お空、お空。
そんなつもりなんてなかったのに、口から勝手に言葉が零れ出た。
お空、ごめんね。
泣きたかったけど、とっても泣きたかったけど、そうすると力を緩めてしまうから、だめだ。
ひゅうひゅうと息が漏れる音が聞こえる。ぎょろぎょろとお空が眼を動かしている。
この子は今、どんな気持ちなのかな。
きりきりと頭が痛かったけど、私はがまんして考えた。
お友達の地獄鴉が潰れて死んだときと、同じ気持ちかな。
苦手にしてた狸が二つに裂けて死んだときと、同じ気持ちかな。
いつも喧嘩してた、大きな白い犬が頭を割って死んだときと、同じ気持ちかな。
お空がうぎぎと唸っている。手が、ぷるぷると震えながら、私の頬に伸びようとしている。
私は鼻がぴくぴくとなった。獣の臭いがきつくて、嫌だった。
でも、いつもみたいに、私はこの子の手を払ったりしなかった。
だって、私の両手はお空の首を掴むので、どっちもふさがっているもの。
屋敷の中は静かで。怖くなっちゃうくらいに、静かで。
お空の汗が手にべたついて、気持ちが悪かった。
だけどそれ以上に、私はこの子の眼が気持ち悪かった。
純な眼。綺麗な眼。愛情に酔った眼。
……いしさま、……まも、……りさま……りす……の?
首が締まってても、お空はずっとおしゃべりだった。
カワイソウな子ね。カワイソウな子なのよね。
でも、私、あなたよりももっと、お姉ちゃんのほうが好きだから。
だから、だから……。
ぎしぎしと首が締まって、ぎちぎちと爪が首に食い込んで。
心の中に、ころりと、黒くて汚くて、泥だんごみたいな記憶が、転がった。
『貴女が気に病むことはありません。
お燐、むしろ貴女は誇るべきですよ。あの恐ろしい事件を喰い止めたのですから。
私の処置が甘かったのです。あの子に疑いは持ちつつも、野放しにしていた。
そのせいで、たくさんのペットたちが、無残に殺されてしまいました。
そして、貴女があの子を疑って監視していなければ、お空も今頃……。
末恐ろしい話です。
あの子の事は私が一番よくわかっている。……馬鹿なことを言ったものですね。聞いてください、お燐。私は馬鹿です。その上、臆病者でした。
あの子を信用しているなどと、聞こえの良い言葉を選んで、その実、私は恐れているだけだったのです。こいしの罪が暴かれることが、ではありませんよ。こいしに嫌われることが、私は心底恐ろしかったのです。……なぜか、と訊きますか。
言いましょう。私は、独りが怖くてたまらないのです。そして、私にとって、こいしに嫌われることは、独りになるも同じだった。……お燐、貴女は、私がこの地に来る前にどんな生活をしていたか、知っていますか。
……そうですか。やはりヒトの口に戸は立てられませんね。いえ、気にしないように。
概ね、貴女の記憶の通りです。全て能力のせい、と言ってしまうのは少し都合が良すぎる気もしますが、とにかく。私は嫌われものでした。
一度、ヒト前に立てば、悲鳴を上げられるか、怒号を浴びせられるか。背を向ければ陰口を叩かれ、面と向かえば口は噤んでも、腹の中ではさらにひどい言葉をぶつけられている。例え耳を塞いでも心に突き刺さる罵詈雑言は絶えず、しかしふと周りを見れば、私はいつも独りきりでした。……まあ、あれは確かに私の素行の問題というより、覚妖怪の性なのかもしれません。私のようなものは、元来、嫌われるものなのでしょう。
思い出語りではないのですから、事実を飾る必要もありませんね。
私は、泣きましたよ。悲しくて悔しくて、毎日のように泣いていました。
こんな能力、捨てられるものなら捨ててしまいたい。
口癖のように、私は恐ろしいことを言っていたものです。
それでも私が私を保てたのは、こいしが居たからです。あの子が私の存在を認め、求めたからこそ。そしてきっと、あの子自身も、私に認められ、求められることで、覚妖怪でいられたのだと思います。やがて蔑まれながらこの地底まで追いやられても、ずっと。
……はい、そうですね。わかっています。それは過去の話。今の私には貴女や、お空がいるし、……今はもう、死んでしまったけど、少し前までは、もっとたくさんのペットたちがいました。
この地霊殿で暮らすようになって、私もこいしも幸せになりました。
……あら、お空。どうしたの? ああそういえば、私たちの最初のペットが、お空なんでしたね。ちょっとやんちゃなところは、治さなきゃですけど、昔から、貴女は素直な良い子でしたね。お空の澄んでいて、美しい心。私は大好きですよ。
お空が私たちに懐いて、あんまり楽しそうにするものだから、他の子たちも釣られてここに顔を出したのでしたよね。……嬉しかったな。
あの子たちがはしゃぐ様子を見ていると、こっちも気持ちがうきうきしましたし、一度その中の一人を落ち込ませてしまった時は、どうしたらいいのかわからなくて、慌てたものでした。それまで、妹以外と、密な交流などしたことがなかったので、戸惑いましたね。
……今思い返しても、こいしも同じくらいに、いえあの子は私以上に、ペットたちを可愛がってたはずなんですけどね。……これは今考えても仕様がありませんか。
とにかく、お燐の言う通りです。地霊殿の暮らしは、貴女たちのおかげで、孤独とは程遠い、とても満ち足りた、暖かいものとなりました。それは、確かなんです。
でもですね。それとこれとは別なんです。ごめんなさい。こいしだけは、私の中で特別でした。私がこいしを想い、こいしが私を想う。これだけは、絶対不変でなければいけませんでした。……それに、理に適った理由などはありません。
きっと、地上の生活が長すぎたのですね。私はこの地に来てもなお、本当は聞こえないはずの声に、身を震わせることがありました。泣きたくなるぐらいの、孤独を感じることがありました。そして、そういう時は決まってこう思うのです。
あの子たちにも嫌われてしまった、と。もう私は独りなんだ、とです。
驚きましたか。そうでしょうね。そうなんです。貴女たちが一途に信頼していた主は、貴女たちを陰で、何度も何度も疑っていたのです。いつ裏切られるものか、冷たい言葉をぶつけられることかと、怯えていたのです。まるで信頼なんかしていなかった。私は酷い、心の小さな主でした。……幻滅、しましたよね。
…………え。そう、考えますか。赦して、くれるんですか。
……それは、びっくりもしますよ。本当に優しい子ね、貴女は。
…………。
私はあの子が必要でした。あの子の眼がないと、いつだって安心なんかできなかった。
こいしと心を通じ合わせることだけが、私の生きる理由、生きて良い証でした。
いつまでもそんな調子ではいけない、とは思っていたんですけどね……。
これを機に、私も変わるべきでしょうね。もっと、強いヒトに。
……ですからお燐、自分を責めないでください。こいしが心の眼を閉じたのは、仕様のないことです。遅かれ早かれ、あの子のやったことは白日の下に晒されていたはずですし、そうなれば、彼女はきっと、どのような場合であろうとも、『眼』を閉じて事件の真相を隠しそうとしたはずです。
全てはどうしようもないこと。事件が起きたその時から、変えようのない運命だったんです。
……はは。私はそんな顔をしていますか。ええ確かに、そうです。
私は今、とっても悔しい。
長い間、覚妖怪やっていて、初めてですよ、こんな悔しさを味わうのは。
心が読めなくて、悔しくなるなんて。
あの子がこんな真似をしてしまった理由、知りたかったな。止められるものなら、私が止めてあげたかったなあ。どうして、どうしてなんだろ。
酷いですよね。酷すぎることですよね。あんな優しい子たちを、みんな、みんな殺してしまうなんて……。絶対、赦せないことですよね。
そうまでして、あの子は何がしたかったんでしょうね。心の眼を閉じて、今まで辛くても必死に守り続けてきた、覚妖怪の自分を捨ててまで、隠しておきたい理由なんですかね。
馬鹿な、子ですよね。私と同じ、大馬鹿ですよね。ほんと、馬鹿よ……。
ごめんね、お燐、お空。私、こいしがわからなかった。
あの子が毎日、すごく楽しそうにしてたから、それだけしか、見えてなかった。
……本当に、ごめんなさい』
「こいし様、こいし様」
地霊殿、古明地こいしの部屋の前、白い戸の前で、火焔猫燐は声をひそめて呼ぶ。
返事には間があった。ぴんと立った耳をぴくぴくと動かして、燐は待つ。
屋敷内は今、ひどく静かだ。何もいない、という意味ではない。誰も彼もがまだ、寝静まっている早朝なのである。燐は、考えてみれば、久しぶりに浸る静けさに、変な新鮮味を覚えていた。そして、そんな自分にちょっと驚く。彼女がまだ、ここに来て間もない頃とは、地霊殿も随分と変わったのものである。かつては当たり前だった、息が詰まるような静寂はどこへやら。獣の一声も聞こえない一時なんて、今では、早々あるものではなかった。
なにせここ地霊殿は、ほとんどの場合、独りが恋しくなるぐらいに、程度のひどい喧騒に包まれているのだ。
それは、言ってしまえば、主の性格によるものだ。優しくて、お節介焼きで、何よりも寂しがり屋な燐の自慢のご主人様のせい……いや、おかげかな。
地霊殿は、正確にはさとりは、何ものも拒まないのだ。目の前に行き場をなくしたモノがあれば、彼女はいつだって手を伸ばすし、嫌われ者たちがひしめくこの地底でも、さらに煙たがられているモノがあれば、声をかけてしまう。また、彼女の能力に惹かれてすりよる動物がいれば、それらも皆、例外なく受け入れた。
そんな彼女の調子だ。力のあるもの、ないもの関わらず、地霊殿の住民は日に日に増えていった。それに伴い、屋敷が元来持っていたらしい静謐な空気は、いずこかへと逃げ去ったようなのだ。昼間は、まだ言葉も知らないような、主に力のない動物たちが騒いでいてたまらないし、夜になったらなったで、やはり状況は変わらない。今度は、ペットの中でも力をつけ始めて、妖怪を気取りだしたものたちが、にわかに元気づいてうるさいのだ。
気付けば、燐がかつて拾われ、新たな住処としたばかりの、あのうらさびしく、理由もなく独りを感じてしまうような、地霊殿はもう、とうに消えて失くなってしまっていたのである。あるのは、その清楚で繊細な外観とはまるで違った、動物たちのにぎやかで楽しい、雨風やヒトの冷たい視線が凌げる、憩いの場であった。
燐はもちろん、それを好ましく思っていた。寂しいよりも、うるさいぐらいのほうが自分の性にあっているし、何より、そっちのほうが、さとりも喜ぶのだ。
燐は、ペットたちのしでかすやんちゃに、時に笑って、時には本気で叱るさとりのことを思う。度を越してにぎわう地霊殿のあり様に、ふと目尻を下げて微笑む彼女の表情を、燐は思い返して、自然と頬を緩めた。
地霊殿が賑やかなのは構わない。というか、むしろそうあってほしいところなのだ。
それは、燐の主であり、恩人であり、友達でもあり、家族でもある古明地さとりが望んだものだ。嫌われ者の覚妖怪がやっと手に入れた、安穏の日々そのものである。
……とはいえ、それは平時の話。燐はわざわざ、皆が寝静まった、この貴重な静寂の一時に自分がある理由を、脳内で反芻した。今は緊急事態なのだ。
いつもなら笑って済ませられても、今この時に限っては、ペットたちに騒がれては困る。なぜなら、そんな真似をされたらさとりが来るのだ。放っておけない性格の彼女である。仕事もある上、最近は彼らの数が増えすぎて、十分に構いきれないことを気に病んでいたのも、燐は気にかかる。ペットたちの、いつものような大騒ぎが始まれば、彼女はすぐにでも起きだして、積極的に監視することはなくとも、注意を傾けるぐらいはするだろう。じゃれあっていて怪我でもしないか、と心配するのだ。それこそが、何としても避けなければならない事態なのである。
彼らを信用しているのか、それとも意外とおおざっぱな性格なのか。彼女のペットたちはみな、放し飼いだ。だものだから、クローゼットに忍びこめるような小さいのから、小部屋の戸を通れない大型まで、様々なモノたちが、地霊殿中に散らばって、好き勝手に過ごしている。さとりはそれらの様子を全て窺おうとするのである。
つまり、彼女が地霊殿の中をぐるりと巡回することになるのだ。彼女の心の眼が、地霊殿中を見回すのである。
それは、大きな地霊殿の中でも隅の隅、ともすれば忘れてしまいそうな、普段ならば誰ひとり近寄らないこの小部屋の前にも、さとりが足を運ぶということだ。
それはまずい。いかにもまずいことだと、燐は想像しただけで変な汗をかいた。
さとりにしてみればただの日課かもしれないが、こっちにとっては大事だ。
是が非でも、彼女に今、ここか、またはそのすぐ近くにでも来られるわけにはいかないのだ。
なぜなら、絶対に、その心中を覗かせてはいけないモノが、今日この場にはいるのである。
古明地こいし。彼女の妹だ。
心の眼を閉じて、ヒトの心を覗くことを拒み、ヒトに意識されることもなくなった、無意識の世界に解放された、または、囚われた哀れな弱い妖怪。
と、一般には言われている妖怪の少女である。
いっそ、その通りだったらこんな面倒にはならないんだけどねえ。
燐は思わずといった風に零して、そのあまりに薄情な本音に苦笑してから、もしやこの『声』も聞こえてやしないか、と遅れて表情を強張らせた。
ほんと、面倒だねえ。改めて、思う。この件に関してだけは、燐は自分の好奇心や積極性を悔いていた。足りない頭を働かせて、分不相応な真似をしたものだから、こんな損な役回りを押し付けられることとなったのだろう。世の中には、知らないほうが良いことなど山ほどあるというに。自分はその境界を見誤ったらしい。
余計な事実を掴んで気分を悪くするのは、自分だけで済まされないことぐらい、わかっていたはずなのだが。燐は己の胸に手を触れた。
でもやっぱ、お空や、さとり様や、死んでいった他のペットたちのこと考えちゃうと、知らんぷりはできっこなかったんだよねえ。
さて、と燐は気を取り直して考える。こいしをどうすべきかだ。
古明地こいし。あの最悪のペット殺しを。
何を理由に、ここに引きこもっているか知らないが、これまでである。
数年前、ここ地霊殿の多くのペットたちを虐殺したあげく、自ら心を閉ざして事の真相をひた隠しにしていたこいし。しかしその小細工もいとも簡単に無駄となった今だ。
事件を風化させるには少し足らない時間を経て、『古明地こいし』を取り戻したこいしは、何を思うのか。さとりを悲しませ、空を苦しませ、多くのペットたちを殺した彼女は、何をすべきか。そしてそんな彼女を前にした燐は、どうすべきか。
燐は考えて、考えて。でも頭が痛くなるばかりで、結局、結論はでなかった。
しかし、わからないからといって、放りだせる問題でもないから、困りものだ。
暴くか、隠すか。選択は二つだというのに。
どうすりゃいいのさ、ほんと。
あたいはどうしたいんだよ……。
こいしの部屋の、白い戸はまだ反応がない。まさか寝ているのだろうか。
それとも、また、『眼』を閉じてしまったのだろうか。
……まさか、もうここにはいない、なんてことはないだろう。たぶん。
燐は、ぴんと張り詰めた、朝の静かな空気に、ふとため息をついていた。
だめだな、と燐は思う。やはりこう、だんまりは性に合わない。がやがやとやかましい地霊殿の暮らしに慣れていた彼女は、この忘れて久しい静けさに、新鮮味を抱いていたのも束の間、すぐさまに通り越して、むずかゆく感じるだけになってしまった。
昔の自分は、よくもまあ平気でいられたものだ。燐は過去の自分自身に感心してしまう。
うーん。なにか、気の紛れるようなものはないだろうか。
空一人がいればこんなお行儀の良い雰囲気、あっさりと台無しにしてしまうのだけど。
燐は戯けた想像をして、仄かに心の内が温まるのを感じて、確かに気は紛れた。
「お燐」
声に、戸に視線を戻せば、それはわずかながら開いていた。間から、怖いぐらいにまっすぐな目が燐を覗いている。こいしの目であった。
また痩せたんじゃないかな。燐は彼女の前よりもこけた気がする頬を見て思う。薄い唇をひん曲げて、彼女は笑みを作っていた。彼女の少し癖のある白髪は、またさとりに報告して、切らせた方がいいだろう。随分と伸びていた。どこから誰から奪ってきたものか、頭には見知らぬ帽子が乗っている。
ゆっくりと、戸がさらに開いて、彼女の華奢な身体が目に映った。
「お燐、勝手に離れちゃってごめんね。ちょっと用があって」
弾むような無邪気な声音で、それでもこいしは言葉に小さな棘を忍ばせる。
「ただでさえ、とても悩んでるみたいなのに。心配事増やしちゃったわね」
特別な意図を含んだらしい、こいしの言葉選びに、燐は目を瞬かせた。
あらら。どこから聞こえちゃってたんですかね……。
「ふふ。またそんなこと。聞かせようとして聞かせたくせに、どこまでも意地の悪いヤツ」
上機嫌そうなこいしの発言に、燐はぎょっとした。
ええ!? あたいはそんなこと考えてない、です、よ……ね?
