「おりんー!」
濡れた素足が床を蹴り、慌ただしい足音がこちらに近付いてくる。
聞き慣れた声に振り返ったお燐は、駆け寄ってくる親友の姿に目を丸くした。
「うわああん! さとりさまがいじめるー!」
「おくう、はだか。はだか」
地霊殿の中であっても、人の形を取っている以上最低限の羞恥心は必要である。さとりもお燐も幾度となくおくうに説いているのだが、全身をまんべんなく濡らした状態で一直線に突進してくる様子を見るに、耳には入っても頭には入っていないようである。あまり期待はしていなかったが。
流石のお燐も、自分より上背のある図体をそのまま受け止める度量はなく、突っ込んでくるおくうの突撃を軽くいなし、すれ違いざま、彼女の後頭部に手のひらを置いて力強く下に押してあげた。
「むぎゃぅっ!?」
唐突に負荷が加わり、おくうは体勢を崩してべしょりと床に倒れこんだ。勢い余ってうつ伏せのまま床を滑っていき、壁に頭頂部をぶつけて沈黙する。
合掌。
「しっかし……」
お燐に被害はないが、おくうが駆けてきた廊下はなかなか酷い様相を呈している。掃除をするのは誰なんだろうね、と野次馬のペットたちを見渡して、その誰もがお燐から顔を背けた。
「にべもなし……ときたもんだ」
肩を竦める仕草にも慣れた。溜息は、老けそうだからあまり吐かないようにしている。
そうこうしているうちに、おくうは意識を取り戻して起き上がっていた。濡れた羽をばさばさと震わせて、瞳も鋭くお燐を睨む。
「ちょっと、なんで避けるのよ! たんこぶできたじゃない!」
「背が伸びてよかったじゃないさ」
「これ以上伸びても可愛くない! 鼻も擦れたし、うぅ、おっぱいもじんじんする……」
部位からすると、剥き出しの眼球も相応に擦れているはずだが、おくうが気にしているのはもっぱら張り出ている胸部の方である。
気持ちはわかる。
「もう! お燐だけが頼りなんだから、いい加減ちゃんとしてよ!」
「それはまず服を着てから言え」
鴉の濡れ羽色と呼ぶに相応しい黒髪が頬に張り付き、今もなお床に雫を垂らす。ほのかに香る硫黄の匂いから、彼女は温泉に浸かっていたのだろうと推測できる。
ならば、何故ここまで裸のまま逃げてきたのか。
答えは至極単純で、はじめの台詞から簡単に予想できた。選択肢はふたつあって、無論お燐が選ぶのは自分が救われる道である。残酷だが、そこにおくうの席はない。
「……あんたもいい加減、さとりさまに洗ってもらうの慣れなよ。そりゃ、くすぐったいのはわかるけどさぁ」
「ぐぅ……でも、お燐だって苦手じゃん。さとりさまがその気になると、いつもお燐はどっか行くし」
「あたいは、その、自分でも洗えるし……あんたはほんとに気が向いたときしか洗わないからダメなんだよ! 髪もぼさぼさだし、図体がでかくて可愛くないうんぬん言う前に身だしなみをちゃんとしろってんだ」
「ぐぬぬ……」
ぐうの音も出ないらしいおくうに背を向けて、お燐は薄暗い地霊殿からの退路を探る。おくうが逃走した以上、さとりが追跡しているのは明白である。おくうよりは身だしなみを整えていると自負しているお燐だが、ご主人さまが洗いたいと思ったのならお燐たちに拒絶する権利はない。普段はほとんど放任しているくせに、それと決めたときには絶対に譲らないのが古明地さとりという妖怪だ。
だから、逃げるのなら最短距離で。
可能な限り最速を狙い、おくうの顛末など無視して床を蹴るのが最善である、と。
「ざんねんでしたー」
思い巡らせた瞬間、細い腕に羽交い絞めにされる。猫の視界、気配を察知する感覚の外から出現した人物は、完璧にお燐を捕縛した。
勿論、お燐はその名を知っている。
「こ……こいしさま……!」
「くんくん……ありゃりゃ、お燐もだいぶ汗の匂いしてるよ。これは洗わなくちゃダメだね。うん」
やられた。
後手も後手、おくうの足音が聞こえた時点で動いていても際どかったのに、おくうのドタバタを最後まで見届けてから逃げる算段を立てるとは、道化もいいところである。
一応、じたばたしてもこいしの拘束は解けず、遠くからゆっくりと迫ってくる足音に耳を傾けることしか、今のお燐には許されていなかった。
「さとりさまーっ」
「あんにゃろ……」
変わり身の早い地獄烏に悪態を付いて、お燐は堪え切れずに溜息を吐いた。
