭い勘に驚嘆していた。彼女の勘が鋭いことは知っていたが、ここまでだとは思っていなかったため。
霊夢の予想通り、今日、八雲紫は博麗霊夢に相談事があった。珍しいことだとは紫自身思っている。
紫が霊夢に相談することも、その逆も滅多にないことだ。両者とも悩みを自分で解決する力に長けているゆえに。
その珍しい相談事は、実に妖怪らしくない。実に紫らしくない中身であった。
実はね、と紫が口を開いた。
「藍のことなんだけど」
「ああ、あの九尾ね。あんたの式神の」
「そうそう、私の式神の。実は彼女のことでちょっとした悩みがあってね」
はあ、と紫はわざとらしく肩を落としてため息を吐いた。ねっとり粘っこい悩みをまとった息が、石畳にへばりついた。
紫はいつも、こういうどこか芝居かかった口調で話を煙に巻いている。霊夢の脳裏にその事実がよぎる。
ここまで話したくせに話題を逸らされちゃかなわん、と霊夢は先を促した。
「で、藍がどうしたって?」
「なんていうのかしら、こう──」
……いつも以上に煮え切らない態度ね。
こう、こう? となんか両手をわきわき動かし始めた紫を横目に、霊夢はちょっとばかし珍しく思った。奇行はいつものことなので気にしない。
それだけ問題が複雑と言うことか、それともいうべきか悩んでいるのか。霊夢にはわからないことだが、この場合の紫は前者だった。
ぽん。ようやく思い当たったのか紫が手を打つ。
「友達がいないのよ!」
……はい?
鳩が豆鉄砲食ったような顔で、霊夢は固まった。まさか大妖怪八雲紫からこんな悩み事を相談されるとは。
自分の式神に友達がいません。
どうにかできませんか。
知るか、と叫びたくなった霊夢だった。
わめき散らしたい気持ちをどうにか発露寸前で押しとどめた霊夢は、どうにか平静を取り繕う。
……い、いや。聞き間違いよね。
さすがに紫が『自分の式に友達がいないんです』なんてことで悩むなんて、霊夢には思えなかった。霊夢の中の紫像とはどうもかみ合わないし、そもそもこれは紫だろうかなんて疑いだした。
引きつった笑いを浮かべた霊夢は頭を抱えて、くしゃくしゃと頭をかきむしりながら紫に聞き返す。
「ええっと……なんだって?」
何を聞いていたんだこいつは、と咎めるような紫の視線が霊夢を射抜いた。おまえこそ何を言っているんだと言い返したくなった霊夢だった。
しかたないわねえ、よく聞いてなさいな。と紫がもう一度軽く息を吸い込んだ。
「藍に友達がいない気がするのよ。だからちょっとばかし人間味が薄いのね」
事実は何も変わらなかった。
「ああうん、そうなんだ。ふうん」
霊夢はあるがままを受け止めた。
何気に自分の式にひどいこといってるなこいつ、と思いながら現実を受け入れた。
……たぶん、からかってるのよねえ?
いまだに霊夢の疑念は晴れない。とはいっても、紫の普段の行動がそもそもの原因なので自業自得。
ふむ、と指先で黒髪をくるくるいじくり始めた霊夢に、半分ぐらいの真剣さで打ち明けた紫がちょっぴり怒る。
立ち上がる。ねえ、と霊夢の方につかつかと歩みよって、
「ふうん、だの。ふむ、だの。ちゃんと聞いてるの?」
「聞いてるわよ」
そっけなく返す霊夢。この場合あまり真剣に相手をしたり、あまりリアクションを示すといいように扱われることを危惧してである。
そんな巫女に一時は怒りの感情を抱く紫だったが、まあいいやと話を続ける。その方が生産的だと踏んだのだ。
紫が急須に手を伸ばしかける。すでに中身が空であることを思い出して、行き場なさげに頭まで手を持っていく。
白布ごしに頭をかきながら、先の失敗にちょっぴり照れ笑いを浮かべて、
「まあ、藍ってちょっとばかり人間味が少ないじゃない。それはいいんだけど、友人といる姿ってのを見たことがないから少し心配になったのですわ」
「へえ」
「へえ、ってそれはないんじゃない?」
勝手に自分から持ちかけてきたんだろうが、と霊夢は視線に思いをこめつつ紫をにらむが、紫は無反応。
霊夢にとっては、いきなりやってきたかと思えばわけのわからないことを相談されているのだ。迷惑千万だ。
まじめに回答する気などわくものではないし、具体的な解決策を考えられないほどに唐突でもある。
しかし皮肉のひとつ位は考えられるものだ。霊夢はもうひとつ言葉の弾丸を発射した。
「あんたの式だから、友達がいないんじゃないの?」
紫が眉を上げ。すぐに引きつった笑みを張り直す。
うわずった声がのどから発される。
「ど、どういう意味かしら?」
「いや、大妖怪たる八雲紫さまの式神に、そんな気軽に接することが出来るかしらってこと。それに藍自身も忙しいそうじゃない。そもそも他人と接する機会が少ないのもあるわ」
霊夢が放った言葉の弾は、紫のハートの怒りポイントを穿つ予定だったが、言葉は紫の納得に足りたようだった。
ふむ、と紫が腕を組んでまじめに考え込む。霊夢の言ったことにも一理あるかも、と思いかけているのだ。
そんな様子を見た霊夢は、ますます不気味に思った。皮肉に皮肉を返さないなんて、悪いものでも食べたかこの妖怪と思った。
「そう……かもしれないわね」
……何よ、本当に頭のねじがぶっ飛んだの?
