どうしようもなく心がさびしくなる瞬間がある。
それは通り魔のように私の心に訪れて、活力を奪い去ってしまう。
どうしたらいいのか解らない。何かをして解消されるかどうかも解らない。
だから私は、自分ひとりだけの世界で孤独に膝を抱える。
……時が全てを洗い流してくれるまで。
さびしくて、この場所から動けそうにない。
眠る彼女の顔を眺めて心を満たそうとするが、それでも満たされることはない。
まるで私は、死んでしまった親猫の傍を離れられない子猫のようだ。
彼女の眠るベッドを背にし、私は静かに膝を抱える。
冷えた空気が室内を満たしても、身体が震えても、より強く膝を抱えるしかなかった。それ以外にすることを、私は忘れてしまったのだ。
こんなに弱い自分を誰が知るだろう。出来ることなら彼女に知ってほしい。でも、教えたくない。かまって欲しいと言っているみたいで嫌だ。
だから私は、彼女の傍を離れられなかった。
私を見て。
私の傍にいて。
私を見つけて。
どれだけ願っても、それは私が細心の注意を払って隠している願いに過ぎない。表に出すことはない。だって、こんな姿を見せたくないから。
余計な気遣いはさせたくない。
……しないだろうけど。
私に干渉して我侭ぶっているけど、主だから顔を立ててあげて、裏では子どもの面倒を見るみたいな、そんな私を演じるのに疲れてしまったのだ。
本当は逆だ。子どものようにはしゃぐ彼女がいるから、私は私を保っていられる。仕方がないなと世話が出来るから、私は自分を満たせる。そこに自分の存在価値を見出すことができたのだ。
彼女が居なかったら、私はどうなっていたか解らない。彼女に拾われなかったら、私は私でいられなかったと思う。
私はただ、臆病なだけだ。自分をさらけ出すことが出来ない、ただの臆病者だ。
……ふとしたときに、どうしようもなくさびしくなるのはどうしてだろう。
それは私の心を抉ってゆき、風穴を作ろうとする。無数にできあがった風穴は、いつも空虚な風が吹き抜けてゆくのだ。からからに乾いてゆく私は、なすすべもなく佇むしかなかった。
冷たく、閉ざされた私の世界は、虫の鳴き声すら聞こえないぐらいに静かな世界だ。でも、その静寂は好きだ。全てを委ねられるような、そんな心地がある。
でもずっとこの場所にいると、鬱屈とした気持ちもまた芽生えてくる。
落ち込んで、落ち込んで、落ち込んで、一番深いところまで落ち込んだと思っても、まだ底は見えなくて、息苦しさと、窮屈さだけが加減を知らずに増えていく。私はもう、押し潰されてしまいそうだった。
……人は誰でも、孤独を耐える場所があるのだと思う。
それは一人の部屋であったり、人波の中であったり、月夜のテラスであったり、湖の岸辺であったり、とある神社であったり……。
私にとっては、ここがそうだった。
眠る彼女の傍に居て、たまに寝顔を見て、底なしで湧いてくるさびしさを埋めようとしている。
今回のはひどく重いようで、私はどれだけ自分がそうしていたのか、定かでは無かった。
気が付いたら、死体のように転がっていた。
起き上がったときに鈍重な感覚が私に圧し掛かってきたので、そのまま倒れた。このまま一人で死んでしまってもいいかもしれない、とも思った。
そうしてひっそりと、私だけが行方不明になる。
面白いでしょう?
