レミリア・スカーレットは吸血鬼である。吸血鬼とはいわゆる化物であり、圧倒的な力と摩訶不思議な術を用いて人間を凌駕する夜の王である。
そんな彼女は紅魔館という洋館に住み着き、大勢の人間どもを従えて世界の王として君臨している。
彼女が治める世界は「ヴラド・コミュニティ」と呼ばれる箱庭的な世界であった。その昔に偉大なる吸血鬼が、自分たちの時代が終わる事を予感し、退避場所として小さな隔離世界を形成した。そこは一種の結界によって、外界とは遮断された世界となっている。
その世界は丘一つに町一つの小さな空間であり、丘の上に立つ紅魔館の吸血鬼を頂点として、100人程の人間が住んでいた。うち50人の人間は紅魔館で働いている。
レミリア・スカーレットは、自分が吸血鬼であるという事に絶大なる自負を持っていた。自分たちは人間よりも遥かに生命体として強く、そして人間たちを統べるのが必然であると信じて疑わなかった。
そして幸いにも、彼女の自負心は統治者として良い方向に働いてくれる。彼女は人間を奴隷扱いしたり、無為に殺したりはせずに、自らの配下として丁重に扱った。それが自分の王としての役割であり、義務であると考えていたからだ。
ちなみに云えば、彼女の両親は既にこの世にいない。彼女の両親もまた、人間を統べる吸血鬼であったが、人間との戦争に破れてこの世から存在を滅せられたのだ。それは、このヴラド・コミュニティにレミリアたちがやってくるきっかけでもあった。
外の世界にはもはや、吸血鬼が統べる事の出来る世界はないと悟ったレミリアは、妹を連れて単身、実在するかも分からないこの世界を目指して旅立った。そして、鼻持ちならない統治者だった前任の吸血鬼と対決、見事勝利し、ヴラド・コミュニティの統治権を得たのであった。
前の悪辣なる王に対して、怒りと恨みの感情しかなかったコミュニティの人間たちは、新しい夜の王を歓迎した。レミリアはその期待に応えるべく、全く新しい形の吸血鬼の王国を作ろうとしたのだ。
彼女は人間から血を奪う事に、自ら制限を課した。住民の租税として血液を要求し、村単位で差し出された血液を自らの食事としたのだ。レミリアとしては、生きた人間の首筋へと深く牙を突き立て、喉を潤すのが一番美味しい血の味わい方であったが、そこは我慢のしどころという訳である。
そうして、犠牲者を出さずに済む人間たちは、生物的にも充実した生き方を得ることができ、レミリアに対しても純粋なる忠誠を持つことが出来た。恐怖によって支配されていた以前とは、まるで違う生き方がそこにはあったのだ。
そんな王にも、一つの大きな悩みがあった。それは、自分の妹の事である。
妹の名前はフランドール。自分にとって唯一の肉親とでもいうべき存在だ。
フランドールは、未だに吸血鬼としての矜持を持たぬ幼き者であった。(レミリアにしても吸血鬼としては幼いと言わざるを得ないが)
レミリアはこの妹を、自分のように吸血鬼として相応しい矜持を持てるように育てる事が、死んだ両親や領民にとっての一番の誠意であると考えた。
彼女は毎日のようにフランドールへ、吸血鬼としての在り方を教えていた。それは時に肉親としての情を捨て去らなければならぬ程、熾烈な教え方であった。
◇ ◇ ◇
紅魔館は吸血鬼が二人住むのには、広すぎる屋敷である。真っ白な壁に上品な造りの、至って人間的な館ではあったが、それは中で働く人間たちを考えての事だった。前の吸血鬼の王などは、昼でも夜でも真っ暗な屋敷の中で人間たちをこき使っていたものだから、月に一度は発狂する人間がいたものだ。
紅魔館の中で働く人間は、ほとんどが女であった。彼女らはメイド服に身を包んで、広い館の長い廊下の全てに、余すことなく配置されていた。そして常に料理や掃除などの仕事に、忙しなく動いている。
また主であるレミリアが何かを要求した際には、すぐさまにそれに応えたものだ。(レミリアは我侭である事が王としての矜持であると信ずる)
「紅茶が飲みたいわね」
「はい、お嬢様。お持ち致しましたわ」
「何か面白い話はないの?」
「はい、お嬢様。実はこの前こんな事が……」
「小腹が空いたわ」
「はい、お嬢様。血塗りプディングで御座います」
メイドたちは全員で一つの生き物のように連携して、レミリアの世話を完璧にこなしていた。正しく、この人間たちはレミリアに心酔し、心根から尽くそうとしていたのだ。レミリアにも、そのようにしてくれる人間どもに対して、少なからず嬉しいと思う気持ちがあった。
レミリア・スカーレットは、既に400歳弱の永く生きた化物であるが、外見は10歳程の少女である。そして見た目にも麗しく美しい。そういった要素は、人間たちの忠誠心を養うのに少なからず影響するものである。
ちなみに言うと、前の王などは脂ぎった好色な爺という外見をしており、人間たちの心を掴むことの助けには、到底ならなかったのだ。
ただし、人間たちは妹のフランドールには、あまり関わりを持たなかった。レミリアがむやみにフランドールに近づかないようにと命じている事もあり、メイドたちもそれに従い、レミリアの許可なしにはフランドールの部屋へは出入りしていなかったのである。
フランドールの部屋に出入りするのは、決まってレミリアだけ。それも妹の“教育”の時だけであった。
「さて、今日も妹のところへ行くわ。お前たちは下がっていてよろしい」
「はい、お嬢様」
廊下に並んだメイドたちはレミリアの言葉を受け、サッと身を引いた。その身のこなしは、まるで鍛え抜かれた兵士のように軽やかであり、その気配すらもそこから消えているほど。
「フランドール、入るわよ」
「ええ、構いませんわ。お姉さま」
ドアの向こうからは、幼いレミリアよりも、更に幼い声が聞こえてくる。その声はどこか妙に気取ったようにも聞こえ、レミリアが教育して言葉遣いを直させたのだろうと想像がつく。
レミリアが部屋に入ると、フランドールは部屋の隅にあるベッドの上に腰掛け、本を読んでいた。レミリアはベッドに歩み寄ると、そのフランドールが読んでいる本の表紙を見る。なるほど、それは外の世界で流行っている童話のようだった。
「お姉さま、この本とっても面白いわ。きっと外の世界って、ここよりもずっと広くて楽しいのね」
フランドールは無邪気に笑って姉に笑いかけた。レミリアはその様子を見て、無言で右手を振るう。
レミリアの右手は目にも留まらぬ早さで、フランドールの持っていた本を八つ裂きにした。彼女の爪はナイフよりも切れる凶器である。本だった紙くずは、ベッドの下へと散っていった。
「あっ……」
「フランドール。我々吸血鬼は人間の作った虚構などに惑わされてはならないのよ。そして外の世界に目を向ける事も時間の無駄。この箱庭こそが我々の王国であり、世界なのだから」
フランドールは引き裂かれた本を呆然と見つめた後に、目を伏せながら姉に向き直った。そして出た声は、先程までの無邪気な声から、酷く落ち込んだものへと変わっていた。
「ごめんなさい……お姉さま……」
「分かれば良いのよ。さぁ、今日も運動をしに行きましょう」
レミリアはそういうと踵を返し、フランドールの部屋から出て行った。妹はもう一度だけ、引き裂かれて床に落ちた本の破片に目をやると、ベッドから立ち上がって姉についていく。フランドールがこの部屋に帰ってくる頃には、メイドの手によって破片も片付けられているだろう。
◇ ◇ ◇
満月の光のもと、紅魔館の庭で二匹のコウモリが舞った。一方は紫の髪を揺らしながら、一方は金の髪を跳ねながら、人間には凡そ視認すら出来ない、高速の戦いがそこでは繰り広げられていた。
レミリア・スカーレットは、妹へ吸血鬼としての戦い方を教えていた。戦い方を教えるというよりは、彼女に吸血鬼として必要な強さを教えているといった方が適切かもしれない。
