目が覚めると、そこは真っ暗な空間であった。手当たり次第に動いてみれば、どうも机らしきものに足をぶつけてしまった。机の上には、きっとランプがあるはず。そう思った彼女は、手探りでランプに火を灯そうとする。
彼女の思惑通り、そこには灯りが点いた。
小さな明かりに照らされた室内は、彼女の全く知らない部屋であった。
「気が付いたようね、わが妹よ」
見知らぬ室内、その出口に一人の少女が佇んでいた。そうだ、自分はこの人を知っている。――此の人は、私の姉だ。
「貴方、自分の名前は覚えているかしら?」
少女は幼い見た目には似合わない、不遜な態度で自分に話しかけてくる。まぁ、自分の方が年下だから、甘んじて受け入れよう。
自分の名前。それは記憶の底に沈んでいて、すぐには見つからない。だが少し時間を置けば、やがて脳裏に浮かび上がってくる。大切な名前。
「フランドール。私の名前はフランドール」
それを聞いた姉は満足げに笑みを浮かべると、フランドールヘ向かって歩み寄ってきた。
「わが妹、フランドール・スカーレットよ。私はお前の姉、レミリア・スカーレットだ」
「レミ…リア…? レミリア、お姉さま」
フランドールはその名前を口に出してみる。そして、その“当てはまる”感覚に安堵した。
今、自分の頭の中は“穴ぼこ”だらけである。その暗い穴に、ひとつ一つの欠片がはめ込まれているのだ。姉の名前は、ピッタリと穴にはまった。
「汝に問う。お前は自分が何故ここにいるのか分かるか?」
「いいえ、わかりませんわ」
「汝に問う。お前は人間という生き物を知っているか?」
「いいえ、わかりませんわ」
「汝に問う。お前は自分が吸血鬼だという事を知っているか?」
「はい、わかっていますわ」
一気に質問に応えたフランドールは、一つ小さな溜息をついた。
とにかくは、この暗くて湿った部屋から出て、新鮮な外の空気を吸いたいと思う。随分と長い間、この薄暗くて陰鬱な部屋にいた気がする。
しかし目の前の姉は、顎に手を当て自分の方を見つめたまま、暫く動くことが無かった。
痺れを切らしたフランドールは、姉に向かって尋ねてみる。
「お姉さま? 私、お外に出ても良いのかしら?」
「……いや、やはり危ないな」
姉は一言だけ呟くと、扉を開けて外に出た。
「あっ? 待って、お姉さま。私も……」
――バタン
閉じられた扉は、外から固く閉ざされた。
フランドールは、暗くて湿った部屋に置き去りにされたのだ。蝋燭の光だけが、その部屋を照らしていた。
◇ ◇ ◇
扉が開いた。
私は分かっている。外に出ようと扉へ駆け寄れば、いつの間にか扉は閉まっていて、結局外には出れないってこと。
それは、もう何度か試したから知ってる。
私に近寄ってくるのはメイドという生き物。どうもレミリアお姉さまの下で働いているらしい。
「妹様、お食事をお持ちしました」
メイドは私に食事を持ってくる。それは金のお皿に乗った豪華なお食事たち。だけれど、私はそれを食べる気にはならなかった。
「妹様、お食事を食べませんとお体に障りますよ」
メイドは私の事を「妹様」って呼ぶ。でも“様”をつける癖に、私の言う事は何も聞いてくれない。虚飾だ。
「いらない。食事はいいから、ここから出して」
メイドの返事は分かっている。だけど、私は諦めずに言ってみた。
「妹様、それはお嬢様の許可が降りなくては叶わぬ事です」
ほら、やっぱり。
メイドはお皿を置いて、部屋から出て行った。
私はこの小さな部屋で、また一人になった。
私はお腹が空いた。ずっと何も食べていないから、お腹はぐぅぐぅと鳴って、早く何か食べろと私に命令してくる。
私は金ピカのお皿の上へ目をやる。そこにはホカホカと湯気を立てるスープやお肉が並んでいる。
喉がゴクリと音を立てた。口の中にドロッとした涎が溢れてくる。
もう我慢できない。私はフォークを握り締めると、それを特大のお肉へグサッと突き刺した。
その感触に、私は背筋がゾクッとしてしまう。なんだろう、ずっと昔に感じたような、この手に伝わるお肉の感触。
とにかく私は口を大きく開くと、そのお肉を口の中へと運んだ。
ガブッと噛み付いた瞬間。お肉からあふれ出てきた肉汁が、舌の上をトロトロと流れていった。
美味しい、ああ、なんて美味しいのだろう。お肉、お肉、素晴らしいお肉。