「うん。じょーだんよ、じょーだん。ちょっとからかっただけ」
ぱちりと、こいしは片目を閉じてから、悪戯っぽく笑った。
「久しぶりに貴女を『意識した』ものだから、嬉しくて浮かれちゃったのかしらね」
こいしの言い様に、燐は不満を覚えつつも、反発しきれなくて微妙な面持ちになる。
でも、そういう冗談笑えないですよ、こいし様。
結局、中途半端な文句しか、燐の頭には浮かばなかった。口を尖らせて、眉をひそめて不平を示しても、このはっきりとしない心情が彼女には伝わっているのだから、意味もない。そんな状況でもないのに、内心では、やはり久しぶりに言葉を交わす主に、面と向かうと尻尾を振っている自分が、情けない。
「ふふ。そうよね、ごめんね」
ころころと鈴が鳴るような声音。こいしが廊下に進み出て、燐の頭に手を伸ばしてくる。あたいの頭を撫でる気かな。
そう思ったすぐのことだ。あ、と気付いた時にはもう、燐は反射的にその手を避けてしまっていた。避けてしまってから、慌てた。なんとなく言い訳めいた思いが胸に抱かれて、燐はこいしを見るも、彼女は燐を見ていない。こいしは自分と燐との間に開いた、約一歩分の距離に視線を落としていて、やがて何も言わずに手を下ろした。その表情は伏せられていて、わからない。
「やっぱり、迷惑だったかしらね」
こいしが呟くも、燐は何の話か咄嗟にわからず、答えあぐねた。
「私が無意識の内にまた、心の眼を開けてしまったことよ」
顔を上げたこいしの表情が本当に寂しそうで、あまりにもさとりとそっくりで。
燐は思わず、目を背けた。だが、そんなのは甘えや怯えだ。一つ息を吐いてから、また彼女と目を合わせた。しかとこいしの、澄んだ瞳を見据える。
「そんなことないですよ」
なんでもないことのように言って、燐は肩をすくめた。
「というよりですね。『眼』開けといてもらわないと、いつまでも片付かない話があるんでね。むしろそうでないと困るんですよ」
随分と突き放した物言いだ。自分で、燐は思った。だがこれぐらいで良いはずだ。
ただでさえ、怖気づいた燐の迷いや、こいしのわがままで、随分と結論が先延ばしになってしまっていた。今さら、うだうだと尻込みをしている場合ではない。
そう。そうよね。
こいしの消え入りそうな声は、今のこの、深い静寂の中でなければ、聞き逃しそうなぐらいに、弱く小さかった。
「貴女のひどい頭痛の種。早く取り除かなくちゃよね」
こいしの寂しげな顔のままに、無理におどけたような声音が耳に残った。
「部屋、入れてください。意味あるかどうかわかりませんけど、なるべくヒトの目は警戒した方がいいでしょ」
燐は周囲の様子を窺って、こいしに提案する。こいしが燐の反応に、何か不都合があるのか、眉をひそめた。
しかし、反対する理由も見当たらなかったのだろう。ためらいがちながらも、一度、頷いた。燐はこいしの後に従って、入室する際、再び、廊下の安全を右、左と確認した。
本当はこんなところで話をつけたくなかったが。
元はと言えば自分の判断ミスだった。これ以上、失態を重ねるわけにもいかない。
ここらで自分にもこいしにも、決着をつけておかないといけないのだ。
『ね、お燐。ちょっと、いい?』
昨日の夜のことだった。一人歩いていた廊下。いきなり肩を叩かれて、燐が振り返った時だ。
古明地こいしの姿を認めたこと自体に、燐に大した驚きはなかった。彼女は夜中だろうが早朝だろうが、平気でどこでもうろついている。誰も意識せず、誰にも意識されず、消えては現れ、そこにいたはずがいつの間にかいない。それが彼女だ。それが彼女の能力である。問題なのは、その様子だ。昨夜のこいしは、明らかに平素と違った。長年、『眼』を閉じたこいしを見てきた燐にはわかったのだ。まず昨夜の彼女には、危うさがなかった。およそ理性とは程遠い、ぎらぎらと不気味な瞳の光がなかった。そして、声。不自然に甘ったるくて、聞いていると言い寄れない不安感が込み上げてくる、あの独特の声がなかった。何より、表情だ。
その時のこいしには、見ていてやるせなくなるような、突き抜けて楽しそうな表情がなかったのだ。造形だけ見ていれば、底なしに楽しそうなのに、そのくせ虚ろに思えてならない、無意識の笑顔がなかった。
だからだろう。こいしが、自分はまた『眼』を開けてしまったらしい、と話をしだしても、燐はあっさりと受け入れることが出来たのだ。むしろ、ああなるほどな、と腑抜けた顔で自分が納得したのを、燐は憶えている。安心したのを憶えている。
後に訊けば、詳しい経緯は、こいし自身もわからないのだという。ついさっきに、はたと気づいてみれば、いつの間にか心の眼が開いていた。彼女からの説明はそれだけだった。
なにより彼女自身が戸惑っていて、錯乱していたことも理由かもしれない。
だがそれにしたって、あまりにおざなりな記憶だった。燐は不満を抱きかけたが、しかし、加えて考えてみれば、その以前のこいしは無意識に囚われ、生きる幽鬼だったということもある。事の些細な前兆など捉えられないのも無理はないと、燐は諦めることにした。
それからだ。まともに時間があれば、もっと違う対処の仕方を燐もしただろう。だが、いかんせん状況が状況であった。くどくどと問答をするには、この場は向かなかったのだ。
その時の彼女たち二人の念頭には、共通の危惧があったのである。
ペットたちが騒いで、問題を起こす夜中は、何時さとりと鉢合わせても不思議はない。
流れる月日が燐の何を変えたか。不思議と、こいしをさとりに会わせようとはしなかった。
それはならない、と二人ともが心底、その事態を恐れたのだ。その理由は何か。
燐は、単純に怖気づいただけであった。遠い日のあの惨事。徐々に暖かな喧騒が地霊殿を満たし始めていた一時、気味の悪い静寂を屋敷に呼び戻したかの事件。
ペット殺し。
地底の外れに建つ地霊殿、その中で理不尽な孤独に生きるさとりに、ようやく出来た大事な家族。何の罪もない彼らが、意味もなく無差別に殺された事件。
それを、どのような理由であれ、実の妹がやったことだと、彼女に確信させてしまうことが、燐は怖かったのだ。さとりはヒトの心が読める。当然、燐がこいしに疑いを持っていることは知れていただろうし、そもそも、さとり自身も、こいしの犯行だと信じて疑っていないかった。彼女の口から直に聞いたのだから、それは間違いのないことだ。
だが、だからといって、こいしの心を直に見て、真実を知って、彼女が平気でいられるとは燐には思えなかったのだ。例え微々たる差であっても、冤罪の余地があるのとないのでは、やはり大きく違うように、燐は思ったのである。
最近、やっとのことで立ち直りかけているさとり様を、悲しませたくない。情けない思いが、燐の判断を鈍らせた。
世の中には知らなくても良いことなんて山ほどあって、その一つが、こいしの心の内にもある。そんな世迷言が、その時の燐には頭をかすめたのだ。
一方、こいしのほうは、これまた単純な理由であった。例え微々たる差であっても、冤罪の余地があるのとないのでは、大きな違いがある。それは燐の主張と同じであった。しかし、それをふまえて、想いやる相手が違ったのである。
こいしは、こいしのために。自分自身の身を、心を守るために、罪を暴かれたくないと燐に説明したのだ。まあ、心を閉ざしてまで隠そうとした罪である。
当然と言えば、当然であった。今さら失望も何もない。そして。
二人は想うヒトを違えながらも、とりあえずその時に限り、結託することにしたのだ。
二人の行動は迅速であった。まず燐は、こいしにまた、心の眼を閉じて逃げることを、禁じた。自分がどうすべきか。その時の燐にはまだわかっていなかったが、しかし、とりあえず、こいしが一人だけ、何もかもを放りだして、またどこへなんなりと逃げ去ることは、我慢ならなかったのだ。口約束に何の拘束性もあったものではないが、素直に受け入れる彼女の表情を見たところ、あながち無駄でもなかったように思えた。それから、燐はこくこくと頷くこいしの手を引っ張って、すぐさま地霊殿を出た。
こいしはもちろん、こいしが心の眼を開けたことを知る燐も、さとりに見つかってはならないだろうからだ。ああちくしょう、今日は野宿だよ。燐は独りごちたものだ。
とはいえ、二人も変なところで運が良かった。
燐だけなら、どこでも黒猫に戻って、あとはうずくまってしまえばすぐにでも眠れる。野宿など馴れたものだったのだ。ガラの悪い妖怪どもの出入りにさえ気にしていれば、どこだって上等な寝床となる。もともと品の良い生活を送っていたわけではなかった燐は、そんなもの苦でも何でもなかった。しかし、こいしは違う。
まず目立たない姿に変化することができないし、第一、地霊殿の大きなベッドしか経験していない彼女に、屋敷の外の土と岩の寝室が耐えうるものかどうか。身体を壊したりはしないだろうが、不満を訴えて、地霊殿に戻りたい、などと言った日には面倒である。
結局、適当な場所が見当たらず、二人は旧地獄街にまで足を延ばすことになってしまった。
そんな時に、知り合いに遭ったのだ。正確に言えば、さとりの知り合いである。
鬼だ。旧都に住む鬼の中でも、別格。山の四天王と謳われた者たちの一人、星熊勇儀であった。
燐はこれはしめたと思ったものだ。義理堅い彼女が、友人の妹を邪険にするとも思えなかった。厚かましさなぞ知ったことではない。一文無しの二人の、せめてこいしだけでも寝床を確保するためだ。体よく現れた彼女を利用させてもらおう。燐はすぐさま決断したのだ。
さてどう説明したものかと考えて、その辺りで鬼は嘘が嫌いだということを思い出して、下手な小細工は逆効果かと燐が悩んでいたところだ。こいしがひょいと前に出て、ぺらぺらとあるがままの真実を吐露してしまった。なんと大胆なことを、と燐は肝を冷やしたものだ。さとりの友人である。彼女には話して安全、というわけではなかろうに。しかし、黙ってこいしの言葉に耳を傾けていた勇儀は、最後に何か、こいしが耳打ちすると、いきなり快活に笑った。そして、こいしの頭をがしがしと撫でると、連いてくるようにと、あっさりとのたもうたのだ。
後の事だ。勇儀に何を言ったのか。燐は彼女の大きな背中の後ろを連いていきながら、こいしに訊いてみた。返答は、片目を閉じて、ぴんと指を一本立て、唇にあてただけ。
ヒミツという訳だ。
いいさ。話したくないってんなら、あたいは気にしたりなんかしないよ。どうだっていいね。
燐はふんと鼻を鳴らして強がったものだった。
意外、かな。目的地に着くまで勇儀はしゃべりっぱなしだった。
それは、いかにしてさとりと自分が友となったか、という話から始まり、さとりがいかに寂しんぼうであるか、という話に繋がり、やがて、彼女が今という時をどれほど大切に愛しく思っているか、という話になっていった。
燐は感心したような、呆れたような、微妙な気分になったものだ。なにせ、勇儀はなんだって笑って話す。彼女にかかれば、さとりの重苦しい鬱々した過去も、上等な笑い話なのだ。しんみりどんよりと語られるよりはずっと良いけれど、これもどうなのかな、と燐は思っていた。
それに、退屈だった。だって、彼女の話は、全て聞いた内容だったのだ。
燐、というより、地霊殿に住まうモノならば、誰だって知っていることだ。
覚妖怪のさとりの孤独がいかに長く、理不尽なもので、耐えがたいものであったかなど。
そんな彼女にできた心の風穴を埋めたのが、他でもないペットたちであることなど。
