衣玖は疲れていた。
体が重い。
地震の予兆を伝えるために今日は一日中幻想郷を駆け回った。
ああ今すぐ眠りたいのに、そう苛立ちながら、衣玖は包丁を振り下ろしてまな板の桃を切る。
「衣玖ぅーお腹好いたー。まだぁ?」
「総領娘様、黙ってください。イライラします」
振り向きもせず、非常に刺のある声で衣玖は返事をした。
天子はそんな事はお構いなしに、リビングのソファに寝転がって漫画を読んでいる。
衣玖が留守の間に、勝手に家に入っていたのである。
疲れたと言う衣玖の話も聞かず、あまつさえ、飯を要求してきた。
「だからぁ天子って呼んでよ」
「…はい、天子様」
ドンッ、と乱暴に桃を切る。
普通の天人がこの会話を聞いたら、仰天していただろう。
まがりなりにも天人である天子が、竜宮の使いごときに暴言を吐かれて黙っているなど、ありえない事なのである。
しかし天子は相変わらず漫画を呼んで馬鹿笑いしているし、衣玖はそれに対してうざったそうに舌打ちをしている。
「きゃははは!衣玖この漫画おもしろいよー」
「暇なら手伝ってくれませんか。桃の皮剥き」
「暇じゃないから無理。早く持ってきてー」
「……」
衣玖の頬がヒクつき、鼻から大量の空気が吐き出された。
落ち着け怒るな、衣玖は自分に言い聞かせた。
総領娘様は天真爛漫でいらっしゃるのだから、とっても素直なお方でいらっしゃるのだから、それに腹を立てるのは己の心の小ささよ、怒るな、怒って差し上げるな…。
そうやって深呼吸をしようとしたとき、また天子の呑気な馬鹿笑いが衣玖の鼓膜を揺さぶった。
「あははははははははっはははっ!お゛へ!お゛ぅえっ!ひぃ笑い死ぬ!い、いきできない!」
あまりに甲高く、不愉快で、気品の無い声、もはや衣玖の理性は溢れ出す感情を押さえ込む事ができなかった。
「うるさいって言ってるでしょう黙れこのバカ娘!」
衣玖は猛ける己の感情に従い、包丁をまな板に振り下ろした。
ダンッ!
いい音がした。
まな板に包丁が刺さり、衝撃で、まな板の桃が跳ねる。
きっとこのまな板はもう使い物にはならないだろう。
包丁の切り込みでできた深い溝には、細菌が繁殖しやすくなるのだ。
だがそんな事はどうでもよかった。
まな板を蹂躙して衣玖の心はほんのわずかにすっきりしたが、まだまだ彼女の心は満たされていない。
攻撃色に染まった感情は獲物を求める。
「衣玖うるさいー」
ソファに寝そべって漫画を読んでいた天子は、何も考えてなさそうな声でそう言った。
こいつである。
この馬鹿が悪いのだ。
人が疲れて帰ってきたというのに労いもせず、ただただ飯を要求して自分は馬鹿笑い。
衣玖の心に火が燃え上がった。
「貴方のせいで怒ってるのが分からないんですか!」
衣玖は翔けた。
草原に寝そべる鹿に襲いかかる、チーターの様に。
ダダダダ!と走りながら、本気の範馬勇次郎のような姿勢で牙を剥く。
そうしてとうとう、衣玖はソファに寝転がる天子に襲いかかった。
一方天子は冷静である。
漫画を脇に置き、自分に飛び掛ってくる衣玖の獣の様な顔を、恍惚とした目で見ていた。
今から自分がされることを、楽しみにしているように見える。
ボフ!
衣玖は横四方固めような格好で天子に覆いかぶさり、そのお腹に顔を埋めた。
「オゥフっ」
衝撃で天子がわずかに息吐いた。
衣玖は天子の腹に顔をうずめたまま、猛烈な勢いで首を左右に回す。
「このバカ娘バカ娘バカ娘!うるさいっていってるのが分からないの!?」
「ひゃぁ」
天子のお腹のふにふにとした柔らかい感触と、天子の匂いが衣玖の顔をべろべろに覆った。
「ふんがふんが」
衣玖はその匂いが大好きである。
衣玖は自覚していた。
きっと今自分の顔は恍惚としているのだろう。
狂った電動歯ブラシのように衣玖は天子の腹に顔をこすり続けた。
天子の服がめくれあがり、とうとうその白い素肌が、衣玖の眼前にさらされた。
柔らかく暖かい天子のお腹の感触が衣玖の顔に直に伝わってくる。
衣玖は自分の鼻を天子のおへそにはめこんで、ふんすふんすとその匂いを吸い込んだ。
少し汗臭い、天子の秘められた匂いが衣玖の肺に流れ込んでくる。
「い、衣玖やめてぇ、くすぐったいし、そんなところ恥ずかしいよぉ」
「いーえやめませんよ!食べることしか能の無いぐぅたら娘!そんな娘のおへそなんか、私が食べてしまいます!」
衣玖はそういって、天子のお腹にガブリとかじりついた。
甘噛みである。
「きゃあ、あひぃ、いたい」
天子は、あひぃあひぃとくすぐったそうにはしゃいだ。
「はぁはぁ、も、もうだめ」
そう言って起き上がろうとする天子の体を、衣玖の強力な横四方固めが押さえ込んだ。
「きゃー、たすけてぇー、衣玖のドSー」
