男は腕の良い猟師だった。口下手で、不器用な性格だったが、その弓の腕を知らない者は彼が暮らす里にはいなかった。小規模な妖怪の襲撃時に非常に役に立ち、子供たちが驚くような技術を稀に披露していたからだ。普段は猟で仕留めた獲物を売り、冬や余裕があるときは加治屋として暮らしている。優れた弓の腕を除けば、男は極々普通の人間だった。
「クエー、クエー」
それは長年猟師として生きてきた男だったが初めて遭遇する生物だった。腹部が白く、腕と思しき部分は魚のヒレを連想させる構造しており黒く、産毛のような物で覆われており、鳥の嘴をもっている。脚部はペタペタと音を立てており、どこかアヒルか鴨を連想させる姿をしていた。身長は約30cmほど。
「クエー、クエー」
妖怪の類にしてはあまりにも小さく脆弱に見え、猟の獲物としては食することができるのか分からなかった。もしも、妖怪の類の場合、仲間が近くにいる可能性があるため、男は油断なく弓を構えていた。
「クエー」
奇妙な生物はただ周囲を徘徊し、鳴き声を上げているだけだった。男は場所を移動するべき否かと思っていると、周囲の草むらから妖怪が現れた。狼のような外見だったが背中に翼が生えていた。この妖怪は人里の家畜を襲い、時には幼子まで狙うことは周知の事実だったので男は躊躇いなく、矢を放った。
「クエー」
優れた弓の使い手は一連の動作が淀みなく、まるで水に棒を差し込むように矢は的に沈む。そう教えたのは男の父親であり、男はそれを実践して見せた。眉間、眼球と眼球の間に矢尻は吸い込まれるように消えていった。トンッと正面から押されたような姿勢で妖怪は静かに息絶えた。一連の作業において一切口を開くことが無かった男はようやく口を開き自然の恵みに礼を述べ、妖怪の遺骸に手を合せ、祈り、丁重に肉をナイフで切りわけた。
「ほう、いい毛皮だ。いくらだい?」
作業を終えた男は里の市で獲物を売り捌いていた。肉は鮮度が命であり、毛皮や骨は日常品として活用するにはそれなりの作業が必要なのだが、幸い相手が里の一番大きな商店である霧雨商店の店主であったので男は未加工の毛皮をそれなりの値段で売ることができた。
「それで、その小さいのは何でェ? 」
霧雨商店の店主が指を向けた先には男が遭遇した奇妙な生物がいた。何故か男の傍から離れることがなかった。どのような生体なのか理解できなかった男は放置していたのだがいつの間にか近くまで来ていたらしい。
「喰えるのか? 肉はそれなりにありそうだが」
分からないので後で里の守護者に聞いてみるつもりだと男が答えるとそれがいいと霧雨商店の店主に同意された。里の守護者は博識であり、その奇妙な生物の正体を知っていた。
「ペンギンだな。知人の書物で読んだことがある。確か極寒の地に生息する動物で魚を主食とするらしい。非常に貴重な動物だ。」
始めてみるがどこから来たのだろうと男が尋ねると、そればかりは分からないと里の守護者も首を振った。
「まあ、本当に貴重な動物だ。しばらく様子を見てやって欲しい」
ペンギンが貴重な動物と聞いた男は一旦保護し、適切な保護者を探すことにした。自然の恩恵に支えられている身として生態系を破壊してはならないことをよく理解していたが故に。
「ここに居ましたのね」
市場で購入した魚をペンギンに与えようとしていた男はその声に凍りついた。ここは男の住居であり、入口は視線の先に確認でき閉ざされたままだ。幻想郷で長く生きた男の判断は迅速だった。素早く手元の刃物を牽制として足もとに投擲し、入口に疾走、弓を手に取り振り向いた。
「これは失礼。幻想入りしたこの方を探したもので」
男の背中に嫌な汗が流れた。流れるような金髪とどれほどの才に恵まれた芸術家が生み出したのだろうと想像せざるを得ない美貌の持ち主だった。ただし、その麗しい女性は上半身のみだった。まるで何も無い空間から生えているように。
「そんな恐ろしい物を向けられても困りますわ」
人型に近い妖怪ほど知性が高い。そんな話を聞いたことがあった男は助けを呼ぶべきか迷った。自分一人では勝てないことは十分に理解していたが、周囲を巻き込めば余計な犠牲が出る可能性が生じる。男は迷った。
「さて、私と一緒に行きましょう」
ズルズルと女性の身体が這い出、そして、床板に足を出すと男が認識した直後にその女性はバランスを崩し、顔面を床にぶつけた。ゴンッとかなり痛そうな音が狭い室内に響いた。
「イタッ」