彼女がいつも、自分が辛いのを忘れるほどに、こいしのことを心配していたことなど。
だから、燐は思うのだ。こいしが許せない、と。
彼女の行為にどんな理由があったかなど、燐は知らない。でも、こいしは確かに壊したのだ。
さとりがやっとのことで手に入れた、ささやかな平穏を。
深い深い孤独に苛まれ、それでも同じ境遇の妹の事を想って止まなかったさとりが、徐々に、だが確かに築き上げていった、地底の楽園。誰も彼もに嫌われ疎まれ、地獄へと追い立てられた覚妖怪二人と、少しずつ増えゆくペットたちが作った安穏の地。ゆっくりとでも完成に近づきつつあったそれを台無しに、こいしはしたのだ。
あの日。燐は、ついに空さえ手にかけようとしたこいしを、すんでのところで発見し、思いきり蹴飛ばしてやったものだった。自分が今まで見てきた、仲間たちの悲惨な死に様が脳裏によぎって、腸が煮えくりかえり、あの時あの場だけは、燐は一歩間違えば、どんな間違いを犯すかわからなかった。それでも、結果的に、物を言わずただ横たわるこいしに、何もしなかったのは、空のただならぬ様子が理由となるだろう。
よほどショックだったのか、床にへたり込み、顔を俯けて、ぶつぶつと言葉を漏らす空は、燐にはひどく打ちのめされているように思えた。
その姿を見て燐は、自分の目的を思い出し、空の肩を抱くと、そのままじっと、倒れるこいしを睨んでさとりを待つことにしたのだ。
今思えば、その決断が、事をこじらせてしまったのだけれど。
そうだ。燐は思う。自分の責任だ。こいしを罪から逃したのは、そもそもが自分の失敗であった。
ならば、それを挽回することも、こいしをまた罪と直面させることも、自分の責任か。
こいしの心を見れば、さとりはさぞかし傷つくだろう。知りたい、と言っていたのは、憶えている。きっとそれは本音なのだろう。さとりはこいしの気持ちを捉えたいのだ。
そして、その結果を、自分のせいだと決めつけて嘆く気なのではないか。
そんな危惧が、燐にはあるのだ。
それは、嫌だ。燐はこれ以上、さとりに苦しんでほしくないのだ。
だが、燐はこうも思う。実の妹の心が映し出す真実に、今度こそ、立ち直れないような傷を心に負うかもしれない。でも、それだからといってうやむやにして良い理由はないのではないか。こいしが罪を犯したのなら、それを彼女は受け止めるべきだし、周りもまた、そうでなければならないのではないか。
今や多すぎるぐらいのペットたちで溢れ、にぎやかで楽しげな地霊殿。だというのに、時折、ふと感じる不穏の気配に燐の鼻がひくつくのは、やはりその下に、沈殿した、今だ明かされない罪があるからではないか。
どうする、どうする。
ちらと傍らのこいしが、燐を一瞥した。
駄目だ。あたいは、駄目だ。
答えは、まだでなかった。
すると、勇儀が大きな声を上げて、目的地への到着を伝えてきた。
勇儀に連れて行かれたのは、着いてみれば大きな屋敷であった。
それも、相当に悪趣味な屋敷であった。ところどころに置かれた、不気味な鬼の彫像。堂々と至るところに刻まれた『鬼』の文字。中に入れば、廊下には憤怒に顔を歪めた、赤ら顔の鬼の仮面がずらりと並び掲げられ、屏風にまで筋骨隆々とした半裸の鬼が描かれていた。
聞けば、屋敷自体、昔に彼女が仲間たちと悪ふざけで建てたものだそうで、大体のところが酒に酔った勢いで作られている上、鬼たちが面白がって無駄な装飾を増やしているが、一晩の寝床には贅沢なぐらいだと笑っていた。
実際その通りなので、燐は文句は言わなかった。言わなかったが、あたいは野宿でいいかねえ、と考えないでもなかった。
問題が起きたのは、その翌日、早朝であった。
こいしがいなくなったのだ。燐はもちろん慌てて、自分の迂闊さに腹が立って、こいしの再三の裏切りに、より腹を立てた。燐はこいしを追おうとするも、屋敷を出る際、また勇儀に出くわした。
どうやら燐を待っていたらしく、こいしから伝言を預かっていると彼女は言った。
聞けば、ちょっと地霊殿に行ってくる、とのこと。
燐は、自分がさっと青ざめるのがわかった。
この皆が寝静まる早朝に、一人で地霊殿に行って、何をする気か。
すぐさま後を追おうとして、燐は勇儀に腕を掴まれた。
アイツもう何もしないよ。何もできやしない。
勇儀の言葉に、何の保証があるのか、燐にはわからなかった。だが、彼女の目がいやに真剣で、自信に満ちているものだから、一蹴する気にもなれず、戸惑ってしまった。
腕を掴まれたまま、硬直する燐を見て、勇儀がため息を吐く。
もう行くよう、顎で示して、後は何も言わずに、彼女は背を向けてしまった。
やがて一人残された燐は、勇儀の意図を掴めずにいながらも、こうしている場合ではないことを思い出し、また駈け出した。
やがて、地霊殿に着いた辺りで、気付く。
この広い屋敷だ。どこにこいしがいるのか、燐にはわからなかったのだ。
しらみつぶしに思い当たるか所を巡っていくか。あまり賢い選択とは思えない。
捜しているのはあのこいしだ。かつて、彼女は皆の信頼を裏切って、たくさんのペットたちを殺し、その上、そのことをおくびにも出さず、さとりにも感づかれることなく、隠し通してみせたのだ。あの演技力が、今回は発揮されていないとはいえない。
いくら楽観的に考えようとしても、頭に浮かぶのはあの事件の時に見た、悲惨な光景だった。
あたいって奴はほんっと……何やってんだかね!
燐はこいしを憎み切れなかった自分を、恥じた。
ろくな奴じゃないとわかっていながら、その『眼』が開いた時、ほんのすこしでも、喜んでしまった自分が、たまらなく情けなかった。
彼女を無条件に信用してしまっていた、自分が腹立たしかった。
燐の主はさとりだ。でも、燐にとっては、こいしとてそれに変わりはなかったのだ。かつてこの地底が本当に地獄だった時から、生き続けてきた燐は、長い年月をかけて、力を身につけると同時に、徐々に仲間を減らしていった。厳しい環境下で、一心不乱に生き抜くうちに、やがて気付けば、昔に笑い合っていた顔見知りはどこにもおらず、いつの間にか己の手にあるのは、なけなしの妖としての力と、ごくありふれた孤独感だけだった。そんな燐を拾ったのは、こいしなのだ。
あの日、あの時に手を差し伸べてくれた、こいしの優しさが、燐には忘れられなかったのだ。
だが、そんなつまらない思い出のために、判断を鈍らせるようではいけなかった。
やってはならない失態を、燐はやってしまったのだ。
……やはり、さとりに報告して、皆に注意するよう連絡するしかないか。
燐がそう思った時だ。背後から、足音が聞こえた。
瞬時に振り向くと、燐は思わず、なんだと落胆してしまった。目の前にいたのは、空だったのだ。だが、すぐにその緩んだ思考も、引き締まることとなる。
お燐! こいし様に会ったよ!
燐は目を見張ったのものだ。すぐさま彼女に駆け寄ると、身体中をべたべたと触って、怪我はないか、何かひどいことを言われなかったか、急いで確認した。
結果はというと、燐の杞憂であったらしい。なんでも、楽しくお話しした、のだそうだ。こっちの気も知らずに。能天気な言い草だった。空はあの惨事をもうほとんど憶えていない。自分さえ殺されそうになったというのに、まるで頓着していないのだ。燐はそんな彼女に、うらやましいのが半分、呆れ半分だった。
とはいえ、僥倖だ。空はこいしの居場所を知っていた。なんのことはない。
彼女の私室にいるらしい。燐は空に、あまり騒がないこと、こいしのことは他の誰にも言わないことを命じておいてから、彼女の元に向かったのだった。
こいしと共に部屋に入ると、そこには意外な光景が広がっていた。
え、と声を漏らしてしまったほどだ。
彼女の部屋を覗いたのは、一度ぐらいのもので、それも昔の話ではあるが、しかし。
燐は目を見張る。だって、仕方がない。視界の端で、気まずそうにこいしが頭を掻いた。
何もなかったのだ。飾られていた置物はもちろん、テーブルやクローゼット、ベットもない。本当に、部屋というか、ただの空いたスペースだった。
燐は疑問に思わざるを得ない。知っているのだ。さとりは何も、こいしにこんな状態の部屋を与えたわけではなかった。もともと、生活に必要な最低限の家具は揃えてあったし、洒落た花瓶に綺麗な花が活けてあったりした。そうだ、写真。どこかは知らないけど、ここに住んでいる以上は一生お目にかかれないような、幻想のごとき風景が切り取られた写真が、何枚か飾られていたのも、燐は憶えている。ひそかにうらやましく思っていたのだ。可愛らしいぬいぐるみも転がっていたかな。とにかく彼女の記憶の限りでは、この部屋も昔は普通であった。
こんな、一切の生活感を排した、空っぽで不気味なものではなかったはずだ。
燐はこいしが、地霊殿の主である姉に、この部屋を与えられた、というか、この部屋に移された時、一緒にいたのだ。それどころかこいしの手を取って、彼女をここまで連れてきたのは燐である。心の眼を閉じて無意識のままに、ただ、ただ、生きる。そんな悲惨なあり様になったこいしを見つめるさとりが、耐えがたいほどに痛ましくて、燐自らが彼女の身の回りの世話を買って出ていたのだ。
後に彼女は燐の世話がいらなくなるほどには、自立するようになったのだが、その時は何かの反動なのか、されるがままで傀儡人形も同じであった。手を引かないといつまでもぼんやりとその場に佇むだけであったし、一人では食事もとれなかった。
あの頃の重たい静寂。憶えている。
気を抜けば、いつでも泣き出しそうなさとり。状況が呑みこめていないのか、ぼんやりとするばかりの空。心に鍵をかけて、なにもかもを胸に仕舞い込んでしまったこいし。己の中でうずまく疑念に、顔をしかめる燐。
大切で暖かな日常に残った爪痕はあまりに大きく。
一度は掴みかけていた安穏の日々が、ひどく遠のいたように感じられたものだ。
こいしはその頃になるともう、大した危険人物であった。
さとりすら、彼女を信用せず、彼女が一人で行動することを良しとしなかったのだ。ふらふらとうろつくこいしに、必ず、ある程度の知と力を身につけたモノたちを数人、つけておくことにしていた。
燐もその中の一人で、一番、こいしの世話に熱心なモノでもあった。
というか、他はどいつもこいつもが、注意力に欠けていたり、ずぼらだったり、乱暴だったり、臆病だったり。自分自身以外に、使えそうな奴が少なかったのだ。
やがて、さとりにも燐の意思が伝わったのだろう。それとも、他のモノが何か不平じみたことでも思ったのか。とにかく、こいしの素行が予想よりもはるかに安全なものだったこともあり、燐が一人でこいしの面倒を見ることになった。
後に、今のこいしの部屋の位置では不安だという声が上がり、もっとヒトの出入りの少ない場所にした方が良いのではないかという話になった。一応、今までこいしの世話をしてきた燐だ。目立った問題も起こしていないというに、その処置はないのではないかと反論したのだが、さとりにたしなめられては仕方がなかった。そして。
燐はさとりの指示でこいしを新しい部屋まで連れ行き、その時に彼女の部屋を見たのだ。
あの日に見たこいしの部屋の、他よりも格段に恵まれた内装が、燐にはさとりのせめてもの配慮のように思えて、印象深くあったのである。
だからこそ、不思議よりも、納得がいかないように、燐は感じていた。
どうしてこんな真似を?
「えーと……。ま、趣味じゃなかったのよ。家具とか。うん。だから、みんな欲しがってたペットたちにあげちゃった」
貴女が、ペットのために?