吸血鬼はまず、何よりも強くなくてはならない。強くなければ人間を従える事も出来ずに、またその資格もないのだ。そういう意味では、前の王は絶対的に強さが足りなかったと言える。
フランドールは吸血鬼らしく力強い。そして魔力もその身に膨大に秘めている。だが、それらで僅かに劣る姉には、いくら戦いを挑んでも勝てはしないのだ。
レミリア・スカーレットは今までの長い人生で、この王国を築くために、姉として妹を守る為に、そして吸血鬼として在り続ける為に、戦い続けてきた。その今までの戦いの経験が、フランドールにはないのだ。
今宵もフランドールは、息を切らして地面に倒れる。肉弾戦だけでも疲労困憊しているが、この後には魔法の撃ち合いや、使い魔の召喚についても姉から指導を受けなければならない。
「フランドール。立ちなさい。この程度で音を上げていては、吸血鬼として失格よ」
「はい……お姉さま……」
フランドールは覚束ない足取りで立ち上がる。彼女の顔には、何時も見せているような無邪気な笑顔はなかった。それを見てレミリアは、満足そうに薄く笑う。
「そう、その顔よ。敵に敵意を向けなさい、私に殺意を見せなさい」
レミリアは腕を組んで妹の前に立ちふさがった。月を背にしたその姿は、フランドールには一生超えられない、大きな壁のように見えた。
妹のフランドールには、吸血鬼らしい残酷さが足りない。と、レミリアは常々思っていた。力は充分に持っているのに、何時まで経っても無邪気な笑顔で、絵本やぬいぐるみと戯れている。フランドールが吸血鬼らしくなれば、この王国はより安泰である。レミリアは、そのように考えていた。
「さぁ、来なさいフランドール。その全てを破壊する力を、私に使いなさい」
フランドールは鋭い目付きで姉を睨んだ。その目付きの裏には、途中まで脳裏に描かれていた美しく楽しい空想の世界が、姉の手によって引き裂かれた恨みがあるかもしれない。
「そう、その目がいいわ。自分の障害になるものは、言葉を発する前に屠り去る。それが吸血鬼の特権よ」
レミリアは、妹から本気の攻撃が来ることを予想して、喜びながら構えをとった。レミリアも妹の力自体は認めている。万が一にも攻撃を受けたら、例え自分でも無事では済まないだろうと理解していた。
だが、フランドールはその鋭い表情のまま動かずに、やがて氷が溶けるように表情を元に戻していった。
「……出来ないわ、お姉さま」
「……駄目な子」
レミリアは頭を抱えて、フランドールの前から去っていった。
これで何度目であろうか。フランドールは何度教えても自分を殺そうとしてこない。
吸血鬼としての強さは、持っているだけでは意味が無いのだ。それは実際に行使してこそ威力を発揮する。
「ふーむ。実際に危険な目にでも遭えば覚醒するのだろうか……。だが、その時には手遅れになるやも知れない」
レミリアはあれこれと考えながら紅魔館に戻っていく。すると、すぐさまにメイドがレミリアの側について世話を始めた。
「お嬢様、おかえりなさいませ。食事の用意は出来ておりますが、どのように致しますか」
「あー、ちょっと汗をかいたから、シャワーを浴びてくるよ」
レミリアは伸びをするように、背中から生えた立派な蝙蝠の羽を2、3度羽ばたかせて欠伸をした。まだ夜になったばかりだというのに、レミリアは少し眠気を感じている。
それは妹が、自分の思い通りに成長しない事に対する倦怠感からくるものかもしれない。
「あいつは吸血鬼失格だな」
ポツリと零れた自分の言葉に、レミリアは自ら驚いた。いつの間にか、あれほど溺愛して守ってきた妹の事を疎ましく感じている。
「いや、そんな事はない」
言葉に出して否定した。もしかしたら自分は矜持に酔い過ぎて、鼻持ちならない奴になっているかもしれない。レミリアはその様に思って、自らを諌めた。何事も自分の言うとおりになる事はないのだ。この箱庭とて100人の人間がいなければ存在出来ない空間である。――吸血鬼一匹だけが住む領地、それは王国とは言わないだろう。
妹もまた然りだ。彼女は自分以上の暴力を秘めているものの、それが彼女自身の性格とは、合わないのかもしれない。それを無理矢理に変える事もないだろう。
「時間を掛けてやっていくか」
幸いにして自分は吸血鬼である。謳歌出来る時間は腐る程あるのだ。
◇ ◇ ◇
レミリア・スカーレットには自負心がある。両親が死んだ時、まだ幼く一人で生きる術を持たない妹のフランドール・スカーレットを、たった一人で守って育ててきたという自負心がある。そして一人でヴラド・コミュニティに乗り込んで、この王国を奪い取ったという自負心がある。
だからフランドールが持つ、闘争を知らない無邪気な明るさに、嫉妬をしているのかもしれない。あるいは彼女が自分以上に破壊的な力を持っている事、そして、それを使役しようとしない妹に、もどかしさを感じているのかもしれない。だが、それらの雑多な感情に自らの行動を縛られる程、レミリア・スカーレットは俗ではないつもりだ。
レミリアはあくまでも、妹が吸血鬼として生きていけるよう、彼女を厳しく鍛えているのである。指先一つで他の命を奪えるような暴力を、人々の心を集めてその頂点に君臨出来るような魅力を、そういった全ての“力”を得られるように育てたつもりであった。
さて、数十年が経つと、紅魔館の中で働くメイドたちの顔ぶれも大分変わってくる。
大体、齢30を過ぎるとメイドたちは丘の下の村に戻って結婚し、子供を産み育てる。そして10を過ぎたあたりまで成長した子供たちが、代わりに紅魔館へと働きにやってくるのだ。
其の様にして、このヴラド・コミュニティ――レミリアの王国は回っていた。
一方で人間の男たちはというと、村で農作物を作ったり、工芸品を作ったりとしていた。また紅魔館で力仕事が必要になれば駆り出されていく。そして紅魔館から引き上げてきた女たちと結婚して家庭を持つのだ。
メイドたちが引退して紅魔館を去る時には、大広間にて晩餐会が開かれる。
普段はレミリアと共に食事をすることはないメイドたちであるが、この最後の時は主と共に夕餉を楽しめるのであった。
引退するメイドたちとレミリアは、紅いワインを互いのグラスに注いだ。メイドたちのものは人間用の上等なワインであったが、レミリアのそれはメイドたちの血液がブレンドされている特別なワインであった。
「今までご苦労だったね。村に行っても元気にやるといい」
「はい、お嬢様」
原則的に、彼女らがレミリアの事を「お嬢様」と呼ぶのもこれが最後であろう。メイドたちは主との別れを惜しんだ。
この晩餐会に、フランドールの姿は見られなかった。彼女は今、自分の部屋で一人過ごしているに違いない。
これはレミリアが、人間がフランドールに与える影響を考慮し、人間との交流を制限している事の象徴的なエピソードであった。
あまりにも過保護であるとメイドたちも思ってはいたが、それを主に進言する事は、従者としてのプライドが許さなかった。従者は主に逆らう事はしない。例え、それが誤った道であろうとも、主と共に誤った道を進むというのが、ヴラド・コミュニティにおける従者の或るべき姿であった。
だが、そんな独りぼっちのはずのフランドールの部屋に、一人のメイドの姿があった。
フランドールはそのメイドと共に、賑やかな大広間から聞こえてくる喧騒を背景に、一冊の絵本を読んでいた。
そのメイドは名をサーニャといった。彼女は10歳の頃から紅魔館で働き始めており、今は25歳になっていた。
サーニャはフランドールと仲が良かった。もちろんレミリアには内緒であったが、しょっちゅう、このようにしてフランドールと共に遊んでいたりするのだ。