起き上がろうとして再びこけた。今度は放漫な胸元がグニャリと潰れた。男が観察すると膝から下の部分が何かに挟まっているように見えた。よく見れば何か帯状の物があり、そこに女性の足が絡まっていた。
「藍! 藍! って、今は南極だったわ」
男は油断なく弓を向けつつもどうするか迷っていた。その間も女性は足掻いていた。床にぶつけたためかその鼻からは血が一筋流れていた。痛そうなので思わず大丈夫なのか安否を男は尋ねていた。
「ご丁重にどうも。ですが、すぐに去りますので」
そう言って女性は動こうとして再度バランスを崩した。これは油断を誘っているのか、本当に何らかの支障を抱えているのかどちらなのだろうと男は不審に思った。
「変ねえ、スキマがうまく開かないわ」
男は試しに床に向けて矢を放って見せた。タンッと矢が木製の床に突き刺さるが女性は特に動揺する様子もない。何故動かないのかと男が尋ねると優雅に口元を扇で覆い、女性は物憂げにこう言った。
「挟まってしまったようですの」
ここで男の思考回路が一瞬停止してしまったとしても誰も責めることはできないだろう。自分の住居内で女性の身体が何もない場所から生えるように存在し、なおそれが故意によるものでないですれば。あまり、危険度と知性の高い妖怪ではないのかもしれないと男は思った。しかし、嘘をついて油断させることを狙っている可能性もあると男は判断した。
「……え? 」
男と女性はペンギンが突然、ぐったりし始めたのを見て怪訝そうな表情を浮かべたが、苦しそうにもがいている姿を見て男はなんとなく状況を察した。暑いのだと。極寒の地に住むはずの生物が真夏の猛暑に耐えられるはずもない。
「あら、どちらへ? 」
無言で出て行く男に女性の声がかかったが、男は黙ってその場を後にした。そして、市へと走り氷と大きな桶を購入し、知人に巫女を呼んでくれと頼み、帰路を急いだ。妖怪退治の巫女が来てくれれば被害は最小限に留まるだろう。それまで自分が無事であることを男は祈った。
「この方が極寒の地出身とご存じでしたのね」
素早く氷を砕いて、水を入れた桶にペンギンを入れてやると少々楽になったらしく、苦しむ度合が減った。量が足り無いのかもしれないと男は氷を砕き続けた。妖怪の女性は変わらずその場所で佇んでいた。
「後彼には塩分が必要ですわ」
男は素直に従い、台所にあった塩を桶に投入した。それを女性はただ眺めていた。そして、足が痺れたのか日傘を取り出して杖代わりにしていた。この時点で何もしない時点でさほど危険はなさそうだと思いつつも、十分に距離をとって、椅子を女性に勧めた。
「助かりましたわ」
膝から下が動かない以外は正常なので女性は優雅に椅子に腰かけた。さて、どうしたものかと男が思っていると扉が叩かれた。女性から視線を離すことなく男が扉を開けるとそこには様々な意味で有名な紅白巫女、時折花屋付近で見かける女性、黒と白の服装の少女がたっていた。
「紫。あんた何やってるの? 」
「あれ? アレ確か外の世界の」
「吹き飛ばすのには調度いい格好ね」
三者それぞれの感想を述べる女性たちに男は一体何事かと尋ねた。確かに巫女は呼んだが何故いきなり針やら日傘やら箒で武装した少女たちが自宅に押し寄せてくるのか男には理解できなかった。
「霊夢。ちょうど、よかったわ。ここから出るのを手伝って頂戴」
「はあ? 普通にスキマ使いなさいよ」
「どうも、今日は調子が悪いみたいでさっきからスキマが開かないのよ」
「……へえ」
その場から男は本気で逃げ出したかった。蜃気楼のように周囲が歪むほどの殺気が紅白の巫女から漏れ出していた。猟師である男は危険な動物と遭遇することは頻繁にあったが、これほどの危険はかつて感じたことが無かった。
「二日前、ようやく手に入った半年ぶりの苺大福をスキマから出た手に盗られた。咲夜の手作り苺丸ごと大福。楽しみしてたのに」
ゴキゴキと恐ろしい音が巫女が握りしめた拳から鳴り響いて、妖怪の女性はガタガタと震え始めた。それほど、鬼気迫るモノがそこにはあった。いきなり、透明なガラスのような壁が室内を包囲した。まるで檻のようだと男は思った。
「いつも、香霖に胸押し付けてるよな。昨日、布団に入ったこと聞いたぜ。下着で」
閃光のような輝きを持つ球体が黒白の少女が手にする多角形の物体からバチバチと唸りを上げ、放たれていた。当たると危険だということは本能的に直感できる程の勢いだった。
「つまり、足さえ切り落とさなければやりたい放題ね。この前に貧乳と巨乳の境界を操作された借りここで、きちんと返すわ」