そんな下手な嘘つかれても困るんですが。
自然と恨めしげになっている燐の表情に、こいしは顎に手を当てて、今思いつたとばかりに、目を大きく開いてから、言った。
「ほら、無意識下の行動だから。今の私に訊かれてもわかんないのよ」
なるほど、彼女の能力は随分と都合よく利用できるものだ。言い訳に最適である。でも、あたいとしちゃ、そのことでいつも心を痛めてるヒトがいること、ちゃんとわかってて欲しいんですけどね。
「……わかってるわよ。それぐらい。あとね、お燐」
こいしは燐を見やる。
「ちゃんと、声に出して、会話をしなさい。相手が覚だからって、横着しないで」
あ、と燐は思った。自分の唇に手を触れて、それからこいしを見る。
そして、思った。やっぱりこいし様はこいし様なんだなあ、なんて。
覚の能力を軽々しく扱われることに怒る彼女は、己の心もヒトの心も恐れているように思えず、まだ覚妖怪としての矜持を失っていない気がしたのだ。
「それじゃ、お燐。いい加減、終わりにしたいんでしょ?さっさと済ませましょうか」
事件の事を指しているのだろう。平気な顔をして、こいしの小さな手が、きゅっと拳を作るのを、燐は認めた。
こいしが心の眼を開けた時から、うじうじと文句をつけて先延ばしにしていたが、やはりそれは甘えだ。こいしの後押しによって、決心がついた。例え無理くりにでも、ここで。
「貴女は、私をどうしたいの?」
こいしは問う。
それは、燐自身、何度も自問してきた問いかけであった。
暴くか、隠すか。
出ていない答えを取り繕うには、相手が悪すぎる。格好をつけて、後悔したくもない。わからないのなら、わからないと言えば良い。
自分がいて、相手がいて。どちらにもヒトの心があるのなら、言葉を交わせば答えはでるはずなのだ。そうすれば、例え必死に絞り出してでも、答えが出るはずなのだ。
「あたい、わかんないんですよね」
「決められないってこと?」
「それもですけど、まるで見当がつかなくて」
貴女がペット殺しをした理由が。
「さとり様も言ってましたよ。あんなに楽しそうにしてたのにって」
「そうね、とっても楽しかったわね。ここでの暮らしは」
だったらなんで、と思わず訊きかけて燐は口を噤んだ。
こいしが意味ありげに小首を傾げて、含みのある笑みを浮かべた。
その問いをすることは、一つの決断となってしまうのだ。もしこいしの罪を明かさないのであれば、その真相は燐の記憶にすら居場所がない。さとりがいる以上、隠すのであれば、この地霊殿の誰にも、真実を知り得るものは居てはならない。
こいし自身を、除いては。
それは、こいしをまた、無意識の世界に逃すこと、追い立てることを意味している。
燐が口走りかけた言葉は、その可能性を潰すものだ。
「あたいは、さとり様も、こいし様も大好きだったんです」
部屋の中には何もなく、物音ひとつせず。『眼』を閉じていたこいしと同じぐらいに、空っぽで、寂しくなった。
「あたいは、こんなあたいを拾ってくれた二人が好きでしたし、同じ境遇の、ペットたちのことも好きでした。この地霊殿が、好きだったんです」
「嬉しいこと、言うのね」
「あたいだけじゃなかったんですよ。お空はもちろん、みんな、みんな! みんな、馬鹿な奴らでしたけど、そのせいで、たくさん、迷惑もかけましたけど。でも、あいつらみんな、お二人が大好きだったんですよ!」
堪え切れなくなって、燐は吠えた。かっと眼のまわりが熱くなって、声が震えて、気持ちをしっかりと持っていないと、崩れ落ちそうになった。
「こいし様も、喜んでたじゃないですか……。賑やかで楽しいって笑ってくれてたじゃないですか。あたいは、それがほんとの気持ちだって信じて。まだ人型に慣れてもないってのに、生意気にお仕事とか、馬鹿どもの世話とか手伝って! あれも全部嘘なんですか? ヒトの心の裏表や、悪意に傷ついてきた貴女が、嘘であたいたちの心を弄んだんですか?」
こいしは表情を曇らせて、唇を噛んだ。
「あたいは、こいし様が赦せません。貴女の心がわかりません。こんな、全部うやむやのまんまじゃ、駄目なんです。でも、全部を貴女に告白させればそれで良いとも、思えなくて……。それで今のみんなが幸せになれるなんて思えないんです。それに、それに。あたいは、こいし様にもう眼を閉じてほしくなんかない……。わからないんです。どれだけ考えても、あたいにはどうしたらいいか、わかんないんですよ……」
こいしが、ゆっくりと近づいてくる、ゆっくりと、ゆっくりと。
燐の目の前に立つと、やがて、おずおずと手を伸ばしてきた。頬に、こいしの手が触れて、ひんやりと冷たかった。こいしと目を合わせると、それは何かを決心したように、強く、揺るぎなかった。
「お燐、私も、貴女たちが愛しいわ」
頬に触れた手が、ずるりと落ちて、燐の肩を掴んだ。
「でもね、聞いて。誰しもが憎しみを抱いていなくとも、この悲劇は起こったの。ね、お燐、ちゃんと記憶してね」
「こいし、様……?」
ぎゅっと、こいしの肩を掴む力が強まる。
「愛しくて愛しくて。絶対になにものにも侵されてほしくない。例え一瞬の気の迷いでも、狂気にも似た愛情に酔えば、間違いなんて簡単に起こるのよ。今までずっとずっと独りぼっちだったヒトなら、自分以外の想い方を知らないヒトなら、なおさら」
「こいし様、それは……」
「お燐。ごめんね、ごめんね……」
ぞくり、とした。
燐は、ただ彼女に掴まって佇むこいしを、まじまじと見る。
名前を呼ぼうとするも、うまく声が出なかった。この、この感じ。
うつむくこいしの表情を窺おうとして、息を呑んだ。
こいしが顔を上げたのだ。くりくりとした、綺麗な、まるきり感情のこもらない瞳。
無意識に燐を見て、無意識に戸に視線を移したこいしはふらりふらりと意思も感情すらもなく、あてもなくどこかへと歩み去った。
どうして。
どうして、こいし様。
約束したのに。あたいに、判断を仰いだくせに。
これでは、なにもわからないではないか。
葛藤させるだけ葛藤させて、吐き出せるだけ想いを吐き出させて。
燐の全てを伝えたと言うのに、こいしは何も残したりはしなかった。
いや。
残したのは、動機めいた、やはりはっきりとしない、言葉だけ。
これが目的だったのだろうか。
燐は思った。曖昧な言葉で煙に巻き、振り回すだけ振り回して、こいしは、やはり事件の真相を隠し通そうとしただけなのか。
でも、それならば、そもそも心の眼を開けた時、別に誰に報告するでもなくまた閉じれば良いだけだ。単に事を秘密にしておきたいだけだったのならば、今までやってきたことの全てが無駄である。ならば、どう考えよう。
それこそまさしく、葛藤。燐と同じく、こいしもまた葛藤していた、と考えるのはどうだろうか。それならば、彼女の不可解な言動も、説明がつくのではないか。
そう考えるならば、こいしが眼を閉じる直前に残した言葉にも、意味がある。
あれこそ、こいしの葛藤の証ではないか。
真相に繋がる、鍵なのではないか。
よし、と燐は思う。燐は自分ながら、なかなかに頑強な精神を頼もしく思った。
あたい、まだちゃんと考えられる。まだまだ、やれるみたいだね。
燐は決意する。諦めないことを、決意する。
こいしが燐にどんな結末を期待したか知らないが、燐はとにかく諦めないことにした。
あたいは、さとり様も、こいし様も笑っていられる地霊殿が、好きなんだからさ。
お節介も、さびしんぼうも、主譲りだ。燐はそんな自分に苦笑して、
さて、とまず、もうそろそろ起き出したであろうさとりに、挨拶にでも行こうかな、と考えた。
『こいしさま、こいしさまも、さとりさまを横取りするの?』
『お空、貴女はカワイソウな子ね。
だって、そんな素敵な笑顔をするんだもの。
たくさんのお友達を殺しておいて、平気で幸せしていられるんだものね。
……そう。そうよね。わからないのよね。もう忘れちゃったのよ、貴女。
そりゃ、お姉ちゃんも気付かないわよ。殺したそばから、その記憶がぽろぽろ零れていくんだもの。正直、うらやましいわね。その都合の良い頭。
ええ。貴女はさとりと私と、お燐のことは忘れないのよね。……わかってるわよ。
こら。そんな大きな声出すと、みんな起きちゃうから、しー、よ。しー。
…………。
お空、聞いておきなさい。そう。大事な話よ。うん、ちゃんと聞いてたら、褒めたげる。
だから、ちゃんと聞きなさい。いいわね。
お空、貴女の心は、私が覚妖怪の誇りに懸けて、狂ってると断言するわ。
貴女の心はとても綺麗で、澄んでいるの。その奥底が容易に覗けるくらいに、ね。
だから、わかるわ。貴女の心はとても綺麗に歪んでいる。
貴女が表現する愛の形は、とても危険で、醜いわ。ね、お空。思い出してみて。
貴女が最初に、お友達を殺した時、お姉ちゃんは喜んでいた?
憶えてない? ほんとに? ここに来てから、お姉ちゃんがあんなに大泣きしたの、あの日が初めてだったわ。お燐があんな獣みたいな眼をして、怒り猛ってる姿、私見たことなかったわよ。普段通りだったのは、お空だけだったわよね。
……そう。なら、仕方ないわね。無理に頭をひねらなくても良いわよ。
ないものは、ないんだから。
……きっと、死にゆくあの子たちの悲鳴も、貴女の記憶からはいとも簡単に、こそげ落ちていったんでしょうね……。
お空、貴女は本当に私たちが好き? そう、ありがとね。
じゃあ、どうして私たちが嫌がることしたの?
ペットたちが殺されて、私たちの誰か一人が喜んでた?
私もお姉ちゃんもね。貴女一人のものじゃないの。いつも一緒にいたからって、いつも自分のことだけ考えてほしいからって、周り皆を殺しちゃおうだなんて思考、許されないのよ。…………へえ、わかったのね? 聞き分けの良いこと。
だから、最近は殺してないのね。割り当てられた仕事が忙しいとか、周りに強い妖怪が増えたとか、そういう理由でなく、貴女は私たちを想って止めていたのね?
……ね、お空。嘘はいけないわ。その時々のことは忘れちゃうだろうけど、今みたいに一つ一つ例を挙げていけば、貴女の心はヒトよりも素直に反応するんだから。
お空がずっと独りで、寂しかったのは知ってるわ。私たちが大好きなことも、知ってる。怪我してた貴女を地霊殿に連れ込んだのは、私だからね。貴女が初めて人の形になれた時、たくさん褒めてあげたのも私だものね。
私もお空が好きよ。……でもね。だからこそ、このままじゃいけないの。
貴女は、このままいけば、いつか退治されるわ。
だって私には見えるもの。貴女のとてもまっすぐな狂気が、手に取るようにわかる。
憶えてないでしょうけど。あの時だってそう考えて、私は貴女を殺そうとしたのよ。
いつか、さんざんみんなを傷つけて、周り全部から嫌われて。
そんな中で死なせるぐらいなら、今ここで私がって、ね。
あの時、ペットに手をかける貴女を偶然見かけた時に、そう決断したわ。結局、失敗しちゃったけど。
……お空、私はまた、当分貴女を叱れなくなるわ。そうよ、またおやすみするの。本当は、ものすごく悩んだんだけどね。大丈夫かなあって思ったのよ。
ふふ。そうでしょ。そりゃ嬉しそうな顔にもなるわよ。だって、しばらく見ない間に、あの子ったら、とても強い子になってたからね。
……そんな目しても、だめよ。あの子は貴女よりも強いし賢いからね。
お空はきっと、ずっとそのままなんでしょうね。誰かに、生半可じゃなく、懲らしめられでもしなきゃ、貴女は変わんないんでしょうね。
私はあの日からずっとそれが心配だったけど、……もう大丈夫なの。
お空、安心してね。この先、貴女がどれほど知恵をつけても、全てを焼き尽くすような強大な力を手にいれても、きっとあの子がいれば、お燐がいれば、大丈夫よ。
お燐なら、手を尽くして、貴女を止めてくれる。
だから、貴女はそれまで、壊れていて良いわ。貴女の罪は、私が背負うから。
お姉ちゃんにとって、地霊殿は心の休まる場所じゃなきゃいけないからね。ペットたちはみんな良い子でなくてはいけないから。そうでないと、あのヒトはすぐ怖がりが出てしまうもの。だから、私はまた、おやすみなのよ。
……あーあ、お空今の話、聞いてなかったでしょ。
だめよ、だめ。褒めてあげないわ。わかるんだからね。
……だだこねないで、もう行きなさい。
…………。
お燐、大丈夫よね。貴女はちゃんと考えられるもの。ペット殺しの私のことだって想えたし、無意識の私の世話だって出来たものね。
……ああ、でも、まだあの子の気持ち、ちゃんと聞いてないなあ。
あの子ったらぐるぐる考え事してて、気持ちが散漫だったからね。
もう一度、しっかりとお燐と話してみたい、かな。
それぐらいのわがままは、大丈夫、よね……?