フランドールに外から流れてきた本などを与えるのもサーニャの仕業であったが、レミリアもこういった動きに気づかぬほど愚鈍ではない。だが気づいていても見ぬ振りをしている。――独りぼっちのフランドールに対する負い目が、レミリアにそうさせていた。
「サーニャ、なんで私はパーティに誘われないのかしら? お姉さまはやっぱり、私の事を嫌いなの?」
フランドールは読み終わった絵本をベッドの下に隠すと、サーニャに向けて言った。サーニャは肩まで伸びたブロンドの髪を、笑い声に合わせて揺らしながら答える。
「そんな事はありませんよ。むしろ、お嬢様は妹様の事を心配しすぎているから、パーティにも呼ばれないのです」
「でも、私はパーティで皆と一緒に遊びたいなあ」
「パーティには絵本も玩具もありませんよ。あるのは美味しいお酒とお食事だけです」
それを聞いたフランドールは、頬を膨らませて羽をばたつかせた。
「そんなの分かってるわよ! ……パーティに参加出来なくても、他のメイドたちと会いたいなあ。私はサーニャしか人間を見たことがないんだもの」
「妹様……」
フランドールの羽が、彼女の心に合わせるように垂れ下がって落ち込んだ。
彼女の羽は至って特別である。通常の吸血鬼の羽はコウモリのような黒い羽であるが、彼女の場合には羽の代わりに七色の宝石が垂れ下がっているような特異な形状をしている。これについては彼女が生まれた時に両親もレミリアも驚いたものだが、実際のところ吸血鬼は羽が無くても飛べるので、差し当たって気にも止めていなかった。
だが、フランドール自身はこの羽の事をいたく気にしていた。何故、姉と同じような普通の羽ではなかったのか。フランドールは普通とは違う自分が嫌であった。
「ねぇサーニャ。なんで私はこんな翼なのかなあ? やっぱり私はお姉さまとは違うのかな? だから吸血鬼として相応しくないのかなあ」
「妹様、誰もそんな事は言っていませんよ。貴方は充分に吸血鬼として立派です。ただ、お嬢様が吸血鬼らしくありすぎるだけ」
「そうかなあ。だって私、お姉さまと戦う度に言われるの……『吸血鬼として失格ね』って。やっぱり私は、吸血鬼に向いてないんじゃないかって思うわ」
サーニャは自然な笑顔のままに、フランドールの側に寄った。そしてベッドに腰掛けているフランドールに向かって、こう囁くのであった。
「妹様、貴方は充分に吸血鬼として立派です。その暴力も魅力も充分過ぎる程にお持ちです。だからどうか、ご自分で苦しみ過ぎないように」
そういうとサーニャは、フランドールのおでこにキスをした。フランドールはそれがとても好きだった。年齢こそ390歳ほどフランドールの方が上であったが、サーニャはフランドールにとっては、まるで母親のような存在だったのだ。
「それじゃあ、おやすみサーニャ」
「妹様も朝になったら、ちゃんと寝るんですよ」
そう言って部屋から出て行ったサーニャは、大きな欠伸をした。彼女たち人間は吸血鬼とは逆の生活をしなければならない。一週間に一度は、交代制で夜の勤めがあるのだが、今日のサーニャは昼間の仕事であった。彼女は睡眠を摂ろうと、紅魔館の中にある自分の部屋に歩いていった。
◇ ◇ ◇
レミリア・スカーレットは概ね満足した。
この何年かで妹のフランドール・スカーレットは、吸血鬼として充分な力を得る事が出来た。これならば自分がいなくても、この王国を守ってくれる戦力となるだろう。なにせフランドールは、全てを破壊する力を持っている。それは自分にはない力。姉妹で一つとなって王国を永遠のものにしていける。――その様な夢を、最近は考えるようになった。
しかし、そんな矢先にちょっと困った事になった。どうも最近、村近くの森にグリフォーンが現れるというのだ。
グリフォーンは外の世界では見なくなった妖獣であるが、このヴラド・コミュニティはそういった異物を呼び寄せる力がある。そのグリフォーンも、そうしてヴラド・コミュニティに迷い込んでしまったのだろう。
いかに大勢の人間といえども、グリフォーンのような化物が村近くに現れたとなれば、手も足もでない。犠牲者が出る前に、丘の上にいる主へと話を通した訳である。
レミリアもグリフォーンと戦った事はないが、負ける気は全くしなかった。とりあえず、領民を守るのが王としての義務である。彼女は二つ返事でグリフォーンの討伐を約束した。
「そういうわけで、今夜は晩餐会が終わったら、森の方にグリフォーン狩りに行ってくるわ」
自分に付いているメイドにそういうと、レミリアはパーティドレスに着替え始める。
そう、今夜もメイドたちを見送る晩餐会が開かれる。今夜に紅魔館を去るのは5人程のメイドたち。――そして、その中にはあのサーニャもいた。
真っ赤なドレスに着替えたレミリアは、まるで肖像画に描かれた王女のように気高く美しい。誰もドレスが赤いのは、レミリアが赤ワインをよく零すためだとは思うまい。
「よくお似合いですわ、お嬢様」
「当然よ。それじゃあ、行きましょう」
レミリアは晩餐会の開かれる大広間へと歩いていった。メイドたちは足音も立てずに、一糸乱れず足を揃えてそれについて行く。
晩餐会はいつも通り盛大であった。去りゆくメイドたちは、紅魔館での最後の時を目一杯楽しむ。だが、そんな中に一人だけ、浮かない顔のメイドがいた。いや、表向きは明るく振舞っているのだが、レミリアの目にその心の内を看破されてしまう。
「どうしたサーニャ、浮かない顔だな」
レミリアはそのメイドに声を掛ける。メイドの一人ひとりはよく覚えていないレミリアであったが、非公式ながら妹付きになっているサーニャの事は知っていた。
「あ、お嬢様……。いえ、なんでもございませんわ。紅魔館での最後の時を楽しませて頂いてます」
「ふむ、フランドールの事か?」
レミリアは有無をいわさぬ、といった屹然とした態度で言った。
レミリアの言葉に、全てを話すように要求されたと悟ったサーニャは意を決して、自分の思いを主へと伝えた。それは、彼女にとって命がけの伝心である。
「レミリアお嬢様。どうか妹様を、この晩餐会へと呼んで頂けませんか? 私が紅魔館から離れる事を知ったら、妹様はきっと悲しんでくださるに違いありません。出来る事ならば最後に、ここで別れを告げたいのです」
サーニャの言葉に、周りのメイドたちは凍りついた。ひっそりとフランドールに会っていた事は、メイドたちの間では周知の事実であったが、それをレミリアに伝える事は、主の『フランドールと関わるな』という命に逆らっていたという告白と同義であるからだ。
その場で断罪されてもおかしく無い。メイドたちが緊張するなか、レミリアは「ふーむ」と唸って飲みかけの赤ワインを口に注ぎ込んだ。
「サーニャ、それはいい案かもしれない。私もいい加減、フランドールを人間と関わらせるのもいいかと思っている。どうだ、今から呼んできたら良い」
主の予想外の言葉に、メイドたちは胸を撫で下ろした。サーニャはワインでほんのりと赤くなった頬を、興奮で更に赤くして喜んだ。
「あ、ありがとうございます。お嬢様! それでは失礼します」
サーニャはフランドールを呼ぼうと、転びそうになりながら大広間から出ていった。「あんなに慌てて。そんなに妹をパーティに呼ぶのが嬉しいのかね」レミリアとメイドたちは笑い声を上げた。
「さぁ、お前たちもフランドールが来るのに覚悟して、構えておけよ。もしかしたらアイツ、初めて見る大量の人間に驚いて一発かましかねん」
レミリアは上機嫌でそういった。
彼女も、きっかけが欲しかったのだ。最初に人間と会わせずに吸血鬼として一人前に育てると決心した自分の考えは、そう簡単に曲げる訳にはいかない。それが彼女の持つ矜持と性である。