恨みを晴らす以前に緑の髪の女性はただ、単純に暴力を行使する機会を楽しんでいるようだった。男はその事実に戦慄した。そして、男が口にしたことは常識的とは言い難いが現状打破としてはいい案だった。いわく、ここで暴れると両親の仏壇が壊れてしまうので止めてくれないかと。
「どっかの誰かさんと違って人様の仏壇を破壊するほど、私は巫女を止めてないのよ。だからね、最小限の破壊で最高効率を成し遂げて苺大福の恨みを晴らすわ」
「おい、霊夢。私の分はどうなるんだよ! 」
「なら、この茨の鞭で紫だけを正確に叩けばいいわ。きっといい声で鳴いてくれるわよ」
「ちょ、ちょっと! 三人とも! 何か(霊夢は別として)私に恨みでもあるの!? 」
女性の必死の懇願に対して、非常に統一された見解が成された。淡々としかし、非常に大きな声で告げられた。圧倒的な圧力と共に。そして、何故か外には大量の人影が集まっていた。
「「「普段の行いを自分の胸に手を当ててよく考えて(みなさい)みろ」」」
蝙蝠の翼の生えた少女、中国服、メイド、頭に生えた人物、天狗、幽霊等々様々な人外魔境が男の家に集結していた。その中心で紅白の巫女が演説をしていた。背中には食べ物の恨み許さるべからずという大きな旗を背負っていた。中には巨大な刃物を持っている者までいる。自宅の外に出された男は一体何何事だろうと首をかしげた。そして、しばらくして全員がとても爽やかな表情で出てきた。
「も、もうゆかりんお嫁にいけない」
ボロボロになった女性を哀れに思った男は食料と衣服を分け与えてやった。彼女が妖怪であることを一瞬忘れてしまうほど哀愁漂う光景であり、男は黙って彼女に茶を勧めた。
「……少し御話を聞いていただけませんか? 」
どうぞと男が先を促すと女性は話し始めた。どれほどこの幻想郷を愛しているか。それと同時にどれほど心が渇き、狂気染みた退屈という感情に悩まされているのか。そして、混沌の種を撒く、程好いほどの具合で、時には外部からの妨害で予想外の事態が生じるが、ギリギリの部分まで幻想郷を歪め、平穏に戻す。それを繰りかえす。人間関係でも同じ。
楽しいスパイスを一握り。
混沌の種を召し上がれ。
収集が付かなくなれば、万能の賢者が指を鳴らすだけで元通り。
女性は歌うように告げた。
「だから、私は胡散臭く、常に周囲の嫌悪の対象となっていますの」
女性が浮かべる微笑みは。あまりに深すぎて男には理解できなかった。胡散臭い。より的確に表現するならば、何かが異質なのは分かるがそれが何か理解できない。そんな感覚だった。寂しくありませんかと男は口にしていた。異質にせよ、常に周囲の嫌悪の対象となるのは。
「寂しい。面白い表現を使いますのね。では、あなたが周囲によって満たされているとはどのような時でしょう? 」
狩りをしている時に静かに他の動物が近づいているのを眺めている時ですと男は答えた。森の囁きの中、自分は音を立てないようにただ息を殺している。すると、自分がこの世界の一部であることを改めて認識し、生かされていると分かる。世界と自分と関係を実感できると少なくとも、男はそう思っていた。
「面白い解釈ですわね。お続けになって」
特に補足することは無かったが、男は一つ足した、どれほど優れた存在であろうとも、自分が自然と一部であり、その恩恵を受けていることを忘れることが禁忌だと父親に教わったと。
「なるほど、良い教育者的な解釈ですわね。まあ、有意義でしたわ」
そう言って女性は椅子から立ち上がろうとして、落ちた。まだ、膝から下が固定されたままだった。男は黙って助け起こした。もう、喰われるという疑念を忘れていた。
「挟まりましたわ」
先ほどからそうですがと男は言った。そして、彼女の乱れた髪を整えるべく、櫛を差し出した。どこか少し抜けているのかもしれないと失礼ながらも男は思った。女性は戸惑いつつも椅子に座りなおした。
「どうも」
頭をぶつけたのか若干涙目の女性の数々不可解の行動に対し、幻想郷の住民である男はこの時点で深く考えることを放棄した。常識や固定観念は早く捨てたほうがこの世界では精神的負担が少ないということは誰もが身にしみて学習していることだからだ。
「手を貸していただいても? 」
その後、男と女性はなんとか女性の足を引き抜こうと奮闘したが抜けなかった。一体どういう原理で挟まっているのか男にはまったく分からなかったが、冗談でも偽りでもなく、本当に挟まっていることだけはわかった。対処方法がわからないので、男は夕食の準備を進め、女性はペンギンに魚を与えていた。
「いつか、あの極寒の地もここに流れてくるのでしょうね。愚かな限り」