緊張感の無い天子の悲鳴。
「逃がしませんよ逃がしませんよ逃がしませんよ。馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
衣玖はそう言って、十分近く天子のお腹やへそのくぼみをかじり続けた。
衣玖がようやく天子の腹から顔を上げたとき、天子のおへその周りは衣玖の唾液でてらてらと光っていた。
「い、衣玖ぅ…」
ハァハァハァと甘い息を荒く吐き出す天子は、両手で顔を覆いながら、指の隙間からうるんだ瞳で衣玖を射抜いた。
「も、桃食べよ…?」
もはや息も絶え絶えに言う天子の唇の端からは、一筋の唾液が垂れていた。
「はぁ、はぁ、そ、そうですね…」
そう答えた衣玖の顔もまた、天子と同じくらい恍惚としており、唇の両端からダラシなくヨダレが垂れていた。
「衣玖がこんな変態だったなんて、誰も知らないんでしょうねぇ」
嫌味ったらしい声で天子が桃をかじりながらいった。
二人はソファにならんで桃をつまんでいる。
憮然とした顔で衣玖は抗議する。
「変態というのはやめてください。総領娘様が私を怒らせるからいけないのです。ちゃんとしていてくれれば私だって」
「だからぁ」
と言って天子は衣玖の肩に枝垂かかった。
「天子でいいってば」
「はぁ、天子様」
「様もいらない」
「流石にそれは」
「えぇー、いいじゃん。私がいいっていってるのに」
あれだけの痴態を晒しておいて今さらではあるが、それでも平静でいるときの衣玖は常識人なのである。天人を呼び捨てにするのは、どうしても抵抗がある。
それに…恥ずかしい。
「あ、そうだ」
天子がにやりと笑って、衣玖は嫌な予感がした。
「どうしても様づけするなら、怒ると衣玖がドSの変態になっちゃうこと、皆にばらしちゃうから!」
「そ、そんな」
天人界隈では、空気の読めるいつも冷静でクールな女として衣玖は通っているのである。
天人のへそにしゃぶりついたなどと知られては、間違いなくむっつり認定されてしまう。
「で、ですが、呼び捨てなんて」
「んー、皆に言いふらされるとどっちがいいのかなぁ」
「て、天子様の方がよっぽどドSですよ…」
「あ、今『様』っていったねー」
「あああちょっと待ってください…」
衣玖は顔を赤くしながら、俯いた。
そして何度か口をパクパクとさせた後、言った。
「て、天子」
衣玖は頑張った。
何故自分はこうも赤くなっているのか、それはあまり考えないようにしながら、頑張った。
だが天子はそんなものでは満足しない。
「んんー、声が小さぁーい。もっと大きな声で」
「ええ!勘弁しくてくださいよ…」
「て・ん・し!て・ん・し!」
「う、ううう…て、てんしっ。これでいいでしょう」
「もーいっちょ!」
天子は明らかに調子にのっていた。
そして天子のヘラヘラと笑ううざったい顔が、衣玖の心に火をつけた。
「いい加減にしなさい総領娘様!」
「ひっ!?」
突然切れた衣玖に、イケイケモードだった天子の気が一気に萎む。
「あ、あ、今、私の事総領娘様って言った!もう皆に言いふらしちゃうもんね!」
腰のひけた天子がそう言っても、もはや衣玖は脅かされなかった。
逆に、
「へぇ、そんな事しちゃうんですか?」
と、言って、蛇のように目を細めて天子を睨む。
「い、衣玖?」
「この我侭娘!」
「きゃっ」
衣玖は天子をソファーに押し倒し、そのうなじに噛み付いた。
「あ、あひぃ。衣玖ぅなにするのぉ」
天子が黄色い嬌声を上げる。
「はぐはぐ、お許しくださるまで、私は総領娘様の体中を噛んでいきますからね、はぐはぐ」
「い、いくぅー!!」
天子によって衣玖の性癖が言いふらされる事はなかった。
お互いに満足できる妥協点を見つけ出したのである。
一週間に一回は全身を噛み噛みしてくれる事。それを破ったら、皆に言いふらすから、天子はヨダレにまみれた顔でそう言った。
衣玖は雲の間を漂いながら、ヤレヤレとため息を吐いた。
「そりゃあこっちだって喜んではぐはぐさせてもらいますけど…あれやると顎が疲れるんですよねぇ」
空に天子の柔肌を思い浮かべながら、衣玖は口を大きく開けてかぷりと雲に噛み付いた。
口を閉じ始めると同時に、かこっ、と衣玖の顎の付け根あたりが鳴った。
「あらら…」
衣玖は顎の付け根を抑えて、少し頬を赤らめた。
かこっ…かこっ…
てんこちゃんの人目に触れない桃源郷も衣玖さんが独占生かみかみするんですよね?
天子は相変わらずウザ可愛いし最高
ただのバカップルじゃないかw
でも、こういう愛情の形もありか……w
それはそれとして衣玖さん、早めに永琳の所へ行った方が良いかと……
とにかくよかったです。
天子はなんか桃の匂いがしそうですねw