ここまでが演技ならたいしたものだ、と霊夢は警戒を緩めない。ここまでが演技である可能性はまだ捨てられない。
しかし、霊夢の中には確かに彼女の言動に対して一寸ばかりの信用が芽生え始めていた。
そもそも霊夢には、たとえ演技であろうとも紫がこんなことを言うとは思えない。
……自分に対する悪口は、さらりと受け流すのが常なのに。
何を言ったところで、どんな罵詈雑言を浴びせたところで紫は気にかけたりしないだろう。彼女はそんな雰囲気をまとっている。
しかし今はどうかしら、と霊夢は言葉を口の中で転がした。八雲紫は頬杖をついて目を細めている。遠くを見ていた。
どうやら自分はすでに紫の眼中にはないようだ、と霊夢は肩をすくめ、盆を手に立ち上がる。
彼女の歩は神社へと向かう。一歩二歩、三歩歩いたところで紫の金髪に振り返り、
「まあそんなことより、さっさと帰りなさいよ?」
「……ええ」
帰ってくるのはぶっきらぼうな気のない返事だった。
霊夢は口をへの字にまげて、家の中へと姿を消した。
後に残されるのは一人の妖怪。
ほう、とため息をもらした。
彼女が動作もなく足元の空間を紫色に割り、重力加速にしたがって姿を消した。
空間の口は閉じられて、誰もいなくなった。
●
花が咲き誇っていた。
それもただ一輪というわけではなく、数十、数百、数千を超えようかという花が丘一面を彩色する。
花の色と種類は多用だ。文字通り、色々な花が咲き誇り、多様な色が丘を彩っている。
しかしそれらのすべてにはとある共通項がある。それは春の花であるということ。
季節は春。ならば春の花が咲いているのはなんら不自然ではない。むしろ自然であるといえる。
だが、こんなにも多種多様な花たちが肩を並べている光景というのは世界を探してどれほどあるものだろうか。
いうなれば、花の楽園。
どの花も太陽を仰ぎその光線を受け、さらに背を伸ばして天を仰ぐ。
その中におかしな花。人を覆い隠すほどに大きく、薄桃色の茸の形をしたような花。
いや、それは傘だった。日傘を差すのは緑髪の少女。彼女は目を細め、花たちを眺めている。
彼女が持つ能力は花を操るもの。ゆえについた二つ名がフラワーマスター。
少女は、風見幽香という名。強大な力を持つ、数少ない、大妖怪と呼んで差し支えない存在の一人。
八雲紫と張り合える、といえばその強さも大体のものは理解する。また、その戦闘力と比例するように、彼女は戦闘を好んでいた。つまらない戦闘ではなく、楽しい死闘を。
最近ではちょっとばかし落ち着いたのか、それとも飽いたのか。はたまた別の理由か、闘うことが少なくなってきたようだ。
幽香の視線はひとつの花を捕らえた。少しだけしおれてしまった花。周りは咲き誇っているのに、自分だけ先に散ってしまいそうな花。すなわち皆よりも先に、一番最初に開花した花、だ。
幽香は傘を閉じる。右手に傘をぶら下げて、もう片方の手で花の茎を軽くなでる。しゅる、しゅると葉が指に巻きついて、彼女は満足そうに目を細めた。
つ、と空間に線が走った。一瞬の間幽香がそちらへと視線を走らせるが、興味ないと言った様子で花に目を戻す。
線は端をつなげたまま二本の曲線に分化し、その内側を紫色に染め上げる。紫色の闇の向こう側には無数の目や、幻想郷に存在しないものが浮かんでいる。
それらの向こうからやってくるのは八雲紫。金髪を持った彼女は日傘で日光をさえぎりつつ上半身をのぞかせると、ぱたぱたと手で扇いで、
「あついわね。まだ春だって言うのに、太陽もご苦労なことですわ」
「もう春も半ばでしょ。そろそろ夏の足音も聞こえ始めるころ。ひまわりももうすぐ眠りから覚め始める」
「別にひまわりは冬眠してるわけじゃないと思うけど」
「たとえよ、たとえ」
毎年夏にひまわりが咲けば、この丘もその名前の意味を取りもどす。丘の名前は太陽の畑。その太陽の強い日差しと、そして夏になるとひまわりが一斉に背を伸ばすのが有名だ。
八雲紫は暑いのが嫌いだと言うわけではない。でもどちらかと言うとお断りしたいほうではある。つまり好きじゃない。寒いのも同じ。
嫌悪の対象とはいかないまでも、やはり快いものではない。ゆえに苛立ちが生まれ、それが言葉となって現れる。
紫は服を引っ張って、胸元に空気を手で扇ぎいれながら、
「まったく、あなたはいつも花花花って。花オタクね」
「オタク?」
聞きなれない言葉に幽香が聞き返す。
「外の世界の──どちらかと言えば、蔑称ね」
「つまり馬鹿にしていると」
「そういうことですわ」
ぴくり、と。紫の言葉が幽香の眉を跳ね上げる。幽香の姿が一瞬で紫の眼前まで迫る。しかし花を散らすことも無く。
次の瞬間に、ほんの少しだけの紫の髪が空を舞っていた。金糸の束が風に乗り、束はすぐに一本ずつに別れ、あるものは花に引っかかり、あるものは空に飛んでいく。
金髪を切り落としたものは日傘。一瞬の動作にて閉じられ、人間には目視出来ぬほどの速度で繰り出された日傘、だ。傘は幽香の手から紫の首筋にあてがわれている。
紫が反応できなかったわけではない。あたらぬ攻撃をよける必要は無いだけ。それだけのことで、表情ひとつ変えることもない。
視線が絡み合う。片方は刺すようで、もう片方は何の感情も無くただ送るだけの視線。両者の温度差は歴然。
幽香はあふれんばかりの殺気を垂れ流し、紫は腹に溜め込んだ感情をため息とともに吐き出す。そのまま彼女は日傘を閉じ、スキマにしまう。