何のことか男には理解できなかったが、女性の瞳は悲しみに満ちていた。男にできることは女性に食事を提供することだけだった。
「さて、私はどうしましょうか? 」
女性は椅子に座った体制から動くことはできない。男はタオルケットやスペアの衣類を渡すと自宅を後にした。さすがに妖怪と一晩を共に過ごす勇気はなく、その晩を知人の家で過ごした。
「スー、スー」
男が翌朝慎重に様子を見に行くと女性とペンギンが昨晩同様に椅子に座り眠っていた。特に室内が荒らされた形跡もなく、物も動いていなかった。穏やかな寝息と共にただ、眠っていた。男は朝食と魚を手の届く位置に置き、家を出た。そして、いつものように森に行き、いつものように獲物を仕留め、いつものように自然の恵みに感謝した。
「神が日常を謳歌している幻想郷で里の人々は何に祈るかしら? 」
その日の夕食で女性は男に尋ねた。少し考えた後に男はこう答えた。少なくとも自分は自然が生み出す命の連鎖に感謝しています。特定の神を信仰しているわけではないと。
「それはどうして? 」
神は人型だが、自然は膨大な世界そのものであり、自分もその一部だからと男は返答した。
「あなたから見て私はこの雄大な自然の一部かしら」
妖怪のことは詳しくないが、この世界で生きている以上はそうなのではないかと思うと告げた。それを聞いて女性は微笑んだ。
「このペンギンという種は外の世界で一匹残らず殺され、ここに辿り着いた。外の世界の人間の大半は自然の尊さを忘れてしまった。故にここには哀れな魂たちが辿り着く、忘れ去られた者たちの最後の理想郷。この愛しい幻想郷」
外の世界について詳しいのですかと男が尋ねると女性は頷いた。よく見に行くと。そこで、男は女性に願った。父は海を死ぬ前に見ることを望んでいた。どうか、遺灰だけでも海に撒くことができないかと。女性は快く承諾した。
それから数日後、九本の尾を持つ、妖怪が家を訪れ、ペンギンと動きが拘束されていた女性を解放した。
女性は男の願いを叶えた。防寒具と呼ばれる特殊な衣類を着こみ、男と女性とペンギンは極寒の大地に降り立った。
無限に続く白と透き通るような膨大な水の量に男は圧倒され、涙を流した。
そして、父の遺灰を海に撒いた。
「クエー」
悲しげなペンギンの鳴き声が聞こえたと思うと男はいつの間にか自室に戻っていた。
夢ではない証拠に男の腕には空の壺が鎮座していた。
それから、数日後、男は猟の最中に再び件の女性と出くわした。
「この前の拠点を中心に海の生物と北国の生物のための幻想郷を作ろうかと思いますの。あの哀れなペンギンのような方々も幻想郷は受け入れますわ」
穏やかに女性は告げた。そうですかと男は答えた。それ以外に言えることなどなかった。あまりにも規模が大きすぎる話が故に。ただ、憂いと、あまりにも優しすぎる女性のために男は何かしたかった。
「面白い方ですね」
優雅に笑う女性に男は頭を下げ、率直に、ただ万感の念と共に礼を述べた。
ありがとうございます。
一言、そう礼を述べた。
あなたがヒトの理不尽な行動を許し、受け入れ、慈しんでくれることに。
傷つきながらも、守り続けてくれることに。
怠惰でありながらも、絶えず生命を循環させてくれることに。
「何故、そう言いますの? 」
もし、仮に自然と言葉を交わす機会があればそう礼を述べたかったのでと男は告げた。それに対し、女性も目を閉じ、手を組み、何かに祈った。
「幻想にならないことを祈りますわ。地球の緑と青の美が」
そして、女性は現れた時と同様に唐突に消えた。それ以降、男はその女性と出会うことはなかった。後に里の守護者から彼女の名前は「八雲紫」であることを知り、大妖怪が人間臭かったことに驚いた。そして、猟の度に雄大な自然と不器用な幻想郷の管理人に祈るようになった。
「紫様。今日もお祈りですか? 」
「ええ、藍。すぐに終わるわ」
八雲紫は祈る。幻想を誰よりも愛しつつも、現実の生命の美が幻想にならんことを。
八雲紫は祈る。彼女の愛する幻想郷が今日も平穏と混沌に満ちていることを。
八雲紫は祈る。憎しみも、怒りも、不信と僅かな感謝が自分に向けられることを。
八雲紫は今日も祈る。
「クエー、クエー」
それは長年猟師として生きてきた男だったが初めて遭遇する生物だった。腹部が白く、腕と思しき部分は魚のヒレを連想させる構造しており黒く、産毛のような物で覆われており、鳥の嘴をもっている。脚部はペタペタと音を立てており、どこかアヒルか鴨を連想させる姿をしていた。身長は約30cmほど。