一人が一人を殺す完全犯罪。
誰にも見つからない。見つけ出せない。
それが私の残す最後の余興。
私を見つけてください、って書き置きを残して、それだけ返してあげる。
楽しんでくれたら、私の生きた価値はあったかな。
見つけさせないけど。
……窓の外は暗く、空の黒がどろどろと濁ったもののように見えた。
空が泥のようで、森の木々をずぶずぶと飲み込んでしまいそうだ。私はそれを想像して、より一層、深く、息苦しい気持ちになった。
暗い部屋はただただ沈黙を保っている。時計の音なんて聞こえる筈もない。ただ無機質で、孤独。それが私の世界なのだから。
ただの空想のつもりだったのに、私は筆ペンで言葉を残した。私を見つけてください。ただそれだけ。誰に宛てたものか、誰が書いたものか、そんなヒントすらない。尻尾すら見せない。でも、そんなものだろう。見つけて欲しいというのは私のエゴだ。見つけて欲しいくせに、見つけさせるための最小限の情報すら提示しないのだから。そしてその上で達成してもらうことを要求するのだから、こんな理不尽なことはないだろう。
私はベッドの脇に紙切れを置いて、筆ペンを処分し、綺麗に手を洗った。こういうときだけ行動的だ。
再び部屋に戻っても、当然のごとく変わりはない。相も変わらず彼女は眠り続け、沈黙を保っている。
私は再びベッドを背にし、何処へ消えようかと考えながら眠りに就こうとした。
そのとき、あってはならないことが起きた。
こつり、と足音が聞こえたのだ。
信じられない。
いったい、誰が館をうろついているのだろう。
私は恐怖した。
静寂と孤独しかない私の世界に、いったい誰が足を踏み入れたというのか。
ありえない。
誰が来たんだ。
ここは私にとって最も繊細な場所なのに。そこに踏み込まれたら、どうすればいいのだろう。
私は殺されるのかもしれない。
ぎしり、ぎしり、と足音は続く。
誰だ。
がちゃり、とノブが回る。
この部屋だ。
やめて。
開けないで。
来ないで。
でも、無情にもドアは開かれる。
私は驚愕をもってそれを出迎えた。
ありえない。それはあってはならないことだ。
「犯人、見つけた」
ゆっくりと、彼女が足を踏み入れる。
部屋へと入ってくる。
私とお嬢様だけの聖域に。
「どうして、どうして」
「さぁ、どうしてでしょう」
彼女は薄く笑っている。
「何で、ここを」
「おかしな話だけど……。いつもは我慢していたわ。ほんの数十分とか、半日程度とか、それぐらいなら待っていられたのよ。でもね、それが数日も続くとこっちも困るの」
「そうか――、あなたもそういう?」
「ええ。でも、あなたのそれは孤独ね。孤独を具現化したようだわ」
「余計なお世話だわ」
「とにかく、このままだとこっちも困るのよ。貴女をどれだけ探し回ったと思っているの?」
「知らない」
「みんな動かないから、私一人でこの異変を何とかするしかないじゃない。困ってるのも私だけみたいだし」
「まさか、今までのも――?」
「ええ。見なかったことにして離脱することも出来るんだけどね。何度も勝手に付き合わされると癪でしょう? だからいつか、仕返しをしてやりたいと思っていたのよ」
「いい機会でしたわね。これが最後よ」
「……時を止めるのが?」
「そう。私はここで居なくなるつもり。だからさっさとやりたいことをして、離脱してくれないかしら」
「あなた……、本当にそれをやりたいと思っているの?」
疑われたようで、私は憤った。
「もちろんよ。どうして?」
「泣きながら言っても説得力が無いわ」
「嘘よ」
「嘘じゃない」
「嘘!」
「本当よ」
証明してあげる、とでも言いたげに、彼女が私に近付いてくる。
私は顔を逸らした。
「来ないで」
「いやだわ」
「来ないで。私は一人で消えていくの。こんな世界ごと、消滅していくの。誰も、誰も手出ししないで!」
「……どうして、そんなことを」
私の叫びに、彼女の足が止まる。
私はぼろぼろと泣きながら、涙をこぼすように白状した。
「解らないわ……。ただたまに、こうしてさびしくなるの。誰にも見られたくないから、こうして一人でいるの。あなたもそうでしょう? どうせ、さびしくなったりするんでしょう? 孤独だからって。長い時間を生きてるからって」
「ええ、生きているわ」
「じゃあ!」
「でも、私は孤独じゃない。私は永遠の民。ずっと、そうして生きてきた。これからもそれは変わらない」
「……所詮、あなたに人間の気持ちなんて解らないのよ」
「あなたの苦しみは解らないけど、どうすればいいかは私にだって解る」
「何よ」
彼女の指先が、ゆっくりと私の隣に向けられる。
「……そこの吸血鬼を起こしてあげる」
「やめて!」
「どうして?」
「だめよ、だめ。絶対、だめ、起こさないで!」
「ならどうするの。そのままそこで果てるつもり?」
「そうよ。って最初からそう言ってるでしょう!」