日差しが二人の妖怪を照らす。どちらも沈黙を保ったまま。ふたりの内で、先に口を開いたのは幽香。
「やるの?」
「別に、そんな気分じゃあないわ」
紫は手を振ってその意思が無いことを示す。幽香としてもやる気のない相手と戦う気も無い。
とはいえ、今の幽香としては久々に戦えるものだと思っていたため、少しばかり拍子抜けしてしまった。
日傘が紫の首筋から戻されて、再度元の使用意義を果たす。日差しをほんの少しだけ和らげる。幽香は花に視線を戻してから、空を見て、紫を睨む。
心底あきれた、と言った口調。それを持って、
「八雲紫ともあろうものが、とんだ腰抜けになったものね」
「私はもともと、こんなものですわ──」
「嘘ね」
ぴしゃりと。
否定しようとする紫の言葉はぴしゃりと遮られる。
「昔のあんたならなんだかんだと嫌味を言って、喧嘩に持ち込んでたでしょ」
「それは──」
「そんでいつも負けそうになると境界をいじくったりして。卑怯ったらありゃしない」
幽香の視線に気圧されてか、紫の視線がだんだんとあらぬ方向に向けられていく。
所在無さげな視線は最終的に空に向けられて、紫は日の眩しさに顔をしかめる。まぶしいわね──と太陽に文句を送る。
青い空が広がっていた。ホイップクリームのような雲が点在する空。まるで夏空のような、春の空だった。もう半ばほどの春の空。
そら。その単語が妙に紫には懐かしく感じられた。それはひどく遠くに感じられるとも言うことで。
……感傷に浸ってる場合じゃないわ。
紫は頭を振ってその感情を追い払うと、幽香に視線を戻した。幽香は紫が視線を戻すまで片時も目を逸らしていなかった。
「何が言いたいのか。はっきり言ってはいかが?」
「ああ、ならはっきり言わせてもらうけど。あんた本当に駄目になったわね」
返す言葉、と言うものを紫は持っていなかった。持っていたとしてもそれが正論として述べられるか、と言うと否。
結局のところ心のどこかでそれを認めてしまっている。そしてそのことを認めたくないが故に紫はとりあえず、場をしのぐために口を開く。
「それは──」
……違う。
そう続けたかったが、口は、喉はそれを発することさえ出来ない。そんな簡単なことすら出来なくなってしまっている。かわいた吐息が漏れて、空気をかすかに揺らすだけ。
なにもいわぬ妖怪に興味を失ったのか、幽香は視線を紫から丘へと戻し、ただ間が空いた。
ようやく幽香の視線から開放された紫は、その目を下に向け心持ち頭をたれる。
「違う?」
「…………」
紫にはうなずくことも、首を振ることもできない。ただ視線は地面を貫くのみ。ただ言葉から、問いから逃げるのみ、だ。
いつからだったかしら──幽香が言う。
「その態度。あんたはいつまでそんな調子なんだか。いつまで過去を引きずるつもりなんだか」
「……引きずってなんかいませんわ」
「口ではなんとでも言えるでしょうね」
丘を風が駆ける。花が揺れて、散る時をまっていた早咲きの花が花弁を散らす。
散った花弁が二人の少女を取り囲む。色とりどりの花弁は春に舞う雪のように、二人の間に降り注ぐ。
「妖怪である以上、この宿命からは逃れられない」
「解ってますわ──」
「わかってないわね。あんたはいつまでも忘れられないのよ、あの──」
言葉を次ごうとした瞬間。力が空間を満たす。風が乾いた物に変容する。
唐突に風が止み、宙を舞っていた花弁がすべて燃え、灰に変わって再度吹き始める風に運ばれる。二度目の風は妖気の流れ。
紫の仕業だ。それはこの丘のすべてが彼女の攻撃範囲内であると言う証明。即ち、幽香の勝ち目が薄いと言うことの証明に他ならない。
確かに、幽香の攻撃範囲もこの丘を覆うくらいには十分にある。ただし、それは直線距離での話であって、空間すべてではない。
だが八雲紫は違う。三次元的な空間すべてを攻撃できる。それはどう逃げようとも回避不可能。時をとめたとしても脱出不可能な完全なる結界。
「……それ以上続けないで」
「──わかったわよ」
肩をすくめ両手を挙げる。ごく自然な動作で幽香は降参を示す。だが幽香が降参すると言うことすら、尋常ではない事態。
それは圧倒的な力量差によるものではなく、ただ単に今の紫の状態が危険であることを察知してだった。
この幻想郷は紫の管理のもとになりたっているようなものだ。彼女が壊そうと思えば今すぐにでも壊れてしまうようなもの。
故に今の彼女を刺激しては相当まずい、と幽香は踏んだ。言葉の応酬であればまだ大丈夫だろうが、戦闘になるとなにをしでかすかわからない、と。
それでもね──と幽香は話題を転換する。
「あんたが腑抜けているのは事実。そんなんだから、式神にも避けられるのよ──」
「何ですって?」
式神、という単語に紫が顔を上げる。
どういうことよ、と紫が先を促せば、ふん、と幽香は鼻を鳴らす。紫に背を、開かれた傘を向けて、
「あんたの式神、名前は忘れたけど、さっきまでここにいたのよ。あんたが来る直前までね」
「今はいないようだけど……」
紫が辺りを見渡す。藍の姿はどこにもない。
「もう帰った。あんたが来るのを知っていたのか、逃げるようにそそくさとね」
紫は何も言わず、微動すらせず、ただ時間だけが過ぎていった。
風が吹く。鳥が鳴く。花弁が揺れる。光が降る。
数分の間を隔ててから、ようやく紫が口を開いた。