ぼろ出さなきゃいけないけど……。
大丈夫、よね。
私たちが愛した地霊殿は、私がきっと守ってみせるわ』
そんなつもりなんてなかったのに、口から勝手に言葉が零れ出た。
お空、ごめんね。
泣きたかったけど、とっても泣きたかったけど、そうすると力を緩めてしまうから、だめだ。
ひゅうひゅうと息が漏れる音が聞こえる。ぎょろぎょろとお空が眼を動かしている。
この子は今、どんな気持ちなのかな。
きりきりと頭が痛かったけど、私はがまんして考えた。
お友達の地獄鴉が潰れて死んだときと、同じ気持ちかな。
苦手にしてた狸が二つに裂けて死んだときと、同じ気持ちかな。
いつも喧嘩してた、大きな白い犬が頭を割って死んだときと、同じ気持ちかな。
お空がうぎぎと唸っている。手が、ぷるぷると震えながら、私の頬に伸びようとしている。
私は鼻がぴくぴくとなった。獣の臭いがきつくて、嫌だった。
でも、いつもみたいに、私はこの子の手を払ったりしなかった。
だって、私の両手はお空の首を掴むので、どっちもふさがっているもの。
屋敷の中は静かで。怖くなっちゃうくらいに、静かで。
お空の汗が手にべたついて、気持ちが悪かった。
だけどそれ以上に、私はこの子の眼が気持ち悪かった。
純な眼。綺麗な眼。愛情に酔った眼。
……いしさま、……まも、……りさま……りす……の?
首が締まってても、お空はずっとおしゃべりだった。
カワイソウな子ね。カワイソウな子なのよね。
でも、私、あなたよりももっと、お姉ちゃんのほうが好きだから。
だから、だから……。
ぎしぎしと首が締まって、ぎちぎちと爪が首に食い込んで。
心の中に、ころりと、黒くて汚くて、泥だんごみたいな記憶が、転がった。
『貴女が気に病むことはありません。
お燐、むしろ貴女は誇るべきですよ。あの恐ろしい事件を喰い止めたのですから。
私の処置が甘かったのです。あの子に疑いは持ちつつも、野放しにしていた。
そのせいで、たくさんのペットたちが、無残に殺されてしまいました。
そして、貴女があの子を疑って監視していなければ、お空も今頃……。
末恐ろしい話です。
あの子の事は私が一番よくわかっている。……馬鹿なことを言ったものですね。聞いてください、お燐。私は馬鹿です。その上、臆病者でした。
あの子を信用しているなどと、聞こえの良い言葉を選んで、その実、私は恐れているだけだったのです。こいしの罪が暴かれることが、ではありませんよ。こいしに嫌われることが、私は心底恐ろしかったのです。……なぜか、と訊きますか。
言いましょう。私は、独りが怖くてたまらないのです。そして、私にとって、こいしに嫌われることは、独りになるも同じだった。……お燐、貴女は、私がこの地に来る前にどんな生活をしていたか、知っていますか。
……そうですか。やはりヒトの口に戸は立てられませんね。いえ、気にしないように。
概ね、貴女の記憶の通りです。全て能力のせい、と言ってしまうのは少し都合が良すぎる気もしますが、とにかく。私は嫌われものでした。
一度、ヒト前に立てば、悲鳴を上げられるか、怒号を浴びせられるか。背を向ければ陰口を叩かれ、面と向かえば口は噤んでも、腹の中ではさらにひどい言葉をぶつけられている。例え耳を塞いでも心に突き刺さる罵詈雑言は絶えず、しかしふと周りを見れば、私はいつも独りきりでした。……まあ、あれは確かに私の素行の問題というより、覚妖怪の性なのかもしれません。私のようなものは、元来、嫌われるものなのでしょう。
思い出語りではないのですから、事実を飾る必要もありませんね。
私は、泣きましたよ。悲しくて悔しくて、毎日のように泣いていました。
こんな能力、捨てられるものなら捨ててしまいたい。
口癖のように、私は恐ろしいことを言っていたものです。
それでも私が私を保てたのは、こいしが居たからです。あの子が私の存在を認め、求めたからこそ。そしてきっと、あの子自身も、私に認められ、求められることで、覚妖怪でいられたのだと思います。やがて蔑まれながらこの地底まで追いやられても、ずっと。
……はい、そうですね。わかっています。それは過去の話。今の私には貴女や、お空がいるし、……今はもう、死んでしまったけど、少し前までは、もっとたくさんのペットたちがいました。
この地霊殿で暮らすようになって、私もこいしも幸せになりました。
……あら、お空。どうしたの? ああそういえば、私たちの最初のペットが、お空なんでしたね。ちょっとやんちゃなところは、治さなきゃですけど、昔から、貴女は素直な良い子でしたね。お空の澄んでいて、美しい心。私は大好きですよ。
お空が私たちに懐いて、あんまり楽しそうにするものだから、他の子たちも釣られてここに顔を出したのでしたよね。……嬉しかったな。
あの子たちがはしゃぐ様子を見ていると、こっちも気持ちがうきうきしましたし、一度その中の一人を落ち込ませてしまった時は、どうしたらいいのかわからなくて、慌てたものでした。それまで、妹以外と、密な交流などしたことがなかったので、戸惑いましたね。
……今思い返しても、こいしも同じくらいに、いえあの子は私以上に、ペットたちを可愛がってたはずなんですけどね。……これは今考えても仕様がありませんか。
とにかく、お燐の言う通りです。地霊殿の暮らしは、貴女たちのおかげで、孤独とは程遠い、とても満ち足りた、暖かいものとなりました。それは、確かなんです。
でもですね。それとこれとは別なんです。ごめんなさい。こいしだけは、私の中で特別でした。私がこいしを想い、こいしが私を想う。これだけは、絶対不変でなければいけませんでした。……それに、理に適った理由などはありません。
きっと、地上の生活が長すぎたのですね。私はこの地に来てもなお、本当は聞こえないはずの声に、身を震わせることがありました。泣きたくなるぐらいの、孤独を感じることがありました。そして、そういう時は決まってこう思うのです。
あの子たちにも嫌われてしまった、と。もう私は独りなんだ、とです。
驚きましたか。そうでしょうね。そうなんです。貴女たちが一途に信頼していた主は、貴女たちを陰で、何度も何度も疑っていたのです。いつ裏切られるものか、冷たい言葉をぶつけられることかと、怯えていたのです。まるで信頼なんかしていなかった。私は酷い、心の小さな主でした。……幻滅、しましたよね。
…………え。そう、考えますか。赦して、くれるんですか。
……それは、びっくりもしますよ。本当に優しい子ね、貴女は。
…………。
私はあの子が必要でした。あの子の眼がないと、いつだって安心なんかできなかった。
こいしと心を通じ合わせることだけが、私の生きる理由、生きて良い証でした。
いつまでもそんな調子ではいけない、とは思っていたんですけどね……。
これを機に、私も変わるべきでしょうね。もっと、強いヒトに。
……ですからお燐、自分を責めないでください。こいしが心の眼を閉じたのは、仕様のないことです。遅かれ早かれ、あの子のやったことは白日の下に晒されていたはずですし、そうなれば、彼女はきっと、どのような場合であろうとも、『眼』を閉じて事件の真相を隠しそうとしたはずです。
全てはどうしようもないこと。事件が起きたその時から、変えようのない運命だったんです。
……はは。私はそんな顔をしていますか。ええ確かに、そうです。
私は今、とっても悔しい。
長い間、覚妖怪やっていて、初めてですよ、こんな悔しさを味わうのは。
心が読めなくて、悔しくなるなんて。
あの子がこんな真似をしてしまった理由、知りたかったな。止められるものなら、私が止めてあげたかったなあ。どうして、どうしてなんだろ。
酷いですよね。酷すぎることですよね。あんな優しい子たちを、みんな、みんな殺してしまうなんて……。絶対、赦せないことですよね。
そうまでして、あの子は何がしたかったんでしょうね。心の眼を閉じて、今まで辛くても必死に守り続けてきた、覚妖怪の自分を捨ててまで、隠しておきたい理由なんですかね。
馬鹿な、子ですよね。私と同じ、大馬鹿ですよね。ほんと、馬鹿よ……。
ごめんね、お燐、お空。私、こいしがわからなかった。
あの子が毎日、すごく楽しそうにしてたから、それだけしか、見えてなかった。
……本当に、ごめんなさい』
「こいし様、こいし様」
地霊殿、古明地こいしの部屋の前、白い戸の前で、火焔猫燐は声をひそめて呼ぶ。
返事には間があった。ぴんと立った耳をぴくぴくと動かして、燐は待つ。
屋敷内は今、ひどく静かだ。何もいない、という意味ではない。誰も彼もがまだ、寝静まっている早朝なのである。燐は、考えてみれば、久しぶりに浸る静けさに、変な新鮮味を覚えていた。そして、そんな自分にちょっと驚く。彼女がまだ、ここに来て間もない頃とは、地霊殿も随分と変わったのものである。かつては当たり前だった、息が詰まるような静寂はどこへやら。獣の一声も聞こえない一時なんて、今では、早々あるものではなかった。
なにせここ地霊殿は、ほとんどの場合、独りが恋しくなるぐらいに、程度のひどい喧騒に包まれているのだ。
それは、言ってしまえば、主の性格によるものだ。優しくて、お節介焼きで、何よりも寂しがり屋な燐の自慢のご主人様のせい……いや、おかげかな。
地霊殿は、正確にはさとりは、何ものも拒まないのだ。目の前に行き場をなくしたモノがあれば、彼女はいつだって手を伸ばすし、嫌われ者たちがひしめくこの地底でも、さらに煙たがられているモノがあれば、声をかけてしまう。また、彼女の能力に惹かれてすりよる動物がいれば、それらも皆、例外なく受け入れた。
そんな彼女の調子だ。力のあるもの、ないもの関わらず、地霊殿の住民は日に日に増えていった。それに伴い、屋敷が元来持っていたらしい静謐な空気は、いずこかへと逃げ去ったようなのだ。昼間は、まだ言葉も知らないような、主に力のない動物たちが騒いでいてたまらないし、夜になったらなったで、やはり状況は変わらない。今度は、ペットの中でも力をつけ始めて、妖怪を気取りだしたものたちが、にわかに元気づいてうるさいのだ。
気付けば、燐がかつて拾われ、新たな住処としたばかりの、あのうらさびしく、理由もなく独りを感じてしまうような、地霊殿はもう、とうに消えて失くなってしまっていたのである。あるのは、その清楚で繊細な外観とはまるで違った、動物たちのにぎやかで楽しい、雨風やヒトの冷たい視線が凌げる、憩いの場であった。
燐はもちろん、それを好ましく思っていた。寂しいよりも、うるさいぐらいのほうが自分の性にあっているし、何より、そっちのほうが、さとりも喜ぶのだ。
燐は、ペットたちのしでかすやんちゃに、時に笑って、時には本気で叱るさとりのことを思う。度を越してにぎわう地霊殿のあり様に、ふと目尻を下げて微笑む彼女の表情を、燐は思い返して、自然と頬を緩めた。
地霊殿が賑やかなのは構わない。というか、むしろそうあってほしいところなのだ。
それは、燐の主であり、恩人であり、友達でもあり、家族でもある古明地さとりが望んだものだ。嫌われ者の覚妖怪がやっと手に入れた、安穏の日々そのものである。
……とはいえ、それは平時の話。燐はわざわざ、皆が寝静まった、この貴重な静寂の一時に自分がある理由を、脳内で反芻した。今は緊急事態なのだ。
いつもなら笑って済ませられても、今この時に限っては、ペットたちに騒がれては困る。なぜなら、そんな真似をされたらさとりが来るのだ。放っておけない性格の彼女である。仕事もある上、最近は彼らの数が増えすぎて、十分に構いきれないことを気に病んでいたのも、燐は気にかかる。ペットたちの、いつものような大騒ぎが始まれば、彼女はすぐにでも起きだして、積極的に監視することはなくとも、注意を傾けるぐらいはするだろう。じゃれあっていて怪我でもしないか、と心配するのだ。それこそが、何としても避けなければならない事態なのである。
彼らを信用しているのか、それとも意外とおおざっぱな性格なのか。彼女のペットたちはみな、放し飼いだ。だものだから、クローゼットに忍びこめるような小さいのから、小部屋の戸を通れない大型まで、様々なモノたちが、地霊殿中に散らばって、好き勝手に過ごしている。さとりはそれらの様子を全て窺おうとするのである。
つまり、彼女が地霊殿の中をぐるりと巡回することになるのだ。彼女の心の眼が、地霊殿中を見回すのである。
それは、大きな地霊殿の中でも隅の隅、ともすれば忘れてしまいそうな、普段ならば誰ひとり近寄らないこの小部屋の前にも、さとりが足を運ぶということだ。
それはまずい。いかにもまずいことだと、燐は想像しただけで変な汗をかいた。
さとりにしてみればただの日課かもしれないが、こっちにとっては大事だ。
是が非でも、彼女に今、ここか、またはそのすぐ近くにでも来られるわけにはいかないのだ。
なぜなら、絶対に、その心中を覗かせてはいけないモノが、今日この場にはいるのである。
古明地こいし。彼女の妹だ。
心の眼を閉じて、ヒトの心を覗くことを拒み、ヒトに意識されることもなくなった、無意識の世界に解放された、または、囚われた哀れな弱い妖怪。
と、一般には言われている妖怪の少女である。
いっそ、その通りだったらこんな面倒にはならないんだけどねえ。
燐は思わずといった風に零して、そのあまりに薄情な本音に苦笑してから、もしやこの『声』も聞こえてやしないか、と遅れて表情を強張らせた。
ほんと、面倒だねえ。改めて、思う。この件に関してだけは、燐は自分の好奇心や積極性を悔いていた。足りない頭を働かせて、分不相応な真似をしたものだから、こんな損な役回りを押し付けられることとなったのだろう。世の中には、知らないほうが良いことなど山ほどあるというに。自分はその境界を見誤ったらしい。
余計な事実を掴んで気分を悪くするのは、自分だけで済まされないことぐらい、わかっていたはずなのだが。燐は己の胸に手を触れた。
でもやっぱ、お空や、さとり様や、死んでいった他のペットたちのこと考えちゃうと、知らんぷりはできっこなかったんだよねえ。
さて、と燐は気を取り直して考える。こいしをどうすべきかだ。
古明地こいし。あの最悪のペット殺しを。
何を理由に、ここに引きこもっているか知らないが、これまでである。
数年前、ここ地霊殿の多くのペットたちを虐殺したあげく、自ら心を閉ざして事の真相をひた隠しにしていたこいし。しかしその小細工もいとも簡単に無駄となった今だ。
事件を風化させるには少し足らない時間を経て、『古明地こいし』を取り戻したこいしは、何を思うのか。さとりを悲しませ、空を苦しませ、多くのペットたちを殺した彼女は、何をすべきか。そしてそんな彼女を前にした燐は、どうすべきか。
燐は考えて、考えて。でも頭が痛くなるばかりで、結局、結論はでなかった。
しかし、わからないからといって、放りだせる問題でもないから、困りものだ。
暴くか、隠すか。選択は二つだというのに。
どうすりゃいいのさ、ほんと。
あたいはどうしたいんだよ……。
こいしの部屋の、白い戸はまだ反応がない。まさか寝ているのだろうか。
それとも、また、『眼』を閉じてしまったのだろうか。
……まさか、もうここにはいない、なんてことはないだろう。たぶん。
燐は、ぴんと張り詰めた、朝の静かな空気に、ふとため息をついていた。
だめだな、と燐は思う。やはりこう、だんまりは性に合わない。がやがやとやかましい地霊殿の暮らしに慣れていた彼女は、この忘れて久しい静けさに、新鮮味を抱いていたのも束の間、すぐさまに通り越して、むずかゆく感じるだけになってしまった。
昔の自分は、よくもまあ平気でいられたものだ。燐は過去の自分自身に感心してしまう。
うーん。なにか、気の紛れるようなものはないだろうか。
空一人がいればこんなお行儀の良い雰囲気、あっさりと台無しにしてしまうのだけど。
燐は戯けた想像をして、仄かに心の内が温まるのを感じて、確かに気は紛れた。
「お燐」
声に、戸に視線を戻せば、それはわずかながら開いていた。間から、怖いぐらいにまっすぐな目が燐を覗いている。こいしの目であった。
また痩せたんじゃないかな。燐は彼女の前よりもこけた気がする頬を見て思う。薄い唇をひん曲げて、彼女は笑みを作っていた。彼女の少し癖のある白髪は、またさとりに報告して、切らせた方がいいだろう。随分と伸びていた。どこから誰から奪ってきたものか、頭には見知らぬ帽子が乗っている。
ゆっくりと、戸がさらに開いて、彼女の華奢な身体が目に映った。
「お燐、勝手に離れちゃってごめんね。ちょっと用があって」
弾むような無邪気な声音で、それでもこいしは言葉に小さな棘を忍ばせる。
「ただでさえ、とても悩んでるみたいなのに。心配事増やしちゃったわね」
特別な意図を含んだらしい、こいしの言葉選びに、燐は目を瞬かせた。
あらら。どこから聞こえちゃってたんですかね……。
「ふふ。またそんなこと。聞かせようとして聞かせたくせに、どこまでも意地の悪いヤツ」
上機嫌そうなこいしの発言に、燐はぎょっとした。
ええ!? あたいはそんなこと考えてない、です、よ……ね?