「クエー、クエー」
妖怪の類にしてはあまりにも小さく脆弱に見え、猟の獲物としては食することができるのか分からなかった。もしも、妖怪の類の場合、仲間が近くにいる可能性があるため、男は油断なく弓を構えていた。
「クエー」
奇妙な生物はただ周囲を徘徊し、鳴き声を上げているだけだった。男は場所を移動するべき否かと思っていると、周囲の草むらから妖怪が現れた。狼のような外見だったが背中に翼が生えていた。この妖怪は人里の家畜を襲い、時には幼子まで狙うことは周知の事実だったので男は躊躇いなく、矢を放った。
「クエー」
優れた弓の使い手は一連の動作が淀みなく、まるで水に棒を差し込むように矢は的に沈む。そう教えたのは男の父親であり、男はそれを実践して見せた。眉間、眼球と眼球の間に矢尻は吸い込まれるように消えていった。トンッと正面から押されたような姿勢で妖怪は静かに息絶えた。一連の作業において一切口を開くことが無かった男はようやく口を開き自然の恵みに礼を述べ、妖怪の遺骸に手を合せ、祈り、丁重に肉をナイフで切りわけた。
「ほう、いい毛皮だ。いくらだい?」
作業を終えた男は里の市で獲物を売り捌いていた。肉は鮮度が命であり、毛皮や骨は日常品として活用するにはそれなりの作業が必要なのだが、幸い相手が里の一番大きな商店である霧雨商店の店主であったので男は未加工の毛皮をそれなりの値段で売ることができた。
「それで、その小さいのは何でェ? 」
霧雨商店の店主が指を向けた先には男が遭遇した奇妙な生物がいた。何故か男の傍から離れることがなかった。どのような生体なのか理解できなかった男は放置していたのだがいつの間にか近くまで来ていたらしい。
「喰えるのか? 肉はそれなりにありそうだが」
分からないので後で里の守護者に聞いてみるつもりだと男が答えるとそれがいいと霧雨商店の店主に同意された。里の守護者は博識であり、その奇妙な生物の正体を知っていた。
「ペンギンだな。知人の書物で読んだことがある。確か極寒の地に生息する動物で魚を主食とするらしい。非常に貴重な動物だ。」
始めてみるがどこから来たのだろうと男が尋ねると、そればかりは分からないと里の守護者も首を振った。
「まあ、本当に貴重な動物だ。しばらく様子を見てやって欲しい」
ペンギンが貴重な動物と聞いた男は一旦保護し、適切な保護者を探すことにした。自然の恩恵に支えられている身として生態系を破壊してはならないことをよく理解していたが故に。
「ここに居ましたのね」
市場で購入した魚をペンギンに与えようとしていた男はその声に凍りついた。ここは男の住居であり、入口は視線の先に確認でき閉ざされたままだ。幻想郷で長く生きた男の判断は迅速だった。素早く手元の刃物を牽制として足もとに投擲し、入口に疾走、弓を手に取り振り向いた。
「これは失礼。幻想入りしたこの方を探したもので」
男の背中に嫌な汗が流れた。流れるような金髪とどれほどの才に恵まれた芸術家が生み出したのだろうと想像せざるを得ない美貌の持ち主だった。ただし、その麗しい女性は上半身のみだった。まるで何も無い空間から生えているように。
「そんな恐ろしい物を向けられても困りますわ」
人型に近い妖怪ほど知性が高い。そんな話を聞いたことがあった男は助けを呼ぶべきか迷った。自分一人では勝てないことは十分に理解していたが、周囲を巻き込めば余計な犠牲が出る可能性が生じる。男は迷った。
「さて、私と一緒に行きましょう」
ズルズルと女性の身体が這い出、そして、床板に足を出すと男が認識した直後にその女性はバランスを崩し、顔面を床にぶつけた。ゴンッとかなり痛そうな音が狭い室内に響いた。
「イタッ」
起き上がろうとして再びこけた。今度は放漫な胸元がグニャリと潰れた。男が観察すると膝から下の部分が何かに挟まっているように見えた。よく見れば何か帯状の物があり、そこに女性の足が絡まっていた。
「藍! 藍! って、今は南極だったわ」
男は油断なく弓を向けつつもどうするか迷っていた。その間も女性は足掻いていた。床にぶつけたためかその鼻からは血が一筋流れていた。痛そうなので思わず大丈夫なのか安否を男は尋ねていた。
「ご丁重にどうも。ですが、すぐに去りますので」
そう言って女性は動こうとして再度バランスを崩した。これは油断を誘っているのか、本当に何らかの支障を抱えているのかどちらなのだろうと男は不審に思った。
「変ねえ、スキマがうまく開かないわ」