私は噛みちぎったお肉を、何度も口の中で噛みしめて味わった。何度噛んでも、噛むごとに新しい味わいが広がる。
そして、それをついに胃に流し込んだ。私は全身が暖かくなるのを感じる。
ああ、食べるって、なんて幸せなんだろう。
次に目がいったのは、まだ白い湯気をホカホカと出しているスープのお皿。
そのスープは真っ赤でドロリとしている。上にちょっと乗った緑のお野菜が可愛い。
ズズズッとスープを飲んだ。
本当は音を立てて飲んじゃイケない事は知っていたけど、私は構わずにズルズルとスープを飲み干す。
口の中に入ってきた熱々のスープは、まるで沙漠の中に落とされた一滴の雫みたいに、私の身体へとスゥーと吸い込まれて、身体の潤いを満たした。
スープを飲み干した私の身体は、まるで燃え上がるように火照ってくる。
私は食べ物の虜になってしまったのだ。
なんで今まで食べなかったのだろうと酷く後悔する。
デザートまである事に気付くと、手を叩いて喜んだ。
それはピンク色のプリン。お皿に添えられた小さなスプーンで、チョンと叩いてみる。プルプルと震えてこれも可愛い。
私はそのプリンを少しだけスプーンで掬うと、ユラユラと揺れるプリンを口の中に落とした。
それはツルンと舌に着地すると同時に、甘くて深い味をジンワリと私の口の中で拡げていく。
その美味しさに、またもや脳内を犯された私は、スプーンで次々とプリンを掬いあげて、それらをポンポンと口の中に落としていった。
最後にはお皿に口をつけて、残ったプリンをベロリと平らげてしまった。
「嗚呼、ご馳走様でした」
私は満腹になったお腹をさすりながら、満面の笑みで一人頭を下げた。
素晴らしい味。私にこんな美味しい思いをさせてくれた、この食べ物たちに対して、私は感謝の気持ちで一杯だった。
◇ ◇ ◇
「妹様、本日のお食事でございますわ」
今日もメイドは食事を置きにきた。
最初は、姉の手下だから嫌いだったけれど、美味しい食事を運んできてくれるこのメイドの事は、ちょっと好きになってきた。
だから私は、このメイドの名前も覚えてあげた。
「ねぇ、咲夜。ちょっと訊いていい?」
私に呼び止められた事が意外だったのか、メイドは驚きを隠さずに私の顔を見る。
「なんでしょうか? 妹様」
「ねぇ、私が食べてるお食事って誰が作っているの?」
それを聞いたメイドは「はぁ」と間抜けな声を出してから答えを言った。
「私が作らさせて頂いていますが……。何かご注文ですか?」
なんだ、このメイドが作ってるんだ。それだったら話は早いや。
「それだったら咲夜に訊けば分かるわね。このお料理って何を使っているの? 特に、たまに出る大きなお肉、これ私好きだわ」
メイドはニッコリと嬉しそうな顔になると、私に教えてくれた。
「人間ですわ」
「ああ、人間」
私は納得した。私は吸血鬼だから人間の血を吸わないと生きていけない。だからお料理にも人間の血をふんだんに使っているんだろう。
「教えてくれてありがとう、いつも美味しい料理を楽しみにしているわ」
「そう言って頂けるとありがたいですわ」
咲夜は「どうぞ、ごゆっくり」と言って部屋から出て行った。
さて、それでは今日も頂きましょう。美味しい、美味しいお料理を。
蓋を開けてみれば、まず目に飛び込んできたのはお魚のムニエル。お皿の端には真っ赤なソースが盛られているから、お魚をフォークでちょっと切り取ってソースにつけて食べるのが正解みたいね。
べっとりと赤いソースにまみれた魚肉を口中に放り込んでみれば、なるほど衝撃的だった。脂身の多いお魚のクセをサッパリとした酸味のソースが中和している。
素材そのものの旨味を直接味わえるお料理みたいね。
お魚の隣にはスープのお皿が。今日のスープはコーンポタージュみたい。これはこれで、私も好きよ。
熱々の出来立てを頂けば、この狭苦しい部屋で凍てついた私の身体もポッカポカ。牙が邪魔で、ちょっと口から零れちゃったからナプキンで口をちゃんと拭く。
今日のデザートは何かしら? ワクワクしながら、蓋のついた小さな食器へと手を伸ばす。
隠された中身を見るのは、まるで宝箱を開ける時のよう。中からどんな美味しいお料理が出てくるのか、私は期待に胸を踊らせて、いざ蓋を取った。
今日はムースだった。そこには甘ったるそうなブラッディソースが掛けられていて、濃密な血の臭いが私の鼻腔まで漂ってきた。