「そこの吸血鬼はどう思うかしら」
それを言われ、私は黙り込むしかなかった。
「そこの吸血鬼だったら、この世界の中に入り込んででもあなたを助け出しそうだけどね」
「お嬢様にだって無理よ……!」
私はたがが外れそうになって、ベッドで眠るお嬢様の胸で泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続け、ついに堤防は決壊し、苦しくなるぐらい、後ろの彼女のことも忘れてしまうぐらい、泣き続けた。
「――もうしばらく時間をあげる。もう一度ここにてきて、時が止まっているのにあなたが居なかったら、私は吸血鬼を起こすわ。それまでに時を解放なさい」
孤独の傍らで、そんな言葉を残して彼女は立ち去った。
足跡が去ってからも、私は一人で泣き続けた。
何で泣いていたのか解らなくなるぐらい泣いた。
お嬢様があまりにも変わらないものだから、私はまた悲しくなって泣いた。
……それから、私は亡霊のように歩いて自室に戻った。
お望みどおり、時間を解放してやったのだ。
吸血鬼を起こす。彼女の言うそれは、私にとっての脅迫だったから。
こんな姿を見られるわけにはいかないから。だから私は、今回は諦めることにしたのだ。
お嬢様のベッドを綺麗にして、私の書いたつまらない書置きもくしゃくしゃにして捨ててしまった。
部屋で冷たいシャワーを浴びて、下着に薄手のシャツだけを着用して、投げ出すようにベッドに飛び込んだ。
もうずっと死んだように眠っていたはずなのに、へどろが染み付いたように身体は疲れていた。
私はそのまま、お嬢様がすぐに起き出すことも忘れてぐっすりと寝入ってしまったのだ。
寝覚めは重たいものだった。
寝返りが打てず、ひどく苦しかった。
あまり眠れていない。身体が疲れているのがすぐに解った。
うつろに眼を開くと、そこには羽をぱたぱたと揺らせる主の姿があった。
「あ……」
「咲夜、見つけた」
そして、にぃ、と笑った。
「お嬢様……、何ですか? 何のお遊びですか?」
私は深い眠りから覚まされたばかりで、何の話をされているのか、すぐに理解できなかった。
「ほら」
だけど、くしゃくしゃの紙切れが差し出されて現実に引き戻される。そこにはつたない字で、私を見つけてください、と書かれていたのだ。
「あ、これは……!」
私は勢い込んで起き上がる。お嬢様は私の隣に腰掛けて、腰に手をまわしてきた。
「見つけたよ。見つけたから何かくれる?」
「どこで、これを……?」
「うん? 枕元に置いてあった」
「そうですか……」
「これ、咲夜が書いたんでしょう?」
「あ、はい、まぁ、そうですね……」
「あれ、顔が赤いよ。どうかした?」
「いえ、どうもしませんよ、お嬢様」
「じゃあさ、テラスに行きましょう。月を見て紅茶が飲みたいわ」
「はい。お嬢様」
誰も居ない、二人だけのテラス。
ぷらぷらと足を揺らせて、お嬢様は黙って紅茶と月を楽しんでいる。
私は機嫌の良さそうなお嬢様の傍に控えながら、静かに月を眺めていた。
月は銀色で、今夜は少し欠けていた。雲ひとつなく、月はただただ夜を称えるように輝いた。
冷たい空気が漂うように流れている。それはお嬢様の羽を音もなく揺らし、私もひんやりとした心地に包まれていた。夏を迎えようとする紅魔館においては、ちょうどいい涼しさでもあった。
「咲夜」
ふと唐突に、お嬢様が私を呼んだ。
「はい」
目を向ける。お嬢様もまた私を見つめた。
少しの間、沈黙の中で私たちは見つめあった。
恥ずかしくも思ったけど、私は真摯にお嬢様の視線を受けた。
「何処へも行っちゃ駄目だよ」
「え?」
「書き置き、さ」
「あ……、はい」
「見つけてください、って。あなた、何処にいくつもり? ここはあなたの家なんだから、何処へも行っちゃ駄目だよ」
「お嬢様……」
「咲夜、返事は?」
「あ、はい。解りました。……ここは私の家です」
「そうそう。それでいいのよ」
さらに一段と機嫌をよくしたお嬢様は、鼻歌を口ずさみながら夜の静寂を眺めだした。
私はぽかんとして、しばらく何もできなかった。
でも、お嬢様の投げ掛けたその一言は、私の心の奥深くに、ゆっくりと浸透していったのだ。水滴の波紋のように、それは私の世界に広がっていった。
気がつけば、私はうっすらと微笑んですらいた。
お嬢様と同じように、私も夜の静寂を眺める。
美しい景色だと思った。
夜空を見上げる。
月の輝きが、地上を優しく包み込んでいるように思えた。
私は心を満たしてゆく穏やかな充足とともに、もう帰ったであろう輝夜の仕返しとやらに小さく感謝した。
弱いからこそ、たった一言が心の支えに
なるのかもしれませんね。
私は感じ入るものがあったので、こんなところで。
暗いなかに光明が見えるみたいな話、好きなんですよ。
最後のすっとした感じはよかった。
あとがきの時の殻ってのは面白い表現ですね。