男は試しに床に向けて矢を放って見せた。タンッと矢が木製の床に突き刺さるが女性は特に動揺する様子もない。何故動かないのかと男が尋ねると優雅に口元を扇で覆い、女性は物憂げにこう言った。
「挟まってしまったようですの」
ここで男の思考回路が一瞬停止してしまったとしても誰も責めることはできないだろう。自分の住居内で女性の身体が何もない場所から生えるように存在し、なおそれが故意によるものでないですれば。あまり、危険度と知性の高い妖怪ではないのかもしれないと男は思った。しかし、嘘をついて油断させることを狙っている可能性もあると男は判断した。
「……え? 」
男と女性はペンギンが突然、ぐったりし始めたのを見て怪訝そうな表情を浮かべたが、苦しそうにもがいている姿を見て男はなんとなく状況を察した。暑いのだと。極寒の地に住むはずの生物が真夏の猛暑に耐えられるはずもない。
「あら、どちらへ? 」
無言で出て行く男に女性の声がかかったが、男は黙ってその場を後にした。そして、市へと走り氷と大きな桶を購入し、知人に巫女を呼んでくれと頼み、帰路を急いだ。妖怪退治の巫女が来てくれれば被害は最小限に留まるだろう。それまで自分が無事であることを男は祈った。
「この方が極寒の地出身とご存じでしたのね」
素早く氷を砕いて、水を入れた桶にペンギンを入れてやると少々楽になったらしく、苦しむ度合が減った。量が足り無いのかもしれないと男は氷を砕き続けた。妖怪の女性は変わらずその場所で佇んでいた。
「後彼には塩分が必要ですわ」
男は素直に従い、台所にあった塩を桶に投入した。それを女性はただ眺めていた。そして、足が痺れたのか日傘を取り出して杖代わりにしていた。この時点で何もしない時点でさほど危険はなさそうだと思いつつも、十分に距離をとって、椅子を女性に勧めた。
「助かりましたわ」
膝から下が動かない以外は正常なので女性は優雅に椅子に腰かけた。さて、どうしたものかと男が思っていると扉が叩かれた。女性から視線を離すことなく男が扉を開けるとそこには様々な意味で有名な紅白巫女、時折花屋付近で見かける女性、黒と白の服装の少女がたっていた。
「紫。あんた何やってるの? 」
「あれ? アレ確か外の世界の」
「吹き飛ばすのには調度いい格好ね」
三者それぞれの感想を述べる女性たちに男は一体何事かと尋ねた。確かに巫女は呼んだが何故いきなり針やら日傘やら箒で武装した少女たちが自宅に押し寄せてくるのか男には理解できなかった。
「霊夢。ちょうど、よかったわ。ここから出るのを手伝って頂戴」
「はあ? 普通にスキマ使いなさいよ」
「どうも、今日は調子が悪いみたいでさっきからスキマが開かないのよ」
「……へえ」
その場から男は本気で逃げ出したかった。蜃気楼のように周囲が歪むほどの殺気が紅白の巫女から漏れ出していた。猟師である男は危険な動物と遭遇することは頻繁にあったが、これほどの危険はかつて感じたことが無かった。
「二日前、ようやく手に入った半年ぶりの苺大福をスキマから出た手に盗られた。咲夜の手作り苺丸ごと大福。楽しみしてたのに」
ゴキゴキと恐ろしい音が巫女が握りしめた拳から鳴り響いて、妖怪の女性はガタガタと震え始めた。それほど、鬼気迫るモノがそこにはあった。いきなり、透明なガラスのような壁が室内を包囲した。まるで檻のようだと男は思った。
「いつも、香霖に胸押し付けてるよな。昨日、布団に入ったこと聞いたぜ。下着で」
閃光のような輝きを持つ球体が黒白の少女が手にする多角形の物体からバチバチと唸りを上げ、放たれていた。当たると危険だということは本能的に直感できる程の勢いだった。
「つまり、足さえ切り落とさなければやりたい放題ね。この前に貧乳と巨乳の境界を操作された借りここで、きちんと返すわ」
恨みを晴らす以前に緑の髪の女性はただ、単純に暴力を行使する機会を楽しんでいるようだった。男はその事実に戦慄した。そして、男が口にしたことは常識的とは言い難いが現状打破としてはいい案だった。いわく、ここで暴れると両親の仏壇が壊れてしまうので止めてくれないかと。
「どっかの誰かさんと違って人様の仏壇を破壊するほど、私は巫女を止めてないのよ。だからね、最小限の破壊で最高効率を成し遂げて苺大福の恨みを晴らすわ」
「おい、霊夢。私の分はどうなるんだよ! 」
「なら、この茨の鞭で紫だけを正確に叩けばいいわ。きっといい声で鳴いてくれるわよ」
「ちょ、ちょっと! 三人とも! 何か(霊夢は別として)私に恨みでもあるの!? 」