執拗に首筋の匂いを嗅ぐ、こいしの吐息に身を強張らせながら。
おくうが掘り出し、お燐が土砂を掻き出し、勇儀が積み上げた岩石の適当な風景がざっくばらんな雅さを醸し出している天然温泉に、ひとりの飼い主とふたりのペットが仲よく湯船に浸かっている。正確にはもうひとり同じ場所にいるはずなのだが、さとりもペットふたりも彼女の位置を認識できていない。入る振りをしてさっさと温泉から上がったことも考えられ、あまり思い悩んでも仕方のない話である。
さとりに隅から隅まで洗い尽くされた都合上、ペットふたりは湯船の縁に顎を付けてぐったりしている。精も根も尽き果て、放っておけばのぼせて溺れて要らぬ悲劇を生み出しかねないほどだ。
「どうしていつも嫌がるんでしょうね。あんなに笑っていたのに」
「……笑わせる必要、ないでしょう……」
「ふへあ……」
ふたりがげっそりとしている最大の原因は、さとりのくすぐり攻撃にある。泡まみれの身体が滑りやすくなっていることをいいことに、洗浄の名目で二の腕やらお腹やら太ももやらをぺたぺたと触りまくるのだ。体力はペットに分があるとはいえ、足の裏を取られてしまってはお手上げである。
にゃーにゃー鳴く気力も失せた頃になってようやく、さとりはふたりの髪を洗い始める。髪を含め、羽や尻尾が濡れるのを嫌がるペットたちに対して、さとりは常にこのような戦法を用いる。結局のところ、嫌がられる行為がすり替わっただけなのだが、当のさとりはご満悦である。
「あふえ……」
おくうの顎が縁から滑り落ち、頭が湯船の中に沈んでぷくぷくと泡を立てる。数秒、さとりとお燐が放置していると、おくうは物凄い勢いで浮き上がってきて勝手に咳込んでいた。
ぜえぜえと息をして、目を白黒させながらおくうは額に垂れた前髪を払う。
「……し、しぬかとおもった……」
「お花畑は見れましたか」
「青いのと、白いのがいっぱい……ぽわーって……」
あまりお目にかかりたくない光景である。
虚ろな目をして佇んでいるおくうをよそに、お燐はさとりに纏めてもらった髪をぽんぽんと叩く。おくうよりも髪が長いため、さとりが気を利かせてタオルに包んだのである。さとりに髪を洗ってもらうときはこんなふうに纏められるのに、どうも違和感があって何度も自分の頭を触ってしまう。
「へんなのー」
おくうも面白がって盛り上がったお燐の頭を叩く。おくうの髪は水に濡れてもふわふわと波打っていて、普段のさばさばした髪型と大差ない。
突っ張った胸と広い肩幅と、地下の空を覆い尽くすような黒い翼。
霊烏路空。
その胸の中心に根付いている赤い眼球が、何に繋がり、何を見据えているのかは誰にも解らない。
おくう自身、己の身に取り込んだものがどんな存在なのか、気にも留めていないのだ。だからこそお燐は不安で、地霊異変という第三者を受け入れる口実を生み出しもした。
「あんたも、大概似たようなもんだよ」
「えぇー」
勢いよく、湯船に身体を沈めるおくう。穏やかな波を口元で受けて、お燐はところどころ明後日の方向に跳ねているおくうの髪を撫でる。
「にゅ」
一度目は不意を突かれて呻いたが、二度、三度と撫でられていると、おくうも次第に慣れてきてお燐の手櫛を甘んじて受け入れるようになっていた。
「しかし、呆れるくらいつやつやだね……」
「えへへ、そうかな」
「羨ましくはないけど」
「羨ましいくせにぃー」
お燐の頭を小突き、おくうは満面の笑みを浮かべる。おくうの髪は、撫でる端からあちこちが跳ねるため、あまり整える意味がない。だが、お燐の目から見ても艶やかで滑らかなのは間違いないから、触っていて飽きることもない。
それは、さとりも同じだったようである。
「にゅ」
先程、さんざん撫で回したはずのさとりも、お燐につられておくうの髪をぺたぺた触り始める。流石にふたりから撫でられるのはむず痒いらしく、おくうも頭を振って抵抗を試みた。
「もー! みんなして何なのよー!」
くすぐったいのか恥ずかしいのか、ふたりの手を振り切って、おくうは湯船に頭から潜る。
十数秒、どういう結果になるか放置していると、おくうが潜っていった方の縁に、うつ伏せのおくうが浮かんでいた。状況から判断するに、温泉の岩に頭をぶつけたというのが妥当か。
合掌。
「あの子も懲りないわね」
「まあ……おくうですし」
お燐は達観している。