「……そう。私には関係ないことですわ」
「非情な主ね。ま、それこそ私には関係のないこと」
幽香は今度こそ興味を失ったようで、花に手を伸ばし始める。
花に手がふれて、軽く花弁を揺らす。その動作は優しい。戦闘を好む妖怪とは思えぬほどに。
「帰りなさい」
低い声。
「言われなくともそうしますわ」
一拍、間をおいて、
「その前に聞いていいかしら?」
「内容によるわね」
そう、と八雲紫は逡巡する。聞くべきか、それとも。
頭を振り、迷いを振り払う。はあ、と吐息して、
「……藍は、ここに何をしに来ていたの?」
幽香が空を見た。それは藍が帰っていった方向で、藍が来た方向でもあり、自分が行くことは少ない方角。
幽香の視線が向かう先が、いわゆる八雲邸だということは、紫も薄々察知していた。その内心までは読み取れないものの。
考えている。風見幽香は何かを考えているのだ、と。それが紫にわかった唯一のこと。
そうね、と幽香が前置きをした。
「仕事の一環、じゃないの?」
その答えに、八雲紫は表情を変えることもない。予想通りで、それ以外考えられなかったから驚くことでもない。
しかし。
その事実は紫の心の中に小さなとげとして突き刺さった。ちくり、と。理由のわからぬ痛みが確かに彼女のなかに生まれた。
痛みの正体をつかめないまま、それをごまかすかのように言葉を紡ぐ。まやかしの痛みに対する誤魔化しでしかない。
「そうなんだ」
「腰抜けはさっさと帰りなさい。あんたがいると空気が不味くなる」
「とんだいわれ様ですわ」
苦笑とともに、八雲紫のその体が下方へと沈み行きスキマへと消える。後にはぽっかりとひらいた魔物の口が亜空間を覗かせるのみだ。
紫色に割れた空間が少しずつその曲線を直線へと変えて、二本の境界はひとつの線へと変わる。
一本だけになった境界はやがてその姿をいずこへと消し、八雲紫の到来などまるで幻だったかのように丘は平常を取り戻す。
八雲紫が居た証。それは風に乗せられた少量の灰たちと、風見幽香の苛立ちだけだった。
「失望したわ──あんたには」
誰にも届かぬ呟きが風に乗った。
○
青い空がある。幻想の空は昼の明るさを保っていて、その懐にわたあめのような純白の雲を持つ。
その空を高速で翔る影は黒。黒の内にところどころ白を持ち、風に流れる糸の色は金。跨るほうきは木の色を持つ。
魔女。彼女を表現するならば一語でいい。それは誰が口にしても同じ。魔女、だ。
黒衣が風にはためき、乾いた音を立てて、その身で空気の壁を切り開きながら魔女は進行する。向かう先は神社。幻想郷と外との境にある博麗神社。
高速で駆け抜ける魔女の目は、空にひとつの影を捉えた。
魔女にとって見覚えのある影だ。だからと言って高速で流れる視界の中、瞬時に判別できるわけでもない。
運動エネルギーを持った魔女は、それをそのまま一気にゼロへと転換。急制動の後に魔女は己から少し離れた影を見る。
その影は九つの尾を持っていた。金糸をまとったその尾はまさに最強の霊獣の証。九尾の狐だ。三国を股に掛ける大妖怪。
魔女──霧雨魔理沙の知り合いに、こんな立派な尾を持つ者は一人しかいなかった。
しかもその姿はいつもとは違って、どこか肩を落としたようなもの。
……珍しい。
二重の意味で珍しい、と。魔理沙はそう思った。ひとつは彼女を見かけたことで、もう一つは彼女が肩を落としていることに対して。
もの珍しさに突き動かされてか、気がつけば魔理沙はその影に近寄り、声をかけていた。
「よう」
呼び声。魔理沙と彼女は宴会で何度か顔を突き合わせている。故に挨拶はこれぐらいで十分だ、と魔理沙は考えていた。
声に狐が振り返る。霊獣はどこか情けないような顔をしていて、魔理沙にはそれがひどく不釣合いに感じられた。
九尾の狐といえば、最強クラスの妖怪で数多の国にわたるほどの知名度がある。だからその顔つきも相応であるべきなのだが。
彼女は魔理沙の反応から自分の表情に気がついたのか、すぐに顔を引き締めて、
「お前はいつぞやの──」
九尾が言いよどんだので、名を覚えていないのか、と魔理沙は察して付け加えた。
「霧雨魔理沙だ。魔理沙でいい。お前は紫のとこの──」
ええと、と魔理沙が口ごもると、狐も魔理沙と同じように、
「八雲藍。藍でかまわない」
似たような言葉を返された魔理沙は微妙な表情をして、
「そうかい。ならそう呼ばせてもらうことにするぜ。そんで、お前さんはこんなところに突っ立って──もとい突っ浮かんで何をしているんだ」
「別に何もない。強いて言うならば結界の管理だな」
「結界ってえのは、博麗大結界のことか?」
「それもある。それに加えて、紫様の張った概念結界も私が点検しているから」
「そいつはご苦労なこって」
妙に機械的な受け答えだな、と魔理沙は思った。声に抑揚がない、少しばかり疲れる、とも。
……そういえば紫が、藍は人間味に欠けるからね、とか言ってやがったか。
これはこういうことなのか、と今更ながらその事実を実感する。妙に機械的で、確かに人間味に欠けるように魔理沙には感じられた。
しかし、と魔理沙は考え直す。
先ほどの肩を落とした姿は、確かに人間のそれと同質のものだった。そこに機械的なものなどなく、ただ人間としての彼女が見えていた。
そして先ほど見せたあの表情。あそこに潜んでいた感情はなんだったのか。魔理沙は己に尋ねた。あれは何だ、と。
……寂しさ、か?