「うん。じょーだんよ、じょーだん。ちょっとからかっただけ」
ぱちりと、こいしは片目を閉じてから、悪戯っぽく笑った。
「久しぶりに貴女を『意識した』ものだから、嬉しくて浮かれちゃったのかしらね」
こいしの言い様に、燐は不満を覚えつつも、反発しきれなくて微妙な面持ちになる。
でも、そういう冗談笑えないですよ、こいし様。
結局、中途半端な文句しか、燐の頭には浮かばなかった。口を尖らせて、眉をひそめて不平を示しても、このはっきりとしない心情が彼女には伝わっているのだから、意味もない。そんな状況でもないのに、内心では、やはり久しぶりに言葉を交わす主に、面と向かうと尻尾を振っている自分が、情けない。
「ふふ。そうよね、ごめんね」
ころころと鈴が鳴るような声音。こいしが廊下に進み出て、燐の頭に手を伸ばしてくる。あたいの頭を撫でる気かな。
そう思ったすぐのことだ。あ、と気付いた時にはもう、燐は反射的にその手を避けてしまっていた。避けてしまってから、慌てた。なんとなく言い訳めいた思いが胸に抱かれて、燐はこいしを見るも、彼女は燐を見ていない。こいしは自分と燐との間に開いた、約一歩分の距離に視線を落としていて、やがて何も言わずに手を下ろした。その表情は伏せられていて、わからない。
「やっぱり、迷惑だったかしらね」
こいしが呟くも、燐は何の話か咄嗟にわからず、答えあぐねた。
「私が無意識の内にまた、心の眼を開けてしまったことよ」
顔を上げたこいしの表情が本当に寂しそうで、あまりにもさとりとそっくりで。
燐は思わず、目を背けた。だが、そんなのは甘えや怯えだ。一つ息を吐いてから、また彼女と目を合わせた。しかとこいしの、澄んだ瞳を見据える。
「そんなことないですよ」
なんでもないことのように言って、燐は肩をすくめた。
「というよりですね。『眼』開けといてもらわないと、いつまでも片付かない話があるんでね。むしろそうでないと困るんですよ」
随分と突き放した物言いだ。自分で、燐は思った。だがこれぐらいで良いはずだ。
ただでさえ、怖気づいた燐の迷いや、こいしのわがままで、随分と結論が先延ばしになってしまっていた。今さら、うだうだと尻込みをしている場合ではない。
そう。そうよね。
こいしの消え入りそうな声は、今のこの、深い静寂の中でなければ、聞き逃しそうなぐらいに、弱く小さかった。
「貴女のひどい頭痛の種。早く取り除かなくちゃよね」
こいしの寂しげな顔のままに、無理におどけたような声音が耳に残った。
「部屋、入れてください。意味あるかどうかわかりませんけど、なるべくヒトの目は警戒した方がいいでしょ」
燐は周囲の様子を窺って、こいしに提案する。こいしが燐の反応に、何か不都合があるのか、眉をひそめた。
しかし、反対する理由も見当たらなかったのだろう。ためらいがちながらも、一度、頷いた。燐はこいしの後に従って、入室する際、再び、廊下の安全を右、左と確認した。
本当はこんなところで話をつけたくなかったが。
元はと言えば自分の判断ミスだった。これ以上、失態を重ねるわけにもいかない。
ここらで自分にもこいしにも、決着をつけておかないといけないのだ。
『ね、お燐。ちょっと、いい?』
昨日の夜のことだった。一人歩いていた廊下。いきなり肩を叩かれて、燐が振り返った時だ。
古明地こいしの姿を認めたこと自体に、燐に大した驚きはなかった。彼女は夜中だろうが早朝だろうが、平気でどこでもうろついている。誰も意識せず、誰にも意識されず、消えては現れ、そこにいたはずがいつの間にかいない。それが彼女だ。それが彼女の能力である。問題なのは、その様子だ。昨夜のこいしは、明らかに平素と違った。長年、『眼』を閉じたこいしを見てきた燐にはわかったのだ。まず昨夜の彼女には、危うさがなかった。およそ理性とは程遠い、ぎらぎらと不気味な瞳の光がなかった。そして、声。不自然に甘ったるくて、聞いていると言い寄れない不安感が込み上げてくる、あの独特の声がなかった。何より、表情だ。
その時のこいしには、見ていてやるせなくなるような、突き抜けて楽しそうな表情がなかったのだ。造形だけ見ていれば、底なしに楽しそうなのに、そのくせ虚ろに思えてならない、無意識の笑顔がなかった。
だからだろう。こいしが、自分はまた『眼』を開けてしまったらしい、と話をしだしても、燐はあっさりと受け入れることが出来たのだ。むしろ、ああなるほどな、と腑抜けた顔で自分が納得したのを、燐は憶えている。安心したのを憶えている。
後に訊けば、詳しい経緯は、こいし自身もわからないのだという。ついさっきに、はたと気づいてみれば、いつの間にか心の眼が開いていた。彼女からの説明はそれだけだった。
なにより彼女自身が戸惑っていて、錯乱していたことも理由かもしれない。
だがそれにしたって、あまりにおざなりな記憶だった。燐は不満を抱きかけたが、しかし、加えて考えてみれば、その以前のこいしは無意識に囚われ、生きる幽鬼だったということもある。事の些細な前兆など捉えられないのも無理はないと、燐は諦めることにした。
それからだ。まともに時間があれば、もっと違う対処の仕方を燐もしただろう。だが、いかんせん状況が状況であった。くどくどと問答をするには、この場は向かなかったのだ。
その時の彼女たち二人の念頭には、共通の危惧があったのである。
ペットたちが騒いで、問題を起こす夜中は、何時さとりと鉢合わせても不思議はない。
流れる月日が燐の何を変えたか。不思議と、こいしをさとりに会わせようとはしなかった。
それはならない、と二人ともが心底、その事態を恐れたのだ。その理由は何か。
燐は、単純に怖気づいただけであった。遠い日のあの惨事。徐々に暖かな喧騒が地霊殿を満たし始めていた一時、気味の悪い静寂を屋敷に呼び戻したかの事件。
ペット殺し。
地底の外れに建つ地霊殿、その中で理不尽な孤独に生きるさとりに、ようやく出来た大事な家族。何の罪もない彼らが、意味もなく無差別に殺された事件。
それを、どのような理由であれ、実の妹がやったことだと、彼女に確信させてしまうことが、燐は怖かったのだ。さとりはヒトの心が読める。当然、燐がこいしに疑いを持っていることは知れていただろうし、そもそも、さとり自身も、こいしの犯行だと信じて疑っていないかった。彼女の口から直に聞いたのだから、それは間違いのないことだ。
だが、だからといって、こいしの心を直に見て、真実を知って、彼女が平気でいられるとは燐には思えなかったのだ。例え微々たる差であっても、冤罪の余地があるのとないのでは、やはり大きく違うように、燐は思ったのである。
最近、やっとのことで立ち直りかけているさとり様を、悲しませたくない。情けない思いが、燐の判断を鈍らせた。
世の中には知らなくても良いことなんて山ほどあって、その一つが、こいしの心の内にもある。そんな世迷言が、その時の燐には頭をかすめたのだ。
一方、こいしのほうは、これまた単純な理由であった。例え微々たる差であっても、冤罪の余地があるのとないのでは、大きな違いがある。それは燐の主張と同じであった。しかし、それをふまえて、想いやる相手が違ったのである。
こいしは、こいしのために。自分自身の身を、心を守るために、罪を暴かれたくないと燐に説明したのだ。まあ、心を閉ざしてまで隠そうとした罪である。
当然と言えば、当然であった。今さら失望も何もない。そして。
二人は想うヒトを違えながらも、とりあえずその時に限り、結託することにしたのだ。
二人の行動は迅速であった。まず燐は、こいしにまた、心の眼を閉じて逃げることを、禁じた。自分がどうすべきか。その時の燐にはまだわかっていなかったが、しかし、とりあえず、こいしが一人だけ、何もかもを放りだして、またどこへなんなりと逃げ去ることは、我慢ならなかったのだ。口約束に何の拘束性もあったものではないが、素直に受け入れる彼女の表情を見たところ、あながち無駄でもなかったように思えた。それから、燐はこくこくと頷くこいしの手を引っ張って、すぐさま地霊殿を出た。
こいしはもちろん、こいしが心の眼を開けたことを知る燐も、さとりに見つかってはならないだろうからだ。ああちくしょう、今日は野宿だよ。燐は独りごちたものだ。
とはいえ、二人も変なところで運が良かった。
燐だけなら、どこでも黒猫に戻って、あとはうずくまってしまえばすぐにでも眠れる。野宿など馴れたものだったのだ。ガラの悪い妖怪どもの出入りにさえ気にしていれば、どこだって上等な寝床となる。もともと品の良い生活を送っていたわけではなかった燐は、そんなもの苦でも何でもなかった。しかし、こいしは違う。
まず目立たない姿に変化することができないし、第一、地霊殿の大きなベッドしか経験していない彼女に、屋敷の外の土と岩の寝室が耐えうるものかどうか。身体を壊したりはしないだろうが、不満を訴えて、地霊殿に戻りたい、などと言った日には面倒である。
結局、適当な場所が見当たらず、二人は旧地獄街にまで足を延ばすことになってしまった。
そんな時に、知り合いに遭ったのだ。正確に言えば、さとりの知り合いである。
鬼だ。旧都に住む鬼の中でも、別格。山の四天王と謳われた者たちの一人、星熊勇儀であった。
燐はこれはしめたと思ったものだ。義理堅い彼女が、友人の妹を邪険にするとも思えなかった。厚かましさなぞ知ったことではない。一文無しの二人の、せめてこいしだけでも寝床を確保するためだ。体よく現れた彼女を利用させてもらおう。燐はすぐさま決断したのだ。
さてどう説明したものかと考えて、その辺りで鬼は嘘が嫌いだということを思い出して、下手な小細工は逆効果かと燐が悩んでいたところだ。こいしがひょいと前に出て、ぺらぺらとあるがままの真実を吐露してしまった。なんと大胆なことを、と燐は肝を冷やしたものだ。さとりの友人である。彼女には話して安全、というわけではなかろうに。しかし、黙ってこいしの言葉に耳を傾けていた勇儀は、最後に何か、こいしが耳打ちすると、いきなり快活に笑った。そして、こいしの頭をがしがしと撫でると、連いてくるようにと、あっさりとのたもうたのだ。
後の事だ。勇儀に何を言ったのか。燐は彼女の大きな背中の後ろを連いていきながら、こいしに訊いてみた。返答は、片目を閉じて、ぴんと指を一本立て、唇にあてただけ。
ヒミツという訳だ。
いいさ。話したくないってんなら、あたいは気にしたりなんかしないよ。どうだっていいね。
燐はふんと鼻を鳴らして強がったものだった。
意外、かな。目的地に着くまで勇儀はしゃべりっぱなしだった。
それは、いかにしてさとりと自分が友となったか、という話から始まり、さとりがいかに寂しんぼうであるか、という話に繋がり、やがて、彼女が今という時をどれほど大切に愛しく思っているか、という話になっていった。
燐は感心したような、呆れたような、微妙な気分になったものだ。なにせ、勇儀はなんだって笑って話す。彼女にかかれば、さとりの重苦しい鬱々した過去も、上等な笑い話なのだ。しんみりどんよりと語られるよりはずっと良いけれど、これもどうなのかな、と燐は思っていた。
それに、退屈だった。だって、彼女の話は、全て聞いた内容だったのだ。
燐、というより、地霊殿に住まうモノならば、誰だって知っていることだ。
覚妖怪のさとりの孤独がいかに長く、理不尽なもので、耐えがたいものであったかなど。
そんな彼女にできた心の風穴を埋めたのが、他でもないペットたちであることなど。