しかし、レミリアは最近思っていたのだ。自分の育て方は間違っていたのではないかと。人間を知らずして人間を統べる事は出来ない。人間と関わる事は、人間を統べる吸血鬼としても必要な事だったのではないかと。
「フランドール、あの子には……。悪いことしたかな」
そう言いつつレミリアは、血の混じったワインを飲み干した。吸血鬼といえども酒には酔う。しかし、彼女は思考と肉体を撹拌できる故に、酔いに飲まれる事もなかった。
「レミリア様!!」
大広間に突如、メイドの声が響く。扉を開けて駆け込んできたそのメイドは、息を切らし、額からは滝のように汗を流している。
この紅魔館では、何人たりとも汗をかいて息を切らすという無様な真似は許されない。それはメイドたちも重々承知している、だからこそ、駆け込んできたメイドが抱える緊急性をすぐに察知出来た。
「どうした! 何があったか?」
「は、西の村に例のグリフォーンが現れて暴れています! 既に犠牲者も出ていると……」
それを聞いたレミリアはワイングラスをテーブルに置くと、トンと床を蹴った。そしてふわりと空中に浮くと、メイドたちに向かって命ずる。
「私は村に行く、お前たちは紅魔館の留守を守れ!」
「はい、お嬢様」
メイドたちは一斉にレミリアに頭を下げる。それを見届けてから、レミリアは天井に向かって突進した。
天窓を突き破ったレミリアは夜の空に舞った。小高い丘の上からはこのヴラド・コミュニティを一望出来る。大きく翼を羽ばたかせたレミリアは、一つの村の一角に視線を合わせて身体をそちらへ向けた。――彼女の鼻腔を震わせる、血の匂いの漂ってきた方向である。
レミリアは一瞬にして加速すると、風よりも早く夜空を駆けた。亜音速に到った吸血鬼は、周囲に強力な衝撃波を巻き起こしながら一気に地上まで突き進んだ。
「私の領地で、好き勝手やってくれたようだね」
レミリアの目の前には、大きな妖獣が佇んでいた。それは鷹の首を持ち、馬の下半身を持った大きな獣。口からは、喰いかけた人間の腕が一本、見えていた。
「なんだ、ヒッポグリフじゃないか」
レミリアは拍子抜けしたように目の前の妖獣に言った。それを理解してかせずか、ヒッポグリフは雄叫びを上げてレミリアに敵意を向ける。
ヒッポグリフはグリフォーンと馬の合いの子である。気性はグリフォーンよりもおとなしいとされるが、知性が低く人肉を好む事から、グリフォーンよりも獣害が発生する可能性は高いと言われているのだ。
レミリアは、ヒッポグリフに荒らされた村の様子を観察した。家の扉が正面から突き破られて、中から追い出された人間が捕食された様子。周りには食いかすが散らかっており、少なく見積もっても3人は殺されたに違いない。
「お行儀が悪い奴だねぇ。人の家に来た時は、もっと行儀良く食事しな」
レミリアは人差し指を動かし、ヒッポグリフに向かって「かかってこい」と挑発した。
そのレミリアの態度は妖獣にも伝わったのか、ヒッポグリフは再び大きな雄叫びを上げると、蹄を蹴ってレミリアへ向かって突進した。
その鋭い嘴による一撃を受ければ、レミリアといえども無事ではすまない。
だが問題は、レミリアにとって、そのヒッポグリフの動きがあまりにも遅すぎるという事であった。
――ザシュ
ヒッポグリフの身体がレミリアと交錯した時、心地の良い音が夜空に響き渡った。それは鋭い刃物が固い肉を引き裂いた音。
――ギシェエェエエエ
ヒッポグリフの口から、凄まじい断末魔が響いた。鎧のように固い筋肉に覆われたはずの脇腹は、しかし、レミリアのクローによって大きく割かれ、血と臓物を垂れ流しにしている。
数歩よろめいて、ヒッポグリフが地面に倒れると、レミリアは振り返ってその屍体を眺めた。久々に生き物を自分の手で殺した。だがその手応えのなさに、自分は『誤っていた』と感じた。
必要以上の力は、無意味だ。このヒッポグリフよりも妹のフランドールの方が、きっと何倍も手強いに違いない。妹に求めていた強さとは、一体何の為の力だったのか。レミリア・スカーレットはこの時に、自分の行っていた行為を過ちであったと、初めて認めた。
しかし、その様な考えに耽っていたレミリアに向かって、上空から一閃の刃が襲った。
レミリアは直前に気付き、余裕を持ってその凶刃から身を逃れた。彼女にとっては、その刃が身体に刺さる前であったならば、それは全て避けられる攻撃なのである。
空中で振り返ったレミリアは、そこにヒッポグリフの姿を見た。その一頭は先程、レミリアが屠ったものよりも一回り大きく、その目は何か燃え滾る怒りに染まっていた。
「……つがいか」
レミリアは腹を割いたヒッポグリフの屍体を一瞥してから、目の前の獰猛なる獣に視線を戻した。
恐らくは二頭揃って、このヴラド・コミュニティに迷い込んできたのであろう。ヒッポグリフは、栄養を摂るために人間の村を襲ったものとみられる。
仲間を殺されたヒッポグリフは、怒りに全身を震わせて、仇をとらんと嘴を鳴らした。
「さて、どうするかな」
レミリアはドレスの懐からナプキンを取ると、血に濡れた左手の爪を丁寧に拭いた。脇腹をこちらへ向け、横目で睨みつけて、間合いを図っているヒッポグリフ。それに向けて、レミリアは問うた。
掛かってくるならば殺すし、掛かってこなくても殺す。どちらにせよ、お前の命はない。というメッセージを、レミリアはその赤い瞳に込め、彼に視線を送る。
ヒッポグリフはもう一度、殺された仲間の死体に視線を送ると、怒りの咆哮が如く大きな雄叫びを上げた。
「来るか、良いだろう。最後まで生物として足掻いて見せよ」
ヒッポグリフの身体には、幾つかの生傷が見える。我が領民たちは、最後まで生物としての矜持を持ち、必死に抵抗したのだと、それを見たレミリアは誇らしげに思っていた。
蹄が地面を蹴った。加速した巨体は、先端に持った鋭い刃で吸血鬼の心臓を狙い、一直線に襲いかかる。
レミリアは身を躱しながら左手の爪を振るった。ヒッポグリフの嘴は空を切って、一方レミリアの爪は再び獣の脇腹を切り裂いた。
――浅い
吸血鬼は、そのまま宙へ飛んだ。そして、交錯したヒッポグリフへと向き直る。手に残った感触は、先程のように臓腑まで抉るような感覚ではない。ヒッポグリフも攻撃が躱された瞬間に身を捩り、レミリアの爪から僅かに命を守ったのだ。
ヒッポグリフは脇腹から多量の出血をしながらも、まだ闘争心を失わずに宙を舞う敵を睨みつけた。
「なるほど、野性の成せる業か……。本能がない我々からすると、羨ましくも思う……が」
レミリアは掌をヒッポグリフに向けた。肉弾戦で決着をつけるのも悪くはない。しかし、これ以上に無様な戦いをするのはレミリアの信条に反した。
「一撃でどちらかが死ななかった。それが、お前の運の悪いところだよ」
レミリアの前方に、赤い魔法陣が展開された。それは村全体を、夜全体を赤く染めるような、峻烈な光を放っていた。
ヒッポグリフは最期に雄叫びを上げつつ、翼を広げレミリアに向かって突進した。
レミリアが何事か早口で呟く。その瞬間、展開されていた赤い魔法陣から、何かが飛び出した。
それは赤い光の鎖。魔法によって生み出されたその鎖は、先端を槍の穂先に変えて、ヒッポグリフへと襲いかかった。
――ギィィシェエェェ
ヒッポグリフは、まるで恐怖したかの様に雄叫びを上げると、急に軌道を変えてレミリアの鎖から逃れるようにした。
だが、その赤い鎖は逃げる事を許さないように、確実にヒッポグリフに向かって追尾をしはじめた。
暫くは跳び回って逃げていたヒッポグリフであったが、やがて周りを鎖に囲まれ、逃げ場を失う。
鎖はゆっくりと、だが力強く獣の身体を貫いた。四方から一斉に鎖に貫かれたヒッポグリフは、空中で細切れの肉片にされて、夜空に血肉を降らせた。