わからない。わからないが、一番最初に浮かんだのがそれだった。感覚的にはそれが一番しっくり来る。
だがそれは半ばあてずっぽうのようなもので、とても信頼性のあるものともいえない。
……霊夢の直感だったら一発で的中するんだろうがなあ。
ないものねだりをしてもしょうがないか、と魔理沙は内心つぶやいて、
「んで、何であんな風に肩を落としていたんだ?」
魔理沙の言に、藍の表情が少しだけこわばった。どこかさっきよりはふるえた声をもって、
「べ、別に肩を落としてなんて──」
「おいおい、遠目にも十分わかるぐらいだってのにごまかせると思ってるのか?」
「…………」
押し黙る。
藍は魔理沙をにらみながら黙りこくってしまう。声はないが威嚇しているようにも見える。
魔理沙は苦笑しながら頭を掻いた。三角帽子を落としそうになってしまうが、手で押さえることでそれを防ぐ。
苦笑の理由は藍の無言に困っているからではない。
……何をやっているんだ、私は。
実に自分らしくないな、と。そう感じたから。
藍に話す気があればそれでいいし、そうでないならば無理強いする必要もない。
そもそも魔理沙には藍の問題に首を突っ込む権利も義理もないのだから、ただのおせっかいというもので。
だから魔理沙は苦笑する。苦笑して、いいわけじみた言葉を重ねた。
「別に話す気がないならそれでいいけどな」
うんしょ、と箒の上で背伸びしてバランスを崩す。落ちそうになるが、箒にしがみつくことでどうにか落下は免れる。
くすり、と。魔理沙の耳は空気の振動を捕らえる。音は笑いを落とした音。魔理沙は落ちなかったが、藍は笑いを落とす。
むう。どうにか箒にまたがりなおした魔理沙は唇を尖らせ、わしゃわしゃと頭を掻き毟るが、藍の笑いは収まらない。押し殺そうとはしているものの、それで止まらない。
「そんなに笑うことはないだろ」
不機嫌そうな声で魔理沙が言って、ようやく藍は笑いを止めて、
「いや、すまない」
くすくす、とまた笑い出す。笑いに伴って尻尾が上下する。触ったら気持ちよさそうだな、と魔理沙は何ともなしに思った。
……って、そうじゃない!
そんなことよりも、だ。魔理沙は懐を漁ると、中から魔法道具──ミニ八卦炉を取り出すと藍に向けて、
「だぁ──っ! 笑うなぁ──!」
光の粒が八卦炉の中央へと急速に収束する。粒は魔術の光で、魔法の光。彼女の攻撃意思が八卦炉に集う。
魔理沙にとっては照れ隠しのつもり。普通の人間に対してだったら洒落にならないが、九尾の狐だから大丈夫だろう、と魔理沙は踏んだ。洒落で済むであろう、と。
光が炸裂する。空へと光の大河が流れる。河の名はマスタースパーク。藍を呑みこまんと河が駆け、光が走る。反動で魔理沙の帽子が飛ぶ。
対する藍は高速で下へと落下する。結局のところマスタースパークは光。例外は多々あるが、基本光は直進するほかない。故に射線から逃れればいいだけの話。
そして高速で射線から逃れる場合。まず上に飛翔するには重力という枷がある。それが多少なりとも速度を奪う。では横か。これも上に飛ぶほどではないが速度が奪われる。
故に下。重力加速度と、己の妖気に拠る下への飛翔。藍の帽子を光が掠める。しかし、あたらない。
光の流動が終わる。気まずい沈黙が訪れて、
「……まさか避けるとは」
腕を組んで感心する魔理沙に、藍がいつもと違う声、彼女自身の声で、
「突然なんなのよ!」
……なるほど、こっちが素か。
下方から来た声を聞きつつ、魔理沙は内心でつぶやいて笑い、表面には苦笑を浮かべる。
「いや、いつまでも笑うから……な?」
「な? じゃない」
「まあ気にするなよ」
笑ってごまかす魔理沙に、藍はため息をひとつ。さすがにいきなり攻撃を仕掛けられたら誰だっていい気はしない。
まあ、とにかくさ──と魔理沙が話を転換し、藍の隣へと降下して並び、
「いつまでもウジウジ悩んでたってしょうがないぜ」
「…………」
藍は再度言葉をなくす。仕方ないから魔理沙が続けた。
「誰かに打ち明けることだって必要だし、打ち明けないことも必要だ。でも、どっちにしたって決断しなきゃならんさ。行動するかどうかをな」
「…………」
「そういえば、お前は神社の方を見てたみたいだけど──」
藍が肩をふるわせたのを見て、魔理沙は言葉を止める。これ以上踏み込むのはまずいか、と。
いくら盗み癖のある魔理沙とは言え、人の心の奥底へ土足であがるようなまねは慎む。むしろ、自分がそうされたくないからそうしている節もあるが。
「まあ良いさ。別に、お前の相談を聞く気もないしな。面倒だし」
金髪をくるくると指先でいじくりながら魔理沙は地上を見下ろした。その先にある大地を見て、己の帽子がどこに落ちたかと探す。
一方藍は眉根を寄せる。何かを考えるように、唇を軽く噛む。雲が日の光をさえぎった。が、直ぐに流れ去りまた太陽が姿を見せる。
照らし出す。地上は日の光を浴びて、しかし二人分の影。