首まで浸かっていると早くのぼせてしまうので、岩に座って膝から下を温泉に浸ける。さとりも同じようにしてお燐の隣に腰掛け、覚醒したらしいおくうが水を掻いてもがくのを遠巻きに眺めている。羽をばたつかせているさまは、まさしく烏の行水だ。
「ああしてると……ほんとに、ただの能天気なんだけど」
「今のおくうは、きらい?」
「そんなずるい聞き方……」
頭を掻こうとしても、しぶとく巻かれたタオルが邪魔をする。
さとりの視線が横顔に刺さり、目を逸らしていても主が微笑んでいるのがわかる。お燐の答えがどんなものであれ、さとりには全てお見通しなのに、ただお燐がはっきりと口に出すのを待っているのだ。
その答えが恥ずかしいものであればあるほど、サトリは満たされる。古明地さとりは満たされる。
全く、趣味が悪い。
「きっと、あいつはあいつで何も変わってなくて……たまたま、妙ちくりんな力を手に入れちゃって、それで調子に乗って暴れてただけなんだ。胸の真ん中にでかい眼ができても、あんまり気にしてなくて……箔が付いたとか見当外れのこと言って、ほんとバカだ」
まっさらな、凹凸の少ない自分の胸に軽く爪を立てる。
あれが何の意味を持つのか、おくうにも、お燐にもまるでわからない。
だからこそお燐は畏怖し、おくうは増長した。
「さとりさまは……何か、知ってるんですか」
主は、静かに首を振る。八咫烏について尋ねても、彼女は何も語ろうとしない。心配ないと言いたいのか、もう手遅れだと匙を投げたのか。心を読めぬ黒猫には、主の意図が読み切れない。
不安げな眼差しで、半分ほどまぶたを閉ざした主の横顔を見る。すると、お燐の心情を察したかのように、さとりは一瞬それとわかりにくい微笑を浮かべた。
「たまに身体を洗わないとね。心まで侵された気がするのよ」
それは浅はかな思い込みかもしれないけれど、多くの妖怪にとって精神の病は致命傷になり得る。
まして、心を読む妖にとっては。
「臭いものに蓋をされて地下に押し込められたって、変な意地を張って、私たちまで不貞腐れて臭くなる必要はないわ。誰に忌み嫌われようが、誰に汚されたって、私は何度でも自分の身体を洗うでしょう」
女の子ですものね、と似合わないウィンクをしてみせる。
「女の子……」
言いかけて、額を指で弾かれる。禁句だったようだ。かなり痛い。
「だから、凛としていなさい。侮蔑の眼に、得体の知れぬものに侵されないように」
痛む額を押さえながら、涙混じりにさとりの言葉を聞く。
湯船に黒い羽根を撒き散らしながら、慌ただしくおくうが近付いてくる。
「大丈夫。あの子も、あなたも、きっと強いわ」
それは、おそらく真言であった。
おくうが過去に犯した傲慢さゆえの過ちさえ容易く受け入れるような、慈悲深い笑みを味方に付けて。
「ほんと、また調子付いて要らん喧嘩吹っ掛けるんじゃないかと……」
「そのときは、あなたが止めてあげなさい。私も気付いたら止めるけど、多分あなたの方が近いでしょうから」
「あいつ、バカはバカでも火力バカだから、あたいじゃ歯が立ちませんて……」
「そのときは、あなたが灼熱地獄の燃料になるだけよ」
「ひでえ……」
ぐったりする。さとりは笑う。心なしか、第三の目も生き生きしているように見える。
対照的なふたりを眺め、帰ってきたおくうは首を傾げる。なんでもないよ、とお燐が手を振ると、「そっか」と簡単に納得する。素直なのか何も考えていないのか、だからといって御しやすいわけでもない。
「鼻の奥にお湯入っちゃった。なんか変な感じだよー」
「そうか。そりゃよかったね」
「よくないー」
ふん! と鼻を鳴らしても効果は薄い。青っぱなを垂らすと悲劇が引き起こされるのだが、そうなる前にお燐はおくうを湯船から引きずり出した。
「重……」
「うるさいうるさい」
おくうもそのあたりのことは気にしているらしく、そこそこ強めにお燐の後頭部をばしばし叩く。身だしなみは適当なのに、気に掛ける箇所を間違えているんじゃないかとお燐は思う。
傍目にはじゃれ合っているようにしか見えないため、さとりも例に漏れずくすくすと笑う。普段なら性質の悪いご主人さまを持ったものだと苦笑して終わるのだが、今回は多少趣が異なる。さとり自身も、そうあるべきだとお燐に説いた。免罪符や大義名分、そんな耳慣れない単語がお燐の脳裏をよぎる。