「……さて、いい酔い覚ましになったわ」
レミリアは左手についた血を小さな舌で舐めとると、翼を広げて紅魔館へと帰った。月は彼女の凱旋を歓迎するように、紅魔館の後ろで明るく輝いている。
◇ ◇ ◇
レミリアは玄関から帰ってきた。行きは急を要したので天窓を突き破って行ったが、思えばあれも日光が入らないように特殊な硝子を使った天窓であった。再び村の職人に修理を頼むのも面倒くさいし、負い目を感じる。そんな感情があったから、レミリアは大人しく正面から我が家に帰ってきた。
「ただいまー」
レミリアは玄関ホールへとやってくると、大きな声でそう言った。何時もならば、レミリアが挨拶をする前にメイドたちが一斉に「おかえりなさいませ、お嬢様」と言うはずなのであるが、この時は何故か返事がなかった。
「おかしいわね。あの子たちがこんな失態を犯すなんて……」
そう思いながらレミリアは、取り敢えず大広間へと向かう事にした。もしかしたら、いや、そんな事はあり得ないが、メイドたちが全員酔いつぶれている可能性もある。
「いやいや、まさかね。そんな事だったならば、全員きっつくお仕置きしてやるわ」
レミリアは笑い声を上げた。だが、いつもメイドが等間隔に控えている廊下に誰もいない事が、レミリアには不安であった。何故、誰一人としてメイドの姿が見えないのだろうか。無言の紅魔館の廊下をレミリアは静かに歩いていく。
「……おかしいわね、なんでこの廊下……。紅いのかしら」
レミリアはそこで、もう一つの異変に気付いた。純白の壁や天井で覆われているはずの紅魔館の廊下が、何故かレミリアの目には、真っ赤なペンキで塗られてしまったかのように赤く見える。
「……血か」
そこでレミリアは気付いた。この廊下を赤く染めているのが人間の血液であると。吸血鬼の鼻腔は人間の血に慣れすぎていて分かりづらかったが、気をつけてみれば、この廊下は確かに血の生臭さで満ちていた。
レミリアは床を蹴ると、廊下を疾走して大広間へと急いだ。
自分がヒッポグリフを狩っている間に、この紅魔館に何が起きたというのだ。――レミリアは自分の心臓が、生まれて初めて高なるのを感じた。
――バタン
大広間の扉を開けたレミリアは、目の前の光景を理解するのに暫くの時間を要した。
まず目に入ったのは、料理や酒が並ぶテーブルの真ん中。膝を抱えて座っているわが妹。そして耳に聞こえてくるのは、その妹のすすり泣く声であった。
壊された天窓から差し込む月の光が、大広間の様子を鮮明に映し出す。
いや、レミリアには暗さなど関係なく、その光景は見えていた。だが、彼女の意識が、その光景を受け入れる事をしばらく拒んでいたのだ。
広間も同じく赤に染まっていた。だが違うのは、その原因が目に見えている事であった。
床に転がるのは人間であったもの、その多くは跡形もなく消え去ってしまったのであろうが、ここでは幾つかの残り粕を見る事が出来た。
決定的なのは、妹が両腕に持つ人間の頭であった。それは、そう、あのメイドのサーニャであった。
「フランドール」
「……ぐす……お姉さま」
レミリアは唇を震わせながら妹に歩み寄った。フランドールは膝に押し当てていた目を、歩み寄ってくる姉に向けた。
「これは、これは一体どういう事なの」
「聞いて、お姉さま。サーニャが紅魔館からいなくなっちゃうって私に言ったの。だから私は行かないでって、お願いしたの」
「それで」
「でも、サーニャは言う事を聞いてくれなかったの。だから私はサーニャを殺したの……。そしたらサーニャったら動かなくなっちゃったの」
「」
レミリアは自分の中にあった、その全ての矜持が崩れ去っていく音を聞いた。言葉が出なかったというよりは、言葉を失ったという方が適切である。
「そしたらね、周りのメイドたちも大騒ぎしたの。だから私は『お姉さまには言わないで』って、お願いしたの」
フランドールは大事そうにサーニャの首を抱えて、テーブルの上に立ち上がる。背中の七色の宝石がぶつかりあって、カチャカチャと軽い音を刻んだ。
「でも、皆が私の言う事を聞いてくれなかったの。だから、皆を殺したの。そしたら、気づいたら誰もいなくなっちゃった」
「フランドール」
レミリアは、全身から力が抜けていくのを感じた。妹の名を呼ぶのが、やっとであった。
――そうか、私は間違っていた。
レミリアは口中で呟いた。
フランドールに吸血鬼としての生き方を教える事に執着して、彼女に王としての生き方を教える事を忘れていた。
いや、これは王としてですらない。生き物としての矜持を、この妹は知らずに育ってしまったのだ。
このような事は先程屠ったヒッポグリフですら知っている事。この妹、フランドールはヒッポグリフにも劣る獣である。
そして、そのように育てたのは他でもない、レミリア・スカーレット自身なのである。
彼女は今まで長年に渡って自分が培い、そして自分の生きる糧となっていた矜持を失った。
紅魔館のメイドたちを全て失ったと同時に、レミリアは王としての資格も失ったのである。
そうなれば、後の自分に残された責務は。この獣に自らの手で裁きを下す事だけである。――それが王としての最期の、レミリア・スカーレットの出来る、唯一の罪滅ぼしである。
「フランドール。フランドール・スカーレット。わが妹よ」
「何、お姉さま? もしかしたら、サーニャや他のメイドを治してくれるの?」
「フランドール。私たちは首がもげようが、心臓を貫かれようが死にはしない。だけど人間は脆いものよ、ナイフの一突きで、あっさりと命を落とす」
「そんな、じゃあもう、サーニャとはお喋り出来ないのかしら? うぅ……ぐす」
レミリアは掌に魔力を集めた。それは掌の上だけに収まる光であるものの、渦巻く魔力はまるで地獄の業火であった。
そして、その紅く熱い業火は、やがて槍へと具現化し、レミリアの手に収まった。
「大丈夫、すぐにサーニャにも会えるわ。私が貴方を殺すのだから、フランドール・スカーレット」
レミリアの手から放たれた神の槍は、あどけない顔の悪魔を串刺しにした。
◇ ◇ ◇
フランドールは大変喜んだ。部屋にサーニャがやって来たと思ったら、なんと自分もパーティに参加しても良いというのだ。フランドールは、クローゼットから埃を被ったドレスを引っ張り出して、それに着替えた。姉のお下がりらしいが、フランドールにとっては、むしろそれが嬉しかった。
「これでお姉さまと一緒ね」
小さな身体には凡そ似合わないデザインであったが、不思議と吸血鬼には似合うドレスである。これも村の仕立屋が、姉の為に作ったものだからだろう。
「ええ、とてもお似合いですよ。妹様」
サーニャに褒められたフランドールは、ニコニコと笑顔でパーティ会場にやってきた。扉を開けると、そこには豪勢な食事、そして見たことがない大勢のメイドたち。フランドールにとっては、それは絵本の中の幻想の世界よりも、楽しく幸せに感じる世界だった。
「うわー、美味しそうなお食事ね」
「初めまして、妹様。どうぞお召し上がりください」
メイドたちは一斉に頭を下げた。その様子にフランドールは少し照れて「えへへ」と笑った。
サーニャはレミリアが居ない事に気づいて、メイド仲間にこっそりと耳打ちして事情を聞いた。そして、話を聞いて天窓を一回見上げると、すぐにフランドールの側に戻った。
「どうですか妹様、紅魔館自慢のご馳走は」
「うん、すごく美味しいわ。人間の血よりも、ずっと美味しい」
――レミリア様が聞いたら折檻ものだろうな。そのようにメイドたちは思いながらも、素直に感想を述べるフランドールに、レミリアとはまた違った魅力を感じていた。吸血鬼というのは全て、人間を魅了する力を備えているものなのだ。
椅子にきちんと座って、せっせと鶏肉を頬張るフランドールは、やがて一つの疑問を持った。