風が吹く。二人分の金髪が揺れる。黒衣がゆれる。
「さて、私はそろそろ行くぜ。帽子も拾いにいかなきゃならないしな」
魔理沙が踵を返そうとして、意思が飛ぶ。意思は声。呼び止める意思が空間を突っ走った。
しかし声は風にさらわれる。魔理沙の耳に、しっかりとは聞こえない。何かを言った、ということがわかる程度。
魔理沙の振り返りは藍に向けて。彼女は藍に見えるように大きく、大げさにため息をつくと、
「どうした?」
数拍を持って、静かに、
「……話を聞いてはくれないか」
面倒なんだけどな──と魔理沙は笑いながら承諾した。
○
「で、話って?」
珈琲の香りが宙を漂っている。ここは人里のカフェテリア。紅魔館の面々が持ち込んだ文化で、その影響が色濃く反映されている。道具その他はほとんどが紅魔館からの提供だ。とはいえ、店内は大分簡素な作りになっているが。
木製のテーブルを挟んで二人の金髪が対峙する。片方は人間で、片方は妖怪。机の上にはティーカップが二つ。細々とした湯気を少し昇らせすぐ消える。
おもむろに、魔理沙が珈琲を一口飲んだ。苦虫を噛み潰したような顔を作りあげる。うげ、苦い。舌を出して小さく呟きを漏らした。
「私は、紫様のことが好きだ」
話の始まりは唐突。その方向性も突飛。故に魔理沙が思うことは、
……これは何と言えばいいんだ?
魔理沙は一瞬面食らうと、こめかみを手で押さえつつ、
「そ、そうか。まあいいんじゃないか? 恋は自由だ」
魔理沙が頭を抱えた。どうしたものか、と。こんな相談とは、と。その様子に藍も読み取るものがあったのか。
藍の顔が夕焼けのような赤混じりの肌色に染まる。
ごまかすように手のひらで机を叩いて起立。慌てて手と尻尾を振り、
「そうじゃなくて!」
大声に他の客が振り向く。
逡巡。周りの責めるような視線から逃れるように、おずおずと腰掛けて、低い声で、
「……そうじゃなくて、家族として」
そうか、ああそうか。魔理沙がぽん、と手を打ち納得の音を上げる。腕を組み何度かうなずいて、
「それならいいんだ」
「いったい何を想像したんだ」
そりゃあ──横目で周りを見る。他の客の視線がまだ痛い。
数段声を落とした。
「そりゃ、あまりよろしくない想像だろ。あの言い方ではそうとしか受け取れんぞ」
「む、そんなものか?」
「そんなもんだよ」
言って魔理沙はスプーンを持つ。机上にある砂糖入れにスプーンを突っ込んで、山盛りに掬う。
それを自分の珈琲へと放り込む。しかも何度も。うげ、と藍は声を上げた。溶解率を超えた砂糖はカップの底に沈殿して、珈琲をかき混ぜるスプーンにぶつかり音を立てる。
じゃりじゃり、と砂のような音。それを見た藍も、スプーンをかき回す魔理沙も押し黙る。数十秒ほど間が空くと、
「これ、入れすぎたか?」
「どう見ても」
「そうか」
あ。魔理沙が店の入り口を見て声を上げる。藍がつられて振り向くと、魔理沙はすばやくカップを入れ替える。
藍が何も無いぞと振り返り、自分側のカップに口のつけたあとを見つける。藍の睨みが魔理沙を射抜くが、魔理沙は口笛を吹いたりして素知らぬふり。
藍はカップに突っ込まれたスプーンを手に取る。彼女はまだスプーンは突っ込んでいない。スプーンをかき回す。じゃりじゃり。砂糖の鳴らす砂のような音。
「おい」
「なんだ、どうかしたか藍」
「入れ替えたな?」
「なんのことやら」
あくまでも、魔理沙は白を切ろうとする。
「私のと入れ替えたところで、苦いままだぞ」
「ああ、そうか。んじゃこっちで……」
魔理沙がもう一度取り替えようとして、藍が頭を叩いた。
「あいてっ!」
はあ。藍が心底あきれたように息を吐いて、
「やっぱり入れ替えたんじゃないか」
「たはは……」
「笑って誤魔化すな」
「キリッ」
「いやそういうことじゃなくて」
まったくもう、と藍が呟く。
……なんだ、人間味にあふれてるじゃないか。
笑いながら魔理沙は思う。紫の言も信用できないもんだな、と再認識する。あの態度は事務的なそれだったのだな、とも。
ほい、と。魔理沙の手が藍の側にあるカップを取り、もう片方で己の側のカップを藍の側に置く。
珈琲をすする音に、砂が擦れ合うような音が混ざり、魔理沙の口に糖分たっぷりの珈琲が流し込まれていく。
……うえ、じゃりじゃりする。
やっぱり入れすぎだったんだな、と。一人と一匹が笑いあう。
「で、話を戻すぜ」
ことり。カップを置きながら魔理沙が言う。藍がうなずく。
「お前は紫が好きだ、と」
藍の首肯。なるほど、と魔理沙が腕を組む。
「んで、藍も紫に自分を見てほしいのか?」
「それは──」
一瞬恥ずかしがるように言葉を切って、頭をかいて視線を逸らし、
「──まあ」
「ふむ」
……なるほどね。
まあそりゃそうだよなあと思いつつ、魔理沙はスプーンで珈琲をくるくると落ちつきなくかき回す。
先の藍の態度とあわせて思考を組み立てる。魔理沙は大体の事情を察した。が、この推測が見当違いであっても困るな、とも思った。