彼女がいつも、自分が辛いのを忘れるほどに、こいしのことを心配していたことなど。
だから、燐は思うのだ。こいしが許せない、と。
彼女の行為にどんな理由があったかなど、燐は知らない。でも、こいしは確かに壊したのだ。
さとりがやっとのことで手に入れた、ささやかな平穏を。
深い深い孤独に苛まれ、それでも同じ境遇の妹の事を想って止まなかったさとりが、徐々に、だが確かに築き上げていった、地底の楽園。誰も彼もに嫌われ疎まれ、地獄へと追い立てられた覚妖怪二人と、少しずつ増えゆくペットたちが作った安穏の地。ゆっくりとでも完成に近づきつつあったそれを台無しに、こいしはしたのだ。
あの日。燐は、ついに空さえ手にかけようとしたこいしを、すんでのところで発見し、思いきり蹴飛ばしてやったものだった。自分が今まで見てきた、仲間たちの悲惨な死に様が脳裏によぎって、腸が煮えくりかえり、あの時あの場だけは、燐は一歩間違えば、どんな間違いを犯すかわからなかった。それでも、結果的に、物を言わずただ横たわるこいしに、何もしなかったのは、空のただならぬ様子が理由となるだろう。
よほどショックだったのか、床にへたり込み、顔を俯けて、ぶつぶつと言葉を漏らす空は、燐にはひどく打ちのめされているように思えた。
その姿を見て燐は、自分の目的を思い出し、空の肩を抱くと、そのままじっと、倒れるこいしを睨んでさとりを待つことにしたのだ。
今思えば、その決断が、事をこじらせてしまったのだけれど。
そうだ。燐は思う。自分の責任だ。こいしを罪から逃したのは、そもそもが自分の失敗であった。
ならば、それを挽回することも、こいしをまた罪と直面させることも、自分の責任か。
こいしの心を見れば、さとりはさぞかし傷つくだろう。知りたい、と言っていたのは、憶えている。きっとそれは本音なのだろう。さとりはこいしの気持ちを捉えたいのだ。
そして、その結果を、自分のせいだと決めつけて嘆く気なのではないか。
そんな危惧が、燐にはあるのだ。
それは、嫌だ。燐はこれ以上、さとりに苦しんでほしくないのだ。
だが、燐はこうも思う。実の妹の心が映し出す真実に、今度こそ、立ち直れないような傷を心に負うかもしれない。でも、それだからといってうやむやにして良い理由はないのではないか。こいしが罪を犯したのなら、それを彼女は受け止めるべきだし、周りもまた、そうでなければならないのではないか。
今や多すぎるぐらいのペットたちで溢れ、にぎやかで楽しげな地霊殿。だというのに、時折、ふと感じる不穏の気配に燐の鼻がひくつくのは、やはりその下に、沈殿した、今だ明かされない罪があるからではないか。
どうする、どうする。
ちらと傍らのこいしが、燐を一瞥した。
駄目だ。あたいは、駄目だ。
答えは、まだでなかった。
すると、勇儀が大きな声を上げて、目的地への到着を伝えてきた。
勇儀に連れて行かれたのは、着いてみれば大きな屋敷であった。
それも、相当に悪趣味な屋敷であった。ところどころに置かれた、不気味な鬼の彫像。堂々と至るところに刻まれた『鬼』の文字。中に入れば、廊下には憤怒に顔を歪めた、赤ら顔の鬼の仮面がずらりと並び掲げられ、屏風にまで筋骨隆々とした半裸の鬼が描かれていた。
聞けば、屋敷自体、昔に彼女が仲間たちと悪ふざけで建てたものだそうで、大体のところが酒に酔った勢いで作られている上、鬼たちが面白がって無駄な装飾を増やしているが、一晩の寝床には贅沢なぐらいだと笑っていた。
実際その通りなので、燐は文句は言わなかった。言わなかったが、あたいは野宿でいいかねえ、と考えないでもなかった。
問題が起きたのは、その翌日、早朝であった。
こいしがいなくなったのだ。燐はもちろん慌てて、自分の迂闊さに腹が立って、こいしの再三の裏切りに、より腹を立てた。燐はこいしを追おうとするも、屋敷を出る際、また勇儀に出くわした。
どうやら燐を待っていたらしく、こいしから伝言を預かっていると彼女は言った。
聞けば、ちょっと地霊殿に行ってくる、とのこと。
燐は、自分がさっと青ざめるのがわかった。
この皆が寝静まる早朝に、一人で地霊殿に行って、何をする気か。
すぐさま後を追おうとして、燐は勇儀に腕を掴まれた。
アイツもう何もしないよ。何もできやしない。
勇儀の言葉に、何の保証があるのか、燐にはわからなかった。だが、彼女の目がいやに真剣で、自信に満ちているものだから、一蹴する気にもなれず、戸惑ってしまった。
腕を掴まれたまま、硬直する燐を見て、勇儀がため息を吐く。
もう行くよう、顎で示して、後は何も言わずに、彼女は背を向けてしまった。
やがて一人残された燐は、勇儀の意図を掴めずにいながらも、こうしている場合ではないことを思い出し、また駈け出した。
やがて、地霊殿に着いた辺りで、気付く。
この広い屋敷だ。どこにこいしがいるのか、燐にはわからなかったのだ。
しらみつぶしに思い当たるか所を巡っていくか。あまり賢い選択とは思えない。
捜しているのはあのこいしだ。かつて、彼女は皆の信頼を裏切って、たくさんのペットたちを殺し、その上、そのことをおくびにも出さず、さとりにも感づかれることなく、隠し通してみせたのだ。あの演技力が、今回は発揮されていないとはいえない。
いくら楽観的に考えようとしても、頭に浮かぶのはあの事件の時に見た、悲惨な光景だった。
あたいって奴はほんっと……何やってんだかね!
燐はこいしを憎み切れなかった自分を、恥じた。
ろくな奴じゃないとわかっていながら、その『眼』が開いた時、ほんのすこしでも、喜んでしまった自分が、たまらなく情けなかった。
彼女を無条件に信用してしまっていた、自分が腹立たしかった。
燐の主はさとりだ。でも、燐にとっては、こいしとてそれに変わりはなかったのだ。かつてこの地底が本当に地獄だった時から、生き続けてきた燐は、長い年月をかけて、力を身につけると同時に、徐々に仲間を減らしていった。厳しい環境下で、一心不乱に生き抜くうちに、やがて気付けば、昔に笑い合っていた顔見知りはどこにもおらず、いつの間にか己の手にあるのは、なけなしの妖としての力と、ごくありふれた孤独感だけだった。そんな燐を拾ったのは、こいしなのだ。
あの日、あの時に手を差し伸べてくれた、こいしの優しさが、燐には忘れられなかったのだ。
だが、そんなつまらない思い出のために、判断を鈍らせるようではいけなかった。
やってはならない失態を、燐はやってしまったのだ。
……やはり、さとりに報告して、皆に注意するよう連絡するしかないか。
燐がそう思った時だ。背後から、足音が聞こえた。
瞬時に振り向くと、燐は思わず、なんだと落胆してしまった。目の前にいたのは、空だったのだ。だが、すぐにその緩んだ思考も、引き締まることとなる。
お燐! こいし様に会ったよ!
燐は目を見張ったのものだ。すぐさま彼女に駆け寄ると、身体中をべたべたと触って、怪我はないか、何かひどいことを言われなかったか、急いで確認した。
結果はというと、燐の杞憂であったらしい。なんでも、楽しくお話しした、のだそうだ。こっちの気も知らずに。能天気な言い草だった。空はあの惨事をもうほとんど憶えていない。自分さえ殺されそうになったというのに、まるで頓着していないのだ。燐はそんな彼女に、うらやましいのが半分、呆れ半分だった。
とはいえ、僥倖だ。空はこいしの居場所を知っていた。なんのことはない。
彼女の私室にいるらしい。燐は空に、あまり騒がないこと、こいしのことは他の誰にも言わないことを命じておいてから、彼女の元に向かったのだった。
こいしと共に部屋に入ると、そこには意外な光景が広がっていた。
え、と声を漏らしてしまったほどだ。
彼女の部屋を覗いたのは、一度ぐらいのもので、それも昔の話ではあるが、しかし。
燐は目を見張る。だって、仕方がない。視界の端で、気まずそうにこいしが頭を掻いた。
何もなかったのだ。飾られていた置物はもちろん、テーブルやクローゼット、ベットもない。本当に、部屋というか、ただの空いたスペースだった。
燐は疑問に思わざるを得ない。知っているのだ。さとりは何も、こいしにこんな状態の部屋を与えたわけではなかった。もともと、生活に必要な最低限の家具は揃えてあったし、洒落た花瓶に綺麗な花が活けてあったりした。そうだ、写真。どこかは知らないけど、ここに住んでいる以上は一生お目にかかれないような、幻想のごとき風景が切り取られた写真が、何枚か飾られていたのも、燐は憶えている。ひそかにうらやましく思っていたのだ。可愛らしいぬいぐるみも転がっていたかな。とにかく彼女の記憶の限りでは、この部屋も昔は普通であった。
こんな、一切の生活感を排した、空っぽで不気味なものではなかったはずだ。
燐はこいしが、地霊殿の主である姉に、この部屋を与えられた、というか、この部屋に移された時、一緒にいたのだ。それどころかこいしの手を取って、彼女をここまで連れてきたのは燐である。心の眼を閉じて無意識のままに、ただ、ただ、生きる。そんな悲惨なあり様になったこいしを見つめるさとりが、耐えがたいほどに痛ましくて、燐自らが彼女の身の回りの世話を買って出ていたのだ。
後に彼女は燐の世話がいらなくなるほどには、自立するようになったのだが、その時は何かの反動なのか、されるがままで傀儡人形も同じであった。手を引かないといつまでもぼんやりとその場に佇むだけであったし、一人では食事もとれなかった。
あの頃の重たい静寂。憶えている。
気を抜けば、いつでも泣き出しそうなさとり。状況が呑みこめていないのか、ぼんやりとするばかりの空。心に鍵をかけて、なにもかもを胸に仕舞い込んでしまったこいし。己の中でうずまく疑念に、顔をしかめる燐。
大切で暖かな日常に残った爪痕はあまりに大きく。
一度は掴みかけていた安穏の日々が、ひどく遠のいたように感じられたものだ。
こいしはその頃になるともう、大した危険人物であった。
さとりすら、彼女を信用せず、彼女が一人で行動することを良しとしなかったのだ。ふらふらとうろつくこいしに、必ず、ある程度の知と力を身につけたモノたちを数人、つけておくことにしていた。
燐もその中の一人で、一番、こいしの世話に熱心なモノでもあった。
というか、他はどいつもこいつもが、注意力に欠けていたり、ずぼらだったり、乱暴だったり、臆病だったり。自分自身以外に、使えそうな奴が少なかったのだ。
やがて、さとりにも燐の意思が伝わったのだろう。それとも、他のモノが何か不平じみたことでも思ったのか。とにかく、こいしの素行が予想よりもはるかに安全なものだったこともあり、燐が一人でこいしの面倒を見ることになった。
後に、今のこいしの部屋の位置では不安だという声が上がり、もっとヒトの出入りの少ない場所にした方が良いのではないかという話になった。一応、今までこいしの世話をしてきた燐だ。目立った問題も起こしていないというに、その処置はないのではないかと反論したのだが、さとりにたしなめられては仕方がなかった。そして。
燐はさとりの指示でこいしを新しい部屋まで連れ行き、その時に彼女の部屋を見たのだ。
あの日に見たこいしの部屋の、他よりも格段に恵まれた内装が、燐にはさとりのせめてもの配慮のように思えて、印象深くあったのである。
だからこそ、不思議よりも、納得がいかないように、燐は感じていた。
どうしてこんな真似を?
「えーと……。ま、趣味じゃなかったのよ。家具とか。うん。だから、みんな欲しがってたペットたちにあげちゃった」
貴女が、ペットのために?