女性の必死の懇願に対して、非常に統一された見解が成された。淡々としかし、非常に大きな声で告げられた。圧倒的な圧力と共に。そして、何故か外には大量の人影が集まっていた。
「「「普段の行いを自分の胸に手を当ててよく考えて(みなさい)みろ」」」
蝙蝠の翼の生えた少女、中国服、メイド、頭に生えた人物、天狗、幽霊等々様々な人外魔境が男の家に集結していた。その中心で紅白の巫女が演説をしていた。背中には食べ物の恨み許さるべからずという大きな旗を背負っていた。中には巨大な刃物を持っている者までいる。自宅の外に出された男は一体何何事だろうと首をかしげた。そして、しばらくして全員がとても爽やかな表情で出てきた。
「も、もうゆかりんお嫁にいけない」
ボロボロになった女性を哀れに思った男は食料と衣服を分け与えてやった。彼女が妖怪であることを一瞬忘れてしまうほど哀愁漂う光景であり、男は黙って彼女に茶を勧めた。
「……少し御話を聞いていただけませんか? 」
どうぞと男が先を促すと女性は話し始めた。どれほどこの幻想郷を愛しているか。それと同時にどれほど心が渇き、狂気染みた退屈という感情に悩まされているのか。そして、混沌の種を撒く、程好いほどの具合で、時には外部からの妨害で予想外の事態が生じるが、ギリギリの部分まで幻想郷を歪め、平穏に戻す。それを繰りかえす。人間関係でも同じ。
楽しいスパイスを一握り。
混沌の種を召し上がれ。
収集が付かなくなれば、万能の賢者が指を鳴らすだけで元通り。
女性は歌うように告げた。
「だから、私は胡散臭く、常に周囲の嫌悪の対象となっていますの」
女性が浮かべる微笑みは。あまりに深すぎて男には理解できなかった。胡散臭い。より的確に表現するならば、何かが異質なのは分かるがそれが何か理解できない。そんな感覚だった。寂しくありませんかと男は口にしていた。異質にせよ、常に周囲の嫌悪の対象となるのは。
「寂しい。面白い表現を使いますのね。では、あなたが周囲によって満たされているとはどのような時でしょう? 」
狩りをしている時に静かに他の動物が近づいているのを眺めている時ですと男は答えた。森の囁きの中、自分は音を立てないようにただ息を殺している。すると、自分がこの世界の一部であることを改めて認識し、生かされていると分かる。世界と自分と関係を実感できると少なくとも、男はそう思っていた。
「面白い解釈ですわね。お続けになって」
特に補足することは無かったが、男は一つ足した、どれほど優れた存在であろうとも、自分が自然と一部であり、その恩恵を受けていることを忘れることが禁忌だと父親に教わったと。
「なるほど、良い教育者的な解釈ですわね。まあ、有意義でしたわ」
そう言って女性は椅子から立ち上がろうとして、落ちた。まだ、膝から下が固定されたままだった。男は黙って助け起こした。もう、喰われるという疑念を忘れていた。
「挟まりましたわ」
先ほどからそうですがと男は言った。そして、彼女の乱れた髪を整えるべく、櫛を差し出した。どこか少し抜けているのかもしれないと失礼ながらも男は思った。女性は戸惑いつつも椅子に座りなおした。
「どうも」
頭をぶつけたのか若干涙目の女性の数々不可解の行動に対し、幻想郷の住民である男はこの時点で深く考えることを放棄した。常識や固定観念は早く捨てたほうがこの世界では精神的負担が少ないということは誰もが身にしみて学習していることだからだ。
「手を貸していただいても? 」
その後、男と女性はなんとか女性の足を引き抜こうと奮闘したが抜けなかった。一体どういう原理で挟まっているのか男にはまったく分からなかったが、冗談でも偽りでもなく、本当に挟まっていることだけはわかった。対処方法がわからないので、男は夕食の準備を進め、女性はペンギンに魚を与えていた。
「いつか、あの極寒の地もここに流れてくるのでしょうね。愚かな限り」
何のことか男には理解できなかったが、女性の瞳は悲しみに満ちていた。男にできることは女性に食事を提供することだけだった。
「さて、私はどうしましょうか? 」
女性は椅子に座った体制から動くことはできない。男はタオルケットやスペアの衣類を渡すと自宅を後にした。さすがに妖怪と一晩を共に過ごす勇気はなく、その晩を知人の家で過ごした。
「スー、スー」
男が翌朝慎重に様子を見に行くと女性とペンギンが昨晩同様に椅子に座り眠っていた。特に室内が荒らされた形跡もなく、物も動いていなかった。穏やかな寝息と共にただ、眠っていた。男は朝食と魚を手の届く位置に置き、家を出た。そして、いつものように森に行き、いつものように獲物を仕留め、いつものように自然の恵みに感謝した。