確認のために聞く。スプーンを持つ手が止まる。ちょっと話はズレるがな、と、
「お前さんは、なんであんなに落ち込んでたんだ?」
「…………」
黙る。
……ここか。
魔理沙は悩みの収束点を見つける。ここを聞き出して、解決法を模索すればいいだけなのだ、と。
藍は黙り、魔理沙は待つ。沈黙した二人に客たちも興味を失い、そして客層は入れ替わる。
日が傾き始める。窓から入る日差しが二人をオレンジ色に染め上げて、夕日が沈み行く。
唐突に藍が口を開いた。
「……博麗霊夢」
ぽつり。呟きに対して、魔理沙が恐る恐る聞き返す。
「……それが?」
「紫様は、博麗の巫女にご執心のようで。私のことなんて見てくれない」
「……ううむ」
……どうしたものか。
今度は真剣に悩む。魔理沙にとって、この答えはうすうす感じていたものであったし、そうでないだろうとも思っているものだった。
予想の内でもあり、外でもある。境界線上。そんな答え。
さて、どうしたものか。魔理沙は再度心中で呟く。案はある。しかしそれを言ってもいいものか悩む。
甘ったるい珈琲を胃に流し込む。けぷ、とかわいい音を上げてから、
「……花とか」
けぷ。もう一度空気を吐く音。
ことり。カップを置く音。
花? 問いかけの声。
藍の問いかけに魔理沙は続ける。
「花とか贈ってみるのはどうだ? 初歩的なことではあるが。ほかにも
夕食に力を入れて、思いに気づかせるというのもある」
「しかし物で釣る、というのも」
「愛に形は無いが、物に愛をこめることは出来るんだぜ?」
妙に力強い言葉。魔理沙自身も思うところがあるゆえに。見てもらいたくとも、見てくれない人がいるから。だからあまりこの作戦に確実性はない。
沈黙が来る。魔理沙はまた待つ。待って、待ったその先に、
「……考えてみるよ」
「ああ、参考になれば恐悦至極だよ」
すっかり冷えた珈琲に藍が初めて口をつける。
うげ、苦い。呟きが橙色の空間に響いて、壁に反射して、消えて、笑みが生まれた。
●
朱の空がある。
日が沈み始めた頃。夕闇がその色を次第に強くし始める黄昏時。山は黄金色に染まり、水面も、空も、雲も、色々なものが朱に染まる。
そして人知れぬ場にある家の中。邸宅の中で空間が裂ける。裂けた向こうから覗くのは無数の目。そして、体を現すは金髪の大妖怪。魔獣の口から、境界の妖怪が舞い降りた。
「ただいま」
八雲紫がふんわりと畳に着地する。ここは八雲邸、その居間だ。靴はすでに脱いでいる。
帰るならばここだろうとあたりをつけ、主の帰りを待ち正座を組んでいた式神が恭しく礼をして、迎えの言葉を述べる。
「お帰りなさいませ、紫様」
紫は藍へと振り向きつつ、ん、とだけ言葉を返す。返して、思う。
いつも通りの、平坦な言葉だ。それ以上でもそれ以下でもない定型文。紫にはそう感じられた。どちらの言葉も、だ。
礼とともに、九本の尾が揺れる。それを触りたい欲望。それがちょっぴりだけ紫の心の中に生まれるが、
……まあそういうのは言いづらいわよねえ。
思う。やっぱり少しだけではあるが、紫は藍に対してどこか遠慮している部分がある。そして藍もそうであろうと、紫はそう思う。
しかしその距離感を急に変えられるはずもなくて、いつもどおりの受け答え。自分もなんだかんだで不器用なもんだなあ、と紫はひとりごちた。
式神が頭を上げて、口を開いた。
「紫様。夕餉はいかがなさいますか」
「食べるわ。今日の献立は何かしら~?」
紫が聞くと、藍は奥に消える。奥は台所だ。言うよりも言葉で示したほうが早いと踏んだのかしら、と。紫はそう解釈する。
魔獣の口が閉じた。線になり消える。紫の動作は無い。無いが、空に開いた隙間を閉じながら、紫は考える。藍のことについてを思考する。
……人間味が無い。そう感じちゃうわよねえ。
言葉も少なく、受け答えは事務的なもののみ。橙はあんなにかわいらしいのに、と紫は嘆息。仕方の無いことだと割り切ってはいるものの。
割り切っているのではない。それは諦めと呼ぶ。だが、その事実から紫は目を背ける。
だらしなく足を伸ばして座り、テーブルに突っ伏して、金髪が机上に流れる。くぁ、とあくびを噛み殺した紫が顔を上げると、藍が戻ってくるところ。
てきぱきと夕餉がテーブルに並べられていく。紫が体を起こすと、すかさず空いた場所に皿が滑り込む。何という早業、と紫は心中驚いた。
支度はすぐに完了した。藍が紫の向かい側──朝に橙の居た位置──に座ると、ばふり、と九本の尾が畳を柔らかくたたいた。
藍が着座したのを見て、
「しかし、今日の夕飯はずいぶんと手が込んでるわね」
紫は感心しながら言う。
机の上に並べられている料理は、外の世界で言うところの高級料亭に並べられていても遜色無いほどの出来だった。それほどまでに一分の隙もない。しかも紫の好きな献立ばかりだというのも、彼女には好印象だった。この手の込みようはただ事ではない。