「ねぇ、サーニャ。ところで、これは何のパーティなのかしら?」
フランドールは知らなかった。これが長年、自分に付き添ってくれたサーニャの別れを記念した宴だという事を。
サーニャは言いにくそうに、しかしこの機会を逃せばますますと言いづらくなると考えて、フランドールに切り出した。
「妹様、実はこのサーニャ。明日には、この紅魔館を離れて丘の下にある村へと帰るのです。このパーティは、そうして紅魔館を離れるメイドたちを見送る宴なのです」
それを聞いたフランドールは食事の手を止めて、隣に佇むサーニャの顔を見た。その視線に耐えられなくなったサーニャは、胸を締め付けられる思いで視線を逸らした。
「え、サーニャとお別れなの……?」
「はい。村はすぐ近くにありますから、ずっとお別れという訳ではありません。しかし、妹様も簡単には紅魔館を出られないでしょうし、暫くはお会い出来ないでしょう」
それを聞いたフランドールはやがて、手に持ったナイフを震わせて、皿をカチカチと鳴らした。そして、その大きく真っ赤な瞳から大粒の涙を流し始める。
その姿にサーニャはもちろん、周りのメイドたちも思わず言葉に詰まった。
「嫌よ! サーニャ、ここを出て行かないで!」
「すみません、妹様。こればかりは、この国の決まりごとなのです。私も村で子供を産み育て、お嬢様と妹様のお世話をする次の世代へと、繋いでいかなければならないのです」
サーニャはその様に説明するが、フランドールは到底納得が出来なかった。
――ずっと一人であった。厳しい姉に育てられた彼女にとっては、サーニャだけが心の依り処だった。それが明日からは突然いなくなるとなれば、フランドールが癇癪を起こすのも無理はない。
「嫌! お姉さまはどこ!? お姉さまに言って、サーニャをずっとここに置いてもらうわ!」
「駄目です、妹様。そのような事をおっしゃっては、お嬢様に叱られてしまいます。私のせいで、妹様が辛い目にあってしまうのは耐えられません」
断固として姿勢を崩さないサーニャの物言いに、フランドールもついに、これがもう変えられない事実なのだと分かってしまった。だが、それを理解する事と受け入れる事とは別である。フランドールは首を強く横に振って拒否の意思を示す。
「妹様、宴もたけなわ。そろそろ、お別れですわ」
サーニャの言葉が、フランドールの耳に入った時、その吸血鬼は頭の中で考えていた。
自分の言う事を、この人間どもは聞いてくれない。そういう時にどうすれば良いのか、それは姉が口酸っぱく教えてくれた。
――そう、自らの力を使って統べるのだ。その為に、吸血鬼は力を持っている。
フランドールは、この時は初めて姉の言葉を理解し、また今までの厳しい教育に対して感謝した。
「駄目! サーニャはずっとここにいるの!!」
フランドールの悲痛な叫びと共に、その右手はメイドの腹を突き破った。サーニャは一瞬、自分の身に何が起きたのか理解出来なかったが、数瞬遅れての激痛と共に、全てを理解してフランドールの泣き顔を見た。
「妹……様…」
口から滝のような血を流しながら、サーニャはフランドールに向かって手を伸ばし、そして途中で力尽きる。
彼女はフランドールに殺された事を理解しても、なお怒りも恨みもしなかっただろう。ただ何も知らぬ幼い吸血鬼の事を、哀れみながら逝った。それが一人の完璧なる従者の矜持であった。
フランドールの顔には、サーニャの口から流れ出た赤い血液がかかる。その一滴を口に含めたフランドールは「なんて熱くて、美味しいのかしら」と思った。
「ひ、ひぃい」
サーニャが倒れた瞬間に、メイドたちは悲鳴を上げて後退りした。レミリアによって長年、完璧であるように教え込まれたメイドたちも、仲間を目の前で殺されるのを見て落ち着ける訳はなかった。
何人かのまだ若いメイドたちが、大広間から出ようと素早く扉に駆け寄った。
「あっ、待ってよ!」
フランドールもその様子を見て、自分が何か失態を犯したと理解して、逃げ出そうとしたメイドを呼び止めた。だが、もちろん恐怖に囚われたメイドは止まらずに扉を思い切り開いた。
「待ってってば!」
フランドールは右手を差し出して、逃げ出そうと背中を見せているメイドに向かって睨みを聞かせた。
その右手にはメイドたちの命が軽く握られていた。フランドールは物を破壊する事に長けている。それは圧倒的な暴力や魔力だけではなく、物を破壊するという能力自体を有しているからである。
メイドの身体の最も脆い部分を見抜いたフランドールは、その部分を自らの掌の中に移動させると、拳を握りつぶした。きゅっ、と何かを握りつぶした感触が、フランドールの掌に感じられた。
――パン
グラスを思い切り壁に叩きつけたように、メイドの身体は粉々に割れて四散した。それはフランドールにとっては、少し立ち止まって話を聞いて欲しいというだけの意思表示であった。
「い、いやあああああ」
四散したメイドのすぐ横にいた者は、血肉を浴びながら半狂乱になって廊下へと駆けていく。
「だから、待ってって!」
フランドールは慌てて、そのメイドを追いかけた。自分の仕出かした事で、何かメイドたちは慌てふためいている。これは姉に知られたら、きっと怒られるに違いないとフランドールは思ったのだ。
一方で、大広間に残された何人かのメイドたちは、呆然と血に染まった宴の跡を見つめていた。
そのうちの何人かのベテランメイドたちは、それほどせずに正気を取り戻すと、フランドールを止める為に彼女を追いかけていった。
それ以外の者たちについては、サーニャへと駆け寄って治療をしようとし、彼女が既に事切れている事を確認すると項垂れた。
「待ってよ! お姉さまには、この事を言わないで!」
フランドールは叫びながら全力で逃げるメイドに追いついた。所詮は人間の足、フランドールにとって追いつくことは造作も無い。
「ねぇー、聞いてるの? お姉さまには内緒よ」
「あぁ、ひぃいい」
フランドールに行く手を塞がれた、まだ顔に幼さの残るメイドは、涙を流しながら首を振り乱して拒絶の意思を示した。
――駄目だ、この人間も私の言う事を聞いてくれない……。
そうなればフランドールは、自分の力で人間を従えなければならないのだ。
彼女は右手で、目の前の生き物の命を握りつぶした。廊下の先から響いた破裂音を聞いたメイドたちは、遅かったと思いながらもフランドールの元へ追いついた。
「妹様、お待ちください。それ以上は、おやめ下さい!」
メイドたちは戦いの構えを取りながらフランドールに叫んだ。そのメイドたちはフランドールに明らかなる敵意を向けてしまった。
――この人間たちは、何故私の言う事を聞いてくれないのだろう?
何故、自分だけが否定されなければならないのか。初めて見る大勢の人間に、大勢の否定の意思を見せつけられたフランドールは、とても悲しい気持ちになった。
――駄目だ、この人間たちにも見せつけなければならない。私の“力”を。
フランドールは力を見せつけた。その暴力は人間の身体を壊し、蹂躙し、その血を辺りに撒き散らす。
一瞬で、長年に渡り鍛え上げられた従者たちの肉体は爆ぜた。フランドールは満足気に、しかし自分に従ってくれるものが未だに一人もいない事に寂しさを感じながら、大広間へと歩みを戻した。
大広間へと戻ってきたフランドールは、幾人かのメイドたちに取り囲まれる。メイドたちにしてみても、もはや言葉の通じる相手ではないと覚悟し、戦う意思を固めていた。
主の妹ではあるものの、こうなっては最早ただの化物である。彼女らは主から教え込まれた戦い方の全てを使って、この化物を止めなければならないと思っていた。
――なんで、また私の事を、仲間外れにするの?