「神が日常を謳歌している幻想郷で里の人々は何に祈るかしら? 」
その日の夕食で女性は男に尋ねた。少し考えた後に男はこう答えた。少なくとも自分は自然が生み出す命の連鎖に感謝しています。特定の神を信仰しているわけではないと。
「それはどうして? 」
神は人型だが、自然は膨大な世界そのものであり、自分もその一部だからと男は返答した。
「あなたから見て私はこの雄大な自然の一部かしら」
妖怪のことは詳しくないが、この世界で生きている以上はそうなのではないかと思うと告げた。それを聞いて女性は微笑んだ。
「このペンギンという種は外の世界で一匹残らず殺され、ここに辿り着いた。外の世界の人間の大半は自然の尊さを忘れてしまった。故にここには哀れな魂たちが辿り着く、忘れ去られた者たちの最後の理想郷。この愛しい幻想郷」
外の世界について詳しいのですかと男が尋ねると女性は頷いた。よく見に行くと。そこで、男は女性に願った。父は海を死ぬ前に見ることを望んでいた。どうか、遺灰だけでも海に撒くことができないかと。女性は快く承諾した。
それから数日後、九本の尾を持つ、妖怪が家を訪れ、ペンギンと動きが拘束されていた女性を解放した。
女性は男の願いを叶えた。防寒具と呼ばれる特殊な衣類を着こみ、男と女性とペンギンは極寒の大地に降り立った。
無限に続く白と透き通るような膨大な水の量に男は圧倒され、涙を流した。
そして、父の遺灰を海に撒いた。
「クエー」
悲しげなペンギンの鳴き声が聞こえたと思うと男はいつの間にか自室に戻っていた。
夢ではない証拠に男の腕には空の壺が鎮座していた。
それから、数日後、男は猟の最中に再び件の女性と出くわした。
「この前の拠点を中心に海の生物と北国の生物のための幻想郷を作ろうかと思いますの。あの哀れなペンギンのような方々も幻想郷は受け入れますわ」
穏やかに女性は告げた。そうですかと男は答えた。それ以外に言えることなどなかった。あまりにも規模が大きすぎる話が故に。ただ、憂いと、あまりにも優しすぎる女性のために男は何かしたかった。
「面白い方ですね」
優雅に笑う女性に男は頭を下げ、率直に、ただ万感の念と共に礼を述べた。
ありがとうございます。
一言、そう礼を述べた。
あなたがヒトの理不尽な行動を許し、受け入れ、慈しんでくれることに。
傷つきながらも、守り続けてくれることに。
怠惰でありながらも、絶えず生命を循環させてくれることに。
「何故、そう言いますの? 」
もし、仮に自然と言葉を交わす機会があればそう礼を述べたかったのでと男は告げた。それに対し、女性も目を閉じ、手を組み、何かに祈った。
「幻想にならないことを祈りますわ。地球の緑と青の美が」
そして、女性は現れた時と同様に唐突に消えた。それ以降、男はその女性と出会うことはなかった。後に里の守護者から彼女の名前は「八雲紫」であることを知り、大妖怪が人間臭かったことに驚いた。そして、猟の度に雄大な自然と不器用な幻想郷の管理人に祈るようになった。
「紫様。今日もお祈りですか? 」
「ええ、藍。すぐに終わるわ」
八雲紫は祈る。幻想を誰よりも愛しつつも、現実の生命の美が幻想にならんことを。
八雲紫は祈る。彼女の愛する幻想郷が今日も平穏と混沌に満ちていることを。
八雲紫は祈る。憎しみも、怒りも、不信と僅かな感謝が自分に向けられることを。
八雲紫は今日も祈る。
お見事でした。作者コメントにある次回作の方、投稿を楽しみにしております。
確かに哀愁の色が同じ色――朽葉色(ティアオイエツォン)をしているように思えます。
色褪せながらにして彩やかな色……寂しくて切なくて、包まれるようにとても暖かい色です。
幻想とはかくあるべきか……まだ失ってはいけませんね。
件の次回作、期待してます。
だからこそといいますか・・・まあ一言で言いますと素晴らしかったです。
紫の可愛さと幻想郷への愛ある一面のギャップも相まって最高でした。
彼女がささやかに、しかし心の中で確かに生き残っているところを想像できました。
次回作とても楽しみにしています。
紫の幻想郷への愛を描いた作品は多くあるけれどこのssは少し毛色が違う印象を受けた
幻想郷が美しく残酷な地であることを望みつつも、向こう側の世界の平穏にも目を向けている紫がいいなあ
素なのかは計りかねるけどちょっと抜けてるところも含めいいキャラ作りだと思った
ということで次回作には期待せざるを得ない
今回の男との絡みですら素晴らしかったのに新婚だと!?