「お褒めにあずかり光栄です」
しかし紫にとってはいつも通りの調子で藍は返す。
無表情。声の調子も平坦。どこまでも平常体で、心の動きなど無いのではないかと思わされるほど。
紫は心持ち肩を落とす。眉がほんの少しだけ、ハの字をつくる。紫の心の中に少しの落胆がおちた。
……なんで、こうもっと感情を露わにしないのかしら。
霊夢はもっと顔にすぐでるのになあ、と紫は心中つぶやく。育て方が悪かったのかしら、とも式の組み方が悪かったのだろうか、とも思う。今更すぎる問いと、思い。だが今からでもどうにかなるだろう、と。紫はそう考える。前向きに、そう考えた。
とにかく、
「とにかく、いただきましょう?」
「そうしましょうか」
二人が手を合わせる。いただきます。夕闇の下、家の中でこえが響いた。それからはひしひしと食う音だけが響いて、味噌汁を啜る音だけがこだまして、しかし会話は交わされない。
気まずさに、紫が己に言い聞かせる。
……いつもの光景だ。何時も一言二言交わすぐらいで、他に言うべきこともなく。それが日常で、ふつうなのだ。なにも気に病むことなど存在しない。
……それを変えたいって思ってるんじゃないの?
自己からの反論。紫は否定の言葉を持ち合わせていない。なぜならそれは己の本心だったから。
黙々と。ぐるぐると。思いが螺旋を描いたまま、そしてそれをごまかすように紫は箸を進めた。
ぴたり、と。藍の箸が止まった。茫洋とした、その様子をとらえた紫は、
「どうしたの?」
紫が呼びかけても反応が無い。これはどうした、と腰を上げ、藍の目の前で手を降りつつ、
「おーい。藍ー? 聞こえてるー?」
そこまでしてようやく藍が意識を取り戻す。
「あ。はい。どうかなされましたか、紫さま」
「どうしたもこうしたも、藍が急にぼうっとするから。なにがあったのかしらって思って」
「そ、そうでしたか。すみません」
「別にいいわよ謝らなくとも」
これも主の仕事だしね──紫が言う。
……よく考えてみると、仕事って言っても私にはあんまりすることがないのよね。
紫の役割は幻想郷の管理。しかしその大部分は藍に一任してしまっている。残りはいざこざがあった時に少しばかり腰をあげるぐらい。しかし今はそのいざこざ自体が滅多になく、仕事などほとんどない。
全くないというわけではないが、結局誰かが解決するので紫が動く必
要がない。結局のところ管理者と言うよりは傍観者に近い。
思う。ならばせめて主としての役割は果たすべきでは無いだろうか、と。紫はそう思う。
その思いは罪悪感に近い苦みを舌に想起させる。幻でしかないが、しかし彼女にだけははっきりと感じられる。
不快感をごまかすように、箸を止める。お椀を左手に持ったまま、
「しかし、しかし藍」
「はい」
なにを言うべきだろうか──考えなしに話題をふった己に、呪いの言葉を百ほど考え送りつける。
そうして振る話題は、今朝の出来事からのそれ。式の式、己の目の前に座る彼女の式神の話だ。
「橙も成長したものね」
藍が視線と箸を泳がせて、
「いや、まだまだ半人前でしょう」
そうかしら──紫は首を傾げて言う。
藍の視線の先へと目を移す。その先は外。縁側から覗く外は、もうすっかり宵闇が満ちていて、妖怪どもの練り歩く時間帯となってしまっていた。そして、闇を張ったような空にぽっかりとあいた穴のように浮かぶ円は、
……満月、か。
多少の感慨を胸に押し込めて、先の藍の言葉に反論をぶつける。
「そうはいうけれど、私はそうは思わないわ」
「といいますと?」
「あの子も、もう少しで一人前になる時がくるでしょうね。明日か、明後日か。はたまた数百年後になるかは分からないけども」
「だがそれが訪れることはすでに決まっている、と」
物わかりの良い式神に紫は顔を綻ばせる。よくできました──と藍にほめ言葉を送った。頭をなでるような真似はしない。
数拍おいて、
「近いうちに、橙にも八雲の姓を授けるつもりよ」
「──そう、ですか。早いものですね」
そうねえ、と軽くつぶやいて、
「まあ、藍にはご褒美無いけどね──」
舌を出して笑い言う。
しかし、と紫は声無くつぶやいた。藍に対して労りでも、褒美でも、何か贈れるものは無いだろうか、と。それをするに値する仕事を、藍はこなしてきているのだから。
八雲紫は考える。
労働には対価を与えるべきだろう。その働きに値する何かを。半ば強制的にでも贈りつけてやろう。
ねえ藍。と紫は呼びかける。
何でしょうか。と九尾は答える。
続く言葉は、
「休暇、ほしくない?」
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──いらないのですか?
──わたしは。
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全体の雰囲気としては好きなのですが、紫の呟きの部分が少しテンポが悪かったかなあと。