そんな下手な嘘つかれても困るんですが。
自然と恨めしげになっている燐の表情に、こいしは顎に手を当てて、今思いつたとばかりに、目を大きく開いてから、言った。
「ほら、無意識下の行動だから。今の私に訊かれてもわかんないのよ」
なるほど、彼女の能力は随分と都合よく利用できるものだ。言い訳に最適である。でも、あたいとしちゃ、そのことでいつも心を痛めてるヒトがいること、ちゃんとわかってて欲しいんですけどね。
「……わかってるわよ。それぐらい。あとね、お燐」
こいしは燐を見やる。
「ちゃんと、声に出して、会話をしなさい。相手が覚だからって、横着しないで」
あ、と燐は思った。自分の唇に手を触れて、それからこいしを見る。
そして、思った。やっぱりこいし様はこいし様なんだなあ、なんて。
覚の能力を軽々しく扱われることに怒る彼女は、己の心もヒトの心も恐れているように思えず、まだ覚妖怪としての矜持を失っていない気がしたのだ。
「それじゃ、お燐。いい加減、終わりにしたいんでしょ?さっさと済ませましょうか」
事件の事を指しているのだろう。平気な顔をして、こいしの小さな手が、きゅっと拳を作るのを、燐は認めた。
こいしが心の眼を開けた時から、うじうじと文句をつけて先延ばしにしていたが、やはりそれは甘えだ。こいしの後押しによって、決心がついた。例え無理くりにでも、ここで。
「貴女は、私をどうしたいの?」
こいしは問う。
それは、燐自身、何度も自問してきた問いかけであった。
暴くか、隠すか。
出ていない答えを取り繕うには、相手が悪すぎる。格好をつけて、後悔したくもない。わからないのなら、わからないと言えば良い。
自分がいて、相手がいて。どちらにもヒトの心があるのなら、言葉を交わせば答えはでるはずなのだ。そうすれば、例え必死に絞り出してでも、答えが出るはずなのだ。
「あたい、わかんないんですよね」
「決められないってこと?」
「それもですけど、まるで見当がつかなくて」
貴女がペット殺しをした理由が。
「さとり様も言ってましたよ。あんなに楽しそうにしてたのにって」
「そうね、とっても楽しかったわね。ここでの暮らしは」
だったらなんで、と思わず訊きかけて燐は口を噤んだ。
こいしが意味ありげに小首を傾げて、含みのある笑みを浮かべた。
その問いをすることは、一つの決断となってしまうのだ。もしこいしの罪を明かさないのであれば、その真相は燐の記憶にすら居場所がない。さとりがいる以上、隠すのであれば、この地霊殿の誰にも、真実を知り得るものは居てはならない。
こいし自身を、除いては。
それは、こいしをまた、無意識の世界に逃すこと、追い立てることを意味している。
燐が口走りかけた言葉は、その可能性を潰すものだ。
「あたいは、さとり様も、こいし様も大好きだったんです」
部屋の中には何もなく、物音ひとつせず。『眼』を閉じていたこいしと同じぐらいに、空っぽで、寂しくなった。
「あたいは、こんなあたいを拾ってくれた二人が好きでしたし、同じ境遇の、ペットたちのことも好きでした。この地霊殿が、好きだったんです」
「嬉しいこと、言うのね」
「あたいだけじゃなかったんですよ。お空はもちろん、みんな、みんな! みんな、馬鹿な奴らでしたけど、そのせいで、たくさん、迷惑もかけましたけど。でも、あいつらみんな、お二人が大好きだったんですよ!」
堪え切れなくなって、燐は吠えた。かっと眼のまわりが熱くなって、声が震えて、気持ちをしっかりと持っていないと、崩れ落ちそうになった。
「こいし様も、喜んでたじゃないですか……。賑やかで楽しいって笑ってくれてたじゃないですか。あたいは、それがほんとの気持ちだって信じて。まだ人型に慣れてもないってのに、生意気にお仕事とか、馬鹿どもの世話とか手伝って! あれも全部嘘なんですか? ヒトの心の裏表や、悪意に傷ついてきた貴女が、嘘であたいたちの心を弄んだんですか?」
こいしは表情を曇らせて、唇を噛んだ。
「あたいは、こいし様が赦せません。貴女の心がわかりません。こんな、全部うやむやのまんまじゃ、駄目なんです。でも、全部を貴女に告白させればそれで良いとも、思えなくて……。それで今のみんなが幸せになれるなんて思えないんです。それに、それに。あたいは、こいし様にもう眼を閉じてほしくなんかない……。わからないんです。どれだけ考えても、あたいにはどうしたらいいか、わかんないんですよ……」
こいしが、ゆっくりと近づいてくる、ゆっくりと、ゆっくりと。
燐の目の前に立つと、やがて、おずおずと手を伸ばしてきた。頬に、こいしの手が触れて、ひんやりと冷たかった。こいしと目を合わせると、それは何かを決心したように、強く、揺るぎなかった。
「お燐、私も、貴女たちが愛しいわ」
頬に触れた手が、ずるりと落ちて、燐の肩を掴んだ。
「でもね、聞いて。誰しもが憎しみを抱いていなくとも、この悲劇は起こったの。ね、お燐、ちゃんと記憶してね」
「こいし、様……?」
ぎゅっと、こいしの肩を掴む力が強まる。
「愛しくて愛しくて。絶対になにものにも侵されてほしくない。例え一瞬の気の迷いでも、狂気にも似た愛情に酔えば、間違いなんて簡単に起こるのよ。今までずっとずっと独りぼっちだったヒトなら、自分以外の想い方を知らないヒトなら、なおさら」
「こいし様、それは……」
「お燐。ごめんね、ごめんね……」
ぞくり、とした。
燐は、ただ彼女に掴まって佇むこいしを、まじまじと見る。
名前を呼ぼうとするも、うまく声が出なかった。この、この感じ。
うつむくこいしの表情を窺おうとして、息を呑んだ。
こいしが顔を上げたのだ。くりくりとした、綺麗な、まるきり感情のこもらない瞳。
無意識に燐を見て、無意識に戸に視線を移したこいしはふらりふらりと意思も感情すらもなく、あてもなくどこかへと歩み去った。
どうして。
どうして、こいし様。
約束したのに。あたいに、判断を仰いだくせに。
これでは、なにもわからないではないか。
葛藤させるだけ葛藤させて、吐き出せるだけ想いを吐き出させて。
燐の全てを伝えたと言うのに、こいしは何も残したりはしなかった。
いや。
残したのは、動機めいた、やはりはっきりとしない、言葉だけ。
これが目的だったのだろうか。
燐は思った。曖昧な言葉で煙に巻き、振り回すだけ振り回して、こいしは、やはり事件の真相を隠し通そうとしただけなのか。
でも、それならば、そもそも心の眼を開けた時、別に誰に報告するでもなくまた閉じれば良いだけだ。単に事を秘密にしておきたいだけだったのならば、今までやってきたことの全てが無駄である。ならば、どう考えよう。
それこそまさしく、葛藤。燐と同じく、こいしもまた葛藤していた、と考えるのはどうだろうか。それならば、彼女の不可解な言動も、説明がつくのではないか。
そう考えるならば、こいしが眼を閉じる直前に残した言葉にも、意味がある。
あれこそ、こいしの葛藤の証ではないか。
真相に繋がる、鍵なのではないか。
よし、と燐は思う。燐は自分ながら、なかなかに頑強な精神を頼もしく思った。
あたい、まだちゃんと考えられる。まだまだ、やれるみたいだね。
燐は決意する。諦めないことを、決意する。
こいしが燐にどんな結末を期待したか知らないが、燐はとにかく諦めないことにした。
あたいは、さとり様も、こいし様も笑っていられる地霊殿が、好きなんだからさ。
お節介も、さびしんぼうも、主譲りだ。燐はそんな自分に苦笑して、
さて、とまず、もうそろそろ起き出したであろうさとりに、挨拶にでも行こうかな、と考えた。
『こいしさま、こいしさまも、さとりさまを横取りするの?』
『お空、貴女はカワイソウな子ね。
だって、そんな素敵な笑顔をするんだもの。
たくさんのお友達を殺しておいて、平気で幸せしていられるんだものね。
……そう。そうよね。わからないのよね。もう忘れちゃったのよ、貴女。
そりゃ、お姉ちゃんも気付かないわよ。殺したそばから、その記憶がぽろぽろ零れていくんだもの。正直、うらやましいわね。その都合の良い頭。
ええ。貴女はさとりと私と、お燐のことは忘れないのよね。……わかってるわよ。
こら。そんな大きな声出すと、みんな起きちゃうから、しー、よ。しー。
…………。
お空、聞いておきなさい。そう。大事な話よ。うん、ちゃんと聞いてたら、褒めたげる。
だから、ちゃんと聞きなさい。いいわね。
お空、貴女の心は、私が覚妖怪の誇りに懸けて、狂ってると断言するわ。
貴女の心はとても綺麗で、澄んでいるの。その奥底が容易に覗けるくらいに、ね。
だから、わかるわ。貴女の心はとても綺麗に歪んでいる。
貴女が表現する愛の形は、とても危険で、醜いわ。ね、お空。思い出してみて。
貴女が最初に、お友達を殺した時、お姉ちゃんは喜んでいた?
憶えてない? ほんとに? ここに来てから、お姉ちゃんがあんなに大泣きしたの、あの日が初めてだったわ。お燐があんな獣みたいな眼をして、怒り猛ってる姿、私見たことなかったわよ。普段通りだったのは、お空だけだったわよね。
……そう。なら、仕方ないわね。無理に頭をひねらなくても良いわよ。
ないものは、ないんだから。
……きっと、死にゆくあの子たちの悲鳴も、貴女の記憶からはいとも簡単に、こそげ落ちていったんでしょうね……。
お空、貴女は本当に私たちが好き? そう、ありがとね。
じゃあ、どうして私たちが嫌がることしたの?
ペットたちが殺されて、私たちの誰か一人が喜んでた?
私もお姉ちゃんもね。貴女一人のものじゃないの。いつも一緒にいたからって、いつも自分のことだけ考えてほしいからって、周り皆を殺しちゃおうだなんて思考、許されないのよ。…………へえ、わかったのね? 聞き分けの良いこと。
だから、最近は殺してないのね。割り当てられた仕事が忙しいとか、周りに強い妖怪が増えたとか、そういう理由でなく、貴女は私たちを想って止めていたのね?
……ね、お空。嘘はいけないわ。その時々のことは忘れちゃうだろうけど、今みたいに一つ一つ例を挙げていけば、貴女の心はヒトよりも素直に反応するんだから。
お空がずっと独りで、寂しかったのは知ってるわ。私たちが大好きなことも、知ってる。怪我してた貴女を地霊殿に連れ込んだのは、私だからね。貴女が初めて人の形になれた時、たくさん褒めてあげたのも私だものね。
私もお空が好きよ。……でもね。だからこそ、このままじゃいけないの。
貴女は、このままいけば、いつか退治されるわ。
だって私には見えるもの。貴女のとてもまっすぐな狂気が、手に取るようにわかる。
憶えてないでしょうけど。あの時だってそう考えて、私は貴女を殺そうとしたのよ。
いつか、さんざんみんなを傷つけて、周り全部から嫌われて。
そんな中で死なせるぐらいなら、今ここで私がって、ね。
あの時、ペットに手をかける貴女を偶然見かけた時に、そう決断したわ。結局、失敗しちゃったけど。
……お空、私はまた、当分貴女を叱れなくなるわ。そうよ、またおやすみするの。本当は、ものすごく悩んだんだけどね。大丈夫かなあって思ったのよ。
ふふ。そうでしょ。そりゃ嬉しそうな顔にもなるわよ。だって、しばらく見ない間に、あの子ったら、とても強い子になってたからね。
……そんな目しても、だめよ。あの子は貴女よりも強いし賢いからね。
お空はきっと、ずっとそのままなんでしょうね。誰かに、生半可じゃなく、懲らしめられでもしなきゃ、貴女は変わんないんでしょうね。
私はあの日からずっとそれが心配だったけど、……もう大丈夫なの。
お空、安心してね。この先、貴女がどれほど知恵をつけても、全てを焼き尽くすような強大な力を手にいれても、きっとあの子がいれば、お燐がいれば、大丈夫よ。
お燐なら、手を尽くして、貴女を止めてくれる。
だから、貴女はそれまで、壊れていて良いわ。貴女の罪は、私が背負うから。
お姉ちゃんにとって、地霊殿は心の休まる場所じゃなきゃいけないからね。ペットたちはみんな良い子でなくてはいけないから。そうでないと、あのヒトはすぐ怖がりが出てしまうもの。だから、私はまた、おやすみなのよ。
……あーあ、お空今の話、聞いてなかったでしょ。
だめよ、だめ。褒めてあげないわ。わかるんだからね。
……だだこねないで、もう行きなさい。
…………。
お燐、大丈夫よね。貴女はちゃんと考えられるもの。ペット殺しの私のことだって想えたし、無意識の私の世話だって出来たものね。
……ああ、でも、まだあの子の気持ち、ちゃんと聞いてないなあ。
あの子ったらぐるぐる考え事してて、気持ちが散漫だったからね。
もう一度、しっかりとお燐と話してみたい、かな。
それぐらいのわがままは、大丈夫、よね……?
ぼろ出さなきゃいけないけど……。
大丈夫、よね。
私たちが愛した地霊殿は、私がきっと守ってみせるわ』
お燐もこいしもええ子やなぁ
開放感無く羽ばたくことも無く地に足が縫い留められた如く。
それにしても恋ではなく愛を抱くこいしちゃんですか。
慈愛のさとり、友愛のお燐、自愛しか知らないお空。
なんだ、こんなにも愛で溢れる地霊殿が幸せでない筈はありませんね……