私は柔らかいその身体にスプーンという凶器を突き刺した。まるで、腹を割かれた生贄みたいにムースの上を赤い液体がトロトロと垂れてくる。
垂れたソースも一緒にすくい上げて、私はそれに口をつける。
ああ、やっぱりだ。唇がソースに触れた瞬間、鼻腔の奥から沸き上がってくる情動。私は思わず身を震わせて、その甘い果実を味わった。
ムースは唾液に触れるだけでジュワァと溶けるような不思議な食感。
今宵も素晴らしい食べ物たちだった。
「嗚呼、ご馳走様でした」
私は今日もお皿に向かってお辞儀をした。
私を楽しませてくれたお食事たちは、もう私のお腹の中に入ってしまった。でも私は、自分のお腹に向けて頭を下げられない。だから、残ったお皿に向かって今日もお辞儀をするの。
毎日のお食事だけが、私の中で自分以外との触れ合いだった。この小さな部屋には他に誰もいないんだもの。きっと外には色んな世界が拡がっているというのに。
だから、そんな世界からやってきたお食事たちを、私はお腹の中に入れて一緒に遊ぶ。そうする事で少しでも外に出れた気分になろうと私は思うの。
◇ ◇ ◇
「本日のお食事をお持ちいたしましたわ。今日は妹様の大好きなステーキですよ」
メイドは今日も食事を持ってきてくれた。あいつの手下だからちょっと嫌いだった咲夜も、私のお食事を作ってくれていると分かってから、結構好きになった。
でも、それ以上に好きになったものがある。
それは人間だ。
「いつもありがとう、咲夜」
「いえいえ、それではごゆっくり」
咲夜は部屋を出る。私はお食事と二人きりになる。
人間は私にとても尽くしてくれる。口に入れれば信じられないような幸せが広がり、お腹は一杯になって私は元気になる。
私は人間が大好きなんだ。
何もしてくれないあいつなんかは論外。次にメイド、お食事を作ってくれるから少し好き。そして人間は一番、大好き。
だって、この何もない小さなお部屋の中で、私に何かしてくれたのは人間だけなんだもの。
私に生きる活力を与えてくれる、そして幸せな気持ちにさせてくれる。私は人間に恋焦がれているの。
でも、ふと私は思った。人間って一体、どういう形をしているのだろう?
私のお食事には人間がそのままの形で出された事はない。いつも液体にされていたり、お肉になっていたりするから分からない。
今度に咲夜が部屋に来たときに聞いてみようかしら?
私は慣れた手つきでステーキを切り刻んだ。そしてオニオンソースにそれを浸すと、舌を火傷しないように気を付けて頬張った。
モグモグ、口の中で濃厚な肉汁とオニオンソースが混ざり合って、私の口の中は香ばしい香りで一杯になった。
グチャグチャになったお肉を喉に落とすと、私は次のお肉へとフォークを突き刺してそれも口へと投げ込んだ。
じっくりと味わうのもいいけれど、食欲に任せてひたすら貪るのもまた格別。私は貪っている私自身に酔い痴れる事が出来た。
私は食事を終えるとお口の周りをナプキンで綺麗に拭いた。
「嗚呼、ご馳走様でした」
私はやっぱりお礼を言って頭を下げた。
私は人間を愛していると同時に、尊敬もしているのだ。
きっと私は自分を食べても、こんなには幸せな気持ちになれないだろう。
ところが人間というのは、まるでその為に生まれた生き物であるかのように私の味覚を強烈に刺激してくれる。
嗚呼、私は人間に会いたい。
◇ ◇ ◇
「いや、しかしね、咲夜」
レミリアは咲夜に向かってもう小一時間、長々と説明している。
「お前は知らないだろうが、私は昔にあいつのおかげで大変な目にあったんだ。この幻想郷までくる羽目になったのも、あいつのせいだし……。だから、私はフランドールがあの時の記憶を失っていようが、まだあの部屋から出す気は更々ないんだ。まだ、外に出しても大丈夫なのか分かりゃしない。あれが暴れだして人間の里に手を出してみろ。それこそ、我々の立場は危うくなるじゃないか。――私はもう二度と、フランドールを間違ったように育てたりはしない。もう二度とね」
レミリアの、それはもう長々とした説明を咲夜は静かに黙って聞いていた。それが一区切りついたところで、メイドは静かに口を開いた。
「それでは、妹様は私とお嬢様の仲人ですね」
「はぁ? 何言ってるの咲夜」