「なんでよ!」
フランドールは握りつぶした。目の前に群がる人間どもの命を、そしてその身体を。彼女たちは抵抗らしいものも出来ずに、その生命を散らす。元より、吸血鬼相手に人間が対抗する術は皆無に等しい。フランドールが一つの傷も終わずに、全てのメイドを殺し得たのは当然であった。
血溜まりになった大広間の真ん中、そこに置いてあったサーニャの身体も、他の人間の爆発に巻き込まれて粉々になってしまった。
フランドールはその中でも、一番大きな破片を両手で拾い上げると、その光を失った双眸に向けて話しかける。
「ねぇ、サーニャ。これで分かったでしょ? 貴方はずっと、この紅魔館で私と一緒に遊んだり、絵本を読んだり、お喋りするのよ」
色を失ったサーニャの唇は、フランドールの言葉に対して何も答えてはくれない。その肌の色は以前と同じ白であったが、それが今は蝋のような不気味な白へと変色していた。
「ねぇ、サーニャ。お返事をしてよ、貴方を殺しちゃったのは謝るわ。だけど無視しなくたっていいじゃない」
何度、話しかけても返事をしてくれないサーニャを前にして、フランドールはようやく理解し始めた。人間を殺すという事は、こういう事なのだと。
真っ赤に染まった大広間のテーブルの上で、フランドールは一人立ち尽くした。やがて彼女は暇になって座り込む。さっきまで皆で楽しくお食事をしていた事を思い出したら、なんだか涙が出てくるフランドールであった。
◇ ◇ ◇
胸に突き刺さった紅い槍は、フランドールの身体を吹き飛ばして、大広間の壁に磔にした。
「あ、痛い…!? お姉さま、何をするの?」
フランドールは自分の身体を貫く赤い槍を両手で引っ掴むと、それを引き抜いて身体を自由にした。身体に開いた大きな穴は焼かれたように煙を出しながら、しかし早くも治り始めている。
レミリアはわが妹の回復力に目を見張りながらも、両手を前に構えてゆっくりと妹に近づく。それがレミリアの得意とする構え。近づくものに対して、何時でもその爪を振るえる戦いの構え。
「貴方は王として、吸血鬼として、生物としての矜持を失った。それは私が、責任を持って償わせなければならない」
フランドールは呆然とした。この姉さえもが自分を否定するのかと。
厳しい態度で接してはきたものの、この姉だけは自分の事を考えてくれているのではないかと、そう信じていた。
フランドールにとってこの時、この世界の全てが信じられぬ虚構の世界であると思えて、その失望はやがて怒りに変わっていった。
「レミリアお姉さま、貴方は私を殺すというの?」
「いいや、殺すんじゃない。滅ぼすのさ」
レミリアは悲痛な感情をおくびにも出さずに、冷血な笑みを浮かべながら妹の前で立ち止まった。彼女の心の内は、今や茨の棘で引き裂かれたように感傷に溺れていたであろう、しかしそれを感じさせないのが彼女の吸血鬼たる所以だった。
「ヴラド・ツェペシュの遺した、この吸血鬼の王国を継ぐ者として、私はお前を滅ぼさなければならない」
「分かったわ、お姉さま」
そういうとフランドールは、ゆっくりと両手を左右に広げた。それはまるで、十字架に磔にされたような格好である。
「私も、貴方を殺す。それで、おあいこよね?」
フランドールは自らの魔力を全て解放した。それは炎のように十字架の形に燃え上がり、大広間に暴虐な破壊をもたらした。
魔力の渦は広間の床を、壁を、そして散らかった肉片を破壊しながら、この世に具現していく。
「くっ!? こいつ…!」
レミリアは後方へ飛び退くと同時に、腕で身を守りながら、十字架の格好のままに宙に浮かび上がったフランドールを見据えた。
一方のフランドールは、ついに明らかなる敵意を持って姉を睨みつけた。
レミリアは吼えた。
「気でも狂ったか、この私を殺そうとするとは!」
「先に私を殺そうとしたのは、お前だろう!」
吠え返すフランドールは壁を蹴った。そして、魔力を纏ったままの彼女は、空間を切り裂きながらレミリアへ襲いかかる。
「早いッ」
レミリアは咄嗟に天井まで上昇して、フランドールの突進を躱した。
この妹、自分以上の潜在能力を持っていると感じさせてはいたが、やはりその魔力も速度も、自分と比肩するレベルであった。と、レミリアは戦慄する。
「ちぃ、すばしっこい奴め」
フランドールの顔には、無邪気な少女の面影は全く無かった。今はその牙をむき出して、殺意しか映さない瞳で姉を睨めつける、ある意味では吸血鬼そのものであった。
金の髪をした悪魔は、再びレミリアに向かって突進してきた。だが今度はレミリアも、その速度を想定している。
取り敢えず、大きく突進を躱したレミリアは、左手を前に出して魔法陣を展開する。魔方陣からは間髪入れずに紅い蝙蝠が飛び出し、フランドールの身体に喰らいつきにいった。蝙蝠はフランドールの皮膚を抉り取り、次々と役割を終えて消滅していく。
「痛い!」
フランドールは自分の身体を抱きしめながら墜落した。“紅い蝙蝠”は並の生物相手ならば、その心臓まで潜り込んで牙を突き立てる攻撃魔法であったが、フランドール相手には、そこまでの威力は発揮しなかったようである。レミリアはこの戦いが、互いの血肉を削ぎ合う凄惨なものになる予感をした。
フランドールにしてみても、姉に再びその身を傷つけられた事により、生まれて初めて命の危機と、そして心の中から沸き起こる怒りを感じていた。
彼女は姉に対して、憎悪の瞳を向けた。レミリアは再び天井近くまで浮かび上がって、フランドールに対して再び紅い槍を構えている。
フランドールは咄嗟に右手を高々と上げると、狙いを定めるようにその掌を姉の心臓へと向けた。
――何か、来る
レミリアは予感して、槍を投げつけると同時に空中で旋回して回避行動に出た。それと時を同じくして、フランドールは広げていた右の拳を握りつぶした。フランドールも拳を握ったと同時に、横に大きく飛び退いて姉の放った紅い槍を躱した。
「ぐっ!?」
苦悶の表情と声を上げたのは、レミリアであった。彼女の右腕は一部が欠けたように爆ぜている。
そこで彼女は、妹が持つ破壊の力を知る事となった。
「避けていなければ、身体の中心からボーン。って訳ね」
レミリアは千切れかけた腕を抑えながら、口の端を吊り上げて笑った。彼女の中の吸血鬼という化物の血が、この命を賭した戦いに沸き立っている。
その腕はやがて流血を止めると、凄まじい速度で再生していった。それを見てフランドールは、思わず舌打ちをする。
「ちぇ。やっぱり一撃で殺さないとキリがないわね」
「それはお互い様よ」
レミリアは両手を前に出して巨大な魔法陣を作る。その隙を逃さんとフランドールは再び、姉の身体を破壊しようと右手を広げた。
しかし、次の瞬間。フランドールの視界が、大量の蝙蝠で覆い隠される。魔法陣から呼び出されたのは、実物の蝙蝠であり、レミリアの使い魔であった。
「あ、しまった」
フランドールは肉眼で直接相手を見なければ、相手の壊れやすい箇所を見つけることも、それを自らの掌に入れる事も出来ない。
使い魔たちが群がってくるのを見て、フランドールは掌を引っ込めると、代わりに右手に魔力を込め始めた。
戦いの火蓋を切った、姉の持つ紅い槍。あれを自らも創造しようと、フランドールは魔力を解き放った。
「消えろっ」
フランドールは右手に紅い剣を発生させると、それを大きく振り回し、使い魔の蝙蝠たちをなぎ払った。ただの紅い光を振り回しただけにも見えるが、それは鋭い刃を持たずしても、充分な威力を発揮する見事な剣である。
振り回した剣は、視界を覆っていた使い魔たちを残らずに潰した。だが、それはレミリアにとっては充分過ぎる程の囮だ。
フランドールが、視界の端に動く影を見つけた時には、レミリアが彼女の懐へと飛び込んでいた。