瞬間、お燐が火車の笑みをうかべ、さとりが猫の心を読んで背筋を凍らせた。
「……ちょっと、お燐」
「さとりさま、言いましたよね。身体を洗わないと心まで侵されそうになるって」
「言いましたけど。私はさっき洗いましたし」
さとりも湯船から脱出し、お燐から距離を取りつつ退路を確保する。しかし、事情を把握していないはずのおくうがすかさずさとりの背後に立ち、主の逃げ道を塞ぐ。
さとりははっきりと聞こえるように舌を打つ。
「いいじゃないスか。今度は私たちが洗ってあげますよ」
「そだね。たまには私たちもさとりさまを洗ってあげないとね」
おくうが珍しく空気を読んだ。嵐の予感。
しかし相手は心を読むサトリである、如何にふたり掛かりといえども簡単に掴まってくれる保証はない。じりじりと距離を詰めるペットたちに対し、さとりは懸命に心を読んで逃げる隙を見出そうとする。が、対処のしようもなく、加えて協力しているのがおくうなのだ。
たとえば、子ども騙しの罠に引っ掛かるような。
「あ! チェレンコフ光!」
「え!」
引っ掛かった。
おくう脱落。
「ああもう期待はしてなかったけどさ……!」
さとりはこの機を逃さず、お燐の追撃をひらりとかわして恥も外聞もなく猛然と駆ける。普段からは信じられない俊敏さに、そんなにされて嫌ならペットにやるなよとお燐は嘆いた。
「ところで、ちぇれんこふってなに?」
「あんたの好物だよ」
おくうのことだから、意味もわからず声の勢いに釣られただけなのは百も承知だが、逃した魚は非常に大きい。
遠ざかる華奢な背中に追いすがろうとしても、彼女は既に浴場から脱出する寸前である。おくうは駆け出す素振りすら見せない。その時点で、お燐は走るのをやめた。
かわりに。
「ざんねんでしたー」
一字一句違えることなく、古明地こいしが実の姉を捕縛する。
「こいし……!」
驚愕に目を見開き、抵抗する暇もなくさとりは羽交い絞めにされた。唯一、さとりの能力から逃れられるこいしならば、この機を逸するはずがないとお燐は考えた。
これほど思惑通りにいくとは思わなかったが、結果オーライである。
「は、離しなさい……!」
「んー。でも、私はまだお風呂入ってないんだー。折角だし、一緒に入ろ?」
ちなみに、こいしもすっぽんぽんである。準備は万端だ。
焼き直しのような逮捕劇が繰り広げられ、じたばたしながらもゆっくりと湯船に引きずられていくさとり。見かけによらず力持ちなこいしであった。
「ふっふっふ……」
「ちぇれんこふ……」
「や、やめなさい……」
満を持して近寄ってくるお燐と、今しがた覚えた単語を嬉々として繰り返すおくう。わきわきと手を動かすペットたちの仕草と、その思考にさとりは恐れおののき、思考の読めないこいしは何を思ってか羽交い絞めの体勢から力強く背を逸らした。
「ジャーマンスープレックス!」
「きゃあぁぁぁっ!?」
予期せぬ投げ捨て技に翻弄され、力の限りさとりは温泉の中にぶん投げられる。
時は満ちた。
「行くよ!」
「わーい!」
水飛沫が上がるか否かという瞬間に、お燐とおくうは同時に岩を踏み台にして跳躍し、こいしも場の勢いで頭から温泉に飛び込んでいた。
――ばしゃあん。
大して深さのない温泉の中に、一度に四人がくんずほぐれつ重なり合う。運が悪いのかおくうはまた湯船の底に頭をぶつけて、お燐とこいしはさとりを捕まえて髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱している。
鼻の奥に水が入って大変なのは誰も同じで、さとりが涙目なのはお湯が目に入ったせいか、ともあれさとりがくすぐり地獄の憂き目に合うのは明白だった。
主もペットも関係なく、目には目を、報復自由の勝手気ままな地下世界。
せめて外見はきれいに洗って、欺くように、嘲るように取り繕う。
「ひゃ、きゃはは……! んぁ、や、そこは……ぁ!」
「ここかな? ここかなー?」
「いやいややっぱりここでしょ」
「んやぅ……! も、もうやめてぇ……!」
剥き出しの暗い天井に、姦しい声が響き渡る。
地獄の下剋上は被害者を捕えたまま終わることを知らず、延々と、水飛沫を撒き散らしながらいたいけな喧騒を放ち続けていた。
>10氏
便乗させてください!
お燐の身体洗いたい。
なんて可愛い地霊殿!
ちぇれんこふ……