「だって妹様のおかげでお嬢様が幻想郷に来たのだから。そうでなかったら私とお嬢様は出会っていませんでしたわ」
「まぁ、お前にとってはそうだろうけどさ」
レミリアはそう言いながら外の様子を伺った。
窓から覗く幻想郷は濛々と赤い霧に包まれており、日光をとても良く遮断している。
今は夜であるが、例え朝日が昇っても夜が明けたとは気付けないだろう。
レミリアの計画は、それはもう重大に幻想郷に喧嘩を売っていた。妹が暴れる事で自分たちの立場が危うくなる事を心配しつつも、レミリアは自らの手で自分たちの立場を危うくする事を愉しんでもいた。それは、まさに狂気。
「ふむふむ、こっちの方は調子が良いんだけどねぇ」
「ええ、順調順調」
咲夜はご機嫌な主の笑顔を見て、彼女自身も笑顔になっていた。
しかし、順調なのはここまでであった。
咲夜は予感する。この計画に何か重大な危機が迫っていると。
それを証明するように、咲夜の耳に何かの喧騒が入ってくる。それは、小さな音ではあったが、確かに紅魔館の中から聞こえている。
「お嬢様、来客のようですわ。お出迎えしてきます」
「ああ、くれぐれも丁重にな」
咲夜を送り出したレミリアは、不意に満月を見たくなって身体が疼いた。
自分が出している霧のせいで見えにくいが、きっと時計台の上からならば見事な満月が覗けるだろうと思い、彼女はそこへと向かって飛び立った。
◇ ◇ ◇
扉が開かれる。
半信半疑で彼女は、開け放たれた扉から顔を出してみる。
どうにも何らかの罠であるという訳ではないらしい。
恐る恐る、右足を廊下に出してみる。いきなり魔法が飛んできて右足を攫われる、なんて事はなかった。
「もしもーし」
フランドールは一応、声を上げて誰かいないか呼んでみた。だけれど返事は無かった。
それじゃあ、自分は外に出ても良いのかな?
そう思った彼女は思い切って扉から飛び出てみた。
そこは壁も床も真っ赤な、不思議な廊下だった。
「うわ、センスないなあ」
その配色に苦言を呈しながら、フランドールは廊下を飛び回った。
どうやら、本当に外に出ても良いらしい。
「やった!」
フランドールは喜んだ。
これでようやく、彼女は外の世界に出れるのだ。
「外に出たらまず、何をしようとしていたんだっけ? あ、そうだ!人間だ! 人間に会いに行こう!」
彼女は恋焦がれていた、愛する人間に会おうと出掛ける。
暗く狭い部屋の中で、まだ見ぬ人間に恋をした少女は、ようやく人間を知る事となる。
その愛は他の何よりも誠実で、清潔で、愛欲に満ちていた。
――東方紅魔狂へ
こういうのが嫌いな方もいますし
でも作品は面白かったです
例えばフランが人肉を頬張るシーンなどは五感をフルに使った描写があればもっと雰囲気が出ると思います。
ナイフで切った時の柔らかさ、オニオンソースをつけた時の肉の照り、口元までもって来たときに鼻をくすぐる匂い、咀嚼の感触、舌触り、喉を通る滑らかさ等リアルに表現するための要素はまだたくさんあります。やりすぎるとそれはそれでグロタグ付ける羽目になっちゃいますが……
直後に「じっくりと味わうのもいいけれど、食欲に任せてひたすら貪るのもまた格別。」とあるのであえて押さえ気味にされたのかもしれませんけれども、フランの人肉に対する敬愛を最も表現出来る部分だと感じたのでここが特に物足りなく感じたところでした。
ほかの作品に比べるとちょっと内容がうすいかと。
>>2.さん
そうですね、投稿の仕方については今後の参考にさせて頂きます。ありがとうございます。
>>5.さん
食人描写については、グロテスクな表現がつきまとってしまうので難しいですね。
私自身も直接人を食べてる訳じゃないので大丈夫だろうと思って書いていましたが、なにやら気持ち悪くなってきたのでバッサリ切ってしまいました。
やはりこういった描写をするには表現力が不足していたと思います。書きようによっては>>5.さんの仰る通りにグロくなく、かつしっかりとした描写に出来たかもしれません……。ご指摘ありがとうございます。
>>9.山の賢者さん
「東方紅魔狂」は東方紅魔郷のExステージのステージタイトルですね。この話はExの直前なので、原作に繋がる話という事で最後に付けました。
そういうことでしたか。
厚顔無知で申し訳ない。