「うわ、くっ」
「もらった!」
レミリアは蝙蝠を展開した瞬間に床へと急降下し、紅い剣が空をなぎ払った瞬間、隙を突いて無防備なフランドールへと飛びかかったのだ。
その爪はフランドールの小さな身体を引き裂いた。剣を回しきって手が空いていなかったフランドールは、後手に回りながらも、姉の鋭い爪を同じように鋭い爪で防ぎ始める。
レミリアにしてみれば、当初は遠距離戦も臨むところであった。だが、その全てを破壊する能力を目の当たりにし、遠距離での撃ち合いになれば分が悪いと判断したのだ。
そして徹底したインファイトに持ち込めば、フランドールが破壊の能力を使う暇を与えないだろうというのが、レミリアの下した決断である。
その判断は今まで戦い続けてきたレミリアの最大の武器であり、正しく、それは見事に的中した。フランドールは破壊の能力を使う暇もなく、レミリアのクローを躱すので精一杯になっていたのだ。
「この、この!」
フランドールは慣れない様子で、亜音速の拳を躱したり繰り出したりしていた。だが、やはり接近戦となると分が悪く、フランドールの身体は少しずつ、レミリアの爪によって傷つけられていった。
距離を取ろうと大きく飛び退いても、逃がしはしないとレミリアはすぐさま距離を詰め、鋭いクローを繰り出す。やがて、全身を傷つけられたフランドールの目には涙が溢れてきた。
「うう……痛い、痛いよ。お姉さまぁ……」
フランドールは、その激しい動きによって涙と血を周囲にまき散らしながら、次第に動きを鈍らせてきた。動きが鈍れば、レミリアの攻撃も次第に深く入っていく。フランドールはますます、全身を切り刻まれていった。
「痛い、止めて、止めてよお姉さま、なんで私が、私がお姉さまに虐められるの」
レミリアは無言で拳を繰り出す。その表情は薄く笑みすら浮かべていた。――しかし、それが彼女なりの矜持なのだ。
これから自分が殺す者に同情しながら手を下す事は、相手に対しての非礼である。ましてや自分が涙を流すなどは言語道断。
命を奪うのならば、絶対的に自分が行う事に迷いを持たずに殺さなければならない。それがレミリア・スカーレットの矜持なのであった。
ついに、フランドールの胸に深々とレミリアの爪が食い込んだ。レミリアは目を見開くと、その掌に一際強く力を込める。
「お、お姉さま……」
フランドールの縋るような声を無視して、レミリアは妹の心臓をしっかりと掴むと、それを引きずり出した。
「お……ね……え」
「フランドール、吸血鬼ならば最期には嘲って死になさい。決して命を惜しんだり、悲しみにくれたりしてはならない。自分は果たして本当に勝ったのか? 相手にそう思わせながら散りなさい」
「さま」
フランドールは倒れた。最期まで姉を追い求めて、理解される事を、心の底から。
レミリアは、フランドールに傷つけられた自らの身体を眺める。全身に刻まれたその爪痕は、今になってレミリアに痛みを訴えだした。
妹は涙を流しながら、口を半開きにして死んでいる。無残にも傷つけられた全身は、吸血鬼の性か、死してなお再生を始めていた。
「フランドール、これで貴方は死んだのよ」
そう呟くと、レミリアはフランドールの胸に開いた穴に、奪った心臓を戻してやった。そして、その小さな身体を小さな身体で抱え上げると、ゆっくりと大広間を出た。
彼女は真っ赤に染まった廊下を歩く。そこには長年に渡って自分の為に尽くしてきた人間どもの姿はなく、ただ鉄臭い香りをレミリアに匂わせている。
レミリアは一言も発さずに、フランドールの死体を地下へと連れていった。
そこには、自分が昔に使っていた部屋がある。その地下室は暗く、湿って、何よりも静かな部屋で、レミリアは気に入っていた。
厚い扉を開いて、数十年ぶりにやってきた部屋は、今の妹にぴったりだとレミリアは思う。
彼女の身体を部屋のベッドに寝かせたレミリアは、何の感慨もないようにさっさと部屋を出て、厚い扉を閉めきった。そして、外側にある頑丈な鍵を施錠する。
「おやすみ、フランドール。貴方が目覚めて、また夜に生きる日まで」
レミリア・スカーレットは去っていった。部屋の中では、幼い少女が静かに寝息を立てている。
◇ ◇ ◇
レミリア・スカーレットは、自分の部屋で椅子に腰掛けていた。自分で淹れた紅茶は、まずまずの味である。
部屋には一人の男がいる。そいつは言いにくそうに、王へと知らせた。
「レミリア様、血の跡なんですが……。どうにも呪われたように、いくら白く塗りつぶしても、赤く浮き出てくるのです」
村の大工は、そう報告した。レミリアは、この大工に破壊された紅魔館の修理を命じたのである。もちろん血に汚れた壁や床も、元通りにしてもらおうと思っていた。だが聞いての通り、それは叶わないらしい。
「それならさ、全部赤くしたらいいよ。どうせ、もう人間は住まないんだ。吸血鬼らしく、壁も床も全部赤にしたらいい」
投げやりな主の言葉にも、大工は大人しく頷いて従った。それが彼らの矜持である。
やがて、紅魔館の全ての床や壁は赤く染められた。レミリアはこの際だからと、外壁も赤く塗ってもらう事にした。
暖炉の前で紅茶を飲むレミリアは、鼻から大きく息を吐くと天井を見上げた。この部屋の天井も赤くしてもらおう。
「終わったわね」
そう、終わったのだ。
このヴラド・コミュニティは終焉を迎える。
紅魔館のメイドたちは、この世界に住む人間どもの半数であった。そして、それらが若い女の全てだったのだ。
今や、この世界には男たちと老いた女しか存在しない。生き残ったメイドや、紅魔館から去って子を育てている女も居るには居る。だが、そんな少数の揺り篭は、いずれ人間たちの生殖能力では消えてしまうだろう。
この丘一つに町一つの小さな世界は、ここで破綻したのである。
「葉が良くても、淹れ方一つでここまで不味くなるものか」
レミリアは飲みかけた紅茶をカップごと床に放り投げた。紅茶は床に広がって、カーペットの上に赤い染みを作った。
この先、この世界を失ったレミリアはどうすれば良いのか。先の事は分からない、ただ一つ分かるのは、自分の王としての矜持は、全て消え去ったという事である。
肉体の命が残ったとしても、その矜持を亡くしては、吸血鬼としての存在は死んだも同然なのである。そう、レミリアは今、死体となっている。
「寒いな」
レミリアは呟くと指を鳴らして、目の前の暖炉へと火を着けた。
窓の外では細やかな雪が降り始めている。そう、トランシルヴァニアに冬が来た。
思わず作品の中の人物にそうじゃない、違うんだって呼びかけたくなる。
*おおっと* これは恥ずかしい…。重大な誤字をかましていました。報告ありがとうございます。
取り急ぎ修正しました。
あと
>大体、齢30を過ぎるとメイドたちは~
この話の設定がいつ頃なのか正確には読み取れませんが
紅魔館が外にあった頃にしてはえらい晩婚だなあと感じました。
>>4.さん
すれ違いの原因は過保護過ぎて対話が無かった事ですね。
私の個人的な解釈では、紅魔郷Exが終わっても姉妹の関係はいまいち咬み合っていないように感じたので、この話の中でも最後まで二人はすれ違いを起こしたままです。
>>12.さん
メイドたちのライフプランについてですが……。
この話の中だと女性の全てが紅魔館で働いて、男性は村で農作業とかしてますよね。それは超男女共同参画社会というか、女性の社会進出が著しく進んでいる世界だと思います。そうなると、彼女たちも自然と晩婚化が進むのかなと思いました。
東欧の数百年昔の出産年齢とかについても調べてみようと思いましたが、なかなか資料が見つからなかったですね。まあ、幻想郷のように隔離された場所での話なので上記の理由で書きました。